特別快速「せんり2号」関西大学鉄道研究会OB会掲示板


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現役時代の想い出集8(1968年3月24日~27日) 管理人 投稿日: 2022年07月08日 21:44:58 No.64 【返信】

[327] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 8月 8日(土)22時10分51秒 通報 返信・引用

「こんなんありました」シリーズです。

 明日8月9日は、「長崎原爆忌」で長崎では長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催されます。広島は「いかりの広島」と呼ばれているのに比べて、長崎は「いのりの長崎」と言われます。
 さて、鉄道同好会の撮影合宿旅行で長崎の集合写真が残っています。場所は長崎駅前にある山の中腹の日本二十六聖人殉教地の西坂公園ですが、日にちとか前後の行程の記録と記憶がありません。
 覚えていられる方は何らかの情報のコメントをお願いします。
 個人的には、大阪から夜行の筑豊本線経由の「天草号」に乗車したこと、飯塚と福岡を結ぶ国道201号線上にある八木山ユースホステルに泊った記憶があるのですが、この時かどうかは分かりません。
 よろしくお願いします。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月08日 21:58:48 No.67
[348] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: GET A 投稿日:2020年 8月20日(木)19時28分31秒 通報 返信・引用 編集済

快速つくばね様
あまりよく覚えていませんが、快速せんり9号、10号に案内が有りますが、9号では3月24日から27日、北九州、3月24日午後8時大阪駅3番ホーム集合になっていました。ところが10号では3月27日から29日になっています。
松浦線、筑豊線の記憶が有りますがとぎれとぎれです。直方の駅前でトン汁の朝食を食べたのは覚えています。
写真を整理して続報を送ります。

写真1:佐々、レールバスを取りに行った、扉で手を振っているのはならやまさん
写真2:原田駅、これもならやまさん
写真3:原田駅、今こんなところに入ったら大ごとです、つくばねさん。


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月08日 21:56:05 No.66
[349] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: ならやま 投稿日:2020年 8月20日(木)22時42分1秒 通報 返信・引用

GET A 様

半世紀も前の九州合宿の写真の投稿有難うございます。
いろんな写真は撮っても自分を撮る事はないので、たまたま撮っていただいたスナップに写っていたなんて大感激です。
1枚目は門鉄デフのC11に引かれたオハ61かな。デッキから落ちても自己責任!のよき時代。松浦線でしょうか?
2枚目はどこのホームか思い出せませんが135mmレンズをつけたペンタックスを使ってます。
当時は皆が『九州均一周遊券』を使ってたので合宿地以外でも必然的に定宿(?)代わりの夜行急行で一緒になったものです。
西鹿児島で夜行急行に乗る前に風呂に入ろうという事になり、もちろん今のようにスマホで情報入手など出来ない時代、鹿児島市電に乗って風呂屋の煙突を探そうという事にしたけどそれらしき物は全く見つからず~後になって判明したのは、鹿児島市内の銭湯の煙突は関西の立派な煙突ではなくブリキパイプのささやかなものでした。
夜行急行のボックス席で横になり気持ちよく寝入っていたら、いつの間にか肥薩線の朝の通勤・通学普通列車になっていて目を覚ましたら周囲に高校生が立錐の余地なく立っていてあわてて起き上がった~なんて事もありました。
今にして思えば、人生のほんの一瞬に過ぎない学生時代の数年間ですが『関西大学鉄道研究会』という縁があったおかげで今だにこのように皆様と集える喜びを改めてかみしめている今日この頃です。 ありがとうございます。
[3] 管理人 投稿日: 2022年07月08日 21:54:02 No.65
[350] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 8月21日(金)14時45分45秒 通報 返信・引用 編集済

西邑 宏様

 コメントありがとうございます。
 奈良電気鉄道は、ご存知のように設立時から京阪電気鉄道と大阪電気軌道(通称:大軌、近鉄の前身)両社及び関係者が大部分の株を引き受けました。創立総会では、取締役に京阪電鉄から1名、監査役には京阪電鉄と大阪電気軌道から1名ずつ選任されました。当初は京阪電鉄の方が持ち株数も多かったのですが、史実のとおり最終的には近鉄に経営統合されました。
 奈良駅の分離は、現在もそうですが大和西大寺駅でのダイヤ調整が難しく、乗り入れの大きな制約になったことと、筆頭株主の京阪電鉄が大軌の影響力を小さくしたかったからだと思います。
 もし、新奈良駅(仮称)ができていれば京阪電鉄の奈良進出の橋頭保となり、今頃は京阪奈良か奈良市駅になっていたかもしれません。分岐する予定だった山田川-平城間とは、今の高の原ぐらいの位置でしょうか。

GET A様

 情報の提供ありがとうございます。
 頂いた情報と保管してある均一周遊券、国鉄JR線の乗車記録、当時から収集を始めた入場券の日付から凡そのことが判明しました。
 この時、使用した『九州均一周遊券』の有効期間が、昭和43年3月24日から4月8日となっています。
 当時の時刻表を見てみますと、大阪発山陽本線方面下りは、京都始発長崎行「玄海号」20:32発、東京始発鹿児島行「霧島号」20:42発、大阪始発熊本行「天草号」21:00発、京都始発佐世保行「平戸号」21:05発、京都始発都城行「日向号」21:40となっており、着席のことを考えてどう見ても「天草号」に乗車したものと思われます。
 つぎに収集した入場券を発行日別に整理します。下車した順番が分かりませんので、各線下り方向の駅順です。

〇3月25日:直方・新飯塚・飯塚・筑前内野・原田
〇3月26日:博多・鳥栖
〇3月27日:肥前山口・諫早・長崎、早岐・大塔、門司港・小倉
〇3月28日:佐伯・宮崎・都城・霧島神宮・国分、八代・肥後田浦・津奈木・水俣・出水・湯之元・伊集院・上伊集院・西鹿児島・鹿児島


