特別快速「せんり2号」関西大学鉄道研究会OB会掲示板


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現役時代の想い出集1(1966年8月24日) 管理人 投稿日: 2022年07月01日 22:17:28 No.29 【返信】

 特別快速「せんり1号」は、あと1か月で終着駅に到着しますが、連結(投稿)された車両の中には、現役時代の懐かしい合宿などの記事が多数投稿されていました。このまま廃車にするには残念に思い、管理者権限により手作業で更新改造し「せんり2号」に連結することにしました。当時もメンバーからの返信がなされていますが、もう一度思い出があれば追加返信をお願いします。あくまでも「せんり1号」の投稿順を尊重していますので、実施日時、場所などは順不同になっています。

[100] Re: 加悦SL広場
投稿者: GET A 投稿日:2020年 3月 5日(木)11時46分47秒 通報 返信・引用 編集済 > No.98[元記事へ]

懐かしいです、1966年と1973年に加悦駅へ行きましたが、この公園には行っていません。
一度行きたかったのですが、車がないとバスしかないのでおっくうになってしまいました。
閉園は残念ですが交通の便が悪すぎます、どこかに保存されるとよいのですが。
加悦駅、丹後山田駅での写真です、投稿の単軸ボギーのDCは尾小屋鉄道、大分交通耶馬渓線以外では見ていないので久しぶりに見ました。(両線とも廃線)


[1] 管理人 投稿日: 2022年07月01日 22:25:26 No.32
[101] 加悦
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2020年 3月 6日(金)10時34分27秒 通報 返信・引用

加悦鉄道 懐かしいです。 こんな写真がありました。1966年(昭和41年)8月24日 鉄道同好会夏の合宿です。左端 仲さん、次 山上さんでしたっけ、次 私、右端 坂上さん。 加悦駅での撮影です。
確か間人のユースホステルに坂上さんと二人で泊まったのをおぼえていますが、そのほかどこにどう行ったのかぜんぜんわすれました。豊岡がすごい暑さだったのもおぼえています。
半世紀以上前の写真は時の流れの速さを教えてくれます。


[2] 管理人 投稿日: 2022年07月01日 22:22:51 No.31
[102] Re: 加悦
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2020年 3月 6日(金)23時25分13秒 通報 返信・引用 編集済 > No.101[元記事へ]

 西邑さん。懐かしいですね。記憶を蘇らせる手助けになるか分かりませんが、その時使用した切符が手元にあります。
 鴻池新田駅で購入したもので、薄緑色の出札補充券で発行されています。「から通」印が押印されていませんので、発行日(昭和41年8月22日)から4日間有効と思われます。
 乗車区間は大阪市内駅から大阪市内駅で、経由は山陽・播但・豊岡・宮津・小浜・北陸・東海となっており、入鋏痕は大阪駅で、途中下車印は順番に和田山・豊岡・峰山・丹後由良・小浜・米原が押印されています。
 夏の合宿に何人参加したかは不明ですが、8月23日に大阪駅に集合し、姫路から播但線はC57の牽く647列車に乗車したという記録があります。播但線で途中下車した記憶がありませんが、今では山岳城で有名な竹田駅で豊岡区の門デフのつけたC5711の牽引する列車と交換した写真が残っています。
 豊岡駅で途中下車をして機関区を訪問しました。その前に山陰本線と接続した宮津線のC58の牽く列車が出発する写真が残っています。出発信号は腕木信号でした。
 間人のユースホステルには、網野からバスで移動しました。復路は峰山まで出ましたので、この時は宮津線の網野-峰山間が未乗区間として残ってしまいました。
 翌24日は、丹後山田で乗り換え、加悦鉄道を往復しました。「丹後山田」駅は、駅ができた当時、参宮線に山田駅(現、伊勢市駅)があったため、旧国名の丹後がついたのですが、その後第三セクターの北近畿タンゴ鉄道になったときに「野田川」駅となり、さらに京都丹後鉄道になったときに「与謝野」駅に変更されました。
 次に途中下車印のある丹後由良で下車し、鉄道写真の名所として名高い550メートルの由良川橋梁を渡りました。今だったら大問題になるでしょうが、この時もう一度丹後由良に戻ったのか丹後神崎から乗車したのかの記憶はありません。現在はインスタ映えするスポットとして有名な場所だそうです。西邑さんは暑い日だったといわれていますが、私は「由良海水浴場」の下車駅である駅前の茶店のような食堂に掲げられていたカキ氷の旗が瞼に残っています。丁度谷内六郎画伯の絵の世界でした。
 西舞鶴で小浜線直通の943Dで2泊目の小浜駅まで乗車しました。小浜では新しくできた小浜公園の高台にあるユースホステルに泊まりました。部屋からC58の牽く通勤列車が良く見えたのを覚えています。後で知ったのですが、12年後に小浜公園が小浜アベック拉致事件の現場となったところです。そういえば当時意味がよく分からなかったのですが、日本海沿いに鉄道写真を撮っていると「不審者を見かけた場合は警察に連絡してください」という看板をよく見かけました。
 3日目の25日の記憶は敦賀と米原で乗り換えて大阪に帰りましたが、記憶は残っていません。たぶん参加者は、モザイクの如く部分的に覚えているのでしょうが、それをジグソーパズルのようにつなぎ合わせると、もっと具体的によみがえるのではないかと思います。
 提案があります。この掲示板は個人情報については当然のことながら保護しますが、50年以上前の肖像権は放棄することにすればどうでしょうか。


[3] 管理人 投稿日: 2022年07月01日 22:20:59 No.30
[103] Re: 加悦SL広場
投稿者: ならやま 投稿日:2020年 3月 7日(土)02時15分16秒 通報 返信・引用 編集済

