特別快速「せんり2号」関西大学鉄道研究会OB会掲示板


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ここは何処シリーズ4 管理人 投稿日: 2022年07月14日 14:04:07 No.101 【返信】

[671] ここは何処?2
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 7月 5日(月)22時50分49秒 通報 返信・引用

 投稿が無いので「ここは何処?」の第2弾です。今回は、撮影月日が特定できたものです。

 写真1は、1964年4月5日の撮影です。機関車の機番は、EF596(元EF535)です。
 写真2は、1967年9月4日です。当時は現像済みフイルムとベタ焼きで残っているものが多く、焼き伸ばししたものは僅かしかありません。ベタ焼きをスキャンしたらこのようになりました。初めてC622を間近で見ることができました。
 写真3は、1971年12月19日で、とある温泉の帰りに遊歩道を散策するために途中下車をしました。この線は、この年の3月に延伸され線路名称も変更になり、同時に全線電化されたことにより普通列車に旧型国電が走りだしました。この駅は政治問題化したダムの建設により水没するため、新線に付け替えられて駅も高台に移転しました。かつては特急も停車していましたが、今年の4月1日から無人駅となりました。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月14日 14:25:43 No.107
[672] Re: ここは何処?2
投稿者: 増田純一 投稿日:2021年 7月 8日(木)21時55分43秒 通報 返信・引用 編集済 > No.671[元記事へ]

快速つくばね様

昭和を感じさせる場所の写真ですね。
一枚目は、瀬野機関区でしょね。私もホームから撮った写真がありました。
添付します。
二枚目は判りません。山陽本線内でしょうか?
三枚目は中部天竜ではないですか?飯田線の旧国がなくなる頃良く行きました。


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月14日 14:23:40 No.106
[674] Re: ここは何処?2
投稿者: ならやま 投稿日:2021年 7月11日(日)23時53分44秒 通報 返信・引用

快速つくばね様

写真2のC62 2はホームの曲がり具合と背後の山(函館山)から函館駅ですね。

C62 2にまつわる内緒話。
N工藝社入社3年目の昭和47年に、鉄道百年記念として開館した梅小路蒸気機関車館の展示作業を担当しましたが、この時の展示建屋は既存の元食堂や事務所など3棟の室内のみを使ったささやかなものでした。
平成9年(1997年)に旧二条駅舎を移設して展示本館に大改装する折ももちろん担当して、模型と映像で『蒸気機関車の動かし方』のコーナーを新設する事になりました。
JRさんから『どのSLを撮りますか?』と聞かれたので躊躇する事なく『C62 2で!』
映画撮影は、火を落とした機関車の釜に油をしみ込ませたウエスと枕木の『半スレ』で火を点け徐々に大きなマキ・石炭と半日かかって蒸気圧を上げ、やがて安全弁から蒸気を吹き出す様や、機関士/機関助士の動きや操作を克明に見せ、SLを動かすのがいかに大変かを見せるVTRですが、あこがれのC62 2の運転席に添乗し放題の楽しい業務でした。
誰に気兼ねする必要もなし。脚本・演出・監督は私でしたから。
この展示は、京都鉄道博物館になった現在も元の蒸気機関車館展示室でそのまま残っていますから行く機会があれば是非ごらんください。
[3] 管理人 投稿日: 2022年07月14日 14:21:08 No.105
[675] Re: ここは何処?2
投稿者: GET A 投稿日:2021年 7月12日(月)16時48分33秒 通報 返信・引用

1枚目は瀬野、瀬野八越えの後ろ補機ですね、EF59の後継はEF67になりましたが、EF210-300台が変りを務め、EF67は1台しか残っていないようです。
EF67の1次型はEF60からの改造車でおそらく最後のデッキ付き機関車(片側)以前は走行中に補機を開放していましたが、今は天神から西条まで連結を外さず運行。

2枚目は ならやま様 の指摘通りホームのカーブと後ろの山から函館駅と思います。
3枚目はさっぱり判りません、感じは飯田線と思いますが中部天竜、天竜峡以外での下車経験がないので判りません。

写真1:EF59 後部だけゼブラ模様 1968 瀬野
写真2:EF67 プッシュがわだけデッキが付いている 2012 西条
写真3:2013 函館


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月14日 14:18:15 No.104
[677] Re: ここは何処?2ー1
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 7月15日(木)23時01分54秒 通報 返信・引用 編集済

増田会長 様
GET A 様

 お二人のコメントありがとうございます。正解です。高校の修学旅行の時に瀬野駅で補機を増結するために停車した折に車内から撮影した写真です。EF59は、1963年度末(つまり1964年3月)に岡山-広島間の貨物列車を電気機関車に置き換える際、瀬野八の補機も全面的に電気機関車に置き換えるためにEF53から改造されました。1カ月前であれば、この区間の補機はD52が担当していました。
 増田会長様に投稿していただいた写真は、後継機として導入されたEF61形200番台が写っていますので、1977年以降ですね。この機関車は、重連運用ができないという致命的な欠陥がありました。
 GET A様に投稿していただいたのは、後継機のEF61形200番台は期待する能力を発揮しなかったため、1982年からEF67形が開発・増備されました。

 写真は、その時の修学旅行の長崎-大阪間の臨時列車の車内です。座席の様子から見てスハ43形系列と思われますが、台車が見えないので形式は分かりません。たぶん繁忙期に臨時の「第2玄海号」などに使用した車両でしょうか。この時の車内状景は、半年前にヒットした舟木一夫さんの「修学旅行」の歌詞そのものでした。
 この時編成の最後部から見えた景色は、上り線の道床は滑り止めで撒かれた砂で真っ白になっており、下り線の道床はブレーキで飛び散った鉄粉が錆びて真っ赤になっていました。


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月14日 14:14:33 No.103
[678] Re: ここは何処?2ー2
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 7月17日(土)22時22分25秒 通報 返信・引用 編集済

