旅レポート
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ぼく達の旅、ルーマニア・ブルガリア・・その① kiya 投稿日: 2020年06月12日 07:38:25 No.37 【返信】

<準備・・不安と焦り>
ルーマニア・ブルガリアの旅行は、個人旅行のぼく達には、とても思い出深い旅でした。

ルーマニアとブルガリアには、以前から興味をもっていた。しかし東欧の中でも、西欧化が遅れ、開かれたイメージが無く、ホテルもろくに無くて、何年も行くのをためらっていた。

2007年、ようやくEUに加盟したことで、西欧化が進み始め、ホテルなども増え、レンタカー会社も増え出した。 そろそろ行けそうだと思い、会社をリタイアした私は、1カ月間の旅程を組んだ。


今だったら、ルーマニア、ブルガリアに行くのは、何の不安も無いかもしれません。しかし、
旅行に出るとき、ぼく達はまだ、この両国は、個人旅行で夫婦だけで行くのは、とても不安だった。
それは、ルーマニア革命やチャウシェスクの公開処刑の暗い時代の残像が、残っていたためかも知れない。

旅先で困った事があったら「どうしよう!、言葉が伝わらず困ったら「どうしよう!」 これまでヨーロッパを個人旅行して、一度も心配したことが無かったのに、不安で一杯になった。、・・・こんな不安は、初めてだった。

さらに、外務省情報を見ると、医療の過疎国なので、旅先で病気になったら、首都の病院に行くようにと書かれていた。  それも心配だなー!現地で病気になって言葉が通じなかったら、どうするか? 

 
暫く考えて、ふと思い立った。
現地に住んでいる日本人を探して連絡をを取ってみよう、彼らと繋がっていれば、何かあったら日本語で頼むことが出来そうだ! さっそくパソコンで検索、目ぼしい人を探した。そして、ルーマニアとブルガリアで1人ずつ見つけ出した。

ルーマニアの大学に学び、国際結婚してそのまま現地に暮らす谷崎聖子さんと、ブルガリアを永住の地と定め、10年ほど前に夫婦で移住した高田遼さんである。

彼らには、夫婦のレンタカー旅行で回るので、近くを通るときに、是非お会いしたいと連絡した。
お二人とも、是非お越しくださいとの返事で、ひとまず安心。 これで 旅の心配の・・[お助けマン]が出来た。


こんな風に、この旅行に行く前には、とても大きな不安が、私の心には、有った。
だれの助けも借りずに、気力・体力・闘争心だけで、高齢者の個人旅行が乗り切れるだろうか?

心配とは裏腹に・・西欧化は良いけど、時間が経つと、古き良き世界は消えていく!!  早くしないと! そんな焦りもあった。小さな勇気と、用心深さをもって、ようやく2012年春、興味深い国々への旅に出発した。。

ルーマニアの旅のルート、クルージナポカで買った地図本


kiya 投稿日: 2020年06月12日 11:49:30 No.38
<< ルーマニア編 >> ・・<ブカレスト空港~クルージナポカ>

2012年4月上旬、夕方にルーマニア・ブカレスト空港に到着。
先入観かも知れないが、あまり良い感じがしない空港出口の雰囲気。 ATMで通貨レウに両替し、ホテルのシャトルを待っていた。
しかし、シャトルは来ない、不安になってホテルに電話すると、空港に向かったとの返事。

待ったがやっぱりシャトルは来ず、不安を感じている国でこの不安な中を、嫌な時間が過ぎて行った。
ついに、諦めてタクシーにしようと、タクシーの運ちゃんに行き先のホテルを告げると、
そのホテルのシャトバスは、向こうの隅の方に止まっているよ!と言われ、助かった。

  (ニュース)
  (この4カ月後に、日本人の若い女性がルーマニアのブカレスト空港を出て、殺されれるという事件
が報じられた。)


翌朝、空港内でクルージナポカ行の出発ゲートが分からずに探していると、通り掛かりの男が案内してくれて、この階段の上だと言われた。
ありがとうと返事すると、まだ一緒に来るので、もういいよという仕草をしたが、やはり一緒に来る。
私は、「ピン!」ときて、この男はお礼が欲しいんだと、気が付いた。

仕方ないな!と思い、ゲートの入り口まで一緒に行くと、案の定「コーヒー1杯分を恵んでくれないか」と拙い英語で言う。
まあいいや、と彼の気持ちを察して、小銭を渡してやった。

タロム・ルーマニア航空はプロペラ機だった。1時間ほどでクルージナポカ空港に到着して、ルーマニアの旅が始まった。
今回も空港でレンタカーを借りる。ルーマニアでは、大手のレンタカー会社の進出は遅く、クルージナポカで借りてブラショフで返却という乗捨てが出来るレンタカー会社は、地元の小さい会社だけだった。
しかし名も無い会社は、予約して、「行ったら会社が無かった!」なんて、騙されないか不安だな~と感じていた。

カード先払いで安全に借りる方法を? 考えてみた。
契約日と引落日の差は最短1ヵ月。なので、1か月以内の予約なら、引き落とされる前に現地に行ける。
だから、現地に行って、相手が居なかったら引落を止めてもらおう。これも、私の考える用心だ。

当時はカーナビを持っておらず、電話もガラケーだけなので、クルージナポカで道路地図を探して買った。
町の広場の露店の本屋で、詳しい良い地図が買えた。翌日からこの地図を頼りに、ルーマニアを回る。
ルーマニアは、3週間の旅のうち、2週間がレンタカーの旅になる。
町の中心にあるホテルのランチで、早速初日から、ウエイトレスにお釣りをごまかされそうになり、「注意!」の気持ちになった。

クルージナポカ滞在中は、民芸品を売っている40km先のイズヴォル村(Izboru Crisului Korosfo)などに出掛けた。
街道を外れると、荷馬車が走り、野辺には羊と羊飼いがいて、ルーマニアの原風景が広がっていた。



民芸品を売っているイズヴォル村


kiya 投稿日: 2020年06月12日 14:40:16 No.39
<シク村>
クルージ滞在後、憧れのマラムレシュ地方に向けて出発した。
小雨の中をシク村(Sic)に立寄った。ちょうど日曜日で、村の老若男女が民族衣装を着てミサをするという。
ミサのジャマをしないように、おごそかなミサを物陰からじっと見ていた。

教会を出て、村を出発するときに、私のヨーロッパドライブの中で、最大の失敗が起きた。
車が、動けなくなってしまったのだ。

ルーマニアの村の道は、舗装道路の両脇が1mほど未舗装で、その脇は側溝になっている。
私は、側溝にハマらない程度に、タイヤの片側を未舗装の上に乗せ、脇に車を寄せて、坂道の途中に止めておいたのだ。

出発の時、雨とドロで、片側のタイヤがぬめって空回りを始めた。

これはまずいなー!と思っているうち、側溝の方向に傾斜している道のため、タイヤはゆっくり溝の方にすべり出した。
坂道なので、車はすべり出したら、アー!もう止められない。そして、ズルッと右前輪が側溝にハマってしまった。
前輪は駆動輪なので、1本はまると、もう自力での脱出は出来なかった。

少しして、この様子を見ていた村人が2人、家から出てきた。
タイヤに布を敷いて、2人は車を押してくれたが、それでも脱出は出来なかった。
あー!だめかー!と思っていた時、、1人の男が私に待つように仕草して、どこかに行った。

少し待っていると、なんと、トラクターを連れてきた。
車にロープを繫ぎトラクターで引っ張ると、あっという間に側溝から脱出できた。
私は、2人とトラクターの合計3人の男の親切に、とても感謝した。

お礼に何かを!と思ったが、何も持っていなかったので、お礼はお金にした。
私は「サンキュー」と言って、感謝を込めて、手を握るように多めに100レイ札(約2,300円)を渡した。
彼らは、ものすごく喜んで、手を振って去っていった。
きっと、ぼく達のことを肴にしながら、ルーマニアの物価は安いので、3人で美味しいランチを食べた事だろう。

写真:今回のレンタカー。
  ヨーロッパのナンバープレートには国名が入っている。ROはルーマニア


kiya 投稿日: 2020年06月12日 15:40:41 No.40
<マラムレシュ・バイアスプリエ>
北に向かうと、バイア・マーレという大きな町がある。その東のバイア・スプリエに僕達の泊まるペンションがある。

バイア・マーレの外れで、車の窓を開けて、横断歩道を渡る人にバイア・スプリエの道を尋ねた。
男は寄って来て、なぜか窓に腕を乗せて、覗き込むような仕草で、道を教えてくれた。

そしてそのあと、指輪をうっかり車の内側に落としてしまったと言う。 ドアを開けて座席の脇を見始めたが、すぐに怪しい事に気が付いた。
下に注意を引かせて、その間に座席の荷物を盗むのである。

これと同じ手口を、日本の特急列車に中で目撃したのを思い出したのだった。
直ぐに車のドアを閉め、指輪は落ちてないよ! と走り去った。[スリの手口のリスク管理]だ、アブナイ、アブナイ!


