歴史掲示板(渡来人研究会)


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茨城県稲敷郡阿見町に二所ノ関部屋 弓張月 投稿日: 2024年04月27日 09:04:55 No.446 【返信】

昨日は、大相撲・水戸場所(地方巡業かな?)があったようで、

稀勢の里の部屋は、「二所ノ関部屋」だそうですね。
稀勢の里は力士になる前は牛久市と竜ケ崎市と縁があったのかな?でも、「阿見町」に相撲部屋を立てたのは、相撲(角力)を神事と歴史から考えると、「阿弥神社」が二ヶ所あるからかな? 二ヶ所とは、やっぱ双子・二子古墳でしょうね。
そして、伊勢志摩サミットでは、つくば市で「G7茨城・つくば科学技術大臣会合」が、広島サミットでは、水戸市で「G7茨城水戸内務・安全担当大臣会合」が行われた。歴史好きにとっては、まさしくガッテン そして、水戸黒の副将軍・水戸光圀公と。でも、黒=北=秦氏は筑波の三五桐紋で、水戸の元吉田古墳(蘇我氏)は、五七桐紋でしょうか? 政府は五七桐、法務省と検察庁が三五桐でしたっけ。
青面金剛 投稿日: 2024年04月27日 11:13:05 No.447
「蘇我氏の祖廟 蘇我氏神社」(徳島県名西郡石井町石井城ノ内993)は、庵木瓜(いおりもっこう)紋。https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137037

宗我坐宗我都比古神社(奈良県橿原市曽我町1191)と、
入鹿神社(奈良県橿原市小綱町335)の神紋は、シンプルな木瓜紋。

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社号 宗我坐宗我都比古神社 読み そがにますそがつひこ / そがにいますそがつひこ 通称 旧呼称 入鹿宮 等 鎮座地 奈良県橿原市曽我町 旧国郡 大和国高市郡曽我村 御祭神 曾我都比古神、曾我都比売神
jun-yu-roku.com


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蘇我入鹿公を御神体とする神社。入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神はスサノオノミコトと蘇我入鹿の両柱を合祀しています。現在の橿原市周辺は蘇我氏のゆかりの地であ...
yamatoji.nara-kankou.or.jp


 
 出雲大社の本殿北側に在る『素鵞社そがのやしろ』の神紋は、亀甲紋(出雲では龍燐紋と呼ぶ)の内側に、剣木瓜(つるぎもっこう)紋。


 高良大社(福岡県久留米市御井町1)の神紋は、「門光紋」(もんこうもん)なので、蘇我氏の木瓜紋も、其の流れを継承している、と伺わせます。

高良大社に開化天皇(玉垂命)の神紋を発見した
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12374421376.html


外宮・銅鐸ラインとユダヤ人 管理人 投稿日: 2024年04月25日 02:15:14 No.443 【返信】

先日、天孫降臨以前に渡来したとみられる天穂日・建夷鳥を祖とする土師氏、同じく味鍬高彦根を祖とする加茂氏の拠点を結ぶ方位ライン(プレ天孫降臨集団のライン)が、銅鐸出土地と関係することを指摘しましたが、その際に伊勢外宮がライン上に見えることもありました。

その伊勢外宮については、以前その外宮の遷宮拠点を結んだラインを作成したことがありましたが、再度そのラインを前述のプレ天孫降臨集団のラインとを接合して関係性を考察してみたのが今回のライン図となります。

まず、先日も指摘した吉野ヶ里遺跡を起点としたものとしては、吉野ヶ里遺跡⇔矢野銅鐸出土地⇔伊勢外宮⇔比奈多乃神社への東12度偏角のラインがあり、同じく吉野ヶ里遺跡⇔加茂神社(菊間)⇔桜ヶ丘銅鐸出土地⇔大神木神社(元伊勢外宮仮宮)⇔伝名古屋城銅鐸出土地への東20度偏角のラインがあります。

また加茂岩倉遺跡(銅鐸出土地)を起点としたものとしては、加茂岩倉遺跡⇔成務・日葉酢姫陵⇔春日大社⇔伊勢外宮への西15度偏角のラインがありますが、この成務陵の真南が橿原神宮で、橿原神宮は図のように伊勢外宮と34度29分05秒で同緯度東西ライン上に位置します。そのラインの延長線上に少しずれて池上曽根遺跡がある点にも留意しておくべきでしょう。

