歴史掲示板(渡来人研究会)


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    水窪石~縄文のヒエログリフ 青面金剛 投稿日: 2025年03月10日 05:19 No.658 【返信

    浜松市水窪民俗資料館 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamahaku/09annex/hakubut05.html

    「我らの理想郷であるこの平地を占領している敵、我らのきずいた豊かな村や町を奪っている畜生めらを何年かかっても襲え、神々は我らをお守りくださっているぞ」
     水窪民俗資料館にレプリカが展示されている「水窪石」には(同館の説明文に拠れば)上記のような文言が古代フェニキア文字で刻まれているそうです。
    画像
    「我らの理想郷であるこの平地を占領している敵、我らのきずいた豊かな村や町を奪っている畜生めらを何年かかっても襲え、神々は我らをお守りくださっているぞ」 水窪民俗資料館にレプリカが展示されている「水窪石
    tenryu-rakuichi.amebaownd.com

     「(中略)天竜川の源である諏訪大社(上社にある池が諏訪湖、天竜川の源流と云われます)の御頭祭で明治初期まで行なわれていた神事は古代イスラエルの祭事に似ているという説があります。」

     「エジプトのアメンホテプ四世(紀元前1362年?~1333年?、別名イクナートン)を信奉する人達がアマルナ革命の崩壊後イスラエルに移り、その後失われた十支族と共に日本に渡って出雲族(クナト=イクナートンを信仰していたと云われる)の祖となったという説もあり」


    人類文明の起源は日本だった - 石板に隠された古代文字と封印された歴史の真相とは
    https://www.youtube.com/watch?v=rvGC7hNOCdA

    「東大寺の巨石に隠された謎」2025年3月20日の春分の日の朝に、100トン超の巨石から発する、電磁信号のカウントダウンがゼロを迎える。
     オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、と東大寺が一直線に並ぶ。
    https://www.youtube.com/watch?v=TvUQundKGRo&list=PLsZShxfxu78Fi5j912JIoKiJ3vKEevoIG

    「香川県の五重塔:オリオン座との不思議な一致」五重塔は、単なる仏教施設では無く、共鳴する受信ネットワーク。

    「富士山地下5000mの巨大空洞」直径300メートルの球体、壁面は反射望遠鏡の様な鏡面仕上げ。

    「沖縄・与那国島沖の海底遺跡:失われた古代文明の痕跡」2025年6月20日に電磁信号の飽和点を迎える。

    【徹底深掘りSP】奈良・香川、日本各地で発見された- 5つの地域に隠された驚きの事実
    https://www.youtube.com/watch?v=KoeXSXYVyho


    清水寺の狛犬の眼に刻まれた暗号は、2025年7月5日を示す。
    https://www.youtube.com/watch?v=o-R6DRvYyCw&list=PLsZShxfxu78Fi5j912JIoKiJ3vKEevoIG&index=5


    青面金剛 投稿日: 2025年03月13日 04:35 No.659
    東大寺お水取り
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    令和7年修二会拝観方法は、以下の通り決定しました。 修二会についてはこちら、お松明の開始時間など詳細はこちらを
    www.todaiji.or.jp

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    修二会(しゅにえ) お水取り 二月堂縁起に、 「実忠和尚二七ヶ日夜の行法の間、来臨影向の諸神一万三千七百余座、
    www.todaiji.or.jp

    魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音さまに奉ったという、「お水取り」の由来を伝えている。

    「王家の谷」の王墓、ツタンカーメン以来100年ぶりの大発見
    女王ハトシェプストの夫トトメス2世、エジプト第18王朝では最後の未発見の王の墓
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    紀元前15世紀に君臨し、女王ハトシェプストの夫としても知られるトトメス2世の墓が見つかった。エジプト第18王朝では最後の未発見の王墓だった。
    natgeo.nikkeibp.co.jp


    ※ 出雲大社は、当初、鳥取東郷湖の畔に建てられた。建立の資金を提供した、東出雲王家の第17代事代主(野見宿祢)が、出雲王朝閉朝後に、波波伎(ははき)神社(倉吉市福庭)の地で晩年を過ごされた。
    今回は出雲王家の基本事項から見ていきます。出雲王家・主王の職名は「大名持」で、主王には富家と神門臣家からほぼ交替で就任しています。大名持は大国主の別名かと思ったら職名でした。また副王の職名は「少名彦」(注:記紀に見られる「少彦名」の表記ではない)...
    xn--tiqrk360irhv.fc2.net


    波波伎(ははき)神社
    https://www.tottori-guide.jp/tourism/tour/view/811

    羽合歴史民俗資料館 https://www.yurihama.jp/soshiki/20/1969.html

    出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であった
    「出雲大社のモデル」のブログ記事一覧です。千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。【「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦】
    blog.goo.ne.jp




    古代三角測量と邪馬台国 管理人 投稿日: 2025年03月01日 04:27 No.655 【返信

    最近、多忙につきなかなか更新できていなかったのですが、遺跡や古墳を結ぶ方位ラインの分析から、30度、60度、90度のラインが多く、その三角測量を用いていた可能性を指摘してきたことがあります。

    ここで、45度、90度の二分角の三角測量を用いず、三分角の測量をあえて用いた理由を考える必要がありそうです。

    図1は、その30度、60度、90度を用いた三角測量図ですが、ここで線分ABEの直角三角形は、三平方の定理により、1(短辺):2(斜辺):√3(長辺)の比率になることがあります。

    ここで相似の原理により、水色の線分CDの長さを1とすると、直角三角形CDAにおいて、DA(斜辺)の長さが2となります。

    次に、直角三角形DABにおいて、DAの2倍がABとなるので、結果としてABは、先の水色のCDの4倍の長さとなります。

    また、図の方格をみてわかるように、AB:AEが12:12/√3=6.928となることから、おおむね12:7とみなしうることがあります。

    ここでCD=1とすると、AC=√3であり、またCEは直角三角形CEDをもとに考えると、CE=1/√3となるので、結果として、AC:CE=√3:1/√3=3:1となります。


    つまり、南北ラインとなるAB間で、まず周ヒ算経(南中時のノーモン棒の影の長さによる緯度測量)により、距離を計算しておき、Bを起点として、西に60度偏角でEB(赤ライン)を伸ばしてゆき、同時にAを起点とする東30度偏角のAG(ピンクライン)を伸ばしていくと、その2つのラインの直交地点Dが生じ、そこから真北にラインを伸ばすと先のCD(水色)となるはずです。