GET A さんの投稿No.100の写真中段と、西邑さんのNo.101の写真は、SL広場にキハユニ51として保存されているキハ51ですね。写真3葉添付します。
広場の解説板には次のように書かれています。
『40900形 内燃三等荷物気動車(キハユニ51)』
・昭和11年10月 芸備鉄道が日本車輌株式会社にて新製
        昭和12年 旧国鉄が芸備鉄道を買収。旧国鉄番号 キハニ40921
・昭和27年1月 旧国鉄より舟木鉄道(山口県/昭和36年廃線)へ払下げ。
・昭和37年4月 加悦鉄道が舟木鉄道寄り譲り受け全般修繕してキハ51として7月から営業運転。
・昭和60年4月 加悦鉄道鉄道営業廃止に伴い廃車。
・平成5年 大修理を実施、荷物室、郵便室を復元。キハユニ51に変更。

運転台前部の荷棚(?)の柵の囲み方は、西邑さんの写真ではコ型ですが、展示車両はロ型になってます。これは現役時代に柵だけ取り換えたのでしょうかね。
今はローカル電車では、昼間は自転車持ち込み可のところが増えました。三岐鉄道、養老鉄道、近江鉄道ETC。でも客貨分離で通勤時もノープロブレムのこんな外付け荷棚の復活もありかと思いますが。




2年半ぶりに東武鉄道野田線に乗りました 快速つくばね 投稿日: 2022年06月26日 20:59:53 No.28 【返信】

 所用があり柏から船橋までを東武野田線で往復しました。私は勝手に東武野田線の大宮-春日部間を野田西線、春日部-柏間を野田中線、柏-船橋間を野田東線と名付けていますが、今回は野田東線の部分です。
 初めて東武野田線に乗車したのは50年程前でしたが、大部分が単線で全てが旧型車を更新改造した吊り掛け駆動車で、貨物列車も走っていました。50年の間少しずつですが、複線化も進捗し車両も更新されていき、現在では有料特急も走り、2014年4月1日から「東武アーバンパークライン」(TOBU URBAN PARK Line) というよく分からない路線愛称名が付けられました。
 もとをただせば野田町(現・野田市)から柏まで醤油を運ぶ貨物輸送のために建設された千葉県営鉄道に始まり、払い下げ後京成電気軌道との関係が深い北総鉄道→総武鉄道となりましたが、戦時中に陸上交通事業調整法が遠因となって 東武鉄道 に吸収合併されて現在に至っています。戦時中にもし京成電鉄と合併していたら、広軌化され大宮から成田空港までの特急が走り、首都圏の交通地図も大きく変わっていたと思います。
 2020年3月14日 のダイヤ改正で、柏-船橋間が全区間複線となり、急行運転も開始されました。
 写真1は、柏駅のホームです。日中の急行の着発は、船橋方面は3番、大宮方面は2番に入線するので、接続する柏折返しの普通は、船橋方面は4番、大宮方面は1番となっています。国鉄時代、常磐線の我孫子方に貨物列車を受け渡す連絡線路がありました。
 写真2は、高柳駅です。かつては相対式ホーム2面2線の小さな駅でしたが、留置線の開設・急行の全線運転開始に伴い、駅施設が船橋方面へ移設され島式ホーム2面4線化されました。外側が本線、内側が待避線となり緩急接続をしています。
 写真3は、東武鉄道全駅中、最も東に位置する新鎌ケ谷駅で、北総鉄道北総線、京成成田空港線(愛称「成田スカイアクセス線」)、新京成電鉄新京成線、東武鉄道野田線が乗り入れる総合駅となっています。東武鉄道(北総鉄道)の開業が一番古かったのですが、駅の開設は最も遅くなりました。




乗り鉄一人旅落穂ひろいⅡ 快速つくばね 投稿日: 2022年05月12日 18:57:39 No.11 【返信】

 当分の間、掲示板の機能比較のため「せんり1号」と「せんり2号」に重複して投稿します。

 デジタル一眼レフカメラに買い替えたこの10年間を、乗り鉄シリーズとして、北海道、北陸、四国、九州、甲信越、中国路、みちのくの順で駄文を綴ってきた。残る地域は、関東、東海、関西であるがこの地域はしょっちゅう往来し、旅行というイメージがなく地元の感覚なので改めてカメラを持たずに旅行して、十分なメモも取ってこなかった。
 と言っても、何らかのイベントがあった時か、鉄道趣味の会の集まりの前後行程や、フリーきっぷを使用した地域の乗り歩きの時に撮った写真が少しは残っている。今回これらの中から一部を、落穂ひろいとしてまとめてみた。
[1] 快速つくばね 投稿日: 2022年06月20日 22:36:25 No.27
27.2019年12月1日
箱根湯本-風祭-小田原-新宿
 この日は、「相鉄・JR線直通乗り入れ」の新線区間の初乗り後、箱根仙石原に泊まり、翌日、下山してからの行動である。
 2019年10月13日の台風19号により大平台-小涌谷間を中心に土砂流入や橋脚流失など甚大な被害を受け、箱根湯本-強羅間が2020年7月23日までの9か月間、長期間不通となった。この時点でも箱根登山鉄道は、箱根湯本-強羅間が全面運休中であった。
 箱根には会社の研修センターがあったので、数えきれないほど訪れたが、箱根登山鉄道の走っていない箱根は初めてであった。今回は、小田急の新宿発の「箱根フリーパス」を使用したので経路の箱根鉄道区間は代行バスの利用となり、バスに乗車するといきなり箱根湯本の臨時停留所から小田原方面に向かって走り出し、国道1号バイパスの箱根新道を通り元箱根に出て、そこから国道1号の旧道を小涌谷経由で強羅に辿り着いた。
 本日は、桃源台から元箱根まで箱根観光船に乗船し、往路と同様、箱根新道を通り箱根湯本に戻った。箱根湯本からは、箱根登山線内の折り返し運用および新松田-箱根湯本間の直通運用に使用される4両固定編成の小田急1000形車両に乗車した。この車両は、4編成 (1058×4~1061×4) あり、車体の外装を箱根登山鉄道の1000形・2000系に準じた赤色に変更され、2012年3月以降、小田原-箱根湯本間の列車はこれらの車両に統一されている。
 昼食を食べるため、一旦風祭で途中下車をしたが、食事をする場所が見つからず、結局、小田原まで出て食事をすることになった。
 小田原では、少し時間があったので小田原城址公園を往復し、16:09発の「はこね56号」に乗車して新宿まで戻った。小田原、新宿ともJRと同一駅であるので「小田急相模原」のように駅名の頭に小田急を冠さない。小田原は、伊豆箱根鉄道、JR,小田急、箱根登山のホームの番線も連番になっている。

