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魏志倭人伝の分析2 管理人 投稿日: 2023年08月30日 01:28:46 No.326 【返信】

先日に続いて魏志倭人伝を読み直していきたいと思いますが、今回は下記の記載に注目してみましょう。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡


ここで、女王国より以北の国ついては戸数や道里を略載することができたが、その餘りのかたわらにある國については、遠すぎて 詳しく明らかにすることはできないと言っていますね・

つまり女王国の北に位置する伊都国などから投馬国までは、確かに戸数や道里(距離)は掲載されているのですが、それ以後の後半の諸国についてはその記載がないことと一致しています。

ここで撰者は投馬国を女王国の北にある国だと認識していることがわかります。

南至邪馬壹國 女王之所都

とあるが、女王国連合?の中に邪馬台国があるという理解のようにも見えます。

それは、残りの21国の最後に此れ女王の境界の盡きる所なりとあるように、この21国も女王国の連合国とみなしているのでしょう。

邪馬台国については、その女王が都するところであり、都市や小さな地域の地名として残っている可能性があり、それが南西諸島から九州や吉備・畿内のヤマトの字名と関係してくるはずです。

ここで、官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸 とある七万戸は、その21国の不明な戸数は含まれておらず、九州福岡方面の奴国のような一地域の戸数と理解すべきでしょう。福岡平野の数倍前後の農地を持つ平地である可能性がありますね。

そして、その官職ですが、長官の伊支馬はイチマで、次官が彌馬升(ミマ・ショウ)、次が次が彌馬獲支(ミマ・ワキ)となりますが、この升は、漢書の倭国王師升(スイ・ショウ)、女王国からの使者の難升米(ナン・ショウ・マイ)の升との称号になりますから、王から王族の地方長官クラスとかんがえるべきかもしれません。

これはその次の彌馬獲支(ミマ・ワキ)とも関係して、ミマという地域が邪馬台国(ヤマト)にあり、その支配者としてのミマがいたと考えると、後代の崇神天皇がミマキ・イリヒコとなることとも関係するはずです。

崇神は、ヤマトの王族の中でもやや下に位置するミマという地域の豪族だったのではないでしょうか。

これは物部氏の祖の三間(ミマ)君とも同類で、水沼県主(ミヌマ)とも対応するはずですから、物部氏と関わる筑後川沿いの支配者もしくは、畿内でいけば三輪山方面の支配者が想定しうるでしょうか。

ここで、ミマ⇔ミワの変換も予想しうるのですが、彌馬獲支(ミマ・ワキ)自体にすでにミワの語音を含有していることにも注目すべきです。

彌馬獲支(ミマ・ワキ)は、ミマという地域の皇族の別流となる別(ワケ)・君(キミ)の意味かもしれません。後代の応神のホムダ・ワケのワケと見なしてよいでしょう。

ヤマトとミワの組み合わせは九州朝倉方面や吉備、畿内大和方面等に見えてくるので、このセット関係を考慮しておく必要があります。

ここで難升米の難(ナン)も、その支配地域名だった可能性があり、邪馬台国に近い地域に位置する同じ系統の官職を持つ集団の長であり、難(ナン)との地域のそれだとすると、奴国のナに関わるかもしれません。

奴国は、那珂(ナカ)地域と関係するとみられてますから、ナのカワ⇒ナンの対応で、福岡北部の豪族を、卑弥呼が帯方郡方面へと遣使した可能性がみえてきます。

同様に倭国王の帥升も、帥(シ・スイ)との地域の豪族であり、漢からは倭国王とみなされていたと考えると、金印が出土した志賀(シカ)島周辺に、そのシ・スイと関わる地名が残っている可能性があるでしょう。

その上位にいた皇族は、ショウと呼ばれていたはずですが、さらにその上位にいた長官が伊支馬はイチマで、イチとの称号をもっていたはずです。

市磯長尾市のように、箸墓のあるオイチ(大市)を治める守とすると、ミマキイリヒコの時代の人物ですから相関性がみえてきそうです。

そのイチは、女王国北部の諸国を監視・統率し伊都国にいた特別な官職・一大率(イチダイソツ)のイチにかかるかもしれません。伊都国にはまた別に長官の爾支(ニギ)、副は泄謨觚(セツバクコ)、柄渠觚(ヘイヒョウコ)がいます。