バイア・スプリエに着いたが、細い脇道がたくさん有り、ペンションの場所が分からなかった。
酒場のそばでオヤジさんに、ペンションを聞くと、知っているから一緒に車に乗って連れて行くと言う。
下手な英語と、ルーマニア語の会話だから、身振りで判断するのだ。 しかしオヤジさんは酒臭いから、妻があぶないから止めろと言う。

仕方なく自分で探したがやはりペンションを見つけられなかった。
やむなく、途中で出会ったご婦人に聞き、彼女を乗せて案内してもらい、ようやくペンションに到着した。

道の向かい側を見ると、お婆さんがにっこり会釈してくれた。なんと、その横には、先ほど道を聞いた酒臭いオヤジさんが居るではないか!
偶然、ペンションの向かい側の人だったんだ、余計な時間を喰ってしまった。

ペンションでの夕食のとき、若い女性の旅行者も数人いて、カタコトの日本語でぼく達に話し掛けてきたので驚いた。
日本語を覚えようとしているのだろうか。ルーマニアもこれから、変わっていくんだなーと感じた。

ペンションの向かい、お婆さんと酒臭いオヤジの家、


kiya 投稿日: 2020年06月12日 15:52:08 No.42
<バドウ・イゼイ村>
マラムレシュでは、バドウイゼイ村(Vadu Izei)のペンションに3泊した。
ここのペンションの駐車場で、先日ドブにハマって泥だらけになった車を洗った。幸いキズは無かった。
この村はマラムレシュ地方の中心の町シゲット・マルマティエイから車で15分ほどで、手頃な場所だ。
ペンションの入り口には、木にナベが沢山ぶら下げてあった。なにか意味のある飾りらしい。


写真:ペンションの看板、ペンションの前の街道、一日じゅう佇む羊飼い、木にぶらさげてある鍋


kiya 投稿日: 2020年06月12日 16:02:10 No.43
バドウ・イゼイのペンションに泊まりながら、近郊の村々を巡った。
周囲には田園風景が広がり、藁を積んだ畑は、昔の日本のような風景で、羊や羊飼いもいる。
羊飼いは長い棒を持って、朝から晩まで、一日じゅう野辺に立って羊を見ている。 羊飼いってぼく達には想像できない人生なんだ、と感じた。

写真:藁を積んだ畑、農夫、道の向こうにカルパチア山脈


kiya 投稿日: 2020年06月12日 16:07:30 No.44
未舗装の道も多く、家の前に置かれたベンチには老人たちが座り、雑談しながら道行く人を見ている。
こういう村の様子は、初めて目にする光景だし、鄙びたルーマニアを感じる。
ああ、この老人たちは毎日が穏やかではあるが、悠久の老後を送っているのだと思う。
いかにもルーマニアの寒村の、印象的な風景だ。

シゲットの町への街道でも、藁を積んだ荷馬車が往来し、どんどん増えてゆく車社会との、はざまにある。
まもなく荷馬車は、街道からも消えてゆくのだろうなー!と感じさせられた。


門の前に座っている老人たち、藁を積んだ荷馬車、畑


kiya 投稿日: 2020年06月12日 16:10:22 No.45
シゲットの町はとても賑やかで、商店も多いし、市場も立っている。
この町はルーマニアの北端にあり、ティサ川の向こうはもうウクライナだ。
近年、この町とウクライナの間に、木製の友好橋が架かり、国境が開かれた。

ウクライナには将来も行くことが無いので、ちょっとウクライナを覗いてみたいと言う気分になった。
車で行こうとしたが、車はチェックが厳しく長蛇の列で、渡るのには相当な時間が掛かる。車を止めて徒歩で行く事にした。
ルーマニアの出国ゲートに並ぶと、来い来いと手招きされて、日本人はすぐ渡れるからと列に並ばずに出国出来た。

橋は長くもないので、徒歩で渡ってウクライナ入国。
少し歩くと、物乞いが多く居て、なんだか怖いからもう帰ろうと妻がいい、町まで行きたかったが諦めて引きかえした。
ウクライナは、入出国スタンプをもらっただけ、そして初めて徒歩での出入国。

ウクライナと聞くと、20代の頃に2人で見た映画「ひまわり」を思い出す。
ソフィアローレンとマルチェロ・マストロヤンニの映画で、戦争に行った夫のマストロヤンニが記憶喪失になり、結婚していた記憶も無くウクライナで美しい女性と結婚する。
ヒマワリ畑が美しい。 国に戻ったとき、・・・そんな映画だったかな?

この映画で、ウクライナには美しい女性がいっぱい居るんだ!と、私の頭に刻まれた。
しかし、国境の橋を渡って、物乞いのオジサンを見て引き返した私は何も見なかった。そんな旅の記念だった。

写真:クライナ国境の橋を徒歩で渡る。


kiya 投稿日: 2020年06月12日 16:13:19 No.46
バドウ・イゼイの小さなペンションは4室で、部屋毎に設備が整っている。イースター休暇で小さな女の子たちのグループが泊まっていて、
食事の時に一緒になった。みんな可愛らしかった。食堂には、ルーマニア刺繍がいっぱい掛けてある。

ペンション棟にはWi-Fi環境が無く、パソコンが繋がらない。10才と12才の娘の部屋を使ってくれとマダムに言われ部屋に入ると、
子供の洋服が掛けてあった。、子供たちに部屋を空けてもらうのが申し訳なくて、2回しか使わず、あとは町の高級ホテルで繫いだ。

マダムが洗濯しているのを見て、妻はぼく達の洗濯物も洗ってとお願いした。
村でバンドエイドを買おうと薬局に入ったら、「何枚?」と言われてエッ?と驚いた。1箱ではなくて1枚幾らで売っていた。
夕方町から戻ると、僕たちの洗濯物がヒモに干して、ひらひらしていた。
ペンション棟と母屋は100m離れていて、食事が出来るとエッこらさと持ってくる。
バドウ・イゼイの田舎感は良いなー!と思う。

写真:ペンションからの風景と、同宿の子供たちと一緒に食事。


kiya 投稿日: 2020年06月12日 16:48:09 No.47
サプンツァ(Sapanta)の陽気な墓にも出掛けた。
ウクライナ国境のティサ川に沿って西に行く。
電柱の上にコウノトリの巣があったり、羊の群れに道を塞がれたりしながら、その先に陽気な墓があった。
故人の生前の様子の絵がペイントされていて、なるほど暗さは無い、陽気な墓だった。

写真:電柱の上のコウノトリの巣、羊の群れに道を塞がれた、陽気な墓


kiya 投稿日: 2020年06月14日 16:13:18 No.70
<カルパチア山脈を越えて、ブコビナ地方に。>

マラムレシュ地方から、幾つかの村を見ながら東へ。
木造教会がいくつも保存されているブラサナ(Barsana)、ボティーザ(Botiza)では、通りのベンチで羊毛を紡ぐお婆さんの横に座って、言葉にならない会話をする妻。

ブコビナ地方に行くには、カルパチア山脈を越える。峠には教会があり、4月中旬だが、雪で覆われていた。山を下るとCarlibaba村があり、街道のホテルに泊まった。20部屋位あるが、泊客はぼく達だけで、広いレストランでポツンと夕食。ウエイトレスのお姉さんたちは、とても暇そうに、チラチラとアジ人アのぼく達を、それとなく見ていた。静かな夕べ。


   ・・・ルーマニア・ブルガリア・・その② NO.49 に続く・・・


写真:羊に道を塞がれ、ブラサナ木造教会群。
   ボティーザの寒村、羊毛を紡ぐお婆さんの隣に座る妻と 典型的な夫人の服装。




ぼく達の旅、ルーマニア・ブルガリア・・その② kiya 投稿日: 2020年06月13日 10:06:50 No.49 【返信】

スレッドが一杯なので、続きは・・その②で、、、

<ブコビナ地方>
山を下ってブコビナに入ると、村では家々で絞った牛乳を、馬車やトラックで集めに来ていた。懐かしい様な、古い絵本でしか見たことがない様な、そんな風景に思えた。
外壁に、飾り絵を描いた家々がたくさんあった。

ブコビナには、有名な5つの修道院があり、モルドヴィツァ、フモール、ヴォロネツなどいくつか回って見た。 フレスコ画が施されて、確かに素晴らしい修道院だ。だが、ぼく達にはそれほどの感動は、無かった。
子供たちが手作りの、イースターの絵付けタマゴを売っており、買ってくれと何人も寄って来た。うるさい子は避けて、控え目にしていた子供から土産に買った。

気楽に土産を買ってしまって、後で困ることが有る。今回もそうだった。
タマゴの殻で作ったイースターの絵付き卵は、なんとも壊れやすい。小さくて潰れない箱に入れ、ティッシュで抑えて大事に持帰った。
お土産も考えて買わないと!、と反省する。

修道院を回ったあと、この辺の中心の町グラ・フモルルイ(Gura Fumorului)にも行ってみたが、
俗化した雰囲気で好きではない。 昼食のあとそこそこに町を出た。

写真:牛乳を集めに来た馬車、飾り絵の家。
   ブコビナの修道院。


kiya 投稿日: 2020年06月13日 10:09:05 No.50
<バトラ・ドルネイ>
宿泊地バトラ・ドルネイ(Vatra Dorunei)に向かう。
バトラ・ドルネイはちょっとした町で、鉄道駅もあり、地方の田舎町の雰囲気がとても良い。
表通は賑やかだが、ペンションの有る脇道に入ると、道は舗装されておらず、とても静かだった。
翌日も、この町で休息。町ブラしたり、近郊の村をドライブしたり。
朝食に、イースターのタマゴが出た。イースターは2週間以上やっているらしい。

写真:バトラ・ドルネイの鉄道駅、街並み、ペンションに行く道とペンション、ペンションからの風景。


kiya 投稿日: 2020年06月13日 11:10:05 No.51
<ポイアナ・スタンペ村での、出来事>
2連泊の翌日は、だらだらと村を通り、ビストリツァの宿に向かう、80kmほどで近い。
途中のポイアナ・スタンペ村(Poiana Stampei)の道で、おめかしした幼児が何人も、お母さんと一緒に自分の家から出てきた。
何か有るのかな?と、急ぐ旅では無いので、車を路肩に止めて様子を見ていた。

子供たちはそれぞれ手にバスケットを持ち、近所の家の門をあけて中に入っていく。
しばらくすると、子供は家から出てきた。道路で待っているお母さんに、うれしそうにバスケットの中を見せている。
ぼく達は興味を持ち、バスケットの中を見せてもらった。中には絵付けしたイースターのタマゴが入っていた。

そうか、イースターの卵をご近所からもらって来たんだ。和やかな雰囲気にぼく達も笑う。
すると、1軒の家からお婆さんが出て来て、我々に家の中に来いと言う。
誘われるままに家に入ると、狭いけどルーマニア刺繍で飾られた家の中を見せてくれた。
亡くなったご主人の写真が壁に飾られていて、聞くと、お婆さんはまだ65歳だった。
なんだ、ぼく達と同世代だよ。

そして言葉は通じないが、国際言語のジェスチャーで話す。
お菓子を出され、イースターだからと郷土料理のサルマーレなどが出てきた。
ホテルの朝食後で、まだ時間が経ってないのでお腹は一杯だったが、折角なので頑張って食べた。
ルーマニア旅行中に、一般家庭にお邪魔して郷土料理を戴くという、貴重な体験になり嬉しかった。
おじゃましている間にも、可愛い女の子が、バスケットを持ってやって来ていた。可愛いなー!