ならやま 様
GET A 様

 解答有難うございます。正解です。
 函館駅のC622が先頭に立つ「ていね号」です。後部の山は函館山で、このホームは青函トンネル開通後、「北斗星号」や「はまなす号」が折り返す専用ホームとなりました。この日は、札幌から夜行の「たるまえ号」で函館に到着し、午前中に函館市内の観光を終え、大沼公園付近で上り「ていね号」を撮影するために、下り「ていね号」に乗車しました。
 この頃、「ていね号」に関連する小樽築港機関区の運用は2つあり、ひとつは本務機として小樽-函館を往復し、函館で夜間「たるまえ号」の函館-長万部間往復の運用も担当し、翌日機関区に戻っていました。もう一つは前補機として小樽-長万部間を日帰りで往復していました。寝ていて知らなかったのですが、前夜に乗車した「たるまえ号」も長万部から函館までC622が牽引しました。
 北海道には最多期で7両のC62が配置(先行してC623がテスト導入された)され、山線と呼ばれる函館本線長万部-小樽間の急行列車を重連で牽引していました。東海道本線、山陽本線の電化区間が西進することにより、C62に余剰が生じ好調機は、次々と山陽本線の西部の機関区に転属しましたが、その選に漏れた不調気味の保留車・余剰車は軸重軽減改造とボイラー交換を施工した後、函館本線へ転用されました。その中でも最も調子の悪かったのがC622だったようです。
 C622は1951年に鷹取工場で、当時行われていた模範整備運動と宮原機関区からの要望で、ステンレス製の「つばめマーク」が除煙板に取り付けられていました。函館本線ではC622が重連の先頭に立つことが多かったのでファンサービスとも見られましたが、実態は、前補機は長万部でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着でき、運用による負担が軽かったからのようです。東海道線時代から不調気味で乗務員から信頼の薄いC622は、前補機として限定運用され、現場では早くから札幌鉄道管理局に廃車の要求を出していたようです。
 その後、北海道の客車急行の気動車化が進み、特急への昇格、札幌近郊の電化と徐々にC62の活躍の範囲が狭まり、好調だった本務機を務めた他の機関車は走行距離が伸びたため全検周期が早まり次々と廃車になり、1970年代に入った最終期には電化された呉線から応援のために転籍した全検周期の残っていたC6215・16の2両とC622・3の4両となっていました。
 1971年9月から「ニセコ号」がDD51の牽引となったため、C62は運用から退きC62 15・16が同年11月24日付で廃車・解体されました。C622は長万部-小樽間の普通列車運用に充当された後、翌1972年10月10日付で梅小路機関区に転属し、同機関区に併設された梅小路蒸気機関車館で動態保存されることとなりました。(C62 3は、1976年3月に小樽市の北海道鉄道記念館で静態保存後、現在は苗穂工場に保存)
 そういう意味では、函館駅で撮影したC622は貴重な写真で、この機関車は、幾多の危機を乗り越え、49両製造されたC62の中で唯一動態保存されている幸せな機関車であったといえます。

 写真-1は、無煙化直前の1971年の夏、長万部駅を重連になって出発する「ニセコ3号」。本務機はC623、前補機がC622。
 写真-2は、現在の函館駅。「ていね号」が停車したのは、一番奥の現8番乗り場。函館寄りに連結された荷物車、郵便車を内地に継送するため線路が連絡船までつながっていました。


[6] 管理人 投稿日: 2022年07月14日 14:08:00 No.102
[679] Re: ここは何処?2-3
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 7月20日(火)21時57分52秒 通報 返信・引用

増田会長 様
GET A 様

 難しいと思い数多くのヒントを付けました。
 地方で横須賀色の旧型国電が走っていて、思いうかぶのは第二次世界大戦下に私鉄が国有化された飯田線と身延線だと思います。温泉地として前者は湯谷温泉、後者は下部温泉がありますがそれほど大きい温泉ではありません。
 その次に、戦後徐々に地方線区が直流電化され、導入する車両は短編成で扉の数が少ない方が良かったため、都市区間での101系を始めとする新性能車の投入により余剰が出てきた2または3扉の旧型国電が投入されました。代表的な線区が、両毛線、上越線(高崎-水上間)、信越本線(高崎-横川間)、吾妻線でこれらの電車を収容するために1959年に新前橋電車区(高シマ)が開設されました。
 答えはずばり吾妻線の「川原湯駅」(現:川原湯温泉駅)です。
 とある温泉とは「草津温泉」、政治問題化したダムとは、民主党政権時代の事業仕分けで『コンクリートから人へ』の掛け声のもと建設中断となった「八ッ場(やんば)ダム」です。この時の国土交通大臣は前原誠司さんで、彼は筋金入りの鉄道フアンですから、水没地域に含まれませんでしたが吾妻渓谷遊歩道に並行した吾妻線の景観や日本一短い鉄道トンネル樽沢トンネルがなくなるので反対したのではないかと思っています。(個人的な見解です)
 吾妻線は、1971年3月7日に延伸し電化する前は長野原線と呼ばれていました。電車の行先板もよく見ると長野原行きとなっています。この線は不思議なことに電化する前から電車が走っていました。
 最初は、80系列の電車で1960年から準急「草津」、「上越いでゆ」、「くさつ」と名前を変えながら、非電化の長野原線区間をC11形蒸気機関車牽引で控車兼電源車のオハユニ71形を本系列4両編成に連結して運転されていました。この状況はよく鉄道趣味の雑誌に掲載されていました。1961年から153系に変更され、愛称も「上越いでゆ」、「草津いでゆ」に変わりましたが長野原線区間は、気動車列車に置き換わるまで同様の形態が続いていました。
 その後、特急「草津」に格上げされ、185系の時代が長く続き、現在は651系1000番台が走っています。

 OB会の皆さん、このような昔懐かしい写真があれば、出題をお願いします。


ここは何処シリーズ3 管理人 投稿日: 2022年07月13日 11:29:25 No.90 【返信】

[657] ここは何処?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 6月 2日(水)22時33分16秒 通報 返信・引用

 GET A様 有難うございました。合図灯の仕組みよく理解できました。昔、自転車の前に取り付けた四角い単一2本の懐中電灯とほとんど変わらない構造ですね。

 久しぶりに50年以上前の「ここは何処?」の写真を3点投稿しますので、返信(コメント)でお答えください。最近の現地の写真の投稿も歓迎します。

 写真1の機関車の機番は、48635です。
 写真2の機関車は、D5228ですが、1964年05月16日に糸崎機関区から転入し、1969年03月23日に五稜郭機関区に転出しましたが、僅か6カ月で廃車になりました。
 写真3の京阪電車は、窓の配列から1100型、大阪市電は、ワンマンカーに改造された港車庫の2201形か2601形のようです。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 12:24:28 No.100
[658] Re: ここは何処?
投稿者: 増田純一 投稿日:2021年 6月 4日(金)09時34分54秒 通報 返信・引用

快速つくばね様

懐かしい写真拝見しました。
写真3は、片町太閤園の付近ですかね?京阪1100型と大阪市電の平面交差、小生写真は撮っていませんが記憶には残っております。あべの橋から守口車庫の系統も走っていましたね。
[2] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 12:22:25 No.99
[659] Re: ここは何処?
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年 6月 4日(金)13時58分22秒 通報 返信・引用 > No.657[元記事へ]

ご無沙汰いたしております。心筋梗塞を患いまして先月は入院しておりました。
危うく死ぬところでした。いくら体には気を付けて暮らしていても、年には勝てないということもありますね。長距離の乗り鉄は何となく控える気になっています。

ここは何処? 48635は奈良区のゼブラ塗りのやつを王寺駅でよく見ましたが、これはどこかわかりません。後ろのごく小高い丘がヒントなのでしょうが、わかりません。

D5228は吹田第一のを東淀川や城東貨物線で見てました。なんともでっかい機関車とびっくりしたものでした。場所わかりません。

京阪と大阪市電の平面交差。片町ですね。向こうの木々は太閤園。今年春創価学会に身売りしましたね。会館になるらしいです。右側の小さなビルは水間組、今もあります。銀行看板は大和銀行。
[3] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 12:20:14 No.98
[660] Re: ここは何処?
投稿者: GET A 投稿日:2021年 6月 5日(土)17時21分24秒 通報 返信・引用