 乗り鉄一人旅シリーズとして、北海道(全20)、北陸(全18)、四国(全13)、九州(全13)、甲信越(全29)、中国路(全25)、みちのく(全48)、落穂ひろい(全11)、落穂ひろいⅡ(全27)の合計204回の投稿を続けてきました。最も古い乗車日が甲信越の2009年11月28日でしたので今回の2019年12月1日で丁度10年間になりました。
 その後新型コロナの蔓延により主体的な鉄道旅行が不可能になってしまったため、今回を区切りとして一旦終了といたします。長い間お付き合いくださいまして有難うございました。
 以前のものは、2022年8月1日(月)13:00までは「せんり1号」https://9227.teacup.com/kandaitekkenob/bbsをご覧ください。

*写真1:風祭駅に停車中の各駅停車箱根湯本行
*写真2:風祭駅を通過する30000形 EXE特急新宿行
*写真3:小田原駅で折り返す各駅停車箱根湯本行


[2] 快速つくばね 投稿日: 2022年06月15日 15:42:38 No.26
26.2019年11月30日
新宿-羽沢横浜国大-かしわ台-海老名-小田原-箱根湯本
 今回も会社のレールフアンクラブの合宿で、11月30日に「[24] 相鉄・JR線直通乗り入れ」で投稿した新線区間の初乗と箱根仙石原合宿が目的である。
 集合場所が新規開業した羽沢横浜国大駅改札口となっていたので、新宿から埼京線の11:18発の列車に乗車した。大崎までは今までの埼京線と変わりがないが、大崎からは大崎支線(正式にはすべて東海道本線の別線であるが、判別しにくいため今回は通称線名を使用する)に入り旧蛇窪信号場から武蔵小杉までは品鶴線を走る。ここまでは湘南新宿ラインと同じ線路であるが、旧蛇窪信号場は、上り線と横須賀線の下り線が平面交差しているので輸送上のネックとなり、この解消が課題となっている。
 南武線との交差地点付近にある武蔵小杉駅を過ぎたその先の踏み切りの南側で横須賀線用線路を左側に分岐し、複々線となって南下(どちらの線路も品鶴線)し、直ぐに武蔵野線(貨物線である「武蔵野南線」)の線路と合流する。旧新鶴見操車場(現新鶴見信号場)を上下線が挟む状態で通過し、横須賀線・京浜東北線・東海道本線をオーバクロスして、浜松町駅(いわゆる大汐線区間は現在、営業休止)から東京貨物ターミナル駅、浜川崎駅を経由した東海道貨物線を左手から合流し、鶴見駅構内は複線で通過し、根岸線桜木町方面に直通する高島線を再度右手に分岐する。この分岐も平面交差となっており、東海道貨物線合流から高島線分岐までの区間が複線になっているのも将来ダイヤ編成上ネックになる可能性がある。羽沢線は、分岐後まもなく長い地下トンネルに入りシェルターに覆われた高架で横浜線大口駅付近を跨いで再びトンネルに入り、進行方向を西南西に変えるとトンネル区間が終わる。貨物専用の横浜羽沢駅構内で東海道貨物線本線から分岐した線路は地下に潜り、相鉄とJR東日本の共同使用駅である羽沢横浜国大駅に到着する。
 このような運転経路で開通した新線は、あまりにも多くの路線と線路を共有し、分岐・合流を繰り返すのでどこかの路線で輸送障害が発生した場合その影響をすぐに受けるであろうことは容易に想像がつく。
 また、羽沢横浜国大駅の運賃表を見ると一部で「遠い駅」のほうが安いという運賃表になっている。今回の開業で新川崎駅、鶴見駅のホームを新規に開設できなかったため、区間外乗車の特例が追加されたからである。例えば、①横浜以遠(保土ケ谷または桜木町方面)の各駅と羽沢横浜国大駅との各駅相互間は実際できない鶴見乗換として<鶴見―武蔵小杉>往復の距離を算入せず、②新川崎駅と羽沢横浜国大駅間との各駅相互間は、実際駅のない新川崎から乗車したものとみなし、<新川崎―武蔵小杉>往復の距離を算入しないこととした。したがって、羽沢横浜国大-鶴見:170円、羽沢横浜国大-新川崎:220円、羽沢横浜国大-武蔵小杉:310円となったのである。

     羽      大崎・品川方
     沢        //
     横   武蔵小杉○○
     浜      // 
     国     /○新川崎
     大 直通線//
 西谷方-○---//○---大宮方
       横 //鶴 京浜東北線
      須 /○ 見
     賀 //新
    線 /○ 子
久里浜方-○/東 安
 大船方-○ 神
     横 奈
     浜 川