写真:イースターの門飾り、おめかして家から出てくる子供、子供たち。


kiya 投稿日: 2020年06月13日 13:10:41 No.52
お婆さんとの事は、観光する事よりもずっと価値ある、嬉しい出来事で、ぼく達の旅を輝かせる思い出になった。

写真:お婆さんの家、お婆さんと一緒に。イースターの卵と、卵を貰いに来た子供。


kiya 投稿日: 2020年06月13日 13:20:26 No.53
昼頃、ブルゴー峠のピアトラ・ファンテネレ村(Piatra Fantanele)の、カステル・ドラキュラ・ホテルでランチ。なんだか伝説のドラキュラと関係がありそうだ。

ビストリツァの翌日、観光地シギショアラに向かう。このあたりはトランシルバニア地方だ。
トランシルバニア・アルプスを遠くに望み、広大な畑が広がっている。
野辺に立ち、ジーっと畑と山々を見渡していると、泣きたくなる様な、心に滲みる風景だった。

写真:カステル・ドラキュラ・ホテル、ビストリツァのホテル、トランシルバニアの滲みる風景。


kiya 投稿日: 2020年06月13日 14:18:01 No.54
<シギショアラ>
シギショアラは観光地として有名な町で、ルーマニアと言うよりも、西欧の綺麗な旧市街みたいだ。坂道ばかりの旧市街。町ののてっぺんには、山上教会があり、屋根付きの木製階段を延々と登る。
この町には、ドラキュラのモデルになった人の家があり、プレートが貼ってある。
また、町から30kmほど先にある、ビエルタンの要塞(世界遺産)にも出掛けた。小さいけど独特の雰囲気があって魅力的だ。

写真:シギショアラ旧市街、スーパーで会った女の子の達に日本語を教えて楽しんでいる妻。
   ビエルタンの要塞と、要塞からの美しい風景。


kiya 投稿日: 2020年06月13日 14:22:54 No.55
<ブラショフに向かう>
道中、山道で牛の群れに道を塞がれ、ぬかるんだ道からお兄さんが馬を引いて出てくるような、寂しい寒村に佇むビスクリ要塞教会へ。 カルパチア山脈を遠望する、広大な風景の中にある、ファガラシュの要塞などを見て回る。
これらの村が、要塞を作った頃のオスマントルコに怯えていた、大変な時代を想像しながら、ブラショフに着く。

写真:牛の群れに道を塞がれる。ビスクリ要塞教会。
   ファガラシュの要塞、カルパチア山脈を遠望する。 


kiya 投稿日: 2020年06月13日 14:51:11 No.56
<ブラショフ>
ブラショフは、ルーマニアでも大きな町だ。この町で4泊して、この町でレンタカーを返却した。

(アパートに行かれない)
町に入って、地図をみながらアパートに向かうのだが、一方通行もあり、どうしてもアパートの有る通りに行かれない。町の人に道を聞くいても行かれないし、こんな事は、初めてだった。普通の賑やかな通りなのに。

どうしても行かれないョ~!参ったなー!、今日はどうしたらいいのか?と、しばし茫然。 車を止めて、考えた。

そして、ふと思いついた。・・・そうだ、タクシーだ!
タクシーといってもレンタカーもある。そこで、タクシーに行き先を告げて、行って貰う事にした。
車で後ろをついて行くから、タクシーは空のままで行ってくれ! 料金は払う!と告げた。

この方法は、最高だった。 直ぐ近くで、簡単にアパートに到着した。
途中で、どこかの建物の門をくぐって、建造物の敷地に入るような道だった。ああ、この近くまで何度も来ていたのに!、と思った。
われながら、タクシーの先導は良い解決策だと、自分をほめて、どっと疲れた気持をほぐした。(笑)

ブラショフは賑やかで、レンタカーを返却して、ロープウェイでトゥンバ山に上り町を一望したり、あちこち町歩きして4日間を楽しめた。
甘いお菓子では、ブラショフ発祥のパパナッシュという菓子が、甘党の私はとても気に入った。

写真:ブラショフのアパート、トゥンバ山からブラショフの町を見下ろす、
   


kiya 投稿日: 2020年06月13日 17:08:09 No.57
(ブラン城)
ブラショフからドラキュラ城として有名なブラン城に行く。ここは観光客も多い。
中国人のツアーも来ていた。良い城だが感動はあまりなかった。
帰りがけに山の上にそびえるルシュノフ城(Rasnov)を、ちらっと見上げて戻った。

(谷崎聖子さんの家)
レンタカーを返却する前に、もう一か所大事な所があった。そう[もしもの時のお助けマン]、ルーマニア在住の谷崎聖子さんの家だ。
彼女は、ブラショフから30kmほど東のスフントゥ・ゲオルゲ(Sfantu Gheorghe)の町に住んでいた。
家の場所を特定するために、この町の地図を碁盤の目に刻んで、A-5というようにマス目の場所が何処か、聞いておいた。
ぼく等が訪れるときは不在だが、ハンガリー人の夫と7歳の息子が居て日本語も少々出来るので、どうぞ来てくださいと言われた。


地図で準備したおかげで、ミサイルの着弾地点のような感じで到着し、家はすぐに分かった。
おそらく建物はソ連の統治下に建てられた、5階建ての古いアパートだった。暗くて広い階段を上がり4階だ。
日本のお土産(崎陽軒の真空パックシュウマイ、お菓子)を準備して訪れた。

ルーマニアで暮らす谷崎さんと7才の息子さん、何の土産が良いか、悩んでいた。
ルーマニアの前に行く国も有って、谷崎さん宅を訪れるのは、日本を発って1か月以上先だ。
空港で買えるクッキーや煎餅では詰まらないし、初めはカステラを考えた。
だが調べると、カステラの正味期限は1ヵ月無いことが分かった。
そして、次に私の地元に近い鎌倉・鳩サブレがいいな!と思ったが、調べるとこれも賞味期限が1カ月無かった。
品質の問題は出ないのだろうけど、なぜか短く設定されていた。

そこで考えたのが、やはり地元に近い、横浜・崎陽軒のシュウマイだった。
崎陽軒の真空パック・シュウマイは、何と賞味期限が、常温で3カ月も有るのだ。意外だったが、これが良いと決めた。
お土産も、いい加減には選ばずに、できるだけ心して選びたい。


お邪魔すると、歓迎してくれて、大事にしまってある品を、出してくれた。
年代物の素晴らしい民族衣装(フォークロア)のコレクションだ。
彼女がルーマニア刺繍の仕事をしているため、必死に集めた年代物の品物で、もう今では作れない素晴らしいコレクションだった。
これが縁で、その数年後、彼女が日本に来て仕事のときに、息子さんをわが家で預かったりした。
町に戻る途中にも、プレジュメール要塞教会(世界遺産)があり、立寄った。古びていて素敵な要塞教会だ。

写真:ブラン城、入り口で待っていてくれた谷崎さんの息子さん。
   コレクションの民族衣装、プレジュメール要塞教会


kiya 投稿日: 2020年06月13日 17:13:19 No.58
<シナイア>

前日に電車の切符を買って、翌日はシナイアという有名な観光地に。
ホテルは、町一番のホテル・パレスだが価格は安い。それなのにWi-Fiは、ロビーだけしか繋がらなかった。
この町は、ペレシュ城や僧院があって、小さいけどオシャレな町だった。首都から近いので、日帰りで来る観光客も多い。

写真:ホテル・パレス、ペレシュ城、シナイア駅


kiya 投稿日: 2020年06月14日 15:51:18 No.69
<ブカレスト>

翌日、いよいよ首都のブカレストに列車で着いた。電車を降りるとタクシーの客引きの嵐だった。
ちゃんとタクシー乗り場から乗ってホテルに。ブルガリアに行くバスの出る広場のホテルを選んだ。
いろいろ調べたが、ブルガリア行のアクセスが、電車かバス、どちらも心もとないアクセスだなー!と感じていた。
町歩きをして、チャウシェスクが作った馬鹿でかい国民の舘を眺め、ルーマニアの公開処刑のニュースを思い浮かべた。

翌朝はホテル前の広場で、ブルガリアのルセ行のバスを探した。ルセ(Ruse)はドナウ川を渡り、ここから一番近い大きな町だ。
探したが、それらしいバスは見つからず不安になった。ホテルのフロントの姉さんに言って、彼女にも一緒に探してもらった。
あちこち探して、ようやく姉さんが、これだよ!と言う。

それはバスでは無くて、個人の乗用車だった。値段は1人10ユーロで、下調べした金額だった。
あと一名、現地の女性が乗って出発した。
ドナウ川を渡り、入国審査のために運ちゃんにパスポートを渡すと、10分程で戻って来た。
不安を感じる移動だったが、無事にルセに着いた。

いろいろ有った、3週間の味わい深いルーマニアの旅を終えて、ようやくブルガリアに入った。


  ・・・・・ルーマニア・ブルガリア・・その③ NO.60 に続く・・



写真:ブカレスト駅構内、ブルガリアに行くバス(普通の車だった) 