ここで、次の奴国の長官の兕馬觚(ヒマコ)、副官・卑奴母離(ヒナモリ)、また壱岐対馬の長官・卑狗(ヒク)、副官・卑奴母離(ヒナモリ)を考慮すると、伊都国の副官・泄謨觚(セバクコ)は、奴国の「ヒマコ」に、同じく柄渠觚(ヘイヒョウコ)は、卑狗(ヒク)に対応する官だったと考えうるでしょう。

ここで、伊都国では謨(バク)を用いるのに対して、奴国では馬(マ)音を用いてますから、前者は馬の中国北部方言のバを、後者は馬の呉音のメを用いる集団であった可能性があり、初期の弥生人の故郷の長江方面の呉音をもちいていた奴国連合のところへ、ある時期に朝鮮半島方面から北部中国系の集団が伊都国を造っていった構造が浮かびあがってきそうです。

そこで伊都国にみえてくるのが、漢音の一(イツ(漢音)・イチ(呉音))を長官とする集団の影響ですが、同じくその長官の爾支(ニギ)の二も、数字の二(ジ(漢音)・ニ(呉音))の影響で成り立っていたことも予想しうるでしょう。

そのニギが、天孫降臨に出てくるニギ・ハヤヒ、ニ・ニギといった外来系集団となるはずです。

そのニニギは北部九州から高千穂・日向・薩摩方面へと南下していき支配を広げていくわけですが、先の邪馬台国の官職としては、一番目にイチマがおり、このマは呉音系の名残を残しつつ、次官には彌馬(ミマ)が入るので、この彌(ミ)が、三(サム)のムにかかり、倭訓のミにもかかっていた可能性があるでしょう。

倭訓は高句麗祖語のそれでしょうから、全体的には朝鮮系の影響があるのでしょう。

最後にみえてくる4番目の序列の官の奴佳鞮(ヌカダイ)についても、奴が地名を表していた可能性があるでしょう。

そうすると、奴国や、周辺21国にも多くみえてくる●奴国の長官と考えると、郡県の地方長官といった具合に理解できそうです。

ここで、後代の県主(アガタ・ヌシ)がありますが、そのアガタと、このヌ・カダイのカダイが音的に近いように感じます。

アガタは、大きい「ガタ」の意味ではないでしょうか。そのカタが、カダイに対応するわけです。

このように、邪馬台国とその北部諸国の官職構造から、その集団の故地や言語系統まで明らかにしうる可能性がみえてきますが、実際に先の21国がどこに位置していたかを明らかにできれば、概ね邪馬台国の位置もみえてくるはずです。その辺についてはまた後日考えてみましょう。


斐太神社の「斐」を考える 弓張月 投稿日: 2023年08月21日 12:06:20 No.319 【返信】

「斐」をひふみ(一二三)とすると、いろんなことが連想出るようですね?

その中で、「非」は樋知大神社 (ひじりだいじんじゃ)と出雲国に樋社があることから「樋」とすると、「文(二三)」の読には、「あや(阿彌)」がありますね。そして、茨城県では阿彌を「あみ」としていて、阿弥神社があります。また、「み」は、水戸の「水・三(東海道五十三次の五十番宿は水口,壬生(みぶ)は、み=三・水から水府)
言いたいことは、弥彦神社の「いやひこ」で、「あや」に対して「いや」であって、「いやひこ」とは、「母子」のことでしょう? 高志国と言えば、沼河比売なのでしょうから。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 09:37:12 No.320
「二三」を国道23号から想像することは、