    したがって、このCDラインの距離は、先のABラインの4分の1となり、またそのAから西にラインを伸ばして先のEBとの交点Eの位置が、ABの長さ12として、その7/12の位置となります。

    ここで、またBから45度偏角でラインを伸ばしていくと、先のABと同距離のAFが仕上がりますが、ここで、AE:AF=7:5の距離となります。

    そこで、また先の交点Dから真西にラインを伸ばしていくとIでFBラインと交差し、このIから、東45度偏角にIJを伸ばし、先のAFの東西ラインとの交点をJとすると、先に決めたEとのEJ間の距離が、図のように方格の1マスとなるので、つまりAB間の距離の12分の1の距離になることがわかります。この1マスの距離が、測量の基礎単位となっていくわけです。

    それでは、実際にそのような測量がなされていたかについて具体的な事例ともとめていくと、まず、先日分析した九州の弥生遺跡、古墳、魏年号銘鏡を出土した古墳、神社などを結んだ図2があります。

    ここで、まず宇佐の川部・高森遺跡⇔長峰神社周辺を結ぶ南北ラインを想定し、これが周ヒ算径によって最初に作成されたラインと仮定しましょう。

    なお、このAB間の中点が天岩戸神社となります。

    次に先ほどのように、南端の長峰神社周辺から西60度偏角でラインを伸ばしていき、また北端の川部・高森遺跡から真西にラインを伸ばしていくと、平原遺跡で交差することになります。

    そしてまた先ほどのように、北端の川部・高森遺跡から東30度偏角でラインを伸ばしていくと、女山神籠石で先ほどの長峰⇔平原遺跡ラインと交差することがわかります。

    なお、その中点が図のように小迫辻原遺跡となります。

    その女山神籠石から真北にラインを伸ばし、先の川部・高森遺跡から真西へ伸ばしたラインとの交点が大野城となります。これが先の線分CDとなり、基礎尺となるわけです。

    ここで、先ほどのように、女山神籠石を交点Dとして、そこから真西にラインを伸ばしてゆき、また先の長峰から西45度偏角でラインを伸ばしていくと、佐賀のある地点で交差することになりますが、その真北が神集島となります。

    この神集島の位置は、図のように、川部・高森遺跡の真西にあたり、川部・高森遺跡⇔神集島間の距離の3分の1が、先ほどの大野城⇔女山神籠石、つまり前図のCDの距離と同じくなることもわかります。

    そして、図のように、川部・高森遺跡から西45度偏角でラインを伸ばすと、津久見島へと至り、この津久見島は先の女山神籠石の真東にあたるとともに、またこの津久見島から東45度偏角でラインを伸ばすと、天岩戸神社に至り、この天岩戸神社は、先の川部・高森遺跡⇔長峰ラインの中点であることは前述したとおりです。

    なお、神集島⇔津久見島を結ぶ西15度偏角のライン上に、平塚川添遺跡や、長田大塚古墳、小迫辻原遺跡などが載ることも以前お知らせしたところですが、図をみると、ちょうどこの2つの島の間には4つの方格が入ることがあり、その中点に小迫辻原遺跡がいちすることもわかります。

    その平塚川添遺跡⇔八女津姫神社⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への西60度偏角のラインの存在は、弥生時代でも後期になってから、平塚川添遺跡が出現し、末期から古墳時代初期に持田古墳群周辺が重要視されていった流れを予想させるものです。

    ここで、川部・高森遺跡⇔長峰間が180㎞ジャストとなり、その中点の天岩戸神社⇔川部・高森遺跡間の距離も90kmジャストです。

    次に川部・高森遺跡⇔平原遺跡間が104.8kmとなり、先ほどの川部・高森遺跡⇔長峰の距離180kmの7/12が105㎞なのでほぼ狂いない測量が行われていたことがわかります。

    また川部・高森遺跡⇔神集島間が129・3㎞となり、この間に3つの方格が入るとすると、43.1kmが方格の東西基礎距離となるでしょう。

    神集島⇔岡本遺跡間が44㎞、岡本遺跡⇔川部・高森遺跡間が84㎞となりますので、おおむね岡本遺跡周辺に方格の交点があったことも予想されます。

    そして、先ほどの図1の基礎距離CDに対応するのが、大野城⇔女山神籠石間の距離となりますが、これが42kmとなり、先の43㎞前後と言えそうですがやや短い計算です。

    あと、図1のAC;CE=3:1になるはずですが、川部・高森遺跡⇔大城山=78.4㎞:大城山⇔平原遺跡=26.4kmで、これもほぼ3:1で狂いないことがわかります。

    したがって、川部・高森遺跡⇔平原遺跡間の7分の1がまた基礎尺度となっていたはずですが、これは104.9km/7=14.98≒15㎞前後が基礎尺であったことになるでしょう。

    この12倍が先の川部・高森遺跡⇔長峰間の距離であり、6倍が川部・高森遺跡⇔天岩戸神社間の距離となるわけです。

    この15㎞尺と、先の43~45km尺の2通りの尺度を使っていた可能性がありますが、これは15×3=45とまず理解しうるでしょう。

    まず前述のように、周ヒ算径で、川部・高森遺跡⇔長峰間を180㎞とみなしたことから始まっており、その180km尺が大陸においてどのような単位だったかを考える必要があります。

    周尺の1里405m、後漢尺の1里=420mなどの単位によった可能性がありますが、その件については、また日を改めて考察してみましょう。




    『十六葉八重表菊』と菊地(菊池)の「八つ日足紋」 青面金剛 投稿日: 2025年02月25日 05:18 No.650 【返信

    ※ 書き忘れが多いと、10件以上レスがつけられない設定が、早く来てしまいます。

    ◎ 『皇室と王室の解体新書―日本史の謎が全て収束する驚愕の考察!』岡本 佳之【著】内外出版社(2024/12発売)
    https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784862577221

    ※ 考古学の視点から、宗教間の枠組みを超えて分析している。

    P.191『プリンセス・ダイアナ生存説』。P.238『箕作奎吾の父「箕作秋坪」の旧姓が「菊池」で有る事。』南朝は美作国へ移り、美作後南朝としてしばらく存続した。皇室の菊花紋こと「十六葉八重表菊」は、菊池家の家紋「日足紋」を土台に作った。

