歴史掲示板(渡来人研究会)


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関東探索報告2406 管理人 投稿日: 2024年06月14日 01:16:12 No.543 【返信】

先週、邪馬台国の会と全国邪馬台国連絡協議会の会議で関東へ出向く機会があり、その後、先日からお話してきた阿伎留神社など関東各地の遺跡を探索してきました。

7日の午前中に青梅の宿からレンタカーで五日市の阿伎留神社に向かい、そこで、宮司さんから特別のお計らいで、阿比留草文字の木版(守護札の文字を刻むためのもの)を拝見させていただきました。代々彫しなおしながら継承されてきたそうですが、個人的には日文の中でももっとも原始的で整った形を残しているように感じているのは、その彫り直しの技術継承(誤字が起こらない)によったことも影響しているのではないかと感じます。


その後、南進して相模湾にある羽根尾横穴へと向かいましたが、ここは先日お知らせした図3のように、阿伎留神社の真南に位置することがありました。

小高い丘陵上の立地にあり、100を超える横穴墓の背景には多数の移民がいたことを明らかにするものです。

その後、東進して先日秦氏のウズマサとの関連を予想した宇都母知神社へ向かい、宮司さんともその方位線のお話や秦氏との関連についてお話させていただきました。

なお、この宇都母知神社については、鹿島神宮⇔宇都母知神社⇔羽根尾横穴⇔比奈多乃神社への東30度偏角のライン上にあることは先日もお話したとおりです。

その後、東進して鶴岡八幡宮へと向かいましたが、その八幡宮に隣接する大臣山(中臣鎌足の鎌を埋めた伝承がある)を目視で確認しましたが、こちらも小高い丘陵上にあり、相模湾を一望できる点で測量拠点としてもよい立地あります。

その鶴岡八幡宮については、鶴岡八幡宮⇔阿伎留神社⇔御影神社(御嶽山)⇔岩水神社への西55度偏角のライン上にあり、また鷺宮神社⇔氷川神社⇔鶴岡八幡宮ライン、浅間大社⇔子之神社⇔羽根尾横穴⇔鶴岡八幡宮ラインの存在も指摘したとおりです。

そしてこの鶴岡八幡宮と鹿島神宮に、阿伎留神社と同様な日文が残っていることは、双方に関わる中臣氏との兼ね合い、さらにいえば九州から東遷してきた壁画横穴墓を造営した集団、つまりオオ氏等の渡来人との関わりを想定しておくべきで、そのことがこれらのライン上にみえる横穴墓とで対応してきます。

その鶴岡八幡宮でうちの研究会員でもあるK氏と合流し、彼の案内で横浜の三殿台遺跡や周辺の寺社・旅館を廻り、大塚・歳勝土遺跡遺跡へと向かいました。

特に三殿台遺跡はかなり高地で見晴らしのよい場所にあり、弥生時代には東京湾も見渡せたのではないかと感じますが、この三殿台遺跡⇔大塚・歳勝土遺跡遺跡⇔日枝神社(清瀬)⇔池上・小敷田遺跡への西80度偏角のラインがあることも先日お知らせしたとおりです。

その大塚・歳勝土遺跡遺跡については、弥生遺跡や古墳時代の遺跡群もあり、相当大きな集落があったように見受けられました。

そして、最後に、八王子市方面へと北上し、帝京大学そばの大塚八幡宮を見てきましたが、確かにこの八幡宮は計100m前後の円墳状のあきらかに人工的な丘陵上にあり、隣接する野猿街道を越えて後方部が存在していた可能性も考慮すべきようにも感じました。

その大塚八幡宮については、真北に吉見百穴があり、その北側に先の池上・小敷田遺跡があることは先日お知らせしたとおりですが、また図1,2のように、宮崎神宮⇔天岩戸神社(伊勢)⇔山宮浅間神社⇔大塚八幡宮⇔烟田・安塚遺跡への東30度偏角のライン上にあることにも留意しておくべきでしょう。

位置的には大塚八幡宮のやや南の大塚公園あたりを通過するようにも見えますが、この大塚公園については、氷川神社⇔日枝神社⇔大塚八幡神社⇔大塚公園への東60度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、阿伎留神社⇔大塚公園⇔大塚・歳勝土遺跡遺跡⇔畔蒜郡(久留里)への西30度偏角のラインとなります。

この大塚公園周辺には縄文遺跡がありますが、その当時から、東国の主要な交通拠点として後代まで用いられていたことも伺えます。

その意味では、上記ライン上に浅間大社の元宮とされる山宮浅間神社が位置していることや、同じく弥生時代から古墳時代にかけての烟田・安塚遺跡が存在していることにもからも、古い起源であることを明らかにしてくれそうです。

山宮浅間神社については、806年の坂上田村麻呂が現在地(大社)に遷座するまでの元宮であり、垂仁3年やヤマトタケルの時代には祀られていたとされますから、4世紀前半頃にはすでに存在していた可能性があるでしょう。

原始的な磐座を祀る形式であり、この辺は伊勢の天岩戸神社のそれとも比較すべきですが、その起点が宮崎神宮となることは、神武東征の時代、おそらくは4世紀前半代からの日向系の勢力の東遷とこのライン上の拠点の造営とが関係していたことを明らかにするでしょう。

以前もお話した神武東征≒ヤマトタケル・景行東征≒オオヒコ・タケヌテガワワケ東征≒垂仁朝との連関をも明らかにするラインと言えそうです。

その4世紀前半の古墳時代初期のラインと、その後しばらくして6世紀前半の継体・宣化朝頃のライン拠点とが重なっていることの背景には、おそらくは後者が九州の磐井配下におり、その磐井が滅んだ後に、一度九州南部へと向かい、その際に宮崎神宮あたりを測量起点としつつ、東30度偏角のラインとともに、オオ氏や秦氏の東遷・横穴墓造営がなされていく過程で、それ以前の物部氏や土師氏のラインとも接合していった結果として、弥生時代の遺跡と古墳時代後期の遺跡とが隣接する形でライン上に見えてきているのかもしれません。

その方位ライン面における重層的な複合構造の整理を、今後しておくことが課題となってきますが、学問的な形での確立を行っていくべく議論の場を求めて、今年は動いてみたいと考えてますので、またご興味ある方がいましたら、よろしくご参加ください。