 23=二見で、伊勢の「二見浦」となりますね。
 二見は、本は双見でしょうか?
 となると、双(そう)⇒相(桑・草)⇒あい(愛・糸・伊都≒伊豆)と見⇒弥 となりま 
 すか。
 つまり、二見は「あや」と「いや」である。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 09:54:32 No.321
この掲示板をお読みになっている方々には、既にご存知かもしれませんが、
阿弥神社のある茨城県阿見町には、「清明川」があり、下流から上流に昇っていくと、二つある阿弥神社のどちらかに行きつきます。よく考えてますね。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 21:11:01 No.322
出雲国の斐伊川(ひいかわ)がありまが、

斐(ひ)・・・ 敏達天皇
伊(い)・・・ 伊達(だて)氏  

斐は「一二三」で、「ひふみ」から敏達天皇,伊達は「伊に達する」で、伊とは「伊都・井」でしょうか?
   
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 12:22:20 No.323
広島東洋カーフで、
カープは「鯉」で、「昔広島城のある付近一帯は海で、「己斐(こい)の浦」と呼ばれていた」から
ネットに、「広島県海田町が推す観光スポット「旧千葉家住宅」が、あまりにも千葉県だった / 海田町に広島への背信の疑い https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/広島県海田町が推す観光スポット-旧千葉家住宅-が-あまりにも千葉県だった-海田町に広島への背信の疑い/ar-AA1fEgUT?ocid=msedgntp&cvid=752e63a1daac49a991f0cd78f9bee386&ei=8 」なる記事があった。
ウィキペディアには「古くは「許斐」とも書いたことから筑前宗像の「許斐神社」と何らかの関係を有するというもの(芸藩通志)、などである。」と

己斐の己の読み仮名に「き」がある。話は外れて、巳年の巳の読み仮名は「み」(=水・三)と「し」がある。己の「こ」と巳の「し」の共通の漢字「子」で同じだったしたら、己は「き(亀)」と巳=蛇ですね。
そして、広島城を築いたのは「一文字三星」紋の毛利氏で、本姓は大江氏ですね。また、嵯峨源氏の渡辺氏の紋は渡辺紋です。違いは三ッ星の上に一か、下に一。
水戸市渡里町と宮城県亘理郡亘理町の「わた」の大元は、ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)だったのでしょうかね?
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 12:53:46 No.324
己巳で、己(き)を亀とし、巳年は蛇(だ)なので、読み仮名から己巳(きし)は「「亀蛇」が連想でますね。東洋工業の「マツダ」は、ゾロアスター教のアフラマズダー神からでしたね。繋がりますね?
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 19:44:22 No.325
「古くは「許斐」とも」で、名字の許斐の読みには、「このみ,こい,いび,もとい,ゆい,このい」だそうで、斐伊川(ひいかわ)の反対の「いび」があります。そして揖斐川は、ウィキペディアに、語源として、「揖斐」は大昔、水田へ水を引く「井樋」(イビ)から名付けられたと見られるとあり、また、「元々は大垣市内を南北に流れる杭瀬川が揖斐川の本流だったが、戦国時代の1530年に発生した大洪水で呂久川と呼ばれていた現在の揖斐川筋に流れが変わり今日に至っている。」と

そして、ブログ:「リタイア男の暇つぶし」さんの「中山道 第56宿 赤坂宿(1) 呂久川は流れを変えて揖斐川へ」に、

・中山道七回り半
 三津屋の集落を抜け左右が開けてくると、次に「中山道七回り半」と彫られた道標が現れた。 先ほどは「三回り半」であったが、今度は「七回り半」と倍近く曲がりを繰り返すようである。(「三回り半」は、京に向かって三つの曲がりと小さな曲がりが一つあるという意味らしい。道標が立つ曲がり角が一つ目で、二つ目のカーブの所に「素盛鳴社」と名のついた小さな社が祀られていたとのこと)(「七回り半」では、最後の回りの角には、加納薬師への道標を兼ねたお地蔵様を祀るお堂が立ち、横には同じく加納薬師への道標が立つとのこと)
なぜ、五三桐・五七桐紋があるのかと併せて考えると、歴史上の史実と何が関係あるのか不思議です。中山道ですしね。

