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山田・山戸・山門ラインと邪馬台国
管理人
投稿日: 2024年03月13日 16:33:22
No.385
【返信】
先日、山田の字名や地名が邪馬台国の支配領域と関係していることを明らかにしましたが、以前作成した山田、山門、山戸といった字名を結んだ方位ラインについて、今回再考しなおしてみたのが図1~3の方位ライン図となります。
まず、先日も触れた播磨の山戸4号墳(纒向型前方後円墳)に関するものとしては、山門町(北九州市)⇔山門(宇部市)⇔山戸4号墳⇔象鼻山1号墳への東18度偏角のラインがあります。
また、山門4号墳⇔山戸町(枚方市)への東西同緯度ラインがあり、同じく山戸4号墳⇔布留遺跡・石上神宮⇔小山戸町(奈良市)⇔伊勢宮への西10度偏角のラインがあり、この小山戸町(奈良市)周辺には、都祁山口神社があります。
そして、その山戸町(枚方市)⇔伊弉諾神宮⇔津久見島への東30度偏角のラインが確認できますが、このラインと図のように山戸4号墳⇔伊弉諾神宮への西60度偏角のラインとが直交しています。
なお、その山戸町(枚方市)東方には山田池があり、この周辺が山戸・山田の字名で統一した領域だったことも予想しうるでしょう。
その伊弉諾神宮は伊勢内宮と東西同緯度ラインとなります。
さらに山戸4号墳については、図のように、山田(西都市)⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔山戸4号墳⇔分校マエ山古墳⇔柳田布尾山古墳への東45度偏角のラインがあり、このラインと図3のように、柳田布尾山古墳⇔富士山への西45度偏角のラインとが直交しています。
その富士山については、富士山⇔伊勢内宮⇔持田古墳群への東30度偏角のラインがありますから、弥生時代後期以来の富士山を起点とした測量が継承されていたように見受けられます。
続いて、前掲の柳田布尾山古墳を起点としたラインをみていくと、柳田布尾山古墳⇔冠島⇔山田池⇔津久見島への東40度偏角のラインがあることは先日も指摘したとおりですが、その冠島⇔象鼻山古墳群⇔山門町(名古屋市)への西20度偏角のラインがあり、またその山門町(名古屋市)と柳田布尾山古墳とが南北ラインで接合していることもわかります。
この冠島は元伊勢籠神社の奥宮とされ海底に沈んだ神殿があることも判ってますが、またその山門町(名古屋市)のすぐ北隣りに籠神社と山神社があること、山元町の字名が残ることからみて、崇神朝と関わる元伊勢信仰との関わりが伺えるでしょう。
その件は、先の伊勢内宮へのラインにも現れており、概して崇神朝時代のライン構築との見方ができるかもしれません。
この山門町(名古屋市)については、図のように、山門(宇部市)⇔山門町(名古屋市)⇔鹿島神宮への東15度偏角のラインが確認できます。
そしてこの山門(宇部市)⇔津久見島への西60度偏角のラインは、先の津久見島⇔伊弉諾神宮⇔山戸町(枚方市)への東30度偏角のラインと直交しています。
あと、柳田布尾山古墳⇔山門町(北九州市)⇔山田緑地⇔名島4号墳(纒向型前方後円墳)⇔下山門(福岡市)⇔伊都平原遺跡への東30度偏角のラインが確認できますが、元は北九州を拠点とした集団の東遷による支配領域拡大が背景にあったことが伺えます。
そこで、九州方面へ目を向けると、図2のように、まず伊都平原遺跡⇔山門野(長島町)への南北ラインがあり、その山門野(長島町)⇔持田古墳群への東西同緯度ラインも確認できます。
また伊都平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔女山神籠石(山門・瀬高町)⇔山田(西都市・箸墓規格の古墳状地形有り)⇔宮崎神宮への西60度偏角のラインがあり、このラインと女山神籠石⇔山田町(日田市)⇔川部・高森古墳群(宇佐市)への東30度偏角のラインとが直交し、同様に、先の山門野(長島町)⇔天岩戸神社東部への東30度偏角のラインもこのラインと直交しています。
その天岩戸神社については、図のように、川部・高森古墳群⇔山田(西都市)への南北ライン上にあり、また天岩戸神社⇔女山神籠石⇔菜畑遺跡への西30度偏角のラインも確認できるので、弥生時代後期には存在していた可能性があるでしょう。
続いて、先の山門町(北九州市)に関するラインをみていくと、まず山門町(北九州市)⇔山田町(日田市)への南北ラインがあり、また山門町(北九州市)⇔川部・高森古墳群西部⇔津久見島への西40度偏角のライン、同じく山門町(北九州市)⇔平塚川添遺跡⇔岩戸山古墳⇔女山神籠石への東65度偏角のラインがあります。
その山門町(北九州市)の正確な拠点となるべき位置については、平塚川添遺跡を結ぶライン、川部・高森古墳群へのラインとのズレを考慮すると、その東部にある大里地区の最北部から光町・藤松3丁目付近にあったであろうと予想します。
図のように、その北に綾羅木郷遺跡、その南に御所ケ谷神籠石、英彦山、小迫辻原遺跡が位置して(経度130度55分37秒ライン)、またその西には伊予の八堂山遺跡(高地性集落)や伊曽乃神社が位置(緯度33度53分)してきます。
なお、その岩戸山古墳自体は後代のものですが、元々その周辺に弥生時代後期あたりの遺跡等もあったのではないでしょうか。