なお、元伊勢の籠神社から雄略朝に伊勢外宮へと遷宮される際に一時的に造営された仮宮の大神木神社があり、図のように、籠神社の奥宮とされる冠島(奈良初期に海底に沈んだ弥生遺跡・神殿がある)⇔大神木神社⇔河内大塚山古墳への西80度偏角のラインがあることは以前も指摘したとおり。

そして、このラインと先の伊勢外宮⇔橿原神宮ラインの延長線とが交差する廿山二丁目付近にも前方後円墳状地形が確認できます。

そのライン上にみえる河内大塚山古墳が本来の雄略陵であることが指摘されていますが、そのことはこの遷宮ラインが雄略朝の伝承をもつことからも明らかにしうるでしょう。

ここにみえる冠島が伊勢内宮の遷宮拠点を結ぶラインの起点ともなっていることも以前指摘したとおりですが、また図のように、池上曽根遺跡の真北に冠島が位置することがあり、また冠島⇔伊勢外宮⇔伊雑宮(元伊勢)への西50度偏角のラインも存在します。

さらに、冠島⇔芝山古墳群への35度40分38秒の同緯度東西ラインも確認できますが、その途中に後述する阿伎留神社(南部)や皇居(宮中三殿)が位置していることにも留意しておくべきでしょう。

この芝山古墳群にユダヤ人の風貌をした埴輪があることが近年、田中英道氏によって指摘されていますが、この芝山古墳を起点として、芝山古墳群⇔子ノ神古墳群⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインがあることも以前指摘したところで、このラインと直交するのが、綿貫観音山⇔比奈多乃神社への東60度偏角のラインとなります。

この比奈多乃神社に関しては、先日も指摘したように、比奈多乃神社⇔阿伎留神社⇔鷺宮神社への東45度偏角のラインがあり、これらの神社では、土師氏の祖の建夷鳥(タケヒナトリ)やその父の天穂日が祀られていることから、土師氏の同族によるライン拠点と考えたことがありました。

そしてその阿伎留神社(+伊勢神宮・出雲大社等)から、記紀に記された日文とみられ、仮名文字の起源とされる阿比留草文字が見つかっていること、その文字がアラム・古ヘブライ文字との相関性があることを先日もお話したところですが、前述のように、ユダヤ人風の埴輪が出土する芝山古墳と、これらの拠点が方位ライン面で接合していることはがあり、決して偶然ではないと考えるべきでしょう。

なお、図のように、伊勢外宮⇔豊川稲荷⇔阿伎留神社南部⇔氷川神社⇔虎塚古墳への東30度偏角のラインがあり、その豊川稲荷の稲荷社が秦氏と関連する稲荷神を祀っている点にも留意しておくべきでしょう。

その秦氏の稲荷神の拠点としては、伏見稲荷がありますが、図のように、伊勢外宮から西30度偏角のライン上にあり、豊川稲荷が伊勢外宮から東30度偏角のライン上にあるのと線対称となっている点からみても秦氏と外宮との関係性が理解できます。

その秦氏の祖の秦大津父の伝承にも、欽明天皇即位前記に伊勢へ商いに向かっていた話があり、彼らは伊勢と深いつながりがあったと考えるべきでしょう。

同じくライン上にみえる氷川神社については、出雲方面から移住した武蔵国造の祭祀拠点とみられており、スサノオやクシナダヒメ、大己貴を祀っていることからもその件は明らかです。

そしてこのライン上にみえる虎塚古墳については、壁画が描かれていることが知られていますが、その壁画に描かれた盃と供え物(餅?)が、山城国風土記の秦氏に関する「餅の的」伝承と関係を想起させるもので、当時中国に伝わっていたネストリウス派キリスト教(大秦景教)のミサ儀式で用いる聖杯(酒)と聖体(種なしパンの代わりに餅を用いた)を表していた可能性を考えます。

当時のネストリウス派キリスト教はユダヤ人が多く混ざっていましたから、仮に彼らが渡来しならば、当然ユダヤ人風の風貌をした人物やアラム・ヘブライ語・文字・儀式が伝わってくることもありうることであり、今回示したライン拠点に、それらの痕跡が見えてくることも、然るべき結果と考えるべきでしょう。

このように、伊勢外宮については、弥生時代前期に遡る銅鐸などを用いていた渡来系集団のカモ氏等によってまずは測量拠点として形作られた後、その後、土師氏や秦氏といった後続の渡来系集団によって、雄略朝ごろまでには、トヨウケ神の信仰拠点としても重要視され、儀式面でも整備されていったのではないでしょうか。

