特別快速「せんり2号」関西大学鉄道研究会OB会掲示板


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お知らせ 管理人 投稿日: 2022年07月20日 21:17:46 No.149 【返信】

 関西大学鉄道研究会OB会掲示板特別快速「せんり1号」が出発したのが2019年10月27日(日)でしたが、到着予定の2022年8月1日(月)まであと10日余りとなりました。
 会員の皆様の共同制作となった投稿内容は、管理人責任で「現役時代の想い出集」(文字色:紫)、「ここは何処シリーズ」(文字色:緑)としてまとめてこの特別快速「せんり2号」に移行しています。
 そのほか、会員の皆様が投稿された思い出深い内容を移行される場合は、カット&ペーストで簡単にできますので宜しくお願いします。


ここは何処シリーズ10 管理人 投稿日: 2022年07月20日 11:16:48 No.144 【返信】

[730] ここは何処?8
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月25日(月)18時54分6秒 通報 返信・引用

西邑 宏 様
 写真1は、和歌山市駅でしたか。貨物列車は、天王寺駅で関西本線から受け渡しされ、天王寺支線を通じて本線に入っていたため天下茶屋駅には、いつも電気機関車がたむろしていました。和歌山市駅は紀勢本線から、橋本駅は和歌山線から受け渡し可能であったことを忘れていました。
 写真2は、そうだったのですね。高架化された日付が違うのでおかしいと思っていました。
 写真3は、「東武特急色に近くなってしまいました」が、どちらも「ナニワ工機」の得意先ですのでお許しください。

 また、「ここは何処?」の写真を3点投稿しますので、返信(コメント)でお答えください。古い写真です。

 写真1は、とある国電のホームから撮りました。駅名が違いますが写っている電車の少し離れた駅が乗換駅となっており、連絡運輸を行っています。問題は両駅名です。
 写真2の機関車は、C58754です。初めて交流電化された駅を訪れ、架線柱の立派さに驚きました。現代は直流化されていますが、この駅は2023年(令和5年)度末に大きく変貌します。この機関車は、この駅から分岐する支線の客車と貨車を牽引していました。
 写真3のヒントはありません。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月20日 11:27:43 No.148
[731] Re: ここは何処?8
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月28日(木)12時56分37秒 通報 返信・引用 > No.730[元記事へ]


写真1は、阪急電車600形 宝塚線 国鉄が接しているところといえば、川西池田駅。この景色は、記憶にはありません。国鉄の池田、川西。阪急の池田、川西、雲雀丘、花屋敷。能勢電の池田、川西 の駅名変遷もよく知りません。
写真2は、敦賀駅構内。敦賀に今建設中の立派な駅。あんな立派なものがいるんでしょうか。
写真3は、山陽電車250形 道路併走時代の兵庫~長田。250形の原型の写真はあんまり見ることが無いので、嬉しかったです。
[2] 管理人 投稿日: 2022年07月20日 11:25:38 No.147
[732] Re: ここは何処?8
投稿者: GET A 投稿日:2021年10月28日(木)17時20分29秒 通報 返信・引用

快速つくばね様

写真1は、見た当初は王寺かと思いましたが、王寺駅のホームからは堰堤区間は国道25線ガードがあり、駅付近では地平になっており、電車も近鉄600に似ていますが3両編成であること、行先表示板の位置、車両NOの位置、3扉であることから違います。車輛の塗分けが無いので迷いますが、この角度で撮れるのは京阪交野線、JRは河内磐船、京阪は河内森と思います。

写真2は敦賀と思います、小浜線へはC58が走っていました。

写真3は山陽電鉄兵庫駅付近と思います。

写真1:近鉄の600型、2両目は3扉、よく似ています
写真2:敦賀でC58
写真3:兵庫駅(今は地下でこの風景はありません。)


[3] 管理人 投稿日: 2022年07月20日 11:22:36 No.146
[733] Re: ここは何処?8
投稿者: 山内崇章 投稿日:2021年10月28日(木)20時01分7秒 通報 返信・引用 > No.730[元記事へ]

快速つくばね様
写真ありがとうございます。早速答えさせて頂きます。
写真1、おそらく京阪交野線で、国鉄との連絡駅といえば河内森と片町線の河内磐船ですね。しかし、乗り換える人いるんでしょうか?ウチの母親は子供の頃守口市に住んでいて、小学校の遠足は必ず交野の方に行っていたとの事です。
車両木造車でのちに正面2枚窓の500型に更新される前ですかね(実車は私鉄電車のアルバムでしか見たことないですが)。

写真2、敦賀ですね。再来年の大変化でわかりました。最初は交流区間でSLといえば田村だろと思いました。再来年新幹線ができてどうなるんでしょうか?今は金沢乗り換えなんで大阪から来たら「新幹線まで時間あるしじゃあ途中下車して金沢市内で遊ぶか」になりますが、敦賀だとヨーロッパ軒以外観光地とか遊べる場所あるんでしょうか?

写真3、山陽電車の兵庫-長田-西代の併用軌道の区間ですね。250型も原型は私鉄電車プロファイルの絵でしか見た事ありません。820型や850型や2000型を含めて3000系が出るまでは山陽電車は前面非貫通で神戸高速鉄道開通に合わせて貫通扉が付けられましたが何故か2000型だけ(ステンレス車とアルミカーを除く)非貫通だったんでしょう。山陽電車の兵庫駅跡地はビルが建ってますが面影はまだあります。
[4] 管理人 投稿日: 2022年07月20日 11:20:50 No.145
[734] ここは何処?8(答え合わせ)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月28日(木)23時24分50秒 通報 返信・引用 編集済

 解答していただきました皆様ありがとうございます。
 写真1は、片町線河内磐船駅のホームから撮った京阪電鉄交野線の800形(初代)です。乗換駅は河内森駅ですが、近鉄を除き旧国名の『河内』が付く駅は、この二駅と河内堅上駅しかありません。国名の付かない岩舟駅は両毛線に、森駅は函館本線にあり「いかめし」で有名です。京阪電鉄で国鉄に倣った旧国名の付く駅はこの駅だけです。
 800形は、琵琶湖鉄道汽船が三井寺-坂本間延伸用に1927年に新製した車両で、既に京阪電鉄では1926年に製造した500形は半鋼製、同じ1927年に製造した600形では全鋼製となっていましたが、この車両は木造車でした。京阪電鉄に合併後、支線で高機能を持て余し順次京阪本線に移管されましたが、木造車で淀屋橋地下線開業の対応ができないことから1966年から1967年にかけて全車廃車となり、台車・主電動機をはじめとする機器は石山坂本線用として新造された350型に流用され、里帰りを果たしました。
 写真2は、敦賀駅構内です。この頃はまだ小浜線の一部の列車が蒸気機関車牽引で残っており、綾部や福知山まで運行されていました。敦賀第一機関区の配置で、第二機関区にはED70などの交流電気機関車が配置されていました。
 2年後、北陸新幹線がこの駅まで到達しますが、「サンダーバード」はどうなるのでしょうか。湖西線、東海道本線沿線にはライチョウが生息していませんので「かがやきリレー号」とでもなるのでしょうか。滋賀県の県鳥は「かいつぶり」(別名「にお」)ですが、これでは呼びにくいようです。一層のこと新快速と同様に姫路まで延長し、「しらさぎ」を名乗るとか。そうなれば現「しらさぎ」は、「きんしゃち」に変更すればよいと思います。
 敦賀の観光名所は、敦賀赤レンガ倉庫、氣比神宮(けひじんぐう)、金崎宮(かねがさきぐう)、気比の松原(けひのまつばら)などがありますが、新幹線の開業により北陸本線の敦賀-金沢間は第三セクターになり、北陸本線は米原-敦賀の短い路線となってしまいます。そこでこれらの観光地に近い廃線となった敦賀港支線を復活させ、終点駅を明治時代のように敦賀港にできないものでしょうか。敦賀港発播州赤穂行の新快速も良いですね。現在は新幹線ホームが姿を表しているようですが、5年前の敦賀駅を再掲します。
 写真3は、さすがに皆様正解です。神戸高速鉄道開通前の山陽電気鉄道、電鉄兵庫-長田間の併用軌道です。車両についての知識がありませんので割愛します。どなたかご説明ください。




ここは何処シリーズ9 管理人 投稿日: 2022年07月19日 11:10:54 No.139 【返信】

[724] ここは何処
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月20日(水)09時25分45秒 通報 返信・引用

