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関東弥生遺跡ライン 管理人 投稿日: 2024年06月02日 23:50:58 No.537 【返信】

先日、阿伎留神社に関わる方位ラインをお知らせしましたが、その際に鹿島神宮や弥生時代の大塚・歳勝土遺跡、池上・小敷田遺跡、さらには阿伎留神社の阿比留草氏の拠点であった畔蒜郡との関わりをライン面から指摘したことがありました。

その後、三殿台遺跡について知る機会があり、この弥生遺跡との関係を確認したところ、図のようなラインがみえてきましたのでお知らせいたします。

ここで、その三殿台遺跡については、三殿台遺跡⇔大塚・歳勝土遺跡⇔日枝神社⇔池上・小敷田遺跡への西78度偏角のラインがことがわかります。

このラインと直交するのが、阿伎留神社⇔日枝神社⇔鹿島神宮への東12度偏角のラインとなります。

その交点の日枝神社付近については、清瀬市郷土資料館がありますが、この周辺の弥生遺跡等にも留意しておくべきでしょう。

その日枝神社については大山咋、大己貴神を祀っており、後者は阿伎留神社でも祀られている点で共通するのですが、境内に柊(ヒイラギ)の老樹があり、景行天皇の代に日本武尊が東征の際、柊の根本に憩い「清キ土ナリ」とのたまいけるとて、爾来この村を清土(きよど)と称したるも何時の頃よりか、清戸と改められたとの記録があります。

また、その大山咋神は、大年神の子で、別にその御名を、山末之大主神となり、秦氏の松尾大神と関わることは先日お知らせしたとおりで、阿伎留神社関連のラインと秦氏の関係を考慮すると、この地にも秦氏の拠点があったのかもしれません。

なお、図のように、氷川神社⇔日枝神社⇔大塚公園への東60度偏角のラインがあり、これが、先日指摘した阿伎留神社⇔大塚公園⇔畔蒜郡(久留里)への西30度偏角のラインと直交しています。

その阿伎留神社⇔氷川神社ラインについては、延長線上に虎塚古墳があり、こちらも出雲国造系の武蔵国造や壁画横穴墓を残して渡来系集団の影響が予想されます。

その大塚公園の東部でラインが交差しますが、そこには復元された縄文住居がありますが、その東北方面に大塚八幡神社があり、ここに大きな塚=古墳があったことによるとされますが、そこにある八幡神社にある日向古墳は径13m、高さ2.5mの円墳で「大塚」とみなすにはやや物足りない感じがします。

その件は、過去にもこの八幡神社を載せている丘陵自体を直径100m前後の円墳と見なす説があるようで、その詳細はこちらのサイト(http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1005.html)を参照してほしいのですが、実際、断面図からいくと、図3のように、直径100m前後の円墳もしくは、直径200m前後の前方後円墳と考えたほうがよいのではないでしょうか。その頂部に小さな円墳があるように見えます。

その大塚八幡神社(日向古墳)は139度25分28秒にありますが、この真北に吉見百穴があり、同じく139度25分29秒となり、さらにその真北には図のように池上・小敷田遺跡があり、この地が奈良時代まで藤原・物部氏と関係することを考慮すると、このライン上に重要な政治拠点があったことも十分に考えうることです。

そしてその吉見百穴は、先日お知らせした図3のように、阿伎留神社⇔吉見百穴⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)への東60度偏角のライン上にあり、その埼玉古墳群の奥の山古墳は6世紀代の前方後円墳で、その北側に直径105mの巨大円墳・丸墓山古墳があることにも留意しておくべきでしょう。

実際、その北の丘陵地には帝京大学構内遺跡があり、この周辺も後代の俘囚の遺物が残っていることからみて、それ以前からの拠点があった可能性がありそうですが、近いうちに、関東へ出かけるので、この周辺も探索してみたいと思います。




新・全国神社・古墳ライン 管理人 投稿日: 2024年05月29日 03:17:45 No.526 【返信】

先日、古代関東の古墳や諸社の測量の中心地点として阿伎留神社周辺があることをお知らせしましたが、その後も阿伎留神社周辺についてライン面で調べてみた結果、鹿島神宮や物部氏の岩船信仰との関わりがみえてきたのでお知らせします。

