特別快速「せんり2号」関西大学鉄道研究会OB会掲示板


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ここは何処シリーズ8
管理人 投稿日:2022年07月18日 11:15 No.128
[713] ここは何処
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月 9日(土)10時15分56秒 通報 返信・引用

「ここは何処」今回は難しいですよ。ここは何処というより前にそもそも何という鉄道会社かを考えてもらわなくてはなりません。
いずれも今は無き鉄道です。
写真1 後ろの山がヒントです。塗色は水色と薄クリームのツートン。
    電車です。
    1965年(昭和40年)11月21日撮影
写真2 今は別会社が新線で営業
    キハ04の成れの果て。
    1969年(昭和44年)頃 撮影
写真3 撮影した記憶がないので、人から貰った写真かも知れません。
    キハ04の成れの果て。撮影場所が分かりません。教えてください。


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:41 No.138
[714] Re: ここは何処
投稿者: 増田純一 投稿日:2021年10月10日(日)11時54分2秒 通報 返信・引用 > No.713[元記事へ]

西邑様

全く判りません。難し過ぎる!

写真1 後ろの山がヒントです。塗色は水色と薄クリームのツートン。
    電車です。
    1965年(昭和40年)11月21日撮影
 これは、淡路交通ですね。

 写真2、写真3は、ギブアップです。

写真1の画像のカラー写真添付します。     


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:39 No.137
[715] Re: ここは何処
投稿者: 山内崇章 投稿日:2021年10月10日(日)12時26分10秒 通報 返信・引用 > No.713[元記事へ]

西邑 宏様
この当時まだ生まれてませんが、ヒントを頼りに答えさせていただきます。
1枚目は淡路交通、色はこんなのというのは話では聞いてました。というか淡路島に電車が走っていたという事は、神戸鳴門ルートがもっと早く開業していたら国に買収されて今頃大阪~淡路島~鳴門~徳島~高松を結ぶ列車が走っていたかもしれませんね。今もバス会社として盛業中ですが、昔家の近所の豊中市清風荘に車庫がありました。

2枚目は、横に新線ができたという事は、北丹鉄道ですか?あそこも廃止後宮福鉄道(のち北近畿タンゴ鉄道→京都丹後鉄道(ウィラートレインズ))ができてます。流石に江若鉄道も思いましたが横琵琶湖じゃなさそうですし。

3枚目、わかりま線。※ドラえもんでよく似たネタがありました

そういえば国鉄から三等級制が事実上廃止になる昭和35年5月31日、一等乗車券を買い求める鉄道ファンがいたようで、東京では東京-品川の乗車券を発売したそうですが、大阪ではどうだったんでしょう?


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:37 No.136
[716] Re: ここは何処
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月10日(日)16時41分23秒 通報 返信・引用

西邑 宏 様
 難問ですね。今回はどの会社にも乗車したことがありません。記憶とネット上の捜査で頑張ってみました。
 写真1は、淡路交通ですね。お互いが1年次生の時に例会で淡路交通の写真を見せてもらったのを覚えています。塗色と車両でわかりますが、山の名前が分かりません。グーグルアースのストリートビューで廃線跡を辿ったのですが、洲本を出発してすぐにそれらしい山容を発見したのですが、淡路島の土地に不案内のため山名が分かりません。ひょっとしてこれが駅名にあった先山という山でしょうか。教えてください。
 写真2と写真3は、キハ04を頼りに私鉄に譲渡された会社を調べました。後は、それぞれが駅に停車しているので、駅の配線図で調べようとしたのですが、昭和40年代に廃線となった会社のものは情報がありませんでした。次策としてYouTubeの前面展望を探してみました。ただ画像撮影時点と動画撮影時点が異なるので想定しかできませんでした。
 写真2は、国鉄から1965年にキハ04 28の払い下げを受けキハ101と附番した会社は、「北丹鉄道」ですね。この鉄道は途中駅に交換設備がなく、起点の福知山と終点の河守駅には機回し線がありました。どう見ても福知山駅ではないので、河守駅ではないでしょうか。
 写真3は、1950年に国鉄のキハ41057を譲受し、キハ3001と附番した会社は、「同和鉱業片上鉄道」で、1967年にキハ301に改番しています。では何処の駅かということですが、起点(片上駅)、終点(棚原駅)や国鉄との接続駅であった和気駅ではないようです。廃線直前の同鉄道には、列車交換可能駅として天瀬駅、備前矢田駅、備前塩田駅、吉ヶ原駅の4駅ですが、この中に上下線の間に中線があるのは備前矢田駅のみでした。備前矢田駅の可能性が高いのですが自信がありません。
 旧吉ヶ原駅は、駅舎より片上方の線路の配線を一部変更して復元し「柵原ふれあい鉱山公園」の一施設となりました。展示運転用の車両の中に僚機のキハ303(旧番号キハ3003←国鉄キハ41071)が活躍しています。整備・動態保存されている気動車としては現役最後の国鉄キハ41000形であり、動態で保存されている気動車の中で日本最古の車両となっています。