 実際に羽沢横浜国大から鶴見に行くには、羽沢横浜国大-(相鉄直通線)-武蔵小杉-(横須賀線)-横浜-(京浜東北線)-鶴見となり、途中、鶴見を二回通過してから鶴見に到着することになる。因みに6時前後の出発で検索するとこのルートで6:05に出発し、2回乗換で鶴見に7:01に到着し所要56分、運賃は170円となる。相鉄線回りで西谷、横浜で乗り換えると5:58発6:41着、所要43分、運賃400円になる。一般の人はどちらを選択するのであろうか。
 羽沢横浜国大の改札口で集合後、13:12発のJR車に乗車し、大和で乗り換え車庫のある、かしわ台で途中下車をし、駅の跨線橋から車庫を見学して直ぐに海老名に向かう。海老名から14:27発の小田急の急行に乗車するが、ここで新宿で予め買ってあった新宿発「箱根フリーパス」を入鋏し初めて有効になった。

*写真1:新宿駅でE233系7000番台の行先表示
*写真2:羽沢横浜国大駅の駅名表示
*写真3:かしわ台駅の跨線橋から駅構内を望む


[3] 快速つくばね 投稿日: 2022年06月10日 22:29:32 No.25
25.2019年7月21日
豊橋-岡谷
 豊橋合宿に参加するのは、現役の1968年8月27~28日の飯田線佐久間合宿で1回、OB会で2009年(平成21年)7月25~26日に1回開催しているので3回目となる。現役の時は夜通し通過する東海道本線の夜行列車のレール音と構内の入換えをするC58の汽笛を聞きながら豊橋機関区の裏手の鄙びた商人宿に一晩泊った。当時の飯田線は、急行「伊那号」用のクハ86・モハ80形を始めクモハ52など旧形国電の宝庫であったが、まだ関西地区においても京阪神緩行、片町線、阪和線など旧形国電が残っており、特に珍しくもなかった。
 今回の合宿の復路は、飯田線の豊橋-辰野の全区間を乗り通すことに挑戦した。飯田線は今まで、豊橋口からの途中駅までの往復や辰野から豊橋まで乗車したことがあるが、いずれも途中下車をして旅館で1泊している。何時かは一気に乗り通したいと思っていたが、なかなかその機会がなかった。
 当日、豊橋駅で解散後、飯田線全区間を走り通す3本の列車のうちの1本である10:42発519M岡谷行に乗車する。車両はクハ312-3018ほか2連で豊川では多くの乗客が下車して、その先は漸減状態になっていったが青春18きっぷの有効期間に入ったからであろうか全線乗り通す乗客も少なからず乗車していた。
 不思議なことに東海道本線の普通列車の車内では、余程のことがないと乗り合わせた乗客と言葉を交わすことがないが、それは単に大都市圏を走っているとか座席がロングシートであるとかの理由ではないようである。飯田線のようなローカル線では単線のため中間駅での列車交換や主要駅での停車時間が結構あり、長距離を乗車する人は体を伸ばすため下車して買い物をしたり鉄道フアンでなくても駅の写真を撮ったりしている。そういう状況では写真を撮りあったりしてお互いに声を掛けやすくなるようである。日常と非日常の違いであろうか。
 後方の座席は父親と小学校低学年の親子二人連れであったが、青春18きっぷで名古屋を出発しその日のうちに名古屋まで戻るということで時刻表だけもって出発したが、伊那市駅と中央本線の木曽福島駅を結ぶバス路線が運休しており、鉄道の塩尻周りでは名古屋到着時間が遅くなり思案にくれていた。いろいろ相談に乗ったが、結局駒ケ根駅から中央道の高速バスに乗り換えて帰ることになったようである。
 隣のボックスは、男女混合のグループ客でビールなどの酒類をしこたま買い込み、いわゆる飲み鉄のようであったが、感心なことに秘境駅という存在を熟知しており停車するごとに駅名標をカメラに収めていた。長野県に入ってから北アルプスはどちらだろうかと論戦が始まり、頼まれもしないのに天竜川を挟んで右手が赤石山脈の南アルプス、左手が木曽山脈の中央アルプスと説明することになった。結局このグループ客と岡谷まで同行することとなった。

*写真1:豊橋鉄道東田本線(豊橋市内線)
*写真2:豊川駅の跨線橋から辰野方を望む。直線部分の右側が飯田線本線、左側が日本車輛製造豊川製作所への引き込み線。
*写真3:長野県に入って二つ目の伊那小沢駅での上諏訪発豊橋行544Mとの交換待ち


