歴史掲示板(渡来人研究会)


| トップに戻る | 検索 | アルバム | 管理用 | ▼掲示板作るならRara掲示板 |

渡来人研究会(www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/)の歴史掲示板です。
オカルト等の歴史に関係のない投稿、誹謗中傷、宣伝目的・同じ内容の重複投稿、度を越した長文投稿等、なりすまし投稿については、管理人の独断で削除・投稿拒否設定をしますので、ご注意ください。

■アクセス数
TODAY 39
YESTERDAY 110
ALL 37128
お名前
メール
タイトル
画像添付
削除キー ( 記事を削除する際に使用 )
文字色

梁書の倭国関連記載について1 管理人 投稿日: 2023年09月14日 01:39:14 No.327 【返信】

以前こちらでも分析して、会報第4号でも論じたのですが、『梁書』における倭国関連記載については下記の扶桑国の話があります。これは普通年間 (520 年‒527 年)に扶桑国から来たと言う者の話と記されています。


 其南有侏儒國、人長三四尺。又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而醜。其肉美、行者或射而食之。
 文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獣、其額上有三文、文直者貴、文小者賎。土俗勸樂、物豊而賎、行客不●糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋爲●、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖、犯死罪則置猛獣食之、有枉則猛獣避而不食、脛宿則赦之。
 大漢國、在文身國東五千餘里。無兵戈、不攻戦。風俗並與文身國同而言語異。
 扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在
中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笑、國人食之、實如梨而赤、績
其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其
國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男
女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人
於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七
世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角
導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、
以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、
徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不責金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕
灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、
五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕●●、不制●●。嗣王立、三年不
視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、●賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、徑像、教
令出家、風俗遂改。」
 慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔自、身體有毛、髪長委地。至二、三月、
競入水則任娠、六七月産子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能
行、三四年則成人矣。見人驚避、偏畏丈夫。食戯草如禽獣。戯草葉似邪蒿、而氣香味●。」
天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉、
男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戸如●云。



ここで、梁の「文身国」「大漢國」の情報と、僧慧深が南斉の永元元年(499)に「扶桑国」「女国」について語った情報とが記されており、その位置関係を整理すると、次のようになります。


まず倭国の東北7000 余里に「文身国」があり、その東5000 余里に「大漢国」、その東20000余里に「扶桑」、その東1000 餘里に「女國」となります。距離比率にして7:5:20:1 です。

魏志倭人伝の1里は、53.5m前後と以前考えたことがありますが、この場合の1里は、南北朝当時の445m前後とすると、7000里は311.5㎞なので、概ね住吉神社(福岡)⇔造山古墳(岡山)間の距離の334㎞(111km×3)に近似します。

その方角は図のように東20度偏角となり、東北というよりは、東北東と言えるでしょう。

ここで「文身国」については、その刺青の様子や、歓楽的で食物が安く豊富なこと、王の宮殿の周りに水銀を満たした堀があることなどが記されており、倭人伝の倭国記載同様に、倭人の習俗に近いと言えるでしょう。ただ、水銀を満たした堀の話は、秦の始皇帝陵のそれを思わせますね。

一方でその東の「大漢國」は、習俗は同じものの言語が違うとしており、渡来系集団が中国の「漢」に由来して名付けた国名のようにも見受けられます。

この6世紀前半当時、日本に渡来した漢氏は隅田八幡鏡に「穢人」と記されているとおり、その「穢」が「漢」に対応し、上記「大漢国」の国名起源とも関係しそうです。

渡来系集団、特に漢氏がその当時多かったのは、吉備方面あるいは河内方面、飛鳥南部でしょう。


そこで、その大漢国は文身国の東5000里となるので、岡山から222㎞東となり、航海をしての直線距離でいくと、造山古墳(岡山)⇔高津宮(河内)は156㎞前後でやや足りないのですが、陸路を経由したならば、概ね河内から奈良周辺と考えうるでしょう。

ここで倭国というのが、これらの国とは異なる九州周辺地域と理解していることに留意しておくべきかもしれません。

ただ、続く扶桑国は大漢国の888㎞も東となり、河内⇔鹿島神宮間でも500㎞なので、東北・北海道方面になってしまう計算です。

もっとも陸路で、図のように、関東の観音山古墳(群馬)経由で東北の伊沢城方面まで向かったとすれば、高津宮⇔綿貫観音山古墳間が484㎞、綿貫観音山古墳⇔胆沢城間が367㎞で、それらを足すと851㎞となるので、888㎞にそれなりに近い距離と言えるでしょう。