あと、そこに見えてきた平塚川添遺跡については、先日も指摘した平塚川添遺跡⇔山田(朝倉市・長田大塚古墳)⇔杷木神籠石⇔山田町(日田市)⇔小迫辻原遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインがあります。
概して九州北部に、山田・山門・山戸の字名が多いのですが、ある時期に東方へと拡大していき、それにともない、伊勢に関するアマテラス・トヨウケ信仰の拠点なども付随していったことがこれらのライン分析から明らかにしうるでしょう。
その年代としては、弥生時代後期にはすでに北九州ではその山田・山戸・山門に関する領域、つまり邪馬台国の支配領域が確立しており、その後、古墳時代初期にかけて播磨・四国方面へとむかい、その一部は能登・氷見市の柳田布尾山古墳方面へと向かうとともに、古墳時代前半の崇神朝の時代あたりで、奈良・名古屋方面へと進出していったのではないでしょうか。
その際には今回みてきたような30度(15度×2)、60度、90度の倍角測量がなされ、すでに弥生時代後期には存在していた池上曽根遺跡・富士山・冠島あたりを測量起点として、畿内各地へと拠点をつくっていく過程で山戸・山門の地名が現れて、最終的に大和(ヤマト)との地域が文献に現れていったように見受けられます。
その際に、山戸・山門≒ヤマトの語音と、山田≒ヤマダの語音の地名とが併存しており、双方の表記の相違について考慮していく必要があるかもしれませんが、ともあれ邪馬台国(ヤマタイ)に由来するであろうことは概ね間違いないと思います。
ただ、そのヤマタイ(ヤマト・ヤマダ)は何らかのアイデンティティを示す語で、その集団が各地に拠点を造る際に、多くの場合、そのヤマタイ(ヤマト・ヤマダ)を称していた理由についても考えていく必要があるでしょう。
その意味を、山=ヤマで解釈しようとすると、今回の拠点の多くが古代の海岸線では港湾沿いに位置していることとの矛盾が生じてしまうことがあり、丘や尾根など別の意味を持たせていたのかもしれません。
戸・門の意味も、港湾およびその出入口との解釈も可能で、この件については、また次回あたりで考察を進めてみたいと思います。
弓張月
投稿日: 2024年03月17日 07:47:37
No.390
「多くの場合、そのヤマタイ(ヤマト・ヤマダ)を称していた理由についても考えていく必要があるでしょう」について一言
「ヤマタイ」は、平和への道から考えると、八岐大蛇退治の「八岐」と「い」は、五王の「五」,弥彦神社の「い」,中国にある「渭川(いがわ)」,伊都(愛・糸)」かな?
弓張月
投稿日: 2024年03月18日 07:59:48
No.391
「花」で、もっと深読みすると
ユリ(百合)とアヤメ(英:アイリス,仏:イリス)が謎化させているのかな?
ユリ(百合)の「合」の読みは「あい」と「ごう=」なので、=愛と(濁点を取って)鷹。
アヤメの「英:アイリス,仏:イリス」で、英語の「I」は、英語では「アイ」で、ローマ字では「い」となり、為替取引逆張りの「ミセスワタナベ」か?
言魂(続き)
弓張月
投稿日: 2024年03月16日 11:09:31
No.388
【返信】
今日、北陸新幹線が敦賀まで延伸したようですね。
敦賀と言えば、前に投稿した「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)」ですね。敦賀駅前に像もあります。
そして、上越妙高駅の妙高には、斐太神社のご祭神は、ウィキペディアに「天照皇大神も祀られていた。また異説として、明治34年(1901年)の『越後頸城郡誌稿』に祭神は現祭神説の他に荒人命(あらひとのみこと)説があると紹介している」とある。
平行して国道8号線があり、「うかんむりに八(8)」は穴で、古代史ですと大穴持命となりますね。富山県の観光地に宇奈月がある。
続いて、「うかんむりに六(6)」は宍(しし)てす。なぜか宍戸は茨城県にあり、国道6号線が走っていて、常磐線もあります。
輿(こし)や駕籠(かご)を担ぐ人足。駕籠舁(かごかき)は、「ろく‐しゃく【六尺/陸尺】」です。
常陸国の「陸」を「六」に代えると、常(神)六国で、「鎌倉暮らしDiary」なるブログには、北鎌倉に六国見山なあり、「かつて六つの国(相模、武蔵、伊豆、上総、下総、安房)が見えたことから、名付けられた山名。富士山や筑波山も見えたと伝わります。」と書かれています。
https://1192-diary.com/rokkokukenzan_hiking/
旧事本記の物部系図で、謎解きのカギを使い応神天皇を一世とすると、五世は雄略天皇と清寧天皇ですので六世は二股になる訳で、宍とは「猪(ゐ)の—、鹿(か)の—はしらず」〈平家・一一〉。
弓張月
投稿日: 2024年03月16日 13:03:42
No.389
筑波(90=桑波)国造の祖先は、ウィキペディアで、
『国造本紀』によると、成務朝に忍凝見命の孫の阿閇色命が初めて筑波国造に任じられたとされる。
対して、ホツマツタヱは偽書扱いで、柊について「開く」の意味で書かれている。
言魂
弓張月
投稿日: 2024年03月14日 12:05:40
No.386
【返信】
製紙会社の大王製紙と阿部製紙について前に投稿しました。
和紙に使われる木には、梶の木(クワ科)とミツマタ(ジンチョウゲ科)もありますね。
ジンチョウゲ科の「ジンチョウゲ」は、≒神長毛(家)当たりの当て字でしょうか?