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:35 No.135
[717] ここは何処 答え合わせ
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月10日(日)18時26分5秒 通報 返信・引用

ご回答の各位。 ありがとうございました。難問で恐縮です。

写真の1は、1966年(昭和41年)廃止の淡路交通鉄道線 先山駅付近で撮影。
母の里が淡路島でしたので何回か訪れました。阪神電車から600形2両が嫁いでいましたので、それを見たさに乗りに行ったものです。次に貼る写真1がそれです。後ろの山が駅名の先山です。淡路島一の高い山です。中の扉から飛び出しているのはなんでしょうね。

写真の2は、1971年(昭和46年)休止。1974年(昭和49年)廃止の北丹鉄道です。終点河守 (こうもり と読みます)で撮影。駅の風景を写真2に貼ります。いろいろ経緯があって新線建設、鉄道会社名も色々かわり、現在は京都丹後鉄道宮福線。さきの淡路交通は、最後まで鉄道施設、電車保守、社員士気など立派なもので、いかにも鉄道というものでした。島民から惜しまれての廃止でしたが、こっちの北丹鉄道は、もうぼろぼろ。乗るのが怖いというしろものでした。

写真3は、同和鉱業片上鉄道の気動車3001。国鉄から譲渡直後の写真かと思うのですが、どうも貰った写真らしく、よくわかりません。現在、同鉄道の保存車両のなかに似たのがあって、それかと思います。今一度 鉄道、車両、場所 おわかりになればお知らせをお願いいたします。この会には、探偵ナイトスクープみたいなお方がおいでになるので、非常に心強いです。


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:30 No.134
[718] Re: ここは何処 答え合わせ
投稿者: GET A 投稿日:2021年10月11日(月)18時55分57秒 通報 返信・引用 > No.717[元記事へ]

西邑様

 写真3は岡山臨港鉄道のような気がします。ホームの黒い建物、ポイントの位置から撮った角度は違いますが南岡山のように思えます。

写真1:南岡山
写真2:3001ヘッドライトが少し違います、昭和43年の写真です。
写真3:丹後海陸鉄道キハ101、福知山駅近くです。 


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:25 No.133
[719] Re ここは何処 答え合わせ
投稿者: 西邑 宏 投稿日:2021年10月12日(火)12時10分12秒 通報 返信・引用

GET A様
写真3 GET A様のお見立てが正しいようです。すごいですね。
GET A様の探偵力に敬服いたします。岡山臨港というと鉄コレにある派手な塗色の5001と7002に頭がいって、こいつにはまったく思いが至りませんでした。
ヘッドライトは、改造がしやすいのか、一番さわられるところですね。
場所を変えたり、形を変えたり、電球を変えたり。


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:23 No.132
[720] Re: ここは何処 答え合わせ
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月12日(火)15時14分2秒 通報 返信・引用 編集済