    考え方の学校 Yoshi Sun TV 
    画像
    どうも、Yoshi Sun TVのYoshi(ヨシ)です。
    チャンネル名のSunは「〜さん」ではなく太陽の事で、皆を明るく照らしたいと言う意味です。なので、さん付で読んで欲しいと言うことではないです。でも、お互いが尊敬し合える様なチャンネルになればいいですね^^

    ◉僕のバ...
    www.youtube.com


    ○ 菊池氏の紋所 https://www.city.kikuchi.lg.jp/ichizoku/article/view/2105/8009.html

     【 菊池氏の紋所といえば、真っ先に思い浮かぶのは並び鷹の羽(揃い鷹の羽)ですが、元々は日足紋(旭日)でした。それを並び鷹の羽に改めたが、6代隆直といわれています。(中略)。
     日足紋を鷹の羽に改めたのは、5代経直とも8代能隆ともいう説もありますが、『菊池温故』には「鷹の羽の紋は越後守隆直の代より始まる。是よりさきの紋は日足なり秘すべし秘すべし」と記されており、隆直との説が広く伝わっています。 】

    ○ 菊池一族のルーツ http://kikuchisan.net/kikuwa/bunpu.html

    【(前略)、徳川光圀の修したる『大日本史』の百七十一巻(列伝第九十八)の條にも、「肥後のひとなり。その先は中納言藤原隆家より出ず。隆家の孫則隆、太宰小監となり、延久二年肥後に赴き菊池郡に至る。子孫よりてここに家し、世々著姓たり」、云々と記す。
     隆家は中関白道隆の子なり。『菊池風土記』所収の菊池系図の「文時の譜」の中に「隆家以来、代々一門の公卿、太宰権師也」とあり。】

    ○ 西郷隆盛の家紋と言えば南洲菊! 
    画像
    家紋や系図を手がかりに、西郷隆盛の先祖のルーツを辿ってみました!「西郷隆盛はどういう経緯で隠密になったんだ?」「先祖は神官?」「どうして鹿児島で、あそこまで尊敬を集めていたんだ?」そんな素朴な疑問を、追いかけましょう!
    www.pt-jepun.com


     【 西郷隆盛の家紋と言えば、真っ先に思い浮かぶのが『南洲菊』! この『抱き菊の葉に菊』の紋じゃないでしょうか?

     じつはこの家紋! 明治天皇が自ら考案し、西郷さんに下賜したもの。なんでも、西郷さんを菊の葉に見立て。菊である天皇を、左右から支えて補佐するように!

    そんな意味が、込められているんだとか。】

    【 じつは、西郷さんの本姓は菊池! 西郷さんと言えば、西郷吉之助隆盛という名前が有名ですよね? でも本姓の菊池姓を使って、菊池源吾や菊池三助という名前を、名乗っていたこともあったんです! 】

    【 西郷さんや菊池氏は、藤原北家の藤原則隆を祖と称しているようですが、実際のところ、『日足紋』や『檜扇紋』を使う、安倍氏や紀氏の裔なのではないでしょうか?つまり、豊国や東表国と呼ばれた安日彦王朝の流れ。

     シリアのアルワード島からインドのアワド(コーサラ国)、そして九州へと辿り着いたあのエブス(エビス)王の一族!東北の安倍氏や安東氏、秋田氏とともに、安日彦の裔なのでは?

     もしそうであれば、サカ族(イッサカル族)王家と、対婚氏族である神官のレビ族の血を引いてるはず!これなら、西郷さんが尊敬を集めていた意味も、代々隠密だった意味も分かるかも? 】

    ※ 西郷隆盛が写真嫌いで、宮内庁に1枚だけ御真影が残されて居るとか。西郷隆盛の副官が、東出雲王家の直系である 富當雄だったのも、同じ恵比寿さんの流れだったからなのか。

    『親友・西郷隆盛―伝承の日本史』斎木 雲州【著】大元出版(2014/11発売)
    画像
    西郷隆盛は誤解されている。親友が語る話。
    www.kinokuniya.co.jp


    『明治維新と西郷隆盛―伝承の日本史』斎木 雲州【著】大元出版(2018/06発売)
    画像
    本の通販なら紀伊國屋書店ウェブストア、電子書籍ストアKinoppy!店舗受取で送料無料。図書カードNEXTも使える。紀伊國屋ポイントが貯まる・使える。コミックや雑誌も豊富な品揃え。国内・海外主要都市に店舗を展開する紀伊國屋書店のECサイト。
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    弓張月 投稿日: 2025年02月26日 14:08 No.651
    卑弥呼の宗女の台与/臺與(とよ)または壱与/壹與(いよ)で、「とよ」については、

    令和五年に発行された「若宮八幡宮の歴史と社宝(常陸太田市宮本町 〒313-0006」に、四、唯一神道と豊田氏の神官就任や元禄七・八年、光圀と豊田大隅との交流」の項がある。と

    今回は壱与/壹與(いよ)について
    「いよ」は伊予国造の「伊予」か?
    出雲国の斐伊川(ひいかわ)は、「古くは「肥河」「簸の川」(ひのかわ)などと呼ばれた。」と
    岐阜県から三重県へと流れる揖斐川(いびがわ)は、ウィキペディアに「揖斐荘(現揖斐川町)を貫流して流下する河川として名付けられたと考えられている。「揖斐」は大昔、水田へ水を引く「井樋」(イビ)から名付けられたと見られる。」と
    歴史と共に、「ひ」から「い」に変わっていったのか?