また、ウィキペディアに、「その枝が必ず三叉、すなわち三つに分かれる持ち前があるために「ミツマタ」と名付けられた。三枝、三又とも書く。中国語では「結香」(ジエシアン)と称している。」とあります。
となると、加波山の周りに「三枝神社」が三つある意味となるんでしょう。
加波山は笠間市の小原神社と宍戸地区のライン線上でもあります。
よって、ミツマタは、=三つ巴となりますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミツマタ
弓張月
投稿日: 2024年03月14日 13:04:29
No.387
それと、五浦海岸(いづらかいがん),五十猛神(イタケルノミコト/イソタケルノミコト)であるとすると、磯前神社(いそさきじんじゃ)は「五十神社」で、大王製紙の井川は「五川」ですね。そして、国道50号(50代天皇:桓武天皇)線は群馬県 前橋市 から 茨城県 水戸市 に至り、国道123号線は栃木県宇都宮市から茨城県水戸市に至る。新潟県の弥彦神社の読みの「いやひこ」は、五弥彦でしょうね?
やはり、古代史の言魂からなのか?
邪馬台国方位ライン
管理人
投稿日: 2024年03月07日 16:56:50
No.380
【返信】
先日、九州の津久見島と、若狭湾の冠島を結ぶラインを中心として、それらに関連する弥生時代後期~古墳時代初期にかけての諸遺跡を結ぶ方位ラインを作成しましたが、その拠点の中で特に、四国伊予の山田池(松山市)周辺に地域に注目したことがあります。
この山田池に関するラインを再度確認していくと、さらにわかってきたことがあるので、その件について今回はお知らせしたいと思います。
まず、先日も紹介した帯隈山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡南部⇔山田池⇔八堂山遺跡⇔萩原墳墓群への東15度偏角のラインがありましたが、その延長線上に弥生時代後期の登呂遺跡が位置することがわかりました。
このラインの延長線について調べていくと、東端は親谷池(一宮町)あたりで、図のように荒神谷遺跡(西谷墳墓群)⇔富士山の東西同緯度ラインと交差することになります。
その親谷池(一宮町)⇔柳田布尾山古墳ラインは西30度偏角となり、直角の1/3角とのことで人工的な位置付けと言えるでしょう。
同じく、山田池(松山市)⇔山田(宗像市)⇔宗像大社への東西同緯度ラインが確認でき、山田の字名同志が同緯度にある確率を考えると、ある時期の邪馬台国(山田)の領域を示していた可能性がありそうです。
そしてこの山田(宗像市)⇔女山神籠石(日子神社)への東1度偏角の南北ラインがあり、そのそばにも山門の字名が残りますから、山田≒邪馬台国の支配領域を推測することができるでしょう。
この山田(宗像市)の正確な位置は、宗像のふれあいの森総合公園の西端となりまず。
その女山神籠石については、図のように、津久見島⇔八女津媛神社(鬼塚周辺)⇔おつぼ山神籠石への東西ライン(西1度偏角)がありましたが、このラインの延長線上にある高島(北部)で、先ほどの荒神谷遺跡⇔山田(宗像市)への東40度偏角のラインとが交差することがわかりますが、このラインは、また志賀島(火焔塚)付近を通過しており、志賀島にあった金印とそれを管理する役所との兼ね合いも想定しておくべきかもしれません。
あと、上記の2つのラインが1度の東偏角を持っていることは、当時の測量技術や道具に、1度の偏角のズレを生じさせる要因があったこととなり、同時代同時期の測量・造営と考えうることもあります。
さらに、図のようにこの高島北部で、先ほどの帯隈山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔山田池(松山市)⇔登呂遺跡ラインが交差することから、この場所が重要な測量起点であったことが明らかになるでしょう。
今回取り上げたこれらのラインは、概ね弥生時代後期には成立していたことになり、そこに山田の字名が示すであろう邪馬台国の支配領域を考慮すると、九州北部から四国東部にかけては、その領域にあった可能性が見えてきそうです。
そこでさらに今回注目しておきたいのが、前回注目した四国の伊予・阿波の対岸の吉備・播磨地域についてのライン拠点です。
