歴史掲示板(渡来人研究会)


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秦氏・田道間守ライン 管理人 投稿日: 2023年07月03日 00:33:38 No.278 【返信】

先日、田道間守やユダヤ人と関係する伝承拠点を結んだ図3の方位ラインを作成したことがありましたが、いくらか抜けていた拠点がありましたので、追加・整理してみたのが図1,2となります。

ここで追加したのは、気比神宮⇔広隆寺⇔橘本神社への東65度偏角のラインがあります。

ここにみえる広隆寺は秦氏の氏寺として知られていますが、また気比神宮については、伊奢沙別命(気比大神)、仲哀、神功皇后が祀られてます。

そして、その橘本神社については、田道間守が祀られており、図のように宇佐神宮⇔橘本神社への東10度偏角のラインがあることは先日も指摘したとおりです。

その宇佐神宮については、図のように宇佐神宮⇔出雲大社への東60度偏角のラインがあり、このラインと出雲大社⇔橘本神社への西30度偏角のラインが直交しています。

同じく宇佐神宮⇔気比神宮への東30度偏角のラインがあり、このラインと鳥取大神宮⇔橘本神社への西60度偏角のラインとが直交しています。

なお宇佐神宮も秦氏の拠点として知られており、応神・神功と関わりが深い点で先の気比神宮への東30度偏角のラインとに接点がみえてきます。

また、図のように、広隆寺⇔当麻寺への南北ラインが確認できますが、また田島(鳥取市)⇔八幡神社(三木家住宅)への南北ラインもあります。

ここで田島(鳥取市)は先日お知らせした鳥取大神宮の西北に位置し、ライン的には出雲大社⇔田島(鳥取市)⇔籠神社への東5度偏角のライン上に位置しています。その田島は先の田道間守との関わりでとらえるべきです。

また八幡神社そばには三木家住宅があり、大嘗祭・忌部氏とゆかりの深い地であったと考えうるでしょう。

そのことは、先の宇佐神宮⇔橘本神社ライン上にこの八幡神社(三木家住宅)が載ることからもあきらかです。

その他、出雲大社⇔橘本神社への西30度偏角のラインと、橘本神社⇔吉田神社(菓子神社)への東60度偏角のラインとが直交し、その吉田神社⇔日葉酢姫陵への南北ラインがあります。

そしてその日葉酢姫陵⇔履中陵⇔八幡神社(三木家住宅)への東30度偏角のラインの存在があり、これが先の宇佐神宮⇔気比神宮ラインと平行になってくるわけです。

この日葉酢姫は田道間守が不老長寿の橘の木(メノラーのような8枝の燭台・レガリヤ)を渡した垂仁妃でもありますが、ある時期に垂仁に象徴される畿内を支配していたであろう南方航海民系(日向系)集団のところに、田道間守や天日矛に象徴される渡来系集団がやってきて、最終的に丹波王朝から河内王朝へと至る過程を示しているのでしょう。

その際にみえてくるのが、今回取り上げた気比神宮、応神・神功・八幡伝承と関わる秦氏の展開だったのではないでしょうか。

それゆえ、このライン上にさらに広隆寺が見えてくるのですが、秦氏は祭祀面では忌部氏の配下にいましたから、今回のライン上に忌部の拠点が見えてくることも理解しうるでしょう。

その秦氏については、ネストリウス派キリスト教(景教)との関連が指摘されていますが、その集団はユダヤ人を多く含んでいたことからみて、かれらが渡来時にユダヤ人の習俗や伝承等も同時に日本にもたらした可能性も高いのではないでしょうか。

それで、先の広隆寺の南に位置する当麻寺ですが、忌部氏の麻と関係する名が見えることには留意すべきで、当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があり、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推されていること(wiki当麻寺条参照)をみても、今回の田道間守・天日矛、海部氏と関わる籠神社との関わりを示しているようにも見受けられます。