 この軌跡からしますとGET A様の3月24日から27日が正しく、大阪駅から「天草号」に乗車し、25日に筑豊本線の直方、新飯塚、飯塚のどれかの停車駅(多分、8:34着のトン汁の朝食の直方)で下車し、原田まで進んだと思います。
 その日の泊りは八木山ユースホステルで、26日の行程は、はっきりしませんが、博多から門司港に出て門司港22:34発の長崎夜行421列車に乗車したと推察されます。
 この列車は、長崎に6:32に到着しますが、この写真は3月27日午前中に長崎で写したもののようです。その後早岐まで戻り、C11の牽引する早岐発12:08発の下り「さくら号」を大塔で撮影していますが、私は、この時松浦線に乗車した記憶がありませんので、ここで離団したのでないかと思われます。

 その後の私の行動ですが、入場券の記録を見ますと門司港から日豊線夜行の521列車に乗車して西鹿児島まで行き、鹿児島本線南線の各駅でC60・C61の牽く客車列車の写真を撮っています。
 大阪で月末から月初にかけてのアルバイトがありましたので、学割の門司-大阪の往復の乗車券を購入して一旦戻り、再度、4月4日の夜行列車で九州入りをし、4月8日の有効期間期限日まで九州内をウロウロしたようです。

 ところでどうでもよいことですが、写真3の人物は私ではないと思います。集合写真の服装と見比べてもらえばわかりますが、多分M本さんではないでしょうか。私は今でもそうですがいつもジャンパー姿で旅行していました。


現役時代の想い出集7(1991年2月10~11日・1992年2月8~9日) 管理人 投稿日: 2022年07月07日 18:32:40 No.61 【返信】

 今回は、現役時代ではなくOB会初期の合宿の話です。

[244] 復活 OB会合宿の写真 第二回 大井川鉄道
投稿者: 増田純一 投稿日:2020年 6月18日(木)10時35分54秒 通報 返信・引用 編集済

今回は、第二回の合宿地 大井川鐵道の記録です。

この時は、故小林武文氏のお世話で、大井川鉄道井川線接阻峡駅まで乗車し民宿で宿泊しました。
軽井沢~横川のアブト式路線が粘着方式に変わり、わが国唯一のアブト区間がある最急勾配90‰を体験しました。
夕食の最後に、オーナーが「鹿刺し」をサービスして下さり始めて食しました。
今でもその記憶が印象的に残っております。

画像 一枚目 千頭~崎平間  420系
画像 二枚目 千頭      井川線 DD20型
画像 三枚目 アプトいちしろ アプト区間専用 ED90型 


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月07日 18:35:51 No.63
[245] Re: 復活 OB会合宿の写真 第二回 大井川鉄道
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 6月18日(木)15時06分4秒 通報 返信・引用

 増田様

 懐かしいOB会合宿の写真ありがとうございます。
 増田様が作成された『関西大学鉄道研究会 OB会 ホームページ』に「平成3年 大井川鐵道(OB会復活第1回撮影会)」と記載がありますが、第1回、第2回どちらが正当でしょうか。
 第1回としますと、案内状を頂き、初めて5歳の二男と一緒に参加した時を思い出します。静岡駅での新幹線から在来線への接続列車が遅れ、金谷から千頭行の指定列車に乗り遅れ、後続の電車(北陸鉄道のしらさぎ号編成)に乗車しました。
 携帯もない時代ですから、会員の皆さんにどこで合流できるか、暫くぶりなので会っても分かるだろうかと心細かったのを覚えています。井川線車内で合流でき、接岨峡温泉駅で下車して民宿「なかむら」までの残雪のある下り坂を何方かに子供の手を引いてもらいました。
 民宿の食事もよく覚えています。メインは「猪鍋」で「鹿刺し」もありました(いまでいうジビエ料理です)。子供は宿から出していただいたフリカケをかけて食べていましたが、宿泊料は無料という配慮もいただきました。徒歩で橋を渡り、大井川対岸にある公営の接岨峡温泉会館に入湯したのもよい思い出です。
 その時の子供は、今年35歳になります。もう30年前の話ですね。それぞれ歳を重ねましたが、よく今までこの会が続いていると思い、感謝しています。
[2] 管理人 投稿日: 2022年07月07日 18:34:46 No.62
[247] Re: 復活 OB会合宿の写真 第二回 大井川鉄道
投稿者: 増田純一 投稿日:2020年 6月18日(木)20時04分26秒 通報 返信・引用 > No.245[元記事へ]

つくばね様

第一回が、本文の大井川で、第二回が前回提示紀伊長島孫助屋での会合でした。これを機会に、過去のOB会の様子の画像を、アップしてみようと思います。ご笑覧ください。

訂正させていただきます。




現役時代の想い出集6(1966年4月29日) 管理人 投稿日: 2022年07月06日 22:18:12 No.57 【返信】

[240] こんなんありました(1966年4月29日)(2-1)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 6月13日(土)23時22分12秒 通報 返信・引用

GET Aさん、桜井線の105系の水鏡の画像、ならやまさん、コメントありがとうございます。

 桜井線つながりです。
 新入生歓迎(現在用語の新歓)撮影会です。
 それにしてもどうして桜井線に行ったのでしょうね。当時は既に完全にDC化されており、たまにキハユニ16を連結した列車やC58の貨物列車が走っていましたが、基本昼間はキハ35+キハ36の2連しか走っていませんでした。
 山の辺の道や箸塚古墳が現在のように有名になる前で、まさか三輪のソーメンを食べに行ったのではないと思いますが。
 西邑さんその理由はわかりますか。ならやまさんは写っていませんね。三脚がないので新入生にシャッターを押してもらったのでしょうか。

 その後桜井線は、1980年に和歌山線(王寺-五条間)と一緒に電化されて、常磐緩行線用に製造された103系1000番台を改造した4扉車の105系500番台の時代が長かったですが、老朽化により2019年にようやく新車の227系1000番台への置き換えが完了しました。しかしながら昼間時には相変わらず2連で走っています。