「ここは何処」今回は関西大手私鉄。やさしいと思います。

写真1 いつもこれら緑色の電気機関車がたむろしていました。1969年(昭和44年)撮影。

写真2 川の水位が上がりそうになると、この門柱みたいなところ。から鉄の扉が出てきて、電車は不通となりました。1975年(昭和50年)高架化してなくなりました。1974年(昭和49年)撮影。こんなところが別の線ではまだ残っています。

写真3 きれいな写真でしょう。経年でカラーは褪せましたが。沿線で昔と変わらない景色が今も残る数少ない場所です。1969年(昭和44年)頃 撮影。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月19日 11:26:01 No.143
[725] Re: ここは何処?7
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月21日(木)22時25分33秒 通報 返信・引用 編集済

西邑 宏 様
 いずれも確信がありませんが、拙速にお答えします。
 写真1は、南海本線の天下茶屋駅ですか。南海天王寺支線を分岐する要衝駅で構内に車庫や天下茶屋工場がありました。
 写真2は、阪神本線の淀川-姫島間の新淀川橋梁ですね。1969年(昭和44年)3月31日 に新淀川橋梁が完成し、野田-姫島間が高架化され線路が付け替えられました。この日は大阪市電の営業最終日でもありました。個人的には、翌日から関西大学の学籍が無くなるので学生証が使用できる最後の日でした。お尋ねします。年平均で何日ほど鉄の扉で不通になったのですか。代行バスはあったのでしょうか。ところでこんな場所によく立ち入ることができましたね。
 写真3は、京阪本線の橋本-八幡町(→八幡市→石清水八幡宮)間を走る3000系に交代する直前の1900系ですね。のちの特急車両より1900系(特に写真右側先頭の1810系から編入した車両)の方が1両ずつ個性があり好きでした。西邑さんの写真を勝手に補正してみました。


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月19日 11:24:03 No.142
[726] Re: ここは何処
投稿者: 山内崇章 投稿日:2021年10月21日(木)23時00分9秒 通報 返信・引用 > No.724[元記事へ]

西邑 宏様
早速ですが答えます。
写真1、南海の天下茶屋ですか?確か昔はここに工場があったそうですが。電気機関車も見た事がありません。

写真2、阪神本線の高架前の尼崎~姫島でしょうか。電車は見た事あります。実は弟が昭和53年に武庫川の兵庫医大に入院した事があり、この頃は尼崎まで高架になってましたが急行は全部冷房で普通は逆に全部扇風機(実は1本だけ冷房車があったのはずいぶん後になって知った)でしたが前パンがカッコよかったです。

写真3、京阪本線のどこかですね。1900系の特急は新造車より1810系からの編入車の方が好きですが、写真の一番大阪よりは両運転台車ですかね。

私事ですが、鉄道コレクションを集めているのはいいんですが、動力やらトレーラー車輪やパンタグラフを買ってないので放置している状態です。能勢電の320や500や610をN化しようとしたら動力が売ってなくて困ってます。
[3] 管理人 投稿日: 2022年07月19日 11:18:27 No.141
[727] Re: ここは何処
投稿者: GET A 投稿日:2021年10月23日(土)17時30分35秒 通報 返信・引用 編集済

西邑様

 写真2は、阪神淀川でしょう、高架工事中の片線時の写真をアップします。阪神西大阪線の淀川橋梁はかさ上げ計画はありますがまだゲートが残っています。遮蔽ゲートの移動は台風接近時で並行する国道2号線もゲートが閉じられ代替えバスは運行できなかったと思います。(国道43号線は通行可能ですが)
 写真1は、後ろの景色からは判りにくいですが機関車が写っているので天下茶屋でしょう、天下茶屋車庫の写真をアップします。
 写真3は、石清水八幡宮近くと思いましたが、あまり京阪に乗っていないのでよく判りません、京阪でこんなに広く写真を撮れるとこらは木津川鉄橋付近しか知りませんでした,木津川付近の写真をあっぷします。

古い写真ばかりで、昭和後半以降の人ではさっぱり判らんとなりますので若い人の回答が出ないと思います。懐かしさもあるので新旧入れ混ぜたものが欲しいと思います。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月19日 11:14:21 No.140
[728] ここは何処7 答え合わせ
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月24日(日)13時54分51秒 通報 返信・引用

ご回答のみなさん ありがとうございます。撮影場所をはっきり特定するものが写っていないもので申し訳ございませんでした。
まず写真1は、南海電車和歌山市駅ホームでの写真です。地上時代の天下茶屋駅は記憶にないのですが、おそらくホームからは、この景色は見れなかったと思います。
先日、和歌山市駅に行きましたが、駅ビルが建て替わって斬新な市立図書館などが入るきれいな建物に変わっていました。以前は橋上からホームに降りていましたが、地平に改札ができて直接ホームに行けるようになっていました。駅ビルが取り壊されてホームだけになった和歌山市駅を見ておきたかったけど、あいにく目にしていません。

写真2は、阪神電車 高架前の杭瀬~千船。左門殿川橋梁を渡っている梅田行き急行です。後ろに見える大きな建物は、杭瀬駅前にあった中華料理店のビルです。ちょうど高架化工事が始まったところで、後ろを振り向いて梅田方面を見ると、この頁1枚目の写真です。千船駅の上り待避線1番線は、工事のため撤去。駅西方にこのような信号場を作って通過列車をやり過ごしていました。
山内さん。待避中電車は、前パン非冷房普通車ですよ。
撮影は別に危険な侵入をした覚えはありません。確か踏切があったか、道路といけいけの場所だったと思います。こっちは新淀川橋梁よりだいぶ後の架け替えになるので、この鉄の扉も長らく残りました。台風直撃予報の時は閉めていましたから、さあ2年に1回くらいは閉まりましたか。代替のバスもなかったです。振替輸送はあったかもしれません。動いていればの話ですが。
GET Aさんの淀川橋梁での写真は貴重ですね。一瞬、単線運転の時代があったのかと思いました。下り線は既に新橋梁に移っているのですね。

写真3は、皆さんご指摘の京阪電車 八幡町~橋本 の1900系特急です。
今も変わらない景色と書きましたが、実際は多々変化があります。家が増えました。八幡町は臨時出札の業務をしに行ったり、いろいろ懐かしい駅です。
つくばねさんの補正ありがとうございます。東武特急色に近くなってしまいましたね。GET Aさんの写真にある勾配の下からの写真貼っておきます。




ここは何処シリーズ8 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:15:10 No.128 【返信】

[713] ここは何処
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月 9日(土)10時15分56秒 通報 返信・引用

「ここは何処」今回は難しいですよ。ここは何処というより前にそもそも何という鉄道会社かを考えてもらわなくてはなりません。
いずれも今は無き鉄道です。
写真1 後ろの山がヒントです。塗色は水色と薄クリームのツートン。
    電車です。
    1965年(昭和40年)11月21日撮影
写真2 今は別会社が新線で営業
    キハ04の成れの果て。
    1969年(昭和44年)頃 撮影
写真3 撮影した記憶がないので、人から貰った写真かも知れません。
    キハ04の成れの果て。撮影場所が分かりません。教えてください。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:41:31 No.138
[714] Re: ここは何処
投稿者: 増田純一 投稿日:2021年10月10日(日)11時54分2秒 通報 返信・引用 > No.713[元記事へ]

西邑様

全く判りません。難し過ぎる!