西邑様
快復よかったですね、今後ものんびりと無理をせずお過ごしください。

快速つくばね様
1枚目の写真は後方の景色に特色が無く、直方かと思いましたがもっと近くで考えました。
 畑と藪から木津と思いますが、よく判りません。
2枚目は城東貨物線の放出と思います、吹田とはちょっと趣が違うと思います。
3枚目は皆さんがご指摘の通り片町と思います。

写真1:木津のホームから、後ろの畑と藪が似ているように思う
写真2:放出でのD5228
写真3:片町の大阪市電停留所の看板が映り込んでいます、写っているバスは近鉄バスです。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 12:16:38 No.97
[661] Re: ここは何処?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 6月 5日(土)22時57分0秒 通報 返信・引用 編集済

増田会長 様
 早速のコメントありがとうございます。
西邑宏 様
 しばらく投稿が無いので心配しておりました。改めてお見舞い申し上げます。われわれの年代になれば、「便りのないのが良い便り」ではないのですね。コンピュータでいうところのヘルスチェックが必要ですね。
GET A 様
 解答の集約ありがとうございます。また、関連する写真の投稿もありがとうございます。それにしても関連する写真の引き出し方はすごいですね。しっかりした蓄積されたデータベースと検索システムがあるということですね。

 写真1は、3線が交わるジャンクションの木津駅で、関西本線の中間駅でしたが、片町線の起点駅と奈良線の終点駅になっていました。それぞれの貨物列車を入れ替えるため、隣駅にある奈良運転所から昼間8620が1両派遣されていました。現役時代の奈良運転所には、片町線貨物列車用のC11が4両と木津駅入替用の8620が2両配置されており、片町線は常時3両が運用についていて1両が予備でしたが、検査等で工場に入場しているときにもう1両に不具合が生じた場合は、共通の予備として8620が借り出されていました。その場合は放出や片町に転車台が無かったため上り方面の列車は逆機運転をしていました。グーグルアースによると木津駅の東側の田園地帯の光景は、50年後の今も変わっていないようですが、丘の上は宅地が開発され住宅団地になったようです。
 写真2は、片町線の最大の構内面積を有する放出駅でした。この機関車は、D5228ですが、城東貨物線用として同時期にもう1両D52142がいました。この車両は、1960年10月1日に姫路第一機関区から吹田第一機関区に転入しましたが、船坂峠を含む山間を走っていたためか集煙装置が付けられ重装備の機関車でした。当時の城東貨物線の線路等級は2級線(旧乙線)であり、重量貨物が走るので線路が継ぎ目で波打っており雨が降ると枕木の下に水溜りができるほどで、他に邪魔をする列車がいないため構内運転速度で左右に傾きながらゆっくりと走っていました。D52142は、1969年1月30日に牽引機として城東貨物線を走行中に安全確認を怠って踏切内に進入したダンプカーと衝突する事故に会い、本機は脱線破損しましたが、修復後1969年3月14に五稜郭機関区に転出しました。
 この写真は、現在開かずの踏切となっている放出街道踏切から撮ったものですが、後方左側奥が第二寝屋川を隔てて所在した放出貨物駅で、いまは住宅地となっており、列車が走っている城東貨物線本線は、現在の片町線下り線となっています。
 写真3は、皆さんのお答え通り片町で京阪本線と大阪市電が平面交差するところです。京阪本線は、大阪市電とこの1カ所、京都市電と3カ所で平面交差していました。いつもこのように車で渋滞していましたが、1968年12月18日に都島本通-阿倍野橋間の廃線により片町電停が廃止され、京阪本線の片町駅(旧野田橋駅)も天満橋駅-旧蒲生信号所間の高架複々線化により1969年11月30日に廃止されました。さらに片町線の片町駅も1997年3月7日のJR東西線の開業に伴い廃止となったので、三つあった片町駅(電停)はすべてなくなりました。

 今回は、片町線の起点駅、中心駅、終点駅(当時)でした。

 写真1は、当時の木津駅に名古屋発湊町行キハ35系列4連が到着するところです。架線がなく橋上駅でなかったので空が広いですね。
 写真2は、当時の放出駅の構内図です。右方向が片町方、左方向が木津方、龍華方です。上部が川を隔てた放出貨物駅で本線と結ぶ引上げ線は、現在保線基地として残っています。


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 12:13:54 No.96
[662] Re: ここは何処?
投稿者: GET A 投稿日:2021年 6月 8日(火)17時44分51秒 通報 返信・引用

快速つくばね様
 検索システムはありませんが、会社勤めを卒業後、時間がたっぷりあったので、ネガフィルム全部を
 スキャンしてパソコンで形式ごとに分類しています。

片町線の昔のなつかしい写真を載せます、快速つくばね様が地盤だったのであまり撮影はしていませんが。
写真1:放出の全景
写真2:未電化、単線の田辺駅、周りは田園で駅員がタブレットを持っているのどかな風景
写真3:木津駅、非電化で貨物も走っていた。


[6] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 12:04:34 No.95
[663] Re: ここは何処?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 6月 9日(水)23時06分5秒 通報 返信・引用

GET A 様
 またまた懐かしい写真ありがとうございます。片町線は私の地盤でしたが、「何時でもとれる」と思っていて、ついでに撮ったもの以外はほとんど記録しておりません。
 写真1は、内環状線(国道479号)の阪東大橋から撮ったものですね。第二寝屋川の付け替え工事のようですね。放出貨物駅の線路が配線図と同じことが確認できます。
 写真2は、のんびりした風景で近鉄の新田辺駅までは一本道で途中何もありませんでした。
 写真3は、投稿番号の661と比べると3番乗り場の出発信号が、関西本線専用であったのが奈良線にも出発できるように変更されていますね。

 今回の写真1は、鴻池新田駅で交換するC11の牽引する貨物列車です。奈良-片町間に一日二往復あり、午前中の列車は11時15分ごろ、午後の列車は13時15分頃いずれもこの駅で交換していました。確か午前の上り列車と午後の下り列車は多分田辺(祝園?)で交換していたと思います。放出駅には夜間駐泊する小さな給炭設備と給水塔がありました。
 写真2は、鴻池新田-徳庵間を走る旅客列車です。元阪和電気鉄道のクタ7000形の社型電車を国鉄標準装備に更新したクハ25形の100番台車が先頭になっています。外板がノーシル・ノーヘッダーなので異彩を放っていました。大ヨトの付随車(クハ)不足を補うため、天オトから2両転入していました。
 写真3は、放出駅で交換待ちの城東貨物線3重連です。D52(吹一)+8620(龍)+C58(龍)の編成の有火回送ですが、時にはこのような情景が見られました。


[7] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 11:52:22 No.94
[670] Re: ここは何処?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 6月29日(火)12時24分35秒 通報 返信・引用

GET A 様
 近鉄の復刻塗色車の写真ありがとうございます。
 写真1の下段の一般車の塗色はこの色です。田原本線が関西本線をオーバークロスするところを外側から撮ったものですね。写真3は、動画を停止させたものですか。懐かしい色合いを思い出します。場所は奈良線(正式は大阪線)の今里駅の下り線ですね。