弓張月 投稿日: 2024年06月14日 12:03:01 No.544
「古代史ネットワーク」さんのwebの季刊「古代史ネット」第14号で、

飯田 眞理 様が書かている「記紀に隠された史実を探る⑫最終回 天照大神の後継者・饒速日命は奈良盆地をヤマト(邪馬台)と名づけた! 」に、 https://nihonkodaishi.net/knq/24mar/nara-basin_was_named_yamato_by_nigihayahi-the-successor-to-amaterasu.html#

「★全てにおいて共通なのは、天火明が尾張氏の祖」とあります。

天火明命の子孫には海部氏もおりますよね。素人目には、天(あめ・あま)と海(かい・あま)で、私の旧事本記・物部氏の謎解きコートを使うと、9代開化天皇の「開」は、=天・海で一緒ではないかと?(天海ともなりますしね)
また、応神天皇(一世)から数えて9世は孝徳天皇,舒明天皇,聖徳太子,皇極・斉明天皇ですよね。
弓張月 投稿日: 2024年06月15日 06:44:02 No.545
チョットしたワード「青梅の宿からレンタカーで五日市の阿伎留神社に向かい」から歴史を考えると、

まず「青梅」 梅は青色よりも、緑色では? でも、名字には青松さんがあります。四方神の神の色は、黒・青・赤・白で、オリンピックの五輪の色は、黒・青・赤・黄・緑ですね。東国三社のお守りで、黒は息栖神社・青は鹿島神宮・赤は香取神宮です。オリンピックの五輪は上が三輪で下が二輪で不安定に感じます。もう少し深読みすると、ひふみ(一二三)より、下に一輪、影扱いで隠れているのかも?と
常陸国の前に日高見国だったと常陸風土記に書かれていますが、「ひだかみこく」とは「ひだ神国」だと私は考えています。(穂高神社のご祭神は穂高見命からも)

次に「五日市の阿伎留神社(阿比留草文字)」ですが、
なぜか、五日市 市杵島姫命は、摂社としてあちこちに祭られている?と私は感じています。やっぱり、五日は、≒五輪かな?
そして、阿伎留神社(阿比留草文字)では、「伎」と「比」は、長い歴史の中で同じ文字には出来なく、どちらにも「留」(とめ)があるのは「とめ」は、=采女(うねめ)を意識した文字のように感じる。留で、五反田溜池(常陸太田市瑞竜町)の「溜(ため)」と考えると、さんずいから「三(産かも)と水で(三=水)よって、水戸=三戸」 なので、留は采女、溜は綿津見三神の采女に係わるっているのでは?
弓張月 投稿日: 2024年06月15日 07:17:16 No.546
いつものように書き忘れ

名字の青松、松の葉はいつ見ても緑色、不思議ですよね。
まあ考えられることは、松尾神社と八岐大蛇の尻尾から、松尾≒末尾と青松≒末青で、歴史の始めの綿津見神からは青龍もあるし、青色は使用させてもらえないのかな?
西金砂神社のある旧金砂町と東金砂神社のある旧水府(みぶ(壬生)村で、水府村中染町の鉄造 阿弥陀如来立像は有名になっているが、阿弥陀堂の隣に村の案内板と一緒に大切に祀られている「石棒(案内板に約5000前の物と?)」は忘れられたれ形になっています。まあ、旧金砂町松栄町にある善光寺横穴調査報告書には前に投稿したレイラインについて具体的に書かれています。今となっては、「誰も分かるまい」なのかな?
弓張月 投稿日: 2024年06月15日 14:43:04 No.547
「石棒(案内板に約5000前の物と?)」で、正しくは、4500年前の縄文時代中期に造られた「大石棒」と呼ばれる石器でした。

https://ameblo.jp/koikawaharumachi/entry-11407328816.html

また、青松で青か緑色は、氏族間の取り合いが激しいのでしょう。清明紋の「五芒星」の分類は、桔梗紋になっていますからね。
弓張月 投稿日: 2024年06月16日 12:41:37 No.548
船玉神社と七鬼神社|筑西市 船玉神社と七鬼神社|筑西市 | 茨城の寺社巡りなら「茨城見聞録」 (ibamemo.com) によると
七鬼神社の「七鬼」の読み方は「しちき」だと思いますが、地元では「しちふく」と呼ぶそう。 どうも、本当の「しちき」は、七亀神社が正解ではないですか?
埼玉の鬼神社巡り①七鬼神社・箭弓稲荷神社・八雲神社  埼玉の鬼神社巡り①七鬼神社・箭弓稲荷神社・八雲神社 | お江戸の春―紅旗征戎吾事に非ず― (ameblo.jp) には、
「箭弓稲荷神社の境内社の「七鬼神社」は此処だけだという。(埼玉県東松山市)」と 
箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)は、ウィキペディアに、「まれに日本三大稲荷[1][要出典]や日本五大稲荷[2][要出典]の一つとされることがある。」と   箭弓(やきゅう)これって、「弓矢」の反対ですね。もしかすると、京都の真弓八幡宮の反対語。(箭弓↔弓八) 
神が宿るところ 船玉神社(茨城県筑西市) 船玉神社(茨城県筑西市) - 神が宿るところ (goo.ne.jp) には、
「創建は不明。「関城町史」(1987年)では、船玉地区の鎮守は「八幡神社」となっていて、「船玉神社」の名は出てこない。とはいえ、地名(大字)が「船玉」というのだから、古くから鬼怒川の水上交通の守り神としての「船玉(船魂)大明神」があったことは間違いないだろうと思われる。それが、いつか「八幡神社」(山城国八幡宮(現・京都府「岩清水八幡宮」)から勧請)と「船玉神社」が合祀され、祭神は誉田別命と住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)となっている。」と
そして、保険代理店の矜恃(きょうじ)  鬼鎮(きちん)神社と七鬼(しちき)神社  鬼鎮(きちん)神社と七鬼(しちき)神社: 保険代理店の矜恃(きょうじ) (cocolog-nifty.com) には、
「拝殿にある扁額。赤鬼と青鬼がかわいらしく描かれています。 また、節分の日に、「福は内、鬼は内、悪魔外」と言って豆をまくそうです。」と
東国三社のお守りから考察すると、青玉は鹿島神宮、赤玉は香取神宮で、息栖神社の黒玉=黒鬼はなし。 まさに、冬の「大三角」で考察すると、息栖神社の黒玉はおおいぬ座のシリウス星。よって、鹿島神宮の本殿は参道とは違う方角、神栖市の神の池を向いている。また、東国三社で息栖神社は神宮になれなかった。(七亀は、七鬼と七福なのかな?ヤマトタケル そして、「8・∞」の弥ではない) 
弓張月 投稿日: 2024年06月16日 13:54:44 No.549
①船玉神社と七鬼神社|筑西市
画像
茨城県筑西市の船玉に鎮座する船玉神社を紹介しています。由緒、ご祭神、アクセス、御朱印など。
ibamemo.com