ぼく達の旅、ルーマニア・ブルガリア・・その③ kiya 投稿日: 2020年06月13日 17:20:16 No.60 【返信】

<<ブルガリア編>>

<ルセ>
ルーマニアのブカレストから、国境のドナウ川を渡ると、すぐにルセに着いた。ブルガリアでは大きな町だ。
ルセの町中はコンパクトで、歩きやすく楽しい。まず、町の本屋に行ってブルガリアの道路地図を探す。
地図が無ければ、この先、どうにも出来なくなるから、必死に探して、良さそうな地図本を見つけて購入。

ルセでは、町一番のリガ・ホテルに泊まった。ブルガリアの田舎町では、値段は安い。
珍しく、高層ビルのホテルで眺めがとても良い。ホテルの最上階のレストランも良さそうで、夕食を食べた。
高層ホテルのレストランの大きな窓から、眼下に見えるドナウ川と、沈む夕日が奇麗だ、すばらしい。

大好きなドナウ川沿いでゆっくりするのも良いだろうな~!と思う。
ドナウ川は、ドイツの黒い森と呼ばれるシュバルツバルドのドナウエッシンゲンに源を発し、チェコとオーストリアの国境を流れてウイーン、
そして、ハンガリーのブダペストに。その後ルーマニア、ブルガリアを流れて黒海に。 

「ドナウ川のさざ波」や「美しく青きドナウ」という名曲に美化されて、私のような音楽無知でも、ドナウへの憧れを抱いてドナウ川沿いを訪れた。
ドイツ黒い森のドナウエッシンゲン、オーストリア・ヴァッハウ渓谷をローカル鉄道で、そして、ハンガリーとスロバキアのドナウベント地域を訪れた。今回は、リガの高層ホテルから穏やかな流れのドナウを見下ろした。

音楽家は、ドナウ川の何処の岸辺を眺めて、あの名曲が浮かんだのだろう・?
「ドナウ川のさざ波」はルーマニア人で、「美しく青きドナウ」はオーストリア人の作曲家だ。
・・と、音楽素人の私はついつい思ってしまう。 旅先は、憧れを抱いて訪れると楽しい。



ぼく達が、珍しく大きなホテルに泊まったのには訳がある。レンタカーを借りるためだ。
ブルガリアの小さいレンタカー会社は、地方には営業所が無いので、ホテルに車を持ってくると言う。
翌朝、ロビーで待っていると、お兄ちゃんがレンタカーに乗ってやって来た。ここで書類にサインして、レンタカーの旅が始まった。
ブルガリアでは2週間の旅の全工程がレンタカーで、車は首都のソフィア空港に返却する。

写真:ブルガリアの地図本、旅のルート地図、ルセの町中、ホテルからドナウ川を見下ろす。


kiya 投稿日: 2020年06月14日 08:44:48 No.61
<べリコタルノボ>

べリコタルノボは、ブルガリアでは大きな地方都市で、ルセからは120kmほどだ。
レンタカーで走りだして、ほどなく困った事に気が付いた。ブルガリアはキリル文字。道路看板が英語と2段表記のうちは良いけど、
英語表記が消えると、キリル文字だけになって何と書いてあるのか分からない。
この文字は形が覚えられず、道路看板がしばしばキリル文字だけになって、悩まされた。
(ソフィア  英語:Sophia ブルガリア語:София)大きな町なら必死に形を覚えるが、
脇道に入って、名前も知らない村めぐりになると、本当に道路標識が読めず、車を止めて地図とジーっとニラメッコも、しばしば。

べリコタルノボは丘の斜面に開けた町で、素敵な観光地で、町歩きも楽しい。
この町で2泊したが、Booking.comで予約した ホテル・ミノテル があまりに安くてびっくり。
ツインルーム・朝夕食付で1日あたり20ユーロ、1人10ユーロで2食付きとは驚いた。
部屋は普通の広さで、洗面・トイレ・シャワーも普通の大きさで付いている。
おまけに、旧市街にも歩いてすぐだし、窓からの景色もとても良くて、駐車場も有る。 
ドミトリーなどを一切使わない僕達のヨーロッパ旅行の中で、過去も将来も、たぶん一番お安い、お得な宿の記録になるだろう。

レンタカーで近郊の村を観光。アルバナシ(ARBANASI)は民家の屋敷が集まる静かな住宅地で、文化財に指定されている。
うす茶色い石を積み上げた平屋の家と、家々の塀は、独特な落ち着きと静かさが有る。

(琴欧州の実家)
もう一件、30kmほど先の行きたい村が有った。ジェルニッツァ村(Dzhulyunitsa)である。
ここには、大相撲の大関で、ブルガリア出身の琴欧州の家がある。プロスポーツでは大相撲が一番大好きで、いつも熱心に見ている。
外国人の人気力士の、琴欧州の家が近いと聞いて、是非行こうと思っていた。

行ってみると、荷馬車が走り、コンビニが1軒あるだけの静かな村だった。
車を止めて、キョロキョロしていたら子供たちが近づいてきて、「コトオウシュウ?」と、問いかけられた。
子供たちは、こっちだ!こっちだ!と小走りに案内してくれた。家には国旗が数本立っていた。

家の前に車を止めて、様子をうかっがっていたら、自転車を押したお婆さんが通りかかり、この家に用事か?という仕草。
うん!とうなずくと、その家に入って人を呼んできてくれた。出てきたのは、琴欧州のお父さんだった。

ホテルでの夕食のとき、ドイツから来たという若い夫婦と話をした。
奥さんは見た目は日本人かと思い、話しかけるとインドネシア人で、国際結婚しているという。
べリコタルノボは、町中の道がちょっと分かりずらい。そのためか、ドイツから車で来ていて、町に入りホテルの場所が分からず苦労したと言ってた。
が、面白いもので、私は町に入るなり難なくホテルに着けた。

写真:道路看板にべリコタルノボと書いてあるらしい、レンタカー、
  べリコタルノボを見る、旧市街は素敵だ、
  琴欧州のお父さんと、格安ホテルの部屋からの景色は抜群。


kiya 投稿日: 2020年06月14日 09:45:51 No.62
<カザンラク>
2泊後、トリャブナ、シプカ峠を越えて、カザンラクに向かう、距離はたった90kmと近い。
トリャブナ(Tryavna)の町は、こげ茶色に縁どられた家の町並みが美しい。民族復興期の建物の町だという。
その先のガブロヴォや、ソコルスキ修道院などを見学して、シプカ峠に。
シプカ峠には、大きな記念碑があり、たくさん大砲が南を向いて設置されている。オスマントルコと戦ったのだ。

このシプカには、このあと会う予定の高田遼さんが、一時暮らしていたとか。
高田さんは、最初ここに移住して、サイトを立てて日本人の移住を呼び掛けた。「ブルガリ屋は穏やかで、物価が安くて、預金利息は高いので、楽に暮らせる」という触れ込みで。
この誘いで、何人かの日本人が、ブルガリアにやって来たという。
その後、彼らはもう少し南の、カザンラクの近くの村に移った。

カザンラクはブルガリアでは大きな、地方の町で「バラの谷」の中心地だ。
4月末ではまだ少し町の付近のバラの畑の苗木も小さく、時期が早いので、町はまだ空いていた。
周辺の村を半日車で巡ったがこのあたりの村の道路看板はキリル文字だけで、何処にいるのか全く分からない。

ホテルは町一番のホテル・カザンラクにした。
夕方ロビーで寛いでパソコンを見ていたら、急に停電になり、ビックリした。
しかし、ホテルの人は停電なんて当たり前!という顔で、そのうち点くよ!と少しも騒がず、だった

写真:トリャブナ、シプカ峠では大砲が南を向いて並ぶ、
   カザンラクのホテル、近郊の村をドライブ、
   看板文字が・・分からない


kiya 投稿日: 2020年06月14日 12:40:27 No.63
<カルロヴォ>

翌日はわずか60km先のカルロヴォ(Karlovo)に宿泊。ここもバラの谷の一角だ。
ここで、ブルガリアの[もしもの時のお助けマン]の高田遼さんに会う予定だった家はこの近くのKAPABEAOBOという村で、ここも地図を碁盤の目にしてB-5とかで、高田さんの住む路地まで、場所を特定しておいた。
事前のメールのやりとりで、彼には「1泊とは言わず、この村に来て数日泊まってくれないか!村で現地の人達とコーラスサークルをやっているので、それも是非聞いてほしい」と、かなり積極的に誘って来た。


(とんでもない事が)
しかし、この村に到着する前に、とんでもない事が起きていた。
ブルガリアに入る少し前の、ルーマニア旅行中に、作田さんという知らない女性から、1通のメールが届いた。内容は
「高田遼さんは、突然亡くなりました。」というものだった。これには茫然とするほか無かった。
そして、高田さんの奥さんはメールが出来ないので、知人の私(作田さん)が代わりにメールしました、との事だった。

高田さんは最近具合が悪くなり、バスで町の病院に行き見てもらい、そして家に戻って来た。 そして翌日、奥さんが病院に薬をもらいに行って、家に戻ると、高田さんはすでに亡くなっていた。というものだった。
これには、ぼく達もぶったまげたし、旅行に行く前に調べた、外務省情報の「 医療過疎国 」という文字が頭をよぎっていた。
たぶん、町の病院では高田さんが重病だとは、認識できなかったのだろうと、思った。

作田さんは、カルロヴォの町に住んでいるので、ぼく達の泊まるHOTEL・HANATに来てもらって、話をした。 彼女は徒歩5分程のところのマンションを借りて住んでいて、家で夕食でもどうかと誘われ、久しぶりに和食が食べられて有難かった。
だが夕食時に、作田さんといろいろ身の上話をきいた。