 今回は、片町線の幻の101系についてお尋ねです。
 公式記録では、片町線の新性能化のため1976年に101系電車が大モリ(森ノ宮電車区)から初めて転入して片町線で運用開始し、1977年3月に旧型国電の運用が終了したとなっています。
 ところが、私が1962年4月に高校に入学し通学に片町線を利用した時には既に101系1編成が定期運用に入り、限定運用のためか毎日乗車していました。編成は片町方からクモハ101-12+モハ100-13+モハ101-13+クモハ100+クモハ100―12の4両編成でした。片町線は、1963年12月5日に旧型国電の全編成を3M2Tで5両化しましたが、この編成のみ4両のままでしたが、オールM車では余力があるため1両をモーター開放(カット)していたようです。
 これらの車両の車歴を調べますと、モハ90形として1958年7月に製造され中央線快速用として東ミツに配備されました。1959年の国鉄の車両称号規程の改正により101系となり、6月1日付で次の通り改番されました。
モハ90533→クモハ101-12 モハ90534→クモハ100-12 モハ90035→モハ101-13 モハ90036→モハ100-13
 1959年9月の東ムコの開設により全車移籍しましたが、1961年11月6日の大阪環状線の101系運用開始にあたり他の車両と共に試験運用を兼ねて10月21日に大ヨトに貸出されました。どういう訳かこの4両は、11月18日に一旦東ムコに里帰りし、再度翌年の1962年2月2日に正式に大ヨトに転属しました。これは書面上の記録で、実態は約束を反故にして大鉄局が東鉄局に返還しなかったのかもしれません。大阪環状線は、城東線時代の1958年に全車6両編成になっていたので、最初から予備車を兼ねた片町線専用であったと思われます。
 片町線は、関西で最初に一部区間が電化された線区、最初に自動券売機が導入された路線ですが、新性能電車が走ったのも大阪環状線と同時期で嚆矢となりました。
 中間車2両は、国鉄時代の1984年9月30日に片町線の全車が103系に置き換わるまで活躍し廃車となりましたが、先頭車2両は、1980年3月24付けでクモハ100-12がクル144-4、クモハ101-12がクモル145-4の配給車に鷹取工場で改造され古巣の首都圏に戻りました。大井工場の部品を各電車区に配給するため当初は南シナに所属し、組織改正で南ヤテに、JR東日本になり東ヤテに配置箇所の名称は変わりましたが、廃車になる1999年5月までの19年間首都圏の各電車区を走り回っていました。10代のころ片町線で毎日通学に利用していた電車が、社会人になり通勤していた経路の常磐線の北マト(松戸電車区)に出入りしていたことは不思議な気がしますが、当時はこのことが分かりませんでした。最後となった同形の配給車の1編成は、現在もJR西日本に残っています。

 1960年代の片町線の101系4両の写真は、また何時でもとれると思い記録していません。ネット上を探しても見当たりませんでした。OB会の会員の中で写真をお持ちの方は貼り付けをお願いできませんでしょうか。

 同時期(1965年6月)の片町線です。
*写真1:住道-鴻池新田間の先頭車はクハ79055で、旧型国電で唯一の半流の4扉車でした。
*写真2:鴻池新田-徳庵間を走るクモハ73形で、踏切後方の建物は近畿車輛です。この道路は現在掘り下げられ片町線と立体交差しています。
*写真3:長尾駅の2番線で折り返す木津行のキハ10-4です。この頃は、1番線を片町方面からの折り返し電車が使用し、2番線との間は木津方の構内踏切で連絡していました。


[8] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 11:45:35 No.93
[673] Re: ここは何処?
投稿者: GET A 投稿日:2021年 7月10日(土)16時57分27秒 通報 返信・引用

快速つくばね様

 片町線は放出のSL以外はあまり興味も無く、電車は殆ど撮っておりません。

写真1:鴻池新田 67.7 79-948 101系のモデル?
写真2:放出 67.7 31-005
写真3:放出 67.12 79-065 他の79とは趣が違います


[9] 管理人 投稿日: 2022年07月13日 11:36:55 No.92
[676] Re: ここは何処?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 7月13日(火)22時38分44秒 通報 返信・引用

GET A 様
 片町線の写真ありがとうございます。
 写真1は、63形から発展した73系列の最終となった全金属車(920番台)で、これが進化して新性能の101系となりました。場所は、投稿番号670の写真1を180度回転した場所で、後方の工場は当時の丸松メリヤス工場で現在はイオンショッピングセンターとなっています。
 写真2は、廃車直前に片町線に集中配備されたクモハ31形です。この形式は戦争中に吹田工機部でモハ43形に扉を2つ増設し4扉化したもので、改造時期により増設ドアの幅、窓配置、ベンチレータの形態等1両ずつ個性がありました。13両が改造されましたが、1両は戦災で焼失し、モハ43029→モハ64013→クモハ31005となりました。
 写真3は、横須賀線用の2扉車クハ47形に大井工機部で2扉増設し4扉化した車両です。当初は10両全車の改造が計画されましたが、戦争が終わる時点で2両しか完成しませんでした。車番は、最終的にはクハ79060と79066になりましたが、2両の差異として66は前面左窓上に運行表示窓があり、60にはなかったので、この写真はクハ47010→クハ85036→クハ79066です。片町線には千ツヌから転籍しましたが、首都圏は保守する車両数が多いためか内装木部は剥離せずにニスを塗り重ねたため黒くなり、車内が暗かったのを覚えています。

 片町線の鴫野駅の変遷です。
 写真-1は、1962年に高架化された鴫野駅に進入する大ヨトから出場した上り回送のクハ79形920番台車です。
 写真-2は、1961年以前の高架化工事中の鴫野駅です。前方の木津方踏切で架線が大阪市営トロリーバスと平面交差しており、デッドセクションがありました。高架駅の上屋の柱には既に複々線用の城東貨物線用ホームの準備工事がしてありました。
 写真-3は、2015年10月5日のおおさか東線開業準備工事中の鴫野駅です。上屋の柱の位置が変更になったため、写真-2の準備工事が日の目を見ることがありませんでした。




ここは何処シリーズ2 管理人 投稿日: 2022年07月12日 15:33:34 No.87 【返信】

[433] Re: ここはどこ?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年10月26日(月)20時16分9秒 通報 返信・引用 編集済

西邑 宏様

 西邑さんの写真の位置をグーグルアースのストリートビューで確認しました。朝日橋に向かって撮られているのですね。市電は手前右側に回り、阪神の高架をくぐり大阪環状線とクロスするようですね。消防署は公営の複合施設になり、向かい側にはスーパーや王将がありますが、市電のあったころの方が活気があるように見えます。阪神高架橋の架線柱の中で桝形になっているものが目立ちますが、下半分は現在も残っているようですね。
 西野田桜島線に一時単線区間があったころ、ネット上を探すといろいろな写真が出てきますが、複線と単線が切り替わるところに信号所というより係員がいて、通票の授受をしていたようです。続行する電車がある場合は最後尾の車両が通票を受け取っていました。
 私も学生時代に今福から桜島駅前まで乗り通したことがありますが、現在と異なり春日出町を出ると完全な工場地帯で道路も舗装されていなく、併用軌道というより荒野に枕木とレールを置いたような状態でした。

