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『邪馬台国は沈んだ』大羽弘道 著 青面金剛 投稿日: 2024年09月08日 05:57:17 No.562 【返信】

『邪馬台国は沈んだ : つきとめられた幻の国 』大羽弘道 著,光文社,昭和50。

☆ 大分県姫島の西側に、邪馬台国の祭祀を行っていた『知詞(ちか)島』が在った。

☆ 邪馬台国の行政府は、福岡県行橋市天生田(あもうだ)に在った。


◎ 粟嶋公園・粟嶋社(大分県豊後高田市臼野)
画像
大分県豊後高田市の公式ホームページ。暮らしの情報や市外・県外の方への情報をはじめ、子育て・教育、健康・福祉、観光・イベントなどをお届けしております。
www.city.bungotakada.oita.jp


※ 粟嶋公園の岬は北西方向に伸びているが、粟嶋社は真北に向かって建てられている。
この延長線上に、深度20メートル弱の浅瀬の地が在る。ここに、邪馬台国の祭祀を行っていた『知詞(ちか)島』が在った。
 島には橘が実り、「橘嶋」とも呼ばれた。678年12月の大地震で海底に没する。


◎ 天生田清地(あもうだ・すがち)神社(福岡県行橋市天生田)
https://jinmyocho.jpn.org/jinja/02_fukuoka_kitakyusyu/0293/0293.html

宇沙と宇佐(矛・盾 の e-Note)
https://hokototate.blogspot.com/search?q=天生田

◎ 御所ヶ谷神籠石(行橋市歴史資料館)
https://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/site/bunkazai/1600.html


京都郡の条里 
https://adeac.jp/yukuhashi-city/texthtml/d100010/mp000000-000010/ht1025107020

豊前の条里と国府 一古代政治勢力の所在をめぐって一  平野 邦雄
file:///C:/Users/kensh/Downloads/human6_p1_16.pdf


みやこ町 歴史民俗博物館 https://www.town.miyako.lg.jp/rekisiminnzoku/kankou/spot/hakubutukan.html

苅田町歴史資料館
https://www.town.kanda.lg.jp/page/1883.html


青面金剛 投稿日: 2024年11月21日 18:32:33 No.577
 12月10日発売予定の学研『ムー』2025年1月号で、『邪馬台国は沈んだ』説が紹介される模様です。
青面金剛 投稿日: 2024年12月09日 11:27:42 No.601
ムー 2025年1月号、12月9日発売!

特別企画 幻の邪馬台国は沈没した!!

古代日本を襲った天変地異と消えた島の謎!! 中国の史書に明記されるも、その場所と実像がいまだに謎に包まれている邪馬台国と卑弥呼!! だが、もし、その所在地そのものが消滅してしまっていたとすれば!? 日本古代史上、永遠の謎の最終解答が、ついに登場!!


魏年号銘鏡・箸墓ライン 管理人 投稿日: 2024年12月07日 02:20:15 No.593 【返信】

先日、箸墓の真北に中平刀を出土した東大寺古墳の東側にある古墳状地形があり、その位置が魏年号銘鏡を出土した古墳とライン面で接合していることを明らかにしたことがありました。

その際に特に枚方の山田池が年号銘鏡出土地との接合で主要な役割を果たしていることがあり、具体的には、豊日神社⇔東大寺山古墳(古墳状地形)⇔山田池⇔太田南古墳群への西60度偏角のラインがました。

そしてその山田池について、さらに2本のラインの存在が見えてきたので、今回お知らせしたいと思います。具体的には図1,2のとおりです。

一つ目のライン、倉橋溜池⇔桜井茶臼山古墳⇔箸墓古墳⇔郡山城(古墳状地形)⇔蛙股池⇔大渕池⇔山田池⇔槙山へ至る西65度偏角のラインがあります。

二つ目は、天理市山田町(古墳状地形)⇔五領池⇔荒神塚池(精華町山田)⇔山田池⇔安満宮山古墳⇔広峯15号墳⇔森尾古墳への西45度偏角のラインとなります。

ここで安満宮山古墳、広峯15号墳、森尾古墳からは魏年号銘鏡が出土していることは先日もお話したとおりですが、これら二つのライン上には、溜池が多くみえることがあり、それらは図3に掲載しています。

これらの溜池ために注目していくと、まず高山溜池⇔六甲比命神社の東西ラインがあり、その六甲比命神社⇔郡山城⇔天理市山田町古墳状地形⇔伊勢内宮への西15度偏角のラインも確認できます。

六甲比命神社については、天照大神の荒魂の瀬織津姫を祀る古社として、先日も取り上げたところです。

また、上記ラインの山田町古墳状地形を起点として、東60度偏角で桜井茶臼山古墳⇔山田町古墳状地形へのラインがあり、同じく東45度偏角で、箸墓古墳⇔山田町古墳状地形へのライン、さらに東大寺山古墳(古墳状地形)⇔山田町古墳状地形の東西ライン、大渕池⇔山田町古墳状地形への西30度偏角のラインと、先の森尾古墳⇔山田町古墳状地形への西45度偏角のライン、東大寺山古墳(古墳状地形)⇔郡山城への西30度偏角のラインとあわせて、15度・30度偏角の倍数で測量していたことも明らかにできるでしょう。

その天理市山田町の古墳状地形が測量の起点として先にあり、そこから、箸墓や桜井茶臼山古墳、郡山城(古墳状地形)等が造営させていったことも伺えますが、その山田町の古墳状地形を見てみると、図3のように、箸墓と同様な300m前後の前方後円墳状の地形を確認することができます。

ただ、正確には、楕円形の後円部と、左右不均等な撥型の前方部を持つ、プレ前方後円墳とでも言うべきもので、九州の白岩遺跡に見えるような弥生時代末期の高地性集落の形状と近似するものです。

これらの高地性集落では狼煙台が確認されており、今回の3つのラインも烽火による通信の拠点として弥生時代末期に造営されていったことがまず考えうるでしょう。

その烽火と鏡を組み合わせることで夜間でもより遠方へ正確なモールス信号を送ることができたことも以前お話したとおりですが、その終着地にこれらの情報を集約する本拠地、つまり王都があると考えるのが妥当で、その意味では郡山城や、枚方市の山田池周辺も重要拠点であったことが予想されます。

その郡山城については郡山城⇔安満宮山古墳への西60度偏角のラインもあり、また郡山城の西北にある登美神社は、物部氏の祖ニギハヤヒの妻・トビに関わることから、物部氏の畿内進出に関しての重要拠点として郡山城に前方後円墳を構築したことも考慮しておくべきかもしれません。

そのニギハヤヒ・妻のトビ(トミ)≒天忍穂耳・妻の豊(トヨ)秋津姫(栲幡千千姫)≒女王・台与(トヨ)との見方ができれるならば、女王・台与の一大拠点としての郡山城(古墳状地形)が存在していたのかもしれません。