そのライン図が図1となり、図2,3は拡大図です。

ここでまず、阿伎留神社に関連して、阿伎留神社⇔磐舟神社⇔高森古墳群(宇佐)⇔山田(朝倉市)への東20度偏角のラインが明らかになります。

この磐舟神社は物部氏の岩船信仰の中心拠点となり、またその山田(朝倉市)には卑弥呼の墓ともいわれる長田大塚古墳が存在します。

次に岩水神社⇔御影神社⇔阿伎留神社⇔鶴岡八幡宮への西55度偏角のラインも確認できますが、岩水神社は中野市の岩船信仰の拠点となり、また図のように、伊勢外宮⇔岩水神社⇔岩船神社への東60度偏角のライン上に位置しています。

その御影神社については由緒不明であるものの、そのそばの御嶽山については、大己貴が祀られている点で、阿伎留神社と共通することがあります。

その鶴岡八幡宮については、阿伎留神社の阿比留文字と同様に日文と呼ばれる古代文字があることは先日お知らせしたとおりです。

そして上記ライン上の岩水神社については、図のように岩水神社⇔楯築墳丘墓⇔高森古墳群(宇佐)⇔女山神籠石への東30度偏角のライン上にあることもわかります。

このラインと平行になるのが、高千穂神社⇔天岩戸神社(東部)⇔磐舟神社⇔綿貫観音山古墳への東30度偏角のライン、宮崎神宮⇔伊勢外宮⇔阿伎留神社への東30度偏角のラインとなります。

この3本のラインは、物部氏の測量を行っていく上で中心軸として機能していたラインと思われ、そこに阿伎留神社が関わっていることに留意しておくべきでしょう。

これらの当初の拠点は九州にあり、この3本のラインと直交するのが、以前からお知らせしている平原遺跡⇔女山神籠石⇔山田(西都市)古墳状地形⇔宮崎神宮への西60度偏角のラインとなります。弥生時代後期には存在していたラインでしょう。

そこから、ある時期に東遷した集団がおり、一つには物部氏の祖のニギハヤヒと妻トビの東征伝承であり、もうひとつは、日向・宇佐・吉備経由での神武東征となるはずです。

かれらの信仰は天岩戸・高千穂に関わるアマテラス信仰で、その信仰拠点は伊勢へと後に移動していきます。

そこから、その後、物部氏の東方展開とあいまって、東国の岩水神社・岩船神社周辺や、阿伎留神社周辺、群馬の綿貫観音山古墳周辺へと移動していく集団があったはずですが、その際に、阿伎留神社にも祀られている加茂氏の祖の味鍬高彦根や、土師氏の祖の建夷鳥等が祀られていったことを予想します。

そして、同時期に秦氏の東方展開もあり、芝山古墳群や虎塚古墳なども造営されていったはずですが、そこにユダヤ人風の埴輪などシルクロード文化との接点が見えてくるわけです。

なお、図3のように、綿貫観音山古墳⇔子ノ神古墳群⇔芝山古墳群への西30度偏角のラインがあることは以前もお話したとおりですが、この子ノ神古墳群に関しては、阿伎留神社⇔子ノ神古墳群⇔鹿島神宮への東10度偏角のラインがあり、鹿島神宮と子ノ神古墳群との接合の経緯についても考慮しておくべきでしょう。

そして芝山古墳群⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインもあり、これらは間接的に鹿島神宮を測量起点とすることによって位置付けられているわけです。

その他、先の岩水神社⇔池上・小敷田遺跡への南北ラインがあり、池上・小敷田遺跡からは弥生遺跡の他、平城京時代の藤原氏に関する遺跡があることも知られています。

その周辺には埼玉古墳群の他、藤原町にある八幡山古墳があり、この古墳は633年に武蔵国造として任じられた物部連兄麻呂の墓との見方もあります。

そこで、また先の岩水神社と阿伎留神社、そして鶴岡八幡宮へのラインを考える必要が出てくるのですが、まず阿伎留神社には藤原・中臣氏の祖・天児屋根が祀られていることからも藤原・中臣氏との関係を明らかにしうるでしょう。