なお九州方面に目を向けると、弥生時代前期の吉野ヶ里遺跡については、図3のように、宮崎神宮⇔山田(西都市)古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(銅鐸鋳型出土地)⇔平原遺跡への西60度偏角のラインがあり、またその平原遺跡⇔川部・高森遺跡(宇佐)への東西同緯度(33度32分20秒)ラインと、このラインと直交する川部・高森古墳群⇔天岩戸神社東部⇔山田(西都市)古墳状地形への南北ライン(131度21分30秒)とで、直角三角形を構成していることがあり、この件は以前もお知らせしたとおりです。

この弥生時代の拠点では、天岩戸に関わるアマテラス信仰が存在して、それらが後に冠島(元伊勢籠神社の奥宮)へと東遷していく過程で、最終的に伊勢内宮のアマテラス祭儀が確立していき、先の外宮・トヨウケ関連儀式も融合されていったのではないでしょうか。

その他、ユダヤ文化と神社との関わりでいえば、秦河勝の伝承が残る大避神社の大避が中国語で言う「ダビデ」を記すとの説がありますが、この大避神社⇔籠神社への東50度偏角のラインと、伊勢外宮⇔籠神社への西40度偏角のラインとが直交しております。

その元伊勢の籠神社の奥宮に眞名井社があり、そこに籠目紋が記されていることから、ユダヤ人の六芒星との関わりがあるとされ、伊勢にも籠目紋があることが知られています。

またその眞名井のマナが、ユダヤ人の神宝のマナの壺と関連づける見方もありますが、これらも単なる偶然の一致ではなく、今回の方位ライン面からも明らかにしうるのであり、それらの件については、また後日さらに詳細に考察してみたいと思います。


青面金剛 投稿日: 2024年04月26日 02:59:36 No.444
 橿原神宮は、その設立自体が、幕末から明治初頭の、「国家神道」旗揚げ目的のテーマパークでしかなく、考古学的な価値は有りません。深田池の直ぐ北側の一等地に、長山稲荷社が建っていて、これが元々あった出雲系の社で、その更に北側に、無理やり建てた代物です。天孫系の神社には、こう言った落とし穴が、潜んでいるので、注意が必要です。

長山稲荷社
https://kashiharajingu.or.jp/point/8282.html

地元の郷土史家が指摘する神武天皇社は、御所市柏原に在ります。
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=34336

 実際の神武天皇は福岡県から、宇佐の南側にある「安心院(あじむ)」までしか東征して居なくて、御所市柏原の神武天皇社も、後に分祀されたものと考えられます。


 大和の正当な初代大王は、『天の叢雲』で、大和王朝の最後の皇士が『大彦』で、九州物部に攻められ、琵琶湖の兵主大社の地に移り、そこで銅鐸を広めました。

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大和で勢力を強める物部勢は、執拗に大彦軍を攻め続けた。 大彦は三島の地を離れ、琵琶湖東南岸に移住することを決意…
omouhana.com



 皇居(宮中三殿)は、江戸城跡に造られたもので、考古学的な価値は有りません。府中市の大國魂神社の様な、古社と関連付け無ければ意味無いです。

大國魂神社 https://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/


 田中英道氏らによって「ユダヤだ」と指摘されるだけでなく、その源流の流れを、ソグドの源流と重なるのか、まで解き明かさないと、その本質が見えて来ません。

>仮名文字の起源とされる阿比留草文字が見つかっていること、その文字がアラム・古ヘブライ文字との相関性

 仮名文字の起源とされる阿比留草文字と、アラム・古ヘブライ文字との相関性が、戦前からら唱えられていた、学研レベルの話で終わってしまうんでは、新味が有りません。

 縄文文化が世界最古の文明である事から、日本列島から、西に渡った末裔が、また戻って来た、『出戻り説』も念頭に置いて、考察を進めるべきかと思います。
管理人 投稿日: 2024年04月26日 08:06:15 No.445
皇居の宮中三殿の件は、後代の造作の産物であることはよく理解した上であえてライン上に載せています。つまり、この東西ラインを理解している人が明治時代にはいたということ。気づいてないのは現代の頭が悪い我々だけ。

また、橿原神宮の位置については、以前から、方位ライン面の分析から重要拠点だったことを指摘してます。おそらく下記の宮地でしょう。宮地に関する考古考証がどのようになされたかについては知りたいところですね。