葛城氏との関わりについては、一言主社と雄略や倭武伝承、それらと旧約聖書との関係を考える必要がありますが、またその辺については追って考えていきましょう。




吉野ヶ里遺跡、ザンネンでしたね(笑) sherpa 投稿日: 2023年06月28日 02:16:59 No.275 【返信】

吉野ヶ里遺跡、ザンネンでしたね(笑)
管理人 投稿日: 2023年06月28日 22:20:20 No.276
そうですね、しかし、墓の中に何もないというのも不思議です。使わらなかった墓があったということだとすると、その主はどこへ消えたのか?
管理人 投稿日: 2023年06月30日 16:08:58 No.277


続・九州弥生遺跡・神籠石ライン2 管理人 投稿日: 2023年06月21日 01:27:09 No.274 【返信】

先日お知らせした九州弥生遺跡と神籠石を結んだラインですが、もう少し綺麗に整理して作成しなおしてみたのが図1となります。図2は拡大図。

概ね前回お知らせした方位ラインと同じですが、特に 今回修正した点としては、鎌田原遺跡⇔宇佐高校庭遺跡への東西ラインを、鎌田原遺跡⇔宇佐神宮への東西ラインへと変更したことと、平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインについて雷山神籠石をライン上から外したことがあります。

また追加したライン・拠点については、まず那珂八幡古墳⇔鎌田原遺跡への西10度偏角のラインがあり、このラインは図のように、伊川・大日寺古墳状地形⇔唐沢山城⇔宇佐高校庭遺跡への西10度偏角のライン、吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓付近)⇔祇園山古墳⇔高良山神籠石⇔元宮神社への西10度偏角のラインと平行となり、これらはまた伊川・大日寺古墳状地形⇔高良山神籠石への東80度偏角のライン、吉野ヶ里遺跡⇔那珂八幡古墳への東80度偏角のラインと直交しています。

次に帯隈山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔宇佐高校庭遺跡への東11度偏角のラインは、平原遺跡⇔那珂八幡古墳⇔今任原への東10度偏角のライン、女山神籠石⇔元宮神社への東10度偏角のラインと平行関係になり、これらは女山神籠石⇔那珂八幡古墳への西80度偏角のライン、小迫辻原遺跡⇔今任原への西80度偏角のラインと直交します。

ここで、赤村の古墳状地形の南西の今任原を新たな拠点として追加していますが、この周辺に図3の航空写真に書き込んだような巨大な1kmを超える前方後円墳状地形があるようです。

この後円部の中心点で2つのラインが交差しています。この前方後円墳状地形については、しばしば弥生後期から末期の墳丘墓や高地性集落・古墳状地形にみえる不均等な撥型に開く前方部を有している点で共通性があります。今任(イマトウ)原の字名については、その名のとおりヤマトを思わせる点で重要です。

続いて、天岩戸神社⇔ダンワラ古墳への西60度偏角のラインを、図のように天岩戸神社⇔元宮神社⇔日田古墳状地形④へと修正変更してみました。

このラインは図のように、ダンワラ古墳⇔日田古墳状地形④⇔宇佐神宮への東30度偏角のラインと直交しますが、この日田古墳状地形④は以前お知らせした直径1km前後の前方後円墳状地形ですが、その後円部中心点をラインが通過することになりそうです。

このように、東西に10度偏角傾けたライン・四方区画がある時期に重視されていたことが明らかになってきますが、平原遺跡や那珂八幡古墳、祇園山古墳、元宮神社等が構築されていく古墳時代初期の測量の影響ではないかと感じます。

そしてその10度偏角のラインは畿内の初期古墳を結ぶラインにも見えてくることも以前指摘したところですが、九州と畿内とのつながりがその当時どのようであったのかが課題となってくるでしょう。




続・九州弥生遺跡・神籠石ライン 管理人 投稿日: 2023年06月17日 00:39:11 No.273 【返信】

ここ数日、吉野ヶ里遺跡や祇園山古墳と九州各地の弥生遺跡や古墳、神籠石を結ぶラインを作成してきましたが、ここでそれらをひとまとめにしたラインを作成してみたのが図1,2となります。