写真1 後ろの山がヒントです。塗色は水色と薄クリームのツートン。
    電車です。
    1965年(昭和40年)11月21日撮影
 これは、淡路交通ですね。

 写真2、写真3は、ギブアップです。

写真1の画像のカラー写真添付します。     


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:39:19 No.137
[715] Re: ここは何処
投稿者: 山内崇章 投稿日:2021年10月10日(日)12時26分10秒 通報 返信・引用 > No.713[元記事へ]

西邑 宏様
この当時まだ生まれてませんが、ヒントを頼りに答えさせていただきます。
1枚目は淡路交通、色はこんなのというのは話では聞いてました。というか淡路島に電車が走っていたという事は、神戸鳴門ルートがもっと早く開業していたら国に買収されて今頃大阪~淡路島~鳴門~徳島~高松を結ぶ列車が走っていたかもしれませんね。今もバス会社として盛業中ですが、昔家の近所の豊中市清風荘に車庫がありました。

2枚目は、横に新線ができたという事は、北丹鉄道ですか?あそこも廃止後宮福鉄道(のち北近畿タンゴ鉄道→京都丹後鉄道(ウィラートレインズ))ができてます。流石に江若鉄道も思いましたが横琵琶湖じゃなさそうですし。

3枚目、わかりま線。※ドラえもんでよく似たネタがありました

そういえば国鉄から三等級制が事実上廃止になる昭和35年5月31日、一等乗車券を買い求める鉄道ファンがいたようで、東京では東京-品川の乗車券を発売したそうですが、大阪ではどうだったんでしょう?
[3] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:37:33 No.136
[716] Re: ここは何処
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月10日(日)16時41分23秒 通報 返信・引用

西邑 宏 様
 難問ですね。今回はどの会社にも乗車したことがありません。記憶とネット上の捜査で頑張ってみました。
 写真1は、淡路交通ですね。お互いが1年次生の時に例会で淡路交通の写真を見せてもらったのを覚えています。塗色と車両でわかりますが、山の名前が分かりません。グーグルアースのストリートビューで廃線跡を辿ったのですが、洲本を出発してすぐにそれらしい山容を発見したのですが、淡路島の土地に不案内のため山名が分かりません。ひょっとしてこれが駅名にあった先山という山でしょうか。教えてください。
 写真2と写真3は、キハ04を頼りに私鉄に譲渡された会社を調べました。後は、それぞれが駅に停車しているので、駅の配線図で調べようとしたのですが、昭和40年代に廃線となった会社のものは情報がありませんでした。次策としてYouTubeの前面展望を探してみました。ただ画像撮影時点と動画撮影時点が異なるので想定しかできませんでした。
 写真2は、国鉄から1965年にキハ04 28の払い下げを受けキハ101と附番した会社は、「北丹鉄道」ですね。この鉄道は途中駅に交換設備がなく、起点の福知山と終点の河守駅には機回し線がありました。どう見ても福知山駅ではないので、河守駅ではないでしょうか。
 写真3は、1950年に国鉄のキハ41057を譲受し、キハ3001と附番した会社は、「同和鉱業片上鉄道」で、1967年にキハ301に改番しています。では何処の駅かということですが、起点(片上駅)、終点(棚原駅)や国鉄との接続駅であった和気駅ではないようです。廃線直前の同鉄道には、列車交換可能駅として天瀬駅、備前矢田駅、備前塩田駅、吉ヶ原駅の4駅ですが、この中に上下線の間に中線があるのは備前矢田駅のみでした。備前矢田駅の可能性が高いのですが自信がありません。
 旧吉ヶ原駅は、駅舎より片上方の線路の配線を一部変更して復元し「柵原ふれあい鉱山公園」の一施設となりました。展示運転用の車両の中に僚機のキハ303(旧番号キハ3003←国鉄キハ41071)が活躍しています。整備・動態保存されている気動車としては現役最後の国鉄キハ41000形であり、動態で保存されている気動車の中で日本最古の車両となっています。
[4] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:35:03 No.135
[717] ここは何処 答え合わせ
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月10日(日)18時26分5秒 通報 返信・引用

ご回答の各位。 ありがとうございました。難問で恐縮です。

写真の1は、1966年(昭和41年)廃止の淡路交通鉄道線 先山駅付近で撮影。
母の里が淡路島でしたので何回か訪れました。阪神電車から600形2両が嫁いでいましたので、それを見たさに乗りに行ったものです。次に貼る写真1がそれです。後ろの山が駅名の先山です。淡路島一の高い山です。中の扉から飛び出しているのはなんでしょうね。

写真の2は、1971年(昭和46年)休止。1974年(昭和49年)廃止の北丹鉄道です。終点河守 (こうもり と読みます)で撮影。駅の風景を写真2に貼ります。いろいろ経緯があって新線建設、鉄道会社名も色々かわり、現在は京都丹後鉄道宮福線。さきの淡路交通は、最後まで鉄道施設、電車保守、社員士気など立派なもので、いかにも鉄道というものでした。島民から惜しまれての廃止でしたが、こっちの北丹鉄道は、もうぼろぼろ。乗るのが怖いというしろものでした。

写真3は、同和鉱業片上鉄道の気動車3001。国鉄から譲渡直後の写真かと思うのですが、どうも貰った写真らしく、よくわかりません。現在、同鉄道の保存車両のなかに似たのがあって、それかと思います。今一度 鉄道、車両、場所 おわかりになればお知らせをお願いいたします。この会には、探偵ナイトスクープみたいなお方がおいでになるので、非常に心強いです。


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:30:13 No.134
[718] Re: ここは何処 答え合わせ
投稿者: GET A 投稿日:2021年10月11日(月)18時55分57秒 通報 返信・引用 > No.717[元記事へ]

西邑様

 写真3は岡山臨港鉄道のような気がします。ホームの黒い建物、ポイントの位置から撮った角度は違いますが南岡山のように思えます。

写真1:南岡山
写真2:3001ヘッドライトが少し違います、昭和43年の写真です。
写真3:丹後海陸鉄道キハ101、福知山駅近くです。 


[6] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:25:43 No.133
[719] Re ここは何処 答え合わせ
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月12日(火)12時10分12秒 通報 返信・引用

GET A様
写真3 GET A様のお見立てが正しいようです。すごいですね。
GET A様の探偵力に敬服いたします。岡山臨港というと鉄コレにある派手な塗色の5001と7002に頭がいって、こいつにはまったく思いが至りませんでした。
ヘッドライトは、改造がしやすいのか、一番さわられるところですね。
場所を変えたり、形を変えたり、電球を変えたり。
[7] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:23:59 No.132
[720] Re: ここは何処 答え合わせ
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月12日(火)15時14分2秒 通報 返信・引用 編集済

GET A様
 脱帽です。写真3は、「同和鉱業片上鉄道」でなく「岡山臨港鉄道」で確定ですね。「同和鉱業片上鉄道」と推定しながら、列車交換駅から必ず山が見える筈ですが、写真に写っていないことが腑に落ちませんでした。これが終点岡山港駅一つ手前の南岡山駅であれば山が写らなくても当然ですね。この車両が一時期、江若鉄道からの譲渡車キハ5001(キハ12)、5002(キニ13)と同一線路を走っていたわけですね。
 キハ04を頼りに私鉄に譲渡された会社を調べましたが、国鉄が製造しなかったキハ04がありました。このような車両は、樺太から九州まで全国9社で製造されたようです。
 戦時買収でのちに国鉄津山線・吉備線となる中国鉄道(日本の)が1937年に鉄道省キハ41000形と同一車体を持つガソリンカーキハニ200を加藤製作所で製造しました。その後、一旦国鉄に移管されましたが、廃車後、幡生工機部内にあった中国工業でディーゼル動車に改造整備されたものを「岡山臨港鉄道」が購入しキハ3001に改番したようです。
 この車両の特徴は、前面幕板部に取り付けられている前照灯ですが、車番は通常の腰板部に書かれています。「同和鉱業片上鉄道」の車両は、前照灯は一般的な前面屋根部分に取り付けられていますが、車番は幕板部に書かれていて、扉はすでにプレスドアーに付け替えられています。
 写真1は、和気駅に停車中の「同和鉱業片上鉄道」のキハ3001です。写真2は、多分GET A様と同じ日に撮った「北丹鉄道」の福知山駅停車中の「元南海電鉄の変な電車」です。いずれも隣に見える国鉄の山陽本線、山陰本線のレールと比べると社線の脆弱さがよく分かります。


[8] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:21:08 No.131
[721] Re: ここは何処
投稿者: GET A 投稿日:2021年10月13日(水)18時01分25秒 通報 返信・引用 > No.715[元記事へ]

>山内様
>
> そういえば国鉄から三等級制が事実上廃止になる昭和35年5月31日、一等乗車券を買い求める鉄道ファンがいたようで、東京では東京-品川の乗車券を発売したそうですが、大阪ではどうだったんでしょう?

3等がなくなり、その後1等車がグリーン車に変わりましたが昭和40年に大阪~新大阪間の1等乗車券を買いました。印刷したものが無くて手書きのものでした、税金込みで40円。写真の右端のものです。京都近郊、名古屋~京都間は硬券が発行されていました。
3等の切符も入れています。大阪~天満は2等になってからも10円で乗れました。


[9] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:19:46 No.130
[722] Re: ここは何処
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月15日(金)18時55分31秒 通報 返信・引用 編集済

山内崇章 様
そういえば国鉄から三等級制が事実上廃止になる昭和35年5月31日、一等乗車券を買い求める鉄道ファンがいたようで、東京では東京-品川の乗車券を発売したそうですが、大阪ではどうだったんでしょう?

