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続・九州神籠石・遺跡ライン 管理人 投稿日: 2022年08月16日 00:13:26 No.119 【返信】

また先日の続きですが、先日お知らせした山都町の幣立神宮の真西に、城山があり、調べていくとここが、九州の多くの神籠石・山城・弥生遺跡とライン面で接合していることがわかりました。図1、2のとおりです。

まず城山(山都町)⇔女山神籠石⇔雷山神籠石への西52度偏角のラインがあり、また城山(山都町)⇔菊池城⇔平塚川添遺跡⇔御嶽神社(大島)への西70度偏角のラインがあります。

同じく城山(山都町)⇔四ツ城山付近⇔小迫辻原遺跡東部⇔英彦山東部⇔御所ケ谷神籠石への南北ライン、境目遺跡(宇土)⇔城山(山都町)⇔幣立神宮への東西ラインがあります。

加えて、城山(山都町)⇔宇佐高校庭遺跡への東65度偏角のライン、同じく城山(山都町)⇔古城山⇔鬼ノ城への東40度偏角のライン等もあったでしょう。

その他のラインは先日説明したので割愛しますが、図のように、伊古遺跡⇔菊池城⇔古城山への東15度偏角のラインもあり、菊池城の位置付けも明らかになってくるのですが、その菊池城⇔四城山⇔白岩遺跡⇔宇佐高校庭遺跡への東50度偏角のラインもあります。

その四城山付近はちょうど複数のラインが交差しているので、そのような山名になっているのかもしれませんが、複数のラインが交差・起点となっている地点は重要拠点だったと考えうるでしょう。

そして、宇佐高校庭遺跡⇔西都原古墳群への南北ライン、宇佐高校庭遺跡⇔三雲南小路遺跡への東西ライン、三雲南小路遺跡⇔伊古遺跡⇔脇本(出水)への南北ライン、脇本(出水)⇔西都原古墳群とで、四方区画を形成していることは、以前も掲示板でお知らせしたとおりですが、この距離が南北158㎞、東西105㎞で、52.5㎞の倍数尺となっており、超短里=52.5mを用いていたことも指摘したとおりです。

その他、おつぼ山神籠石⇔境目遺跡⇔西都原古墳群への西45度偏角のライン、宇佐高校庭遺跡⇔境目遺跡⇔脇本(出水)への東55度偏角のラインもあり、先の境目遺跡⇔城山(山都町)⇔幣立神宮への東西ラインとあわせて、弥生時代の境目遺跡についても注目すべきでしょう。

このように10度、15度偏角単位での三角測量を繰り返して、四方区画を構成していく測量方法が弥生時代にはもたらされていたことがわかります。このライン上を狼煙等で通信しながら防衛網を敷いていたのでしょう。

そして、そのどこかに邪馬台国の都があったはずなのですが、首都には、すべての方角からの通信情報が集約する必要があるでしょうから、当然交差するラインの数も多いはずでしょう。

そういう意味では、九州ならば平塚川添遺跡や杷木神籠石、小迫辻原遺跡あたりがそれに相応しい位置にありますが、また瀬戸内・畿内方面を含めるならば、四国の八堂山遺跡周辺等もラインの交差が多い地点となりますね。南西諸島方面まで含めるとなると、さらに複雑になります。

なお、その城山の地名からみて、もしかすると神籠石のような山城があったことも予想しますが、ただ、ほとんどこの周辺については神社や遺跡情報がないので、現地調査が必用そうですね。





石峁遺跡のミトコンドリアDNAハプログループ(mtHg)とチベットビルマ系、アルタイ系、羌族の関係ー先石峁期を中心にー

1. 先石峁期(2800ー2500 BC)ではmtHg-D4jとM11aが多い(計47.6%)。これらはチベット・ビルマ系と判断できる(D4jは羌族, M11aは北東インド)。あるいはA=9.52%(A+152-16362〔2個体〕)の一部もそう言えるだろう(雲南のチベット・ビルマ系)。
・D=23.80%(D4j〔3個体: D4j3=2個体, D4j-11361=1個体〕, D5a2a1, D4b2b)
・M11a=23.80%(19.04%)Korea, Gallong, Tibet, Wancho, Miao, Han (Zhanjiang), Uyghur, Buryat, Oroqen