 103系1000番台は、私が会社に入社してから1年目の1970年に緩急分離前の常磐線各駅停車に試走をかねて先行導入され、翌年の北千住-我孫子間の複々線化に伴い緩行線に投入され、毎日乗車していた想い出深い電車です。
 この電車は、1971年の常磐線緩行線と営団地下鉄千代田線との相互乗り入れ用として160両が製造されました。10両編成でも6M4Tではなく8M2Tとしたのは千代田線内の最大33‰勾配区間で自走不能となった場合に別編成で救援可能という乗り入れ条件を満たすためでした。
 一方、新設の8両に減車された快速線の103系0番台車は4M4Tとなり、我孫子駅や松戸駅で同時発車した時は加速性に格段の差があり、各駅停車の電車のスタートダッシュに快速電車が追い付けず、次の駅の北柏や金町の停車中に漸く追い抜くという有様でした。
 千代田線の営団側の主力車両は6000系、回生ブレーキ付き電機子チョッパ制御車で消費電力の違いは明白であり、さらに103系1000番台は抵抗器の排熱でトンネル内温度が上昇し、単線シールド区間での抵抗器の放熱・冷却も十分でなかったため故障が多発し、運行ダイヤに影響を及ぼすこともありました。
 電力消費量の違いから相互乗り入れでの双方の距離に応じた相殺が出来ず、会計検査院からの指摘を受け国鉄は、差額の電気代を営団に支払うことになりました。このような状態では、電力使用量や発熱量の関係から冷房化改造もできず、夏季に地上区間を走行する時は、地下鉄対応で2段窓のうち下半分は締め切り固定で上半分しか開けられず、蒸し風呂、サウナ状態でした(いつも利用した者のみ知る状況です)。国鉄としてはこの問題を解決するために1982年から電機子チョッパ制御方式の203系を投入し、103系1000番台は同線を追われることになりました。

 1984年10月の奈良線・和歌山線(五条-和歌山間)の電化開業と、可部線の旧型電車72形の置き換えのため、常磐緩行線への203系投入で捻出された103系1000番台56両を中心に、0番台を5両含む61両が1M方式の105系に改造されました。
 改造工事は大井・大船・新津・長野・名古屋・吹田・広島・幡生の国鉄直流電化区間の各車両工場総動員で施工されました。改造された105系は、奈良・桜井・和歌山線用に奈良電車区に48両、可部線用に広島運転所に13両(どうして奇数かは不明)が配置されました。
 改造されずに残った103系1000番台104両は特殊な車両であったため集中して松戸電車区の快速用に転用され、捻出された0番台車はそのほかの線区に転属しました。転用当初は緩行線用塗色で快速線を走っていたため前面に「常磐線(快速)」のシールを貼って誤乗を防いでいました。その後順次、快速の標準色の「青緑1号」(いわゆるエメラルドグリーン)に塗り替えられました。105系が色合いの近い和歌山地区地域色の青緑色に塗り替えられたのを初めて見た時、思わず常磐線が走っていると目を疑いました。
 いずれにしても103系1000番台は、当初の製造目的であった地下鉄乗り入れ用としてはわずか11年という短命でしたが、105系に改造されて紀和地区で働いたのは35年強という不思議な運命をたどりました。なお常磐快速線に転用された車両は、2004年までに全車廃車となりました。

*画像1:長柄駅ホームでの集合写真。
*画像2:高田駅でのクハ105の0番台、桜井線奈良行。(運転台は1000番台のまま)
*画像3:吉野口駅でのクモハ105の500番台、桜井線回り奈良行。(運転台は新造取付。貫通ドアーの取っ手が左右逆になっている。)

 このような昔懐かしい写真があれば、「こんなんありました」シリーズとして、OBの皆様の投稿をお待ちします。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月06日 22:26:39 No.60
[241] Re: こんなんありました(1966年4月29日)(2-1)
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年 6月14日(日)17時21分7秒 通報 返信・引用 > No.240[元記事へ]

つくばね 様
昭和41年(1966年)4月というから54年前。むかしむかしやね~。
現代用語「新歓」。知りませんでした。当時から新入生歓迎撮影会とは、しゃれたことをしてたのやね。たしか1年前のわれわれの歓迎会は、福知山線武田尾ではなかったかしら。トンネルの入り口の上に立ったり、武庫川の岩場にのぼったり、恐いことした思い出があります。
桜井線。何で行くことになったんやろね。当時はみんなの意見を聞いてということではなく、会長なりの一存で決めてたように思います。私にとっては初めての桜井線でしたから、都市近郊にこんな田舎があるのかとびっくりしたものです。来る気動車には誰も関心はなく、性根をいれてカメラを構える人はなかったように思います。
誰が撮ってくれたのかわかりませんが、駅名標を横に入れてのアングル、いいですね。
懐かしい写真ありがとうございました。
[2] 管理人 投稿日: 2022年07月06日 22:24:45 No.59
[242] こんなんありました(1966年4月29日)(2-2)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 6月14日(日)18時39分32秒 通報 返信・引用

 西邑さん、コメントありがとうございます。

 営団地下鉄千代田線との相互乗り入れ用の初代103系1000番台については2-1で触れましたが、2代目の203系は登場以来、170両全編成が松戸電車区所属となり、転属することなく常磐緩行線で運用されていましたが、2010年からE233系2000番台による置き換えが開始され、2011年9月をもって全編成が営業運転から離脱しました。
 2代目は、初代の103系1000番台改造の105系に比べて8年も早く廃系列となりました。国鉄であればこの車が再改造されて桜井線やおおさか東線を走っていたかもしれません。
 ダイヤ改正により必要とされる運行本数が増え、2代目の時代に3編成が増強されました。しかし203系が追加配備されることはなく、1986年に国鉄における最初で最後の営業用VVVFインバータ制御電車として試作された207系900番台(JRになってから製造されたJR西日本の207系とは別のもの)の1編成と、1999年導入のJRになってから製造開始された最初のJR東日本「新系列車両」の209系1000番台の2編成です。
 207系は試験的な車両で予備部品もなかったので、2009年12月に203系より早く営業運転を終了し、僅か23年の運用で廃車となりました。209系は、2018年に中央線快速で使用されているE233系へのグリーン車組み込み12連化工事に伴う予備車確保の関係で、豊田車両センターへ転属しました。その結果、現在はすべてE233系2000番台19編成に車種が統一されています。