その鶴岡八幡宮周辺には源氏による鎌倉時代以前の遺跡が存在していなければならず、特に方位ライン面での正確な位置は、鶴岡八幡宮北部の新宮社周辺となるはずですが、ちょうどその鶴岡八幡宮と新宮社の間にある裏山が大臣山となり、その大臣山の伝承として、飛鳥時代に東国に拠点があった藤原鎌足の鎌を埋めた伝承があるようです。(こちらのサイト参照 https://鶴岡八幡宮-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/ )

つまり、ここで、当時仏教擁護の蘇我氏と対立していた神道系の物部氏・中臣氏といった東国に拠点を置く集団の影響が見えてくるのですが、その鶴岡八幡宮周辺に彼らの拠点があったと考えると、このラインの位置付けが、物部系の影響にあることも理解しやすくなるでしょう。

その大臣山については尾根上の造営となっており、先の埋葬伝承を考慮すると、中臣・藤原氏関連の古墳のようなものがあった可能性も考慮すべきかもしれません。

その他、鶴岡八幡宮の位置付けについては、先日のライン分析では、浅間大社⇔子之神社⇔羽根尾横穴⇔鶴岡八幡宮へのラインと、鷺宮神社⇔氷川神社⇔鶴岡八幡宮へのラインがあり、加えて鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔浅間大社へのラインとで三角形を構成していました。

また比奈多乃神社⇔鶴岡八幡宮⇔芝山古墳群へのラインもありましたから、比奈多乃神社や阿伎留神社、鷺宮神社を祀る土師氏系の集団と、氷川神社に関わる武蔵国造系、つまり物部系の集団の影響、芝山古墳群等にかかわったであろう秦氏・忌部氏系集団の影響とが考えうるところです。

この鶴岡八幡宮にも、阿伎留神社や伊勢神宮・出雲大社・鹿嶋神宮と同様な日文が伝わっている理由について考えていくと、出雲・武蔵国造と関わる物部系集団の影響も考慮しておくべきかもしれません。

たまたま偶然に、そこに日文が残っているのではなく、必然的な理由で残っていたのではないでしょうか。

なお阿伎留神社にはの千葉の畔蒜(アヒル)郡(久留里周辺)付近から対馬へ渡った阿比留氏からの文字継承があったようで、その阿比留草文字のひとつにハングルに似たものがあるのは、その朝鮮半島からの影響を考えうるところですが、それ以前から彼らが千葉方面で有していた阿比留草文字の一つが、すなわち日文であり、それが阿伎留神社にも継承されていったのではないかと感じます。

ライン面からいくと、その千葉の久留里周辺から阿伎留神社への西30度偏角のラインが想定でき、その延長線上には、先日指摘した柳田布尾山古墳がありますが、またこの30度、60度、90度といった三分角が古代の測量の基礎的な角度であったことからみても、そのラインが人工的なものである可能性が高いと言えそうです。

あと、阿伎留(アキル)、阿比留・畔蒜(アヒル)、久留(クル)里といった共通語音がみえますが、ア+キル・クル・ヒル との関係が想定でき、その語源についても考えてみる必要があ流でしょう。




東日本古墳・神社ライン(続き) 管理人 投稿日: 2024年05月26日 01:24:44 No.517 【返信】

先日、東日本の神社や古墳を結んだ方位ライン(図3)をお知らせしましたが、その際に、阿伎留神社が中心拠点として見えてくることがありました。

そこで、今回その阿伎留神社に関わるラインをさらに洗い出してみたところ、いくらか新たなラインが見えてきましたのでお知らせします。そのラインが図1,拡大図が図2です。

まず、阿伎留神社に関するものとしては、先日も指摘した伊勢外宮⇔豊川稲荷⇔阿伎留神社⇔虎塚古墳への東30度偏角のラインがありますが、また同じく先日お知らせした権現山遺跡⇔阿伎留神社⇔秦野⇔羽根尾横穴への南北ライン上に、図のように十三宝塚遺跡が載ることも判りました。

この十三宝塚遺跡は、奈良時代の遺跡ですが、上野国分寺との関わりが指摘されており、その国分寺については、後述する保渡田古墳群⇔武蔵国分寺へのラインとも関わってくるでしょう。