[4] 快速つくばね 投稿日: 2022年06月05日 21:29:46 No.24
24.2019年7月20日
上野-熱海-興津-浜松-豊橋-豊川-豊橋
 今回は、鉄研OB会豊橋合宿の往路である。
 この年の合宿は、「青春18きっぷ」の有効開始日の初日から開催されたので、久しぶりに普通列車を乗り継いで東海道本線を下ることにした。上野東京ラインが2015年3月14日に開通するまでは、東京から朝のラッシュを過ぎた静かなホームからよく空いている電車で出発し、いよいよ東海道の旅が始まるぞと気合を入れたものであるが、開通後は、上野も東京も中間駅となりどこまで乗車するか分からない乗客に座席が占拠され、全く旅立ちの雰囲気はなくなってしまった。
 それでも東海道本線に入ってから、辻堂、大磯、二宮、鴨宮のみしか通過しない快速アクティーに乗車し上野から熱海まで乗り通す。「青春18きっぷ」の時期でよく大垣ダッシュが話題になるが、私の場合、熱海での乗り換えが一番緊張をする。JR東日本の東京方面からの列車は通常そのまま折り返すので4番ホームに到着する。熱海発のJR東海の静岡方面の列車は、専用の3番ホームで折り返し、その間を結ぶホーム下通路は一か所で階段は、神戸方と東京方にあるが、東京方の階段は階段を利用して上り専用のエスカレーターを併設したので、階段部分は行き違いができないほどの狭さになってしまった。今回の乗換は、東京からの列車が10:47に15両で到着し、10:50発の沼津行に接続している。幸いに事に大垣-米原間の30分ヘッドに比べて、熱海-沼津間は1時間に4本程度あるので、段落として1本見送り11:14発の静岡行の列車に1447M313系2000番台車3両編成に乗車した。いつも熱海で昼食近くなるので定番の「アジの押しずし」を購入するが、ロングシートでは食べづらいので下車してからの最初の駅で食べることにしている。
 静岡行に乗車しているが、いつもの通り乗り換えとトイレ休憩を兼ねて興津で12:14に下車をする。1番ホームから跨線橋で折り返し電車の入る3番ホームに移動し、12:25発の浜松行に乗車する。当初はこのような行動をする人は殆どいなかったが、昨今増えてきたような気がする。今度乗車する電車は、悪評の高いトイレなしの211系5000番台車の3連である。上りの場合は、島田が対応する駅であるが、夕刻に通過することが多く、時間の関係でこの駅で乗り換えたのは1回だけで静岡乗換えが多い。
 浜松に13:54に到着し、14:02発の豊橋行951M4連に乗り換える。車両は、トップナンバーのモハ313-1であった。いつもJR東海静岡支社管内のダイヤを見て考えるが、これほどパターン化されていないダイヤも珍しいと思う。需要を考えて編成されているのであろうが、いまだに考え方を理解できないところがある。
 豊橋に14:36に到着し、14:42発の飯田線岡谷行531Mに乗り換え豊川で14:54に下車をする。いつも東海道本線を普通列車で上り下りをしていて、鉄道唱歌に歌われている名所を1か所でも訪ねることを可能な限り実行している。今回は、東海道30節の

豐橋おりて乘る汽車は これぞ豐川稲荷道
東海道にてすぐれたる 海のながめは蒲郡


で、予てから考えていた日本三大稲荷(諸説あるが)のひとつといわれる豊川稲荷を参拝することであった。
 参拝後、駅に戻り上諏訪発16:04の544Mに乗車し、豊橋に16:16に到着する。17:10に集合場所の新豊橋駅改札に集まったのは11名であった。

*写真1:豊川駅外観
*写真2:名鉄豊川稲荷駅。JR豊川駅のホームから撮影。
*写真3:豊川稲荷大本殿


[5] 快速つくばね 投稿日: 2022年05月31日 12:10:47 No.23
23.2019年7月7日
松戸-金町-新小岩信号場-成田-空港第2ビル=第3ターミナル=東成田-京成成田…成田-新小岩信号場-金町-松戸
 新金貨物線(以下、新金線)は、新小岩信号場駅と金町駅を結ぶ総武線の貨物支線の通称である。1926年に新小岩操車場とともに建設され、東京臨海部と千葉方面との貨物輸送を担う重要な路線となった。関西でいえば大阪と和歌山を結んでいた阪和貨物線のような位置づけであった。開通前の千葉房総地区と東海道・東北方面を結ぶ貨物路線は、総武本線が両国で行き止まりになっていたため成田線の我孫子支線しかなかった。
 武蔵野線の新松戸-西船橋間の延伸により、貨物経路が南流山-西船橋間及び京葉線の西船橋-蘇我間を経由するようになったため、新金線を経由する列車の本数は、近年大幅に減少している。ただ新金線は、武蔵野線から鹿島サッカースタジアム駅への唯一の経路(武蔵野線から総武本線には直通できないため)であることから、今後も貨物列車の運行は存続され、2018 年3月時点で定期貨物列車4往復、臨時貨物列車1往復、回送列車などが運行されている。
 この新金線に地元の葛飾区では、新金線の旅客化に向けた検討を行っている。現在考えられている2案は、①鉄道事業法による電車の運行の場合は中間5駅、②軌道法によるライトレールの場合は中間8駅の設置案となっている。いずれにしても新金線と渋滞の多い国道6号(水戸街道)の平面交差が問題となっており、解決のめどが立っていない。
 この計画を広く区民に理解してもらうとともに便利さを体験してもらうために葛飾区の後援で、「これからの新金線を考える会」主催の「新金線体験乗車と成田山」が実施された。もともとは町内会単位の区民対象であったが、余席があるため一般客を120名先着順で募集した。旅行内容は、2019年7月7日(日)の日帰りで、松戸駅に11:30集合し、新金線を経由する臨時列車に乗車。臨時列車の運転区間は、松戸発(12:04頃)-金町-(新金線)-新小岩信号場-(13:54頃)成田着、成田山散策(自由行動)、成田発(16:22頃)-新小岩信号場-(新金線)-金町-(18:04頃)松戸着という行程であった。
 前置きが長くなったが、いつも通勤途上眺めてきた新金線に乗車したくなり、このツアーに申し込み、参加してきた。当日は雨模様で、新金線の乗車時間はあっという間で、新小岩信号場に停車している時間が長いくらいであった。成田の自由時間は今さら成田山新勝寺でもないので、京成電鉄で往復して、東成田と空港第三ターミナルを見学してきた。
 以下は、メールで事前連絡された当日の案内である。