 この時使用した乗車券(画像参照)ですが、京橋から出発して、片町線、大阪環状線、関西線、和歌山線、桜井線、関西線、片町線を経由して鴻池新田行となっています。学割が適用された運賃は340円で、有効期間は2日間、途中下車も通過するすべての駅で可能でした。
 当時の国鉄旅客制度は単純明快で、乗車した営業キロ程を基準にして運賃と有効期間を算出していました。ゾーン駅も東京都区内、大阪市内および東京電環内(現在の山手線内)しかなく、当然、大都市近郊区間の制度もありませんでした。
 現在、この乗車券を窓口で申し込むと多分、券売機で買うようにと指示されるでしょう。運賃は180円になりますが、有効期間は当日限りで途中下車はできません。つまり同じ行程で下車して撮影をするとなると、その都度乗車区間の運賃を支払う必要があります。

 国鉄からJRになったこの50年間に、旅客営業制度の改定(改悪?)により運賃計算制度が随分変更されました。大都市近郊区間の制度の導入は、乗車経路にかかわらず最短経路で運賃を計算し一筆書き乗車ができるという一見旅客優位の制度に思えますが、篠ノ井線の松本から常磐線の浪江または伊東線の伊東まで一切途中下車ができずに有効期間が1日というのはどう考えても問題があると思います。
 この制度は、切符の券売機による発売区間の拡大や非接触型ICカード(SuicaやICOCA)による乗車と整合性を取ろうとしたもので、JR側の理由によるものです。
 なお、大都市近郊区間の制度を否定して乗車券を買うには、窓口で1区間新幹線を経由する乗車券を購入すれば、通常のキロ程による有効期間で途中下車が可能な乗車券を購入することができます。東京近郊区間であれば東京-品川か東京-上野などの区間を新幹線経由にして購入し、実際は在来線を使用しても問題はありません。
 選択乗車区間や区間外乗車の特例なども大都市近郊区間や在来線の優等列車の削減に伴い随分廃止されました。
 運賃を中心駅で算出し、券面に「○○市内」と表示するゾーン駅制度も政令指定都市の拡充により、札幌市内、仙台市内、横浜市内、名古屋市内、京都市内、神戸市内、広島市内、北九州市内および福岡市内と追加されましたが、千葉市以降、熊本市までその後移行された9都市には対応されていません。
 特定区間についても同様のことが言えます。JRになってから各社は特定区間を順次廃止していきましたが、JR西日本だけは国鉄時代のものをそのまま残しており、現実的かどうかは分かりませんが、今も三原-海田市間で山陽本線と呉線、岩国-櫛ケ浜間で岩徳線と山陽本線が残っています。




現役時代の想い出集5(1967年3月27~30日) 管理人 投稿日: 2022年07月05日 21:51:09 No.44 【返信】

[185] こんなんありました(1967年3月27日~30日)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 5月 9日(土)18時36分16秒 通報 返信・引用

 春の合宿です。今回もならやまさんがキャビネ版にプリントして配ってくれたものです。
 メモを見ますと京都駅を山陰本線の夜行の829列車下関行で出発し、一泊目は出雲横田駅前、二泊目は広駅前で車中泊を含む3泊4日の行程でした。
 宿は、多分宿泊日当日に駅で紹介してもらいました。当時の日本観光旅館連盟のキャッチフレーズは、「駅長さんがお薦めする」でした。ネット予約も無く、下車して商人宿(今のビジネスホテルか)の当日予約でした。時刻表の付録ページに駅名と旅館名が出ていましたが、最低料金は1泊2食付きで800円相場でした。

 そこで問題です。参加しなかった方、写真の場所はどこでしょう。
 参加した方、コメントや関連する写真または現在の写真の投稿をお願いします。

*画像1:市内に僚機のC56 108が保存されています。現在この駅前に移設する運動が行われています。
*画像2:キハ20または52ですが、場所は私もわかりません(側面の窓の数を数えるとキハ52のようですが。)
*画像3:この年の4月1日(見学日の翌日)に神辺線および矢掛線が廃止になりました。

 このような昔懐かしい写真があれば、「こんなんありました」シリーズとして、OBの皆様の投稿をお待ちします。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月06日 15:43:37 No.56
[188] Re: こんなんありました(木次線その1)
投稿者: ならやま 投稿日:2020年 5月11日(月)23時54分26秒 通報 返信・引用 > No.185[元記事へ]

つくばね様

なつかしい写真を有難うございました。
次は GET A さんあたりから出雲坂根3段スイッチバックのC56混合列車の写真でも出てくるのではないですか?
昨年(2019年)6月2日に、半世紀以上ぶりに木次線走破をした折の写真を2回に分けて見ていただきます。
行ってみて初めてわかる事はあるもので、なんと木次町は平成の大合併で『雲南市』になっていました。
でももちろん駅名も線名も変わっていませんが。
雲南線なんて言われたらまるで中国?
・写真その1、宍道駅 変わらない跨線橋が嬉しい。
・写真その2、木次駅 変わらないホームと上屋が嬉しい。
・写真その3、木次機関区(?)おろち号の車両が休憩中。
       機関庫は躯体そのままで外壁だけ張り替えたようです。


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月06日 15:41:06 No.55
[189] Re: こんなんありました(木次線その2、終り)
投稿者: ならやま 投稿日:2020年 5月12日(火)00時14分44秒 通報 返信・引用 > No.185[元記事へ]

木次線の続きです。
・写真その1、備後落合駅に残る給炭台とターンテーブル。
       草に埋もれて分かりにくいですが簡単に復旧できそうです。
・写真その2、備後落合駅の木次線ホームと宍道行きディーゼルカー(キハ120)
       変わらないホームと上屋が嬉しい。
・写真その3、備後落合駅の芸備線ホームと新見行き、三次行きディゼルカー(キハ120)
       変わらないホームと上屋が嬉しい。

亀嵩、出雲横田、出雲坂根、etc、なつかしい駅と線路を再訪されてはいかがですか?