これらのラインはすでに過去におおよそ説明済みなので、その詳細は割愛しますが、今回は特に卑弥呼の墓とも指摘される朝倉市山田の長田大塚古墳の位置を新たに追加しています。

その長田大塚については以前もお知らせしたように津久見島⇔小迫辻原遺跡⇔杷木神籠石⇔長田大塚古墳⇔平塚川添遺跡⇔雷山神籠石への西15度偏角のラインの存在があります。

そしてこのラインと直交するのが、杷木神籠石⇔御所ヶ谷神籠石への東75度偏角のラインと、祇園山古墳⇔伊川・大日寺古墳状地形への東75度偏角のラインとなります。

また長田大塚古墳⇔鎌田原遺跡(古墳状地形)への南北ラインがあり、また長田大塚古墳⇔大穴貴神社(西北の三輪山状丘陵)⇔大野城←志賀島(潮見公園)への西40度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、祇園山古墳⇔平塚川添遺跡(大型建物)⇔御所ケ谷神籠石への東50度偏角のラインとなります。

あと、今回新たに加えたラインとしては平塚川添遺跡⇔赤村古墳状地形⇔石塚山古墳への東55度偏角のライン、元宮神社⇔ダンワラ古墳⇔小迫辻原遺跡⇔鎌田原遺跡⇔伊川・大日寺古墳状地形への西55度偏角のライン、鎌田原遺跡⇔宇佐高校庭遺跡への東西ラインがあります。

以上のようにみていくと、まず弥生中・後期の遺跡(三雲小路南遺跡、吉武高木遺跡、岡本遺跡、小迫辻原遺跡、川部・高森遺跡、吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓付近)、志賀島(潮見公園)を結ぶラインがあり、それと同時期に、女山、おつぼ山、帯隈山、高良山、雷山、鹿毛山、御所ケ谷、杷木神籠石、また唐沢山城、大野城、八女津媛神社等が造営されていったのでしょう。

それから少し遅れて平塚川添遺跡が造営されたのかもしれません。

その後、それらの遺跡を起点としつつ、平原遺跡、祇園山古墳、那珂八幡古墳、伊川・大日寺古墳状地形、赤村古墳状地形、鎌田原遺跡(古墳状地形)、宇佐高校庭遺跡、ダンワラ古墳(古墳状地形)、元宮神社、長田大塚古墳が造営されていったようにみえます。

その前後で天岩戸神社や山田(西都市)古墳状地形、長田大塚古墳(朝倉市山田)あたりも造営されていったはずです。

最後に、石塚山古墳あたりの前方後円墳や三角縁神獣鏡を出土する古墳が造営されていったことが予想されますが、これら数段階での造営の時代差や測量尺度・方法の違い等が、同地域でも若干ズレた位置に2つセットの遺跡が構築されることとなり、それらがライン面でもきれいに現れています。

そのセット事例は、平原遺跡と三雲小路南遺跡、祇園山古墳と高良山神籠石、川部・高森遺跡と宇佐高校庭遺跡のセットにも見て取れます。

逆にその数段階の測量手段とそれにともなう誤差を把握していくことで、構築年代を予測することも可能になってくるはずですが、その件についてはまた多くのデータを集めて「公式」を作り上げていく作業が必用です。

地道な洗い出し作業と、方位ラインの理解者を増やしていく努力が欠かせませんね。




祇園山古墳ライン 管理人 投稿日: 2023年06月14日 02:21:08 No.272 【返信】

いよいよ今日で吉野ヶ里の石棺の発掘も終わるようで、何が出てくるのか気になるところですね。

先の8日にその吉野ケ里遺跡の日吉社周辺域を通過するラインについて考察しましたが、その続きで今回はそのラインにも見えていた祇園山古墳と周辺の諸遺跡を結ぶ方位ラインを作成してみました。

