旅レポート
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ぼく達の旅・オリエント急行
kiya 投稿日:2020年05月28日 09:22 No.29
私がヨーロッパに行くキッカケとなった、昔の話をいたします。

皆さんもそれぞれに、初めてヨーロッパに行くキッカケが、有ったと思います。
我家にとっての、ヨーロッパの始まりは、ヨーロッパに行きたいな~、では無くて「オリエント急行に乗りたい」そのためでした。

生まれて40数年間、ヨーロッパ旅行は考えた事も無く、とても遠い異国、という気持ちだけでした。
そう、萩原朔太郎の「フランスに行きたしと思えどもフランスはあまりに遠し・・」、そんな状態でした。

30歳で転職した会社で15年が過ぎて、16日間のリフレッシュ休暇が取れることになった。
この頃の私は、毎日麻雀、休日は爆睡で、家庭をまったく顧みて無かったので、この機会に何とか罪滅ぼしで妻の機嫌を取りたいと、
「どこか行きたい所がある?」と聞いてみた。
・・・うん!、と妻はしばし沈黙したあと、「一生に一度オリエント急行に乗りたい」と。。。

 
・・・何!それ?? 私は、オリエント急行は小説の名前でしか知らなかった。
列車が何処を走っているのかも知らず、慌てて調べてみた。
かっての小説のオリエント急行は、一度解体されたが、1980年代にVSOE(ベニス・シンプロン・オリエントエクスプレス)社が再建して、
この頃は、ロンドン~ベニス間を走っていた。

さっそくJTBに行き、「ロンドン~ベニス全区間のオリエント急行のツアー」を申し入れたが、「そんなツアーは有りません!」と言われてしまった。
しかたなく私は、赤坂にあったVSOE社の営業所に出掛けて、夫婦2名を申し込んだ。
この列車はとても高価だったが、一生に一度だからヨーロッパに行こう!と思い切って決めた。
JTBでは航空券とホテルを手配した。
こんな旅行だったため、初めてのヨーロッパは、嫌応無しに「個人旅行」になってしまった。

1992年5月ヴァージン航空で、ぼく達は、意気揚々と、ヨーロッパに出掛けた。


kiya 投稿日:2020年05月28日 18:09 No.30
イギリスに着くなり、ぼく達の初のヨーロッパ個人旅行は、洗礼の嵐だった。(笑)
最初にヒースロー空港の白タク事件が起きた。(ひろばNO.755)
そして、ロンドンの地下鉄スリ事件にも遭ってしまった。(ひろばNO.761)
そうこうしながらも、ロンドンを見学して、スコットランドに飛んでレンタカーで走り、あっという間に6日間が過ぎた。


そして7日目の出発の朝、オリエント急行の出発する、ロンドン・ビクトリア駅に向った。
今と違って改札は無いので、そのまま指定されたホームに行った。
いちばん端にあるホームの横に、オリエント急行専用待合室が設けられていた。
待合室の中には飲み物やつまみ類があるロビーになっていた。

出発時間が近づくと、「プルマンカー」と言われるクリーム色の「デイ・カー」が入線してきた。
チェックインが始まる時間になり、ホームには赤い絨毯が敷かれ、琥珀色のカウンターが設けられた。
なんだか、映画の一場面みたいだな~と思った。
手荷物を残して、使わない大きな荷物は預けて、最後部の荷物車両に入れられた。

車内ではさっそくフレンチのランチが出た。
昼過ぎに、イギリスの東端のドーバー駅へ。当時は、ユーロトンネルはまだ無かった。
駅に到着すると、楽隊の演奏の出迎えを受け、フェリー(シーキャット)に乗りこむ。
フェリーの中の席には、オリエント急行の、乗客の専用席カバーが掛かっていた。

ドーバー海峡をシーキャットで渡りると、
フランス側ブローニュに「ワゴン・リー」と呼ばれる濃紺の車体に金モールの、寝台車が待っていた。
やがて、3時のお茶とケーキを食べながら、車窓を眺める。
午後の日差しの中を、フランスの畑をオリエント急行はゆっくり走っていた。

レストランでの食事は、2回に分けられていて選択するが、パリで途中下車するので、早い夕食を選んだ。
夕食はフレンチのフルコースだった。
日が暮れてパリ東駅に到着し、シャンゼリゼ通りのホテルに3泊して、初めてのパリを観光した。


kiya 投稿日:2020年05月29日 09:50 No.31
パリでは、ぼく達お登さんは、モナリザの絵も見たし、有名なミシュラン3星レストランにも出掛けた。
初の3星レストランは、慣れない僕達は注文するのも困るので、関係会社のパリ事務所に頼んで、秘書の同行をお願いした。
お礼に、秘書の食事代も、ぼく達が支払うと言っておいた。
店は、当時の昭和天皇も訪れ鴨のナンバーをもらったという、「トゥール・ダルジャン」だ。
セーヌ川のノートルダム寺院の夜景が、目の前に見えた。