まず、先の荒神谷遺跡⇔萩原墳墓群への西40度偏角のライン上に、楯築墳丘墓があることに気づきます。
その楯築墳丘墓⇔山戸4号墳⇔伊勢遺跡への東12度偏角のラインもあり、その古墳時代初期の纒向型前方後円墳である山戸4号墳については、山戸4号墳⇔孝霊天皇陵⇔黒塚古墳への西15度偏角のラインがあり、このラインと黒塚古墳⇔伊勢遺跡⇔分校マエ山古墳(纒向型前方後円墳)の東75度偏角のラインが直交していることも判ります。
加えて、先ほどの柳田布尾山古墳⇔分校マエ山古墳⇔山戸4号墳東部⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への東45度偏角のラインがあり、概して弥生時代末期から古墳時代初期にかけて造営されたラインと言えるでしょう。
なお、このライン上の山戸4号墳の位置がやや西へずれている理由としては、当時の海岸線を復元すると、本来あるべきラインの交差点が海中となるために、一方のライン上で西へとずらした丘陵地帯に墳墓を構築したと考えうることがあります。
同様に、前述した荒神谷遺跡⇔萩原墳墓群ラインと、津久見島⇔山田池⇔冠島ラインの交点は児島湾内の海中(浦安総合公園・体育館付近の島地)となり、その真東が、先ほどの孝霊天皇陵となりますが、この孝霊陵を起点として、奈良の欠史天皇陵や天皇宮が測量・構築されていったことを考慮すると、吉備・播磨方面に孝霊天皇に関わる集団、おそらくは山戸の字名に関連するであろう邪馬台国の東遷に関わる集団がおり、その後、孝霊天皇に象徴される王族が奈良南部方面へと進出し、黒田庵戸宮(孝霊宮)や黒塚古墳などを構築していったことが予想しうるでしょう。
そして、その件は、孝霊天皇と桃に関する伝承、纏向遺跡の桃の種や吉備の楯築墳丘墓にもみえる弧帯紋の遺物の出土とにも関係してくるかもしれません。
その前後の時代に、今回のラインにみられるような富山の分校マエ山、阿波の萩原、播磨の山戸にみられる纒向型前方後円墳や滋賀の伊勢遺跡等も構築されていたはずですが、そこに、また日向の魏年号銘鏡を出土した持田古墳群が関わってくることにも注目すべきで、概して邪馬台国の時代の構築と考えるのが妥当と言えそうです。
以上のように、弥生時代後期の各地の主要や弥生遺跡にライン構築が始まり、その前後で山田の字名にみられるような邪馬台国の原型が仕上がり、その後、弥生末期に瀬戸内の高地性集落の八堂山遺跡等が造営され、さらに古墳時代初期に入って、今回の楯築墳丘墓や纒向型前方後円墳等が構築されていった流れが見えてきますが、その終着点として、黒塚古墳が位置付けられていた点に留意すべきでしょう。
この古墳は多数の三角縁神獣鏡を出土するとともに、その東方には山田の字名とともに古墳軸を黒塚に向ける崇神陵等があり、古墳時代初期の主要な拠点として位置づけられていたことは明らかです。
年代としては、三角縁神獣鏡の古いタイプが出そろう280~300年前後となるでしょうか。
その直前期に、滋賀の伊勢遺跡や孝霊陵や宮・欠史天皇陵が構築され、同時に纒向型前方後円墳が各地に構築されていったはずですが、さらにその直前に楯築墳丘墓や萩原墳墓群といった最初期の纒向型前方後円墳が造営されたはずです。
そこで、邪馬台国の女王・卑弥呼の都がどこにあったのか?について考えてみると、富山、滋賀や四国、吉備、あるいは北九州、日向方面を視野にいれつつ、より年代を決めていくことが欠かせませんが、今回示したライン拠点のどこかに、卑弥呼・台与の都があったのかもしれません。
それはこれらのラインが狼煙などの情報通信の流れを示しており、その流れの集積地点に、その国の首都があるのは当然だからです。
その邪馬台国の領域の拡大にともない、それに相応しい地に情報の集積拠点を設けていったことは十分に予想しうることで、それなしでは国としての統治が難しいのではないでしょうか。
今回示してきた方位線の精度が1/1000前後の誤差精度で測量されていることを理解できれば、その都の位置も合理的に推測しうる可能性が高くなります。
津久見島・冠島と邪馬台国の東方展開
管理人
投稿日: 2024年03月01日 01:17:58
No.377
【返信】
以前、九州の弥生遺跡や神籠石が津久見島を起点とした方位線測量で位置づけられていることと、畿内の元伊勢拠点や弥生遺跡や古墳が冠島を起点とした方位線上に存在していることを明らかにしましたが、その津久見島と冠島との間に、同様なライン面でもつながりがあるかどうかを考察してみると図のようなラインが明らかになってきました。