次に、柳田布尾山古墳⇔阿伎留神社⇔大塚・歳勝土遺跡への西30度偏角のラインが明らかになりますが、この柳田布尾山古墳は3世紀末から4世紀初頭とされる前方後方墳となり、また大塚・歳勝土遺跡も、弥生時代中期の遺跡で、方形周溝墓を出土している点で、このライン上にある阿伎留神社周辺が、弥生~古墳時代初期には開拓されていた可能性も見えてくるでしょう。

その柳田布尾山古墳については、図のように、元伊勢・籠神社の奥宮の冠島(水没した弥生遺跡あり)を起点として、東40度偏角のラインを構成し、これと直交するのが、冠島⇔伊勢外宮への西50度偏角のラインとなります。

ここで、冠島⇔芝山古墳群の同緯度東西ラインがあることも先日お知らせしたとおりですが、その芝山古墳群については、芝山古墳群⇔大塚・歳勝土遺跡⇔長池(山中湖:呉金印出土地)⇔熱田神宮への東10度偏角のラインも確認できます。このラインは先日も指摘しましたが、ライン上に先の大塚・歳勝土遺跡が載ることがあり、この遺跡周辺に芝山古墳群等が形成された6世紀頃の遺跡もあるのではないかと感じます。

そのことは、羽根尾横穴⇔大塚・歳勝土遺跡⇔阿弥神社への東40度偏角のラインの存在からも明らかにできそうですが、このライン上には皇居南部があり、そこで先の冠島⇔芝山古墳群ラインと交差している点にも留意しておくべきでしょう。このあたりにも過去に神社や遺跡があった可能性がありそうです。

その阿弥神社については、フツヌシ神を思わせる伝承が残っており、図のように伊勢外見宮⇔長池(山中湖)⇔武蔵国分寺⇔阿弥神社への東28度偏角のラインがありますが、その阿弥神社⇔十三宝塚遺跡⇔保渡田古墳群への西20度偏角のラインも確認できます。

そして、その保渡田古墳群⇔虎塚古墳の同緯度東西ラインも確認できるのですが、その保渡田古墳群は5世紀後半から6世紀前半とされるので、それより後の7世紀初頭の虎塚古墳や奈良時代の十三宝塚遺跡を含めて、これらは先の弥生時代に関わるラインと比較して、新しい時代の方位ラインと考えうるでしょう。

ともあれ、ここでも武蔵国分寺が関わってくるように、武蔵国造時代の拠点を後代まで継承してこれらのラインを構築していったように見受けられます。

そして、その武蔵国造等が中心拠点としていたのが先の阿伎留神社周辺地域となるはずで、そこに仮名文字の原型とされる日文(阿比留草文字)が残っていたことも偶然ではなく、必然的な結果であるようにも感じます。

なお仮名文字については、通説では漢字の崩しと考えられていますが、実際にその元となった漢字をみていくと、こじつけに近いものが多く、仮名文字の起源として、この日文も考慮しておくべきと感じますが、その件については、また後日改めて説明したいと思います。


弓張月 投稿日: 2024年05月27日 15:43:36 No.523
プレジデントオンラインに「あの「国家安康」の銘で家康の名が入ったのは偶然ではない 大坂冬の陣の契機となった方広寺鐘銘事件の真相」
歴史は繋がっているのですか?
 
 
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大坂冬の陣が勃発した1614年、徳川家康は将軍職を息子の秀忠に譲り73歳になっていた。国際日本文化研究センターの呉座勇一さんは「発端は豊臣家が京都に建立した方広寺大仏殿の鐘に『国家安康君臣豊楽』と家康の諱を分割した銘文を刻んだこと。淀殿や秀頼は否定した...
president.jp
弓張月 投稿日: 2024年05月28日 21:16:25 No.525
ずっと思っていたんですが、箱根町のの遊覧船があのタイプなのでしょうか?