なお、先のとおり、六甲比命神社⇔郡山城⇔天理市山田町古墳状地形⇔伊勢内宮ラインがありますから、天照大神の荒魂を祀る六甲比命神社と、同じく天照大神(荒魂)を祀る伊勢内宮との間に相関性が見えてきますから、その郡山城や山田町の古墳状地形周辺にもその天照信仰の名残があってもおかしくはなく、そこにニギハヤヒの妻トビとがどう関わっていたのかも気になるところです。

上記のライン上に、山田(ヤマダ)の名が多く見えてくることも、やはりヤマダ≒ヤマタイとの関連で、邪馬台国の監視拠点が支配地域がそれらの拠点にあったことも予想できます。

溜池の構造については図3の大渕池や蛙股池のように、特に半開きに周濠が造られたような形跡があり、通常の溜池ではないことがわかりますが、これは周壕の土を中心部も盛り上げてマウンドを造ろうとした意図によるものでしょう。

このマウンドの上に烽火などを上げることで目立つようにしていたことも考えうるでしょうし、冬季の灌漑事業として弥生人の水田耕作上でも必要な作業を提供していたのかもしれません。

これらのライン上に古墳が造営されていった時代は、魏年号銘鏡を賜与されてから、古墳に埋納されるまでの十年~数十年以内と考えるのが妥当で、女王台与が治めていた260年~ではないでしょうか。

ただその先代の女王・卑弥呼がどこにいたのかについては、なお東遷後の畿内だったのか、あるいは四国・九州方面だったのか、なお検討の余地がありそうです。


青面金剛 投稿日: 2024年12月07日 15:18:26 No.594
>その山田町の古墳状地形を見てみると、図3のように、

※ 精華町山田の古墳状地形の図は有るけど、天理市山田町(古墳状地形)の図は無い。
管理人 投稿日: 2024年12月07日 23:59:02 No.596
✕精華町山田古墳状地形→〇天理市山田古墳状地形のミスですね。訂正した図3をアップしなおします。

青面金剛 投稿日: 2024年12月08日 01:39:54 No.597
私は見付けたけど、山田簡易郵便局の西側で、県道47号・天理加茂木津線の南側、と丁寧に書かないと、読まれなく成ります。Google Map では見付けづらい。

 その真南の延長線上に、元伊勢・阿紀神社( 奈良県宇陀市大宇陀迫間252)。

また、県道47号・天理加茂木津線を北北西に進むと、太安萬侶の墓( 奈良県奈良市此瀬町451)へ出る。

太安萬侶墓 【おおのやすまろぼ】https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c12/


 さらに、県道47号・天理加茂木津線を挟んだ向かい側に、天津大神神社が鎮座する。
『天津大神』とは何者なのか?

 この辺りは、古代に都祁(つげ)国と呼ばれて、闘鶏、柘植とも書く。


管理人 投稿日: 2024年12月09日 01:09:29 No.598
確かに、そばにある天津大神については気になりましたが新興宗教?らしいです
https://ameblo.jp/henainara/entry-12367693689.html

元伊勢の阿紀神社は南北軸としてはややズレすぎているので、関係性を見出すのは難しいです。

ただ、Googleマップの測定機能をつかって、六甲比命神社⇔郡山城⇔天理市山田町古墳状地形⇔伊勢内宮を結んでもらえばわかりますが、そこそこいい精度です。途中に石切神社南部も通過しますから、そこも絡んできそうです。
青面金剛 投稿日: 2024年12月09日 11:17:46 No.600
 新興宗教であれば、何らかの宣伝が検索に引っ掛かる筈。拝殿前は案内掲示が一つも無く、今は利用されて無いのか。

 Google マップでは参道が見えないが、Yahoo マップだと細い石段が見える。石段の正面には日露戦争の記念碑が立ち、少し右寄りの脇道から石段に入る。まるで、隠し神社の雰囲気。

東隣の八幡神社(天理市山田町1183)の社頭案内板によると、
https://ameblo.jp/keith4862/entry-12684955835.html

 『 神々ハ山田町ノ中央宮山デ(以下略)」とあります。その他創建由緒等にまつわる情報は無し。「山田町」内には他に春日神社(後ほど記事UPします)、八阪神社の他2社が鎮座、当社が村の鎮守社であったのかどうかまで分かりかねます。

 天津大神神社の写真は2011年4月。完成直後の写真なのか。

 飛鳥京の敷地が『シリウスの聖方位』(神殿方位が真北から20度西へ傾いている方位 )で有る事に合わせて、天理市山田町古墳状地形から、『シリウスの聖方位』を引くと、何処何処と繋がるだろうか?

 香取神宮⇔山中湖(長池)⇔小室浅間神社⇔東大寺山古墳南部⇔池上曽根遺跡⇔八堂山遺跡⇔川原神社⇔女山神籠石への東20度偏角のライン。

 東20度偏角で、天岩戸神社⇔伊勢内宮⇔瀧川神社へのライン

 基イ城⇔鎌田原遺跡(古墳状地形)⇔瀬成神社への東20度偏角のライン

 西寒田神社⇔伊勢外宮⇔伊豆山神社への東20度偏角のライン

 ⑧牽牛子塚古墳⇔欽明陵⇔酒船石への東20度偏角のライン


『 弥勒信仰というのは、仏教ではないのだ。元をたどれば、古代ペルシャのミトラ教らしい。そのミトラというのは mitra、mithra、maitreya(マイトレーヤ=弥勒) のこと。ミトラ=弥勒信仰は、景教に分類されるのかもしれない。そこはもっと何か、資料を調査してみなければ文座衛門にはわからないが、景教とは唐代の中国で認識されていた、キリスト教のネストリウス派。一説では、ミトラとはキリストのことである。(中略)

 その方位の空には、冬至(古代においては12月25日が冬至であった時期もある)の深夜に、シリウスが見えるという。』

文座衛門書店のブログ シリウス信仰と飛鳥京
https://ameblo.jp/kinokuniya-bunzaemon/entry-11714199441.html


魏年号銘鏡ラインと東大寺山古墳 管理人 投稿日: 2024年12月05日 17:07:55 No.590 【返信】

先日の関西の遺跡探索報告で、中平刀を出土した東大寺山古墳周辺にあり、箸墓の真北にあたる位置に存在する古墳状地形についてお知らせしましたが、その位置について調べてなおしてみた結果が図1,2,3となります。

全体的には特に魏年号銘を記した古墳との位置関係が強くみえてくるのですが、具体的には、まず豊日神社⇔東大寺山古墳(古墳状地形)⇔山田池⇔太田南古墳群への西60度偏角のラインがあります。

その豊日神社については、先日の遺跡探索でも見てきたのですが、石上神宮の東北にあり、 平凡社「日本歴史地名大系」によると、祭神は菅原道真・大山祇命、「三代実録」貞観五年(八六三)一〇月六日条に「大和国正六位上豊日神授従五位下」とある豊日神とされる(「大和志」「神社覈録」「大和志料」など)。「山辺郡誌」には「古老ノ伝ニ云ク、又天神ト称シ、或ハ火雷天神ト称シ、社ヲ天満宮トモ云フ、而シテ社地ノ夕日朝日共ニ良キ処ナルヲ以テ、神社ヲ豊日ト申シ、天神ヲ祭ルガ故ニ地名ヲ天満口ト云フ、其村ヲ豊日村ト唱ヘシモ何時ノ頃ヨリカ豊日ヲ豊井ト誤リシナラント」とあり、これによると、当初は火雷神を祀っていたが、火雷天神と称して菅原道真が祭神となったと思われる。一に豊日は豊火で、「高橋氏文」に豊日連が忌火を鑽って御食をつかさどったことがみえるので、本拠地にその祖神である火雷神を祀ったものとする説もあるとのことです。