2019年7月7日開催の「新金線体験乗車と成田山 日帰りツアー」の当日のご案内を差し上げます。
※このメールが当日の乗車券となります。
当日は必ずこのメールを表示出来る端末(携帯・スマホ等)またはこのメールを印刷したものをご持参ください。
【集合時間】11:30
【集合場所】JR松戸駅(添付PDFファイルの号車ごとの集合場所をご確認ください)
【当日の注意事項】
・電車は定刻に発車いたします。万が一遅刻なさる場合もお待ちしかねます。あらかじめご了承ください。
・前後の座席は回転させ、向き合って着席することができます。周りの方へご配慮のうえ使用をお願いいたします。
・参加費にお茶とお弁当が含まれています。他飲食物の持ち込みは自由です。車内販売はございません。
・出発から数分で新金線に入ります。まずはご着席いただきますようお願いいたします。


 現在も「クラウドファンディング方式」で2022年7月3日に「区民の会」の企画として、松戸駅から新金線を経由して銚子市へ国鉄185系で行く新金線「試乗会」を募集している。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000016.000062673.html
 往路は常磐線・新金線・総武本線経由で、復路は成田線(我孫子支線を含む)・常磐線経由となり投稿時点では、まだ残席があるようである。

 それにしても兄弟列車といわれるだけありkeihan3505様が投稿された117系によく似ていますね。

*写真1:新金線走行中の185系(往路は「臨時」、復路は「団体」を表示していた)
*写真2:成田駅到着
*写真3:松戸駅到着後回送標示


[6] 快速つくばね 投稿日: 2022年05月27日 14:27:17 No.21
22.2019年4月14日
弁天町-大阪-新大阪-三宮-神戸-三宮…元町-神戸-新大阪-品川
 本日は2泊したホテルをチェックアウトし、帰路につく。三日目は三都物語の最後の土地、神戸を見て歩く予定である。雨模様で手荷物が多くなったので帰りの新幹線の乗車駅の新大阪のコインロッカーに預けることにしたが、時節柄どこも空きがなく、やむを得ず11:28発の新快速3243Mで三宮まで持って行くことにした。三宮でJR、阪急、阪神すべて見て回ったがここも満杯で、万策尽きかつての記憶でいつでも閑散とした神戸まで進みようやく空いたコインロッカーに収納することができた。神戸駅は関西の主要駅では珍しくホームが南北方向に位置している。東海道本線は、起点の東京駅を下り列車は南に向かって出発し、名古屋駅では北に向かって停車し、終点の神戸駅では南に向かって到着することになる。
 当初の行程に神戸を考えていなかったが、子供の頃から神戸といえば湊川神社と瓦せんべいである。ここまでくれば参拝しないわけにはいかず、傘をさして境内に入る。ネット上のニュースによれば、1868年(明治元年)に創業し神戸土産「瓦せんべい」を販売していた150年以上の歴史を持つ和菓子店「菊水總本店」が今年の3月21日に閉店したようである。なお小楠公を祀っている四條畷の郷土銘菓の「菊水せんべい」は、今なお残っており、四條畷市へ1万円以上のふるさと寄附金をされた方の景品にもなっている。
 湊川神社の祭神は楠木正成で地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。関西人は一般的に関東勢に一矢を報いた楠木正成や真田幸村(信繁)に対して敬愛の情を持っている。楠木正成は、この地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑(いしぶみ)を建立し、以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。明治維新には楠木正成は既に国家の英雄としての地位を得ていて、七度生まれ変わっても国に尽くす(七生報国)と誓い、国家のために死んだと位置付けられた楠木正成を顕彰することは、その生き方を国民に勧めることであり、第二次世界大戦中において、その果たした役割は小さくなかった。鉄道唱歌の東海道の最後から3節目にも湊川神社が歌い込められている。ついでに最後の3節を掲載する。

六四 七度うまれて君が代を まもるといいし楠公の
   いしぶみ高き湊川 ながれて世々の人ぞ知る

六五 おもえば夢か時のまに 五十三次はしりきて
   神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩

六六 明けなば更に乗りかえて 山陽道を進ままし
   天気はあすも望(のぞみ)あり 柳にかすむ月の影


 神戸からもう一度振出しの三宮に戻り、観光ルートの三宮センター街を通って、メリケンパークを散策し、南京町で昼食をとり元町駅に戻る。よく考えたら地名は違うが、横浜の桜木町から石川町へのコースとあまり変わらないようである。その後、元町から荷物を取りに一旦神戸まで逆行し、神戸発15:47の新快速3243Mで新大阪に戻り、新大阪発16:50発の「こだま674号」のグリーン車で帰京した。

*写真1:神戸駅キロポスト
*写真2:湊川神社表門
*写真3:オリエンタルホテルと着岸するルミナス神戸2


[7] 快速つくばね 投稿日: 2022年05月21日 18:27:37 No.19
21.2019年4月13日
弁天町-天王寺…四天王寺前夕陽丘-天満橋…大阪天満宮-北新地…大阪-新大阪(泊り)
 この日は、レールフアンクラブのおおさか東線の乗車と総会が開催されるので午後からのスケジュールは決まっているが、午前中は自由なので大阪市の中心部を南から北に縦断することにした。
 弁天町から大阪環状線の天王寺で下車をし、まず日本一高いビルであるあべのハルカスに昇ってみる。東京スカイツリーを始めどこでもそうであるが開業時は入場者が殺到し大変な混雑になるが、時が経つにしたがって当時の状況が嘘のように淋しい光景となる。この日はよく晴れており大阪府の四方を見渡すことができた。
 学生時代市電の写真を撮りながら散策した天王寺西門前界隈を訪ねてみたくなり、当時の面影を偲びながら一時間ほどウロウロした。この交差点で4系統と7系統が交差していたが、大阪市電は南北系統には3001形のような新車がいち早く導入されたが、東西系統には旧型車か更新改造された2601形が多かったような気がする。「大阪市街電車唱歌」の12番にこの周辺の観光地がもれなく歌い上げている。(太字は今回訪問した場所)