芦ノ湖の「芦」は、穂の完全に出ていない状態の「あし」でした。
箱根町の「箱」は、〔竹冠に相 (桑・草 あい(愛(いと・糸)・間)〕
箱根関は、東海道五十三次の9番目の小田原宿と10番目の箱根宿の間です。

遊覧船のタイプと合わせてなにか意味をもっているのでしょうか?(遊覧船は3隻でしたかね。


無題 荊の紀氏 投稿日: 2024年05月26日 02:18:40 No.518 【返信】

十進数 36.316, 140.57036 保渡田古墳群 度分秒 36° 22′ 46.4″ N, 138° 59′ 9.4″ E
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月26日 02:49:06 No.519
訂正 
十進数36.373508,  140.569714虎塚古墳 36° 22′ 24.63″ N, 140° 34′ 10.97″ E

十進数36.316,   140.57036 磯浜古墳群

十進数 36.316, 140.57036 保渡田古墳群 度分秒 36° 22′ 46.4″ N, 138° 59′ 9.4″ E
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月26日 02:54:13 No.520
訂正 
十進数36.379556, 138.985944 保渡田古墳群 度分秒36° 22′ 46.4″ N, 138° 59′ 9.4″ E


校野市(かたのし) 弓張月 投稿日: 2024年05月25日 06:04:48 No.511 【返信】

ウィキに「星田、天野川、八丁三所伝説、七夕伝説など星にまつわる地名・伝説が多い。」とある「かたのし」ですが、これ漢字と読みが正反対ですよね。


名所・旧跡
源氏の滝
月の輪滝
機物神社
開元寺(岩倉開元寺)
遍照山攝取教寺光明院(倉治)
磐船神社    から連想すると、やっばり、取り合い(平家物語状態)からの地名「かたの市」誕生?

https://ja.wikipedia.org/wiki/交野市
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月25日 22:16:21 No.515
肩野物部氏(鉄の王)
古墳時代には、鉄器生産跡が残る森遺跡群など「交野の王」の墓が数多く造られました。


東日本神社・古墳ライン 管理人 投稿日: 2024年05月18日 02:44:11 No.497 【返信】

先日、仮名文字の起源とも言われる日文(阿比留草文字)が残る阿伎留神社や出雲大社、伊勢神宮、鹿島神宮、鶴岡八幡宮等を結んだ方位ラインを作成しましたが、改めて阿伎留神社に注目しながらラインを作成しなおしてみたものが図1となります。図2はその拡大図です。

こうみると土師氏の祖の建夷鳥や加茂氏の祖の味鍬高彦根を祀った阿伎留神社が、意外にも関東の諸社や古墳群を造営した豪族たちにとって重要な中心拠点であったことが伺えます。

まず、以前も指摘した鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔長池(山中湖・呉金印出土地)⇔浅間大社⇔比奈多乃神社への東45度偏角のラインがあり、その鷺宮神社と比奈多乃神社でも、土師氏の祖の建夷鳥が祀られていることがありました。

その鷺宮神社については、図のように、芝山古墳群⇔鷺宮神社⇔権現山遺跡への西35度偏角のラインも確認できますが、芝山古墳群ではユダヤ人風の風ぼうの埴輪が発見されたことで最近注目されていることがあります。またその権現山遺跡については、権現山の東側から北側にかけて、6世紀頃の築造と考えられる直径20メートル前後の円墳が30基点在し、古墳群を形成しています。

その権現山⇔阿伎留神社⇔大山阿夫利社⇔秋葉神社(秦野市)⇔羽根尾横穴への南北ラインがありますから、秦野の語源となった秦氏や、同時代(6世紀初頭)の渡来人と予想する横穴墓を造営した九州系集団の影響があったことも伺えるでしょう。

同じく先日指摘した虎塚古墳⇔氷川神社⇔阿伎留神社⇔豊川稲荷への東30度偏角のラインがあり、豊川稲荷も秦氏の松尾大社や伏見稲荷等と関わる稲荷信仰の拠点と考えうることがありました。

同じく阿伎留神社に関するラインとして、多胡碑⇔阿伎留神社⇔寒川神社への西70度偏角のラインがあり、このラインと直交して、芝山古墳群⇔寒川神社⇔豊川稲荷への東20度偏角のラインが確認できます。