    次に、伊予国造と仲国造について、「おくまんさまのブログ」 伊予の国造から国造とは何かを考えるー愛媛県史をもとに https://note.com/okumansama_2023/n/n1faf2e48f79b には、「伊余国造は、「国造本紀」に「志賀高穴穂朝御代。印旛国造同祖敷桁波命児速後上命。定賜国造」とあります。敷桁波命(しきたなはのみこと)は敷桁彦命(しきたなひこのみこと)とも言い、この人は印旛国造(印波国造)と同祖となっています。また『古事記』によれば、神八井耳命が伊余国造の祖とあります。この『古事記』の記事に従えば、伊余国造も印波国造もともに神武天皇の皇子である神八井耳命を共通の祖先としていることから、神武天皇裔の国造ということになります。また仲国造は伊予国造同祖となっていますから、仲国造も祖先が神八井耳命ということになります。印波国造は祖先の名前として神八井耳命の名前を挙げています。仲国造は神八井耳命の名前は挙げていませんが、伊余国造が『古事記』で神八井耳命が祖先であるとありますから、この三人の国造は神八井耳命が共通の祖先であることがわかります。」と書かれてますが、

    物部系図で、私は宇麻志麻治命を応神天皇の御世と同じと考えました。そうすると、印葉連と伊予連ねは応神天皇から10世とてなり、成務天皇の御世は物部系図の八世(敏達天皇,用明天皇,崇峻天皇,推古天皇)ですね。

    和紙(鷲)(わかみ=倭神)とも考え、愛媛県の井川氏が大王製紙を、阿部製紙が日本製紙に。としました。

    伊予国造と仲国造で、気になるのは「仲国造は神八井耳命の名前は挙げていませんが、」です。これは、仲国造が神八井耳命を祖とすることが認められてないのでは?

    水戸市元吉田町の吉田古墳(八角形)の築造は7世紀中葉とのこと。日光東照宮には陽明門もあるし、仲国造の建借間命は、用明天皇(=蘇我馬子)では?

    印旛国造(印波国造)は、伊都許利命(いつこりのみこと)で古墳時代の人物で応神朝の国造。のようですが、伊都許利命墳墓は年代が合わない。
    https://iniparu.jimdofree.com/印波国-遺跡-古墳-神社他/公津原39号墳/

    物部系図がある意味を理解しないと意味不明となるでしょうね?
    弓張月 投稿日: 2025年02月26日 16:55 No.652
    建借間命は、大井神社(水戸市飯富町)に祀られていて、
    https://ameblo.jp/royalbarleytea/entry-12714480530.html

    笠間市にも多井神社があり、ご祭神は神八井耳命
    画像
    笠間市に鎮座されている「大井神社」をお詣りさせていただいた。「太郎明神」とも呼ばれている神様のお社なのだ。 ざっくりすぎるご由緒 806年、奈良時代末期に、常陸国那珂郡大井村に創建されたのが始まり。福田、飯田、石寺、寺崎 …
    jinja-ibaraki.com


    そして、飯富町の大井神社境内にある八方神の祠の下の土台は六角形。
    「6(ろく)」は、陸尺(ろくしゃく),そして、「宍」としました。
    これが、現人神と足神の関係か?

    https://nihonkodaishi.net/special/washizaki/mistakes-in-treering-chron.html
    後から後から、古墳調査すると古文書と違って大変そう。栃木県の侍塚古墳も、今になって再発掘してますしね。
    青面金剛 投稿日: 2025年02月27日 03:34 No.653
    >物部系図がある意味を理解しないと意味不明となるでしょうね?

    ※ 「物部氏」という氏族は存在せず、職能集団の寄せ集めでしか無い。「物部」の中でも、出雲方との共存を選び、出兵に応じなかった集団が居た。甕星香香背男(みかぼしかがせお)。

    〇 大甕神社(茨城県日立市大みか町) 甕星香々背男社 http://www.omikajinja.net/history/index.html

    『 鹿島・香取の二神が、服はぬ国津神・草木石類にいたるまで平定するも、唯一、甕星香々背男と称する星神を征服することができずにおりましたところ、二神に替わって大甕に赴き地主神の霊力を宿魂石に封じたのが倭文神武葉槌命であったと伝えられています。』

    ※ 「国造」とは、天孫方が地方を治める為に、派遣された存在。印旛国造(印波国造)の設置前には、この地を開拓した、忌部氏の存在が有った。

    ※ 「仲国造」は、那珂国造・那賀国造・常道仲国造とも記すので、徳島県南部を流れる、那珂川流域に住んで居た集団が、転封された形と思われます。

    ※ 言葉足らずな、超短文の唐突な質問では、答えの範囲が広過ぎて、答え様が無いので、「何故、そう思うのか。」自分なりの分析の段取りを示して、質問内容の範囲を絞って下さい。


    弓張月 投稿日: 2025年02月27日 09:59 No.654
    気になったので、「豊国文字」をウィキペディアで見たら、
    https://ja.wikipedia.org/wiki/豊国文字

    「豊後国(現在の大分県)府内の国学者である幸松葉枝尺(さちまつはえさか)が、1831年(天保2年)に入手した文書である『上記』において、この文字が用いられている。『上記』の序文には1223年(貞応2年)に編纂されたとある。」と
    やっぱり、「豊国」な訳ですね。
    もう少し、歴史をさかのぼると、日田と樋田で、樋田(ひだ,といだ,とよだ)なので、
    豊国文字の前は「樋の国文字」だったとか? 〔雨樋(あまどい)に対して雪樋(ゆきとよ) 雪の結晶は六角形⇒消防署マーク,水戸市章〕


    古代日本の『西の都』日本遺産認定取り消しは遷都への楔 青面金剛 投稿日: 2025年02月13日 04:07 No.639 【返信

    「古代日本の『西の都』」日本遺産で初の認定取り消し 文化庁
    画像
    【NHK】「日本遺産」の太宰府天満宮などの文化財で構成された「古代日本の『西の都』」について、文化庁は、地域活性化の取り組みに改善…
    www3.nhk.or.jp


     本日は日本遺産の日。文化庁が京都に移転してから、歴史シンジケートである、藤原五摂家からの締め付けが、厳しく成ったか。 

     日本遺産・審査委員会の構成を見ると、古代史の専門家と言えるのは、強いて言えば、漫画家の里中満智子くらいで、他には、建築史と公園造園史の方々。「発進」重視の評価とは言え、北部九州の日本遺産12の内、一番のメインの要と成る存在。

     京都御所の復活も近い、と憶測される中、「遷都」の話題が浮上すると、「古代日本の『西の都』」の存在が、大き過ぎるので、事前に削いでおこう、との政治的思惑が感じられる。
     
    古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~ 
    日本遺産に認定された1300年の歴史が色濃く残る古代国際都市「西の都」。
    www.nishinomiyako.com