[3] 管理人 投稿日: 2022年07月06日 15:38:08 No.54
[190] Re: こんなんありました(芸備線)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 5月12日(火)23時09分25秒 通報 返信・引用

 ならやまさん、コメント有難うございます。
 私もならやまさんの約1年前の2018年6月25日の同じ時刻に備後落合駅を訪れました。1日1回三方向の列車が揃う時間帯です。
 マッチポンプになりますが、芸備線をリレーします。
 「雲南線なんて言われたらまるで中国?」と言われていますが、国鉄バス時代から一字多い「雲芸南線」は存在しています。
 国鉄バス「雲芸本線」は、1934年に出雲今市駅(現 出雲市駅)と備後十日市駅(現 三次駅)を結ぶ陰陽連絡の一路線として誕生しました。この頃は芸備線も木次線も全通していないので、鉄道のルートはありませんでした。
 広島駅-三次駅間は、広島合同自動車が運行していましたが、1952年に経営不振により路線を手放すことになったため、国鉄バスが車両・乗務員ごと譲受し「雲芸南線」として開業しました。
 国鉄バスから中国JRバスに継承されてからも「雲芸本線」と「雲芸南線」は一体化して運行されてきましたが、高速道路の延伸とモータリゼーションの進展により一般路線は次々と廃止され、現在は「雲芸南線」の広島側の市内とニュータウンを結ぶ、都市路線部分のみ残っています。

*画像1:備後落合駅の発車時刻表。投稿番号189の写真その3のキハ120形の車両間にある自立型時刻表の拡大です。
*画像2:備後落合駅で三方向を結ぶキハ120形3両。
*画像3:備後落合駅で芸備線ホームの上りと下りのキハ120形。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月05日 22:06:32 No.50
[191] Re: こんなんありました(木次線その1)
投稿者: GET A 投稿日:2020年 5月13日(水)17時48分51秒 通報 返信・引用

ならやま様

ご指名により当時の写真を投稿します。
この時の様子は 快速せんり 8号に記載されています。

写真1:スイッチバックを通過した貨物列車、混合列車ではなかったです。
写真2:下っていく旅客列車、客車はオハユニ61で定員40人
写真3:この時代はキハ07も健在でした、宍道駅。


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月05日 22:04:11 No.49
[192] 木次線写真の追加です。
投稿者: GET A 投稿日:2020年 5月13日(水)17時57分1秒 通報 返信・引用 編集済

最近2014年の写真を追加します。
写真1:現在の出雲坂根駅、随分と立派になって面影が有りません
写真2:観光列車 おろち
写真3:出雲八代駅、駅名表示


[6] 管理人 投稿日: 2022年07月05日 22:01:55 No.48
[193] Re: こんなんありました(木次線その1)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 5月14日(木)23時05分23秒 通報 返信・引用

GET Aさん

 懐かしい写真ありがとうございます。
 この旅行の行程は、部分的にしか覚えていないのですが、できれば「快速 せんり8号」から記録を転載していただけませんでしょうか。併せて呉線部分の写真もお願いします。
 キハ07は、キハ120に比べてよいですね。国鉄から払い下げられた私鉄で最多の7両を揃えて主力車(キハ18~24)としていた江若鉄道を思い出します。
 芸備線のキハ120でならやまさんの投稿したものと私が投稿したものとは前面の塗分け(貼り分け?)と色の上下が微妙に違いますね。調べたところならやまさんの写真は、広島色と言われるもので芸備線の三次-備後落合間と福塩線の府中-塩町間で運用、私の写真は山陰本線の益田-長門市-仙崎間と美祢線全線で運用される美祢色と言われるもので出稼ぎに来ていたようです。
 このようにキハ120はすべての車両が後藤総合車両所でメンテナンスされていますが、予備車が少ないため、体質改善工事や事故などで長期に車両が工場に入場する時は、広域に応援態勢をとっているようです。2019年2月にも浜田鉄道部の車両(浜田色)が、大糸線に入り話題となっていました。

*画像1:福塩線府中駅での広島色のキハ120形
*画像2:芸備線三次駅での美祢色のキハ120形。(再掲)


[7] 管理人 投稿日: 2022年07月05日 21:59:27 No.47
[199] Re: 快速せんり 8号
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 5月16日(土)23時11分17秒 通報 返信・引用

GET Aさん

 重ねてお手間をおかけして申し訳ありませんでした。
 おかげさまで3泊4日の青春の1ページ(18ページ?)が甦りました。
 大阪駅で乗り遅れた原因となりました乗車券が見つかりましたので添付します。何処も特殊なところがありませんがどうして時間がかかったのでしょうね。経由は丹(丹波口)、陰(山陰)、宍道、木次、広(広島)、陽(山陽)となっています。
 旅行記は、参加者全員が分担して書いていたのですね。それにしてもならやまさんのイラストは当時から素晴らしいですね。
 ならやまさんがC56の前照灯のことで疑問を持たれていますが、C56は機関区以外の本線での後機(バック)運転をすることは、禁止されていたようです。原因は軸配置が1Cで、C11の1C2、C12の1C1に比べて後機運転をすると動輪を誘導する先輪が無いためすぐに脱線したようです。そういえば本線で後機運転をする写真は見かけたことがありません。テンダーの切り欠きは構内の入換え以外にあまり意味がなかったようです。
 疑問だったキハ52の撮影場所は、八川駅であることが確認できました。
 三枚目の写真に岡さんが写っていないのは、広島で離団されたからなのですね。
 犬飼さんがクモハ51の車内仕様について書かれていますが、クモハ51には初期に投入された地区により東京仕様と、大阪仕様の2種類があったようですね。クモハ51208は、クモハ43を3扉に改造したもので当初横須賀線に投入され、その後岡山地区に配置換えになったようです。


[8] 管理人 投稿日: 2022年07月05日 21:57:11 No.46
[200] Re: 快速せんり 8号(訂正)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 5月17日(日)09時55分0秒 通報 返信・引用

(訂正)
投稿番号199で「後機」とあるのは「逆機」が正当でした。訂正します。
(誤)
C56は機関区以外の本線での後機(バック)運転をすることは、禁止されていたようです。原因は軸配置が1Cで、C11の1C2、C12の1C1に比べて後機運転をすると動輪を誘導する先輪が無いためすぐに脱線したようです。そういえば本線で後機運転をする写真は見かけたことがありません。
(正)
C56は機関区以外の本線での逆機(バック)運転をすることは、禁止されていたようです。原因は軸配置が1Cで、C11の1C2、C12の1C1に比べて逆機運転をすると動輪を誘導する先輪が無いためすぐに脱線したようです。そういえば本線で逆機運転をする写真はあまり見かけたことがありません。例外的に一時期特例により、「SL北びわこ号」が線形の良い木ノ本-米原間で逆機運転をしていましたが、運転最高速度が45キロに制限されていました。他の機関車に牽引されて逆向きに回送される場合は制限がないようです。
[9] 管理人 投稿日: 2022年07月05日 21:53:32 No.45
[204] Re: 快速せんり 8号
投稿者: GET A 投稿日:2020年 5月19日(火)11時32分58秒 通報 返信・引用 編集済