あるいは、高津宮⇔芝山古墳群間が459㎞で、芝山古墳群⇔胆沢城間が394㎞なので、それらを足すとやはり853㎞となり近似してきます。

なお、図のようにその綿貫観音山古墳⇔埼玉古墳群⇔子の神古墳群⇔芝山古墳群への30度偏角のラインがあることは以前も申したとおりですが、その綿貫観音山古墳⇔胆沢城への東60度偏角のラインとが直交している点にも留意しておくべきでしょう。

同様に、綿貫観音山古墳⇔造山古墳⇔住吉神社(福岡)への東20度偏角のライン、芝山古墳群⇔高津宮⇔住吉神社(福岡)への東10度偏角のラインの存在も確認できます。

その扶桑国については、ウィキペディアによれば下記のような諸説があるようです。

平田篤胤は、その著『大扶桑國考』で、国王を意味するという「乙祁」を仁賢天皇の名とし、中国の伝説に表れる扶桑は日本のことだったとする説を唱えた。現代では宝賀寿男や大和岩雄も同様に日本の別名とする説である。

関西説

赤松文之祐やいき一郎の説では、倭の五王の倭国は今の九州にあったとして、それとは別勢力である扶桑国は関西・近畿地方にあったとしている。

関東説

荻生徂徠は1736年の著書『南留別志』において、「上総はかんつふさ、下総は下津房なり、安房もふさといふ字を用ゆ、古の扶桑国なるべしとみえたり」と断じ、扶桑国は房総半島とした[要文献特定詳細情報]。

その他の日本国内説
九州説、東海地方説(前田豊は三河説、何新は富士山説)、東北地方説、北海道説、樺太説がある。




その扶桑国の習俗や官制は概ね扶余・高句麗のそれと同じであることは以前会報でも指摘したとおりですが、その扶余・高句麗系集団が、5世紀~6世紀にかけて、東北・関東方面へと移住していたとすれば、そこにそのような習俗や官制の国が存在していたとしてもおかしくはないでしょう。その中心拠点が群馬の綿貫観音山古墳付近や千葉房総の芝山古墳群付近にあり、北方の拠点として胆沢城・多賀城付近、さらに北限が津軽海峡だったことも予想できます。

多くの太陽を射落とす扶桑樹信仰に関連するであろう日高見国と関係しそうですが、北燕遺民が当時朝鮮半島から倭の日本海側へと移住していたので、その影響を受けて成立した国があったのかもしれませんね。

群馬高崎方面の古墳群の埴輪にも見えてくる集団となるでしょうか。継体朝あたりから、越・尾張方面から進出していったのでしょう。

そして、今回興味深く感じるのは、その扶桑国の東1000里にある女国の下記の習俗です。

慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔自、身體有毛、髪長委地。」

これは色白で彫りが深く毛が濃いとされるアイヌ人の祖先、つまり縄文系の集団、東北の蝦夷とも関わる集団の習俗のようにも見えます。

1000里を44㎞とすると、概ね津軽海峡を越えて北海道南部となるでしょう。

仮に北海道の縄文人の末裔だとすると、下記の記載は古代北海道の習俗記載となりそうです。

具体的にみていくと、

至二、三月、競入水則任娠、

まず、春に入水して妊娠するという鮭のような感じでしょうか。


六七月産子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行、三四年則成人矣。見人驚避、

数か月で出産し、毛から乳がでて育てるという話になってますね。成長がともかく早い。


偏畏丈夫。食戯草如禽獣。戯草葉似邪蒿、而氣香味●。」

偉丈夫を畏れ、草を食べ、邪蒿に似た草花と動物のように戯れる、その香りと味が云々といってますね。


邪蒿については、イブキボウフウ(伊吹防風)だとすると、北海道・近畿以東、朝鮮南部となるでしょう。

こちら参照。
http://www.atomigunpofu.jp/ch5-wild flowers/ibukibofu.htm


これと似たような女国に関する話としては、下記の伝承があります。


同類の伝承として『三国志』東夷伝東沃沮の条に、王頎が毋丘倹の命令で高句麗王宮?、憂位居)を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか。」と尋ねると、「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10 日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7 月に童女を選んで海に沈めます。」と答えた。