豊日、もしくは豊火だったようですが、そばに池があり、井戸との関連で豊井村などの字名も残っていったのではないでしょうか。

近くの布留遺跡、物部氏の東遷との関連も考慮しておくべきかもしれません。

またこのライン上には山田池があり、この山田池から図のように西45度偏角で、山田池⇔安満宮山古墳⇔広峯15号墳西⇔森尾古墳へのラインがあり、これらの古墳からは魏年号銘鏡が出土していることは以前分析したとおりです。

その魏年号銘鏡についていえば、図のように、太田南古墳群⇔森尾古墳⇔石塚山古墳への東30度偏角のラインがあり、このラインと平行して、森将軍塚古墳⇔川部・高森遺跡南部⇔小迫辻原遺跡⇔女山神籠石への東30度偏角のライン、同じく平行して、山中湖長池(呉金印出土地)⇔富士山山頂⇔伊勢内宮北部⇔持田古墳群への東30度偏角のラインもみえてきます。

その持田古墳群48号墳からも魏年号銘鏡が出土しており、図のように、宮崎神宮(古墳状地形)⇔持田古墳群(48号墳)⇔神原神社古墳への東70度偏角のラインもみえてきます。その神原神社古墳からも魏年号銘鏡が出土していますが、その真東が図のように富士山山頂となっており、富士山山頂を目印にした測量を行っていたこともあきらかです。

なお、上記ライン上にみえる石塚山古墳や森将軍塚古墳からも初期の三角縁神獣鏡が出土しており、年代的には魏年号銘鏡が出土した古墳と近い時期の構築と考えうるでしょう。

また上記ライン上にみえる山中湖(長池)については、呉の将軍「巳大方」銘の金印が出土したとされていますが、図のように、山中湖(長池)⇔森将軍塚古墳への西60度偏角のラインがあります。

そして図のように香取神宮⇔山中湖(長池)⇔小室浅間神社⇔東大寺山古墳南部⇔池上曽根遺跡⇔八堂山遺跡⇔川原神社⇔女山神籠石への東20度偏角のラインもみえてきます。

この八堂山古墳は弥生時代末期の高地性集落で、池上曾根遺跡も弥生時代後期の遺跡となるので、上記の魏年号銘鏡を出土する古墳などよりは、やや古いラインと言えるでしょう。

その香取神宮についてはフツヌシの東征伝承があり、山中湖(長池)や阿弥神社のフツヌシ伝承とともに呉との関わりを以前論じたところです。

同じくその八堂山遺跡そばには伊曽乃神社があり、天照大神の荒魂と武国凝別命を祀り、社伝によれば、第13代成務天皇7年に伊予御村別の祖の武国凝別命(景行天皇の皇子)が東予地方を開拓するにあたり、皇祖神である天照大神を祀ったことに始まるといい、その武国凝別命は天照大神の分霊を奉じて伊勢国から伊予に渡り、今の同市朔日市の御船森に着いたとあります。

ここで、この天照大神の荒魂が、先日分析した瀬織津姫=天照大神の荒魂とかかわるはずで、その瀬織津姫を祀る六甲比命神社あたりが、箸墓直前期の纒向古墳群などと関係してくることを論じたとおりです。

そして卑弥呼と瀬織津姫(天照大神の荒魂)との年代的な重なりを想定し、その次代にあたる台与(トヨ)と天忍穂耳・豊秋津姫との関連から、その年代に物部氏の祖の天忍穂耳≒ニギハヤヒ(+妻トミ)の畿内進出があり、その年代を布留遺跡の布留式土器の出現年代と考えているのですが、先のとおり、布留遺跡・石上神宮の東北の豊日神社は、魏年号銘鏡出土地と山田池と東大寺山古墳(古墳状地形)を結ぶラインの延長線上にあり、その豊日が女王・台与にかかるならば興味深いところです。

なお、そのライン上にみえる川原神社は天瀬町にあり、日神・埴山姫神・罔象女神を祀っており、その罔象神については、『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記し、神社の祭神としては水波能売命などとも表記される水神です。

『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしており、『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとします。

このラインの西の最終到着地が女山神籠石となり、また小室浅間神社でもコノハナサクヤヒメが祀られていることからみて、全体的に女神・日神に関する信仰をもとにしたラインと言えそうですが、そこから卑弥呼・台与との関係性を見出しうるかが課題でしょう。

あと、その川原神社の真北が先の初期の三角縁神獣鏡を出土する石塚山古墳で、またこのラインと、魏年号銘鏡が出土した持田古墳群⇔川原神社への西70度偏角のラインとが直交しています。

その他、伊勢内宮⇔東大寺山古墳(古墳状地形)への西12度偏角のラインと、伊勢内宮⇔熱田神宮への東78度偏角のラインとが直交しており、また東大寺山古墳(古墳状地形)⇔熱田神宮への東30度偏角のラインを考慮すると、東大寺山古墳周辺の和爾氏と伊勢・尾張熱田神宮との関係を想定すべきでしょう。

また、先日のラインのように、箸墓⇔東大寺山古墳(古墳状地形)⇔東大寺鏡池付近への南北ラインの存在を考慮すると、奈良春日方面に拠点をおいた開化天皇と率川宮との関係も考慮しておくべきでしょう。

吉備と関わりが深い孝霊天皇の息子の孝元天皇の次代にあたるのが開化天皇で、孝元天皇の后の伊香色謎命を皇后に迎えて崇神天皇を産むこととなるので、孝元天皇と開化天皇との間には、親子ではない可能性、特に領地や后を譲るような関係があったことも予想できます。

すなわち、開化天皇は、大日本根子彦国牽天皇(孝元天皇)の第二皇子で、母は皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)。同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいます。

父帝が崩御した年の11月に即位。翌年、春日の率川宮に都を移し、そこは以前の都とは大きく離れた大和盆地の北に位置し、即位6年、孝元天皇の妃(側室)だった伊香色謎命を皇后として御間城尊(後の崇神天皇)らを得、また丹波竹野媛、和珥臣の祖の姥津命の妹の姥津媛を妃にしています。その姥津媛との間には狭穂彦命、狭穂姫命、日葉酢媛命、神功皇后の祖となる彦坐王を得ていますが、ここで、東大寺山古墳周辺を領有していた 和珥氏が見えてくるわけです。

開化天皇というおそらくは外来の支配者は、在地の和爾氏の娘を后とすることで、その地の支配を確実にしたのかもしれず、この箸墓⇔東大寺山古墳(和爾氏領地)⇔東大寺(春日)へのラインは、その和邇氏の姥津媛を取り込んだ開化天皇のラインかもしれません。