この寒川神社については、5世紀後半の雄略朝には存在していたとされ、寒川比古命 (さむかわひこ)、寒川比女命 (さむかわひめ)を祀り、その寒川比古命・寒川比女命は、大水上命の御子とする説があり、また、この二柱は牟弥乃神社(伊勢神宮末社)で祀られています。古代に相模川より東部一帯に勢力を誇った相武国造(さがむのくにのみやつこ)がおり、相武国造の氏神として創祀されたと推定され、近隣に初代相武国造の茅武彦命(かやたけひこのみこと)が埋葬されたと伝わる大神塚古墳(5世紀前半)があります。

また多胡碑については、7世紀初頭の多胡郡の創設にあたっての碑文となりますが、その胡は中国ではソグド人のことであり、シルクロード方面からの渡来人の影響を考慮する必要があることについては、とくに多胡郡の羊大夫の墓から十字架が出土した江戸時代の松浦静山の記録があることにも留意しておくべきでしょう。

そして、そのラインと多胡碑⇔権現山遺跡への東20度偏角のラインとが直交します。

あと阿伎留神社に関するラインとしては、鹿島神宮⇔子ノ神古墳群⇔阿伎留神社への東11度偏角のラインがあり、このラインと平行して、芝山古墳群⇔長池(山中湖)⇔熱田神宮への東11度偏角のライン、同じく平行して莫越山神社⇔比奈多乃神社⇔伊勢外宮⇔日前宮への東11度偏角のラインがあります。

ここで、鹿島神宮、熱田神宮、伊勢神宮、日前宮といった大社が見えてくることがありますが、またその莫越山神社は、忌部氏の祖の手置帆負命を祀るなど、秦氏を祭祀面で統率していた忌部氏の伝承を残している点で重要です。

その莫越山神社⇔芝山古墳群⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインについては以前お知らせしましたが、またこのラインと直交して、芝山古墳群⇔子ノ神古墳群⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインがあることも以前からお知らせしてきたとおりです。

その奥の山古墳⇔吉見百穴⇔阿伎留神社⇔子之神社への東60度偏角のラインも上記2つのラインと平行・直交の関係となるのですが、その子之神社は、先の子ノ神古墳群⇔大山阿夫利社⇔子之神社⇔比奈多乃神社への東35度偏角のライン上にありますから、大国主を祀る子の神信仰を有する集団によってある時期に作られた拠点を考えうるでしょう。実際、上記の阿伎留神社でも大国主と見なされる大物主が祀られており、先日もお話しした出雲国造につながる武蔵国造との関係をこれらの諸社・古墳群を考える上で想定しておくべきでしょう。

あと浅間大社に関しては、浅間大社⇔子ノ神古墳群への東30度偏角のライン、浅間大社⇔羽根尾横穴⇔鶴岡八幡宮への東10度偏角のライン、鶴岡八幡宮⇔氷川神社⇔鷺宮神社への東82度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

その鶴岡八幡宮については、正確なラインの交点は八幡宮の北の新宮社周辺となりますが、鎌倉時代にこの八幡宮が建てられる以前にこの場所に何らかの拠点があった可能性を感じます。そしてそこに日文が伝わっていたのかもしれません。

以上のように、これらの諸社や古墳を結ぶ方位ラインをみていくと、そこには先日指摘した土師氏の他に、秦氏やその祭祀を司った忌部氏、横穴墓を造った6世紀前半の渡来人の影響が見えてくることがあり、その彼らによって日文がもたらされ、結果としてシルクロードに関わる文化、特にユダヤ商人の影響がもたらされることとなったのではないでしょうか。

その彼らの影響は、日本の神道諸社や文字文化に至るまで、一般的に考えられている以上に大きいものがあり、そのことへの気づきが今問われているように感じます。


弓張月 投稿日: 2024年05月18日 13:23:33 No.498
「宍喰」の由来には、「宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。」と
 
なので、「足喰」を検索したら、かしまの伝説「足喰(あしばみ)の池」がありました。
鹿島寺宮には、御手洗池(みたらしいけ)ありましたね。 たらし=足=手洗
https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50211.html