また、「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」や、「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また、難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました。」などとも答えた。」


新羅と東沃沮(扶余)との間には、同族関係にあることは別章で論じたとおりで、新羅伝承は、この東沃沮の伝承を元に作成されたことがわかります。

そして慧深の「女国」の伝承も、「7月」「うなじ」「子供」といった要素で共通するわけです。

そうすると、古代北海道の住民の特徴として、女性が多い?といった現象が起きていた可能性が出てくるでしょう。

島地であり、かつ海で出産したり、子供を鎮めたりすることからみて、海との関わりが強い。

あと、仮に北海道がこの女国だったとすると、中国からみての東の方角が、徐々に東北へとずれてしまっていたことも考えうるでしょう。

大漢国の東とされた扶桑国も東北方向であった可能性も出てきます。

この東北・北海道方面とかかわりそうな古代資料について、また少しこれから考えていきましょう。




魏志倭人伝の分析2 管理人 投稿日: 2023年08月30日 01:28:46 No.326 【返信】

先日に続いて魏志倭人伝を読み直していきたいと思いますが、今回は下記の記載に注目してみましょう。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡


ここで、女王国より以北の国ついては戸数や道里を略載することができたが、その餘りのかたわらにある國については、遠すぎて 詳しく明らかにすることはできないと言っていますね・

つまり女王国の北に位置する伊都国などから投馬国までは、確かに戸数や道里(距離)は掲載されているのですが、それ以後の後半の諸国についてはその記載がないことと一致しています。

ここで撰者は投馬国を女王国の北にある国だと認識していることがわかります。

南至邪馬壹國 女王之所都

とあるが、女王国連合?の中に邪馬台国があるという理解のようにも見えます。

それは、残りの21国の最後に此れ女王の境界の盡きる所なりとあるように、この21国も女王国の連合国とみなしているのでしょう。

邪馬台国については、その女王が都するところであり、都市や小さな地域の地名として残っている可能性があり、それが南西諸島から九州や吉備・畿内のヤマトの字名と関係してくるはずです。

ここで、官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸 とある七万戸は、その21国の不明な戸数は含まれておらず、九州福岡方面の奴国のような一地域の戸数と理解すべきでしょう。福岡平野の数倍前後の農地を持つ平地である可能性がありますね。

そして、その官職ですが、長官の伊支馬はイチマで、次官が彌馬升(ミマ・ショウ)、次が次が彌馬獲支(ミマ・ワキ)となりますが、この升は、漢書の倭国王師升(スイ・ショウ)、女王国からの使者の難升米(ナン・ショウ・マイ)の升との称号になりますから、王から王族の地方長官クラスとかんがえるべきかもしれません。

これはその次の彌馬獲支(ミマ・ワキ)とも関係して、ミマという地域が邪馬台国(ヤマト)にあり、その支配者としてのミマがいたと考えると、後代の崇神天皇がミマキ・イリヒコとなることとも関係するはずです。

崇神は、ヤマトの王族の中でもやや下に位置するミマという地域の豪族だったのではないでしょうか。

これは物部氏の祖の三間(ミマ)君とも同類で、水沼県主(ミヌマ)とも対応するはずですから、物部氏と関わる筑後川沿いの支配者もしくは、畿内でいけば三輪山方面の支配者が想定しうるでしょうか。

ここで、ミマ⇔ミワの変換も予想しうるのですが、彌馬獲支(ミマ・ワキ)自体にすでにミワの語音を含有していることにも注目すべきです。

彌馬獲支(ミマ・ワキ)は、ミマという地域の皇族の別流となる別(ワケ)・君(キミ)の意味かもしれません。後代の応神のホムダ・ワケのワケと見なしてよいでしょう。

ヤマトとミワの組み合わせは九州朝倉方面や吉備、畿内大和方面等に見えてくるので、このセット関係を考慮しておく必要があります。

ここで難升米の難(ナン)も、その支配地域名だった可能性があり、邪馬台国に近い地域に位置する同じ系統の官職を持つ集団の長であり、難(ナン)との地域のそれだとすると、奴国のナに関わるかもしれません。