 題名から脱線しますが、鉄道の等級制の蘊蓄です。鉄道開設時からの話は長くなりますので、ここでは1950年以後の話とします。
 戦後の小説で『元祖乗り鉄』の内田百閒は、鉄道に乗ることのみを目的として全国の鉄道旅行を行いました。これを「阿房列車」の三部作シリーズに著されましたが、太平洋戦争後の鉄道が戦前の運行水準を回復しつつある1950年から1955年にかけての話です。優等車好みの百閒は優等列車が走っている区間には優等列車に乗りましたが、当時は三等級制が敷かれ特急の一等展望車が走り、急行には一等寝台車が連結されていました。(当時の北海道を除く国鉄の状況が分かりますので一読をお奨めします)
 といっても一等車を連結していたのは、客車時代の東海道本線の特急「つばめ」・「はと」の一等展望車「マイテ」と全国の長距離急行に連結された一等寝台車「マイネ」他のみでした。しかも一等寝台は利用不振のため1955年に廃止され、二等寝台に格下げされました。1960年6月1日に東海道本線の特急「つばめ」・「はと」が電車化される直前の一等車は、両列車の展望車だけでしたが、定期列車での一等展望車の運用が終了したことにより同年7月1日から一等・二等のみの二等級制に移行しました。
 等級を格上げしたのですから、用途記号は新一等車が「イ」、新二等車が「ロ」となるべきところ、一斉に変更するには手間と費用が掛かるため、一等車を「ロ」、二等車を「ハ」に変更しました。(つまりそのままにしたということです)
 因みに三等級時代最終時期は、運賃も、急行料金(特急料金・普通急行料金・準急料金)も等級別に異なる体系を持っていました。三等運賃・料金を基準とすると、二等運賃・料金はその2倍、一等運賃は三等の4倍、一等特急料金は三等の3倍でしたが、さらに贅沢税として当時は一、二等運賃・料金には通行税2割が課せられていたので、それを加算した金額になりました。(当初は外税、最終期は内税)
 また切符の色も等級別に異なっており、国鉄では客車の帯の色から一等は「白切符」(実際には黄色)、二等は「青切符」、三等は「赤切符」と呼ばれていました。
 さて、ここからが本題です。国鉄は乗車できない区間の乗車券は発売しませんでした。したがって城東線の大阪-天満間の一等乗車券は買うことができませんでした。大阪から特急列車の次の停車駅は、京都でしたので大阪-京都間の乗車券は買えたと思います。東京の場合は、次の停車駅は横浜ですから東京-品川間の一等乗車券を発売したというのは、東京鉄道管理局の特別の計らいでなかったのでしょうか。
 二等乗車券(1960年7月1日以降は一等乗車券、1969年5月10日以降は普通列車グリーン券)を購入できた区間は、京阪神地区に限定すると、1951年11月に京阪神緩行線にクロハ69が組み込まれたので、京都-西明石の停車駅相互間で発売されるようになりました。1961年には、京阪神快速(米原-姫路間)に一等車(のちのグリーン車)が連結され、この区間でも二等乗車券(のちの普通列車グリーン券)が発売されましたが、1980年10月1日の改正でグリーン車の連結が中止されたので関西地区から自由席の普通列車グリーン券は消滅しました。
 なお1960年代は、まだ長距離の普通列車が運転されており、東京-大阪間を運転する143列車などには「スロ51」などの一等車が連結されていたことは周知のとおりです。GET A様の投稿された一等乗車券は、すべてこの区間に含まれています。


[10] 管理人 投稿日: 2022年07月18日 11:17:14 No.129
[723] (無題)
投稿者: 山内崇章 投稿日:2021年10月17日(日)18時40分29秒 通報 返信・引用

GET A様
快速つくばね様

解説ありがとうございます。物心ついた時には既に普通運賃の時代だったので等級制の時代はまた興味があります。一等寝台が二等寝台に格下げされたのが、当時の金持ち階級で一等車の利用者が「同じ運賃だったら飛行機の方が早いからそっちにしようぜ」と流れ始めて危機感を抱いた国鉄が格下げに踏み切って二等寝台ABC(それぞれ個室・開放(プルマン)・非冷房車一切合切)にしたというのは聞き及んでました。しかし、京阪神緩行線のクロハ69や京浜東北線のクロハ16・クロハ55の利用者はどれくらいいたのでしょう。
内田百閒の本は一度読んでみます。

ただモノクラス制になったおかげでラガールとかのプリペイドカード改札や鉄道系ICカードが一気に普及したとも言えるかもしれません。因みに船は今も1等2等になっている路線もある様ですが、国内線の飛行機は普通運賃プラス特別料金(日本航空の国内線ファーストクラスはファーストクラス運賃ではなくてあくまでも普通運賃(割引含む)にファーストクラス料金を別途加算という仕組みだそうです)です。


ここは何処シリーズ7 管理人 投稿日: 2022年07月17日 14:59:38 No.122 【返信】

[705] 5.ここは何処
投稿者: GET A 投稿日:2021年 9月29日(水)19時07分1秒 通報 返信・引用

快速つくばね様のご要望により投稿します。
いずれも大阪市電のもので懐かしいものばかりです。
写真1:停留所の手前で乗客は降りています、今では考えられない光景です。
写真2:人通りが多いですが、今では地下通路が一般的です。
写真3:この写真の左側に阪神北大阪線が来ていました。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月17日 15:18:13 No.127
[706] Re: 5.ここは何処
投稿者: 増田純一 投稿日:2021年 9月30日(木)16時22分2秒 通報 返信・引用

GETA様

快速つくばね様の要望を取り入れての挑戦状に解答してみます。

写真1 大阪駅前 4号系統ですか?難しい!
写真2 阪急東口 阪急百貨店から阪急東商店街への横断歩道前です。         守口系統の市電の発着場所
写真3 天神橋六丁目(通称天六)後ろのビルは阪急共栄ビル、阪急千里山線が2階から発車していました。小生、大学1~2回生頃、地下鉄御堂筋線がまだ長居まで来ていなかったので国鉄(現JR)阪和線長居から天王寺経由天満まで乗車し、有名な商店街歩いて、阪急天神橋駅に、そこから大学前(現関大前)まで通っていました。

皆で、続編も作って行きましょう。
[2] 管理人 投稿日: 2022年07月17日 15:15:13 No.126
[707] ここは何処
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月 1日(金)10時48分58秒 通報 返信・引用

GETA様
私も回答させていただきます。
写真1 左に折れると大阪駅前 左端に見えるのは旧曽根崎警察署の立派な建物右下に見える手すりもヒントになりました。少し難しかったね。かなり考えました。

写真2 阪急東口 阪急百貨店と富国生命ビルの間。いずれも旧ビル    曽根崎警察署からの写真ですか。何か用事あったん?

写真3 天神橋六丁目(通称天六)。トロリーバスも、阪神北大阪線の停留所も見える懐かしい写真。それはそうと新京阪の駅ビルはじめ京都線の路線上の資産、デイ100はじめとする電車資産について、京阪は阪急からなにがしのお金をもらったのでしょうか?