②埼玉の鬼神社巡り①七鬼神社・箭弓稲荷神社・八雲神社  https://ameblo.jp/oedonoharu/entry-12660583010.html

③船玉神社(茨城県筑西市) 
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船玉神社(ふなだまじんじゃ)。場所:城県筑西市船玉248。茨城県道15号線(結城下妻線)「関本中」交差点から北へ約1.6km、押ボタン式信号のあるところ(「あらやま歯科医院」がある。)を左折(北西へ)、約750mで境内入口。駐車場有り。当ブログで「...
blog.goo.ne.jp


④鬼鎮(きちん)神社と七鬼(しちき)神社  
長野の鬼を調べたついでに、地元埼玉の鬼をちょっとみてみたいと思います。(写真はク...
djdaddy.cocolog-nifty.com


  
管理人 投稿日: 2024年06月17日 01:16:53 No.550
弓張月さん、いろいろわかちあいありがたいのですが、ほとんど言っている意味が理解できないのです・・・・。したがって返答しようがないのですが、悪く思わないでください。
弓張月 投稿日: 2024年06月17日 09:28:56 No.551
前に投稿した、
「富士山の南隣に位置する火山に「愛鷹山(あしたかやま)」があります。愛を「あし」としているのは意味ありでしょうね。古くは足高山と記されていた。(愛⇒糸・伊都⇒伊豆、愛⇒相)なのでしょうから、愛=足。」で、

馬場八幡宮の中鳥居の左大臣・右大臣とも片足を地面におき、足に家紋がある。地面についている片足は向かって左側は左足、右側は右足となります。

添付写真で見づらいので、どうしてもの方は直接見に来てください。


弓張月 投稿日: 2024年06月18日 10:29:15 No.552
「弓張月さん、いろいろわかちあいありがたいのですが、ほとんど言っている意味が理解できないのです・・・・。」

ですよね、パソコンなる凄い検索能力でただ謎の御先祖さまは何者か?を調べている素人の投稿ですので、意味が理解できないこともあるのは当たり前だと思います。
何度も書いてるように歴史は平家物語の通りでしょうから、素人の戯言だと解釈してください。


東日本神社・古墳ライン 管理人 投稿日: 2024年05月18日 02:44:11 No.497 【返信】(続き) 弓張月 投稿日: 2024年05月24日 08:06:06 No.508 【返信】

10件以上レスがつけられない設定になっています。新しいスレッドを作成してください。

【返信】
ついで参考に、
私の先祖は、総本家から女の子での分家です。屋号は「はせ(漢字では長谷?)
そして、住所は馬場下町(現在はありません)
下鴨・上賀茂神社風のパクリかな?
弓張月 投稿日: 2024年05月24日 13:54:21 No.509
皆さんの想像力豊かになりますように、
瑞竜町の白鷺神社と馬場八幡宮の中鳥居(左右大臣)の下が東西ライン上です。そして、両神社間に谷部になってい、そこに(ほんの少し)竹山を所有しています。笑っちゃいません?

https://ameblo.jp/kappa1959/entry-12141445861.html


弓張月 投稿日: 2024年05月31日 12:25:31 No.527
今日の茨城新聞に、「大般若経の断片発見 茨城県内で初「智感版」 常陸太田・文殊院」なる記事があった。  
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茨城県常陸太田市天神林町の寺「文殊院」で、室町時代に刷られた経典「智感版(ちかんばん)・大般若経(だいはんにゃきょう)」の断片が見つかった。全国的にも希少で、県内で確認されたのは初めて。中世に常陸国を治めた佐竹氏の有力家臣、小野崎氏が寄進したものだと...
ibarakinews.jp


記事には、「調査した茨城大の高橋修教授は「室町時代の経典が見つかるのは珍しい。佐竹氏に従っていた小野崎氏が、佐竹氏を飛び越えて直接、足利氏とやりとりできたことが分かる」などど話した。」と

Web「城郭放浪記」の常陸・小野崎城には、「小野崎氏は藤原秀郷の後裔で太田地頭となった通延が太田太夫を称していたが、後に太田に入部した佐竹氏の勢力拡大によって佐都へ移っていた。その後久安年間(1145年〜1151年)に通盛が瑞龍台地に館を築いて小野崎氏を称したことに始まる。」と   
画像
小野崎城は現在の瑞龍中学校の敷地に築かれていたという。現在遺構は消滅しており、西の正門を入ったところに大きな石碑が建っているのみである。...
www.hb.pei.jp

小野崎城と白鷺神社は瑞竜町にありお隣である。
ヤマトタケルの素性を紐解く鍵かな?(父・娘・子)
そして、皆さんの中で白鷺神社の南へのレイライン調べた人いませんか?
那珂市額田東郷にある「七鬼神社」があります。
七鬼神社をGoogleで検索すると、船玉神社と七鬼神社|筑西市がありました。
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茨城県筑西市の船玉に鎮座する船玉神社を紹介しています。由緒、ご祭神、アクセス、御朱印など。
ibamemo.com


筑西市は常陸国の新治郡かな。 Weblio 辞書には、

倭建命と新治
『古事記』には、東征を遂げた倭建命が、帰路の甲斐で詠んだ歌の中に新治が登場する。「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる(新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことであろうかと)」と倭建命が問うと、これに対し件の一人が「日々並べて 夜には九夜 日には十日を(日数を重ねて、夜で九夜、昼で十日でございます)」と答えた。 と
https://www.weblio.jp/wkpja/content/新治郡 (常陸国)_新治郡 (常陸国)の概要