2. 南方分布型(計28.56%)も温かいので北上し、共存。
・F=14.28%(F1b1〔2個体〕, F1a1c)
・B=9.52%(B4c1a〔2個体〕)
・R=4.76%(R+16189〔R11'B〕)China, mainly in Lahu people (12.5%)、 Japan, Korea, Chams.
R11'BはR11とBの祖先型。R11系統はロロ・ビルマ系のラフで多く、Bはひろく東南アジア系。

・A=9.52%(A+152-16362〔2個体〕)
A+T152C!+T16362Cは、米大陸に進出するA1とひろくアジアに見られるA2とからなる。先石峁・石峁期のサブグループはA1と見て良い。日本人の型はこれらとは別のA5で、日韓の系統。
A+T152C!+T16362Cは先石峁期の次の石峁期の生贄人骨に多く見られる。A5も1個体が生贄。

3. 以下は、チベット・ビルマ系というよりアルタイ系の要素(計14.28%)。次第に気候が寒冷乾燥化し、先石峁期との比較において、石峁期(2300ー1800 BC)の政治・宗教的中心(Shimao_HCT)ではGとCが突出した。石峁期の生贄人骨にGとCは見当たらないので、有力な集団の交代があったのだろう。
先石峁期
・G=4.76%(G3a2)Udegey (Agzu), Korea, Japan, Uzbek, Uighur, Han(Shandong)
・C=4.76%(C4+152)
・Z=4.76%(Z3)

予備的結論
以上、mtHgで見る限り、陝北の先石峁期と石峁期とでは集団が交代している。甘青地区でチベット・ビルマ系(馬家窯文化)から羌族(斉家文化)への集団の交代があったこととパラレルである。羌族は、タングートやギャロンの前身か、あるいはチベット・ビルマ系とは別の集団。

さらに言えば、チベット・ビルマ系の南方群(ロロ・ビルマ系や北東インド系)から、チベット・ビルマ系の北方群(羌族やギャロン)やアルタイ系または第三の言語集団への交代があったと推定できる。


黄河中流域、石峁、獫狁と葷粥、四夷 Silk Road 投稿日: 2022年08月15日 02:57:48 No.116 【返信】

黄河中流域、石峁、獫狁と葷粥、四夷

石峁遺跡の個体群は遺伝的に黄河中流域の中期新石器時代個体群と類似している。また、この黄河流域新石器時代個体群と類似した遺伝的構成の集団が、現代日本人およびチベット人の主要な遺伝的祖先と見なされている。石峁の片親性遺伝標識は、YHgではO-M117-ACT7481, N1, C-F1067。mtHgは先石峁期ではGが最大(24%)、生贄を除いた石峁期(政治・宗教の中心)ではGが最大(43%)。

獫狁、葷粥
『晋書』四夷伝に夏は薰鬻といい、殷は鬼方といい、周は獫狁といい、漢は匈奴といった」とあるように、薰鬻,鬼方,獫狁,匈奴の語は同じものを指すように思われる。しかし、中国の史書にはしばしば「獫狁、葷粥」と併記されることから、この2つは別の部族ということになる。この2つの部族は後にモンゴル高原を統一した匈奴の前身とされているが、詳しいことはわかっていない。

->獫狁(Xiǎnyǔn)≒軒轅(Xuānyuán)氏(黄帝)。石峁は黄帝軒轅氏の都だろう。黄帝(のような人物)のYHgは今のところ石峁のO-M117-ACT7481, N1, C-F1067のいずれかだろう。統率者と部民のYHgが違っていてもおかしくはない。
葷粥=匈奴説
『史記索隠』(唐代)に、楽彦『括地譜』は云う、夏の桀王は無道なため、殷の湯王により鳴条へ放逐され、三年して死んだ。その子の獯粥は桀王の妾を妻とし、北野へ避居して遊牧生活を始めた。中国はこれを匈奴と謂う。一方で、内田吟風は葷粥,獫狁,匈奴は同一系統の民族であっても、単にモンゴル高原で交代した別の種族であると否定している。しかしながら、葷粥や初期の匈奴に関する資料が少ないため、はっきりしたことはいえない。
四夷
漢民族が黄河中下流域に勃興したころ、四周に未開の類族が大勢いた。しかし、これらがモンゴルやテュルク、チベット人など遊牧の異民族であったかは疑わしい。そうではなく、元を糺せば漢民族とルーツを同じくするような蛮族であり、これらを征服同化した後で、はじめて異民族に接したのであろう(和田清)。
->獫狁や西戎と呼ばれるものは、羌族に近い義渠や犬戎だろう。チベット・ビルマ系とは限らず。