奴国は、那珂(ナカ)地域と関係するとみられてますから、ナのカワ⇒ナンの対応で、福岡北部の豪族を、卑弥呼が帯方郡方面へと遣使した可能性がみえてきます。

同様に倭国王の帥升も、帥(シ・スイ)との地域の豪族であり、漢からは倭国王とみなされていたと考えると、金印が出土した志賀(シカ)島周辺に、そのシ・スイと関わる地名が残っている可能性があるでしょう。

その上位にいた皇族は、ショウと呼ばれていたはずですが、さらにその上位にいた長官が伊支馬はイチマで、イチとの称号をもっていたはずです。

市磯長尾市のように、箸墓のあるオイチ(大市)を治める守とすると、ミマキイリヒコの時代の人物ですから相関性がみえてきそうです。

そのイチは、女王国北部の諸国を監視・統率し伊都国にいた特別な官職・一大率(イチダイソツ)のイチにかかるかもしれません。伊都国にはまた別に長官の爾支(ニギ)、副は泄謨觚(セツバクコ)、柄渠觚(ヘイヒョウコ)がいます。

ここで、次の奴国の長官の兕馬觚(ヒマコ)、副官・卑奴母離(ヒナモリ)、また壱岐対馬の長官・卑狗(ヒク)、副官・卑奴母離(ヒナモリ)を考慮すると、伊都国の副官・泄謨觚(セバクコ)は、奴国の「ヒマコ」に、同じく柄渠觚(ヘイヒョウコ)は、卑狗(ヒク)に対応する官だったと考えうるでしょう。

ここで、伊都国では謨(バク)を用いるのに対して、奴国では馬(マ)音を用いてますから、前者は馬の中国北部方言のバを、後者は馬の呉音のメを用いる集団であった可能性があり、初期の弥生人の故郷の長江方面の呉音をもちいていた奴国連合のところへ、ある時期に朝鮮半島方面から北部中国系の集団が伊都国を造っていった構造が浮かびあがってきそうです。

そこで伊都国にみえてくるのが、漢音の一(イツ(漢音)・イチ(呉音))を長官とする集団の影響ですが、同じくその長官の爾支(ニギ)の二も、数字の二(ジ(漢音)・ニ(呉音))の影響で成り立っていたことも予想しうるでしょう。

そのニギが、天孫降臨に出てくるニギ・ハヤヒ、ニ・ニギといった外来系集団となるはずです。

そのニニギは北部九州から高千穂・日向・薩摩方面へと南下していき支配を広げていくわけですが、先の邪馬台国の官職としては、一番目にイチマがおり、このマは呉音系の名残を残しつつ、次官には彌馬(ミマ)が入るので、この彌(ミ)が、三(サム)のムにかかり、倭訓のミにもかかっていた可能性があるでしょう。

倭訓は高句麗祖語のそれでしょうから、全体的には朝鮮系の影響があるのでしょう。

最後にみえてくる4番目の序列の官の奴佳鞮(ヌカダイ)についても、奴が地名を表していた可能性があるでしょう。

そうすると、奴国や、周辺21国にも多くみえてくる●奴国の長官と考えると、郡県の地方長官といった具合に理解できそうです。

ここで、後代の県主(アガタ・ヌシ)がありますが、そのアガタと、このヌ・カダイのカダイが音的に近いように感じます。

アガタは、大きい「ガタ」の意味ではないでしょうか。そのカタが、カダイに対応するわけです。

このように、邪馬台国とその北部諸国の官職構造から、その集団の故地や言語系統まで明らかにしうる可能性がみえてきますが、実際に先の21国がどこに位置していたかを明らかにできれば、概ね邪馬台国の位置もみえてくるはずです。その辺についてはまた後日考えてみましょう。


斐太神社の「斐」を考える 弓張月 投稿日: 2023年08月21日 12:06:20 No.319 【返信】

「斐」をひふみ(一二三)とすると、いろんなことが連想出るようですね?