畝傍橿原宮
うねびのかしはらのみや

記紀にみえる神武天皇の宮。宮名は白橿の原野であったことに由来するか。「古事記」では畝火之白檮原宮。「日本書紀」は畝傍山東南の橿原に宮を造営したと伝えることから,現在の奈良県橿原市久米町に比定される。橿原神宮は,神武天皇陵および宮跡の調査考証にもとづき,1889年(明治22)に宮比定地に創祀されたもの。


皆神山・水上と水口 弓張月 投稿日: 2024年04月24日 10:40:50 No.442 【返信】

ネットで、「世界情勢予測の第一人者であるイアン・ブレマー氏(ユーラシアグループ)は、イランとイスラエルの報復合戦については終戦と見ているとの見解を示した。もちろん中東の火薬庫がいつ爆発するかもしれないことは大前提だ。それゆえ本稿見出しには「水入り」と書いた。」とあるホームページで見た。

「水入り」とは、ヒフティー・ヒフティー(50・50ですか)
東海道五十三次の50番目の宿場は、水口です。
皆神山のある長野県は、物部守屋の伝承が多々あったんですね。
利根川の上流の水上町には藤原があります。そして、金精峠は栃木県日光市と群馬県利根郡片品村との境にあり、国道120号が栃木県日光市から群馬県沼田市に至り、水上町と沼田市の関係は上流・下流の位置にある。
また、金精峠には、男根を御神体とする金精神社が祀られている。

やっばり、沼田大蛇と八岐大蛇は別物で、第50代天皇は桓武天皇(桓≒かん・関)と水口から水入のヒフティー・ヒフティーかな?


第44代天皇と宍 弓張月 投稿日: 2024年04月23日 05:57:15 No.433 【返信】

今朝、TBSのTheTimeでのクイズで、干支から「12」を子=1,亥=12として、答えを稲としてました。

あれって思って、猪(いの宍)の「しし=44代」の天皇をウィキペディアで調べたら、

元正天皇(げんしょうてんのう、680年〈天武天皇9年〉- 748年5月22日〈天平20年4月21日〉)は、日本の第44代天皇(在位:715年10月3日〈霊亀元年9月2日〉- 724年3月3日〈養老8年2月4日〉)。

父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひだか)・日高、または新家(にいのみ)。和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)である。漢風諡号の「元正天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇である。と

歴史好きには、あら本当・笑っちゃいますよね?

https://ja.wikipedia.org/wiki/元正天皇
弓張月 投稿日: 2024年04月23日 06:21:12 No.434
TBSのTheTimeの天気予報でも

こちらでは、「あいの風」とは?について

コトバンクによると、
東風のこと。おもに、越(こし)地方(現在の福井県から新潟県に至る)で言った。あゆのかぜ。《季・夏》と

goo 辞書でも、日本海沿岸で、沖から吹く夏のそよ風。あい。あゆ。あえのかぜ。《季 夏》と

あゆのかぜの「あゆ」って?  
おも(阿)ねり従う。

「越(こし)地方」には安(阿?)宅関がありますね。調べれば調べるほど意味深いですね?
弓張月 投稿日: 2024年04月23日 21:52:38 No.438
元正天皇の諱は、氷高(ひだか)・日高、または新家(にいのみ)。 
まさに、意味深てす。

それと、福島県・茨城県を流れる久慈川の冬の風物詩「シガ」ですが、
学術的には晶氷、あるいは氷晶と表す。なお、氷花、あるいは氷華と表記する例も見られるが、これらは漢字の当て字である。とウィキペディアより
秦氏の研究(大和 岩雄)の本には、「ひ」が「し」変わっているる事がかかれているが、
そうなると、日高見国(ひだ神国)は、しだ神国となりますかね。
そして、「シガ」ですが、やっぱり鹿・四家(香取神宮は、≒家取神宮)を連想してしまいます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/シガ
弓張月 投稿日: 2024年04月24日 07:03:04 No.440
前回投稿の「そして、「シガ」ですが、やっぱり鹿・四家(香取神宮は、≒家取神宮)を連想してしまいます。」ですが、

「四家」の読みを「四や」とするとて四弥ですので、藤原四家と平家の神:市杵島姫命の「市(し=四)」を連想しますね。

 であるとすると、総本家の墓にある謎の墓石「家田氏先祖代(文化二年?)」で、文化は、ふみ・あや=23=清寧天皇,阿弥神社の化けになって、よって、下弦の月は二十三夜月で、私の家の氏神様の祭りが旧暦9月24日、常陸太田市の国見山があるのは上・下大門町と瑞竜町と常福地(南方三十三館の「釜田(烟田)」が滅びた所)、浄土宗常陸国総社の常福寺の二十六夜尊(旧暦9月26日・27日に行われる通称「六夜さん」は地元で有名)なのかな?