また、斐伊川と揖斐川、樋の読み「とい」と「とよ」、卑弥呼と宗女の「壹與(台与、いよ、とよ)」と連想ゲームすると、これまた不思議と近い。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=許斐
https://x-polarstar.com/2022/09/01/naka-56-1/


「宍戸」の地名に古墳が 弓張月 投稿日: 2023年08月19日 13:53:32 No.314 【返信】

鎌倉大仏と常陸太田市松栄町の「おおわらじ」、つまり大足(おおたらし)から、謎の「藤原鎌足」でした。
また、常陸太田市下高倉町から、高御座(たかみくら)、井上皇女の井上姓が住まれている。
そして、今回のご紹介は、「宍」を検索したら、すみがうら市宍倉に「風返稲荷山古墳」がありました。
この古墳、現在「風返稲荷山古墳と上宮王家」なるタイトルにて、かすみがうら市歴史博物館特別展が行われているようです。

https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16920117006832

かすみがうら市には、地名に田伏(たぶせ)がある。田布施と関係あるんですか? また、笠間市小原と常陸太田市幡町を結ぶ線上の水戸市水戸市牛伏町には、牛伏古墳群。
https://kofun.info/kofun/3496

茨城県は、レパートリー豊富でしょう?
弓張月 投稿日: 2023年08月20日 09:11:18 No.315
「宍倉」を解読するには、旧事本記の物部系図が必要ですね。
物部系図では、応神天皇(宇摩志麻遅命)を一世とすると、五世は第21代天皇・雄略天皇(布都久留連)と第22代天皇・清寧天皇(目大連)となりなすかね。

雄略天皇と清寧天皇は親子なので「おかしいでしょう」と思われる方がほとんどでしょう。でも、ご安心ください! 清寧天皇は、葛城韓媛(葛城円大臣の女)の子ですから、葛城韓媛を妊娠した観音菩薩と考えると問題解決。つまりは、六曜紋ですね。よって、清寧天皇は天皇系図上では六世としていますね。後のことは、皆さんプロなので語る必要なし。ただ、第23代天皇・顕宗天皇の「23」は、斐(一二三)の文は、⇒富美(とみ=十三)で、矢代(いずもおおやしろ=出雲大社)さんで繋げてるんですかね?
茨城県では、国道123号線ですね。
弓張月 投稿日: 2023年08月20日 09:13:23 No.316
そして、宍の意味 「鹿肉と猪肉」に区別される。
弓張月 投稿日: 2023年08月20日 09:48:00 No.317
「23」で、忘れてました。

下弦の月は、正午の真西の月で二十三夜目ですね。
酉年・不動明王像は九時の西方です。西方は、≒聖方位なのでしょうか?
極楽浄土でもありますね。

ちなみに、国道23号線をウィキペディアで調べたら

「起点の豊橋市から、愛知県の西三河地区や尾張地区の西側を通行し、その後、名古屋港や伊勢湾に沿うような経路を取り、中京工業地帯の代表的な工業都市である三重県四日市市、三重県の県庁所在地である津市などを経て、終点の伊勢市に所在する伊勢神宮とを結ぶ路線である。」とのことです。


魏志倭人伝の分析1 管理人 投稿日: 2023年08月19日 00:32:26 No.313 【返信】

弓張月さん、皆さん、こんばんは。最近はちょっと歴史から離れていましたが、しばらくぶりに、魏志倭人伝あたりを読み直していこうかなと感じてます。

①始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離

②所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

③又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離

④方可三百里 多竹木叢林 有三千許家差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

⑤又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之

⑥參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里


①は対馬のことで、③が壱岐のことは異論ないでしょう。官は同じですが、対馬から壱岐にかけての海を「瀚海」としていますね。

その「瀚(カン)」は広いの意味ですが、後代の玄界(ゲンカイ)灘のことではないかと言われてますね。


この玄界・玄海については、以前『山海経』の玄股人の住む地域のことであろうと指摘したことがあります。ウィキは下記のとおり。


玄股人(げんこじん)は中国に伝わる伝説上の人種である。元股(げんこ)とも古代中国では東方に位置する国に棲んでいたとされる。

古代中国の地理書『山海経』の海外東経によると、玄股国は黒歯国の北にあり、玄股人は腰から下が黒く、魚の皮で出来た服を着ているという。カモメを食べるといい、またそれぞれ2羽の鳥を使役しているという。
玄股人の登場する作品