彼女も、高田遼さんの呼び掛けでブルガリアにやって来たのだと言う。物価が安く、預金金利が高い(当時8%台)ので、1千万円足らずの預金の利子で生活が出来るのだと言う。
彼女は、離婚して子供も相手方に渡し、天涯孤独の身なので、
残された人生をブルガリアの地で、一人で生涯を暮らすつもりだと。
この、彼女の身の上話を聞いて、妻は打ちひしがれてしまった。

翌日のコプリシティツァは、近いので、午後出発することにして、昨晩のお礼にお昼をご馳走して、作田さんとお別れした。
昨晩の話で打ちひしがれてた妻は、翌日もボーっと思いに耽っていた。

行く予定で地図を用意していたので、街道をそれて、高田遼さんの家のあるカラヴェロヴォ村(KAPABEAOBO)にに向かった。 小さな静かな村だった。家の前に行って、周りの畑を見渡した。会ったことの無い高田遼さんは、
一生この地で暮らすつもりだったんだなー! と思っていた。彼は63歳で、旅する私よりも幾つか年下だった。


(「地球の歩き方」にレポート)
・私は旅行後に、「地球の歩き方」に次のようにレポートした。・◇バラの谷で安らかに(2012年6月)◇
4月にルーマニアを旅行中に、4月末にブルガリアでお会いすることにしていた高田遼さんんが、突然亡くなったというメールが入りました。

高田遼さんご夫婦は、10年ほど前にブルガリアのバラの谷・シプカに移住されて、ホームページも作っていました。
その後に転居して、バラの谷のカルロヴォの町から15キロほどのカラヴェロヴォという村に、家を買って住んでいるとのことでした。

どんな方でどんな暮らしをしているのだろうと、お会いするのを楽しみにしていましたが、バラの谷を訪れる2週間前に突然亡くなり、そのままカラヴェロヴォ村に葬られたと聞きました。
奥さまは葬儀のあと始末で、不在でしたが、訪問する予定で地図を持っていた私は、レンタカーでカラヴェロヴォ村を訪れ、村の端っこでその先は広大な畑が広がる高田さんの家の前で、黙とうをして帰ってきました。

リタイア後に海外に行き、そこで暮らして人生を終えるという生き方は、私には理解できませんが、
そんな方も居るのだなーと、遠く思いを馳せました。  ◇◇◇


ここカルロヴォでは、・・私は高田遼さんの話に茫然とし、 妻は、作田さんが移住した異国で、一人で、人生を終える覚悟、という身の上話に打ちひしがれた。

写真:カルロヴォのホテル・荷馬車も往来、 作田さんと、
   高田遼さんの家の前で、家のある道、


kiya 投稿日: 2020年06月14日 14:21:17 No.64
<コプリシティツァ>

コプリシティツァ(Koprivshtitsa)という、この読みにくい村に5泊した。
ここは小さい村だけど、美術館都市を宣言している。美しいデザインを施した家々が多くある。
かって財を成した人たちのオシャレな家々が立ち並ぶ、素敵なところだ。
ぼく達は、パノラマ・ファミリー・ホテルという家族経営のペンションに泊まった。
なかなか5連泊する客は居ないらしくて、大歓迎してくれた。

のんびりと毎日、村をブラブラと楽しんだ。5月1日にはお祭りがあり、前日から劇を練習していた。
男も女も、みな民族衣装を着て、お祭りは盛大だった。ブルガリア人の顔立ちから、若い女性達の民族衣装姿は美しかった。
祭りは、オスマントルコを撃退した祭りだと言う。そういえば、ルーマニアからブルガリアに掛けて、
あちこちにオスマントルコと対峙した爪痕が残っていた。

親しくなったホテルの兄ちゃんと話していると、彼らの歴史は、脅威だったオスマントルコを、ロシアの支援を受けてようやく撃退出来た。
しかしその後、ロシアの支配が始まり、結局ロシアの方が嫌だったと、ポツンと話していた。

5泊もしたので、レンタカーで名も無い周辺の村々を数多く回った。このあたりは、バルカン山地の山裾に有って、
何も無い村だけど、緑豊かな野辺という印象がつよく残った。
村を良く見ると、ゲストルームと書いた札が門に貼ってある家があちこちにある。知らない宿だがそんな宿泊もある様だ。

夕方、ホテルの近くで、通りがかりの家から呼び止められた。家に来いと言う。
行くと、バーベキューのような食事をしていて、食べろと勧められた。食事とビールや飲み物を出された。
そして、部屋を見てせてくれて、ここに泊まらないか?という。近くのホテルに泊まっているからいいよ、と、
やんわり断って帰ってきたが、言葉も通じず、何だかよく分からない出来事だった。これもゲストルームなのかも知れない。

コプリシティツァの5泊は、田舎で素朴だけど、とても良かったと、旅の印象に残った。

写真:コプリシティツァはこの先の山裾に、パノラマ・ファミリー・ホテル
   ホテルの部屋から村を望む、ホテルの家族と、
   5月1日お祭り、祭りの綺麗なお姉さん方


kiya 投稿日: 2020年06月14日 14:30:37 No.65
コプリシティツァ村の様子。
この村は、本当にすてきだ! また訪れたい。

写真:村の様子3枚、家々の木製の門、
   ゲストルームのプレート、商人達の豪華な邸宅の一つ、


kiya 投稿日: 2020年06月14日 14:31:58 No.66
<ソフィア>

のんびりと滞在後、首都のソフィアに向かう。110kmほどの距離だが、道も良く簡単に着いた。
ソフィアのホテルはケンピンスキー5ツ星だ。
いつもの安宿旅と違い、ブルガリアではときどき高級ホテルに泊まったが、高級ホテルがとても安いためだ。
ソフィアには、ロシアやオスマントルコの影を残す寺院や建物が、数多く建っている。見ごたえは有る。
ホテルは町の中心から歩くと遠いので、トラムを考えていたが工事中で運休、タクシーを使った。
kiya 投稿日: 2020年06月14日 15:23:52 No.67
<リラの僧院>
翌日は、有名なリラの僧院を目指した。120kmほどだ。南へ向かうとピリン山脈が遠くに見えて、とても景色が良い。
道も良くて快適なドライブだった。 しかしここでミスをした。

景色を見ながらの楽しいドライブだったため、リラの僧院への左折の看板を見落としてしまった。
もうとっくに到着している距離を走ったのに、左折看板が無いな~?と思い、何処を走っているのか知るために、真っすぐ町まで走った。
サンダンスキという町で、かなり先まで来てしまった。あと30kmほどで、もうギリシャ国境だ。

そんな失敗をして戻り、森を抜けて山の中に建つリラの僧院に着いた。入場料は無料だったが、駐車場が4レバ。
リラの僧院は、落着いた雰囲気で見ごたえがある。
私は神社仏閣にはめったに感動しないが、ここは本当に、本当に素晴らしい!!。

しかし看板を見落としたという気持ちが尾を引いて、
後で、見落とすなんて納得できないという思いで、地図を見てみた。

良く調べたが、リラの僧院への看板は無く、最寄りの村に出る道路看板だけだ。
それも左折では無く、立体交差のため最初は右に出るのだ。
右に出る看板は見ていないので、やっぱりミスするのは当然だった。

たとえどこかに小さな看板が有っても、リラ村は=Рила、
こんなキリル文字では、私には判読できない。・・・と、自分の失敗を慰め、どうして間違えたか、納得。 ハハハ!

この日の宿泊は、80kmほどの山間の小さな町にした。サモコフ(Samokov)という所にした。
ガイドにも無い、だれも観光客の行かないようなちっぽけな田舎町だ。

ここは、田舎なのでホテルも安い。ツインルーム1泊朝食付で19ユーロ。
人の少ない、誰も知らないようなボンヤリした田舎の町、これはこれで楽しい。旅のノリシロだ。
カフェでお茶して、のんびり過ごす。

写真:ソフィアのホテルケンピンスキー、ネフスキー寺院
   シェラトンホテルの中庭の聖ゲオルギ教会、旧共産党本部
   リラに向かう道の向こうにピリン山脈、リラの僧院


kiya 投稿日: 2020年06月14日 15:34:08 No.68
<ソフィア空港に>
サモコフからソフィア空港までは60km、ソフィアはすでに観光したので、今日はぶらぶらと空港に向かう。
名前も知らない村をゆっくりと抜けながら、何か無いかなとキョロキョロと行く。
こんな旅もレンタカーの、大きな楽しみだ。

何と読むのかDragushinovoという村に入ると、道路に沿った電柱の上に、コウノトリの巣が一杯あって、
渡り鳥のコウノトリは、もうアフリカから飛来してきており、大きな巣の上で子育てを始めたようだ。
ぼく達は、コウノトリを見るのが大好きで、これまでにも色々出かけているが、こんな偶然でたくさん見られるのは、とても嬉しい。
車を路肩に止めて、村人にコウノトリだねと指さすと、別に珍しくも無いよ!という顔だった。ぼく達は、しばし見入っていた。

ソフィアの近郊のヴィトシャム山に行き、フレスコ画で有名なボヤなナ教会を見る。教会は小さいが、世界遺産だ。 
昼になり、レストランを探す。
文字が読めないので苦労するが、この建物はレストランかな?という風に探して、中を覗き、昼食。

ブルガリアの最後は、ソフィア空港近くのホテル・メトロポリタン。
ここは高級な大きいホテルだが、それには訳がある。レンタカーを返却するためだ。

夕方、レンタカー会社の兄ちゃんが車を取りに来た。
なんと!借りるときルセのホテルに車を持ってきた、同じラドショフ君だった。
ルーマニア国境のルセはソフィアから何百キロも離れているのに、同じ係員が来るなんて、初めてだ。

ふと考えた。ブルガリアの小さなレンタカー会社なので、ラドショフ君は自分の車を、会社に登録して、
貸出も返却も自分で行という、ローカルな方式なのかもしれないなー?