GET A様
 脱帽です。写真3は、「同和鉱業片上鉄道」でなく「岡山臨港鉄道」で確定ですね。「同和鉱業片上鉄道」と推定しながら、列車交換駅から必ず山が見える筈ですが、写真に写っていないことが腑に落ちませんでした。これが終点岡山港駅一つ手前の南岡山駅であれば山が写らなくても当然ですね。この車両が一時期、江若鉄道からの譲渡車キハ5001(キハ12)、5002(キニ13)と同一線路を走っていたわけですね。
 キハ04を頼りに私鉄に譲渡された会社を調べましたが、国鉄が製造しなかったキハ04がありました。このような車両は、樺太から九州まで全国9社で製造されたようです。
 戦時買収でのちに国鉄津山線・吉備線となる中国鉄道(日本の)が1937年に鉄道省キハ41000形と同一車体を持つガソリンカーキハニ200を加藤製作所で製造しました。その後、一旦国鉄に移管されましたが、廃車後、幡生工機部内にあった中国工業でディーゼル動車に改造整備されたものを「岡山臨港鉄道」が購入しキハ3001に改番したようです。
 この車両の特徴は、前面幕板部に取り付けられている前照灯ですが、車番は通常の腰板部に書かれています。「同和鉱業片上鉄道」の車両は、前照灯は一般的な前面屋根部分に取り付けられていますが、車番は幕板部に書かれていて、扉はすでにプレスドアーに付け替えられています。
 写真1は、和気駅に停車中の「同和鉱業片上鉄道」のキハ3001です。写真2は、多分GET A様と同じ日に撮った「北丹鉄道」の福知山駅停車中の「元南海電鉄の変な電車」です。いずれも隣に見える国鉄の山陽本線、山陰本線のレールと比べると社線の脆弱さがよく分かります。


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:21 No.131
[721] Re: ここは何処
投稿者: GET A 投稿日:2021年10月13日(水)18時01分25秒 通報 返信・引用 > No.715[元記事へ]

>山内様
>
> そういえば国鉄から三等級制が事実上廃止になる昭和35年5月31日、一等乗車券を買い求める鉄道ファンがいたようで、東京では東京-品川の乗車券を発売したそうですが、大阪ではどうだったんでしょう?

3等がなくなり、その後1等車がグリーン車に変わりましたが昭和40年に大阪~新大阪間の1等乗車券を買いました。印刷したものが無くて手書きのものでした、税金込みで40円。写真の右端のものです。京都近郊、名古屋~京都間は硬券が発行されていました。
3等の切符も入れています。大阪~天満は2等になってからも10円で乗れました。


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:19 No.130
[722] Re: ここは何処
投稿者: 快速つくばね 投稿日:2021年10月15日(金)18時55分31秒 通報 返信・引用 編集済

山内崇章 様
そういえば国鉄から三等級制が事実上廃止になる昭和35年5月31日、一等乗車券を買い求める鉄道ファンがいたようで、東京では東京-品川の乗車券を発売したそうですが、大阪ではどうだったんでしょう?