また、小野崎氏の墓は、まぼろしの長谷寺(長谷町)にある。
文殊菩薩は、だいぶ前に投稿した城里町(旧桂村)の大山寺の乾闥婆王尊堂に不動明王(二体)と千手観音像、卯年の守本尊文殊菩薩もお祀りしてあります。と
https://www.taisanji.com/境内のご案内/大山寺の建立物/
https://perehirot.wixsite.com/maboroshikannon/blank-16

里川沿いの西宮神社は常陸太田市市街の鯨が丘の東側ですし、歴史は平家物語を経ているのでしょうから、上手にフィルターをかけてお楽しみください。
弓張月 投稿日: 2024年05月31日 13:39:59 No.528
詳しく書かれているのは、こちらかな

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室町時代に木版で刷られた「智感版大般若経」の断片が、茨城県内で初めて常陸太田市天神林町の文殊院で見つかった。当時一帯を支配した佐竹氏に仕えた小野崎氏が大般若経を寄進したと伝えられていたが、初めて現存が確認された。
mainichi.jp


寄進の数年後には、約100年に及ぶ佐竹の乱(山入の乱)が始まる。きっかけとなった関東管領(公方の補佐役)上杉氏から佐竹氏宗家への養子入りも「小野崎氏が足利氏と交渉して進めたことだった」と高橋教授は指摘する。

双子古墳の「双子」の平和のための歴史に沿ってるんでしょうか?
弓張月 投稿日: 2024年06月02日 06:56:45 No.529
【伊雑宮】本物のお伊勢さんとも名高い皇大神宮 別宮ですが、

地元の人に「磯部いそべさん」、「いぞうぐう」「磯部の大神宮」と親しまれている神社  とのこと。
磯部の「磯」は、=五十と考える。 五十代天皇は桓武天皇ですね。

伊雑宮の御田植祭にまつわる志摩地方の伝承「七本鮫」があるようです。内容は、


御田植祭の日になると、7匹の鮫が的矢湾から伊雑宮の前を流れる磯部川を伝って参詣にくるという話です。

この鮫が竜宮の使いであるとも言われているのですが、残念なことに漁師の一人がそのうちの1匹を銛で刺し殺してしまいました。
漁師は以前、子供が鮫に襲われたことへの復讐のつもりだったのです。と

「雷神に別雷神(関東三雷神)」 「皇大神宮に別宮」 「磯と五十」 「七鬼と七匹の鮫(因幡の白兎)」と  
磯部の「磯」は、=五十と考える。五十代天皇は桓武天皇ですね。
〔常陸太田市磯部町と青麻神社と天白羽神社のある常陸太田市谷河原町(伊雑宮は的矢湾から磯部川を経て〕

伊雑宮の御田植祭にまつわる志摩地方の伝承「七本鮫」があるようです。内容は、


御田植祭の日になると、7匹の鮫が的矢湾から伊雑宮の前を流れる磯部川を伝って参詣にくるという話です。

この鮫が竜宮の使いであるとも言われているのですが、残念なことに漁師の一人がそのうちの1匹を銛で刺し殺してしまいました。
漁師は以前、子供が鮫に襲われたことへの復讐のつもりだったのです。と

雷神に別雷神(関東三雷神)  皇大神宮に別宮  磯と五十  七鬼と七匹の鮫(因幡の白兎)と  (常陸太田市磯部町と青麻神社としらわ
 
田植と志摩市だと、多遅摩(たじま) 常陸国では多氏(「た」には足) 多遅摩比多訶(たぢまひたか)は、兵庫県豊岡市日高町江原には、但馬日高郵便局
連想ゲームしてみました。やっぱり、双子から二重(=20)で、平和の象徴から式年遷宮が必要なのかな?
 
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ものすごい歴史ミステリーも伝わる、志摩で唯一の伊勢神宮の別宮、伊雑宮について紹介します。
www.jisyameguri.com

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恵みの雨の中、雷神さまをお参りしてきました!雨はどこかのだれかを幸せにしているんですよ。。とある神社で教わった素敵な考え方です。ちょっとポジティブになりませんか? 農業中心の時代は日照りだと死活問題です。ご祭神への信仰は ...
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常陸太田市の天志良波神社をご紹介しています。由緒、アクセス、御朱印など。同市内の兼務社(河合神社・稲村神社)の御朱印もいただけます。
ibamemo.com
 
弓張月 投稿日: 2024年06月02日 09:43:21 No.530
「(常陸太田市磯部町と青麻神社としらわ」は、

〔常陸太田市磯部町(東側)と青麻神社と天白羽神社のある常陸太田市谷河原町(西側)〕です。


それと、的矢湾(まとやわん)の的矢は、前後入れ替えると「矢的(やまと)」になります。常陸太田市の磯部(五十)町と谷河原町の位置関係から想像すると、大和(やまと)の源は、「矢的(やまと)」からに感じる?
弓張月 投稿日: 2024年06月02日 19:22:35 No.536
ネットで検索すると出てくる「別雷神社」は、

京都の賀茂別雷神社、静岡市葵区七間町の別雷神社、水戸市の別雷皇太神、つくば市の金村別雷神社、群馬県板倉の雷電神など社とともに関東三雷神などですね。

おなじみのキーワードが出てきますね。そして、鹿島神宮の建御雷神の「雷神」に対して、「別雷神」でよいのでしょうか? 母子神、そして立葵 瓢箪(北斗七星)から駒が出る
弓張月 投稿日: 2024年06月08日 06:26:54 No.539
「田植と志摩市だと、多遅摩(たじま) 常陸国では多氏(「た」には足) 多遅摩比多訶(たぢまひたか)は、兵庫県豊岡市日高町江原には、但馬日高郵便局。 連想ゲームしてみました。」の深堀

常陸国では多氏(「た」には足)は、鹿島神宮のある鹿島郡です。
鹿島神宮でよく話題になるレイラインは、冬至の日の出と夏至の日の出のラインですね。でも、鹿島神宮本殿は、神栖市の神の池に向いている。

