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投稿者:kiya
<カルロヴォ> 翌日はわずか60km先のカルロヴォ(Karlovo)に宿泊。ここもバラの谷の一角だ。 ここで、ブルガリアの[もしもの時のお助けマン]の高田遼さんに会う予定だった家はこの近くのKAPABEAOBOという村で、ここも地図を碁盤の目にしてB-5とかで、高田さんの住む路地まで、場所を特定しておいた。 事前のメールのやりとりで、彼には「1泊とは言わず、この村に来て数日泊まってくれないか!村で現地の人達とコーラスサークルをやっているので、それも是非聞いてほしい」と、かなり積極的に誘って来た。 (とんでもない事が) しかし、この村に到着する前に、とんでもない事が起きていた。 ブルガリアに入る少し前の、ルーマニア旅行中に、作田さんという知らない女性から、1通のメールが届いた。内容は 「高田遼さんは、突然亡くなりました。」というものだった。これには茫然とするほか無かった。 そして、高田さんの奥さんはメールが出来ないので、知人の私(作田さん)が代わりにメールしました、との事だった。 高田さんは最近具合が悪くなり、バスで町の病院に行き見てもらい、そして家に戻って来た。 そして翌日、奥さんが病院に薬をもらいに行って、家に戻ると、高田さんはすでに亡くなっていた。というものだった。 これには、ぼく達もぶったまげたし、旅行に行く前に調べた、外務省情報の「 医療過疎国 」という文字が頭をよぎっていた。 たぶん、町の病院では高田さんが重病だとは、認識できなかったのだろうと、思った。 作田さんは、カルロヴォの町に住んでいるので、ぼく達の泊まるHOTEL・HANATに来てもらって、話をした。 彼女は徒歩5分程のところのマンションを借りて住んでいて、家で夕食でもどうかと誘われ、久しぶりに和食が食べられて有難かった。 だが夕食時に、作田さんといろいろ身の上話をきいた。 彼女も、高田遼さんの呼び掛けでブルガリアにやって来たのだと言う。物価が安く、預金金利が高い(当時8%台)ので、1千万円足らずの預金の利子で生活が出来るのだと言う。 彼女は、離婚して子供も相手方に渡し、天涯孤独の身なので、 残された人生をブルガリアの地で、一人で生涯を暮らすつもりだと。 この、彼女の身の上話を聞いて、妻は打ちひしがれてしまった。 翌日のコプリシティツァは、近いので、午後出発することにして、昨晩のお礼にお昼をご馳走して、作田さんとお別れした。 昨晩の話で打ちひしがれてた妻は、翌日もボーっと思いに耽っていた。 行く予定で地図を用意していたので、街道をそれて、高田遼さんの家のあるカラヴェロヴォ村(KAPABEAOBO)にに向かった。 小さな静かな村だった。家の前に行って、周りの畑を見渡した。会ったことの無い高田遼さんは、 一生この地で暮らすつもりだったんだなー! と思っていた。彼は63歳で、旅する私よりも幾つか年下だった。 (「地球の歩き方」にレポート) ・私は旅行後に、「地球の歩き方」に次のようにレポートした。・◇バラの谷で安らかに(2012年6月)◇ 4月にルーマニアを旅行中に、4月末にブルガリアでお会いすることにしていた高田遼さんんが、突然亡くなったというメールが入りました。 高田遼さんご夫婦は、10年ほど前にブルガリアのバラの谷・シプカに移住されて、ホームページも作っていました。 その後に転居して、バラの谷のカルロヴォの町から15キロほどのカラヴェロヴォという村に、家を買って住んでいるとのことでした。 どんな方でどんな暮らしをしているのだろうと、お会いするのを楽しみにしていましたが、バラの谷を訪れる2週間前に突然亡くなり、そのままカラヴェロヴォ村に葬られたと聞きました。 奥さまは葬儀のあと始末で、不在でしたが、訪問する予定で地図を持っていた私は、レンタカーでカラヴェロヴォ村を訪れ、村の端っこでその先は広大な畑が広がる高田さんの家の前で、黙とうをして帰ってきました。 リタイア後に海外に行き、そこで暮らして人生を終えるという生き方は、私には理解できませんが、 そんな方も居るのだなーと、遠く思いを馳せました。  ◇◇◇ ここカルロヴォでは、・・私は高田遼さんの話に茫然とし、 妻は、作田さんが移住した異国で、一人で、人生を終える覚悟、という身の上話に打ちひしがれた。 写真:カルロヴォのホテル・荷馬車も往来、 作田さんと、    高田遼さんの家の前で、家のある道、
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