その中で、「非」は樋知大神社 (ひじりだいじんじゃ)と出雲国に樋社があることから「樋」とすると、「文(二三)」の読には、「あや(阿彌)」がありますね。そして、茨城県では阿彌を「あみ」としていて、阿弥神社があります。また、「み」は、水戸の「水・三(東海道五十三次の五十番宿は水口,壬生(みぶ)は、み=三・水から水府)
言いたいことは、弥彦神社の「いやひこ」で、「あや」に対して「いや」であって、「いやひこ」とは、「母子」のことでしょう? 高志国と言えば、沼河比売なのでしょうから。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 09:37:12 No.320
「二三」を国道23号から想像することは、

 23=二見で、伊勢の「二見浦」となりますね。
 二見は、本は双見でしょうか?
 となると、双(そう)⇒相(桑・草)⇒あい(愛・糸・伊都≒伊豆)と見⇒弥 となりま 
 すか。
 つまり、二見は「あや」と「いや」である。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 09:54:32 No.321
この掲示板をお読みになっている方々には、既にご存知かもしれませんが、
阿弥神社のある茨城県阿見町には、「清明川」があり、下流から上流に昇っていくと、二つある阿弥神社のどちらかに行きつきます。よく考えてますね。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 21:11:01 No.322
出雲国の斐伊川(ひいかわ)がありまが、

斐(ひ)・・・ 敏達天皇
伊(い)・・・ 伊達(だて)氏  

斐は「一二三」で、「ひふみ」から敏達天皇,伊達は「伊に達する」で、伊とは「伊都・井」でしょうか?
   
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 12:22:20 No.323
広島東洋カーフで、
カープは「鯉」で、「昔広島城のある付近一帯は海で、「己斐(こい)の浦」と呼ばれていた」から
ネットに、「広島県海田町が推す観光スポット「旧千葉家住宅」が、あまりにも千葉県だった / 海田町に広島への背信の疑い https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/広島県海田町が推す観光スポット-旧千葉家住宅-が-あまりにも千葉県だった-海田町に広島への背信の疑い/ar-AA1fEgUT?ocid=msedgntp&cvid=752e63a1daac49a991f0cd78f9bee386&ei=8 」なる記事があった。
ウィキペディアには「古くは「許斐」とも書いたことから筑前宗像の「許斐神社」と何らかの関係を有するというもの(芸藩通志)、などである。」と

己斐の己の読み仮名に「き」がある。話は外れて、巳年の巳の読み仮名は「み」(=水・三)と「し」がある。己の「こ」と巳の「し」の共通の漢字「子」で同じだったしたら、己は「き(亀)」と巳=蛇ですね。
そして、広島城を築いたのは「一文字三星」紋の毛利氏で、本姓は大江氏ですね。また、嵯峨源氏の渡辺氏の紋は渡辺紋です。違いは三ッ星の上に一か、下に一。
水戸市渡里町と宮城県亘理郡亘理町の「わた」の大元は、ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)だったのでしょうかね?
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 12:53:46 No.324
己巳で、己(き)を亀とし、巳年は蛇(だ)なので、読み仮名から己巳(きし)は「「亀蛇」が連想でますね。東洋工業の「マツダ」は、ゾロアスター教のアフラマズダー神からでしたね。繋がりますね?
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 19:44:22 No.325
「古くは「許斐」とも」で、名字の許斐の読みには、「このみ,こい,いび,もとい,ゆい,このい」だそうで、斐伊川(ひいかわ)の反対の「いび」があります。そして揖斐川は、ウィキペディアに、語源として、「揖斐」は大昔、水田へ水を引く「井樋」(イビ)から名付けられたと見られるとあり、また、「元々は大垣市内を南北に流れる杭瀬川が揖斐川の本流だったが、戦国時代の1530年に発生した大洪水で呂久川と呼ばれていた現在の揖斐川筋に流れが変わり今日に至っている。」と

そして、ブログ:「リタイア男の暇つぶし」さんの「中山道 第56宿 赤坂宿(1) 呂久川は流れを変えて揖斐川へ」に、

・中山道七回り半
 三津屋の集落を抜け左右が開けてくると、次に「中山道七回り半」と彫られた道標が現れた。 先ほどは「三回り半」であったが、今度は「七回り半」と倍近く曲がりを繰り返すようである。(「三回り半」は、京に向かって三つの曲がりと小さな曲がりが一つあるという意味らしい。道標が立つ曲がり角が一つ目で、二つ目のカーブの所に「素盛鳴社」と名のついた小さな社が祀られていたとのこと)(「七回り半」では、最後の回りの角には、加納薬師への道標を兼ねたお地蔵様を祀るお堂が立ち、横には同じく加納薬師への道標が立つとのこと)
なぜ、五三桐・五七桐紋があるのかと併せて考えると、歴史上の史実と何が関係あるのか不思議です。中山道ですしね。