宍喰町の金目は「かなめ」でしたね。かなめは要とすると、鹿島神宮の要石 この一致、不思議ですね。
弓張月 投稿日: 2024年05月18日 16:51:16 No.499
かしまの伝説は、「鹿島デジタル博物館」鹿嶋市教育委員会 社会教育課のサイトにあった。
この中に、猿田(さるた・さんだ)の地名由来について興味深いのは、
「さんだ」で、『サンダ』は『寒田』の『む』が『ん』に変わって、『サンタ』が『サンダ』となった。と猿田(サンダ)は、発音通りいけば山田(サンダ)である。と

https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/73613.html

猿田は、「『寒田の沼』は今の『神の池』(現在の神栖市)であり、その以北を『寒田の里』と呼んだ。寒田の里の北の境界は、『猿田山』

詳しくは、「鹿島デジタル博物館」を見てください。
管理人 投稿日: 2024年05月20日 00:36:52 No.500
ご指摘ございました寒田と関係するかもしれませんが、先の寒川神社の寒の語源について、サガム国造と関連して、サガム河、後のサガワとなるようです。

そのサガムの意味がわからないのですが・・・
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月20日 12:45:31 No.501
>寒川神社の寒の語源について、サガム国造と関連して、サガム河、後のサガワとなる
サカー:見渡す、調査 https://www.historyjp.com/dictionary/

秦氏が、相模国に入植した時期はわかりません。
古墳時代末期の7~8世紀に渡来人の技術で造営された桜土手古墳群が、秦氏の古墳と思われます。https://ameblo.jp/abiraunken-0618/entry-12359624210.html
弓張月 投稿日: 2024年05月21日 15:08:20 No.502
私には理解不能な世界ですが、

サガム国造の「サガム」は、《古事記》は〈相武〉と書いて〈佐賀牟〉とよみ,《和名類聚抄》は〈相摸〉と書いて〈佐加三〉とよんでいる。
デジタル大辞泉 - 相模川の用語解説 - 神奈川県中央部を流れ、相模湾に注ぐ川。山中湖に発し、相模湖までの上流を桂川、河口付近を馬入ばにゅう川ともいう。長さ約109キロ。
kotobank.jp


相武は、「そうぶ」と読めば、双部になりますね。毛利氏と森氏は相模国森荘が発祥でした。相模(さがみ)は愛神ですと「あ・阿・安」と「い・伊・井」の神。とても難しい


だだ、『サンタ』が『サンダ』が発音通りいけば山田(サンダ)だと、水戸,三戸・都,産土神を「さんと」とすると、みんな大和(ヤマト)に化けますね。
弓張月 投稿日: 2024年05月21日 15:30:48 No.503
どうしても、忘れ物が多いです。

産土神(うぶすながみ)の「産土(さんど)」ですと、大和(ヤマト)以外に、英語のサンド「砂」ですね。金砂神社の金砂とは、金の産土(うぶすな)。金目(かなめ・要)と同じに感じますね。
弓張月 投稿日: 2024年05月21日 21:35:51 No.504
話しは変わって、昨日、日光輪王寺の三仏堂のTVありましたね。三体の大仏は阿弥陀如来,千手観音,馬頭観音だそうです。長野善光寺の本尊の一光三尊阿弥陀如来とは、一緒にならないようですね。面白そうなのは、善光寺が午年の守り神が地勢菩薩で南、馬頭観音も馬頭なので南でしょうか?
常陸太田市馬場町の坂では、東に下りていく坂が観音坂、一方西に下りていく坂は乱波坂(らっぱざか)があり、どちらも馬頭観音がある。馬場町の馬場ですね。
弓張月 投稿日: 2024年05月22日 05:21:56 No.505
秦氏と言えば、お稲荷様です。

「お稲荷さんのキツネは、神様の使いで神様ではありません。古くは、春に「山の神」が里に降り、「田の神」となって稲の生育を護り、秋の収穫後、山に帰って「山の神」となる信仰がありました。」

これも、春秋一対で「山田」ですね。
弓張月 投稿日: 2024年05月23日 15:22:17 No.506
あまり興味が無かった 「佐竹寺(旧称 観音寺)」ですが、

平安時代中期の985年、花山法皇が、坂東巡礼の折、天神七代の安寧を願い、勅願で、鶴が池の北、洞崎の峰に創建した観音霊場「観音寺」を建立した。
 1131年頃、源昌義が、近習8人で観音寺に下向し居住、「昌義」が、観音寺参拝の折、20尋に節が一つしかない竹を見て「吉兆成り」と姓を郷名の「佐竹」にしたと言われている。佐竹氏を名乗った1140年以降、佐竹氏の祈願寺となる。