鹿島神宮は、たたら製鉄にも関係ありましたか?
「たたら」から、足々良を連想してみます。良も、〔ラ(ラー・太陽),葦(あし足)ですので、足々良は三本足です。多田源氏はの摂津源氏で、今城古墳から双子かな?
三本足と言えば、「八咫烏」です。 不思議と合ってしまいました。
弓張月 投稿日: 2024年06月08日 06:47:57 No.540
ボケていてすいません。追記です。

そして、筑西市の七神社社の

「ご祭神は不詳です。地元の方でも知らないというのですから面白い。珍しい神社ですが、関本神社(当社と同じ旧関城町)の境内社にも同名の神社があります。船玉の七鬼の例祭には関本神社の太々神楽が奉納されますので何らかの繋がりがあるのでしょう。」の回答のヒントかな? やっぱり、七鬼の「7」は、北斗七星(おおくま座)でしょう。

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茨城県筑西市の船玉に鎮座する船玉神社を紹介しています。由緒、ご祭神、アクセス、御朱印など。
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弓張月 投稿日: 2024年06月08日 14:49:47 No.541
筑西の関本神社は、「 関本神社の例祭と太太神楽|新そばまつり同時開催|筑西市 
秋の収穫シーズンもあと僅か。県西の筑西市ではそばの収穫を終え新そばが提供されるようになりました。 同市の”地元産新そばまつり”は関本の鎮守社・関本神社の例祭と同時開催。最近、神楽に目覚め始めたのでおそばと一緒に楽しんでき ...
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 」によると、

「社伝によると 関本神社の創建は桓武天皇の御代(781-806年)。山城国伏見稲荷を勧請して創建しましたが、鬼怒川の水害を避けるためにこの地に遷しました。残念ながらわかっているのはこれだけ。。」と

やっぱり関本ですから、「桓武天皇の御代」ですか。
となると、ヒフティー・ヒフティーで、桓武天皇御代の前は「七鬼神社」で、後は「関本神社」となるんでしょうね? 
鹿嶋と鉄は、鹿嶋デジタル博物館によると、
「奈良時代に編纂された『常陸国風土記』の鹿島(香島)郡の条には「慶雲元年(704年)に国司の采女朝臣(うねめのあそん)が鍛冶師の佐備大麿(さびのおおまろ)らを率いて、若松の浜の砂鉄を採って剣を作った。」と記載されています。」と
https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50037.html
ここでもやっぱり、朝臣(あそん)の朝(あした)は、葦(あし)足(た)なので、足足(たた)と連想できますね。
弓張月 投稿日: 2024年06月10日 06:59:03 No.542
〔常陸太田市磯部町(東側)と青麻神社と天白羽神社のある常陸太田市谷河原町(西側)〕ですが、佐竹氏の紋は「五本扇に月丸」です。望月・満月ではないのは、
上弦の月と下弦の月で、真北の月は見えませんが、想像で重ねると望月・満月になりますね。真南では月丸にはなりません。 なので、月読命もいつからか双子扱いに?
下弦の月は太陽の先導役(露払い)か猿田彦、上弦の月は太陽の後からなので、摂関か幕府(太刀持ち)となりますかね?

それと、間もなく7月8日
西大寺を創建したのは孝謙(=貢献)・称徳(=聖徳)天皇で、即位前の名は「阿倍内親王」,諱は阿倍。そして、西大寺駅は平城宮跡に一番近い駅で、なんど平城宮跡を中心としたと思われる安倍晴明の五芒星のど真ん中のようです。それと、7月8日は、(7+8)÷2=7.5(=7度半) 神奈川県中郡大磯町国府本郷の神揃山及び「大矢場」(現在の馬場公園)で行われる国府祭(こくふさい/こうのまち)には、「七度半の迎神の儀」があります。 今後、都市伝説に加わるかもしれませんね?


東日本横穴墓・神社ライン 管理人 投稿日: 2024年06月05日 01:26:25 No.538 【返信】

先日、八王子市大塚にある大塚八幡宮が巨大円墳であるとの説を紹介しましたが、その後、さらに調べてを進めていくと、図のようなラインがあることに気づきました。

まず、大塚八幡宮の真北には先日も指摘した吉見百穴があり、139度25分29秒となるのですが、また南にラインを延ばしていくと、139度25分29秒で宇都母知神社があることがわかります。

そして図のように、鹿島神宮⇔宇都母知神社⇔羽根尾横穴⇔比奈多乃神社への東30度ライン上に載ることがあり、この神社を造ったであろう集団が、横穴墓を造営した集団、もしくは土師氏の祖と関係していたことも予想しうるでしょう。

その宇都母知神社⇔猿橋北部への西30度偏角のラインがあり、その猿橋北部⇔羽根尾横穴への西60度偏角のラインが、先の鹿島神宮⇔羽根尾横穴⇔比奈多乃神社への東30度偏角のラインと直交しています。

したがって、宇都母知神社の位置は人工的・意図的な配置と考えうるのですが、雄略天皇の時代の祭祀伝承が残るようで、延喜式にも記されています。

天照大御神、稚産霊神、若日下部命を祀りますが、その若日下部命の別名は、橘姫皇女。古事記には若日下(部)王或は波多毘能若郎女(ハタノワキイラツメ)とあり、父は仁徳天皇、母は日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)となるので、ここで、先日からこれらのラインと関係する秦(ハタ)氏とその波多毘能若郎女(ハタノワキイラツメ)との関わりが予想しうるでしょう。

そうすると、その宇都母知(ウズモチ)神社の名称も、秦氏に関わるウズマサ(太秦)やウズモリマサの語源と関わってくることが予想され、またそのモチは、山城秦氏の餅(モチ)の的伝承にでてくるモチとの関わりもあったかもしれません。

この餅の的伝承は、餅を矢で射ると白鳥(霊)が現れるといったネストリウス派キリスト教(大秦景教)の祭儀で用いた餅(種なしパンの代わり)を象徴する伝承であることを以前会報でも指摘したことがありました。

秦氏のウズ(モリ)マサに関わる養蚕伝承は雄略紀となりますから、いよいよこの雄略時代の創建伝承と関係してくるわけです。

その宇佐方面からの豊前秦氏の東方展開については、壁画横穴墓との関係も想定すべきですが、今回のラインにも吉見百穴や羽根尾横穴などの横穴墓が関わってくることにも対応してきます。