https://ja.wikipedia.org/wiki/南方三十三館
弓張月 投稿日: 2024年04月24日 07:45:17 No.441
「秦氏の研究(大和 岩雄)の本には、「ひ」が「し」変わっている」ならは、

「ヒヒ」は、宍(しし」となりますね。ヒヒ退治の伝承があちらこちらにあるのもガッテ  ンですね。


仮名文字の起源とカモ・土師氏と銅鐸集団 管理人 投稿日: 2024年04月19日 00:52:46 No.430 【返信】

以前、仮名文字の起源とも言われる日文(特に阿比留草文字)とアラム・ヘブライ文字との比較をしたことがありますが、今回はその日文(阿比留草文字)をもたらした集団の特定について考察してみたいと思います。

まず、図1の比較表の説明ですが、ここでは日文を記した文字欄の左が平・カタ仮名、右上がヘブライ語音、左下がヘブライ文字となります。

特に、Lamedと「ア」「め」「レ」、Hey と「い」「ほ」、Vavと「う」、Gimelと「え」、Yodと「お」、Kaphと「コ」、Samekと「サ」「ま」「も」、Shinと「シ」、Kuphと「ク」「フ」、Bethと「ス」、Tavと「タ」、Tedと「チ」、Tsadiと「ツ」「ト」、Nunと「ヌ」「ノ」「ん」、Memと「ね」、Hetと「は」、Peと「ヘ」、Ayinと「や」、Yodと「ユ」、Alphaと「ら」「ろ」とで有意な対応がみられます。

このように、平仮名の起源とされる日文の起源は、漢字ではなく、アラム系の文字、特に古ヘブライ文字との相関性があることが判ってくるのですが、このことは以前からの仮名文字とヘブライ文字が類似するとの指摘を裏付ける結果と言えそうです。そして、その類似した原因について考えていく必要があります。

その阿比留草文字が見つかった阿伎留神社について調べていくと、大物主神 、味耜高彦根神 (あじすきたかひこね)、建夷鳥神(たけひなとり)、天児屋根命(中臣氏の祖)が祀られていることがあります。

その味耜高彦根神は修験道に関わるカモ(加茂)氏の祖であり、また建夷鳥神 はその父・天穂日神ととに土師氏の祖とされ、古墳の埴輪を造ったとされる土師氏からは、のちの大江・菅原氏等が輩出されています。

方位ラインで見ると図2のように、建夷鳥およびその父・天穂日、および味耜高彦根を祀る諸社を結ぶライン上に位置していたことが判らかになります。

特に銅鐸出土地である加茂岩倉遺跡や、桜ヶ丘、三日月町釣、野洲町大岩山といった銅鐸出土地がライン上にあり、その測量の起点は同じく銅鐸出土地である吉野ヶ里遺跡にあります。

具体的には、まず、鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔比奈多神社への東45度偏角のラインがあります。

その鷺宮神社と比奈多乃神社では、阿伎留神社と同様に建夷鳥神が祀られており、建夷鳥神を祀る同族集団によって造られた拠点と考えて相違ないでしょう。

また阿伎留神社では、同じく味耜高彦根神(迦毛大御神)を祀りますが、その味耜高彦根神を祀るのが、比奈多乃神社⇔高鴨神社⇔加茂神社(菊間)への東10度偏角のライン上に見える高鴨神社で、加茂(カモ)氏の拠点と関わってきます。

そして、その比奈多乃神社を起点とする他のラインをみていくと、図のように比奈多乃神社⇔三日月町釣(銅鐸出土地)⇔馬見岡綿向神社⇔野洲銅鐸出土地⇔大江神社への西11度偏角のラインがあり、また比奈多乃神社⇔伊勢外宮⇔矢野銅鐸出土地⇔吉野ヶ里遺跡への東12度偏角のラインも確認できます。

さらに図のように、吉野ヶ里遺跡⇔加茂神社(菊間)⇔桜ヶ丘銅鐸出土地南部⇔芦屋神社⇔馬見岡綿向神社⇔伝名古屋城壕銅鐸出土地への東20度偏角のラインが見えてきます。

ここで、銅鐸出土地が多く見えてくるのですが、またそれらのライン上に見える馬見岡綿向神社では、天穂日命と天夷鳥命(天穂日の子)、武三熊大人命(天穂日の子)を祀っており、概して土師氏の拠点と言えるでしょう。先のライン上にみえた大江神社も同じく土師氏系の大江氏の拠点でしょう。