私も、「ここは何処」に3枚投稿します。答えを先に言っておきます。誰でもわかる国鉄大阪駅です。その変貌ぶりに驚いてください。
1枚目は 大阪駅神戸方 特急へいわ こんな特急あったんや 1962年(昭和37年)1月14日
2枚目は 大阪駅京都方 特急はと 確か第XXと複数あったと思うが 1961年(昭和36年)10月1日
3枚目は 大阪駅神戸方 特急はと 横に居るのはEF14やねえ。1962年(昭和37年)1月14日


[3] 管理人 投稿日: 2022年07月17日 15:11:59 No.125
[708] Re: 5.ここは何処
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月 1日(金)15時04分11秒 通報 返信・引用 編集済

GET A 様
 出題有難うございます。解答いたします。

写真1:難しいです。ヒントが無いと分かりません。大阪市営バスの塗色が懐かしいですね。

写真2:阪急東口だと思います。ヒントは右側ビルのシネラマと掲示されている「OS劇場」です。子供会の催し物で「砂漠は生きている」を観た記憶があります。確かこの辺りの地下にあった喫茶店「アメリカン」?で、何回か「持ち出し例会」をやった覚えがあります。

写真3:ここは「天神橋六丁目」交差点ですね。増田会長と同様に通学時にたまに気が向いたら京橋-天満…(天神橋筋商店街徒歩連絡)…天神橋(現、天神橋筋六丁目)-関大前で通学していました。京橋-大阪・梅田-関大前と所要時間はほとんど変わらなかったと思います。大阪万博に水を差した1970年4月8日夕刻に「天六ガス爆発事故」が起こったのもこの近くですね。トロリーバスも懐かしいです。

 私も、大阪市電の写真を一枚貼り付けます。車両は2201形、23系統(港車庫前-川口町-北浜二-京阪東口-東野田-都島本通-都島車庫前)のようです。撮影場所が分からないので教えてください。

 ついでに江若鉄道時代の関東鉄道譲渡車の車内の写真がありましたので貼り付けます。一枚はキハ5121の運転台です。二枚目はハ5010の車内です。いずれも1966年10月16日に三井寺下機関区で撮影したものです。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月17日 15:08:24 No.124
[709] Re: 5.ここは何処
投稿者: GET A 投稿日:2021年10月 3日(日)15時47分57秒 通報 返信・引用 編集済

ご回答の皆様有難うございます。
昭和40年代の写真で60歳以下の方は見たことも無いと思います。

(写真1)は、大阪駅前(阪神前)、停留所に電車が入っていると、発車するまでポイントの手前で停車して乗客を降ろしていました、大阪市電は乗降場が殆ど設置され、百済等の終点他一部の停留所は阪神国道と同じく白線だけの所が有りましたが大阪駅前は立派な停留所が有りました。
4系統で阿部野橋~大阪駅前まで1時間ぐらいかかっていましたが、運賃は20円でした。
写真1:当時の大阪駅前停留所(阪神前から)
写真2:現在の風景

(写真2)は、阪急東口です、守口市まで走っていました、写真は当時の阪神百貨店屋上からのものです。

(写真3)は、天六(天満橋6丁目)、トロバスも走っていました。

快速つくばね様
左に停留所が写っているのでもう少し鮮明なら判ったと思います。
当時の写真を見ると、住友銀行が写っているので本田(ほんでん)1丁目と思います。
写真3:本田1丁目、港車庫行き


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月17日 15:04:46 No.123
[711] Re: 5.ここは何処
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月 5日(火)21時15分29秒 通報 返信・引用 編集済

GET A 様
左に停留所が写っているのでもう少し鮮明なら判ったと思います。
当時の写真を見ると、住友銀行が写っているので本田(ほんでん)1丁目と思います。

 よく分かりましたね。思い出しました。この電停の近くにアルバイト先のお得意がありました。住友銀行の前の食堂のエビフライ定食は格安で美味でした。55年前の話ですが。

西邑 宏 様
 ご無沙汰しています。大阪駅の写真ありがとうございます。3枚の写真を調べているうちにいろいろな出来事が整理でき、新しい発見もありました。
 1961年(昭和36年)10月に「サン・ロク・トオ」と呼ばれる大規模なダイヤ改正が行われ、全国各地で優等列車が大増発されました。このとき、山陽本線は三原駅まで電化されましたが、昼間の特急列車としては、「かもめ号」がキハ82系を用いて気動車化され、共通運用として大阪-広島間に「へいわ号」、大阪-博多間に「みどり号」が新設されました。
 この時刻改正では山陽本線の他、全国にキハ82系を使用した非電化区間の特急ネットワークが張り巡らされました。「まつかぜ号」(京都-福知山線経由-松江)、「ひばり号」(上野-福島経由-仙台)、「つばさ号」(上野-山形経由-秋田)、「白鳥号」(大阪-直江津経由-上野・青森)、「おおぞら号」(函館-室蘭本線経由-旭川)などです。
 翌1962年6月 広島駅まで電化が延伸され、東京-大阪間を運転していた特急「つばめ号」2往復のうち1往復が広島発着となり、代わりに同一時間帯を走っていた「へいわ号」が運転開始からわずか8カ月で廃止となりました。つまりこの写真は、8カ月の間に撮られた貴重なものです。このとき151系の「つばめ号」は、瀬野-八本松間の急勾配を出力不足のため自力で登ることができず、上り列車においてはEF59形などの補助機関車を連結して登坂していました。
 11番ホームのない時代の大阪駅の写真を初めて見ました。11番ホームは、雷鳥が設定される2年前、北陸トンネルが開業したのと同じ時期の1962年10月1日より東海道本線上り方面の列車が増えるのを見越して供用が始まったようですね。それにしても2枚目の撮影場所によく入れましたね。今なら「列車非常停止警報装置」が作動し、近辺の列車は防護無線を受信して緊急停車し、周辺の信号機がすべて赤に変わり、翌日の新聞に中学3年生が大阪駅線路内に立ち入り身柄確保と大きく報道されますね。
 撮影日が1961年(昭和36年)10月1日とありますが、この日は日曜日でまさに時刻改正当日であったのですね。私などは新聞や雑誌で知ったほどでまさに遠い世界の出来事でした。「はと号」もこの日から新設登場しましたが「つばめ号」を増発する形となったため、ホーム上に少し雰囲気がありますが、寂しい出発式ですね。たぶん「白鳥号」や「みどり号」は盛大に行われたと思います。
 この先頭車は連結器の上にチャンピオンマークを付けたクハ151-3または4ですね。1959年7月27~31日に151系を使用して高速度試験を東海道本線金谷-藤枝間の上り線で行い、31日に202 km地点付近で163 km/hという当時の狭軌鉄道の世界最高速度を記録し、その功績を讃え本試験に充当されたクハ151-3・4の前頭部にチャンピオンマークが付けられ、181系に改造されてからも廃車直前まで残っていました。また、その記録達成場所の付近に後年開業した六合駅付近には、1995年に「狭軌最高速度記念碑」が立てられ、今も駅ホームの周辺案内にも出ていますが、一般の人は誰も意味が分からないと思います。
 1962年の時刻表が手元にあったので調べてみました。大阪から発車する東海道本線の上り特急列車は臨時の2本の「ひびき号」を除き7本あり、発時刻順に07:00発2M「第1こだま号」、08:00発2006M「第1富士号」(神戸始発)、09:00発4M「第1つばめ号」、13:00発6M「はと号」、14:30発2004M「第2つばめ号」(広島始発)、15:30発2002M「第2富士号」(宇野始発)、16:30発8M「第2こだま号」となっていました。

*画像1.:大阪市電廃止記念乗車券4枚組。廃止時点の運賃は25円。
*写真1:1964年9月の東淀川-(新大阪)大阪間を走る「第2つばめ号」です。どうしてつばめ号のヘッドマークだけは、ローマ字部分がグレーになっていたのか今でも疑問です。向こう側の高架橋は1カ月後に開業する新幹線です。




ここは何処シリーズ6 管理人 投稿日: 2022年07月16日 10:57:04 No.114 【返信】

[692] ここは何処?4
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 9月 6日(月)16時23分21秒 通報 返信・引用 編集済

GET A 様
 失礼しました。機番とヒントから分かるだろうと思っていました。
 今回は、関西とGET A様が訪問されたことのある東日本です。時代はいずれも昭和40年代(1965~1974)です。

 写真1は、現在地下駅になっています。
 写真2は、後追い写真ですが、最後尾のクハ79は戦争中にクハ58形から4扉に改造されたもののようです。
 写真3は、ここから先の本線は、現在廃線となってしまいました。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月16日 11:28:13 No.121
[693] Re: ここは何処?4
投稿者: GET A 投稿日:2021年 9月 9日(木)18時56分51秒 通報 返信・引用 > No.692[元記事へ]

快速つくばね様

1枚目入線してくるのは近鉄700のようです、近鉄で地下化された駅は難波、奈良でしょうが、手前に京阪らしき電車があるのと、近鉄が2両ですので相互乗り入れをしていた京阪三条と思います。
2枚目はあまり好きでない73型で関東、景色も特色もなく、さっぱり判りません私が東京に行ったのは1968年が初めてでそんなにあちこちも行っていないのと他のOBもいろんな年代がおりますので多くの人の回答出来るものが欲しいものです。
3枚目もよく判りませんが、機関車が多く映っているので横川かと思います。
増田さんならわかると思います。
横川も2013年に碓氷峠鉄道文化村に行ったのが初めてです。