 古い高校生時代の写真をスキャンしていたら、この写真がありました。55年以上前の写真です。
 ここはどこでしょうか。架線柱は現在もそのまま使用されているようです。もう少し手前で写せばすぐに分かったと思います。
 右側の光景は、随分変わりました。この市内にお住いの会員は最近の状景を投稿してください。
 この場所の想い出の投稿をお願いします。因みに機関車は、28675です。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月12日 15:37:41 No.89
[434] Re: ここはどこ?
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年10月27日(火)12時27分0秒 通報 返信・引用 > No.433[元記事へ]

つくばねさま
しばらく考えました。浜大津ですね。今はびわ湖浜大津というらしいですが。
実は私、国鉄貨物が走ってる光景は知りませんし、江若鉄道にも乗ったことがないんです。そもそもこのあたりに出向くようになったのは、社会人になってからでした。琵琶湖ホテルが柳が崎から移って来てこのあたりはずいぶん変わりましたね。
近辺にお住まいのOBも何人かいらっしゃるはず、近頃の様子を知らせてほしいものです。
いや、正解答をいただかずにいろいろ書くのもまずいです。よろしくお願いいたします。
[2] 管理人 投稿日: 2022年07月12日 15:35:34 No.88
[435] Re: ここはどこ?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年10月27日(火)12時55分42秒 通報 返信・引用 編集済

西邑 宏様

 たまたま同じ時間に、前回の投稿文を編集機能で修正していました。追加文章も読んでください。
 旧浜大津-島ノ関間です。正解です。この後ろで国鉄東海道本線浜大津支線が京阪電鉄石坂坂本線の浜側の線路と合流し膳所まで三線軌条になっていました。膳所-浜大津間はもともと東海道本線(その頃は浜大津が大津駅)でしたので資産は国鉄のもので、京阪電鉄、江若鉄道とも借り受けて運用していたようです。
 浜大津には、国鉄の貨物駅があり江若鉄道とは貨車の受け渡しをしていました。浜大津の江若鉄道の資産は、駅舎とホームの前の線路と機回し線だけだったようです。 留置線もなかったので、列車が到着すると清掃と給油のため、直ぐに三井寺下機関区に回送していました。
 この頃の江若鉄道の写真が残っていますので何時か整理して投稿します。


ここは何処シリーズ1 管理人 投稿日: 2022年07月11日 15:49:10 No.80 【返信】

 「現役時代の想い出集」の移行が完了しましたので、西邑さんが始められました全員参加型の「ここは何処シリーズ」の特別快速「せんり1号」から移行を開始します。当初は出題型でしたが、今回は解答も同時に移行しますのでQ&A(問答)型となっています。

[430] ここはどこ?
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年10月23日(金)12時26分22秒 通報 返信・引用

ここはどこ?

古い写真です。こんなん出てきましたが、いつのどこの写真かわかりません。どなたかおしえて下さい。地上線の高架化工事と思われます。右下に在来線の駅らしきものが見えます。また中央ずっと奥に大阪市電が見えます。この地上線をオーバークロスしているのでしょうか。
何で私がこんな所に立っていたのかも思い出せません。
昭和30年代でしょうが大阪市内の高架化工事の状況をご存知の方よろしくお願いいたします。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月11日 16:24:56 No.86
[431] Re: ここはどこ?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年10月23日(金)22時02分41秒 通報 返信・引用

西邑 宏様

 興味のある写真を拝見しました。
 この場所は、西成線(1961年4月24日まで)大阪環状線(同4月25日以降)の福島-西九条間の写真だと直ぐにわかりました。この区間は1959年3月24日~1964年3月22日にかけて高架化の工事を行っていました。
 高校生の時、野田駅付近で現場を見ていますが、元の地平線は南側、高架線はその北側に建設されていました。したがってこの写真は東側の方向を見て撮影されたものと思われます。
 次のヒントの大阪市電ですが、地平線の時は二か所で国鉄線をオーバークロスしていました。一か所は野田線が玉川四丁目-野田阪神電車前間、もう一か所は西野田桜島線が兼平町-西九条間で、前者は国鉄線に対して直角に交わり、後者は斜めに横切っていました。野田線は、1964年3月15日に大阪環状線高架化工事のため、玉川町四丁目-野田阪神電車前間が休止になり、翌年そのまま廃止になりました。西野田桜島線は、1964年3月21日~3月22日の間に上下切り替えが行われ、西九条付近にあった跨線橋部分の地平化が実施されました。切り替え直後から旧跨線橋が撤去されるまで同区間は単線で、一部区間市電が地平線であった国鉄旧線の上を走っていたようです。
 以上からこの写真は高架の西九条付近から野田方向を見て大阪市電西野田桜島線が写り込んだ写真であるように思われます。写っている市電は、この線は3001形が走っていませんでしたから、多分春日出車庫の更新改造された2600型ではないでしょうか。
 時期は、工事の状況から1959年3月24日~1964年3月22日の後半の時期で多分高校生の頃でしょう。
 どうしてこのような場所に入ることができたかよく分かりませんが、参考までに、阪神伝法線(西大阪線→阪神なんば線)は、1964年5月21日の開業を目指し、難波延長線第1期工事として西九条延伸工事をしていました。


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月11日 16:20:30 No.85
[432] Re: ここはどこ?
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年10月25日(日)11時54分15秒 通報 返信・引用 > No.431[元記事へ]

つくばね さま
早速のご回答、明解な解説、有難うございました。まさに鉄道生き字引のつくばねさんに感心いたします。
高架線が内側に出来たのか、外側に出来たのかを知りませんでした。オーバークロスが2ヶ所あるのも知りませんでした。

もう一枚写真をお目にかけます。昭和44年1月31日の西九条での撮影です。
玉川町4丁目行き2643です。
ご指摘のオーバークロスをもう少し西へ行ったところ、阪神西大阪線の高い高架をくぐったところです。阪神はもう西九条まで来ているのですね。街の様子はすっかり変わりましたがタクシーの横の消防署は近代的なビルとなってまだあります。


[3] 管理人 投稿日: 2022年07月11日 16:03:37 No.84
[554] Re: ここはどこ?
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年 1月30日(土)19時06分42秒 通報 返信・引用 編集済