今回は特に大穴貴神社や那珂八幡古墳等の新拠点を考慮しながら作成してみたのが図1となります。図2はその拡大図です。

まず、以前もお知らせした平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓付近)⇔女山神籠石⇔山田古墳状地形(西都市)への西60度偏角のラインがあり、また平原遺跡⇔岡本遺跡北部⇔川部・高森遺跡への東西ライン、そして川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田古墳状地形(西都市)への南北ラインがあります。

次に、平原遺跡⇔祇園山古墳⇔天岩戸神社への西40度偏角のラインがありますが、祇園山周辺の甕棺墓等は平原遺跡のそれとも共通性があり、また天岩戸神社との関係はアマテラス女神を想起させるものです。

その祇園山古墳に関するラインとしては、女山神籠石⇔祇園山古墳⇔伊川・大日寺古墳状地形への東75度偏角のラインがあり、また祇園山古墳⇔ダンワラ古墳への東西ラインがあります。

また祇園山古墳⇔那珂八幡古墳への西70度偏角のラインは、雷山神籠石⇔那珂八幡古墳⇔伊川・大日寺古墳状地形への東20度偏角のラインと直交しています。

その那珂八幡古墳については、神社境内から弥生時代の銅戈鋳型が出土しており、この地で精銅精錬がなされていたことを示しますが、また箸墓と同じ規格の纒向型前方後円墳でもあり、直葬の割竹形木棺で、椿井大塚山古墳や富雄丸山古墳から出土した三角縁神獣鏡と同笵鏡を出土、布留0式土器の時代とのことからみて、物部氏の祖・ニギハヤヒが東征して布留遺跡を構築した年代と同時期の造営だった可能性が高いでしょう。その富雄丸山古墳も物部氏の拠点ですから、物部氏との関わりがあるラインとなりそうです。

そして図のように、那珂八幡古墳⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)への東80度偏角のライン、そして祇園山古墳⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)への西10度偏角のラインとが直交して、先の那珂八幡古墳⇔祇園山古墳への西70度偏角のラインとで直角三角形を構成していることがわかります。

なお、図のように祇園山古墳⇔平塚川添遺跡への東50度偏角のラインと、平原遺跡⇔祇園山古墳⇔天岩戸神社への西40度偏角のラインとが直交しており、それと平行して、女山神籠石⇔英彦山(北部)への東40度偏角のラインがみられます。

また、大穴貴神社に関しては、祇園山古墳⇔大穴貴神社への東60度偏角のラインがあり、このラインと大穴貴神社⇔ダンワラ古墳への西30度偏角のラインとが直交します。

なお平原遺跡⇔大穴貴神社への西15度偏角のラインと、前述した伊川・大日寺古墳状地形⇔祇園山古墳⇔女山神籠石への東75度偏角のラインとが直交しています。

あと大穴貴神社⇔英彦山北部⇔川部・高森遺跡への東10度偏角のラインがあり、その英彦山⇔山田(日田市)⇔小迫辻原遺跡への南北ラインが見て取れますが、その山田(日田市)⇔那珂八幡古墳への西30度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

そして女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインと、先の平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓付近)⇔女山神籠石⇔山田古墳状地形(西都市)への西60度偏角のラインが直交しています。

その他、ダンワラ古墳⇔天岩戸神社への西60度偏角のラインも意図的な位置付けであり、また伊川・大日寺古墳状地形⇔大穴貴神社⇔平塚川添遺跡への南北ラインは、平原遺跡⇔岡本遺跡北部⇔川部・高森遺跡への東西ラインと直交していることも以前お知らせしたとおりです。

以上みていくと祇園山古墳がこの時期の北九州における最重要な拠点として位置づけられていたことはあきらかで、その被葬者もこれらの拠点を支配した首長であったろうことは想像に難くないでしょう。

仮に図の吉野ケ里遺跡の北墳丘墓付近の位置を日吉社の今回発掘された石棺の位置とみなしうるならば、図のように祇園山古墳の主とも接点をもっていたはずで、那珂八幡古墳とに何らかの関わりが見えてくるかもしれません。