    九州国立博物館
    九州国立博物館の公式サイトです。福岡県太宰府市、太宰府天満宮の隣りに出来た国内4つ目の国立博物館。
    www.kyuhaku.jp


    九州歴史資料館 https://kyureki.jp/

    ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

    ※ 荊の紀氏 さんは、3行程度の質問文や挨拶文は書けるのに、自分オリジナルの分析と考察、論考や感想、指摘、意見反論、評価、等が、全く書けないのは、怠惰なだけ。

     小学校の高学年とも成れば、原稿用紙二、三枚程度の感想文の提出は、夏休みの宿題です。

     コピペだけの投稿は、ほんの数分で出来る。キーボードで二、三時間も掛けて、打ち込んだ記事への、労力が報われなく成る。

     他の投稿者への配慮が出来ないのでは、「荒し」と見做されます。コピペに依る返答は、お断りします。
    弓張月 投稿日: 2025年02月14日 16:45 No.640
    気になったので「藤原五摂家」をGoogle検索したら、「近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家のこと」のようですね。

    バイオリニストの高嶋ちさ子の友人として、水谷川 優子(みやがわ ゆうこ)さんとのTV番組がありましたが、

    水谷川家(みやがわけ)は、藤原北家近衛庶流の華族(奈良華族)である。左大臣近衛忠熙の八男・水谷川忠起を祖とする。

    水戸市元吉田町の吉田古墳は八角形で、隣には明利酒造(「下り藤家紋」の加藤氏)があり、水戸市の地名は、江戸氏を破って水戸に進出した佐竹氏の時代には「三戸」とも。吉田神社(現・宮内町)の末社と言い伝えられたきたのが水戸明神(鎌倉時代)だそうで、水戸明神は、吉田神社の境内に、さらに明治二年からは笠原不動院(現・笠原町)に移された。
    まさしく、平家物語かな?
    青面金剛 投稿日: 2025年02月15日 04:12 No.641
    訂正:×「発進」⇒○「発信」

    ◎ 三戸(さんのへ)大神宮:青森県三戸郡三戸町同心町諏訪内 https://daijinguu.com/

    ※ 地名が諏訪なので、諏訪大社からの流れなのか。養蚕の街なので、ネズミ退治の猫が多く飼われている。

    ◎ 三戸町立歴史民俗資料館 http://sannohe-castle.jp/index.html

    ※ 三戸町の北隣には、大石神ピラミッドが聳える新郷村が在る。

     『 茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇太神宮の竹内家に伝わる竹内古文書から出てきたのが昭和10年のことです。竹内氏自らこの新郷村を訪れ、キリストの墓を発見しました。1936年に考古学者の一団が「キリストの遺書」を発見したり、考古学・地質学者の山根キク氏の著書でとりあげられたりして、新郷村は神秘の村として人々の注目をあびるようになりました。 』
    http://www.vill.shingo.aomori.jp/sight/sight_main/kankou/sight-christ/

    ◎ キリストの里伝承館(青森県三戸郡新郷村大字戸来字野月) https://visithachinohe.com/stories/kirisutonohaka/

    ◎ 總庁 皇祖皇太神宮(茨城県北茨城市磯原町磯原) https://kousokoutaijingu.or.jp/

    ◎ 息栖神社(茨城県神栖市息栖) 
    水郷をひらいた息栖の神々
    ikisujinja.com


    ※ 久那斗神(くなどのかみ)を主神としているのは珍しく、西日本では弾圧を避けるために、祭神を別の神名で隠している場合が多い。
    弓張月 投稿日: 2025年02月16日 17:28 No.642
    大山咋神を祀る滋賀県大津市坂本の日吉大社の創建は、ウィキペディアに「文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見で、これは、日吉社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉社は、崇神天皇7年に日枝の山の山頂から現在の地に移されたという。」と

    同じく大山咋神を祀る日枝神社 (千代田区)の創建は、「鎌倉時代に江戸氏が山王宮を祀ったことを起源とするが、直接的には文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である仙波日枝神社を勧請したことに始まる。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。」


    日枝神社(ひえじんじゃ)の「日枝」は、素直に読めば、「ひえた・ひえだ」ですね。「ひえた・ひえだ」となれば、稗田阿礼かな? 

    江戸氏で、「常陸江戸氏(ひたちえどし)は、常陸国那珂郡江戸郷を発祥とする武家。本姓は藤原氏。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする那珂氏が祖である。」とウィキに

    那珂氏である那珂通辰が自害した場所は、常陸太田市増井町の勝楽寺裏であると。増井町の郵便番号は、313-0008です。常陸太田市の郵便番号は313-0009と0010は欠番となっていて、313-0011が常陸太田市西宮町の機初地区で、機初地区には長谷観音があります。

    http://burari2161.fc2web.com/nakamititoki.htm

    https://www.city.hitachiota.ibaraki.jp/sp/page/page003636.html
    弓張月 投稿日: 2025年02月16日 18:23 No.643
    申し訳ありません。また、書き忘れ

    常陸太田市増井町にある熊野神社は、元は馬場町(〒313-0004)にあった熊野神社が馬場八幡宮の創建で移されたものと思っていましたが、

    茨城県 久慈地方神社〔神社紹介〕には、
    天長4年(827年)平良将が平家一門の武運長久を祈り、守護神と崇め勧請した。
    中世のころ、村内の正宗寺の境内に移ったが、明治2年(1869年)7月旧地である現在地に移った。と
    また、浄土宗鎮西流の八人の祖の第八酉誉聖聡は、増上寺を開山してますね。

    増井町には神明宮・素鷲神社もあり、藤原秀郷流那珂氏、佐竹氏の正宗寺、平家、
    「8」は≒天皇家ですか。不思議ですね?

    https://ibarakikuji.com/hitatiota/hitatiota_ota/18_kumano.html
    弓張月 投稿日: 2025年02月18日 14:32 No.644
    佐竹氏の第12代当主の義仁は、関東管領上杉憲定(山内上杉家の当主)の次男で、第11代当主佐竹義盛の養子(婿養子、妻は源姫)でしたね。
    延元元年(1336)に、那珂通辰の軍は敗走して増井の勝楽寺裏で一族34人と共に自害したとも捕らわれて斬られたとも伝えられている。
    常陸太田市増井町には長尾地区があり、熊野神社は長尾地区である。
    「地域調査報告 20 115-1631998 常陸太田市における郊外農村の存立基盤  file:///C:/Users/tjhkn/Downloads/5%20(2).pdf 」FPDに詳しい地図があります。