一二  安井 清水 一心寺 歴史を語る茶臼山
    四天王寺の空遠く 仰げば五重の塔高し

 丁度この日は、造幣局で「桜の通り抜け」が開催されており、久しぶりに見物したくなり、四天王寺前夕陽丘から天満橋まで谷町線に乗車する。50年前と変わらない相変わらずの人出であったが、翌年の2020年から新型コロナウイルスの感染拡大で2年連続中止となった。今年は3年ぶりにインターネットで3月中旬から先着順で申し込みを受け付け人数制限の上、実施された。
 歩いてみて通り抜けの光景は、50年前と変わらなかったが、地下には大阪メトロ谷町線やJR東西線が走っているとはいえ、天満橋や櫻宮橋(銀橋)を渡る市電が見えなくなったことが淋しかった。

*写真1:あべのハルカスから天王寺駅名古屋方俯瞰
*写真2:阿部野橋橋上から天王寺駅外観
*写真3:「通り抜け」案内板


[8] 快速つくばね 投稿日: 2022年05月12日 19:01:37 No.12
20.2019年4月12日
東京-京都-烏丸御池-京都市役所前…四条-京都-新大阪-久宝寺-弁天町-西九条-ユニバーサルシティ-西九条-弁天町(泊り)
 今回の旅行は、大阪で開催される会社のレールフアンクラブの総会がきっかけとなった。
 久しぶりの関西旅行であるので、旅行会社の個人ツアーを利用して、総会の日の前後泊をし、2泊3日の行程とした。もう一つは、このツアーに付属して発売される「三都物語周遊乗車券」を利用することで、この切符は、京都・大阪・神戸市内がフリー区間となり、3日間有効で1230円という格安の乗車券である。おおさか東線の全線開業により、今回からはおおさか東線もフリー区間に追加された。
 まず、東京を11時ちょうど発の「のぞみ225号」に乗車し、京都に13:15に到着する。最初に関東では食べられない山椒の粉のかかった「玉子丼」を昼食にする。関西の丼について言えることは、(牛)肉丼、木の葉丼、きつね丼、他人丼などどうして品数が多いのか、麺類も同様である。
 閑話休題。京都に降りたのは、まず墓参りをすることで市電があったころは、京都駅前から河原町三条まで乗車したが、定時性確保の意味で市バスを利用したくなく、最近は、京都-烏丸御池-京都市役所前という経路で地下鉄を利用して市役所前から歩いている。復路のルートも決まっていて、新京極から錦市場を通り、京野菜と琵琶湖の水産物を横目で見ながら、地下鉄の四条から京都に戻ることにしている。
 今回の泊りは、弁天町駅前のホテルを連泊で予約した。今回のレールフアンクラブの総会の前におおさか東線に初乗り(と言っても開業から1カ月ほどたっているが)計画があり、どうしてもその前に乗車しておきたかったので、京都から直行せずに新大阪で下車をした。
 おおさか東線の元となった城東貨物線(正式名称は片町線の支線)の旅客化は、高校の通学時から夢を見ていて、たまに放出で見かけた城東貨物線を経由する天理教大祭時の臨時列車に潜り込めないかと真剣に考えたものである。
 という訳で漸く57年ぶりの夢がかなえられ新大阪17:58発2494Sの1号車クハ200-77に乗車することとなった。実際乗車してみると今回開業した区間の新大阪-放出間は、所要16分なのであっという間であった。57年間の夢が16分で終わってしまったのである。鴫野か放出で下車をしても良かったが、終点の久宝寺まで乗り通し、久宝寺から「大和路快速」で弁天町に向かうルートをとった。おおさか東線の開業により随分選択の幅が広がった。(おおさか東線の201系もこの春のダイヤ改正で運用を離脱した。このことは増田会長がFacebookに記録されている)
 久宝寺は通学していた高校に近く、いま駅南側にある2棟の高層マンションや、スポーツタウンがあるあたりには、貨物列車操車場や竜華信号場、竜華機関区、竜華客貨車区の線路群があった。竜華機関区には、蒸気機関車やディーゼル機関車の各形式をはじめ、阪和線用のED60形やEF58形といった電気機関車が配置されていた。かつては竜華操車場の外側を関西線の上下本線が走っていたことから、久宝寺駅の上下ホームは100m以上も離れて存在していた。同様の形態として武蔵野線の新三郷も開業当初は武蔵野操車場を挟む形で、上下線のホームが360m離れて設置されており、ギネス世界記録に「世界一ホームが離れている駅」として掲載されていた。
 高校時代は、鉄道と関係のないクラブに所属しており、汽笛が聞こえるほどの近くにいながらあまり関心を持っていなかった。いま考えても仕方がないが、現在ならば操車場に日参し、通学も近鉄八尾でなく、(国鉄)八尾を利用していたであろう。
 久宝寺から18:39発の「大和路快速」469Yに乗車し、弁天町に19:00に到着して、直ぐにホテルにチェックインする。この周辺の食事場所をよく知らないので、食事をするため西九条乗換でユニバーサルシティまで往復した。

*写真1:今回利用した「三都物語周遊乗車券」
*写真2:新大阪駅に停車中のおおさか東線久宝寺行
*写真3:1979年の久宝寺駅(龍華操車場)
画像は1979年当時の国土地理院上空写真。線路群の西側(画像左側)に転車台(ターンテーブル)や扇形車庫がみえ、このあたりが竜華機関区。東側(画像右端中央)のグランドが通学していた高校。