まず、津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳への東40度偏角のラインを確認できますが、この氷見市の柳田布尾山古墳は、3世紀末~4世紀初頭の前方後方墳とされており、墳丘長は107.5m(後方部54m×53m・前方部53.5m×49m)となります。以前、魏年号銘鏡を出土した古墳が、この前方後方墳(方墳)と纒向型前方後円墳とに見られることが多く、ラインで接合していることを明らかにしたこともありましたので、その件を留意しておきましょう。
その冠島については、元伊勢・籠神社の奥宮とされ、崇神朝からはじまる豊鍬入姫・倭姫による165年前後にわたる巡行の諸拠点の測量起点となっており、その巡行の終わりの伊勢に落ち着く年代がちょうど外宮が移動された雄略朝末期と重なることからも崇神朝が310年代であることを指摘したとおりです。
ここで、また冠島の真南に位置する弥生時代後期の池上曽根遺跡について、津久見島⇔萩原墳丘墓⇔池上曽根遺跡への東25度偏角のラインが存在します。
この萩原墳墓群については、弥生時代終末期で、纒向型前方後円墳の原型ともみなされる墳墓があり、畿内へ纒向型前方後円墳が入る直前期の遺跡であった可能性があります。
弥生時代後期に津久見島を拠点に支配を広げていた九州系集団が、畿内方面へと東遷していく過程で、徳島のこの萩原墳墓群周辺に拠点を置いていたことがあったのではないでしょうか。近くには忌部氏のアマテラス信仰に関わる大麻比古神社もあり重要拠点です。
その九州における拠点について再度確認していくと、図3のように、まず津久見島⇔八女津媛神社(西隣の鬼塚字周辺)⇔女山神籠石(日子神社)⇔おつぼ山神籠石への東西ラインがあり、また津久見島⇔小迫辻原遺跡⇔杷木神籠石⇔長田大塚古墳⇔平塚川添遺跡への西15度偏角のラインがありますが、このラインと津久見島⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への東75度偏角のラインとが図のように直交しています。
そしてその持田古墳群⇔幣立神宮北東部⇔八女津媛神社⇔平塚川添遺跡への西60度偏角のラインがあり、このラインと平塚川添遺跡⇔冠島の東30度偏角のライン、女山神籠石⇔小迫辻原遺跡への東30度偏角のラインとが直交しています。
つまり冠島は、平塚川添遺跡と池上曽根遺跡とに影響されて位置づけられた(正確には冠島北部をラインが通過するので、その一番近くにあった島)であり、そこに、元伊勢に関わるアマテラス・トヨウケ神に関わる信仰を持ち込んだ集団がいたことになるでしょう。
さらに図のように、平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡南部⇔山田池⇔八堂山遺跡(伊曽乃神社)⇔萩原墳墓群への東15度偏角のラインがあり、先の津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳への東30度偏角のラインと、山田池周辺で交差しています。
ここに見えてくる川部・高森古墳群南部には免ヶ平古墳があり、50m前後の前方後円墳とみられ、竪穴式石室には、割竹形木棺が納められ、副葬品として、斜縁二神二獣鏡、三角縁三神三獣鏡、硬玉製勾玉、鉄剣、鉄槍、斧、刀子などが出土しており、初期古墳の可能性を感じますが、またこのライン上にみえる八堂山遺跡は弥生時代末期の高地性集落であり、またその傍に位置する伊曽乃神社では天照大神の荒魂と武国凝別命を祀り、アマテラス信仰の重要拠点であったことが予想されます。
またそのライン上に位置する山田池で、後者のラインと交差していますが、その山田池の山田の名が邪馬台国と関わることは以前から指摘しているとおりです。
関連して図2のように、その山田池の南には日尾八幡神社があり、品陀和気命(応神)、帯仲日子命(仲哀)、大帯姫命(神功)の三神を主神とする件は、宇佐神宮同様に九州に多いのですが、その境内社に、天照皇大神(玉垣内本殿東隣)や 東道後神社(天満神社東隣)で天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神が祀られており、アマテラス・ツキヨミ信仰が見えてくる点に留意すべきでしょう。