また、斐伊川と揖斐川、樋の読み「とい」と「とよ」、卑弥呼と宗女の「壹與(台与、いよ、とよ)」と連想ゲームすると、これまた不思議と近い。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=許斐
https://x-polarstar.com/2022/09/01/naka-56-1/


「宍戸」の地名に古墳が 弓張月 投稿日: 2023年08月19日 13:53:32 No.314 【返信】

鎌倉大仏と常陸太田市松栄町の「おおわらじ」、つまり大足(おおたらし)から、謎の「藤原鎌足」でした。
また、常陸太田市下高倉町から、高御座(たかみくら)、井上皇女の井上姓が住まれている。
そして、今回のご紹介は、「宍」を検索したら、すみがうら市宍倉に「風返稲荷山古墳」がありました。
この古墳、現在「風返稲荷山古墳と上宮王家」なるタイトルにて、かすみがうら市歴史博物館特別展が行われているようです。

https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16920117006832

かすみがうら市には、地名に田伏(たぶせ)がある。田布施と関係あるんですか? また、笠間市小原と常陸太田市幡町を結ぶ線上の水戸市水戸市牛伏町には、牛伏古墳群。
https://kofun.info/kofun/3496

茨城県は、レパートリー豊富でしょう?
弓張月 投稿日: 2023年08月20日 09:11:18 No.315
「宍倉」を解読するには、旧事本記の物部系図が必要ですね。
物部系図では、応神天皇(宇摩志麻遅命)を一世とすると、五世は第21代天皇・雄略天皇(布都久留連)と第22代天皇・清寧天皇(目大連)となりなすかね。

雄略天皇と清寧天皇は親子なので「おかしいでしょう」と思われる方がほとんどでしょう。でも、ご安心ください! 清寧天皇は、葛城韓媛(葛城円大臣の女)の子ですから、葛城韓媛を妊娠した観音菩薩と考えると問題解決。つまりは、六曜紋ですね。よって、清寧天皇は天皇系図上では六世としていますね。後のことは、皆さんプロなので語る必要なし。ただ、第23代天皇・顕宗天皇の「23」は、斐(一二三)の文は、⇒富美(とみ=十三)で、矢代(いずもおおやしろ=出雲大社)さんで繋げてるんですかね?
茨城県では、国道123号線ですね。
弓張月 投稿日: 2023年08月20日 09:13:23 No.316
そして、宍の意味 「鹿肉と猪肉」に区別される。
弓張月 投稿日: 2023年08月20日 09:48:00 No.317
「23」で、忘れてました。

下弦の月は、正午の真西の月で二十三夜目ですね。
酉年・不動明王像は九時の西方です。西方は、≒聖方位なのでしょうか?
極楽浄土でもありますね。

ちなみに、国道23号線をウィキペディアで調べたら

「起点の豊橋市から、愛知県の西三河地区や尾張地区の西側を通行し、その後、名古屋港や伊勢湾に沿うような経路を取り、中京工業地帯の代表的な工業都市である三重県四日市市、三重県の県庁所在地である津市などを経て、終点の伊勢市に所在する伊勢神宮とを結ぶ路線である。」とのことです。


魏志倭人伝の分析1 管理人 投稿日: 2023年08月19日 00:32:26 No.313 【返信】

弓張月さん、皆さん、こんばんは。最近はちょっと歴史から離れていましたが、しばらくぶりに、魏志倭人伝あたりを読み直していこうかなと感じてます。

①始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離

②所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

③又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離

④方可三百里 多竹木叢林 有三千許家差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

⑤又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之

⑥參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里


①は対馬のことで、③が壱岐のことは異論ないでしょう。官は同じですが、対馬から壱岐にかけての海を「瀚海」としていますね。

その「瀚(カン)」は広いの意味ですが、後代の玄界(ゲンカイ)灘のことではないかと言われてますね。


この玄界・玄海については、以前『山海経』の玄股人の住む地域のことであろうと指摘したことがあります。ウィキは下記のとおり。


玄股人(げんこじん)は中国に伝わる伝説上の人種である。元股(げんこ)とも古代中国では東方に位置する国に棲んでいたとされる。

古代中国の地理書『山海経』の海外東経によると、玄股国は黒歯国の北にあり、玄股人は腰から下が黒く、魚の皮で出来た服を着ているという。カモメを食べるといい、またそれぞれ2羽の鳥を使役しているという。
玄股人の登場する作品