翌朝、ホテルのシャトルバスで空港に行き、次の旅先のトルコ・イスタンブールに向った。

写真:村の電柱の上にコウノトリの巣、ボヤナ教会、
   ボヤナ教会近くのレストラン、ホテル・メトロポリタン


ーー ぼく達の旅、ルーマニア・ブルガリア・・・(完)ーー




ぼく達の旅・オリエント急行 kiya 投稿日: 2020年05月28日 09:22:19 No.29 【返信】

私がヨーロッパに行くキッカケとなった、昔の話をいたします。

皆さんもそれぞれに、初めてヨーロッパに行くキッカケが、有ったと思います。
我家にとっての、ヨーロッパの始まりは、ヨーロッパに行きたいな~、では無くて「オリエント急行に乗りたい」そのためでした。

生まれて40数年間、ヨーロッパ旅行は考えた事も無く、とても遠い異国、という気持ちだけでした。
そう、萩原朔太郎の「フランスに行きたしと思えどもフランスはあまりに遠し・・」、そんな状態でした。

30歳で転職した会社で15年が過ぎて、16日間のリフレッシュ休暇が取れることになった。
この頃の私は、毎日麻雀、休日は爆睡で、家庭をまったく顧みて無かったので、この機会に何とか罪滅ぼしで妻の機嫌を取りたいと、
「どこか行きたい所がある?」と聞いてみた。
・・・うん!、と妻はしばし沈黙したあと、「一生に一度オリエント急行に乗りたい」と。。。

 
・・・何!それ?? 私は、オリエント急行は小説の名前でしか知らなかった。
列車が何処を走っているのかも知らず、慌てて調べてみた。
かっての小説のオリエント急行は、一度解体されたが、1980年代にVSOE(ベニス・シンプロン・オリエントエクスプレス)社が再建して、
この頃は、ロンドン~ベニス間を走っていた。

さっそくJTBに行き、「ロンドン~ベニス全区間のオリエント急行のツアー」を申し入れたが、「そんなツアーは有りません!」と言われてしまった。
しかたなく私は、赤坂にあったVSOE社の営業所に出掛けて、夫婦2名を申し込んだ。
この列車はとても高価だったが、一生に一度だからヨーロッパに行こう!と思い切って決めた。
JTBでは航空券とホテルを手配した。
こんな旅行だったため、初めてのヨーロッパは、嫌応無しに「個人旅行」になってしまった。

1992年5月ヴァージン航空で、ぼく達は、意気揚々と、ヨーロッパに出掛けた。


kiya 投稿日: 2020年05月28日 18:09:27 No.30
イギリスに着くなり、ぼく達の初のヨーロッパ個人旅行は、洗礼の嵐だった。(笑)
最初にヒースロー空港の白タク事件が起きた。(ひろばNO.755)
そして、ロンドンの地下鉄スリ事件にも遭ってしまった。(ひろばNO.761)
そうこうしながらも、ロンドンを見学して、スコットランドに飛んでレンタカーで走り、あっという間に6日間が過ぎた。


そして7日目の出発の朝、オリエント急行の出発する、ロンドン・ビクトリア駅に向った。
今と違って改札は無いので、そのまま指定されたホームに行った。
いちばん端にあるホームの横に、オリエント急行専用待合室が設けられていた。
待合室の中には飲み物やつまみ類があるロビーになっていた。

出発時間が近づくと、「プルマンカー」と言われるクリーム色の「デイ・カー」が入線してきた。
チェックインが始まる時間になり、ホームには赤い絨毯が敷かれ、琥珀色のカウンターが設けられた。
なんだか、映画の一場面みたいだな~と思った。
手荷物を残して、使わない大きな荷物は預けて、最後部の荷物車両に入れられた。

車内ではさっそくフレンチのランチが出た。
昼過ぎに、イギリスの東端のドーバー駅へ。当時は、ユーロトンネルはまだ無かった。
駅に到着すると、楽隊の演奏の出迎えを受け、フェリー(シーキャット)に乗りこむ。
フェリーの中の席には、オリエント急行の、乗客の専用席カバーが掛かっていた。

ドーバー海峡をシーキャットで渡りると、
フランス側ブローニュに「ワゴン・リー」と呼ばれる濃紺の車体に金モールの、寝台車が待っていた。
やがて、3時のお茶とケーキを食べながら、車窓を眺める。
午後の日差しの中を、フランスの畑をオリエント急行はゆっくり走っていた。

レストランでの食事は、2回に分けられていて選択するが、パリで途中下車するので、早い夕食を選んだ。
夕食はフレンチのフルコースだった。
日が暮れてパリ東駅に到着し、シャンゼリゼ通りのホテルに3泊して、初めてのパリを観光した。


kiya 投稿日: 2020年05月29日 09:50:40 No.31
パリでは、ぼく達お登さんは、モナリザの絵も見たし、有名なミシュラン3星レストランにも出掛けた。
初の3星レストランは、慣れない僕達は注文するのも困るので、関係会社のパリ事務所に頼んで、秘書の同行をお願いした。
お礼に、秘書の食事代も、ぼく達が支払うと言っておいた。
店は、当時の昭和天皇も訪れ鴨のナンバーをもらったという、「トゥール・ダルジャン」だ。
セーヌ川のノートルダム寺院の夜景が、目の前に見えた。

若い秘書ナタリーのお父さんはシェフだそうだが、フランス人の彼女も「トゥールダルジャン」は初めてと大喜びして来てくれた。
食後、会社からのおもてなしと、有名な「リド」へ招待してくれ、夕食後リドで入場を待っていた。

リドのショーは2回目は夜10時過ぎから始まる。
1回目ショーが終わって、客が大勢出て来て、さあ入場とういう頃になって、とつぜん妻は、体調が悪いと言いだした。
大事を取って、残念だが帰ることにしたが、1回目の客がみな乗り込んで、すでにタクシーは全然いなかった。
しかたなく、夜のパリの町を当てずっぽうに歩いて帰るしか無かった。
遠回りしただろうか、30分ほど歩いて、ようやくシャンゼリゼにあるホテルに着いた。

こうして、途中下車の、濃いパリの3日間は終わった。

写真:トゥールダルジャンの鴨NO. 、秘書のナタリーと店の前で


kiya 投稿日: 2020年05月29日 11:28:37 No.32
<パリからベニス>

オリエント急行は1週間に2本の運航なので、3泊して夕方パリ東駅に行った。
やはり、パリ駅にもオリエント急行専用待合室が有った。
パリから乗り込む客も何人か居て、そのなかに一人の高齢の夫人(リチャウドさん)が居た。
あの夫人は、一人旅かもしれないね?と、思っていた。

東駅の電光掲示板に列車は何と表示されるのか気になった。
出発時間が近づき、列車の種別は「スペシャル」と表示された。
ホームには赤い絨毯が敷かれ、チェックイン・カウンターが置かれた。
パリから乗り込むと、再び夕食から始まり、その時は2回目の遅い方の夕食になる。
(そのため、パリで途中下車すると、1人3万円ほど高くなる。)

パリを夜に再乗車して、フランス料理フルコースのディナー、食後はピアノの有るバーラウンジで寛ぐ。
そのため、ディナーは盛装でと言われていた。
私はタキシードが無いので、ダークスーツを、妻はイブニングドレスを持参した。
ピアノが置かれた高級感のあるバーでは、飲めない私はなんとも所在なく、そこそこにキャビンに戻った


夜の間にスイスを越えて、朝方に列車はオーストリアのチロル地方を走っていた。車窓からチロルの山々が美しい。
アルプスの少女ハイジが大好きな妻は、絵のような景色って本当に有るんだ!と、茫然と景色を眺めていた。
列車と並行する道路に、車が気持ちよく走っている。
ああ、こんな風に車の旅もしてみたいなー、それが出来たら、また違った楽しい旅になるだろう!と思いながら、眺めていた。

朝食を終えた頃、列車はインスブルックに到着した。ここではイタリアへのブレンナー峠を越えるため、機動車を連結した。
暫く停車ののち、蛇行しながらブレンナー峠に向った。


kiya 投稿日: 2020年05月29日 12:24:02 No.33
昼食後、列車は一路ヴェローナを目指し、その後ベニスのサンタルチア駅にむかう。
ヴェローナを過ぎて、線路には大きな深紅のケシの花が咲き乱れ、ヨーロッパって違うなーと思った。

午後のお茶を客室に持って来てくれたとき、べニスのホテルを聞かれる。
終着のサンタルチア駅から、モーターボートで、ホテルごとに案内されるためだ。

夕方、ベニス・サンタルチア駅に到着、・・・ぼく等の、夢のオリエント急行の旅は終着駅に着いた。


前述した、パリから乗り込んだ一人旅のご婦人リチャウドさんは、レストランでの食事のとき、通路を挟んで反対側にいたが、
このご夫人はフランス語しか話せないので、ぼく等との会話は成り立たず、にっこり会釈するだけだった。

そしてベニスに着くと彼女も偶然同じホテル・ダニエリで、同じボートに乗り込んだ。

翌日、ベニスのガイドブックで見て、良いイタリアンの店に出掛けた。
店に行くと、何とそのご夫人が一人でランチをしていた。
そこで、ウエイターに通訳してもらい話をすると、「夕食後に、妻に部屋に来てほしい」、との事だった。

夕食後、部屋に戻って、妻がご婦人の部屋に電話した。
結局、ご婦人が何を言っているのか分からいので、妻はご婦人の部屋に出掛けて行った。
そして部屋の電話で、ご婦人が海を指さして「チプリアーニ」とか何とか言ってると、妻が言うので、私は、ピンと来た。

初めての個人旅行で、ガイドブックをつぶさに見ていた私は、向かいのジュデッカ島にある高級ホテルの名前だと気が付いた。
そしてご婦人は、スカートをめくってガーターに挟んであるクレジットカードを見せて、お金は心配いらない、と言っていると電話で妻がいう。