西邑 宏様

 本日の朝日新聞の土曜日版「be」の原武史さんが連載されている「歴史のダイヤグラム」の記事で大阪環状線がテーマになっていました。
 この記事を読んで西邑さんが昨年投稿された「ここはどこ?」の西邑さんの立っていた場所、どうしてこの光景が撮影できたかが分かりました。
 基本的には[431] Re: ここはどこ?で正しいですが、この場所は、許されない場所に無理やり入り込んだのではなく、だれでも入れる場所だったのです。
 もう一度、大阪環状線の開通時点を整理すると、1961年4月25日に西九条から大阪臨港線の今宮-浪速間に設けられた境川信号場までが開通し、西九条-大正-天王寺間 (7.4km) の旅客線としての新規開業部分と城東線(大阪-天王寺間) (10.7km)、西成線(大阪-西九条駅間) (3.7km)、が一体化され大阪環状線となりました。なおこの時、西成線の残りの部分の西九条-桜島間が桜島線として分離・独立しました。
 当初は、大阪-福島間は単線で、西成線時代のまま西九条まで地平を走っており、西九条は野田・大阪方面は地平ホーム、弁天町・天王寺方面は高架ホームとなっており、西九条で線路が繋がっていなかったため、桜島-西九条-大阪-京橋-天王寺-西九条の逆「の」の字運転を行っていました。高校生のころ通学で京橋-鶴橋間を利用していましたが、大阪-天王寺間の区間運転の方が多かったように思います。
 これが答えですが、西邑さんは西九条の弁天町方面の高架ホームの大阪方から野田方面の建設中の高架橋を撮影したということです。
 1964年3月22日に西九条駅が高架化され線路が繋がり、大阪-福島間の複線化により全線複線化が完成し、晴れて環状運転が開始され、本当の意味での大阪環状線(Osaka Loop Line)となりました。
 結果的に撮影時期はさらに絞り込まれ、1961年4月25日~1964年3月22日の間となります。

*画像1:本日の新聞の切り抜きです。
*写真2:環状線高架建設中の大阪市電。オーバークロスして兼平町電停に向けて下るところ。登坂線の向こう側が大阪環状線の地平線。その奥が建設中の高架線。
*写真3:環状線高架移設後の大阪市電。単線となってアンダークロスするため元大阪環状線地平線跡に設けられた信号場。向こう側が市電の旧登坂線。写真2の登坂線を中心にして点対称にして180度向きを変えた写真です。大阪環状線の地平線に線路を敷き直し、架線柱はそのまま使っているようです。大阪環状線の信号機の支柱はそのまま残っています。係員がいますが、閉塞はどうしたのでしょうか。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月11日 16:00:39 No.83
[558] Re: ここはどこ?
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年 2月 1日(月)12時02分50秒 通報 返信・引用 > No.554[元記事へ]

つくばね様
 解決しました。すっきりとわかる回答ありがとうございました。
 逆「の」字運転の意味がいままでわからんかったのです。それで自分の立っている位置もわからんかったのです。
 ありがとうございました。


現役時代の想い出集11(2016年と2017年のOB会の忘年会) 管理人 投稿日: 2022年07月11日 15:43:14 No.79 【返信】

 今回をもって「現役時代の想い出集」を一旦終了します。今回はOB会の関西地区の忘年会です。このシリーズは、1960年代後半の話題に偏ってしまいました。これに続く世代の投稿をお願いします。

[448] Re: 関西地区忘年会の開催について
投稿者: GET A 投稿日:2020年11月 2日(月)15時56分2秒 通報 返信・引用

鉄道研究会会長 増田様,他皆様

忘年会が無いのは残念ですが、落ち着いたら又みんなでワイワイやりましょう。

以前の忘年会の写真を投稿します。
写真1:2016年
写真2:2017年1
写真3:2017年2




現役時代の想い出集10(1965年4月29日・6月5日・1967年1月4日) 管理人 投稿日: 2022年07月10日 15:12:19 No.74 【返信】

[407] Re: 今年の『学園祭鉄研OBミーティング(同窓会)』中止の連絡です
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年10月 6日(火)22時27分17秒 通報 返信・引用 編集済

 近況報告です。
 3月14日の時刻改正以来、国の新型コロナウイルス対策指針を遵守して、善良な国民としてお上のお達しを聞き入れ、全く鉄道には乗車していません。
 その間、鉄道に関する作業としてカメラのデジタル化以降の撮り貯めた写真の整理をし、その一部をこの掲示板に文字の記録と思い出の記憶を辿りながら、「一人旅シリーズ」として投稿しています。
 一方、鉄道の写真を撮り始めた1960年代以降の写真を、モノクロ時代からスキャンしてデジタル化保存を開始しました。その中から合宿や撮影会の集合写真を 50年以上前のものは肖像権が消滅したと勝手に定義し、「こんなんありましたシリーズ」として投稿しています。
 世間は、9月から「GO TO トラベル」や「GO TO イート」で旅行などの外部活動への誘いで騒がしくなってきました。たばこの禁煙と同じで6カ月を過ぎた9月の時点で私も禁断症状が出てきました。
 10月に入りまず県内から鉄道の旅を復活しようかと考えています。

 HP上『ミーティング(同窓会)』活動の一環として、最近、スキャンした1965~1967年の集合写真が出てきましたので貼り付けます。写真に写っている方は、関連する思い出話や写真を投稿してください。

 写真1・2は、1965年の写真ですから「〇66-○○○」以降の学籍番号の方は見たことがないと思います。
 写真1は、4月29日の新入生歓迎撮影会で、福知山線武田尾、福知山機関区を見学した時の集合写真です。写真2は、6月5日に見学会で鷹取工場、明石電車区を訪問した時の、明石駅前の明石城址で撮影した写真です。
 写真3は、1967年1月4日に新春撮影会として播但線生野-長谷間、福知山機関区を訪問した時の集合写真です。前年度とメンバーが替わっています。


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月10日 15:27:06 No.78
[409] Re: 今年の『学園祭鉄研OBミーティング(同窓会)』中止の連絡です
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年10月 9日(金)15時05分38秒 通報 返信・引用 > No.407[元記事へ]

つくばね様
懐かしい写真ありがとうございます。
蒸気機関車の顔に大勢で上がっての記念写真。こんなことができたおおらかな時代でしたね。
野郎どもの入ってないすっきりした写真を貼ります。
写真1 C1112
写真2 C5734
いずれも福知山機関庫。私の写真の裏には1965年5月5日とありますがつくばねさんの記録日とちがいますね。
55年もの前の写真は自分で撮ったのに有難い歴史的写真を見せてもらっている心持がしますね。


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月10日 15:24:16 No.77
[411] Re: 今年の『学園祭鉄研OBミーティング(同窓会)』中止の連絡です
投稿者: ならやま 投稿日:2020年10月 9日(金)23時25分33秒 通報 返信・引用

西邑 様

福知山のC11とC57のきれいな全景写真を有難うございました。

C11 12のデフとボイラー間の半円形パイプはツララ切りでしょうか?
水タンク間を結ぶタンク振れ止めのアングル材ステーも付き山陰線/福知山線での活躍ぶりが忍ばれます。ただ、ナンバープレートの数字のバランスが悪くどこか私鉄か専用線のC11のようにも見えます。
エンドビームがゼブラ塗りになっているのは構内入替え機の役目が増えたからでしょうか?