今回の日吉社の箱式石棺の大きさ(35㎝×180㎝)については、祇園山古墳の箱式石棺の大きさ(90㎝×200㎝)に比べて、小ぶりとなりますが、墳丘の高さが後者が6mであり、前者もそれに近いことに共通性がありそうです。

大きさとしては前者が180m前後の円形丘陵上に載っていることに比して、後者は楕円形地形の上に東西約23.7メートル、南北約22.9メートルの方墳状地形であるとされます。

あと、先の那珂八幡古墳は全長約75m(後円部径48m)、高さ6.5mとなり、その高さには共通性がありそうです。

祇園山古墳や日吉社の箱式石棺墓の時代より、那珂八幡古墳の割竹形木棺や纒向型前方後円墳の時代のほうが新しいはずですが、那珂八幡古墳が特に祇園山古墳を意識していたであろうことを考慮すると、その直前期に祇園山古墳が造営されていたことも判ります。

またこの祇園山古墳の主は、平塚川添遺跡と伊都平原遺跡とで直角三角形を構成する位置に造営したことがあり、邪馬台国でも最重要拠点を支配していたはずです。

あと、祇園山古墳と大穴貴神社(北部の三輪山状丘陵)とダンワラ古墳(巨大前方後円墳状地形)とで直角三角形を構成している点についても考える必要がありそうですが、そのダンワラ古墳については、魏の曹操墓のものと同類の鉄鏡を出土していることがあります。

ただこのダンワラ古墳は、以前お知らせしたように、全国のキ鳳鏡の出土地を結ぶラインと接合することもあり、後漢時代の鏡を後代の4世紀末に渡来した東漢氏(後漢帝を祖とする集団)が中国からこの地にもたらしたことを予想したことがありますから、必ずしも卑弥呼の鏡としてみなすことは難しい感じがします。

ただそのダンワラ古墳の上には、巨大な前方後円墳状地形(箸墓規格か)があり、またそこに伊勢社が見られることからみて、アマテラス信仰との点で、図のように天岩戸神社からこのダンワラ古墳が西60度偏角のラインとで接合していること関係してきそうです。

また祇園山古墳の主もやはり天岩戸神社から平原遺跡へのライン上に位置付けられていること、平原鏡と伊勢の八咫鏡との大きさでの共通性や、平原1号墳のその遺物が玉類等女性の被葬者を想起させることなどもあり、そのアマテラス女神との関係を祇園山古墳の主も持っていた可能性があるでしょう。

その祇園山古墳の主と関係するであろう今回の吉野ケ里遺跡の石棺墓の発掘によって、その関係性が明らかにされてくると面白いのですが、いかなる結果が出てくるかが楽しみですね。




吉野ヶ里ライン2 管理人 投稿日: 2023年06月11日 02:57:17 No.271 【返信】

先日から発掘が進んでいる吉野ヶ里遺跡の石棺の幅が36センチで、細身の人物のものらしいといのことで、いよいよ面白くなってきましたね。

さて、先日お知らせした吉野ヶ里遺跡と周辺の弥生遺跡を結んだ方位ラインについて、今度は神籠石・山城と吉野ヶ里遺跡とを結ぶ方位ラインを作成してみました。図1のとおりです。

図2は以前お知らせした神籠石を結んだ方位ラインですが、今回はそこに吉野ヶ里遺跡や大穴貴神社(西北の三輪山状丘陵)を加えて再考察してみました。

まず、西南端にあたるのがおつぼ山神籠石についてみていくと、おつぼ山神籠石⇔雷山神籠石⇔三雲小路南遺跡⇔志賀島(潮見公園)への東68度偏角のラインがあります。

同じくおつぼ山神籠石⇔大野城⇔伊川・大日寺古墳状地形⇔鹿毛山神籠石への東45度偏角のラインがあり、またおつぼ山神籠石⇔帯隈山神籠石⇔基イ城南部⇔赤村古墳状地形(今任原)⇔御所ヶ谷神籠石への東35度偏角のラインがあり、このラインと雷山神籠石⇔女山神籠石への西55度偏角のラインとが直交します。