すなわちこの社地および山田池が、先のようにツキヨミとの関連が予想される津久見島と、アマテラス・トヨウケ神と関連する冠島(元伊勢・籠神社の奥宮)を結ぶライン上にあることに対応する祭祀を行っていたことが伺えるのです。
図2に差し入れた測量地図のように、その山田池を周壕とするようにして、その尾根を利用した220m前後の高地性集落・前方後円墳状地形が2つほど確認でき、日尾の字名も、日神を祀る尾根の意味であった可能性もありそうです。
関連して先の日尾八幡社の中玉殿に伊予比売命、饒速日命が祀られており、物部氏の祖のニギハヤヒが祀られていることは、九州方面からのニギハヤヒの畿内方面への東征を想起させますが、その中継地として、この伊予の地があったのかもしれません。
その山田池については、さらに月隈山⇔山田池⇔石岡神社⇔池上曽根遺跡⇔富士山への東18度偏角のラインがあり、また山田池⇔西谷墳墓群への南北ラインがあり、その西谷墳墓群⇔富士山の同緯度東西ラインがありますので、これら3つのラインで図のように直角三角形を構築していたこともわかります。
この月隈山は図3のように佐賀の日隈山と東西ラインにあり、その延長線上に帯隈山神籠石がありますが、また日隈山⇔女山神籠石⇔持田古墳群への西50度偏角のラインが見て取れます。
したがって、山田池は、富士山を起点とした測量とともに、池上曽根遺跡や平塚川添遺跡に造営され、また西谷墳墓群が造営された弥生時代後期に、重要拠点として位置づけられていた可能性が高いでしょう。
そこに、先の津久見島や冠島、そして九州・瀬戸内の神籠石・山城が関わってくるのですが、概して弥生時代後期から末期にかけての造営拠点であったろうと予想します。
なお、その石岡神社については、西条市氷見に鎮座し、また、先の津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳へのライン上にみえる柳田布尾山古墳も氷見市にあることから、氷見(ヒミ)の名に共通した意味があったことも伺えます。
これは山田≒邪馬台国、豊≒台与と同様に、氷見≒卑弥呼といった語的な共通要素があることについて以前紹介・考察を加えたとおりです。
冠島は、アマテラスとトヨウケ神に関連し、津久見はツキヨミ神に関連しますが、アマテラスは日神に、トヨウケは月読神と関係することがあり、さらに今回のライン拠点としてみててきた月隈山・日隈山についても、同様な日月信仰と関係するでろうことを考慮しておく必要がありそうです。
以上みてきたように、九州と畿内を結ぶ津久見島⇔冠島ラインの中間点としてみえてくる四国において、特に伊予の山田池周辺地域、その東の氷見・八堂山遺跡周辺、そして阿波の萩原墳墓群周辺の3つの領域が重要視されていたことが明らかになってきますが、また邪馬台国の東方への拡大過程において、これらの拠点を踏まえておくことが重要になってくるかもしれません。
あら不思議なこと
弓張月
投稿日: 2024年02月25日 14:17:03
No.375
【返信】
お久しぶりです。
一般的に酒を飲む為の小型の器(盃)の「おちょこ」は、漢字で御猪口なんですね。
宇佐八幡宮神託事件での和気清麻呂公におこった、「暗殺を謀って送られた道鏡の刺客(しかく)から、突然の天地雷鳴や300頭あまりの猪の大群が和気清麻呂を護り、さらに宇佐へ詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきたと伝えられています。」
それと、Google検索で面白いの見つけました。
漫画『ONE PIECE』に登場する架空の軍隊に登場する「サカズキ」は、悪は全て根絶やしにすべきという「徹底的な正義」を信条とする硬骨漢。とのこと
詳しくは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍_(ONE_PIECE)#サカズキ
酒の神様で有名なのは、松尾大社ですね。まつおは、「末尾」で、酒(さか)は坂・阪のはん(伴氏)でしょうか?
弓張月
投稿日: 2024年02月25日 14:24:37
No.376
サカズキは、通称「赤犬(あかイヌ)」なので、漢字で書くと坂月か阪月となりますか?