『鏡花縁』
元股国が旅の途中に舞台として登場する。百才女の一人である尹紅萸が父と共にこの国に落ちのびている。元股人は腰から下が真っ黒で魚をとるのが巧いため国内にはとてもたくさんの種類の鮮魚が流通しており、またその価格が廉価であると設定されている。魚の種類は非常に多く、人魚やさまざまな怪魚などもよく水上げされてい。



玄界灘は世界有数の漁場とされますが、この玄股人がやはり魚の皮の服を着たり、カモメを食べるなど、海人である点に留意しておくべきでしょう。


その南に位置するであろう黒歯国というのは、下記のとおり邪馬台国の南にある侏儒国から、さらにその東南とされる国ですね。


⑦女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
⑧又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
⑨又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至


ここで船行1年というのは、邪馬台国までの船行1月の12倍の長さと考えるべきでしょうか。侏儒国を南西諸島方面、黒歯国をフィリピンからインドネシアと考えると、理解しやすくなるでしょう。

それで、壱岐島から千餘里で至る末盧國 ですが、上記の四千餘里の4分の1の距離にあたるわけです。壱岐島⇔唐津間が42㎞とすると、1里は42mとなりますね。50㎞前後を想定すべきことは以前もお話したとおりです。

ここで、先の邪馬台国の南にある侏儒国までの4千里は200㎞前後となるはずですから、天草・出水方面あるいは宮崎から種子島や屋久島あたりまでの距離に対応するでしょう。


ちょうど種子島の広田遺跡の弥生時代から古墳時代にかけての人骨が154㎝前後と北部九州人より10㎝前後も低いことが指摘されているように、ここが侏儒国であった可能性は高いのではないでしょうか。

そうすると、邪馬台国は、九州南部方面まで拡大していたことを示すことになりそうですが、

⑥の絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里 との記載をみると、250km四方の領域内に倭地があり、列島状になっていると理解していたこともわかってくるでしょう。概ね九州サイズですね。


そして、⑦女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 とあるように、女王国の東に千里 50㎞前後の海を渡って、また倭種の国があるというように、概ね九州東部から四国西部への豊後水道の距離と同じになるので、比較的正確に距離や方角を彼らが理解していたことも考えうるでしょう。

ここで、また女王国つまり邪馬台国が九州西部まで領域を拡大していたことも理解できるので、結果として、九州中南部は概ね邪馬台国の支配領域にあったとの理解になりそうです。

ただ、女王国と争っていた南の狗奴国ですね、この位置推定も重要ですが、その辺は、またの機会にしましょう。


三つ葉葵(HollyHock)の「Hock:足」について 弓張月 投稿日: 2023年08月18日 13:32:04 No.311 【返信】

サッカークラブチームのホーリーホックで、「ホーリーホック (HollyHock)」は英語で「葵(タチアオイ)」を意味し、水戸藩(水戸徳川家)の家紋の葵 から採られた。とのひと。そして、Hockとは、「(犬・馬などの後ろ足の)ひざ」の意味。
古代史での「足」は、足彦(たらしひこ)が謎ですね?

富士山の南隣に位置する火山に「愛鷹山(あしたかやま)」があります。愛を「あし」としているのは、意味ありでしょうね。愛=足が想像されますか?(愛⇒伊都・伊豆カークラブチームのホーリーホックで、「ホーリーホック (HollyHock)」は英語で「葵(タチアオイ)」を意味し、水戸藩(水戸徳川家)の家紋の葵 から採られた。とのひと。そして、Hockとは、「(犬・馬などの後ろ足の)ひざ」の意味。
古代史での「足」は、足彦(たらしひこ)が謎ですね?