写真1:1966年近鉄線を走行中の京阪1000
写真2:2013年横川でのC61
写真3:1975年地下化前の七条3000


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月16日 11:25:09 No.120
[694] Re: ここは何処?4
投稿者: 山内崇章 投稿日:2021年 9月 9日(木)21時11分46秒 通報 返信・引用 > No.692[元記事へ]

快速つくばね様
貴重な写真ありがとうございます。
1枚目は地上駅時代の近鉄奈良(820系が写っている)かと思ったら確か奈良駅を出たらすぐ道路上に出るので、京阪三条でしょうか。横にしれっと京阪1900系の新造車グループが写ってますし。確か昔は近鉄奈良ー京阪三条、近鉄京都-京阪宇治で直通運転していた様ですね。
※一体何歳なんだというツッコミは無しでお願いします

2枚目は山陽本線、今でいうJR神戸線の鷹取ー明石のどこかでしょうが、最後尾のクハ79はクハ58の戦時改造車で、さらにこの時代に急行札差しが残ってますね(飯田線や身延線で活躍していた関西省電から転入した車両で残っていた車両にもごく一部あったようです)。3両目はクハ55のノーシルノーヘッダーで4両目はクモハ73かモハ72の全金属車に見えますね。
戦前の省電はモハ40系列(17M車のモハ33と34含む)以降には車両中央部にささやかながら行先方向幕が設置されて、電車のアルバムによれば関西では活用されていた様です(戦時中いつしか使われなくなったと思われます)。クモハ31では撤去されず残っていた車両もあった様です。
※一体いつ産まれたんだというツッコミは無しでお願いします。

3枚目は碓氷峠の横川ですね、ただし行ったことありません。
[3] 管理人 投稿日: 2022年07月16日 11:21:50 No.119
[695] ここは何処?4-1
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 9月11日(土)16時16分20秒 通報 返信・引用 編集済

GET A 様
山内崇章 様

 正解です。京阪電鉄の三条駅です。駅名が京阪三条でなく三条であることを初めて知りました。信越本線や高松琴平電気鉄道琴平線と同じですね。この写真は、特急1900形が停車している2番線の3番線側のホームから、近鉄奈良発の近鉄820系電車が4番線に入線するところを撮りました。
 直通運転(相互乗り入れ)の歴史は明治時代に遡りますが、戦後いち早く1945年12月21日に丹波橋駅を介して京阪神急行電鉄京阪線(現、京阪本線)と奈良電気鉄道線(現、近鉄京都線)が直通運転を開始しました。1963年10月1日に近鉄が奈良電気鉄道を合併して京都線となり、近鉄の電車が三条まで乗り入れるようになりましたが、近鉄側の架線の昇圧、ATCの変更などの理由により1968年12月20日をもって京阪本線・宇治線-近鉄京都線・奈良線の相互直通運転が廃止となりました。結果として近鉄電車が三条に乗り入れていたのは約5年間でした。
 三条駅のホームは、特急が有効長の長い2番線を使用し、急行が3番線を使用していました。特急の途中停車駅は、北浜、天満橋、京橋、七条、四条の5駅で、20分ヘッドで運転していました。途中で急行を追い越さなかったため、淀屋橋、三条とも急行が先着し、直後に入った特急が折り返し先発してから、急行が次発となるダイヤになっていました。三条駅では、この時急行に乗車するための構内踏切を特急が塞いでしまうため、特急は両側のドアを開け車内を通って急行に乗車していました。特急が発車する直前に、「右側のドアが閉まります」と車掌が案内し、暫くしてから発車合図と同時に左側のドアを締め発車していました。冬の京都は鴨川を渡ってくる風が車内を通り抜け、二つドアといえ寒かったことと思います。
 1番線は京津線の6番線との連絡線がありましたが、有効長が短かったため、淀屋橋行や京阪宇治行の普通列車専用となり、4番線は近鉄の乗入列車や準急が使っていました。

「京阪特急」(天満橋から三条へ)https://www.youtube.com/watch?v=kwNktX-PtwE
YouTubeに色々なバージョンがありますが、これが一番好きです。画像は1900形でなく3000形ですが。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月16日 11:11:16 No.118
[698] Re: ここは何処?4
投稿者: 増田純一 投稿日:2021年 9月13日(月)16時03分5秒 通報 返信・引用 > No.692[元記事へ]

写真1は、京阪三条駅の地上時代ですね。

写真2は、山陽本線須磨~塩屋間、須磨浦公園辺り、後ろの上に山陽電車の信号機も写っています。

写真3は、信越本線の峠道 横川機関区を左に見て軽井沢へ登って行く下り列車ですね。

私の撮ってある写真を添付します。
なんせ今から50年程前の写真です。腕も下手ですしカメラも性能が悪くて見にくいですが笑覧下さい。


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月16日 11:08:15 No.117
[701] ここは何処?4-2
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 9月14日(火)22時22分51秒 通報 返信・引用

GET A 様
山内崇章 様
増田純一 様

 答えは、ご指摘通り山陽本線の須磨-塩屋間です。現在の須磨海づり公園の建物がある付近です。
 モハ42グループを戦時改造で4扉化した形式は、関西地区の急電を種車にして吹田工機部、鷹取工機部で改造され、改番後最終的に片運のクモハ31、両運のクモハ32、クハ79(79031~79056欠番あり)となりました。戦後の一時期一部の車両が都落ちして、東ナハ、千ツヌに転属しましたが、田舎の水に馴染めず、すぐに関西地区に舞い戻り、最終的に全車大タツ、大ヨトで廃車になりました。
 それにしても山内崇章さんは、省線電車のことをよくご存じですね。その時代を見ていたようなコメントです。私も戦後生まれですが運輸省鉄道総局が独立採算制で国の公共企業体の日本国有鉄道になったのが1949年6月1日ですので、この時、省線電車から国電に変わりました。私も省線電車に乗った経験はありませんが、高校、大学時代は通学時に片町線のクモハ31、クモハ32、クハ79に乗車していました。
 国鉄の複々線区間は、関東地区は列車線と電車線が分離する線路別複々線、関西地区は方向別複々線が基本ですが、理由は分かりませんが山陽本線の新長田-西明石間は線路別複々線になっています。ここで電車が右から二番目の線路を逆行しているのでこの場所は、この区間になります。また左側の上方に鉄道の信号機が見えますが、関西の複々線区間(この時点では京都-西明石間)で私鉄が並行している区間があるのは阪急京都線・神戸線と山陽電鉄本線だけです。
 同日に撮影した画像の一部を貼り付けます。

*写真1:EF58の牽引する下り荷物列車です。
*写真2:宇野線大元駅に甲種輸送される江若鉄道のキニ13(前位)とキハ12
 江若鉄道は1969年11月1日 に全線廃止となり、同時に国鉄の浜大津-膳所間の貨物営業も廃止されました。このうちキハ12とキニ13は岡山臨港鉄道へ譲渡され、キハ5001とキハ5002になりました。この日貨物列車を撮影していると、偶然最後尾にこの2両が連結され甲種輸送されているのが撮影できました。関東鉄道にも総括制御化された5両が譲渡されましたが、同様に東海道本線を上り、山手貨物線を通過して常磐線取手駅まで回送されたようです。新宿駅を通過する江若鉄道の脆弱な車両を見てみたかったです。
*写真3:山陽電鉄須磨浦公園駅で折り返す阪神電車の本線特急梅田行


[6] 管理人 投稿日: 2022年07月16日 11:04:20 No.116
[702] Re: ここは何処?4-2
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 9月16日(木)18時55分20秒 通報 返信・引用 編集済

