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[722] Re: ここは何処 投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月15日(金)18時55分31秒 通報 返信・引用 編集済 山内崇章 様 そういえば国鉄から三等級制が事実上廃止になる昭和35年5月31日、一等乗車券を買い求める鉄道ファンがいたようで、東京では東京-品川の乗車券を発売したそうですが、大阪ではどうだったんでしょう?  題名から脱線しますが、鉄道の等級制の蘊蓄です。鉄道開設時からの話は長くなりますので、ここでは1950年以後の話とします。  戦後の小説で『元祖乗り鉄』の内田百閒は、鉄道に乗ることのみを目的として全国の鉄道旅行を行いました。これを「阿房列車」の三部作シリーズに著されましたが、太平洋戦争後の鉄道が戦前の運行水準を回復しつつある1950年から1955年にかけての話です。優等車好みの百閒は優等列車が走っている区間には優等列車に乗りましたが、当時は三等級制が敷かれ特急の一等展望車が走り、急行には一等寝台車が連結されていました。(当時の北海道を除く国鉄の状況が分かりますので一読をお奨めします)  といっても一等車を連結していたのは、客車時代の東海道本線の特急「つばめ」・「はと」の一等展望車「マイテ」と全国の長距離急行に連結された一等寝台車「マイネ」他のみでした。しかも一等寝台は利用不振のため1955年に廃止され、二等寝台に格下げされました。1960年6月1日に東海道本線の特急「つばめ」・「はと」が電車化される直前の一等車は、両列車の展望車だけでしたが、定期列車での一等展望車の運用が終了したことにより同年7月1日から一等・二等のみの二等級制に移行しました。  等級を格上げしたのですから、用途記号は新一等車が「イ」、新二等車が「ロ」となるべきところ、一斉に変更するには手間と費用が掛かるため、一等車を「ロ」、二等車を「ハ」に変更しました。(つまりそのままにしたということです)  因みに三等級時代最終時期は、運賃も、急行料金(特急料金・普通急行料金・準急料金)も等級別に異なる体系を持っていました。三等運賃・料金を基準とすると、二等運賃・料金はその2倍、一等運賃は三等の4倍、一等特急料金は三等の3倍でしたが、さらに贅沢税として当時は一、二等運賃・料金には通行税2割が課せられていたので、それを加算した金額になりました。(当初は外税、最終期は内税)  また切符の色も等級別に異なっており、国鉄では客車の帯の色から一等は「白切符」(実際には黄色)、二等は「青切符」、三等は「赤切符」と呼ばれていました。  さて、ここからが本題です。国鉄は乗車できない区間の乗車券は発売しませんでした。したがって城東線の大阪-天満間の一等乗車券は買うことができませんでした。大阪から特急列車の次の停車駅は、京都でしたので大阪-京都間の乗車券は買えたと思います。東京の場合は、次の停車駅は横浜ですから東京-品川間の一等乗車券を発売したというのは、東京鉄道管理局の特別の計らいでなかったのでしょうか。  二等乗車券(1960年7月1日以降は一等乗車券、1969年5月10日以降は普通列車グリーン券)を購入できた区間は、京阪神地区に限定すると、1951年11月に京阪神緩行線にクロハ69が組み込まれたので、京都-西明石の停車駅相互間で発売されるようになりました。1961年には、京阪神快速(米原-姫路間)に一等車(のちのグリーン車)が連結され、この区間でも二等乗車券(のちの普通列車グリーン券)が発売されましたが、1980年10月1日の改正でグリーン車の連結が中止されたので関西地区から自由席の普通列車グリーン券は消滅しました。  なお1960年代は、まだ長距離の普通列車が運転されており、東京-大阪間を運転する143列車などには「スロ51」などの一等車が連結されていたことは周知のとおりです。GET A様の投稿された一等乗車券は、すべてこの区間に含まれています。
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