子の開化天皇は先代の孝元の后・伊香色謎命(イカガシコ)を譲り受けていますが、物部氏と関わりが深い先住の孝霊・孝元朝≒和爾氏の祖線から、娘=后を譲り受けることで、奈良の支配を確立したのではないでしょうか。

以前この伊香色謎命(イカガシコ)を、台与(トヨ)を壱興(イコウ)と読み替えた場合の名であることを予想したことがありますが、彼女と叔母の欝色謎(ウツシコ)命は、ともに孝元天皇の后となっており、その欝色謎命を台与の叔母にあたる卑弥呼ではないかと考えたこともあります。

ただ、開化天皇の在位は数年ほどできわめて短く、その後の崇神朝に至るまでには、権力が再度、物部系の集団に戻されたようにみえることもあります。これが卑弥呼死後、数年支配した男王とみなすと、その次の台与に至って、再度、春日方面から、纒向方面へと拠点が移動していく経緯と重なってくることもあります。

その孝元天皇は田原本町の黒田庵戸宮を拠点としており、ライン面でも先日指摘したように、神戸の六甲比命神社方面から、父孝霊とともに、孝霊陵、纒向遺跡、三輪山へと拠点を造っていったことが予想されます。

そのころには、上記のライン上にみえる山田池も、主要な拠点として機能していたはずで、その山田(ヤマダ)の字名も邪馬台(ヤマタイ)国と関係していたことでしょう。

ただまた、この辺は、もう少し東大寺古墳周辺や山田池、川原神社周辺を調査しながら、年代を整理してみたいと思います。



青面金剛 投稿日: 2024年12月06日 05:55:14 No.591
>開化天皇というおそらくは外来の支配者は、在地の和爾氏の娘を后とすることで、その地の支配を確実にしたのかもしれず、

※ 出雲伝承では、開化天皇は、出雲系の磯城・大和王朝の「大日々」(オオヒビ)大王のことであり、彦道主大王の祖父にあたります。

 当時の大和の大王は、丹波から移住してきた『天村雲』を初代とし、先住の出雲王家と婚姻関係を続けて、共存共栄に統治していました。

 武力で制圧した訳でも無いのに、安易に「外来の支配者」の語彙を用いるのは、地元の郷土史家からは、読まれ無くなる文章と成ります。

 磯城王朝の天皇は、8代クニクル大王(孝元天皇)、9代開化天皇で終わりではなく、10代 彦坐(ひこいます)大王、11代 彦美知能宇斯「彦道主」(ひこみちのうし)大王(又の名 丹波道主命)であり、崇神王朝はヤマトの王朝ではなく、九州の王朝・都万(ツマ王国)だと伝わります。

 磯城・大和王朝最後の大王「彦道主」は、大王をやめた後、子ども達を連れて、丹波国北部に行き、竹野郡に住みました。
青面金剛 投稿日: 2024年12月07日 01:50:42 No.592
>またこのライン上には山田池があり、

※ 奈良県内には「山田」の地名が5ヶ所も有って、地名を添えないと、何処の池だか判らない。


鏡作神社 (奈良県磯城郡三宅町石見)
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社号 鏡作神社 読み かがみつくり 通称 旧呼称 鎮座地 奈良県磯城郡三宅町石見 旧国郡 大和国式下郡石見村 御祭神 石凝姥命 社格 式内社、旧村社 例祭 10月第2土曜日 式内社 大和國城下郡 鏡作
jun-yu-roku.com


鏡作坐天照御魂神社 (奈良県磯城郡田原本町八尾)
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詳しくは投稿をご覧ください。
tawaramoton.com


鏡作麻気神社 (奈良県磯城郡田原本町小阪)
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社号 鏡作麻氣神社 読み かがみつくりまけ 通称 旧呼称 子安社、春日社 等 鎮座地 奈良県磯城郡田原本町小阪 旧国郡 大和国式下郡小坂村 御祭神 麻比都禰命 社格 式内社、旧村社 例祭 10月10日
jun-yu-roku.com


鏡作伊多神社 (奈良県磯城郡田原本町宮古)
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社号 鏡作伊多神社 読み かがみつくりいた 通称 旧呼称 補屋明神 等 鎮座地 奈良県磯城郡田原本町宮古 旧国郡 大和国式下郡宮古村 御祭神 石凝姥命 社格 式内社、旧村社 例祭 10月9日 式内社
jun-yu-roku.com


鏡作伊多神社 (奈良県磯城郡田原本町保津)
画像
社号 鏡作伊多神社 読み かがみつくりいた 通称 旧呼称 鎮座地 奈良県磯城郡田原本町保津 旧国郡 大和国十市郡保津村 御祭神 石凝姥命 社格 式内社、旧村社 例祭 10月13日 式内社 大和國城下郡
jun-yu-roku.com



《 鏡作坐天照御魂神社:八雲ニ散ル花『偲フ花』五条 桐彦 》


 『 247年、宇佐豊玉姫が派遣した魏国への使節団に、「武内大田根」(タケシウチオオタネ)という男がいた。彼は磯城・大和王朝8代クニクル大王(孝元天皇)の孫であり、彦布都押信(ヒコフツオシマコト)と紀伊国の山下影姫との間に生まれた御子だった。
彼は物部の重鎮に与えられる称号「宿禰」を与えられ、「武内宿祢大田根」と呼ばれていた。

 当時の磯城・大和王朝では、10代大王の「日子坐」(ヒコイマス)が老衰状態で、彼の子ら「彦道主」(ヒコミチヌシ)と「沙本毘古」(サホヒコ)、「沙本毘売」(サホヒメ)らが跡目を巡って内戦状態であった。

 そんな折、彦道主の元に、都万王国が魏から銅鏡を100枚もらったという情報が伝わった。それを聞いた彦道主は、大和にいる呉の鏡作り工人に三角縁神獣鏡を作らせようとした。しかし三角縁鏡を数10面作ったところで、青銅の地金が不足してしまった。

 それで彦道主と親しかった都万の武内大田根に密使を送り、帯方郡から青銅の地金を買い、追加の鏡作り工人を連れてくるように頼んだ。

 長い船旅の末、武内大田根は帯方郡にたどり着いた。そこで帯方郡の長官「王願」(オウキ)に日本の詳しい戦況を聞かれた。
敵将の名を聞かれた武内は、「ヒコミチヌシノミコ」と争っていると伝えた。魏の役人はこれをクナ国の頭の名前と受けとり、「魏書」に次のように記した。

「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯鳥越等詣郡相攻撃状」

([正始8年/247年]和の女王ヒミコは、狗奴国の男王卑弥弓呼[ヒミクコ]と、以前から仲が悪かったので、載斯鳥越を帯方郡に遣わし、お互いに攻め合っている様子をのべさせた)

「卑弥弓呼」は、ヒコミチヌシノミコという長い和名を簡略化して表記されたものだった。また「武内」(タケシウチ)は、「載斯鳥越」の表記になっている。

 武内大田根は、王願が洛陽から帰って来るまで、帯方郡で待たされた。武内はイクメ王が貰ったように、自分も銀印青綬を貰いたいと密かに思っていた。しかし洛陽から王願が持ち帰った魏王の詔書には、武内が期待していた「率善中郎将」の位について何も書かれていなかった。当然、銀印も貰えない。