機関車に乗っての合宿記念写真~ほんとに夢のようないい時代でした。
[3] 管理人 投稿日: 2022年07月10日 15:20:54 No.76
[418] Re: 今年の『学園祭鉄研OBミーティング(同窓会)』中止の連絡です
投稿者: GET A 投稿日:2020年10月13日(火)19時15分12秒 通報 返信・引用

快速つくばね様
福知山へは1965年5月の記録が有りますが、当時は自分のカメラも無く、ネガも汚れてしまい1枚だけ、粗い写真が残っています、後は残念ながら全滅です。

写真1:福知山で残っている唯一の写真です
写真2:1969年名古屋のホテルからの写真C57と右上にかすかに0型新幹線が写っています
写真3:氷見での合宿2018年


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月10日 15:18:55 No.75
[419] Re: 今年の『学園祭鉄研OBミーティング(同窓会)』中止の連絡です
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年10月13日(火)23時09分5秒 通報 返信・引用 編集済

GET A 様

 貴重な写真ありがとうございます。
 D51499ですが、私がスキャンした写真の中に同じアングルのものがありましたので貼り付けておきます。この機関車は、1941年に鷹取工場で製造され、1958~1972年の間福知山機関区に配置され、その後亀山区、奈良区と短期間に移動し、1973年に廃車となり、現在は三重県津市の偕楽公園に静態保存されているようです。
 1940年に同じく鷹取工場で製造された1台前のD51498は、現在も高崎車両センター高崎支所で動態保存され、JR東日本の保存機関車として活躍しています。
 名古屋駅では新幹線と関西本線の蒸気機関車が同じ平面上で写せる唯一の場所(二俣線が乗り入れる豊橋も可能性がありましたが)だったのですが、1枚も写真を撮っていませんでした。
 同時にスキャンした武田尾の写真もご覧ください。

*画像1:福知山機関区のD51499
*画像2:福知山線旧線を走る上りのキハ17他
*画像3:同じくDF5064が牽く下り臨時急行列車。客車はオハフ33。リベットがよいですね。




現役時代の想い出集9(1969年2月21~3月3日) 管理人 投稿日: 2022年07月09日 16:18:19 No.68 【返信】

[351] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年 8月21日(金)17時12分0秒 通報 返信・引用 > No.350[元記事へ]

つくばね 様
皆さんご自分の旅行の記録をしっかりもっていて記憶を呼び戻せるのがすごいですね。
350番の投稿で昭和43年4月4日夜行で再び九州入とありますが、この時でしょうか、つくばねさんと西大山か大山のちっちゃな国民宿舎かYHでおち合って泊まったのは。私の友達山田さんもここでおち合ったと思います。
山川からキロ下がりの普通車がうれしかったのを憶えています。
均一周遊券という格好のチケットがあったので何回も九州に行ってどれがどれやらわからなくなっています。
[1] 管理人 投稿日: 2022年07月09日 16:36:36 No.73
[352] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 8月21日(金)22時32分39秒 通報 返信・引用 編集済

西邑 宏様

 調べてみました。この時ではなかったようです。翌年の1969年(昭和44年)2月から3月にかけての期間でした。ちょうど学校の後期の授業も終わり卒業式を待つだけで、就職には一抹の不安がありましたが、今思い返しても人生で一番良い時期だったと思います。
 西邑さんとどの部分を同行させてもらったか分かりませんが、例の入場券を購入した日付でチェックしますと、薩摩半島先端の長崎鼻に近い国民宿舎に泊ったのが、枕崎駅購入の記録がある2月28日のようです。
 私が覚えていますのは松浦線のC11の列車に一緒に乗って写真を撮ったことです。この時の平戸口駅購入の記録があるのは、2月25日ですが、前日、門司港から長崎夜行の421列車で移動し、大草で下車し、発車するD51が牽引する列車の後ろ姿を写していますが憶えていますか。
 今ならlineとまで言わずとも、メールや携帯があり旅の途上でも連絡手段はいくらでもありますが、この頃は事前に交わした約束しかありませんでした。途中、障害が発生した時はどうしたのでしょうね。伝言板ですか。
 この旅行で私は2月23日に由布院の国民宿舎に一人でもう1泊していますが、翌朝由布院を発車する大分行のD60の牽く通勤列車を何本か由布岳の見える田圃の中で撮りました。早春とはいえ畦道に雪が積もっており、列車を待つ間手がかじかみ、あちこちの田圃の中から噴出している湯煙で温めながら待ったのが一番の思い出です。この頃の湯布院はまだ有名になる前の寒村で、旅館も鄙びた温泉街の風情でした。
 さすがにこの時の『九州均一周遊券』は、就職先の会社の営業所で購入しましたが、そのB券片を貼り付けておきます。


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月09日 16:34:08 No.72
[353] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年 8月23日(日)09時17分15秒 通報 返信・引用 > No.352[元記事へ]

つくばね様
ありがとうございました。記憶の整理に役立ちました。そうでしたか今で云う卒業旅行でしたね。卒業旅行も絶滅語かな。
門司港からの長崎夜行は憶えています。オハ61でした。どこで降りたかは憶えてません。松浦線に行ったことは憶えてます。大草のD51憶えてません。

私の一生でこの旅行が一番いい写真の撮れた旅行でした。なにしろ蒸気機関車がそこらにごろごろ。鹿児島本線日奈久。筑豊本線中間~筑前垣生。久大本線夜明。鹿児島機関区。若松機関区。よくもまあいろいろ行きました。
写真の素材として蒸機はほんとによかったですね。

若い日のほとんど冒険の旅行の思い出をよみがえらせていただきありがとうございました。
掲示板で懐旧談に花が咲くとは、亡き先輩後輩もさぞ羨ましく思い、また喜んでもいらっしゃることでしょう。
写真は夜明けの夜明を出る日田英彦山線列車


[3] 管理人 投稿日: 2022年07月09日 16:31:20 No.71
[354] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 8月24日(月)17時05分38秒 通報 返信・引用 編集済

西邑 宏様

 さらにヒントを頂き有難うございます。収集した入場券の日付印と突合し、ようやく全体の行程が見えてきました。
1 2月21日
 『九州均一周遊券』の有効開始日に夜行列車で大阪を出発し、熊本からスタートしたようです。
2 2月22日
熊本-立野-高森=日之影(川水流)-延岡-都城-志布志-海潟=袴腰…鹿児島-(夜行・急行はやと)-鳥栖

 高森からの宮崎交通のバスが遅延し、日之影線(廃線)の日之影で接続することができなくなり、事情を話したら運転手が列車を追いかけてくれ、川水流の手前で追いつき待ち合わせして乗り換えました。志布志線(廃線)と古江線(廃線)に乗車しています。
3 2月23日
鳥栖-久留米-夜明-恵良-肥後小国-豊後森-由布院(湯布院温泉泊り)

 この日に久大本線と宮原線(廃線)に乗車をしています。
4 2月24日
由布院-大分-熊本-三角-熊本-瀬高-佐賀-鳥栖-門司港-(長崎夜行・普通421列車)-大草

 三角線と佐賀線(廃線)に乗車しています。
5 2月25日
大草-佐世保-伊万里-西唐津-博多-門司港-(肥薩夜行・普通2121列車)-吉松

 長崎まで行ったかどうかの記憶がありません。松浦線(移管)と筑肥線に乗っていますが、途中から急行平戸(旧:九十九島)に乗り換えました。
6 2月26日
吉松-栗野-薩摩大口-川内-鹿児島-(夜行・急行はやと)-小倉

 肥薩線夜行を下りて山野線(廃線)の一部区間と宮之城線(廃線)に乗りました。
7 2月27日
小倉-(北九州・筑豊地区内各線)-門司港-(日豊夜行・普通521列車)-鹿児島