 追記します。
 この時、どうして須磨に行ったのか思い出してみました。社会人一年生で東京から大阪に帰省する時、大阪市内往復より601キロ以上の往復割引1割引が適用され当時の運賃で160円安くなる東京都区内-垂水(602.6キロ)の乗車券を購入し、須磨で途中下車をしました。最近、長距離のノーマルな乗車券を購入することは滅多にありませんが、現在は垂水が神戸市内駅になったため、神戸駅で算出され往復割引は効きません。東京都区内を発駅として明石市内に入る朝霧(606.5キロ)~御着(640.0キロ)間を着駅として往復乗車券を購入すると大阪市内往復より200円、神戸市内往復より1,300円安くなります。
 同様に大阪市内から東京都区内を考えると601キロ以上の駅を着駅として往復乗車券を購入すると安くなる場合があり、大阪から東京までの営業キロ程は556.4キロですので、601キロ以上に適用される往復割引にするためにはあと44.6キロ以上先の駅を着駅にする必要があります。東京を通り越して合計が601キロ以上になる駅は、時計回りに中央本線・八王子、青梅線・牛浜、川越線・川越、高崎線・北本、東北本線・新白岡、常磐線・藤代、成田線(我孫子支線)・新木、総武本線・四街道、外房線・鎌取、内房線・浜野の10駅(武蔵野線などは一部省略)になります。
 現在本州3社の遠距離低減制の普通運賃は、東京-大阪間の営業キロは556.4キロですので、541~560キロの8,910円が適用されます。これ以上の601キロまでの運賃表を整理すると、

営 業 キ ロ  片道運賃   往復運賃  有効期間  適   用
541~560キロ  8,910円  17,820円  4日間
561~580キロ  9,130円  18,260円  4日間
581~600キロ  9,460円  18,920円  4日間
601~640キロ  9,790円  17,620円  5日間   往復割引適用
*有効期間は、片道の場合で往復の場合は2倍になります。

となります。例えば大阪市内から立川、大宮、取手、千葉への乗車券を往復で購入する場合は、片道9,460円の区間ですから、往復で18,920円となりますが、その先の駅で購入すると17,620円で1,300円安くなり、往復で有効期間が2日増え、順路であれば東京都区内の途中下車も可能になります。
 さらに601キロを超えると営業距離の区切りも20キロから40キロになりますので、実際は東京から83.6キロ先のもっと遠距離まで行けます。具体的には鳥沢(中央本線)、岡部(高崎線)、小山(東北本線)、高浜(常磐線)、松尾(総武本線)、上総一ノ宮(外房線)、君津(内房線)などです。制度には矛盾がつきものですが、往復運賃の場合東京都区内より小山を着駅にした方が安くなってしまいます。
 細かい話ですが、往復割引の効かない片道乗車券で東京都区内に隣接する駅に大阪から乗車する場合は東京都区内までの乗車券を購入し、乗り越し運賃を払った方が安くなります。具体的には吉祥寺(中央本線)、川口(東北本線)、松戸(常磐線)、市川(総武本線)および舞浜(京葉線)はいずれも大阪から9,130円です。
 この時、JRの運賃計算制度で、片道の営業キロが101キロ以上の乗車券を使用して乗り越しする場合は、運賃の差額ではなく券面表示の着駅から下車駅までの運賃を収受するとなっていますので、1駅間の運賃を払えばよいことになります。西荻窪-吉祥寺、赤羽-川口、小岩-市川、葛西臨海公園-舞浜間はいずれも140円(金町-松戸間のみ160円)ですので、8,910円+140円=9,050円で80円安くなります。

 ネットを検索していましたら、江若鉄道の車両が関東鉄道に甲種輸送された時のC22M形ハ5010(もとキニ10)の「送り状」がでていました。実物は縦書きですが内容を転載します。
発 駅:浜大津
着 駅:常磐線 取手
荷送人:江若鉄道KK
荷受人:関東鉄道KK
(車両の大きさ)
高 さ:3840粍
 幅 :2732粍
長 さ:19453粍
自 重:21.50屯
換 算:2.2両
限 界:第二限界
単独留置禁止・空気ブレーキ使用可・連結注意・突放禁止
輸送番號:大481號

 ハ5010のドアには「‘ハ5010號よ’無事故で頑張れ 関東鉄道の皆様可愛がってやって下さい -江若鉄道鉄道部一同-」の紙が貼り付けられていました。
[7] 管理人 投稿日: 2022年07月16日 11:01:13 No.115
[703] ここは何処?4-3
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 9月19日(日)22時53分21秒 通報 返信・引用 編集済

GET A 様
*横川駅のこの角度の写真は初めて見ました。C61が入線しているホームは、昔下り「あさま号」が停車し、立木のある後方で峠のシェルパEF63を連結していました。
*GET A様、豊富な写真のデータベースから「ここは何処?」の出題をお願いします。
山内崇章 様
増田純一 様

 ご指摘の通り信越本線の横川駅構内です。
 1969年11月22日、霧積温泉に泊まりに行ったときに撮影しました。霧積温泉は、後年の1975年に森村誠一氏の長編推理小説『人間の証明』で有名になりましたが、当時は旅館に電気や電話が通じていなく、予約も横川駅で台帳管理されており鉄道電話により申し込みを受け付けていました。まさに駅長さんがお薦めする旅館でした。
 その時初めて碓氷峠に臨み、翌日小諸まで客車列車で往復しました。鉄道同好会(研究会の前身)の小海線合宿は、2回とも長野方面から小諸を経由して小海線に入っていたため、この時ようやく信越本線、高崎-小諸-直江津-新潟を完乗することができました。
 残念ながら増田会長と少し世代に差があるため、既に1963年にEF63形重連の補機連結による粘着運転方式に切り替わっていたので、アプト式時代の横軽線に乗車することはできませんでした。それでも粘着運転時代の横軽対策をした169系、189系、489系、キハ57などが空気バネをパンクさせ横川-軽井沢間を走行する時のレールと台車のゴツゴツという振動がシートに直接伝わった乗り心地の悪さを忘れることができません。

 40年後の廃線となってからの2009年11月28年の写真を張り付けておきます。

*写真1:横川駅。今でも駅前に「峠の釜めし」を販売する荻野屋横川本店があります。
*写真2:横川運転区跡地の「碓氷峠鉄道文化むら」




ここは何処シリーズ5 管理人 投稿日: 2022年07月15日 12:21:42 No.108 【返信】

[685] ここは何処?3-1
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 8月 7日(土)23時00分28秒 通報 返信・引用

 「ここは何処?」の第3弾です。今回は、8枚組の絵葉書「さりゆく蒸気機関車」をスキャンした問題です。三回に分けて出題します。
 この絵葉書は、高橋文雄氏が撮影し、題字は千葉春湖氏が揮毫して、日本交通出版株式会社から発売されました。全国各地シリーズものとして発売されたようですが大半が、モノクロ仕様となっています。
 通常ハガキの郵送料金が7円となっていますので発売されたのは、昭和41年7月1日から昭和47年1月31日までの間です。今回のものは東日本が中心でカラー版として発売され、当時の日本国有鉄道広報部が、記念に以下のような文章を寄せています。

さりゆく蒸気機関車
 動力の近代化は、鉄道から蒸気機関車を追いやる。雨の日も風の日もあった永い年月、汽笛一声新橋を……以来、走りつづけてきた蒸機。その役割を電気機関車、ディーゼル機関車にゆずり、すべてがあと数年で消えゆく運命にある。国鉄のめざましい体質改善で旅から煙が無くなっていくのは喜ばしいが、蒸機との惜別の情、胸にせまるものがある。

 今回は、駅名(区間)までは難しいと思いますので、線名をお答えください。

*画像1:表紙です。機番は9687です。現在も単線ですが、電化され10両編成の快速電車が走っています。
*画像2:機番はC6244です。後方の山容がヒントです。
*画像3:機番はC609です。現在は第三セクター会社が運営しています。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月15日 12:36:55 No.113
[687] Re: ここは何処?3-1
投稿者: 山内崇章 投稿日:2021年 8月12日(木)08時10分7秒 通報 返信・引用 > No.685[元記事へ]

快速つくばね様
貴重な資料ありがとうございます。大阪万博に生まれた世代にとって、SLといえば子供の頃は梅小路蒸気機関車館かやまぐち号(なぜかKATOのC 57 1は山口号になってましたが)でしたが、JRになって復活蒸気機関車が増えるとは思いませんでしたが。それでは答えます(こういう時苦し紛れのわかりませんや日本のどこかって答える人もいる)。

写真1、川越線の有名な鉄橋ですね。しかしよく架線の限界がトラス橋に引っ掛からなかったですね。因みに埼京線は205より103の方が好きです。
写真2、函館本線の五稜郭~長万部。鉄道で北海道行った事ありません。
写真3、東北本線の盛岡~青森間、鹿児島本線の八代~川内間と迷いましたが複線の様に見えたので東北本線かと思いました。因みに同じ583のボックスシートでもきたぐにとはつかりでは雰囲気が全然違いました。