その天穂日に関する拠点としては、鳥取の天穂日命神社があり、ここに関わるラインとしては図のように、まず加茂岩倉遺跡(銅鐸出土地)⇔能義神社⇔天穂日命神社⇔鷺宮神社への東8度偏角のラインがあります。

同じく天穂日命神社⇔桜ヶ丘銅鐸出土地⇔高鴨神社への西40度偏角のライン、天穂日命神社⇔山阪神社⇔元宮土師社への西35度偏角のラインとがあり、その能義神社、山阪神社では天穂日命が祀られて、元宮土師社でも建夷鳥神が祀られているので、概して土師氏のラインと言えそうですが、そこに加茂岩倉(遺跡)、高鴨神社にみえるカモ氏との関わりが見えてくる点に留意しておくべきでしょう。

その加茂岩倉遺跡の真南に加茂神社(菊間)が見えることがあり、その他、図3のように、高鴨神社⇔元宮土師社東部⇔阿遅遅速雄神社への西68度偏角のラインも、カモ氏関連のラインと言えるでしょう。

このように、カモ氏と土師氏の拠点、そして銅鐸出土地がライン上で接合してくることについて考えてみる必要がありそうです。

そのカモ氏の祖・味耜高彦根神と、土師氏の祖・天穂日神(父)と建夷鳥神(子)はともに、天孫(天皇家の祖)降臨以前に高天原から派遣されており、後に出雲の大国主に天穂日神が仕えるように命じられたことから、出雲国造等の祖となっていますから、天孫降臨以前に渡来した集団として、なんらかの接点を有していた可能性がありますが、その時代が弥生時代前半にはじまる銅鐸の時代だったのかもしれません。

その銅鐸は弥生時代前半の紀元前3世紀頃から見られはじめて、古墳時代には消滅しますが、それは銅矛・銅剣を埋葬した集団、また銅鏡を埋葬する天皇家の祖先となった集団に滅ぼされたことが指摘されます。

出雲勢力は天孫降臨以前の土着勢力とみなされますが、また彼らが日文(仮名文字)をもたらしたことは、先の阿比留草文字が、出雲大社や伊勢神宮の他、味耜高彦根を祖とする三輪氏が祀る大神神社、建比良鳥の子孫の上総国造が祀る鹿島神宮や武蔵国造の鶴岡八幡にみえることからも伺え、それらを調べた平田篤胤が、「肥人(クマヒト・九州?)の字」とこの文字を述べていることも、上記ラインの起点の吉野ヶ里遺跡等と関わるかもしれません。

なお関連して、出雲の野見宿禰(土師氏の祖)と葛城の当麻蹶速との相撲の話がありますが、前者が勝ち、後者の葛城の拠点を手にした話も、葛城カモ氏の展開と関係しそうです。そして、その相撲を旧約聖書のヤコブと神との格闘に起源を求める説もあります。

そのカモ氏の祖・味耜高彦根については、全国を廻り高屋を建てていったことが書紀に記されていますが、その高屋とは測量に用いる櫓であり、カモ氏が後代修験道者を輩出していったことも、その山岳地帯から行う測量技術の継承によるものではなかったかと感じます。

同様に土師氏の祖の天穂日神・建夷鳥神およびその子孫の野見宿禰については、垂仁朝に野見宿禰が殉葬をやめさせるために古墳の埴輪を造った伝承に見られるように、邪馬台国卑弥呼の記録にみえるような多数の殉死者を埋葬していた時代から、それ以後の埴輪主体の埋葬方式をとる古墳に変化したある時期に関係していた古墳造営技術者の集団と考えるべきかもしれません。

このカモ氏にみられる測量技術集団と、土師氏のような古墳造営技術者集団とがセットで動くことにより、以前から論じてきたような古墳(状のマウンド地形)や都市、寺社を結ぶ方位ラインが全国各地に展開していったのではないでしょうか。

その彼らが当初用いであろう銅鐸については、中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の「越」の貴族墓(前470年頃)から、弥生時代の銅鐸に似た磁器鐸が出土しており、その(百)越はスキタイ民族の南下と関係し、そのスキタイ民族の中に前720年に離散した北イスラエルが遺民がいた可能性については、以前こちらで論じたとおりです。