さらに猿橋の白人伝承なども、渡来系の集団を想起させるものですが、猿橋のアーチ橋技術なども、当時中国や新羅方面にも造営されたローマ起源のアーチ橋技術とかかわっているはずであり、そこに今回の秦氏が関わってくるのは自然な成り行きと考えるべきでしょう。

そうすると、先の大塚八幡宮も秦氏系の八幡信仰に関わっており、その起源はかなり古い可能性がでてきます。そしてそこに巨大円墳が造営されていたとすると、秦氏関連の遺物が出土していた可能性も考慮すべきでしょう。刀剣が出土したとの記録があるようです。

関連して、図のように、比奈多乃神社⇔猿橋北部⇔吉見百穴⇔下野国庁⇔吾妻古墳への東50度偏角のラインがあり、ここでも吉見百穴と猿橋とが関係してきますが、またその下野国庁⇔筑波山⇔鹿島神宮への西30度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

概してこれらのラインは30度、60度、90度の3分角によって測量されている点でも共通性があり、同じ集団による同時代の測量造営と考えて差し支えないでしょう。そこに下野国庁や周辺の100m級の大型古墳とが関わってくるのです。

またその辺については、今日から関東へ向かうので、現地探索をしながら解明を試みてみたいとおもいます。




関東弥生遺跡ライン 管理人 投稿日: 2024年06月02日 23:50:58 No.537 【返信】

先日、阿伎留神社に関わる方位ラインをお知らせしましたが、その際に鹿島神宮や弥生時代の大塚・歳勝土遺跡、池上・小敷田遺跡、さらには阿伎留神社の阿比留草氏の拠点であった畔蒜郡との関わりをライン面から指摘したことがありました。

その後、三殿台遺跡について知る機会があり、この弥生遺跡との関係を確認したところ、図のようなラインがみえてきましたのでお知らせいたします。

ここで、その三殿台遺跡については、三殿台遺跡⇔大塚・歳勝土遺跡⇔日枝神社⇔池上・小敷田遺跡への西78度偏角のラインがことがわかります。

このラインと直交するのが、阿伎留神社⇔日枝神社⇔鹿島神宮への東12度偏角のラインとなります。

その交点の日枝神社付近については、清瀬市郷土資料館がありますが、この周辺の弥生遺跡等にも留意しておくべきでしょう。

その日枝神社については大山咋、大己貴神を祀っており、後者は阿伎留神社でも祀られている点で共通するのですが、境内に柊(ヒイラギ)の老樹があり、景行天皇の代に日本武尊が東征の際、柊の根本に憩い「清キ土ナリ」とのたまいけるとて、爾来この村を清土(きよど)と称したるも何時の頃よりか、清戸と改められたとの記録があります。

また、その大山咋神は、大年神の子で、別にその御名を、山末之大主神となり、秦氏の松尾大神と関わることは先日お知らせしたとおりで、阿伎留神社関連のラインと秦氏の関係を考慮すると、この地にも秦氏の拠点があったのかもしれません。

なお、図のように、氷川神社⇔日枝神社⇔大塚公園への東60度偏角のラインがあり、これが、先日指摘した阿伎留神社⇔大塚公園⇔畔蒜郡(久留里)への西30度偏角のラインと直交しています。

その阿伎留神社⇔氷川神社ラインについては、延長線上に虎塚古墳があり、こちらも出雲国造系の武蔵国造や壁画横穴墓を残して渡来系集団の影響が予想されます。

その大塚公園の東部でラインが交差しますが、そこには復元された縄文住居がありますが、その東北方面に大塚八幡神社があり、ここに大きな塚=古墳があったことによるとされますが、そこにある八幡神社にある日向古墳は径13m、高さ2.5mの円墳で「大塚」とみなすにはやや物足りない感じがします。

その件は、過去にもこの八幡神社を載せている丘陵自体を直径100m前後の円墳と見なす説があるようで、その詳細はこちらのサイト(http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1005.html)を参照してほしいのですが、実際、断面図からいくと、図3のように、直径100m前後の円墳もしくは、直径200m前後の前方後円墳と考えたほうがよいのではないでしょうか。その頂部に小さな円墳があるように見えます。

その大塚八幡神社(日向古墳)は139度25分28秒にありますが、この真北に吉見百穴があり、同じく139度25分29秒となり、さらにその真北には図のように池上・小敷田遺跡があり、この地が奈良時代まで藤原・物部氏と関係することを考慮すると、このライン上に重要な政治拠点があったことも十分に考えうることです。

そしてその吉見百穴は、先日お知らせした図3のように、阿伎留神社⇔吉見百穴⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)への東60度偏角のライン上にあり、その埼玉古墳群の奥の山古墳は6世紀代の前方後円墳で、その北側に直径105mの巨大円墳・丸墓山古墳があることにも留意しておくべきでしょう。

実際、その北の丘陵地には帝京大学構内遺跡があり、この周辺も後代の俘囚の遺物が残っていることからみて、それ以前からの拠点があった可能性がありそうですが、近いうちに、関東へ出かけるので、この周辺も探索してみたいと思います。




新・全国神社・古墳ライン 管理人 投稿日: 2024年05月29日 03:17:45 No.526 【返信】

先日、古代関東の古墳や諸社の測量の中心地点として阿伎留神社周辺があることをお知らせしましたが、その後も阿伎留神社周辺についてライン面で調べてみた結果、鹿島神宮や物部氏の岩船信仰との関わりがみえてきたのでお知らせします。

そのライン図が図1となり、図2,3は拡大図です。

ここでまず、阿伎留神社に関連して、阿伎留神社⇔磐舟神社⇔高森古墳群(宇佐)⇔山田(朝倉市)への東20度偏角のラインが明らかになります。

この磐舟神社は物部氏の岩船信仰の中心拠点となり、またその山田(朝倉市)には卑弥呼の墓ともいわれる長田大塚古墳が存在します。

次に岩水神社⇔御影神社⇔阿伎留神社⇔鶴岡八幡宮への西55度偏角のラインも確認できますが、岩水神社は中野市の岩船信仰の拠点となり、また図のように、伊勢外宮⇔岩水神社⇔岩船神社への東60度偏角のライン上に位置しています。