 順不同ですが、後藤寺線、添田線(廃線)、伊田線(移管)、糸田線(移管)、田川線(移管)に乗車しました。この時に若松機関区を訪問し、門司港の布刈神社に参拝、帆柱ケーブル(現、皿倉山ケーブルカー)に乗車していると思いますが日にちははっきりしません。
8 2月28日
鹿児島-(鹿児島市内)-西鹿児島-枕崎-山川=開聞(国民宿舎かいもん荘泊り)

 この時に鹿児島機関区を訪問しました。指宿枕崎線の終点枕崎まで行きましたが、鹿児島交通は健在で購入した入場券は鹿児島交通の発行でした。
9 3月1日
開聞=山川-西鹿児島-鹿児島…袴腰=海潟-志布志-南宮崎-都城-(肥薩夜行・普通2122列車)-小倉

 鹿児島から西桜島村営フェリーで袴腰に渡り、国鉄バスで桜島観光をしながら再び古江線、日南線で南宮崎回りで都城に行きました。
10 3月2日
小倉-(福岡近郊各線)-門司港-(鹿児島夜行・普通121列車)-熊本

 大宰府天満宮にお詣りし、香椎線の一部区間と勝田線(廃線)、宮田線(廃線)に乗車しました。前年の1968年5月25日に篠栗-桂川間の延伸開業により全通した、篠栗線にも乗車しました。
11 3月3日
熊本-熊本県内各線-熊本

 九州の夜行列車宿泊をしていると終着駅に近い南九州、北九州、西九州は周れるのですが、中間に位置する中九州での活動は難しくなります。この日は、夜行列車を早朝の4:09に熊本で下車し、待合室で始発列車を待ち熊本県内を周りました。この日の最南駅が日奈久でした。温泉街の駅前に馬車が停まっていたのを覚えています。この日夜行列車で大阪に戻りました。

 11泊(うち車中泊9泊)12日の旅行でしたが、今思えばこのような無謀なことをよく実行したと思います。この想定旅程により西邑さんの記憶のポイントの日程が確定されます。間違いをご指摘ください。同行したのは、どの部分でしょうか。

『私の一生でこの旅行が一番いい写真の撮れた旅行でした。なにしろ蒸気機関車がそこらにごろごろ。鹿児島本線日奈久(3月3日)。筑豊本線中間~筑前垣生(2月27日)。久大本線夜明(2月23日)。鹿児島機関区(2月28日)。若松機関区(多分2月27日)。よくもまあいろいろ行きました。
写真の素材として蒸機はほんとによかったですね。』

多分この時の立野駅です。


[4] 管理人 投稿日: 2022年07月09日 16:24:31 No.70
[355] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年 8月25日(火)16時32分27秒 通報 返信・引用 > No.354[元記事へ]

つくばね様
すごいですね。51年前の旅行の行程を再現できるなんて。半世紀も経つと記憶は消えてるものですね。
私。2月21日の日付を書いた呉線の写真(小屋浦あたりのC62急行あき等)がたくさんありますので、九州入りの前に寄ったものと思います。
つくばねさんとはどこをいっしょに訪れたかほとんど憶えていません。久大線か豊肥線か大分に向かっている客車車内でうつらうつらの二人。それから大宰府の梅を見に行きましたね。うそをつくばねさんに教えて貰いました。帆柱山ケーブルもいっしょでした。そんなことを憶えています。
写真ありましたよ日奈久温泉行きの馬車客車。自分は線路沿いに歩いていくだけですからこれには乗っていませんが。一人でした。当時から鉄道写真は一人で写すものと考えていました。この日奈久~二見では、小高い山に登って我ながら絶好の蒸機の写真の数々を撮ったものと思いきや、フイルムのセットがちゃんと出来てなく全部空振り、いや空写し、今もって後悔が残ってます。


[5] 管理人 投稿日: 2022年07月09日 16:21:21 No.69
[356] Re: 『和気あいあい・ホームページ合宿ミーティング』
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 8月25日(火)22時17分34秒 通報 返信・引用

ならやま様

 日本3大車窓は、旧国鉄が制定した、車窓から見た絶景ベスト3と言われていますが、実際にはそれ以前からも言われていたという説もあります。

 私も日本3大車窓についてならやまさんの意見に賛成です。いつまでも無くなってしまった北海道の根室本線の旧線を入れるのはどうかと思いますし、1日3往復しか定期列車が走らない九州の肥薩線の矢岳付近も、国鉄時代に比べて沿線の樹木を伐採しなくなったため見晴らしが悪くなってしまいました。蒸気機関車の時代は火の粉で山火事の恐れがあるので木を切っていたのかもしれませんが。

 等高線に沿って山を登り降りする路線の中で、ケーブルカー以外での夜景は、ならやまさんの推奨する近鉄奈良線が日本一だと思います。
 私が子供の頃は今の東大阪市に住んでいましたので、夏の夜、虫取りなどで畦道を歩いていると、生駒山麓がよく見えました。当時の奈良線沿線は、今のように住宅地として発展していなかったので、家があっても蛍光灯ではなく裸電球で、下界から見上げて明るい場所は生駒山上の飛行塔と石切神社付近ぐらいでした。
 瓢箪山から孔舎衛坂(なつかしい)の間、電車の車内灯はオレンジ色の白熱灯でしたが15m級の旧形車両が4から6両連結で生駒山麓の勾配を上り下りするのが、周辺が暗かったのでよく見ることができました。途中駅の枚岡や額田に停車するかどうかで急行と普通列車の区別ができました。小学校から中学校時代の懐かしい出来事を思い出しました。

西邑 宏様

 閲覧者に誤解が生じる恐れがあるので(笑)、訂正しておきます。

「うそをつくばねさんに教えて貰いました。」

 西邑さんに「嘘をつくこと」を教えたわけではありません。太宰府天満宮で正月七日酉刻に行われる『鷽替(うそかえ)神事』の説明をしました。全国の天満宮で行われ、東京の亀戸天満宮や西邑さんが結婚式を挙げられた大阪天満宮でも行われています。

「写真ありましたよ日奈久温泉行きの馬車客車。自分は線路沿いに歩いていくだけですからこれには乗っていませんが。一人でした。当時から鉄道写真は一人で写すものと考えていました。この 日奈久~二見では、小高い山に登って我ながら絶好の蒸機の写真の数々を撮ったものと思いきや、フイルムのセットがちゃんと出来てなく全部空振り、いや空写し、今もって後悔が残ってます。」

 一人ではありません。私が同行しています。何よりの証拠は、この写真を写したのは私です。肥後二見まで歩き海側の小高い丘(グーグルマップで調べたら「鳩山」と言うらしいです)に登ったことも覚えています。当日の日奈久駅の入場券他を貼り付けます。

(左上)2月23日 今はなき宮原線終着駅の肥後小国駅
(右上)2月25日 長崎夜行から降りた大草駅
(左中)2月27日 帆柱ケーブル乗車日の枝光駅
(右中)2月28日 国民宿舎に泊った日の枕崎駅(鹿児島交通様式)
(左下)3月2日  大宰府の入り口二日市駅
(右下)3月3日  問題の日奈久駅(現、日奈久温泉駅)




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