117系T1編成展示 keihan3505 投稿日: 2022年05月23日 19:17:55 No.20 【返信】

5月17日
展示の最終日に鉄道博物館で拝んできました。
平日ということもあり意外に人が少なかったので、ゆっくりと撮影できました。
この日は、展示スペースからの搬出作業も行われました。
搬出作業が始まる頃には、多くのファンでにぎわいましたが、誰一人声を上げることはありませんでした。これはコロナ禍ということもあるのですかね。
いずれにしても、また名車が1つ姿を消すことは悲しいです。


[1] 快速つくばね 投稿日: 2022年05月28日 21:36:44 No.22
 117系電車についての想い出で一番鮮明なのは、新製時に京阪神地区の新快速用に導入された時です。
 新快速は大阪万博終了後の1970年10月1日に首都圏から万博輸送用に応援にきたスカ線色の113系を使用して運行を開始しましたが、1972年から山陽新幹線岡山駅開業に伴い余剰となった急行形車両153系が投入されました。153系は元来長距離の急行用車両であったため洗面所やトイレ付きで座席は比較的ゆったりしていたとはいえ、京阪間を運行する阪急電鉄や京阪電気鉄道の転換クロスシートを備えた特急車両(阪急6300系・京阪3000系)に比べると見劣りしていました。
 そうしたライバル路線との競争に負けないようにと国鉄が生み出したのが117系で1979年登場以降、好評となり1999年まで20年にわたり新快速として走り続けました。京阪神間の急行電車として投入された往年のモハ52を偲ばせる塗色で、1979年から1986年にかけて216両が製造され、国鉄分割民営化の時にはJR東海に72両、JR西日本に144両がそれぞれ承継されました。
 両開き2扉、転換クロスシートという車体は、財政の苦しい国鉄最後の競合路線、新規電化開業路線用の新車投入のスタイルで、JRになってからは一般車両として2扉車の新しいデザインの電車は製造されていません。
 因みにこの時代に製造されたこのスタイルの車両は、製造年順に1974年のキハ66系気動車(山陽新幹線博多開業に対応する筑豊・北九州地区の輸送対策)に始まり、1979年から製造した117系電車、1982年に製造した115系電車3000番台車(広島地区の輸送改善)があり、1987年の213系電車(瀬戸大橋線の開業対応と関西本線名古屋口の輸送改善)まで続きました。


1958年(昭和33年)の三井寺下 快速つくばね 投稿日: 2022年05月20日 22:39:29 No.18 【返信】

 特別快速「せんり1号」からの転載です。

 5月15日の朝日新聞(朝刊)6ページの沖縄の復帰50年の特集記事に興味深い写真がありました。それは「本土の米軍基地」の接収当時と現在との比較写真です。その中に「3・大津」として米軍のキャンプ大津A地区の1958年と2022年が掲載されていました。1958年の中央下の部分に江若鉄道の三井寺下駅と三井寺下機関区が全景写り込んでいました。
 現在、皇子山総合運動公園となっているエリアは、戦後は皇子山一帯に展開していた占領軍のキャンプ大津A地区になっており、そこには軍需物資輸送を行う側線が三井寺下駅構内から伸びていたという話を聞いたことがあります。この写真はまさにそれを記録しています。
 この輸送に対応するため、1947年に国鉄C11形と同形の自社発注の1号機「ひえい」と同年宇部油化工業専用線から転入した2号機「ひら」が導入されました。C11形は、江若鉄道にとっては能力が大きすぎたため、10年の間に両機とも他社に売却され、1号機は巡り巡って今年から東武鉄道のC11-123号機として活躍を始めました。さらに米軍の威光により気動車も比較的早くガソリン機関からディーゼル機関に換装されました。
 軍用用地としての皇子山地区の歴史は古く、1875年(明治8年)に陸軍第四師団歩兵第九連隊が大阪から転入し、1925年(大正14年)に第十六師団に改編され京都に移駐するまで続きました。昭和に入ってからは一時的に臨時大津陸軍病院となり、この時には三井寺下-滋賀間に大津陸軍病院という駅が開設されました。1942年10月に東京陸軍航空学校 大津教育隊が設置され、1943年4月に大津教育隊を大津陸軍少年飛行兵学校として独立し終戦まで機能しましたが、1945年7月30日 の第2回目の大津空襲では大津陸軍少年飛行兵学校が爆撃されて死者1名が出ました。終戦の翌年の1946年に米軍が撮影した航空写真(写真3)には直撃弾の痕が写っていますが、旧軍の時点では江若鉄道からの引き込み線はなかったようです。
 戦前戦時中は沿線の皇子山付近の陸軍施設と終点の近江今津に近い饗場野に演習場があったことから、その間の移動手段として江若鉄道は重用され、そのため陸軍の配慮により優先的に気動車の燃料確保が行われたようです。写真を見ると貨物は裏口から江若鉄道が、人間は表口から京阪電鉄石山坂本線の大津市役所前(←別所←兵営前)駅が担当していたようです。




王寺、信貴山下開業100年ヘッドマーク GET A 投稿日: 2022年05月18日 19:27:05 No.17 【返信】

生駒線の100年記念ヘッドマークを撮ってきました。
元は東信貴山ケーブルの連絡用に開通したと思われますが、ケーブルは1983年に
休止されました。
信貴山下の駅前に1両保管されています。
HMは4種類で2編成に付けられてけられています。




撮影会 和歌山電鐵 2237(増田)生 投稿日: 2022年05月16日 11:27:22 No.16 【返信】

清水薫氏の写真教室がなくなってから久しく鉄道撮影会には参加しておりませんでしたが、朝日カルチャーセンター中之島教室で森誠先生が鉄道を主として撮影教室の講座を開講されているのを知って3年ぶりに出かけてきました。
年齢的に体力もいる所ですが、鉄道に関する情熱を沸かせてくれる場所ですので頑張って行きたいと思っております。拙い作品ですがご笑覧下さい。




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