寧夏賀蘭山岩画 Silk Road 投稿日: 2022年08月14日 00:59:26 No.113 【返信】

図1=先石峁期〜初期石峁期にかけてのトーテムと図2=石峁期(都市国家)のトーテム

図1は寧夏賀蘭山岩画(8000 BC−1000 BC〔西夏が残したものもあり〕)。彼らのカミサマ(太陽神)らしいw スキタイやサカの岩画ほど洗練されておらず(というかヘタ過ぎる)、また石峁期(図2)のような攻撃性も全くなく、ほのぼのした雰囲気。チベット・ビルマ的なものを感じる。森に覆われ、動物に囲まれて、悩みなどなかったのだろう。

先石峁期〜初期石峁期(2800 BC−2500 BC)のmtHg
G3a2(斉家文化にもあり〔青海〕), D4j3(羌族), Z3, その他M11a (チベット・ビルマ系含む), D4b, D5a, B4c, F1等。Dが最大(24%)。

石峁期(政治・宗教の中枢, 2150 BC−1800 BC)のmtHg(生贄を除く)
C4a2(匈奴・アルタイ系), D4j(羌族), G1c, G2a1(Gにおいて最優勢), A6(チベット・ビルマ系含む)。Gが最大(43%)。G3a1'2も石峁期だが平民層。
Sacrificed: mtHg-A+152C, A5, B4, F1, F2, D4, D5, M7, M10, Z3.

--------------
参考
Rock Paintings of Helan Mountains(賀蘭山岩画)
Helanshan Rock Art is representative of rock paintings in northern China, with rich and concentrated subject matter. As of December 2020, tens of thousands of petroglyphs have been discovered,[5] and they were created between 10,000 and 3,000 years ago.[6]

[5] "Ningxia "digitally" protects the rock paintings of Helan Mountain". Xinhua News Agency. 2021-01-02
[6] "Ningxia Helan Mountains: An Unforgettable Journey to the Secret World". Sina. 2009-09-05.


制限解除 管理人 投稿日: 2022年08月13日 21:22:30 No.112 【返信】

投稿時間の制限はとりあえず解除しました。良識あるご活用をよろしくお願いします。



「遠すぎる親戚」 Silk Road 投稿日: 2022年08月12日 23:24:49 No.110 【返信】

DNA testを受けて、山東省に西暦200年頃に遡る「遠すぎる親戚」ができました。

彼は張さんといいますが、祖先は河北省から越してきたそうです。日韓人の原郷と想定されている西遼河流域の、私の同族でしょう。

あるいは、渡来人の張安や、山東の신라방(新羅房)と청해진(淸海鎭)を拠点にした「海上王」장보고(張保皐)と関係しはしないかと思っています。

親戚付き合いしない私ですが、張さんにはお中元の画像でも贈りたいと思います。

河北省がルーツの張さんは、4. 清河张氏か5.范阳张氏だな。
郡望
1. 安定张氏,郡望安定郡
2. 敦煌张氏,郡望敦煌郡,敦煌郡为汉武帝从酒泉郡分置。在今甘肃省河西走廊西端。
3. 武威张氏,郡望武威郡,武威郡为西汉置。相当于今甘肃省黄河以西,武威以东地区。
4. 清河张氏,郡望清河郡,清河郡为汉高帝置。相当于今河北省清河至山东省临清。
5. 范阳张氏,郡望范阳郡。范阳郡为三国时曹魏改涿郡为范阳郡,在今河北省涿县及北京市昌平县,房山县一带。
6. 南阳张氏,郡望南阳郡,南阳郡为战国时秦置。相当于今河南省南阳市一带。
吴郡张氏,郡望吴郡,吴郡为汉末年分会稽郡置。在今江苏省长江以南一带。治所吴县,即今江苏省苏州市。