その経緯については、言語面からいくと、高句麗祖語の数詞が日本の数詞と類似すること、その数詞が同時にヘブライ語の数詞とも類似することが知られていることがあり、同様に、今回とりあげた日本語の音を記した仮名文字とアラム・ヘブライ文字とが類似すること、その祖語や仮名文字の成立年代が弥生時代と思われることは、偶然の一致ではなく、必然的な理由があるだろうと思います。

その日本語の起源に関する言語的な考察については、以前、契丹古伝(朝鮮南部の古文書や邪馬台国を思わせる『耶馬駘記』を元にしている)に記された誓約の文書とアマテラス・スサノオ神話の誓約のそれとが儀式面・発音面でも類似することがあり、その王統の日孫を「戞勃(カモ)」とする語がみえることから、カモ氏との関わりを予想したことがありますが、その件については、また改めて後日考察しなおしてみたいと思います。


青面金剛 投稿日: 2024年04月23日 06:34:08 No.435
>その阿比留草文字が見つかった阿伎留神社について調べていくと、大物主神 、味耜高彦根神 (あじすきたかひこね)、建夷鳥神(たけひなとり)、天児屋根命(中臣氏の祖)が祀られていることがあります。                                                                                                                                                                                                                                                                                                        ☆                                                   ☆ 「仮名文字とヘブライ文字が類似した原因について考えていく」のに、たった1社の神社の祭神を基に、展開するには無理が有るし、更に、それから方位ラインを引いても、論証の根拠と成り得ません。 ☆                                                   ☆ 大物主神 は、東出雲王家・富家の8代少名彦の八重波津身・事代主、味鋤高彦根神は『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」と記されますが、彼は西出雲王家・郷戸家(ごうどけ)の8代大名持・八千矛(大国主)と宗像の三姉妹・多岐津姫との間に生まれた皇子で、9代目少名彦を務めたと考えられます。
記紀は余計な「根」の字を加えていますが、正式名称は「味鍬高彦」(あじすきたかひこ)となります。 https://omouhana.com/2022/02/10/土佐神社/                 ☆                                                   ☆ 建夷鳥は、その父・天穂日の指示で、8代大名持・八千矛(大国主)と、8代少名彦の八重波津身・事代主を、拉致し、枯れ死させた側で、 並べて論じる価値も有りません。                                     ☆                                                   >『その王統の日孫を「戞勃(カモ)」とする語がみえることから、カモ氏との関わりを予想した 』         ※                                                   ※ 「味鍬高彦」とカモ氏との関わりを論じたいのであれば、その内容にだけ限定して、一気に書き上げないと。                                                  。                                                   >カモ氏と土師氏の拠点、そして銅鐸出土地がライン上で接合してくる。                                                   。                                                  。カモ氏と土師氏とは、全くの別系統で、銅鐸出土地については、カモ氏の側で論じないと意味無いです。数ある神社と遺跡古墳を、ライン上で偏角の接合を示したところで、論拠には成り得ません。                                                  。(再稼働を掛けたのに、改行キーが使えない。)
青面金剛 投稿日: 2024年04月23日 07:14:30 No.437
>その阿比留草文字が見つかった阿伎留神社について調べていくと、大物主神 、味耜高彦根神 (あじすきたかひこね)、建夷鳥神(たけひなとり)、天児屋根命(中臣氏の祖)が祀られていることがあります。  
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        ☆ 「仮名文字とヘブライ文字が類似した原因について考えていく」のに、たった1社の神社の祭神を基に、展開するには無理が有るし、更に、それから方位ラインを引いても、論証の根拠と成り得ません。

                                                          
☆ 大物主神 は、東出雲王家・富家の8代少名彦の八重波津身・事代主、味鋤高彦根神は『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」と記されますが、彼は西出雲王家・郷戸家(ごうどけ)の8代大名持・八千矛(大国主)と宗像の三姉妹・多岐津姫との間に生まれた皇子で、9代目少名彦を務めたと考えられます。

 記紀は余計な「根」の字を加えていますが、正式名称は「味鍬高彦」(あじすきたかひこ)となります。https://omouhana.com/2022/02/10/土佐神社/  

                                                              
☆ 建夷鳥は、その父・天穂日の指示で、8代大名持・八千矛(大国主)と、8代少名彦の八重波津身・事代主を、拉致し、枯れ死させた側で、並べて論じる価値も有りません。

                                                                                      >『その王統の日孫を「戞勃(カモ)」とする語がみえることから、カモ氏との関わりを予想した 』   
                                                          
※ 「味鍬高彦」とカモ氏との関わりを論じたいのであれば、その内容にだけ限定して、一気に書き上げないと。

                                                                                                     >カモ氏と土師氏の拠点、そして銅鐸出土地がライン上で接合してくる
                                                                                                     ☆ カモ氏と土師氏とは、全くの別系統で、銅鐸出土地については、カモ氏の側で論じないと意味無いです。数多くある神社と遺跡古墳を、ライン上で偏角の接合を示したところで、論拠には成り得ません。                                                  
管理人 投稿日: 2024年04月23日 22:20:48 No.439
青面さん、ご無沙汰してます。ご意見ありがとうございます。