    室町幕府の創設年は、延元元年(1336)ですね。
    「那珂通辰は現在常北町にある那珂西域の城主といわれている。」とのことで、
    水戸八幡宮の本殿は、「建造年代は、内部の羽目板裡に残された墨書などによれば、慶長3年(1598)です。随所に見られる手の込んだ手法には、組物や彫刻などに桃山から江戸初期の時代色と地方色が見られます。
    入母屋造、こけら葺き、正面に3間の向拝をもつ、和様・唐様の折衷様式です。
    当初、八幡小路(現水戸市北見町)に鎮座され、元禄7年(1694)に那珂西村(現東茨城郡城里町那珂西)に移り、宝永5年(1708)現在の地に移築が完了したことが、墨書・棟束により明らかになっています。」と  https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-9/

    ウィキペディアに「水戸八幡宮」は、元禄7年(1694年)、水戸徳川家の寺社改革を受け、八幡小路から那珂西(なかさい)村(現在の東茨城郡城里町那珂西)に遷座した。これに対し、神職氏子の請願等があり、宝永6年(1709年) 、現在の社地である八幡町に再び遷座した。当初は水戸八幡宮に至る道の突き当たりを宮地とする予定であったが、白鶴一羽が舞い降りて数刻翼を休めたため、これを霊瑞とみて西方の現在の位置に改めたという伝承がある。
    一時遷座した那珂西には那珂西神社があり、水戸八幡宮と同じ八幡神三座を祀っている。水戸八幡宮の再遷座につき旧址に創祀したとも、遷座以前から八幡社があったため合祀したとも伝えられている。なお、年代は不詳であるが、室町時代に佐竹義人から鎌倉の八雲神社に充てた書状に「那珂西八幡官(そのまま)」という文言が登場しており、佐竹義人が勧請した若宮八幡宮がここにあった可能性も指摘されている。と

    南北朝時代からは、大化改新以降の世の第二幕でしょうか?
    青面金剛 投稿日: 2025年02月20日 01:49 No.645
     水戸八幡宮の千木は『橫削ぎ』で物部式。御祭神の、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、息長足日売尊(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后、姫大神(市寸島比売命いちきしまひめ:初代ひみこ)の内、徐福=饒速日と結婚した市寸島比売命に合わせている。

     那珂西神社も御祭神は同じだが、千木は出雲式の『縦削ぎ』。市寸島比売命の宗像三女神としての信仰を表す。「那珂」は徳島南部を流れる、那賀川流域の初期出雲王権の発祥地。「那珂」は竜神信仰の「巳」を表す。「西」は出雲の『幸の神』を隠す。竜神は水の神。中臣氏も那賀川が発祥地。



     山形県南陽市の熊野大社の御祭神は、熊野大神=イザナキ・イザナミだが、子宝の『幸の神』を偲ばせて居る。

    1200年の歴史を誇る、山形県南陽市宮内の熊野大社は、東北随一の歴史と規模をほこります。山形県重要文化財の拝殿で執り行う神前式。熊野大社会館の證誠殿では、披露宴、団体お食事、各種御宴会も承ります。
    kumano-taisha.or.jp

    『 熊野大神様は、別名として、イザナキノミコト・イザナミノミコトというお名前をおもちになっています。両方のお名前に共通する「イザナ」は、「誘(いざな)う」という言葉からきたもので、男女の愛の言葉を表現したものです。日本で始めて結ばれた夫婦の神様、縁結びの神様としてもおまつりしています。 』

     神道については、京都の新熊野神社HPに在る、神道講座の解説が、格調高く分かり易い。
    http://imakumanojinja.or.jp/sintoukouza.html
    弓張月 投稿日: 2025年02月20日 10:45 No.646
    「延元元年(1336)に、那珂通辰の軍は敗走して増井の勝楽寺裏で一族34人と共に自害したとも捕らわれて斬られたとも伝えられている。」の翌年には、

    笠間市小原の小原城が「築城年代は定かではないが里見氏によって築かれた。 「日本城郭体系」では建武4年・延元2年(1337年)里見義俊による築城、「日本城郭全集」によれば里見民部少輔満俊を城主としている。 「さとみ物語」(館山市立博物館)には、鎌倉公方の家臣として里見兵庫助基宗と父家兼、叔父満俊などの名が記され、安房国里見氏と同族とされる。」と
    画像
    城は土塁と空堀を方形にした館を基礎として、後に拡張されたようで周囲に土塁跡が散在して残っている。
    水堀跡は残念ながら平成3年に埋め立てられてしまったようだ。...
    www.hb.pei.jp


    笠間市小原は茨城発祥の地ですか。また、善光寺横穴群発掘調査報告書には、「笠間市小原から常陸太田市島町、幡町のラインが古代文化解明に重要位置を占めている」とある。
    そして、里見氏の「さとみ」ですが、大中神社がある地名は、旧里美村ですね。

    令和五年に発行された「若宮八幡宮の歴史と社宝(常陸太田市宮本町 〒313-0006」に、四、唯一神道と豊田氏の神官就任や元禄七・八年、光圀と豊田大隅との交流」の項がある。
    卑弥呼の宗女は、台与/臺與(とよ)または壱与/壹與(いよ)でしたね?

    「6(ろく)」は、陸尺(ろくしゃく),そして、「宍」ですね。常陸国茨城郡宍戸(現在の茨城県笠間市平町)の常陸宍戸藩は、笠間市小原から常陸太田市島町、幡町のラインの延長線上で、宍戸ヒルズカントリークラブがありしたね。(森氏と毛利氏)地域名ですが、よく合いますね。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/常陸宍戸藩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/宍戸氏

    この先は私の範囲外です。
    青面金剛 投稿日: 2025年02月22日 00:05 No.647
    曲亭馬琴作「南総里見八犬伝」と「倉吉」の関わり 
    曲亭馬琴作「南総里見八犬伝」と「倉吉」の関わり 江戸時代後期を代表する戯作者・曲亭馬琴(1767〜1848)の […]
    www.kurayoshi-kankou.jp


     『 江戸時代後期を代表する戯作者・曲亭馬琴(1767〜1848)の長編「南総里見八犬伝」。房州(千葉県)館山城主の里見氏と八犬士の壮大で緻密な物語が展開されます。