 題名から脱線しますが、鉄道の等級制の蘊蓄です。鉄道開設時からの話は長くなりますので、ここでは1950年以後の話とします。
 戦後の小説で『元祖乗り鉄』の内田百閒は、鉄道に乗ることのみを目的として全国の鉄道旅行を行いました。これを「阿房列車」の三部作シリーズに著されましたが、太平洋戦争後の鉄道が戦前の運行水準を回復しつつある1950年から1955年にかけての話です。優等車好みの百閒は優等列車が走っている区間には優等列車に乗りましたが、当時は三等級制が敷かれ特急の一等展望車が走り、急行には一等寝台車が連結されていました。(当時の北海道を除く国鉄の状況が分かりますので一読をお奨めします)
 といっても一等車を連結していたのは、客車時代の東海道本線の特急「つばめ」・「はと」の一等展望車「マイテ」と全国の長距離急行に連結された一等寝台車「マイネ」他のみでした。しかも一等寝台は利用不振のため1955年に廃止され、二等寝台に格下げされました。1960年6月1日に東海道本線の特急「つばめ」・「はと」が電車化される直前の一等車は、両列車の展望車だけでしたが、定期列車での一等展望車の運用が終了したことにより同年7月1日から一等・二等のみの二等級制に移行しました。
 等級を格上げしたのですから、用途記号は新一等車が「イ」、新二等車が「ロ」となるべきところ、一斉に変更するには手間と費用が掛かるため、一等車を「ロ」、二等車を「ハ」に変更しました。(つまりそのままにしたということです)
 因みに三等級時代最終時期は、運賃も、急行料金(特急料金・普通急行料金・準急料金)も等級別に異なる体系を持っていました。三等運賃・料金を基準とすると、二等運賃・料金はその2倍、一等運賃は三等の4倍、一等特急料金は三等の3倍でしたが、さらに贅沢税として当時は一、二等運賃・料金には通行税2割が課せられていたので、それを加算した金額になりました。(当初は外税、最終期は内税)
 また切符の色も等級別に異なっており、国鉄では客車の帯の色から一等は「白切符」(実際には黄色)、二等は「青切符」、三等は「赤切符」と呼ばれていました。
 さて、ここからが本題です。国鉄は乗車できない区間の乗車券は発売しませんでした。したがって城東線の大阪-天満間の一等乗車券は買うことができませんでした。大阪から特急列車の次の停車駅は、京都でしたので大阪-京都間の乗車券は買えたと思います。東京の場合は、次の停車駅は横浜ですから東京-品川間の一等乗車券を発売したというのは、東京鉄道管理局の特別の計らいでなかったのでしょうか。
 二等乗車券(1960年7月1日以降は一等乗車券、1969年5月10日以降は普通列車グリーン券)を購入できた区間は、京阪神地区に限定すると、1951年11月に京阪神緩行線にクロハ69が組み込まれたので、京都-西明石の停車駅相互間で発売されるようになりました。1961年には、京阪神快速(米原-姫路間)に一等車(のちのグリーン車)が連結され、この区間でも二等乗車券(のちの普通列車グリーン券)が発売されましたが、1980年10月1日の改正でグリーン車の連結が中止されたので関西地区から自由席の普通列車グリーン券は消滅しました。
 なお1960年代は、まだ長距離の普通列車が運転されており、東京-大阪間を運転する143列車などには「スロ51」などの一等車が連結されていたことは周知のとおりです。GET A様の投稿された一等乗車券は、すべてこの区間に含まれています。


管理人 投稿日:2022年07月18日 11:17 No.129
[723] (無題)
投稿者: 山内崇章 投稿日:2021年10月17日(日)18時40分29秒 通報 返信・引用

GET A様
快速つくばね様

解説ありがとうございます。物心ついた時には既に普通運賃の時代だったので等級制の時代はまた興味があります。一等寝台が二等寝台に格下げされたのが、当時の金持ち階級で一等車の利用者が「同じ運賃だったら飛行機の方が早いからそっちにしようぜ」と流れ始めて危機感を抱いた国鉄が格下げに踏み切って二等寝台ABC(それぞれ個室・開放(プルマン)・非冷房車一切合切)にしたというのは聞き及んでました。しかし、京阪神緩行線のクロハ69や京浜東北線のクロハ16・クロハ55の利用者はどれくらいいたのでしょう。
内田百閒の本は一度読んでみます。

ただモノクラス制になったおかげでラガールとかのプリペイドカード改札や鉄道系ICカードが一気に普及したとも言えるかもしれません。因みに船は今も1等2等になっている路線もある様ですが、国内線の飛行機は普通運賃プラス特別料金(日本航空の国内線ファーストクラスはファーストクラス運賃ではなくてあくまでも普通運賃(割引含む)にファーストクラス料金を別途加算という仕組みだそうです)です。




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