『鏡花縁』
元股国が旅の途中に舞台として登場する。百才女の一人である尹紅萸が父と共にこの国に落ちのびている。元股人は腰から下が真っ黒で魚をとるのが巧いため国内にはとてもたくさんの種類の鮮魚が流通しており、またその価格が廉価であると設定されている。魚の種類は非常に多く、人魚やさまざまな怪魚などもよく水上げされてい。



玄界灘は世界有数の漁場とされますが、この玄股人がやはり魚の皮の服を着たり、カモメを食べるなど、海人である点に留意しておくべきでしょう。


その南に位置するであろう黒歯国というのは、下記のとおり邪馬台国の南にある侏儒国から、さらにその東南とされる国ですね。


⑦女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
⑧又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
⑨又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至


ここで船行1年というのは、邪馬台国までの船行1月の12倍の長さと考えるべきでしょうか。侏儒国を南西諸島方面、黒歯国をフィリピンからインドネシアと考えると、理解しやすくなるでしょう。

それで、壱岐島から千餘里で至る末盧國 ですが、上記の四千餘里の4分の1の距離にあたるわけです。壱岐島⇔唐津間が42㎞とすると、1里は42mとなりますね。50㎞前後を想定すべきことは以前もお話したとおりです。

ここで、先の邪馬台国の南にある侏儒国までの4千里は200㎞前後となるはずですから、天草・出水方面あるいは宮崎から種子島や屋久島あたりまでの距離に対応するでしょう。


ちょうど種子島の広田遺跡の弥生時代から古墳時代にかけての人骨が154㎝前後と北部九州人より10㎝前後も低いことが指摘されているように、ここが侏儒国であった可能性は高いのではないでしょうか。

そうすると、邪馬台国は、九州南部方面まで拡大していたことを示すことになりそうですが、

⑥の絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里 との記載をみると、250km四方の領域内に倭地があり、列島状になっていると理解していたこともわかってくるでしょう。概ね九州サイズですね。


そして、⑦女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 とあるように、女王国の東に千里 50㎞前後の海を渡って、また倭種の国があるというように、概ね九州東部から四国西部への豊後水道の距離と同じになるので、比較的正確に距離や方角を彼らが理解していたことも考えうるでしょう。

ここで、また女王国つまり邪馬台国が九州西部まで領域を拡大していたことも理解できるので、結果として、九州中南部は概ね邪馬台国の支配領域にあったとの理解になりそうです。

ただ、女王国と争っていた南の狗奴国ですね、この位置推定も重要ですが、その辺は、またの機会にしましょう。


三つ葉葵(HollyHock)の「Hock:足」について 弓張月 投稿日: 2023年08月18日 13:32:04 No.311 【返信】

サッカークラブチームのホーリーホックで、「ホーリーホック (HollyHock)」は英語で「葵(タチアオイ)」を意味し、水戸藩(水戸徳川家)の家紋の葵 から採られた。とのひと。そして、Hockとは、「(犬・馬などの後ろ足の)ひざ」の意味。
古代史での「足」は、足彦(たらしひこ)が謎ですね?

富士山の南隣に位置する火山に「愛鷹山(あしたかやま)」があります。愛を「あし」としているのは、意味ありでしょうね。愛=足が想像されますか?(愛⇒伊都・伊豆カークラブチームのホーリーホックで、「ホーリーホック (HollyHock)」は英語で「葵(タチアオイ)」を意味し、水戸藩(水戸徳川家)の家紋の葵 から採られた。とのひと。そして、Hockとは、「(犬・馬などの後ろ足の)ひざ」の意味。
古代史での「足」は、足彦(たらしひこ)が謎ですね?