古代天皇の在位年代
管理人
投稿日: 2024年02月24日 16:19:58
No.374
【返信】
先日、箸墓および周辺の古墳や遺跡が、崇神紀の諸拠点と方位線で密接に接合して位置づけられていたことを明らかにしましたが、そのことにより、崇神朝記載の年代を確定することで、自動的に箸墓等の築造年代も明らかにしうる可能性を示しました。
そこでその崇神の在位年代を明らかにする必要がありますが、古事記の戌寅年の崩御年記載から、258年もしくは、60年繰り上げた318年が有力視されていることがあります。
そこで、まず318年として、そこから、他の古事記等の崩年干支を元にしながら、各天皇の在位年代を個人的に推測してみたのが図1の表となります。
その際、天皇の在位年代については、すでに指摘されているように、1干支60年を本来の在位年に加えられていたことを考慮して、記紀の在位年代から60年を差し引いた年を本来の在位年と見なします。
ただし、開化天皇の60年⇒7年、応神天皇の41年⇒25年、允恭天皇の42年⇒17年の3例だけは、特例として別に推測しました。
その允恭天皇については、崩御年・次王即位年が記紀ともに(甲午)454年となっており、この天皇の崩御年(在位年)が起点として、そこから記紀撰者が干支を加えて先祖の年代を延ばしていったと考えるべきですが、その在位年は42年ではなく17年とすべきでしょう。倭王済(443年・451年)の年代です。
同じく応神天皇については、古事記に甲午年(394)崩御記載があり、表のように、前代の神功皇后が69-60=9年、その前の仲哀天皇が9年の在位と考えると、380年~394年頃での在位と予想できますが、また次代の仁徳の在位が87-60=27年であり、その即位まで3年の空白期間があるので、30年を差し引いて、さらに、先の允恭454年・在位17年を起点として、そこから反正の5年、履中の6年を加えて差し引くと、結果として396年頃に崩御したことになり、古事記の394年に近くなるでしょう。
なお、応神25年の記載を境に37年まで記載なくなることも、応神の在位が25年前後であったことを意味するでしょうし、またその応神紀に(近)照古王(346年-375年)の献上記載応神紀に(近)照古王(346年-375年)の献上記載があり、375年頃までには応神が即位していたことになります。
さらに、応神25年に直支王が死去(420年)の記載があり、その直支王は、『三国史記』では次代の久尓辛王が420年3月に先王の死去に伴い即位したとあるので、そこから先の25年を引くと、やはり395年頃の即位が予想しうるでしょう。
その応神の記紀の在位年41年については、神功皇后の9年をその25年に足して、34年としてもまだ足りず、仲哀天皇の9年を足して、43年とすると近い値になりますから、仲哀天皇の存在もそもそもは架空であったことも考慮すべきでしょう。
なお、その前代の景行天皇、成務天皇は1干支60年の在位なので、そもそも記録が存在しておらず、適当に60年を差し込んだとも考えうるのですが、そうすると、その前代の垂仁天皇の次代が応神天皇であった可能性もみえてきます。
そのことは、垂仁の子の誉津別・品牟津和気命(ホムツワケ)が、応神の別名で『上宮記』の逸文では継体天皇の先祖に、通常応神天皇(誉田別命)とされる人物としてしるされる凡牟都和希王(ホムツワケ)と同音であることからも明らかにできそうです。
そして、垂仁天皇は53年で辛未年(371)崩御となっており、その庚午(370)年没の記載があるので、つまり応神の前代の神功皇后の崩御年と重なるのです。
すなわち、ある時期までの帝紀には、垂仁天皇の次はその息子の応神天皇と記されていたはずです。景行・成務・仲哀・神功皇后は後から挿入されたことになります。
さて、その垂仁天皇ですが、表のように、99年ー60年=39年の在位年代を予想しますが、先のように崇神天皇の崩御年を318年とすると、357年に崩御したこととなり、次の景行天皇を実在無しとして、その次の成務天皇(これも実在無し?)の古事記の崩御年・乙卯年(355年)より、2年プラスになってしまいます。
そこで、崇神の崩御年を316年として、垂仁の崩御年を39年を足した355年としてみました。
その垂仁39年を境に88年まで記載なくなることからみても、やはり在位39年で崩御した可能性が高まります。
そうすると、崇神が68-60=8年の在位となるので、その前代の開化天皇の崩御年は310年となるでしょう。
その開化天皇については、在位60年-60年=0年とのことで実在性が無いことになりそうですが、ただ、実際には開化5年に前代の孝元天皇を剣池付近(現孝元陵)に埋葬しており、陵墓造営に5年をかけたようにも見えます。
そのような崩御年から時間をおいての埋葬例は、他には孝霊天皇が次代の孝元6年に埋葬されている事例があり、また孝昭天皇が次の孝安38年に埋葬された事例、景行天皇が成務2年に埋葬、仲哀天皇が神功2年に埋葬された事例があり、その他は崩御年内に埋葬されています。(仁徳以降は生前に陵墓造営・崩御後すぐ埋葬か)
ここで、崩御年と埋葬年との間に開きがある場合、その陵墓の規模が大きかった可能性がありますが、現在の孝霊陵と孝元陵は形状やサイズも近似し、5年前後での造営であったことも予想しうるでしょう。
一方で孝昭陵はそうすると大きな規模であったのかもしれませんが、現在の孝昭陵はそこまで大きくは見えないので、別の古墳や場所を推定しなおすべきかもしれません。