 武内は、衝撃を受けた。彼は都万王国第一の重臣「ヒコフツオシ」の息子であって、イニエ王にも重用されていた。但馬の豪族に過ぎない田道間守が、率善中郎将に任命され、自分より格下の物部十千根が率善校尉に任命されていた。二人とも銀印を授かっている。

 これについて、実は豊玉姫は武内の才能を恐れ、自分の子の豊彦より偉くならないようイクメ王と謀り、自らが書いた詔書に武内に位と印を与える願いを書かなかったのだ。

 武内は、怒りが込み上げてきた。彼は帯方郡で中国産の青銅を買い込み、鏡作り工人を雇って、青銅を和国まで運ばせた。

 武内大田根が帰国するとき、帯方郡の役人「張政」が和国に一緒にやってきた。筑前国伊都に着くと、そこには田道間守が出迎えに来ていた。
 張政は田道間守を和国第二の実力者と見なし、詔書と二度目の黄色幡、及び木簡の戦闘命令書を授けた。
ここでも武内は、プライドを傷付けられた。

「もうここに用はない。」このとき武内大田根は九州物部勢に見切りをつけ、大和に寝返ることを決意した。

 奈良の磯城郡田原本町に「鏡作坐天照御魂神社」(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)があります。
「鏡作神社」(かがみつくりじんじゃ)と一般には呼ばれているようですが、富家伝承によれば、ここは物部から大和に寝返った武内大田根が、三角縁神獣鏡を造らせた場所の一つと伝えています。(中略)

 武内大田根は帰化した呉の工人たちに、大和で和人好みの鏡を作るよう求めました。当時の和人は、大型の鏡を好んだので、鏡を大型に作るよう指示したと云います。ところが銅鏡は大型にすると、割れやすくなってしまいました。

 そこで銅を節約しつつも丈夫にするために、鏡の縁を厚く三角縁にする方法が採られました。そうして出来上がった銅鏡が「三角縁神獣鏡」であったと云います。これを磯城王朝の彦道主が好み、大量に買い入れました。また登美家も大量に注文したそうです。

 武内大田根は、良い鏡ができるように、鏡工人が住む村に「鏡作神社」を建てました。それがこの鏡作坐天照御魂神社です。

 豊玉姫が魏から受け取った銅鏡100枚に対抗して作られた三角縁神獣鏡は、実に400枚以上になったと云います。これを買い取った彦道主らは、大和側の豪族に配り勢力を強めようとしました。

 後世の学者の中には大和地方から発掘された三角縁神獣鏡を、ヒミコの鏡だと言う人がいます。それが大和・邪馬台国説を裏付ける証拠の一つだと主張しました。

 しかし中国の考古学者「王仲殊」が、「三角縁神獣鏡は、和国製である」と主張するように、それは魏から贈られた鏡ではないのでした。三角縁神獣鏡は中国では1枚もないこと、三角縁鏡の「傘松型の幡模様」は中国鏡にはないこと、中国の神獣鏡はすべて平縁であること、などが理由であるということです。

 武内大田根は自分用に、三角縁神獣鏡を数10面作らせたそうです。その鏡には、自分が使者として魏領まで出掛け、悔しい思いをしたので、魏の年号を記念に入れました。それが武内大田根の古墳とされる出雲の神原神社から発掘されました。

 当然、そこに刻まれた魏の年号は、豊玉姫が魏に使者を送った年号と同じでしたので、三角縁神獣鏡がヒミコの鏡であると勘違いされる一因となったと思われます。


《 鏡作坐天照御魂神社:八雲ニ散ル花『偲フ花』五条 桐彦 》

https://omouhana.com/2018/02/15/鏡作坐天照御魂神社:八雲ニ散ル花 44/




著書紹介 福島雅彦 投稿日: 2024年12月03日 17:06:41 No.589 【返信】

『邪馬台国・うきは市説考察』 ―うきは市の古代史―
2023年9月30日 初版
著者:三人共著
・ 松下愛(元・久留米大学講師)
第1章 うきは市の古代史を読むために<1頁~9頁執筆>
・福島雅彦(古代史研究家・一級建築士)
第2章 邪馬台国は高天原(1)<11頁~43頁執筆>
第3章 邪馬台国は高天原(2)<49頁~53頁執筆>
・大矢野栄次(久留米大学名誉教授)
第4章 うきは市の双方中円墳(西の城古墳)の意味<75頁~101頁執筆>
第5章 うきは市の賀茂神社(103頁~111頁執筆)
第6章 邪馬台国と神武東征(113頁~129頁執筆)
   
発行者:株式会社五弦舎 定価(本体1,400円+税)


瀬織津姫ライン(畿内) 管理人 投稿日: 2024年10月28日 23:59:58 No.571 【返信】

先日の投稿で最後にお知らせした天忍穂耳・栲幡千千姫命を祀る諸社を結んだラインがありましたが、そこでその先代にあたる瀬織津姫に関する全国・畿内の諸社を結んでみたものが図1となります。

まず、起点は九州高千穂の天岩戸神社となり、先日の天忍穂耳に関するラインが大分の西寒多神社を起点としていたことと対照的です。

その天岩戸神社から、それぞれ東20度偏角で、天岩戸神社⇔伊勢内宮⇔瀧川神社へのラインがあり、また同じく東32度偏角で、天岩戸神社⇔六甲比命神社⇔宇奈己呂和気神社へのライン、同じく東28度偏角で、天岩戸神社⇔泉穴師神社⇔郡山城⇔片山神社⇔熱田神宮⇔波羅比門神社へのラインがあります。

そして、天岩戸神社⇔瀬織津姫神社への東40度偏角のラインもありますが、その瀬織津姫は伊勢内宮の真北にあたり、また、森将軍塚古墳の真西にあたります。

その森将軍塚古墳は、図のように池宮神社の真北となり、その池宮神社⇔春日大社⇔石切神社⇔御霊神社への東西同緯度ラインがあります。

なお、瀬織津姫神社については、瀬織津姫神社⇔六甲比命神社への東55度偏角のラインと、瀬織津姫神社⇔瀧川神社への西35度偏角のラインとが直交しています。

同じく先の森将軍塚古墳については、森将軍塚古墳⇔伊勢内宮ラインが東60度偏角となり、このラインと平行に、瀧川神社⇔宇奈己呂和気神社⇔瀧澤神社への東60度偏角のラインがあります。

あと、伊勢内宮⇔槻神社⇔波羅比門神社への東40度偏角のラインと、槻神社⇔池宮神社への西50度偏角のラインとが直交しており、その槻神社⇔片山神社⇔六甲比命神社への東10度偏角のラインも確認できます。