おっしゃりたいことはわかりますし、私も当初はカモ氏や土師氏が、銅鐸と関わるとは予想だにしてませんから、今回の結果には驚いているんです。

ただ、ライン的には極めて高い精度で、銅鐸出土地とカモ・土師氏の拠点とが接合していますから、関連性が高いことは間違いないでしょう。

カモ・土師氏の祖先は、ともあれ、弥生時代後半の皇族の祖・天孫降臨の前段階に渡来した集団とのことで、大國主など天孫以前の原住民の信仰とみなされた地祇に属する集団として、カモ氏をあげて、そこからカモ氏と銅鐸とのつながりを論じる説はあるようですので、参考にしてみてください。


奈良・薬師寺は二ヶ所にある 弓張月 投稿日: 2024年04月21日 15:23:38 No.431 【返信】

茨城県潮来市日の出にある奈良薬師寺・東関東別院の潮音寺で、今年仏足石が設置された。約1300年前の薬師寺創建当初より現存する「東塔」の基礎石を仏足石に加工したもの。
仏足石とは、仏像がない時代に人々が釈迦の足跡を描き、そこに釈迦が立っていると連想しながら手を合わせたものと。

ウィキペディアに、「奈良・薬師寺は、本薬師寺(もとやくしじ)と薬師寺があり、本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった]。本薬師寺は元薬師寺とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。」と
https://ja.wikipedia.org/wiki/本薬師寺

仏足石の「足」と鹿嶋市は中臣鎌足の発祥地?の「足=たらし」から、

天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第5代孝昭天皇皇子で、第6代孝安天皇の同母兄、第7代孝霊天皇の外祖父である。和珥氏(和邇氏/丸邇氏)・春日氏・小野氏ら諸氏族の祖とされる。が気にかかるんですかね?
https://ja.wikipedia.org/wiki/天足彦国押人命

そして、梶山古墳をウィキペディアで調べると「被葬者については不明であるが、675年(天武4年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王)であるとの説が有力である。」と書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/梶山古墳

麻績王(麻続王)について調べると、
7世紀末の皇族。麻続王、麻積王とも称される。

出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島の伊豆大島に流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)に流罪されたとある]。さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある]。と
「常陸国行方郡板来村西の榎木林」とはいいですね。柊(ひいらく→ひらく)と榎ですよね。よく考えてますね。時代的にも
https://ja.wikipedia.org/wiki/麻績王
弓張月 投稿日: 2024年04月21日 15:32:39 No.432
ウィキペディアに、「日本における仏足石」として、

日本には奈良時代に唐を経て伝わった。

特に奈良の薬師寺所蔵の仏足石(国宝)が有名で、これは753年(天平勝宝5年)、天武天皇の孫である智努王によってつくられたことを示す銘が刻まれた、日本最古の仏足石である。

また、検索で、智努女王(ちぬじょおう)を開くと、
智努女王(ちぬじょおう)は、

奈良時代の皇族、万葉集に円方女王がその死を悼む歌を詠んでいることから、
1.長屋王の娘(円方女王の姉)、または妻妾(円方女王の母)と考えられている。
2.奈良時代の皇族、長親王の王女。智努王(文室浄三)らの姉妹。茅沼女王。と


新治郡2ヶ所の佐志能神社 弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:18:02 No.427 【返信】

まずは、常陸国新治郡の佐志能神社

https://genbu.net/data/hitati/sasino2_title.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐志能神社_(笠間市)

次に、茨城県新治郡の佐志能神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐志能神社_(石岡市染谷)

源頼朝は、藤川の合戦で平家を破り、石岡にきたんでしたよね?
弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:19:08 No.428
藤川は、富士川の間違いです。
弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:43:45 No.429
てなわけで、

常陸太田市小島町の古墳は、「星神古墳」と「諏訪古墳」と二つの呼び名が、
また、常陸太田市馬場町の馬場八幡宮にある古墳は、「亀の子古墳」とたぶん「藤古墳」の呼び名があるのかな?


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