心配なさそうな一人旅のご婦人だから、一緒に行ってあげてよ!と妻を送り出した。
夜に、妻が戻ると、ホテルのモーターボートを迎えに来させて、ホテルに行き、テラス席で楽団を呼んで、楽しんで来たヨ。
こうして、オリエント急行の、余韻は過ぎて行った。


リチャウドさんは、若い頃はフランスの雑誌ヴォーグの記者をしていたという。
この数年後、パリを訪れた僕らは、秘書のナタリーに頼み、セーヌ川のシテ島に住むリチャウドさんに連絡して、
ベニスでのお礼にと、2星レストランに誘ったが、それは別の機会に。

写真:ベニスのホテル・ダニエリ、オリエント急行で出会ったリチャウドさん


kiya 投稿日: 2020年05月29日 12:27:06 No.34
<オリエント急行のあと>

ベニスの滞在を終え、帰国に向けて列車でミラノにて滞在。
初めての個人旅行のため、ミラノからロンドン乗継での帰国については、旅慣れていないので、、気持ちの不安が大きかった。
そこで、ロンドンで1泊して、翌日の飛行機で帰国することにした。
しかし、ロンドンはもう見たので、最後の1泊はちがうところに行こうと考えた。


行き先を悩んでいた、ちょうどその頃に出始めた「ABロード」に、イギリスのカントリー・サイド特集があった。 
これをみて、アッパーテムズの「マーロー」の田舎町と、お勧めのホテルに泊まることにした。

ヒースロー空港でレンタカーを借りる時に「何処に行くの?」と聞かれ、ホテル「コンプリート・アングラー」と答えた。
係員に、「そこは、素晴らしいよ!」と言われ、期待は高まった。

マーローの小さな田舎町に入ると、テムズ川に白い吊り橋が架かっていて対岸にホテルが見えた。
テムズ河畔の、この絵にかいたような美しいホテルに、ぼく等は感動し、大満足だった。

 このホテルは次第に、テムズ河畔でのアフタヌーンティーで有名になって行った。
  後でわかったことだが、コンプリートアングラーは作家・開高健の愛したホテルだった。
  (現:マクドナルド・コンプリートアングラー)

<ヨーロッパ病に行きたい病が・・>
・・初めての旅行で、前半に訪れたスコットランドのエジンバラからゴルフの聖地セントアンドリュース、
、フォース湾を渡り世界遺産の鉄道橋フォースブリッジを横目に見ながら北へ、そしてパッチワークのような牧草地を巡って南の羊毛の小さな町ガラシールズ、ピーブルズに。

この2日のドライブと、最終日のアッパーテムズの1日が、・・・のちに、「ヨーロッパ行きたい病」を発症させてしまった。

写真:マーローのホテル・コンプリートアングラー


kiya 投稿日: 2020年05月29日 12:32:17 No.35
<旅の付録>

最初のヨーロッパの帰路、もう2度と来ないと思っていたヨーロッパだったが、
引き寄せられるように、それから何度も出掛けてるようになっていた。


<余韻:1>
オリエント急行の旅から16年後の2008年、ヨーロッパ旅行は、早くも25回目になっていた。
そのとき僕達は、オリエント急行と再会したいと、レンタカーでブレンナー駅に向い、峠の駅でオリエント急行を待ち伏せた。
駅の手前の駐車場の2階で、列車が来るのを待っていた。

昼を少しすぎた頃、濃紺の車体に白い屋根の列車がブレンナー峠を縫うように上がって来た。
懐かしさが込み上げてきた、そして列車が通り過ぎるのをぼんやりと見ていた。そして、駅に停車。

アッ! 列車は機動車を外すので、暫く駅に停車するんだ。
あれから16年、当時40代だった僕達も、すでに還暦を過ぎる年齢になっている事も忘れて、
ぼく達は、少年のように息を切らせて、駅に走った。
悠然と駅に止まっているオリエント急行を、ホームから眺め、懐かしくて乗組員に話しかけていた。


<余韻:2>
オリエント急行に乗ってから20年後、の2012年、ぼく達はイスタンブールに行った。
かって、オリエント急行がオリエントと言われる由縁の、イスタンブール中央駅に行って見た。
当時の待合室は、いまはレストランになっていて、入り口に「1892年,ORIENT EXPRESS」と書いたプレートがあった。


<あとがき>
     旅行は、行く・見る・食べる、買うだけでは、ガイドブックと同じだ。
     自分達の「旅の物語」が作れたとき、旅行はもっと楽しく、思い出深いものになると感じた。

写真:イスタンブールの当時の待合室、レストランの入り口の看板


素晴らしい! 雪谷旅人 投稿日: 2020年05月30日 20:34:55 No.36
真っ白なキャンバスに絵を描くような素晴らしい旅行記ですね。ワクワクする気持を20年後にも持っている「少年のような」旅人ですね。STFには旅の達人が多くいるので,まとめて1冊の本にできれば素晴らしいですね。


アデレードドライブ mithy- 投稿日: 2020年02月12日 22:56:29 No.24 【返信】

今回の旅は、コロナウイルスと山火事の不安を抱えた中での出発でしたが、アデレードに到着すると厳しい夏の暑さが我々を迎えた。レンタカーで最初の宿泊地、ヒンド・マーシュ・アイランドへ向かう。暑さが厳しく途中スイカを買い咽を潤しながら。途中のビクターハーバーへ、グラニタ島へ渡る1kmの馬車道を馬車で行きたかったが、馬も暑さで休養中で馬車が運行休止で渡れなかった。日差しが厳しく徒歩では誰も行こうとしなかった。オーストラリア南部なので山火事を心配していたが、アデレード近辺は既に鎮火し焼けた景観だけが至る所で見られた。しかし、大雨洪水に見舞われるとは思いもしなかった。4日目のフリンダーズレンジ国立公園への道路が大雨でクローズされ、途中の町で宿を取る羽目になったり、帰国時のシドニー空港も洪水の為閉鎖されて、航空会社から宿泊を与えられたりした。我々の旅の期間中は1日だけの雨で、後の日は夏日そのものの日差しと気温でした。今回の旅は自然の動物を見る為、国立公園内の低山登山とハイキング、プラス海水浴や岩山の登山、そして昼は毎回お弁当持参で景色を堪能しながらの食事、夕食は女性陣の賄で毎回御馳走がテーブルを賑わしてくれた。道中カンガルーやエミュが車の通行を妨げたりしたが楽しい旅でした。
同行された皆さん大変お世話になり有り難う御座いました。


写真の補足 mithy- 投稿日: 2020年02月13日 21:02:08 No.25
フリンダーズレンジは野生動物の宝庫、カンガルーは宿泊施設周辺のブッシュが住処か?。近くで見る事が出来た。
赤塩湖は水も無く赤塩のみでカンガルーと競争?。
ガウラーレンジは大きな塩湖で表面の塩を取り味見、しよっぱく苦がかった。
オルガン・パイプスはガウラーレンジズの近くでハイキングでの接近、岩の大きさに感動ものであった。
Pildappa Rockは低い岩山だが、裏側と表側では全く違う様相をしていた。山頂からは360度の展望が出来た。(写真)
Hallet Coveは地層が見える保護区で写真の上の茶色が2百万年前、白く見えるのが2億8千年前。下の茶色が8億年前の地層です。海岸沿いには氷河期の地層が観察出来た。
写真は氷河期の地層です。(写真2枚)


予想外の展開 L&B 投稿日: 2020年02月14日 23:16:46 No.26
情報ではアデレードはシドニー郊外に次ぐ、山火事が多いところだったので、直前まで気になったのは「火」でした。
が、スケジュールを狂わせたのは「水」。まさか2回にわたる水難とは。
mithy-さんが書いているように大雨で行く手を遮られ急遽その手前で宿をとったり、轍にはまったり。帰りの飛行機はシドニーの大雨の影響で宿が変わり、便が変わった。
「火」関係で強いていえば、公園内に入ろうとしたら入園禁止。理由は聞けなかったが、おそらく自然火災が発生したときの救助の問題、火器を使うことによる発火のリスクをなくす為でしょう。雨が降ったとはいえ、乾燥した大地ですから。

やはりオーストラリアは広い!
大した岩の塊でもないと思って登って見ると無論エアーズロックにははるかに及ばないが、巨大な岩で同じような岩山が平原にポツンポツンと。
郊外は走っても走っても同じ景色が続く。ワイルドフラワーが咲いていればアクセントがあってより楽しいのですが。

今回も楽しい旅でした。

mithy-さん、同行の皆様ありがとうございました。
癖になりますねぇ。
ビビアン1019 投稿日: 2020年02月23日 20:58:33 No.27
オ-ストラリアドライブの旅は、今回も素晴らしい旅でしたね
私は、ダ-ウィンのドライブ旅行と今回のアデレードのドライブ旅行
と楽しませて頂きました。オ-ストラリアは、広いので
車でしか行けない国立公園や言葉では言い尽くせない自然の景色が沢山有ります。
アデレードの郊外にも沢山の自然と動物が居て私達を迎えてくれる様な
そんな自然豊かな場所でした。
カンガルーの群れに出会ったり、エミュが群れで居たり
カモメや白いカラスやなんと言ってもホテルから見る海辺の夕日が
とても綺麗で素敵でした、最終日に行ったマナーハウスの英国風庭園での
ピクニック気分は、忘れられない思い出に成りました。
色々と有った旅でしたが無事に帰国出来た事
ちょっと疲れも有ってボケ気味の私でしたが
とても楽しかったです。運転手のミッチーさん、L&Bさん
とても美味しん料理を作って下さったキョンさんともっちゃんさん
いつも美味しいコ-ヒ-とパンとサラダのhanacoさん皆さんと一緒に
素敵なドライブ旅行が出来てとても感謝してます。
今度は、イギリス周遊ですね、楽しみです。