富士山の南隣に位置する火山に「愛鷹山(あしたかやま)」があります。愛を「あし」としているのは意味ありでしょうね。古くは足高山と記されていた。(愛⇒糸・伊都⇒伊豆、愛⇒相)なのでしょうから、愛=足。

愛鷹山峰の山頂には愛鷹明神を祀る桃沢神社が鎮座している。富士山を中心に愛鷹山(足高山)、山梨県の足和田山、箱根の足柄山を合わせて「富士三脚」と呼んだ。

縁起のよい初夢『一富士、二鷹、三なすび』の鷹の説の一つとして、駿河国で2番目に高い愛鷹山を指すという説がある。しかし、実際には駿河国で愛鷹山より高い山は存在する。

「足彦」らしい伝承を残したのかな?
弓張月 投稿日: 2023年08月18日 13:39:36 No.312
「桃沢神社(ももさわじんじゃ)が鎮座」ですから、
まさしく、ツクモの次の「百(もも=桃)」ですね。


大甕神社 弓張月 投稿日: 2023年08月05日 15:23:26 No.305 【返信】

今朝の茨城新聞に大甕神社の御朱印の記事が載っていた。
https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16909627746709
御朱印は通常版が2種類。中央に「大甕神社」と書かれたものと、肩に地主之神、中央に金文字で天甕星と書いた「甕星香々背男」版だ。 とのこと。
大甕神社の神輿は八角形。 「大甕神社」と書かれたもは「八角形の印」が、地主之神の甕星香々背男版は、「四角形が二つ重ねた印」である。
日立(ひたち)市と纏の紋「十六葉八重表菊」から「八角形の印」を考えると、応神天皇から八代目の用明(=陽明)天皇となるかな? また、「四角形が二つ重ねた印」は、対立する二種類の四方神となりますかね? つまり、宍とは、鹿肉と猪肉

また、大甕神社は神門を新造したようで、門の高さは約13m,幅約8mとのこと。
鷲子山上神社のフクロウ、吉田神社(水戸)の正月門松の高さは7mと、やっぱり歴史の事柄にこじつけているようですね。(高さは北南、幅は東西かな)
13mとは、孝謙ュ貢献)・称徳(聖徳)天皇のことで、武葉槌命か?
弓張月 投稿日: 2023年08月07日 10:57:24 No.306
武葉槌命が「孝謙(貢献)・称徳(聖徳)天皇のこと」は、?の方が多いと思います。が、
長幡部神社 (常陸太田市)と西茨城郡友部町小原,東茨城郡内原町黒磯,田島,水戸市加倉井町,国田町,那珂郡瓜連町鹿島,常陸太田市島町,幡町を結ぶ線上の「うばら(兎上の命)」から「いばら」から、「孝謙(貢献)・称徳(聖徳)天皇のこと」としました。
弓張月 投稿日: 2023年08月08日 13:53:06 No.307
森ビルグルーブの宍戸ヒルズゴルフクラブのある笠間市宍戸町は、西茨城郡友部町小原,東茨城郡内原町黒磯,田島,水戸市加倉井町,国田町,那珂郡瓜連町鹿島,常陸太田市島町,幡町を結ぶ線の延長上です。そして、宍戸町の纏の紋が何と、徳川家の「三つ葉葵」なんだそうです。

となると、徳川家康の「家康」は源義家の「家」と安康天皇の「康」でしょうかね?
康(やす)は「安」で、「こう」ですと、光,皇,神,甲,高,江,行と獅子(狛犬)が連想されますか? 
ウィキペディアで「しし座」を調べると、概要に「α星は、全天21の1等星の1つであり、レグルスと呼ばれる。β星のデネボラが、うしかい座のα星アークトゥルス、おとめ座のα星スピカと形作る三角形は春の大三角と呼ばれる。λ、ε、μ、ζ、γ、η、レグルスを繋ぐことでできる特徴的な「?」形を裏返した星の並びを、「ししの大鎌」と呼ぶ。日本ではこれを「樋掛け星(といかけぼし)」と呼ぶ地方がある。」と。
「大鎌」、「トイカケボシ(岐阜)、イトカケボシ(京都)」 不思議に不規則でなさそうです。(逆に、日本刀の刃紋の「皆焼」の読みが「ひたつら」としたのか。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/しし座
https://www.touken-world.jp/tips/56580/


弓張月 投稿日: 2023年08月08日 14:05:09 No.308
それと、水戸東照宮の神輿は宍戸町の纏と同じ八角形ですね。


<< | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | >>


Powered by Rara掲示板
管理者に連絡 | 新着投稿をメールで受け取る | スポンサー募集