その御影神社については由緒不明であるものの、そのそばの御嶽山については、大己貴が祀られている点で、阿伎留神社と共通することがあります。

その鶴岡八幡宮については、阿伎留神社の阿比留文字と同様に日文と呼ばれる古代文字があることは先日お知らせしたとおりです。

そして上記ライン上の岩水神社については、図のように岩水神社⇔楯築墳丘墓⇔高森古墳群(宇佐)⇔女山神籠石への東30度偏角のライン上にあることもわかります。

このラインと平行になるのが、高千穂神社⇔天岩戸神社(東部)⇔磐舟神社⇔綿貫観音山古墳への東30度偏角のライン、宮崎神宮⇔伊勢外宮⇔阿伎留神社への東30度偏角のラインとなります。

この3本のラインは、物部氏の測量を行っていく上で中心軸として機能していたラインと思われ、そこに阿伎留神社が関わっていることに留意しておくべきでしょう。

これらの当初の拠点は九州にあり、この3本のラインと直交するのが、以前からお知らせしている平原遺跡⇔女山神籠石⇔山田(西都市)古墳状地形⇔宮崎神宮への西60度偏角のラインとなります。弥生時代後期には存在していたラインでしょう。

そこから、ある時期に東遷した集団がおり、一つには物部氏の祖のニギハヤヒと妻トビの東征伝承であり、もうひとつは、日向・宇佐・吉備経由での神武東征となるはずです。

かれらの信仰は天岩戸・高千穂に関わるアマテラス信仰で、その信仰拠点は伊勢へと後に移動していきます。

そこから、その後、物部氏の東方展開とあいまって、東国の岩水神社・岩船神社周辺や、阿伎留神社周辺、群馬の綿貫観音山古墳周辺へと移動していく集団があったはずですが、その際に、阿伎留神社にも祀られている加茂氏の祖の味鍬高彦根や、土師氏の祖の建夷鳥等が祀られていったことを予想します。

そして、同時期に秦氏の東方展開もあり、芝山古墳群や虎塚古墳なども造営されていったはずですが、そこにユダヤ人風の埴輪などシルクロード文化との接点が見えてくるわけです。

なお、図3のように、綿貫観音山古墳⇔子ノ神古墳群⇔芝山古墳群への西30度偏角のラインがあることは以前もお話したとおりですが、この子ノ神古墳群に関しては、阿伎留神社⇔子ノ神古墳群⇔鹿島神宮への東10度偏角のラインがあり、鹿島神宮と子ノ神古墳群との接合の経緯についても考慮しておくべきでしょう。

そして芝山古墳群⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインもあり、これらは間接的に鹿島神宮を測量起点とすることによって位置付けられているわけです。

その他、先の岩水神社⇔池上・小敷田遺跡への南北ラインがあり、池上・小敷田遺跡からは弥生遺跡の他、平城京時代の藤原氏に関する遺跡があることも知られています。

その周辺には埼玉古墳群の他、藤原町にある八幡山古墳があり、この古墳は633年に武蔵国造として任じられた物部連兄麻呂の墓との見方もあります。

そこで、また先の岩水神社と阿伎留神社、そして鶴岡八幡宮へのラインを考える必要が出てくるのですが、まず阿伎留神社には藤原・中臣氏の祖・天児屋根が祀られていることからも藤原・中臣氏との関係を明らかにしうるでしょう。

その鶴岡八幡宮周辺には源氏による鎌倉時代以前の遺跡が存在していなければならず、特に方位ライン面での正確な位置は、鶴岡八幡宮北部の新宮社周辺となるはずですが、ちょうどその鶴岡八幡宮と新宮社の間にある裏山が大臣山となり、その大臣山の伝承として、飛鳥時代に東国に拠点があった藤原鎌足の鎌を埋めた伝承があるようです。(こちらのサイト参照 https://鶴岡八幡宮-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/ )

つまり、ここで、当時仏教擁護の蘇我氏と対立していた神道系の物部氏・中臣氏といった東国に拠点を置く集団の影響が見えてくるのですが、その鶴岡八幡宮周辺に彼らの拠点があったと考えると、このラインの位置付けが、物部系の影響にあることも理解しやすくなるでしょう。

その大臣山については尾根上の造営となっており、先の埋葬伝承を考慮すると、中臣・藤原氏関連の古墳のようなものがあった可能性も考慮すべきかもしれません。

その他、鶴岡八幡宮の位置付けについては、先日のライン分析では、浅間大社⇔子之神社⇔羽根尾横穴⇔鶴岡八幡宮へのラインと、鷺宮神社⇔氷川神社⇔鶴岡八幡宮へのラインがあり、加えて鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔浅間大社へのラインとで三角形を構成していました。

また比奈多乃神社⇔鶴岡八幡宮⇔芝山古墳群へのラインもありましたから、比奈多乃神社や阿伎留神社、鷺宮神社を祀る土師氏系の集団と、氷川神社に関わる武蔵国造系、つまり物部系の集団の影響、芝山古墳群等にかかわったであろう秦氏・忌部氏系集団の影響とが考えうるところです。

この鶴岡八幡宮にも、阿伎留神社や伊勢神宮・出雲大社・鹿嶋神宮と同様な日文が伝わっている理由について考えていくと、出雲・武蔵国造と関わる物部系集団の影響も考慮しておくべきかもしれません。

たまたま偶然に、そこに日文が残っているのではなく、必然的な理由で残っていたのではないでしょうか。

なお阿伎留神社にはの千葉の畔蒜(アヒル)郡(久留里周辺)付近から対馬へ渡った阿比留氏からの文字継承があったようで、その阿比留草文字のひとつにハングルに似たものがあるのは、その朝鮮半島からの影響を考えうるところですが、それ以前から彼らが千葉方面で有していた阿比留草文字の一つが、すなわち日文であり、それが阿伎留神社にも継承されていったのではないかと感じます。

ライン面からいくと、その千葉の久留里周辺から阿伎留神社への西30度偏角のラインが想定でき、その延長線上には、先日指摘した柳田布尾山古墳がありますが、またこの30度、60度、90度といった三分角が古代の測量の基礎的な角度であったことからみても、そのラインが人工的なものである可能性が高いと言えそうです。

あと、阿伎留(アキル)、阿比留・畔蒜(アヒル)、久留(クル)里といった共通語音がみえますが、ア+キル・クル・ヒル との関係が想定でき、その語源についても考えてみる必要があ流でしょう。