近況報告、最近また模型を再開しました。学生時代と違って細かいパーツが面倒です。それ以上に値段高くなりすぎなんですが。
[2] 管理人 投稿日: 2022年07月15日 12:34:24 No.112
[688] ここは何処?3-2
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 8月12日(木)21時53分22秒 通報 返信・引用 編集済

山内崇章 様
 コメントありがとうございます。3-1の回答はすべて正解です。
 写真1は、ご指摘通り川越線、指扇-南古谷間の荒川橋梁です。この写真は、南古谷側の上流方面から撮った画像です。この線は、1985年9月30日の池袋-大宮間の愛称名埼京線の開業と同時に全線が電化され、大宮-川越間は埼京線と一体化し東京方面への直通運転が行われています。現在の光景も、架線柱と風防柵が設置された以外は50年前とほとんど変わっていません。
 この橋梁は、荒川の治水を目的とした堤防嵩上げ工事の支障となるため、本橋梁を架け替えることが決定し、本年7月28日付けで関東地方整備局とJR東日本大宮支社は、「一級河川荒川改修事業に伴うJR川越線荒川橋りょう改築工事に係る基本協定」を締結しました。
 JR川越線荒川橋りょう改築工事の概要(国土交通省関東地方整備局)

 写真2は、函館本線、内浦湾(噴火湾)に沿って石倉-落部間を走る105列車急行「ていね号」です。([678] Re: ここは何処?2-2を参照)後方の山は北海道駒ケ岳です。高台を並走する国道5号から撮影したものと思われます。

 写真3は、東北本線(現、いわて銀河鉄道線)、御堂-奥中山間を走る535列車です。電化以前の東北本線(東京-青森間)における、最大の難所は、奥中山(現、奥中山高原)-小繋間の十三本木峠(中山峠)を越える通称「奥中山越え」でした。奥中山駅は、東北本線の最高地点(標高427m)に当たり、最大23.8パーミルが連続するこの区間を蒸気機関車時代は、峠を挟み北側の一戸には機関区が、南側の沼宮内にも機関区支区が置かれ、峠を行き来するほとんどの列車に補機がつけられていました。第二次世界大戦後は1000トン級の重量貨物列車を中心に、前補機を二両としたD51の三重連運転をしていました。

(追伸)山内崇章様:是非とも製作中の模型をこの掲示板で見せてください。

*写真1:機番はD6023です。建設中は平郡東線と平郡西線に分かれていましたが、全通後、現在の線名になりました。
*写真2:機番はC1146です。2011年7月から水害により不通になっていましたが、来年(今年)漸く上下分離方式で全線復旧します。
*写真3:機番はC56144です。ヒントはありません。


[3] 管理人 投稿日: 2022年07月15日 12:31:04 No.111
[689] ここは何処?3-3
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 8月19日(木)21時39分24秒 通報 返信・引用 編集済

 3-2の解答です。
 写真1は、磐越東線江田信号場(現、江田駅)付近を走る767列車です。磐越東線は、平(現、いわき)側と郡山側の両方面から工事が進められ、両駅名をとって平郡東線、平郡西線と呼ばれていました。1917年10月10日に小川郷-小野新町間が延伸開業・全通したことにより、磐越東線となりました。この時同時に郡山-新津間の岩越線が磐越西線に改称されました。この線は、常識とは逆に、通常は旅客列車をD60が、貨物列車を8620形が牽引していました。

 写真2は、只見線、大白川-柿ノ木(2015年3月14日廃止)間の133列車です。只見線は、若松(現、会津若松)から会津線として1941年に会津宮下まで、小出からは1942年に大白川までが只見線として開業しました。戦後は、田子倉ダムの建設工事に伴い、会津川口、只見と路線を延伸し、1971年、「只見中線」として建設されていた只見-大白川間が開業して全通を果たしました。
 2011年7月の新潟・福島豪雨により、只見線は小出-会津坂下間が不通となり、現時点でも会津川口-只見は不通のままとなっています。復旧については紆余曲折がありましたが、JR東日本と福島県の間で上下分離方式による鉄道復旧が合意され、運転再開・全通について「2022(令和4)年度中を目指す」ことが発表されています。

 写真3は、小海線、清里-野辺山間の境川橋梁を渡る「八ヶ岳高原号」9133列車です。1965年の夏合宿で訪れましたが、国道が付け替えられたので現在旧道は荒れ果て、周辺の山も手入れがされていないので雑木が繁茂し、このような光景を眺めることができません。この橋が、左側の山梨県と右側の長野県の県境となっています。

*写真1:機番はC57134です。かつては「カツギ屋」さん専用の出荷組合員指定車が連結されていました。
*写真2:形式は9600形です。関東平野を横断しています。
*写真3:機番はC1241です。ここも第三セクターになりました。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月15日 12:28:03 No.110
[690] Re: ここは何処?3-3
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 8月26日(木)18時59分33秒 通報 返信・引用 編集済

 3-3の解答です。
 写真1は、成田線我孫子支線、我孫子-東我孫子間のC57+C58の牽く旅客列車です。今でもこの付近を車で時々通りますが、50年の間に樹木が伐採され住宅地として整地されたので、線路の両側には住宅が立ち並び、この撮影場所を特定することができません。成田線の各駅のホームには、腰ぐらいの高さのベンチ風の設備がありました。これは担ぎ屋さんがホームで列車待ちする場合に立ちながら荷物を置く通称「行商台」と呼ばれていました。これらの台は、使用されなくなってからも行商組合のものでJR の所有物ではないので、ホームの改修時にも撤去されなかったようです。
 成田線、常磐線を経由するこの列車と1982年2月14日に廃止された京成電鉄の野菜行商専用列車、通称「なっぱ電車」(正式名は「嵩高荷物専用車」)および2020年3月13日に廃止された近鉄の「鮮魚列車」を日本の三大行商人用貸し切り列車と呼べるのではないかと思っています。

 写真2は、表紙と同じ川越線、指扇駅付近の2484列車です。指扇駅近くに住んでいる友人がいるので場所を問い合わせたところ、さいたま市側の荒川土手の道路を北側から見たものであるとの回答がありました。
 投稿番号[688]「 ここは何処?3-2」で解答しました川越線と同じ線ですが、参考にリンクしましたJR川越線荒川橋りょう改築工事の概要(国土交通省関東地方整備局)の中の画像の『現況(左岸側)』がこの画像と同一場所、『現況(右岸側)』が、3-1上段の南古谷側の下流方面から撮った画像となっています。川は、河口方向に向かって左側を左岸、右側を右岸と呼ぶようです。見比べてください。どちらもGoogleマップのStreetViewで荒川の堤防上の道路と川越線の交点に照準を合わせれば、最近の状景を見ることができます。

 写真3は、足尾(貨物)線、間藤-足尾本山(ほんざん)間です。足尾線は、現在「わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線」となっていますが、国鉄時代は、桐生-足尾本山間(46.0km)の路線で、旅客列車は間藤までで間藤-足尾本山間(1.9km)は貨物のみの営業となっていました。1987年まで国鉄が貨物線として営業しましたが、一旦JR東日本に継承され1989年に廃止されるまでは休止状態のままでした。わたらせ渓谷鐵道に移管されてからは、免許線(未開業線)となりましたが、1998年に免許が失効し名実ともに廃線となりました。結果として一度も旅客列車が走ることはありませんでした。

*写真1:湖北駅に残る行商台
*写真2:『現況(左岸側)』第1種踏切(抜粋)。踏切注意柵のみそのまま使用か。
*写真3:50年前の写真2と同じアングル( No.111の写真2をトリミングして再掲)第3種踏切


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月15日 12:25:11 No.109
[691] Re: ここは何処?3-2
投稿者: GET A 投稿日:2021年 9月 2日(木)16時56分16秒 通報 返信・引用 編集済

快速つくばね様
申し訳ありませんが、八ヶ岳のC56は撮りに行ったこともありますが、他は行ったことも無く、今後も行きたいとは思わない場所です、せめて関西より西にして貰わないとさっぱり判りません。
柏原市の私の家より自転車で行ける場所の過去と最近の写真を載せます。

写真1:かつてD51 3重連が 71.10に記念運転されました、当時は線路際での撮影も出来ましたが現在なら緊急停止です、いまはフェンスがありはいれませんが。
写真2:最近の写真です、川の対岸から撮っています。




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