チベットからカトマンズへ (13) まとめ 雪谷旅人 投稿日: 2019年12月02日 11:48:22 No.17 【返信】

14日間の旅を終え,感じたことをまとめておきます。7名のメンバーのご協力で素晴らしい旅になりました。ありがとうございました。中国国内ではSさんにとくにお世話になりました。改めてお礼を申し上げます。

<全体計画>西寧からネパール国境までのツアーでは青蔵鉄道やチベット寺院,湖や雪山の絶景を堪能した。西安中信国際旅行社の現地ツアーだが,一等寝台料金,ラサからの日本語ガイド,ホテル・食事すべてつきで116,000円(二人部屋の場合)だった。ガイドもホテルも食事もよく,良心的なツアーだった。航空券は早く買ったので,西寧,カトマンズへの往復(オープン・ジョー)が55,000円。しかも成都でのトランジット・ホテルつき。ネパール国内は物価も安いので全部含めても25万円以下だった。「風の旅行社」の同様のツアー(55万円)の半額で済んだ。現地旅行社との直接交渉が奏功した。

<チベット>チベット仏教の多くの寺院を訪れた。いずれも巡礼客で満杯。お寺を巡回する人,五体投地でお参りする人,お寺の中では仏像の一体ごとに丁寧にお金や油を寄進する人…。チベットの人たちの信仰心は並大抵ではない。西寧からのツアーやカトマンズへの途中に訪れた絶景の湖や雪山へ素晴らしかった。最後にチョモランマ(エベレスト)ベースキャンプへ行き,エベレストを近くで見ることができた。

<ネパール>ネパールには一度ツアーで訪れたことがあるが,今回は自分の足で歩いて現地の人と交流しながら旅を楽しんだ。バクタパルやパシュパティナートのようにツアーでは行かなかった古都や寺院はとても印象的だった。街中でも山中でも,日本語で話しかけてくれる人がとても多く,しかもとても堪能だ。ネパール人が親日的であることがよく分かった。また,色々な場面で大いに助けられた。ネパールという国がいっぺんに好きになった。

<高山病>今回の旅行で一番心配されたのが高山病だ。標高5000mを越える場面がいくつかあったが,一人として高山病にかからなかった。予防薬(ダイアモックス)の服用や禁酒,無理に動かないという鉄則を守ったことがよかった。また,西寧(標高2275m)から始まって青海湖(3200m)へのツアー,ラサ(3700m)と徐々に高度を上げて行ったのも奏功したと思う。高山病の予防には,ゆったりとした日程がやはり必要だ。

<国境越え>中国・チベットからネパールへの国境越えは情報が少ない。とくに最近開かれたキーロン谷については不明の点が多い。私たちは当初,アライバルビザで入国しょうとしたが,ネパール政府のシステムが不安定なため予め日本でビザを取得して行った。これがよかった。ネパールの入国事務所は掘っ立て小屋のようなところにあり,どこでアライバルできるのか分からない。カトマンズ行きのタクシーも国境で待っている訳ではない。私たちはチベット側のガイドにお願いして車を手配してもらった。早めの手配が必要だ。

<通貨>中国国内では一般に日本円からの両替が容易だ。しかしチベットの山奥に行くとドルしか通用しない。一方,カトマンズ市内のATMでは,現金を降ろすたびに500円の手数料を取られる。これは大きい。ドルからの両替なら手数料は安い。やはり世界中どこでもドルをある程度持参すべきだ。
みー 投稿日: 2019年12月05日 21:35:39 No.19
雪谷さま、参加の皆さまお疲れさまでした。

以前から認めていた西蔵鉄道に乗ってのチベット旅行は、念願の旅でした。
5千メートルの高さでの平原で、日々羊や山羊をおいながら質素で慎ましやかに生活している老人と子供の風景が心に残りました。

いつでも行ける!と思っていたネパールも私に取っては初めての旅でした。仲間の助けもありバスステーションからのあちらこちらの移動時に、現地の方々の優しい思いに触れました。



雪谷さま始め、部屋を共にして頂いた仲間、行動をともにして頂いた仲間、お世話をして頂いた仲間に感謝致します。
有難うございました。
L&B 投稿日: 2020年01月17日 09:03:20 No.21
なんとも羨ましい旅をされたようで、返す返すも早めに申し込まなかったことを悔やんでいます。
ネパールへは2度ほど、個人で行っていましたので、ある程度のことは見聞きしていますが、
チベットに関しては各種情報だけで、やはりその場へ立つことが旅の醍醐味だと思い、もし次がありましたらいの一番に申し込みたいと思います。
皆様お疲れ様でした。


チベットからカトマンズへ (12) 帰国 雪谷旅人 投稿日: 2019年12月02日 08:02:11 No.16 【返信】

12月1日(日)快晴

いよいよ帰国だ。宿泊のOasis Kathmandu Hotelが空港までのタクシーを無料で提供してくれた。

今日はカトマンズから中国・成都へ。成都で1泊ののち明日羽田へ。楽しかった14日間の旅が終わろうとしている。カトマンズを飛び立ち,30分ほどでエベレストがきれいに見えた。




チベットからカトマンズへ (11) パシュパティナート 雪谷旅人 投稿日: 2019年11月30日 19:59:02 No.15 【返信】

11月30日(土) 快晴

今日はヒンドゥー教の聖地パシュパティナートへ。門前町を通り過ぎるとチケット売場があった。Rp1,000でチケットを買っていると,日本語のできるガイドがいたので,1時間1,000円でお願いした。

まずは火葬場アエルガートへ。パグマティ川の川岸に12の野外火葬場があった。ちょうど真下の焼き場で成人の火葬が始まるところだった。遺体は清められたあと牛乳を飲まされ,布でくるまれて近親者が薪の上に載せられる。バターを乗せ,わらをかぶせたのち頭から火を付けられた。約3時間の火葬のあと,遺灰は布でくるまれ,パグマティ川の川底に埋められる。やがて遺灰は川に溶け出し,下流のガンジス川に至る。上流では「お金持ち」の火葬が行われていた。きれいな飾りがあった。ヒンドゥー教は輪廻の考えからお墓はないという。

ヒンドゥー教のシバ神像は本堂の中にあるが,ヒンドゥー教徒以外は入れない。一部にシバ神の壁画があった。老人ホームの中にも立派なお寺があった。

夜は私の部屋でワイン・パーティー。楽しかった旅や山の話で盛り上がった。




チベットからカトマンズへ (10) ミニ・トレッキング,バクタプル 雪谷旅人 投稿日: 2019年11月30日 19:52:06 No.14 【返信】

11月29日(金) 薄くもり

今日はナガルコットからチャング・ナラヤンへのミニ・トレッキングをしょうと,ナガルコット行きの専用車で7:30出発。約1時間で「登山口」に着いた。鶏を飼っている農家を何軒か通り過ぎたあと,山道に入った。1時間半ほど登りが続いた。「歩き方」によると,ナガルコットからのトレイルは「ほとんど下り」という。前回歩いたときにあった民家やホテルが全く見つからない。一つの集落に着くと,どうやらわれわれが降ろされたのは反対側のチャング・ナラヤンということが分かった。その集落からちょうどバクダブル方面へのバスが出ているというので,これに乗った。降ろされたのはバクタプルの街中。

Tさんのお勧めで3人がバクタプルを見学することになった。9世紀ごろの古都で,世界遺産だ。Rp.1500でチケットを買い,1kmほど歩いたところに古都らしい街と広場があった。そこがタルバール広場だ。ちょうど若者が1時間$8でガイド(英語)するというのでお願いすることにした。分かりやすい説明をしてくれた。

タルバール広場のゴールデン・ゲートの右側には王宮,左側には国立美術館があった。王宮には55の窓があり,これは王様の妻の部屋だという。ゴールデン・ゲートから入るとヒンドゥー教徒しか入れないタレジュ・チョークがあった。入口の木彫りが素晴らしい。

2015年4月の地震で多くの建物が損壊したが,徐々に補修が進んでいる。王宮の向かいにあるパシュパティ寺院は補修を終えきれいな佇まいを見せていたが五重の塔は補修中だった。

タチュパル広場へ進むと大きな五重の塔(補修中)があった。ニャタポラ寺院。高さ30m,カトマンドゥ盆地では最も高いという。多くの人が広場を静かに眺めていた。さらにタチュバル広場へ進むと陶器の街があった。ろくろや釜で多くの陶器を作っていた。

1時間のガイドで多くのことを学んだが,ネパールの歴史やヒンドゥー教についての知識がないので,多くのことが記憶に残らなかった。バクダプルという古都がとても素晴らしいということは分かった。




チベットからカトマンズへ (9) カトマンズ市内 雪谷旅人 投稿日: 2019年11月29日 01:00:56 No.12 【返信】

11月28日(木) 晴れ

今日はカトマンズ市内見学。「歩き方」の推奨ルートにしたがってタメル・チョークからスタート。少年僧が托鉢を受けていた。初めは徒歩で行こうとしたが,雑踏の中を歩くのは時間がかかるのと,やはり目的地を探すのに手間取る。途中からは輪タクに乗った。1人1時間1,000ルピー(約1,000円)を500に値切る。

タメル・チョークからスタートし,タヒティー・チョークに着いたとき,日本語で話かけられた。流暢な日本語で自分が作った家(6階建て)を紹介され,屋上からの写真を撮らせてくれた。遠方にモンキー・テンプルが見えた。ここに限らず,日本語で話しかけられる場面が多く,親日家が多い。

その後は輪タクで楽チン市内観光。ガイドブックに載っていない所も親切に連れて行ってくれた。アカシュ・バオラヴ寺院,瀬戸。マチェンデラナード,マカン・トールと案内してくれた。多くの寺院やパゴダが街中に溢れている。道は雑踏。通行人,輪タク,タクシーが競う合って前へ進もうとする。

World Heritage Hotelで昼食。その後インフォメへ行ってナガルコットなどについて情報を得た。

夜は日本食。すきやき,天ぷら,唐揚げなど楽しんだ。安い。




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