若い秘書ナタリーのお父さんはシェフだそうだが、フランス人の彼女も「トゥールダルジャン」は初めてと大喜びして来てくれた。
食後、会社からのおもてなしと、有名な「リド」へ招待してくれ、夕食後リドで入場を待っていた。

リドのショーは2回目は夜10時過ぎから始まる。
1回目ショーが終わって、客が大勢出て来て、さあ入場とういう頃になって、とつぜん妻は、体調が悪いと言いだした。
大事を取って、残念だが帰ることにしたが、1回目の客がみな乗り込んで、すでにタクシーは全然いなかった。
しかたなく、夜のパリの町を当てずっぽうに歩いて帰るしか無かった。
遠回りしただろうか、30分ほど歩いて、ようやくシャンゼリゼにあるホテルに着いた。

こうして、途中下車の、濃いパリの3日間は終わった。

写真:トゥールダルジャンの鴨NO. 、秘書のナタリーと店の前で


kiya 投稿日:2020年05月29日 11:28 No.32
<パリからベニス>

オリエント急行は1週間に2本の運航なので、3泊して夕方パリ東駅に行った。
やはり、パリ駅にもオリエント急行専用待合室が有った。
パリから乗り込む客も何人か居て、そのなかに一人の高齢の夫人(リチャウドさん)が居た。
あの夫人は、一人旅かもしれないね?と、思っていた。

東駅の電光掲示板に列車は何と表示されるのか気になった。
出発時間が近づき、列車の種別は「スペシャル」と表示された。
ホームには赤い絨毯が敷かれ、チェックイン・カウンターが置かれた。
パリから乗り込むと、再び夕食から始まり、その時は2回目の遅い方の夕食になる。
(そのため、パリで途中下車すると、1人3万円ほど高くなる。)

パリを夜に再乗車して、フランス料理フルコースのディナー、食後はピアノの有るバーラウンジで寛ぐ。
そのため、ディナーは盛装でと言われていた。
私はタキシードが無いので、ダークスーツを、妻はイブニングドレスを持参した。
ピアノが置かれた高級感のあるバーでは、飲めない私はなんとも所在なく、そこそこにキャビンに戻った


夜の間にスイスを越えて、朝方に列車はオーストリアのチロル地方を走っていた。車窓からチロルの山々が美しい。
アルプスの少女ハイジが大好きな妻は、絵のような景色って本当に有るんだ!と、茫然と景色を眺めていた。
列車と並行する道路に、車が気持ちよく走っている。
ああ、こんな風に車の旅もしてみたいなー、それが出来たら、また違った楽しい旅になるだろう!と思いながら、眺めていた。

朝食を終えた頃、列車はインスブルックに到着した。ここではイタリアへのブレンナー峠を越えるため、機動車を連結した。
暫く停車ののち、蛇行しながらブレンナー峠に向った。


kiya 投稿日:2020年05月29日 12:24 No.33
昼食後、列車は一路ヴェローナを目指し、その後ベニスのサンタルチア駅にむかう。
ヴェローナを過ぎて、線路には大きな深紅のケシの花が咲き乱れ、ヨーロッパって違うなーと思った。

午後のお茶を客室に持って来てくれたとき、べニスのホテルを聞かれる。
終着のサンタルチア駅から、モーターボートで、ホテルごとに案内されるためだ。

夕方、ベニス・サンタルチア駅に到着、・・・ぼく等の、夢のオリエント急行の旅は終着駅に着いた。


前述した、パリから乗り込んだ一人旅のご婦人リチャウドさんは、レストランでの食事のとき、通路を挟んで反対側にいたが、
このご夫人はフランス語しか話せないので、ぼく等との会話は成り立たず、にっこり会釈するだけだった。

そしてベニスに着くと彼女も偶然同じホテル・ダニエリで、同じボートに乗り込んだ。

翌日、ベニスのガイドブックで見て、良いイタリアンの店に出掛けた。
店に行くと、何とそのご夫人が一人でランチをしていた。
そこで、ウエイターに通訳してもらい話をすると、「夕食後に、妻に部屋に来てほしい」、との事だった。

夕食後、部屋に戻って、妻がご婦人の部屋に電話した。
結局、ご婦人が何を言っているのか分からいので、妻はご婦人の部屋に出掛けて行った。
そして部屋の電話で、ご婦人が海を指さして「チプリアーニ」とか何とか言ってると、妻が言うので、私は、ピンと来た。

初めての個人旅行で、ガイドブックをつぶさに見ていた私は、向かいのジュデッカ島にある高級ホテルの名前だと気が付いた。
そしてご婦人は、スカートをめくってガーターに挟んであるクレジットカードを見せて、お金は心配いらない、と言っていると電話で妻がいう。