その他、小野神社⇔宇奈己呂和気神社⇔八幡神社(大和町)⇔早池峰神社への東70度偏角のラインも留意しておくべきでしょう。

そこで、畿内方面を拡大していくと、図2のようなラインが見えてきます。

まず、先の六甲比命神社が西の起点としてあり、その真東に三角縁神獣鏡を最も多く出土した椿井大塚山古墳があります。

その椿井大塚山古墳⇔石切神社⇔住吉大社への東30度偏角のラインもあります。


同じく六甲比命神社⇔石切神社⇔郡山城⇔伊勢内宮へ至る西15度偏角のラインがあります。

この瀬織津姫は天照大神の荒魂とされており、伊勢内宮も元々はその荒魂を祀っていたとされることと関係してくるでしょう。

その石切神社は物部氏の祖・饒速日尊とその息子の可美真手命を祀ることからみて物部氏系の拠点と考えうるでしょう。

なお郡山城については、後述するように、前方後円墳状の地形が残っています。

続いて、以前天忍穂耳に関する諸社として挙げた泉穴師神社を起点として、泉穴師神社⇔池坐朝霧黄幡比売神社⇔大和神社への東15度偏角のラインがあり、このラインと、郡山城⇔池坐朝霧黄幡比売神社⇔勝手神社への西75度偏角のラインとが直交しています。

同じく泉穴師神社⇔郡山城への東30度偏角のラインと、天忍穂耳神社⇔郡山城⇔大和神社⇔崇神陵⇔穴師兵主神社⇔三輪山西北部への西60度偏角のラインとが直交しています。

その崇神陵に関しては、以前、椿井大塚山古墳⇔中山大塚古墳⇔崇神陵⇔桜井茶臼山古墳へ至る西8度偏角のラインがあることを指摘したことがあります。

あと、孝霊天皇に関わるラインとして、天王寺古墳状地形⇔孝霊陵⇔孝霊神社南部(黒田庵戸宮)⇔纒向勝山古墳⇔三輪山北西部への西20度偏角のラインがありますが、その孝霊神社⇔郡山城⇔山田(精華町)への南北ラインもみえてきます。

その山田(精華町)⇔天忍穂耳神社への東30度偏角のラインは、天忍穂耳神社⇔郡山城⇔大和神社⇔三輪山への西60度偏角のラインと直交しており、このラインと孝霊神社⇔豊日神社への東30度偏角のラインとが直交しています。

その豊日神社⇔纒向勝山古墳への70度偏角のラインと先の天王寺古墳状地形⇔孝霊陵⇔三輪山ラインとが直交しています。

その他、孝霊陵⇔勝手神社ラインが西60度偏角となり、同じく勝手神社⇔三輪山が南北ラインとなり、また住吉大社⇔豊日神社への東西ライン、泉穴師神社⇔住吉大社⇔天王寺古墳状地形への東65度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

以上のようにみていくと、瀬織津姫に関する諸社を造った集団が畿内、東方へと展開していった時期は、森将軍塚古墳や、椿井大塚山古墳、桜井茶臼山古墳、その直前期の纒向勝山古墳あたりとなり、その後、後代、崇神陵なども位置づけられていったように見受けられますが、また、郡山城がその前後で拠点となり、山田(精華町)や、大和神社にみえる、ヤマダ、ヤマトの語音を残している点が重要です。

その郡山城については、図3のように、全長150m前後の前方後円墳状の地形が残っており、断面をみると、後円部が70m前後、高さ20m、前方部も長さ80m前後と見える点で、箸墓規格に近いと言えるでしょう。

ただ、郡山城自体は中世からで、奈良時代は薬園であったそうで、古墳時代との関わりは周囲の遺跡等を調べる必要がありそうです。

あと、上記の椿井大塚山古墳と森将軍塚との接点を考えてみると、椿井大塚山古墳⇔龍門寺古墳群⇔森将軍塚古墳への東45度偏角のラインがあり、同種の三角縁神獣鏡(天王日月銘 獣紋帯四神四獣鏡)を出土していることからみて、これらの古墳の築造年代や造営に関わった集団が共通していたことが考えうるでしょう。

年代的には、3世紀末~4世紀初頭となるでしょうか。その椿井大塚山古墳の造営時期に、その西方に六甲比命神社の造営もなされていた可能性がありそうです。


青面金剛 投稿日: 2024年11月30日 13:36:40 No.587
植槻八幡神社(大和郡山市植槻町)祭神:誉田別命

https://ameblo.jp/keith4862/entry-12434700300.html

(中略)

◎ 創建由緒等は不明ながら、「裏鬼門」という鎮座地から平城京を守護する社であったものかと。「元享釈書」という書には、「植槻道場に維摩経、云々」との記述が見られ、平城京遷都の前年(709年)には、仏教施設の方は創建されていたものと見られます。当社そのものは不明。その仏教施設は当地より北西三町にあったと伝わりますが、場所の特定はなされていないようです。

◎ 境内社として、植槻坐藤原神社と植槻坐魚名神社が鎮座。植槻坐藤原神社は藤原不比等・武智麻呂・仲麻呂がご祭神。当社側は平城京遷都に功労があり、当社に関係の深い三座であると。

 一方の植槻坐魚名神社は、天押雲根命(https://ameblo.jp/keith4862/entry-12572990987.html)がご祭神。一般に「水を司る司祭者」といった見方とされますが、当社側は「憑依神・神託神」としています。いずれにしても藤原氏が関与し、平城京を守護する社であったかと。ちなみに表鬼門には東大寺が建立されています。

◎ 植槻坐魚名神社は通称「金魚神社」。金魚の町として知られる大和郡山市ならではのもの。こちらは「力をつけた金魚は、赤い髭を持つ青龍に変化して水を司る」という中国の故事に因んで、青龍神を祀っているとも。これはおそらく、平安京に遷都されて以降に祭神替えされたものと思います。

◎ 「植槻(殖槻)」について当社は、「『白村江の戦』後に高句麗から日本に帰化した高氏は『殖槻連』を名乗り、雅楽寮小属・陰陽頭兼陰陽師・遣唐留学生・金工・画師が任用の官職・専門分野であったという」と。

 「新撰姓氏録」には「高氏」の項が2ヶ所、「高史」の項が1ヶ所あり、いずれも高句麗国からの帰化人であると記されます。
高氏が殖槻連を名乗ったということに関しては、引用元の資料が分からず不明。「続日本紀」の大宝元年八月の条に、高氏とともに殖槻連が位階を授かった旨が記されています。

◎ 「枕草子」に、「森は うゑつきの森」 とあり、森について記した中の、筆頭に挙げられています。

 また「万葉集」巻十三には、

 「我が思ふ 皇子の命は 春されば 殖槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし」 (長歌より抜粋)、と見えます。

これは高市皇子が「植槻の丘」に登り、国見をしたという歌の一部。いずれも特別な地であるとの認識が、あったのだろうと思います。

◎ 奈良に都があった時代は大変に重要な社であったものの、京へ遷都されて以降は衰微したようです。郡山城の築城とともに復興しますが、武家の守護神として誉田別命を祀る社へと変遷したことが窺えます。



※ 植月御所(美作市高根鳥羽野)界隈にある萬福寺 https://www.e-tsuyama.com/report/2021/05/post-1075.html

(美作南朝7代尊純天皇は、植月御所内の高福寺を現在地=鳥羽野に再建し、萬福寺と改称の上、弟の見政院法親王を初代住職にし、次の代も弟をこの寺の住職にしている)