この時の広島地区の写真を添付します。

写真1:朝の広駅、C59、C62と豪華なラインナップです
写真2:広駅前の呉市電
写真3:まだDD11が健在でした




現役時代の想い出集4(1965年8月19~21日) 管理人 投稿日: 2022年07月04日 22:28:51 No.42 【返信】

[134] こんなんありました(1965年8月19~21日、同好会夏の小海線合宿)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 3月29日(日)23時12分12秒 通報 返信・引用 編集済

 1965年の鉄道同好会の夏の合宿は、現地集合、現地解散で小海線の清里で開催されました。
 その時の集合写真ですが、1枚は当時としては珍しくカラーの写真です。参加者は7名のようですが、撮影者がそれぞれ写っていないため6名しか写っていません。
 当時は、誰かにシャッターを押してもらうとか三脚で写すという考えがなかったのでしょうか。このことを知っているのはこの掲示板のメンバーではGET Aさんだけです。

*画像上段:小海線撮影途中の野辺山-清里間の線路端で。後方木陰の二人が一年生。日陰の身で顔がよく見えません。
*画像中段:宿舎の国民宿舎八ガ岳ロッジの前で。GET Aさん前列お二人のお名前を憶えていますか。
*画像下段:この旅行で私が使用した乗車券類。
      乗車券の裏面の経由は、(北陸・信越・小諸・小海・中央・甲府・本市場・東海・名古屋・関西・短絡・阪和)と記載されています。短絡は阪和貨物線のこと。
      身延線の本市場は1969年の身延線の経路変更に伴い柚木に改称されました。
      普通急行券の赤線2本、準急券の赤線1本が懐かしいです。
      当時の新幹線の自由席特急券は、硬券の準常備券で列車名、発時刻まで印刷されていました。

初めての鉄道一人旅

 1年生の小海線清里合宿は、大阪市内から大阪市内行きの乗車券を購入して大阪から臨時列車の「第2日本海号」で出発しました。はじめは糸魚川で下車し、フォッサマグナに沿った横断を考えていましたが、列車の接続が悪く、順当に直江津から信越線に乗り換えるコースを取りました。
 「第2日本海号」は各地から掻き集めたオハ35型を中心とする編成で、当時北陸本線の電化は泊まででした。そのため機関車を付け替えた富山では長時間の停車をしたため、深夜の富山港線ホームに停まっている旧型国電を見ることができました。
 直江津から乗り換えた信越本線も長野-直江津間が電化されるのは翌年であり、この時はD51が牽引する客車列車で二本木のスイッチバックを通過しました。長野で乗り換え時間が少しあったので、長野電鉄で長野-権堂間を往復し、長野発長野行の時計回りの循環準急「のべやま号」(反時計回りは「すわ号」)で集合場所である清里に向かいました。

 現地解散後、小淵沢から「アルプス号」で甲府に出て、1年前から走り出した80形300番台車4連の準急「富士川号」に静岡まで乗車しました。80形は京阪神の急電、快速でいつも乗車していましたが、他の地区では153系が誕生するまでの一部の準急列車に使われていて、東海道本線でも1957年から1958年の約1年間「東海号」や「比叡号」に運用されました。
 この頃身延線は東海道本線の上り方向から富士で合流していましたが、身延線沿線にある宗教団体に参拝する東京方面からの団体列車が、富士で方向転換しなければならなかったので、これを解消するため1969年に富士-入山瀬間が下り方向から合流するように路線の付け替えが行われました。これに伴い準急「富士川号」は静岡方面から富士での方向転換が必要になり、これを引き継いだ今日の特急「ふじかわ号」もスイッチバックが行われています。
 静岡から名古屋までは初めて新幹線の「こだま117号」に乗車することにしました。この頃の新幹線は開業してからまだ1年未満で東京-新大阪間が「ひかり号」の所要時間が4時間で、5時間の「こだま号」と交互運転の1時間ヘッドのダイヤを組んでいました。(毎時東京および新大阪00分発はひかり、30分発はこだま)
 1965年8月21日当日は折からの台風で新幹線も遅延しており、名古屋到着時点で名古屋から金岡(現、堺市)まで乗継割引で買っていた19:00発の特急「あすか号」は、名古屋をすでに発車していました。やむなく後続のキハ55系の19:30発の準急「かすが3号」で帰阪することとなりましたが、以降、「あすか号」は2年半という短命だったので、同列車にも阪和貨物線にも乗車することはできませんでした。
 今から考えても残念に思っています。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月04日 22:31:48 No.43
[135] Re: こんなんありました(1965年8月19~21日、同好会夏の小海線合宿)
投稿者: GET A 投稿日:2020年 3月31日(火)19時06分18秒 通報 返信・引用

よく覚えていませんが、(快速せんり5号)に古田さんが合流とありましたので1名は古田さんではないでしょうか、もう1名は長浜さんとは違うでしょうか。
小海線へは1965年と1967年に合宿していますが、写真は1965年ですね。


現役時代の想い出集3(1967年11月23日~26日) 管理人 投稿日: 2022年07月03日 21:46:33 No.35 【返信】

[127] こんなんありました
投稿者: GET A 投稿日:2020年 3月25日(水)17時58分29秒 通報 返信・引用

66年か67年の千里祭の写真が出てきたので投稿します。
写真に写っている人が見ていてくれれば幸いです。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月03日 22:00:34 No.41
[128] Re: こんなんありました
投稿者: ならやま 投稿日:2020年 3月26日(木)00時10分32秒 通報 返信・引用 > No.127[元記事へ]