心配なさそうな一人旅のご婦人だから、一緒に行ってあげてよ!と妻を送り出した。
夜に、妻が戻ると、ホテルのモーターボートを迎えに来させて、ホテルに行き、テラス席で楽団を呼んで、楽しんで来たヨ。
こうして、オリエント急行の、余韻は過ぎて行った。


リチャウドさんは、若い頃はフランスの雑誌ヴォーグの記者をしていたという。
この数年後、パリを訪れた僕らは、秘書のナタリーに頼み、セーヌ川のシテ島に住むリチャウドさんに連絡して、
ベニスでのお礼にと、2星レストランに誘ったが、それは別の機会に。

写真:ベニスのホテル・ダニエリ、オリエント急行で出会ったリチャウドさん


kiya 投稿日:2020年05月29日 12:27 No.34
<オリエント急行のあと>

ベニスの滞在を終え、帰国に向けて列車でミラノにて滞在。
初めての個人旅行のため、ミラノからロンドン乗継での帰国については、旅慣れていないので、、気持ちの不安が大きかった。
そこで、ロンドンで1泊して、翌日の飛行機で帰国することにした。
しかし、ロンドンはもう見たので、最後の1泊はちがうところに行こうと考えた。


行き先を悩んでいた、ちょうどその頃に出始めた「ABロード」に、イギリスのカントリー・サイド特集があった。 
これをみて、アッパーテムズの「マーロー」の田舎町と、お勧めのホテルに泊まることにした。

ヒースロー空港でレンタカーを借りる時に「何処に行くの?」と聞かれ、ホテル「コンプリート・アングラー」と答えた。
係員に、「そこは、素晴らしいよ!」と言われ、期待は高まった。

マーローの小さな田舎町に入ると、テムズ川に白い吊り橋が架かっていて対岸にホテルが見えた。
テムズ河畔の、この絵にかいたような美しいホテルに、ぼく等は感動し、大満足だった。

 このホテルは次第に、テムズ河畔でのアフタヌーンティーで有名になって行った。
  後でわかったことだが、コンプリートアングラーは作家・開高健の愛したホテルだった。
  (現:マクドナルド・コンプリートアングラー)

<ヨーロッパ病に行きたい病が・・>
・・初めての旅行で、前半に訪れたスコットランドのエジンバラからゴルフの聖地セントアンドリュース、
、フォース湾を渡り世界遺産の鉄道橋フォースブリッジを横目に見ながら北へ、そしてパッチワークのような牧草地を巡って南の羊毛の小さな町ガラシールズ、ピーブルズに。

この2日のドライブと、最終日のアッパーテムズの1日が、・・・のちに、「ヨーロッパ行きたい病」を発症させてしまった。

写真:マーローのホテル・コンプリートアングラー


kiya 投稿日:2020年05月29日 12:32 No.35
<旅の付録>

最初のヨーロッパの帰路、もう2度と来ないと思っていたヨーロッパだったが、
引き寄せられるように、それから何度も出掛けてるようになっていた。


<余韻:1>
オリエント急行の旅から16年後の2008年、ヨーロッパ旅行は、早くも25回目になっていた。
そのとき僕達は、オリエント急行と再会したいと、レンタカーでブレンナー駅に向い、峠の駅でオリエント急行を待ち伏せた。
駅の手前の駐車場の2階で、列車が来るのを待っていた。

昼を少しすぎた頃、濃紺の車体に白い屋根の列車がブレンナー峠を縫うように上がって来た。
懐かしさが込み上げてきた、そして列車が通り過ぎるのをぼんやりと見ていた。そして、駅に停車。

アッ! 列車は機動車を外すので、暫く駅に停車するんだ。
あれから16年、当時40代だった僕達も、すでに還暦を過ぎる年齢になっている事も忘れて、
ぼく達は、少年のように息を切らせて、駅に走った。
悠然と駅に止まっているオリエント急行を、ホームから眺め、懐かしくて乗組員に話しかけていた。


<余韻:2>
オリエント急行に乗ってから20年後、の2012年、ぼく達はイスタンブールに行った。
かって、オリエント急行がオリエントと言われる由縁の、イスタンブール中央駅に行って見た。
当時の待合室は、いまはレストランになっていて、入り口に「1892年,ORIENT EXPRESS」と書いたプレートがあった。


<あとがき>
     旅行は、行く・見る・食べる、買うだけでは、ガイドブックと同じだ。
     自分達の「旅の物語」が作れたとき、旅行はもっと楽しく、思い出深いものになると感じた。

写真:イスタンブールの当時の待合室、レストランの入り口の看板


素晴らしい! 雪谷旅人 投稿日:2020年05月30日 20:34 No.36
真っ白なキャンバスに絵を描くような素晴らしい旅行記ですね。ワクワクする気持を20年後にも持っている「少年のような」旅人ですね。STFには旅の達人が多くいるので,まとめて1冊の本にできれば素晴らしいですね。