※ 植月御所散見記 令和2年3月 https://www.e-tsuyama.com/report/2022/03/post-2072.html

 建武元年(1334)御南朝第二代・忠義親王、のちの髙福天皇は植月御所に帰られ、45歳でこの地で亡くなられ、植月北山御所に埋葬された。

 『東作誌』に依れば、この地を髙仁(たかに)と呼び親しみ、現在は髙根と改称されている。 植月御所に入る南正面入口付近を宮城と呼び、御所の北側を北野と呼んでいる。南の正面入口付近と鳥羽野辺りを南山と呼び、天皇の住まいは、北の台地頂上付近で、仙洞御所と呼んでいる。


※【親王墓】良懐親王(岡山県久米郡美咲町)https://ameblo.jp/ks57971104/entry-12854019582.html

 三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史 植月御所の真相(昭和三十六年二月十五日 田中千秋 著)

 『 凡ソ今カラ五百十八前ノ嘉吉三年癸亥十月二十九日ヨリ元禄十年丁丑八月二日マデ、二百五十四年ノ長期間二亘ッテ美作国植月庄北村、現在ノ髙根、鳥羽野両部落ヲ中心二、後南朝正系初代髙福天皇ヨリ、九代良懐親王二到ルマデノ隠レタ天皇ノ行宮ガアッタ。』


管理人 投稿日: 2024年11月30日 21:41:32 No.588
植槻八幡みてきました。また詳細は12月の研究会にてお話しましょう。


郡山城・箸墓・伊勢ライン 管理人 投稿日: 2024年11月26日 22:09:39 No.584 【返信】

続いて、関西方面の遺跡探索も行ってきたので、その報告をしたいと思います。

熊本から宮崎を経て、関空経由で泉穴師神社、東大寺山古墳、豊日神社、吉野・勝手神社、生国魂神社、奈良春日、郡山城、猪上神社をみてきました。

まず、泉穴師神社ですが、池上曾根遺跡の南西にあり、天照神(その荒魂の瀬織津姫)の息子・天忍穂耳尊と栲幡千千姫命(万幡豊秋津師比売命)を祀ることから、女王台与との関連を予想しましたが、図のように、瀬織津姫・忍穂耳を祀る諸社を結ぶラインの西の起点となっており、弥生時代から古墳時代の初期にかけて、物部氏の祖・ニギハヤヒと妻のトミが畿内に東征したあたりの伝承ともかかわっていることを予想します。

実際訪れてみた限りにおいては古墳状の地形は確認できませんでしたが、ただ敷地の形状が通常の神社とかことなり多角形であることから、過去に前方後円墳のようなものがあった可能性も想定しておくべきかもしれません。

次に東大寺山古墳ですが、こちらは4世紀後半の前方後円墳で、後漢時代の中平(184~189年)の年号を刻んだ刀が出土し、その年代が「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期にあたることから、後漢から倭の女王として当時即位したであろう卑弥呼へ賜った刀ではないかとも言われています。

その古墳自体は丘陵を利用した中腹にあり、見晴らしの良い大型古墳と見受けられました。

位置的には、図2のように、東大寺(辛国神社)⇔渟名城入姫神社⇔東大寺山古墳東部(古墳状地形)⇔箸墓古墳を結ぶ南北ライン上があり、図3のようにこの古墳の東のライン上のシャープ天理研究所に直径100m・高さ20m前後の古墳状の地形があるので、この古墳からの出土遺物を、和爾氏後裔が柄部を倭製にして埋納しなおしたものであるかもしれません。

なお、このライン上にみえる渟名城入姫神社については、『日本書紀』崇神天皇6年条、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神・倭大国魂神の2神を居所に祀ったことにあると考え、そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭笠縫邑に祀らせ、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせるも、渟名城入姫命の髪は抜け落ちて体も痩せてしまったため、倭大国魂神を祀ることが出来なかったとの記載があります。

また箸墓古墳は孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)を祀った陵墓とされており、崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら])に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたとの話があります。

崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視されます。

ここで、先の 渟名城入姫の神社と箸墓が南北に位置づけられていることも、これらの崇神朝の伝承との関係でとらえうるかもしれません。

また、図2のように箸墓の真西に伊勢の斎宮があり、斎宮の起源は上記の天照大神を豊鍬入姫命につけて倭笠縫邑に祀らせたことに始まるとされており、また次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭り、この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮を五十鈴の川上に興つ。是を磯宮と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測されています。

この天照大神を最終的に祀らせたのが図2の伊勢の内宮となり、伊勢内宮⇔箸墓古墳⇔応神陵⇔浦間茶臼山古墳への5度偏角のラインの存在はそのことを裏付けるものです。

なお、浦間茶臼山古墳は箸墓と同規格の2分の1サイズで造営されていることが知られており、吉備方面から箸墓、伊勢へと流れていった集団の痕跡を示すものでしょう。

この浦間茶臼山古墳は、以前も分析したように、森将軍塚古墳⇔浦間茶臼山古墳⇔川部・高森古墳群(宇佐)⇔女山神籠石への東30度偏角のライン上にあり、このラインと平行になるのが、図のように富士山(山頂)⇔伊勢内宮⇔西都市山田古墳状地形への東30度偏角のラインとなります。

また伊勢内宮⇔森将軍塚古墳への東60度偏角のラインの存在も、30度の2倍角の人工的な位置付けと言えるでしょう。

九州方面のラインについては以前も述べたので割愛しますが、川部・高森古墳群⇔天岩戸神社⇔西都市山田古墳状地形への南北ライン、宮崎神宮⇔西都市山田古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡北墳丘墓⇔平原遺跡への西60度偏角のラインなどがあり、元は九州系の集団が東遷によって、これらの拠点を構築していったことをうかがわせるものでしょう。

また上記の伝承で、倭迹迹日百襲姫の父としてみえる孝霊天皇について、天王寺古墳状地形⇔孝霊陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔纒向勝山古墳⇔三輪山北部への西20度偏角のラインがあることも以前指摘したとおりですが、纒向勝山古墳にみえる纒向型前方後円墳が、箸墓よりも古くかつ同規格とみなされていることと一致してきます。

つまり孝霊天皇の時代に吉備方面から畿内へと入り、その後の娘の倭迹迹日百襲姫の時代に箸墓が構築されたのでしょう。

その天王寺の古墳状地形は、天王寺公園にあり、位置的には、図1のように、大阪城⇔天王寺古墳状地形⇔住吉大社⇔大鳥大社への東70度偏角のライン上になります。

そして図のように、大阪城⇔辛国神社(東大寺)、天王寺古墳状地形⇔郡山城、住吉大社⇔東大寺山古墳(+古墳状地形)、大鳥大社⇔箸墓古墳へとそれぞれ東西同緯度ラインがあることもわかります。

これと平行して和泉黄金塚古墳⇔桜井茶臼山古墳への東西ラインもあり、その桜井茶臼山古墳⇔箸墓古墳⇔郡山城への西62度偏角のラインと、辛国神社(東大寺)⇔郡山城⇔信貴山南部⇔和泉黄金塚古墳⇔泉穴師神社への東30度偏角のラインとが概ね直交しています。