私の学籍番号は新66-174(文学部新聞学科1966年入学)で、GET A 先輩は1年上になりますが、この千里祭の写真の光景は知りませんので1965年かそれ以前の写真ではないでしょうか?
写真展や研究発表的な壁面展示は無く、HOゲージの力作レイアウトがすべての、これぞ楽しい鉄道同好会!、
で、まだ建築学科も無い時代にもかかわらず、特急電車の側板窓抜き表現のみならず天井板まで設けた造作は素晴らしいですね。
HOゲージレイアウトにも大きな山を作ったけれど、そこにトンネルを作って線路を通す~なんてことは完全に無視した潔さも素敵です。
お宝写真を有難うございました。
[2] 管理人 投稿日: 2022年07月03日 21:58:29 No.40
[129] Re: こんなんありました
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年 3月26日(木)12時27分33秒 通報 返信・引用 > No.127[元記事へ]

GET Aさん
この写真は本当に千里祭の写真でしょうか?
ならやまさんが知らんとなると1965年しかないわけですが、私、こんなん知らんで。
知った人もいないし、特急車も憶えてません。教室の雰囲気もよその大学と違う?
[3] 管理人 投稿日: 2022年07月03日 21:56:35 No.39
[130] Re: こんなんありました
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 3月26日(木)23時35分26秒 通報 返信・引用 > No.129[元記事へ]

GET Aさん・ならやまさん・西邑さん
 この写真について記憶から推理してみます。
 最初に上2枚と下1枚は時間と場所が異なりますね。上は張りぼての山ですし、下は絵にかいた山でコンパネの土台も異なります。ここでは上2枚について考えます。
 まず1965年の千里祭ではありません。この年度の千里祭は私が1年生で使い走りをしましたのでよく覚えています。この時のテーマは『関西の特急列車』でした。展示の目玉は私鉄各社の特急のヘッドマークを借りて陳列しました。
 私は先輩について飛び込みで阪急、阪神、近鉄、京阪、南海のそれぞれの本社に貸し出しのお願いに行きました。それぞれ各社の対応が異なり学生証を見せるだけで貸してくれる会社や借用書を提出しなければならない会社がありました。阪急は新品の京都線の特急標識、阪神は赤胴車の本線特急の標識、近鉄は基本が有料特急でしたが、まだ奈良線の800形、820形の無料の特急が残っており鹿マークの特急標識、南海は手書きの和歌山行特急の標識を貸してくれました。
 一番手古摺ったのは京阪でした。1900型の鳩マークを借りようとしたのですが、なかなか一筋縄でいきません。最後の手段として「他の4社さんは貸してくれますが京阪さんが駄目なら段ボールで鳩を作ります。」と言いましたら、「仕方がないですねそれでは淀屋橋駅から回送します。」と言ってようやく借りることができました。今から考えれば京阪は車両の一部の取り扱いだったようです。鳩マークは厚さ3mmほどの鉄製でそれだけでも重く風呂敷に包んででも羽先の部分が飛び出し、車内で変化な顔で見られ困った記憶があります。
 国鉄は関西のブルートレインのルーツとなった「あかつき」のヘッドマークにしようということになりました。当然貸し出しなどは出来ずベニヤ板とボール紙で作ることになりましたが、当時は資料が全くありません。時間がなかったので4年生のK林先輩と向日町運転所で実物を計測しようということになりました。
 そこで上り終着駅の新大阪駅で「あかつき」の回送列車に飛び乗りました。途中で乗務員に理由を申告しましたが、走っている列車から降りろとも言えず、「仕方ないですねそれでは、向日町に到着後ドアを空けますから十分注意して下車し、測り終えたら構外に出てください。」といわれ無事計測し、それを基に3分の2の模型が完成しました。この時20系客車に乗車するのも初めてで、当然向町運転所への引き込み線に乗車するのも最初で最後でした。今から考えるとよく無謀なことをしたと思います。
 1966年度は、会長がアカデミックな人でしたので『大阪市電』がテーマになりました。この時も境川にあった大阪市交通局を訪問し色々教えてもらった後に、全廃がほぼ決まっていましたので、50年後100年後に後悔することはありませんかと書生論的な質問をすると、困ったような顔をされていました。丁度今年が54年後ですが今でも市電が復活すればよいと思っています。
 さて1967年度がこの写真です。模型班の会員が多くなり模型中心の展示となりました。この年初めて模擬店をやろうということになり、サシ181の車窓から模型が見られれば実感があるとの提案があり、ベニヤ板を切り抜き特急色に塗り上げました。この店で西邑さんがリーダーになり紅茶やコーラを販売しましたが、コーラは駅前通りの店から木箱単位で購入し、当時は缶入りやペットボトル入りがなく、すべて瓶入りで瓶の返還も必要だったため相当重い経験をした思い出があります(重い思い出)。コーラをコップに次ぎストローを付けるだけで倍額で販売するという相当あくどい商売でした。西邑さんは反対から見ていたので記憶がないのではありませんか。特急列車で一番苦労をしたのは切り抜き窓で子供たちにとげが刺さらないかということでした。そのためHゴムの如く灰色のビニールテープを貼ろうとしましたが上手くいかなかったことを覚えています。
 この時、ならやまさんは一人で黙々(この表現が一番適切)と会場を目につかせるため入り口に蒸気機関車の乗務員室助手席側3分の1切断のモニュメントを作っていました。たぶんモデルはC57のキャブだったと思います。あまり熱中したことから全体の記憶が抜けているのではないでしょうか。素晴らしい出来栄えで交通科学館に寄贈できるのではないかと思っていました。
 「栴檀は双葉より芳し」と言いますが、その後のお二人の就職先とお仕事を暗示していたようです。
 この年の最後の思い出は、部室がありませんでしたので大量に購入したコンパネ類をどこに保管するかでした。千里ニュータウンに住まわれていたO田さんの自宅に預かっていただくことになり、全員、二人一組でコンパネの両端を持ち、学校から千里山団地のふちを通り山越えをして運びました。遠くから見ればアリが大きい獲物を運んでいるように見えたと思います。
 以上の記憶が正しいかわかりませんが、間違いをご指摘ください。1966年と1967年が入違っているかもしれません。なお下1枚は1968年度以降と思います。