ここで地元の歴史家によって発見された赤村の古墳状地形については、その南部の今任原周辺をこのラインが通過していることがあり、その今任(イマトウ)原がヤマトの関連地名であることに留意しておくべきでしょう。

同じくおつぼ山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(北内郭と南内郭の中間点)⇔大穴貴神社(西北の三輪山状地形)への東30度偏角のラインがあり、このラインと志賀島⇔高良山神籠石への西60度偏角のラインとが直交しています。

そして、おつぼ山神籠石⇔女山神籠石北部⇔八女津媛神社への西2度偏角のラインと、赤村古墳状地形⇔杷木神籠石東部⇔八女津媛神社への東88度偏角のラインとが直交しています。

次に志賀島(潮見公園)からのびるラインをみていくと、前述の2ラインの他に、まず志賀島(潮見公園)⇔鹿毛山神籠石⇔御所ヶ谷神籠石への東西ラインがあり、また志賀島(潮見公園)⇔吉野ヶ里遺跡への西80度偏角のラインがあります。

また志賀島(潮見公園)⇔大野城⇔大穴貴神社への西40度偏角のラインがあります。

続いて東北端の唐原山城に関するラインをみていくと、まず唐原山城⇔御所ヶ谷神籠石への西30度偏角のラインがあり、次に唐原山城⇔杷木神籠石⇔女山神籠石への東38度偏角のラインがあり、このラインと伊川・大日寺古墳状地形⇔鎌田原遺跡⇔ダンワラ古墳(古墳状地形)への西58度偏角のラインとが直交しています。

続いて東南端の八女津媛神社についてのラインをみていくと、前述の2ラインの他に、八女津媛神社⇔高良山神籠石⇔雷山神籠石への西35度偏角のラインがあり、このラインと高良山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔鎌田原遺跡⇔赤村古墳状地形への東55度偏角のラインとが直交しています。

その平塚川添遺跡については、平塚川添遺跡⇔大穴貴神社⇔伊川・大日寺古墳状地形への南北ラインがありますが、このラインと大穴貴神社⇔基イ城南部への東西ライン、三雲小路南遺跡⇔大野城⇔川部・高森遺跡への当座ライン、伊川・大日寺古墳状地形⇔赤村古墳状地形への東西ラインとが直交します。

その他、鹿毛山神籠石⇔伊川・大日寺古墳状地形⇔雷山神籠石への東20度偏角のライン、同じく鹿毛山神籠石⇔赤村古墳状地形⇔唐原山城への西20度偏角のラインとが線対称の関係にあります。

加えて以前お知らせした図2のように、御嶽神社(大島)、宇佐高校庭遺跡⇔古城山(大分)、小迫辻原遺跡、伊古遺跡、境目遺跡、幣立神宮等が今回のラインに接合してくるのですが、これらの拠点に関する説明は以前もしたので今回は割愛します。

以上みてきたように、神籠石や山城を結ぶラインも、吉野ヶ里遺跡などの弥生遺跡と関わってくることが判りますが、ただ、先日のラインでは、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓や平原遺跡等を起点としていたのに対し、今回は吉野ケ里遺跡でも北内郭と南内郭の中間地点、平原遺跡東方の三雲小路南遺跡の王墓付近を起点としている点などで相違がみられます。

また、前回みられなかった平塚川添遺跡も今回は見えてくることがあります。

ただ今回の前漢鏡を出土する三雲小路南遺跡と、前回の平原遺跡を起点としたラインと今回のラインとの間に年代差があった可能性を感じます。

その年代決定については、今回みえてきた志賀島(潮見公園)に関連する後漢時代の金印の年代(1世紀中葉~2世紀初頭)には、今回のラインの原型が存在していたはずです。

まず吉野ヶ里遺跡の北内郭と南内郭の中間あたりが重視されて、その後、北墳丘墓が造営されはじめたのではないでしょうか。

その北墳丘墓の年代については、報告書「佐賀県文化財調査報告」第219集によれば弥生時代中期前半とされる中心地点の大型甕棺からはじまって、その周囲に甕棺墓が多くつくられていったようです。銅剣が埋葬される事例が多く、男王の象徴だったことでしょう。王墓だったとすると、平均20年前後と考えて、14代とすると、最後の王まで300年ぐらいでしょうか。弥生時代中期前半から後半の甕棺墓とされてますから、紀元前300ー400年~紀元後50年くらいまでの王墓となるでしょうか。