ともあれ、これらの陵墓造営記載も、実在性を示す点で重要で、その開化天皇については、すくなくとも5年以上の在位期間があったことを想定すべきでしょう。その開化6年のイカガシコ(前代の孝元妃)を皇后とするなど、前王からの略奪婚?を思わせる記載がある点にも留意すべきで、6年以上の在位があった可能性が高まりますが、その後それ以降の記載がないので、その前後での崩御かもしれません。
そこで、今回は開化の在位期間を表のように6年を想定したのですが、そうすると興味深いことがわかってきます。
まず、孝元天皇の在位は57年、また古事記の崩御年齢が57歳、書紀は116(-60=56)歳で崩御としており、ともに57年としていることに何らかの年代的な意味があったことがわかります。
先のように開化天皇の在位を6年として崩御年を310年、その前代の孝元の在位を57年として303年の崩御とすると、その前代の孝霊の崩御年が246年となり、邪馬台国の女王卑弥呼の崩御年の247年に近似してきます。
次に、孝霊天皇の在位を76-60=16年とすると、前代の孝安の崩御年が230年となり、その在位を102-60=42年とすると、その前代の孝昭の崩御年が188年となり、その在位期間は83-60=23年となりますから、その年代が、ちょうど桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)の末頃 に卑弥呼が擁立されたとの漢書の記載に対応してきます。
ここで、一般的に考えられているように、卑弥呼が189年頃に即位して247年まで58年間統治したとの理解とは異なり、189年頃に孝安天皇が即位しその後崩御、その次代の孝霊天皇が231年頃に即位して、246年頃に崩御したとの流れで、2人の王の在位を、卑弥呼という1人の女王の在位として理解していた可能性が見えてきます。
そして卑弥呼を継いだ女王台与にあたるのが、次代の孝元天皇の在位57年となりそうですが、実際13歳で即位した台与が、その後70歳前後まで統治していた可能性も考えうるでしょう。
そうすると、ひとつ考えうることは、卑弥呼の墓が、現在の孝霊天皇陵(150m前後)として、台与の墓はそれと同型同サイズの孝元天皇陵とみなすことがありますが、ただ、57年も築造時期があるのにもかかわらず、形状やサイズが同じでしかも、図2のように同じ方位線上(つまり設計時期が同じ)となるのは不自然な感じがします。
ただ、その孝霊天皇陵については、その宮の黒田庵戸宮(孝霊宮)が、その後の欠史天皇陵や宮地をはじめとする多くの古墳の測量起点となっていることは以前指摘したとおりです。
実際、その孝霊天皇陵は、大阪の天王寺公園そばの箸墓サイズの前方後円墳状地形⇔孝霊天皇陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔纒向矢塚古墳へと至るライン上に位置していますが、このラインと、纒向矢塚古墳⇔孝元天皇陵ラインとが直交しています。
さらに孝霊天皇陵⇔神武天皇陵⇔孝元天皇陵へのラインもあります。
したがって、この孝霊陵と孝元陵が、奈良のもっとも古い纒向矢塚古墳や纒向遺跡の起点となっていたことも予想されるのでして、年代としては、ある時期に実在した孝霊天皇と見なされた王の時代の築造と考えるべきでしょう。
そして、神武天皇陵については、この直角三角形のラインが形成された後、しばらく経ってから、このライン上に構築されたと考えるべきで、孝霊天皇の時代より後代に神武天皇の時代(東征)があったことを伺わせます。
なお、この孝霊朝の前代にいたであろうもう一人の卑弥呼については、188年~230年の在位で、どこか別のところにおり、先の孝霊⇔纒向矢塚古墳ラインの延長線上にある天王寺公園のある大阪方面やさらにその延長線上にある以前も指摘した播磨の桜ヶ丘銅鐸出土地、あるいは孝霊天皇と関係が深い吉備方面、四国・九州方面まで視野を広げて置く必用があるかと感じます。
そのことは、先の表のように、孝昭天皇の前代の懿徳天皇を在位34年として、165年崩御、その前代の安寧天皇の在位を38年として、131年の崩御とすると、ちょうど安帝(106-125)の永初元年(107年)に倭国王帥升等朝貢の時期と重なることがあり、その安寧が、安帝をなぞっていたことも伺えます。
淡海三船が、これらの天皇名を名付ける際に、中国史書の記録をもとに、当時理解していた天皇の実年代を当てて、安帝=安寧、霊帝=孝霊、元帝(魏)=孝元といった具合で名付けたことについても以前指摘したことがあります。
そして、その帥升の升が、女王の使者の難升米の升、邪馬台国の官職の彌馬升の升との関係を考えるときに、この倭国王帥升の倭国と、後の卑弥呼とが邪馬台国の升といった官職・組織面でもつながっていたことを理解しうるのですが、さらにその前代の綏靖天皇の在位を33年として、その崩御年を93年、そして初代の神武天皇の在位を76-60=16年として、その崩御年を57年とすると、ちょうど倭奴国王に金印(57年)を与えた時期となるのです。
これも偶然ではないとすれば、九州方面の奴国の系統の国としての邪馬台国が見えてきますから、したがって先のもう一人の卑弥呼の居住地についても九州方面まで視野に入れておく必要があるでしょう。
その九州方面の弥生時代中期以降の諸遺跡の測量の起点は大分の津久見島にあり、また同じく畿内の同時期からの諸遺跡の起点が若狭湾の冠島にあることも以前も指摘したとおりですが、具体的には図3のようになり、九州では平塚川添遺跡や神籠石、持田古墳群(魏年号銘鏡出土)、四国では萩原墳墓群、ます。その件については、畿内では池上曽根遺跡や伊勢遺跡、黒塚古墳、北陸の柳田布尾山古墳など、弥生遺跡や初期古墳がみえてきますが、その件についてはまた機会を改めてお知らせします。
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