来源
1. 黄帝的孙子(一说为第五子)名挥,官为弓正(监管制造弓箭的官),观弧星,始制弓矢,主祀张星,因姓张氏,其后裔居于尹城青阳郡(今河北清河,或说山西太原),是为清河张氏。[4]
2. 源自长姓,张字和长字在战国以前互为通假,“张”姓在春秋之前,并不是写作“张”,而是“长”。[5]
3. 出自春秋时期,源自解姓。晋国大夫解张,子孙以“张”为氏。而三家分晋后,此支张氏后代分居韩国、赵国、魏国[来源请求]
4. 源自聂姓,三国曹魏名将张辽原姓聂,先人为西汉山西马邑巨商聂壹,曾献计汉武帝于马邑围捕匈奴军队。
5. 满族、蒙古族、藏族、壮族、苗族、瑶族、黎族、阿昌族、纳西族、傈僳族等少数民族均有改张姓者,台湾原住民亦不乏用张姓之人。


幣立神宮ライン 管理人 投稿日: 2022年08月12日 15:29:22 No.109 【返信】

ちょっと幣立神宮について調べることがあり、この神宮に関係する方位ラインを作成してみました。図1のとおりです。

ここでは、まず西都原古墳群⇔幣立神宮⇔杷木神籠石⇔鎌田原遺跡西部⇔立岩遺跡への西70度偏角のラインがあります。

また、幣立神宮⇔白岩遺跡東部⇔唐原山城⇔山陽小野田市の小野田への南北ラインが見えます。


さらに、幣立神宮⇔女山神籠石南部⇔与止日女神社への西40度偏角のラインと、幣立神宮⇔古城山への東50度偏角のラインとが直交していることもわかります。

その他、幣立神宮⇔おつぼ山神籠石への西30度偏角のラインもあり、以前も指摘したおつぼ山神籠石⇔平塚川添遺跡東部⇔唐原山城へのラインとも関わってきそうで卯s。

また古城山に関しては、古城山⇔女山神籠石北部⇔おつぼ山神籠石への東西同緯度ラインがあり、さらに古城山⇔白岩遺跡(高地性集落)⇔⇔小迫辻原遺跡⇔杷木神籠石⇔平塚川添遺跡への西15度ラインの存在を考慮すると、古城山にも弥生時代の高地性集落や山城があったことが予想されます。

この幣立神宮については、熊本県上益城郡山都町大野に鎮座する神社で、日の宮(ひのみや)ともいう社伝によれば、神武天皇の孫である健磐龍命が、阿蘇に下向した際この地で休憩し、眺めがとても良い場所であると、幣帛を立て天神地祇を祀ったとの伝承があるようですが、山都(ヤマト)町の西部に位置していることからみても、ヤマト・邪馬台国と関わりそうな地ではあります。

主祭神は、神漏岐命、神漏美命で、また健磐龍命は神八井耳の子で、妻に阿蘇比咩命がおり、阿蘇君の祖となるようで、神武・オオヒコ等の南方航海民の系譜に属する九州中部を支配していた集団のように見受けられます。

関連して今回の西都原⇔幣立神宮⇔立岩遺跡ライン上に見える立岩遺跡からは、甕棺内から計十面の前漢時代の鏡をはじめ、剣、戈、鏃、釶など豊富な鉄製品、銅矛が出土するとともに、更に大量のガラス製や南海産のゴホウラ貝の装身具類などの発見もあり、これらは全体として弥生時代における遠距離交易を示唆するものとされているので、やはり南西諸島に起源がある南方航海民との接点が見て取れます。

このラインの年代的には、西都原古墳群の時期、弥生末期から古墳時代初期で、イザナギ・山幸神話などを携えて九州経由で畿内へと進出していったことと関係するのでしょう。

そして、そこに与止日女神社がみえてくることも、以前指摘したように、女王・台与との関係でとらえると、その年代の状況を示しているラインと言えるかもしれません。




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