この泉穴師神社⇔六甲比命神社への西60度偏角のラインもあり、その泉穴師神社については、天忍穂耳とその妻の  を祀っており、六甲比命神社については、その天忍穂耳の母にあたる天照大神の荒魂の瀬織津姫を祀っていることは以前も述べたとおりです。

その六甲比命神社⇔石切神社⇔郡山城⇔伊勢内宮への西15度偏角のラインにも留意しておくべきで、同じく六甲比命神社⇔椿井大塚山古墳への東西ラインがあります。

その椿井大塚山古墳⇔大和神社⇔箸墓古墳⇔勝手神社(大日寺)への西5度偏角のラインも以前指摘したとおりですが、その5度軸を傾けるラインは、先の浦間茶臼山古墳⇔箸墓古墳⇔伊勢内宮への西5度偏角のラインとともに、この箸墓とその年代にのみみられる測量方式です。

あと、図のように、応神陵が伊勢⇔箸墓⇔浦間茶臼山古墳ライン上にあり、また応神陵⇔大阪城への西60度偏角のラインの存在を考慮すると、応神陵が5世紀代に造営される以前に、何等かの拠点が後円部に存在した可能性があるでしょう。

同様にその大阪城についても、箸墓古墳⇔大阪城への西30度偏角のラインの存在を考慮すると、先日指摘したように、300m前後の箸墓サイズの前方後円墳の後円部に大阪城が構築された可能性が高くなります。

ある時期の都城区画の西北の拠点として大阪城があり、東南の拠点として箸墓古墳があったように見受けられます。

その他、石上神宮の東北にある豊井神社も見てきましたが、箸墓関連の拠点には豊(トヨ)の字名が多いことがあり、箸墓の真東にトヨスキイリヒメの斎宮が位置づけられていることや、このラインとかかわってくる天忍穂耳とその妻・栲幡千千姫命(万幡豊秋津師比売命)にみえるトヨの語音からみて、卑弥呼の次の女王・台与(トヨ)との関係を考慮しておくべきかもしれません。




宮崎方位ライン 管理人 投稿日: 2024年11月25日 20:37:29 No.582 【返信】

先日の探索報告の続きですが、今回は宮崎神宮と生目古墳群をみてきました。
その生目古墳群については、昨日の報告でも述べたように、西都原古墳群の男狭穂塚の真南に1号墳があり、この古墳がこの古墳群、強いては南九州で最も古い古墳と見なされていることがあります。発掘が進まないのには訳がありそうです。

また宮崎神宮については、神宮の敷地南部に池地(五所稲荷の北)があり、ここが前方後円墳状の可能性を感じました。

具体的には図3のようになりますが、100mほどの前方後円墳とその周壕のような楕円形の池地があることに気づきます。

ライン面ではこの神宮と関係するラインを整理したのが図1、2となりますが、この池地をラインが交差・通過していることがわかります。

具体的には、宮崎神宮に関するものとしては、図1のように、まず宮崎神宮⇔西都市山田古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡北墳丘墓⇔平原遺跡への西60度偏角のライン、天岩戸神社⇔宮崎神宮⇔宮浦神社への西85度偏角のライン、宮崎神宮⇔韓国岳の東西ラインがあります。

この宮浦神社は宮浦宮とも呼ばれ、鸕鷀草葺不合尊の后神で神武天皇の母神である玉依姫命を御祭神とするが、神武天皇と、天神七代12柱、地神五代5柱の計18柱を祀っており、宮崎神宮同様に神武天皇に関わる重要拠点と言えるでしょう。

ぞの宮浦神社⇔韓国岳ラインは西30度偏角となり、韓国岳が日向勢力の拠点の測量起点であったことは以前の分析で明らかにしたとおりです。

図のように、桜島(中岳)⇔韓国岳⇔天岩度神社への東60度偏角のライン、それと直交する天岩戸神社⇔女山神籠石への西30度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

その女山神籠石⇔川部・高森古墳群への東30度偏角のラインもあり、その川部・高森古墳群⇔平原遺跡⇔神集島への東西ライン、同じく川部・高森古墳群⇔天岩戸神社⇔西都市山田古墳状地形への南北ラインの存在も以前指摘したとおりです。

その神集島については、神集島⇔平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインがあり、また女山神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔川部・高森古墳群への東30度偏角のライン、女山神籠石⇔津久見島への東西ラインがあることも以前お知らせしたとおりですが、その津久見島に関しては、図2のように、宮崎神宮⇔津久見島⇔出雲大社への東72度偏角のラインの存在が明らかになります。

このラインと直交して、津久見島⇔平原遺跡への西18度偏角のライン、出雲大社⇔伊勢内宮への西18度偏角のラインが見えてきます。

その出雲大社⇔小室浅間神社への東西ライン、小室浅間神社⇔宮崎神宮⇔桜島(中岳)への東30度偏角のラインも明らかにできます。

小室浅間神社については富士山の北に位置しており、「下宮」と呼ばれる所以は、かなり古い時代からの神武関連の祭祀拠点であったことに由来するのではないでしょうか。

このように、日向勢力の中心拠点として宮崎神宮とその古墳(状地形)があり、その位置は韓国岳や桜島、富士山、津久見島、神集島をもとに割り出さていったことが伺えます。

これらの拠点を結ぶライン上に、後代の小迫辻原遺跡や平塚川添遺跡、天岩戸神社といった弥生遺跡やアマテラス信仰の中心拠点が現られてゆき、神武東征に象徴される東方進出によって伊勢神宮や出雲大社などが造営されていったことも予想できますが、出雲大社については先住民の信仰拠点を再活用した可能性があることも以前お話したとおりです。

あと、上記のように30度、60度、90度の三分角を多用した測量方法は、後代まで継承され続けているものですが、このライン理論を応用することで、まだ見出されていない遺跡や古墳も多く見つけることができるでしょう。

年代は弥生時代


青面金剛 投稿日: 2024年11月26日 05:19:49 No.583
>神武東征に象徴される東方進出によって伊勢神宮や出雲大社などが造営されていったことも予想できますが、

※ 伊勢神宮の伊雑宮は、元々は、東出雲王家『富家』の分家である『伊澤富』が建てた社。内宮第一の別宮・荒祭宮は、内宮が建つ以前から、祀り続けられている、地主神を祭神としています。


>出雲大社については先住民の信仰拠点を再活用した可能性があることも以前お話したとおりです。

※ 出雲大社の造営に当たっては、西出雲王家である『神門臣家』が木材を提供し、東出雲王家である『富家』が敷地と造営資金を提供しました。出雲国造家や中央政府からの出資は何も有りません。

 方位ラインだけを頼りに、中央史の史観から、安易な憶測を綴っても、評価の対象にも成りません。

 方位ラインは、起点を選ぶ段階で、その人の好みによる趣向が強い、と見做されますから、偏角の部分は、興味が薄く、未発見の古墳や遺跡に興味ある人以外は、飛ばし読みで済ませてるのが、大半だと思います。


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