そうすると、先日の方位ラインではこの北墳丘墓を通過するとしては、女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡⇔平原遺跡へのラインがありましたから、女山神籠石は前漢時代まで遡る可能性がみえてきます。

その荒神谷遺跡へ延びる45度偏角のライン等とも関係しそうですが、その後高地性集落とかかわるであろう前方後円墳状地形や、天岩戸や日向方面に重きを置き、さらに奈良の三輪山方面へと展開する集団が出てきて、その年代が女王・台与ごろだったのかもしれません。

その北墳丘墓の西方ある今回発掘された日吉社付近の石棺墓(円墳?)については、北墳丘墓の首長たちとは異なる年代、異なる墓制を継承した人物と言えそうですが、具体的には吉野ヶ里遺跡に11ある箱式石棺の系統に属する首長でしょう。

年代的には、古墳初期の割竹形木棺の時代よりは古い感じがしますが、北墳丘墓の時代よりは新しいのではないでしょうか。

そのキーとなるのは、やはり先日も指摘した与止日女姫神社⇔吉野ヶ里遺跡(日吉社)⇔月隈山への東西同緯度ラインの存在でしょう。

図3のようになりますが、正確には与止日女神社の北にある実相院の裏山あたりが東西同緯度となります。

ここで、これら3つの拠点には、図のように断面図でみると180m前後の円墳状地形があることに気づきます。

高さは与止日女姫神社(実相院裏山)35m、吉野ヶ里遺跡(日吉社)10m、月隈山35mとなり、共通要素があります。

その月隈山そばには月隈神社がありますが、その祭神は大宮賣神、猿田彦神、武甕土神、経津主神、天児屋根命、比賣神、崇徳天皇で、大宮賣神と比賣神が女神である点があり、これがまた与止日女姫神社がまつる女神、おそらくは女王・台与との関わりを想起させます。

実相院については、寛治3年(1089)、河上神社(与止日女神社)の僧円尋が、その裏山を開き御堂を建てたことに始まると伝えられているので、与止日女神社とは元々つながりが深かったはずです。

なお、与止日女神社⇔吉野ヶ里遺跡(日吉社)ラインの距離は10974mで、1里440mの晋尺の1/4の110m前後を基準にしていた可能性がありそうです。

そういう意味でも、今回の吉野ヶ里遺跡の日吉社の石棺墓については、女王・台与と関係の深い人物の墳墓である可能性がありそうです。




無題 sherpa 投稿日: 2023年06月08日 20:45:21 No.268 【返信】

吉野ヶ里遺跡ってどうよ?
管理人 投稿日: 2023年06月09日 00:58:24 No.269
吉野ヶ里は中国系の骨格だそうですね。

人の骨を調べてみると、男女の違いや年令、身長、さらには体つきや顔つき、栄養状態までわかるものもあります。吉野ヶ里のお墓から見つかっている人骨はおよそ300体ありますが、その特徴を調べてみると、身長が高く、顔は面長で鼻が低いなど中国大陸から渡ってきた「渡来系」と呼ばれる人々と共通しているところがたくさんあることが分かります。特に身長については同じ時代の関東や南九州で見つかる人骨と比べてみると、平均で10㎝位高いようです。もともとこの地に住んでいた人々と大陸から渡ってきた人々とが一緒になり、次第に混血が進んでいったものと考えられます。
https://www.yoshinogari.jp/introduction/restore/kamekanboretsu/


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