    南総里見八犬伝のモデルとされるのは房州館山十代城主 里見忠義。

     慶長19年(1614)、里見忠義が勢力争いに巻き込まれる形で大久保忠隣に連座し転封を命じられ、伯耆国(鳥取県)倉吉の大岳院の門前に居住します。
     その後、忠義は神坂(倉吉市東町・住吉町・荒神町)に住居を置き、倉吉の北野神社、北条の山田八幡の社殿を修復するなどの事績を残しましたが、元和3年(1617)池田光政の鳥取入城とともに、倉吉郊外の下田中村に、さらに同5年(1619)堀村(倉吉市関金町堀)に移され、元和8年(1622)29歳で世を去り、近臣の八人も殉死を遂げました。
    遺言により、忠義を大岳院に葬送し八臣の遺骨も埋められました。現代でも位牌とともに大岳院に祀られており、また関金町堀には里見主従之廟(びょう)が残っています。
     忠義の法名が「雲晴院殿前拾遺心叟賢涼大居士」となり、殉死した八臣の法名にもすべて「賢」の字を付 けたところから、「八賢士」と呼ばれ、このことが曲亭馬琴作「南総里見八犬伝」の「八犬士」に つながったのではないかといわれています。 』
    https://www.kurayoshi-kankou.jp/wp-content/uploads/2021/05/P_017.pdf

    ※ 忠義が住居を置いた神坂(倉吉市東町・住吉町・荒神町)は、賀茂神社(倉吉市葵町)の麓に在り、地元の郷土史家に依ると、初期出雲王朝の王宮が、賀茂神社の丘の上に在ったのでは、と推察されている。

     出雲王朝の最期の副王である第17代・事代主『大田彦(野見宿祢)』は、出雲軍の解散後に、倉吉の波波伎(ははき)神社(倉吉市福庭)の地で、晩年を過ごした。

    「米子(西伯耆)・山陰の古代史」http://www.yonago-kodaisi.com/index.html

    「ひのかわ」と「八岐大蛇」と「須佐之男命」を考える http://www.yonago-kodaisi.com/Fanta-ji-hinokawai-1.html

    倉吉博物館 https://www.city.kurayoshi.lg.jp/5694.htm

    羽合歴史民俗資料館 https://www.yurihama.jp/soshiki/20/1969.html
    弓張月 投稿日: 2025年02月24日 19:47 No.648
    常陸国における「肥の河」と「日野川」の使い分け

    誰も読めない常陸(ひたち)国でにすが、都道府県になって茨城県で「ひたち」がつく市町村は、日立市と常陸太田市です。
    日立市(ひたちし)と「日野川」は、どちらも日があります。日立市の纏には十六葉八重表菊である。常陸太田市と「肥の河」は、なかなか理解できないと思いますが、馬場八幡宮の紋は三つ巴で母子神かな、そして、佐竹氏の家紋「五本扇に月丸」なので、肥立ち(ひだち)。よって、常陸太田市の鳥は、翡翠(かわせみ)で、子育て政策も近隣よりも早かった。どこの街も歴史にはこだわっているようですね?
    弓張月 投稿日: 2025年02月24日 20:06 No.649
    書き忘れ

    神社では、

    日田神社(ひたじんじゃ) 大分県日田市城町2-4
    日田神社の歴史 日田神社(ひたじんじゃ)は、大分県日田市城町に鎮座する神社です。その歴史は古く、平安時代末期に創建されたと伝えられています。 日田郡司・大蔵氏と創建の伝説 日田神社の創建については諸説ありますが、最も有力な説は、平安時代末期
    ooita-jinja.com


    斐太神社(ひだじんじゃ)新潟県妙高市宮内
    https://ja.wikipedia.org/wiki/斐太神社

    の関係で、邪馬台国の畿内説と九州説の関係と同じでしょう。


    「陰謀論」にハマる人が後を絶たない根本原因 フェイク 荊の紀氏 投稿日: 2025年02月06日 19:28 No.638 【返信

    「陰謀論」にハマる人が後を絶たない根本原因 フェイク ...
    画像
    Q 陰謀論とは何でしょうか。ある事件や出来事について、通説とは別に、策謀や謀略によるものであると解釈する考え方だ。普通の人は決して触れることができない秘密のたくらみによって政治的、社会的決定がなされて…
    toyokeizai.net


    とある掲示板で投稿をしようとしても、禁止ワードが含まれると表示され投稿ができません。
    文字を変えたり、他の投稿者と似た文章にして禁止ワードに引っかからないようにしてみたのですが、禁止ワードが含まれると表示されます。
    これはアクセス禁止みたいなものを管理人にされているのでしょうか?

    日本語の起源 くまら掲示板 - 歴史掲示板(渡来人研究会)
    私も 無料の Rara 掲示板を利用して古代インド語検証の個人用掲示板を作りました、「日本語の起源 くまら掲示板」https://rara.jp/kumara/という名前です。「日本語の起源」の掲示板としてもご利用ください。とりあえず、徳之島弁の検証状況を報告してお...
    rara.jp


    偽書扱いのホツマツタヱ 弓張月 投稿日: 2025年01月27日 07:52 No.630 【返信

    何気なくYouTube 検索したら、

    【日本起源説】世界で発見された日本の痕跡7選 - あの地域に隠された驚きの真実がヤバすぎた【都市伝説 ミステリー】 なの映像に、あれ、神代文字がここまで肯定されてきてる?


    https://www.youtube.com/watch?v=ENQfHvnLJAU
    弓張月 投稿日: 2025年01月29日 15:02 No.631
    茨城県は、常陸国が「ひたちこく」の難読ですが、

    涸沼は、「かぬま」ではなく「ひぬま」

    また、産経新聞に【難読地名を行く-茨城編】として、

    画像
    北関東自動車道の茨城県茨城町西インターチェンジから県道を南に約10分進むと、道路脇に稲荷(いなり)神社が見えてくる。田畑に住宅が点在するこの一帯は、「先後」…
    www.sankei.com
     と不思議だらけ
    青面金剛 投稿日: 2025年01月31日 02:18 No.633
    >「ひぬま」

    ※ 秘める、比米、姫、媛、干上がる、日照り。

     神代文字とペトログラフは、アカデミズム側の利権を脅かす存在として、学校では教えられない、見ざる、聞かざる、言わざる状態。郷土史で軽く紹介される程度。

    彦島のペトログラフ
    https://hikoshima-guu.net/publics/index/17/
    ギリシャ語で、ペテロ:peteroは、岩を意味し、グラフ:graphは、文様や文字を意味する。古代人が岩石に刻んだ文字や文様の事で、「原初文字」と言われるものである。
    ペトログラフの研究は、今世界的に広がっていて、日本でもたくさん発見され、6,500年前には、文字を使う人々がこの列島にいた事が事実として受け入れられている。