 その後、鎌倉時代前期の1269年6代「長義」が、「佐竹寺」と改める。鎌倉幕府になって、鎌倉後家人が関わる古代以来の観音霊場として坂東33観音霊場を選定し、佐竹寺は、その22番霊場となった。 と

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平安時代末期の1131年、清和源氏の源義光の孫「源昌義」が、京より下向し、佐竹郷の鶴ヶ池北東
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「旧称 観音寺」と「観音霊場として坂東33観音霊場を選定し、佐竹寺は、その22番霊場」からの想像:
天皇系図で第22代天皇は清寧天皇で、物部系図で、私の謎解きコードを使い応神天皇を一代とすると雄略(尾を略す)を天皇と同じ五代目となります。観音寺となると母子神とすると、清寧天皇と葛城韓媛(かつらぎのからひめ。葛城円大臣の女)ですね。
真言宗豊山派の総本山の寺院は長谷寺(はせでら)です。雄略天皇の名は、ウィキペディアに、大長谷王(おおはつせのみこ) - 『古事記』,大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号 等々あるようですね。この関係は佐竹寺にもつながるのでしょうか?
常陸太田市には長谷町に、佐竹氏に追われた小野崎氏の墓がある長谷寺がありました。
水戸三十三観音霊場の第12番札所 12代天皇は景行天皇で、常陸風土記信太郷に、「郡より北十里のところに、碓氷がある。昔、大足日子おほたらしひこの天皇(景行天皇)が浮島うきしまの帳とばりの宮に行幸されたときに、飲み水に困った。そこで占部うらべをして占ひをさせて、井戸を掘らしめた。その井戸は、今も雄栗をぐりの村にある。」と
また、『常陸国風土記』によると、白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり、とされる。と
https://perehirot.wixsite.com/maboroshikannon/blank-16
キーワード 「あし・葦・足」もあり、二所でもあるし、西宮神社が鯨が丘の常陸太田市の市街地の東にありますし、まさしく平家物語状態ですね?

「源昌義が境内にて二十尋に一節しかない奇竹を発見し、出世の前兆と感じ取って「佐竹」と称したのが由来とされています。」からの想像:
こちらは、「尋:ひろ。長さの単位。日本では六尺」と20
六尺から、陸尺(ろくしゃく)≒宍  と 「20」は憲法20条は政教分離、伊勢神宮最大のお祭り式年遷宮は20年に一度、と20代天皇は安康天皇。
徳川家康公の「家康」は、家=義家・康=安康で、大義と安康を重んじた? 
弓張月 投稿日: 2024年05月23日 15:50:26 No.507
宍戸町の纏には、「三つ葉葵紋」

ホーリーホックは、三つ葉葵からとのこと。
英語で「葵」は、hollyhock で、

「hock」の意味は、
  1飛節,後脚くるぶし関節(◇ブタなどの後脚の球節の上の関節;その肉)
  2鶏のひざ

 
hockとは。意味や和訳。[名]1 飛節,後脚くるぶし関節(◇ブタなどの後脚の球節の上の関節;その肉)2 鶏のひざ━━[動]他…の飛節の腱けんを切って後脚を不自由にする - 80万項目以上収録、例文・コロケーションが豊富な無料英和和英辞典。
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女化神社(女化稲荷神社) (竜ケ崎市) 青面金剛 投稿日: 2024年05月17日 23:39:12 No.495 【返信】

陰陽師0を観てきました。
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安倍晴明の末裔「土御門家」の正体 
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平安時代、陰陽道の国家機関・陰陽寮で天文博士という役についていた安倍晴明。彼の末裔は晴明の邸宅近くにあった土御門大路を由来とする「土御門」を室町時代頃から名乗るようになります。しかし、土御門家の起源となった安倍氏のルーツを紐解いていくと、この「土...
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[女化神社(女化稲荷神社) (竜ケ崎市)] いばらき探検隊
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女化神社(牛久・龍ヶ崎)(1)
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