東日本古墳・神社ライン(続き) 管理人 投稿日: 2024年05月26日 01:24:44 No.517 【返信】

先日、東日本の神社や古墳を結んだ方位ライン(図3)をお知らせしましたが、その際に、阿伎留神社が中心拠点として見えてくることがありました。

そこで、今回その阿伎留神社に関わるラインをさらに洗い出してみたところ、いくらか新たなラインが見えてきましたのでお知らせします。そのラインが図1,拡大図が図2です。

まず、阿伎留神社に関するものとしては、先日も指摘した伊勢外宮⇔豊川稲荷⇔阿伎留神社⇔虎塚古墳への東30度偏角のラインがありますが、また同じく先日お知らせした権現山遺跡⇔阿伎留神社⇔秦野⇔羽根尾横穴への南北ライン上に、図のように十三宝塚遺跡が載ることも判りました。

この十三宝塚遺跡は、奈良時代の遺跡ですが、上野国分寺との関わりが指摘されており、その国分寺については、後述する保渡田古墳群⇔武蔵国分寺へのラインとも関わってくるでしょう。

次に、柳田布尾山古墳⇔阿伎留神社⇔大塚・歳勝土遺跡への西30度偏角のラインが明らかになりますが、この柳田布尾山古墳は3世紀末から4世紀初頭とされる前方後方墳となり、また大塚・歳勝土遺跡も、弥生時代中期の遺跡で、方形周溝墓を出土している点で、このライン上にある阿伎留神社周辺が、弥生~古墳時代初期には開拓されていた可能性も見えてくるでしょう。

その柳田布尾山古墳については、図のように、元伊勢・籠神社の奥宮の冠島(水没した弥生遺跡あり)を起点として、東40度偏角のラインを構成し、これと直交するのが、冠島⇔伊勢外宮への西50度偏角のラインとなります。

ここで、冠島⇔芝山古墳群の同緯度東西ラインがあることも先日お知らせしたとおりですが、その芝山古墳群については、芝山古墳群⇔大塚・歳勝土遺跡⇔長池(山中湖:呉金印出土地)⇔熱田神宮への東10度偏角のラインも確認できます。このラインは先日も指摘しましたが、ライン上に先の大塚・歳勝土遺跡が載ることがあり、この遺跡周辺に芝山古墳群等が形成された6世紀頃の遺跡もあるのではないかと感じます。

そのことは、羽根尾横穴⇔大塚・歳勝土遺跡⇔阿弥神社への東40度偏角のラインの存在からも明らかにできそうですが、このライン上には皇居南部があり、そこで先の冠島⇔芝山古墳群ラインと交差している点にも留意しておくべきでしょう。このあたりにも過去に神社や遺跡があった可能性がありそうです。

その阿弥神社については、フツヌシ神を思わせる伝承が残っており、図のように伊勢外見宮⇔長池(山中湖)⇔武蔵国分寺⇔阿弥神社への東28度偏角のラインがありますが、その阿弥神社⇔十三宝塚遺跡⇔保渡田古墳群への西20度偏角のラインも確認できます。

そして、その保渡田古墳群⇔虎塚古墳の同緯度東西ラインも確認できるのですが、その保渡田古墳群は5世紀後半から6世紀前半とされるので、それより後の7世紀初頭の虎塚古墳や奈良時代の十三宝塚遺跡を含めて、これらは先の弥生時代に関わるラインと比較して、新しい時代の方位ラインと考えうるでしょう。

ともあれ、ここでも武蔵国分寺が関わってくるように、武蔵国造時代の拠点を後代まで継承してこれらのラインを構築していったように見受けられます。

そして、その武蔵国造等が中心拠点としていたのが先の阿伎留神社周辺地域となるはずで、そこに仮名文字の原型とされる日文(阿比留草文字)が残っていたことも偶然ではなく、必然的な結果であるようにも感じます。

なお仮名文字については、通説では漢字の崩しと考えられていますが、実際にその元となった漢字をみていくと、こじつけに近いものが多く、仮名文字の起源として、この日文も考慮しておくべきと感じますが、その件については、また後日改めて説明したいと思います。


弓張月 投稿日: 2024年05月27日 15:43:36 No.523
プレジデントオンラインに「あの「国家安康」の銘で家康の名が入ったのは偶然ではない 大坂冬の陣の契機となった方広寺鐘銘事件の真相」
歴史は繋がっているのですか?
 
 
画像
大坂冬の陣が勃発した1614年、徳川家康は将軍職を息子の秀忠に譲り73歳になっていた。国際日本文化研究センターの呉座勇一さんは「発端は豊臣家が京都に建立した方広寺大仏殿の鐘に『国家安康君臣豊楽』と家康の諱を分割した銘文を刻んだこと。淀殿や秀頼は否定した...
president.jp
弓張月 投稿日: 2024年05月28日 21:16:25 No.525
ずっと思っていたんですが、箱根町のの遊覧船があのタイプなのでしょうか?

芦ノ湖の「芦」は、穂の完全に出ていない状態の「あし」でした。
箱根町の「箱」は、〔竹冠に相 (桑・草 あい(愛(いと・糸)・間)〕
箱根関は、東海道五十三次の9番目の小田原宿と10番目の箱根宿の間です。

遊覧船のタイプと合わせてなにか意味をもっているのでしょうか?(遊覧船は3隻でしたかね。


無題 荊の紀氏 投稿日: 2024年05月26日 02:18:40 No.518 【返信】

十進数 36.316, 140.57036 保渡田古墳群 度分秒 36° 22′ 46.4″ N, 138° 59′ 9.4″ E
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月26日 02:49:06 No.519
訂正 
十進数36.373508,  140.569714虎塚古墳 36° 22′ 24.63″ N, 140° 34′ 10.97″ E

十進数36.316,   140.57036 磯浜古墳群

十進数 36.316, 140.57036 保渡田古墳群 度分秒 36° 22′ 46.4″ N, 138° 59′ 9.4″ E
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月26日 02:54:13 No.520
訂正 
十進数36.379556, 138.985944 保渡田古墳群 度分秒36° 22′ 46.4″ N, 138° 59′ 9.4″ E


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