    北海道のペトログリフ探訪 – 古代のメッセージが刻まれたフゴッペ洞窟と手宮洞窟
    https://sizen.me/wordpress128/#google_vignette

    安閑神社そばの古代線刻石板
    滋賀県は安曇川(あどがわ)町の「安閑神社」のそばに安置された古代の石板。中央に線刻されたペトログリフは何を意味しているのか。さまざまな形で分析すると、驚くべき真実が見えてきた。
    石板が示していたのは現代人が一般的に利用するQRコードだったのだ!!
    web-mu.jp


    NPO法人 守ろう・巨石文化と森と水
    https://kyoseki.org/


    弓張月 投稿日: 2025年01月31日 07:26 No.634
    安閑神社(あんかんじんじゃ)の「安閑」で、

    安を「あ」とする場合があり、また、閑の意味は
     
    1 用事がないとき。ひま。「閑暇・閑日月/寸閑・繁閑・有閑・農閑期」

    2 実用的でない。むだ。「閑事業・閑文字」

    3 のんびりと落ち着く。ひっそりと静か。「閑居・閑散・閑寂・閑静・閑談/安閑・森閑・清閑・悠悠閑閑」

    4 どうでもよい。いいかげん。「閑却/等閑」

    [名のり]しず・のり・もり・やす・より
    [難読]等閑 (なおざり) ・長閑 (のどか)  

    とのことで、閉の後の状態に続く感じですね?


    九州・河内王朝ライン 管理人 投稿日: 2025年01月24日 03:12 No.629 【返信

    青面さん、弓張月さん、情報ありがとうございます。
    比売語曽社、アカルヒメの伝承については、その起源がどこにあるのか?を考えていく必要があるでしょう。

    先日の河内王朝に関する方位ラインで、特に、女山神籠石⇔岡山(八女市)古墳状地形⇔祇園山古墳⇔蚊田宮⇔伊川・大日寺古墳状地形への東80度偏角のラインがあることをお知らせしましたが、その岡山(八女市)については、図のように、岡山(八女市)⇔住吉神社えの西75度偏角のラインがあり、このラインと住吉神社⇔伊川・大日寺古墳状地形⇔本住吉神社⇔鞆呂岐神社⇔鹿島神宮への東15度偏角のラインがとが直交していることもわかります。

    また岡山(八女市)⇔平塚川添遺跡への東60度偏角のラインもこれらが人工的な位置付けであったことを示しており、そして、その岡山(八女市)⇔鷹取山⇔比売語曽神社(姫島)⇔葦守八幡宮(応神宮)⇔伊和神社への東30度偏角のラインがあります。

    その岡山(八女市)の古墳状地形が、弥生時代の遺跡と、古墳時代中期の宮地や神社と関係づけうることがあり、その古墳状地形について、よく見ていくと、先日も掲載した図2のように、240m前後の前方後円墳状地形であり、その航空写真が図3となります。

    しっかりした周濠をもっており、120m前後で後円部と前方部が分離しているのようにもみえますので、1:1の纏向型前方後円墳、つまり箸墓と同サイズ、同規格であった可能性もあるでしょう。

    その岡山(八女市)古墳状地形と、鷹取山、その西の祇園山古墳の三点ですでに弥生時代末期には、重要拠点とみなされていて、その後、古墳時代を通して、河内王朝の諸社や宮地とも関連づけられていったことが予想されます。

    九州の方位ラインの特徴は、弥生時代から古墳時代にかけて、同一ラインや中心拠点を共有・継承し続ていることで、それは畿内や他の地域には見いだしにくい要素です。

    畿内などでは、それ以前の弥生時代の遺跡を無視するかのように、古墳時代の遺跡が造営されていくので、それらは九州等から進出した別の支配者たちの影響と考えうるでしょう。

    一方で九州にはその入れ替わりがない点が重要です。


    これを九州王朝と呼ぶべきかどうかはまだ何とも言えませんが、おそらくは九州から邪馬台国などが東方へと進出していった歴史があったろうことは予想できます。

    そして、渡来系の集団はまず九州に取り込まれて、そこから畿内へと移動していったように見受けられます。

    その途中で、葦守宮のように吉備に寄っていくのですが、それは吉備津彦伝承などにも現れていったことでしょう。

    岡山(八女市)の熊野宮ではスサノオが祀られているように、新羅系の渡来人の影響がありそうですが、またこのライン上にみえる姫島の比売語曽神社も、姫島という小さくかつ重要な測量拠点を、女性神のそれと見なす何らかの意味があったようにも見受けられます。

    スサノオとクシナダヒメの話のように、大神と少神の組み合わせとして、対比的なセット関係に関する信仰があったのかもしれません。アマノヒボコとアカルヒメの関係、ツヌガアラシトのそれも同じ構造です。

    このセット信仰の起源がどこにあるのかについては、もう少し考えてみたいと思います。


    青面金剛 投稿日: 2025年01月31日 01:45 No.632
    >一方で九州にはその入れ替わりがない点が重要です。
    >これを九州王朝と呼ぶべきかどうかはまだ何とも言えませんが、おそらくは九州から邪馬台国などが東方へと進出していった歴史があったろうことは予想できます。
    >そして、渡来系の集団はまず九州に取り込まれて、そこから畿内へと移動していったように見受けられます。

    ※ 九州王朝について言及するのならば、初代の卑弥呼=市来嶋姫の時代、筑紫の君磐井と継体天皇の時代、白村江と壬申の乱、の三つに分けて論じる必要が有ります。

     九州王朝論者の先生方の諸説を、最初から拒絶反応して読まずに、遠回しに茶化してるだけに見えます。その一方で、河内王朝の主体の定義付けも無く、安易に紹介を重ねるのは,ダブルスタンダートに感じます。方位ラインから丹波王朝の主体を説明するのは、無理が有る。

     方位ラインは、補助的な参考資料でしか無く、メインの論拠には、なり得ない。
     
    ※ 渡来系の集団の内、九州に到達した集団が、一番多かったと思われるが、黒潮の流れに乗り、四国、紀伊半島、三河、伊豆、房総半島に到達した集団も、相当数に上る思われます。


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