 写真は多分1966年の大阪市電展の法文学舎302Rの入り口です。1967年も同じ部屋か隣の部屋です。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月03日 21:52:51 No.38
[131] Re:こんなんありました
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年 3月27日(金)12時52分3秒 通報 返信・引用

すごいね。つくばねさんの記憶力。それだけつくばねさんもクラブ活動に打ち込んだいうことですね。いろんなことが私の中でよみがえりました。
ありがとうございました。若かったねえ、あの頃は。

私も写真引っ張り出しました。
第7回千里祭 昭和42年11月23日~26日とあります。
写真1.つくばねさん文中のならやまさん製作のC57です。見事なものですね。
ならやまさんの笑顔が印象的です。しかし大学院の前にこんなもん作ってようクレームなかったね。

写真2.次は、その時の模擬店の飲食券。これまたすばらしい出来です。ならやまさんでしょうね。裏には会場地図、展示内容、それに角印まであります。
あまりにいいものなのでずっと保存しておりました。
サシ181は、そんなことしたなーとは思い出しましたが、その色合いや窓枠の出来具合などは、おぼえていません。


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月03日 21:50:14 No.37
[132] Re: こんなんありました
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 3月27日(金)21時48分32秒 通報 返信・引用

西邑さん
 記憶を記録で証明していただき有難うございます。昔のことは断片的に覚えていますが、最近のことはすぐに忘れてしまいます。認知症の始まりでしょうか。クラブ活動だけでなく、勉強にも打ち込んだ記憶があるのですが間違いでしょうか。
 それにしても資料がすぐに出てきますね。さすがです。私の方は寮生活もし、何回か引っ越しをしましたので収集した乗車券類を除き散逸してしまいました。
 C5710の配置区、製造年、製造会社の情報は正確ですね。1937年09月25日に汽車製造大阪 NO.1502で 新製され、配属は広島局、配置は小郡機関区でした。その後、山陽筋、九州北部を転属し、1960年ごろに豊岡機関区から福知山機関区に転属し、1968年10月28日に同区で廃車となっています。この模型ができてから1年たたないうちに廃車となりました。
 門司港機関区時代、同じく汽車製造大阪で製造された僚機C5711、C5712とともに1953年3月15日のダイヤ改正で復活した特急かもめを牽引(博多-門司間)する運用に機番指定されました。
[6] 管理人 投稿日: 2022年07月03日 21:48:42 No.36
[133] Re: Re:こんなんありました
投稿者: ならやま 投稿日:2020年 3月28日(土)00時43分9秒 通報 返信・引用 > No.131[元記事へ]

西邑様
なつかしい写真を有難うございます。
徐々に思い出してきました。
原寸のC57運転台は、千里祭の会場(教室)の入り口に設置していたものを終了後に屋外に持ち出して記念撮影したのかと思います。ベニヤ板と角材でよく作ったものですね、我ながら。
西邑先輩の笑顔も素敵です。
これを作っていたから、教室内の造作には関わっていないので模擬店の造作は記憶が薄かったんでしょうか。
模擬店の飲食券もよく保存していてくださっていて感激しています。
キャビネの厚手印画紙を細長く切断したものに暗室作業で『列車写真』部分と『飲食券』部分を別々に露光して1枚のプリントに仕上げましたので、列車写真は何種類かあったと思います。
切符の券面を模した『飲食券』部分はレタリングした文字を白黒写真複写したものです。

社会のしがらみや損得に関係なく、鉄道が好き!でたまたま縁あって出会えた皆様と、未だに撮影会や忘年会でお会いできる幸せを改めてかみしめている今日この頃です。
今年も学園祭期間中の土曜日・13時になつかしの千里山学舎に集いましょう!


現役時代の想い出集2(1967年4月30日・5月22日・5月27日) 管理人 投稿日: 2022年07月02日 22:55:11 No.33 【返信】

[108] こんなんありました(1967年春の同好会の行事から)
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 3月12日(木)22時55分5秒 通報 返信・引用 編集済

*画像1:1967年4月30日・新入生歓迎撮影会
 江若鉄道三井寺下機関区。この2年6か月後江若鉄道は、全線廃線になりました。後方のキハ14形17は、お座敷列車に改造されたため、一般列車としての使い勝手が悪く休車となっていて、廃線を待つまでなくいち早く廃車となり解体されました。
*画像2:1967年5月22日・奈良運転所取材
 「鉄道ピクトリアル」誌の「運転所を訪ねて」シリーズの6回目として1968年5月号の76~77ページに「関西大学鉄道同好会」の名前で掲載されました。後方のC58は、奈良線、桜井線の貨物用、C11は、構内入れ替えと片町線の貨物用です。
*画像3:1967年5月27日・OB現役合同コンパ
 現在も続いている難波の赤垣屋さんで開催されました。今のOB会の発会式のようです。鬼籍に入られた方も何人か居られます。

 このような昔懐かしい写真があれば、「こんなんありました」シリーズとして、OBの皆様の投稿をお待ちします。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月02日 22:57:43 No.34
[109] Re: こんなんありました(1967年春の同好会の行事から)
投稿者: ならやま 投稿日:2020年 3月14日(土)01時57分24秒 通報 返信・引用 編集済 > No.108[元記事へ]

つくばね様
「こんなんありました」有難うございます。
懐かしいこれらの写真は、すべて自室を暗室にして私が白黒プリントして配ったものだと思います。
それもキャビネサイズで。
私は高校の時は写真部で現像/プリントは手慣れたものだったので、当時は千里祭で展示する写真は部員が我が家に集まって部屋を暗室にして酢酸の匂いを嗅ぎながら、四つ切や半切の印画の大伸ばしのみならず写真パネルまで手作りして皆で展示作品を仕上げたものです。
毎年、千里祭前の写真プリントの当日は母親がカレーを作ってくれました。 先日、浜松のI君から『下宿生活だったから、千里祭前にお腹一杯食べられるあのカレーが楽しみだった』との回顧談を聞きました。

学生時代のたった4年間、鉄道という媒体が取持つ縁で知り合った仲間が今でもこうして語りあえるというのは本当に素敵な事だと改めて思う今日この頃であります。
ちなみに、一年後輩の尼崎のI君とは、高校の写真部時代からの腐れ縁(失礼)


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