富士山の南隣に位置する火山に「愛鷹山(あしたかやま)」があります。愛を「あし」としているのは意味ありでしょうね。古くは足高山と記されていた。(愛⇒糸・伊都⇒伊豆、愛⇒相)なのでしょうから、愛=足。

愛鷹山峰の山頂には愛鷹明神を祀る桃沢神社が鎮座している。富士山を中心に愛鷹山(足高山)、山梨県の足和田山、箱根の足柄山を合わせて「富士三脚」と呼んだ。

縁起のよい初夢『一富士、二鷹、三なすび』の鷹の説の一つとして、駿河国で2番目に高い愛鷹山を指すという説がある。しかし、実際には駿河国で愛鷹山より高い山は存在する。

「足彦」らしい伝承を残したのかな?
弓張月 投稿日: 2023年08月18日 13:39:36 No.312
「桃沢神社(ももさわじんじゃ)が鎮座」ですから、
まさしく、ツクモの次の「百(もも=桃)」ですね。


大甕神社 弓張月 投稿日: 2023年08月05日 15:23:26 No.305 【返信】

今朝の茨城新聞に大甕神社の御朱印の記事が載っていた。
https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16909627746709
御朱印は通常版が2種類。中央に「大甕神社」と書かれたものと、肩に地主之神、中央に金文字で天甕星と書いた「甕星香々背男」版だ。 とのこと。
大甕神社の神輿は八角形。 「大甕神社」と書かれたもは「八角形の印」が、地主之神の甕星香々背男版は、「四角形が二つ重ねた印」である。
日立(ひたち)市と纏の紋「十六葉八重表菊」から「八角形の印」を考えると、応神天皇から八代目の用明(=陽明)天皇となるかな? また、「四角形が二つ重ねた印」は、対立する二種類の四方神となりますかね? つまり、宍とは、鹿肉と猪肉

また、大甕神社は神門を新造したようで、門の高さは約13m,幅約8mとのこと。
鷲子山上神社のフクロウ、吉田神社(水戸)の正月門松の高さは7mと、やっぱり歴史の事柄にこじつけているようですね。(高さは北南、幅は東西かな)
13mとは、孝謙ュ貢献)・称徳(聖徳)天皇のことで、武葉槌命か?
弓張月 投稿日: 2023年08月07日 10:57:24 No.306
武葉槌命が「孝謙(貢献)・称徳(聖徳)天皇のこと」は、?の方が多いと思います。が、
長幡部神社 (常陸太田市)と西茨城郡友部町小原,東茨城郡内原町黒磯,田島,水戸市加倉井町,国田町,那珂郡瓜連町鹿島,常陸太田市島町,幡町を結ぶ線上の「うばら(兎上の命)」から「いばら」から、「孝謙(貢献)・称徳(聖徳)天皇のこと」としました。
弓張月 投稿日: 2023年08月08日 13:53:06 No.307
森ビルグルーブの宍戸ヒルズゴルフクラブのある笠間市宍戸町は、西茨城郡友部町小原,東茨城郡内原町黒磯,田島,水戸市加倉井町,国田町,那珂郡瓜連町鹿島,常陸太田市島町,幡町を結ぶ線の延長上です。そして、宍戸町の纏の紋が何と、徳川家の「三つ葉葵」なんだそうです。

となると、徳川家康の「家康」は源義家の「家」と安康天皇の「康」でしょうかね?
康(やす)は「安」で、「こう」ですと、光,皇,神,甲,高,江,行と獅子(狛犬)が連想されますか? 
ウィキペディアで「しし座」を調べると、概要に「α星は、全天21の1等星の1つであり、レグルスと呼ばれる。β星のデネボラが、うしかい座のα星アークトゥルス、おとめ座のα星スピカと形作る三角形は春の大三角と呼ばれる。λ、ε、μ、ζ、γ、η、レグルスを繋ぐことでできる特徴的な「?」形を裏返した星の並びを、「ししの大鎌」と呼ぶ。日本ではこれを「樋掛け星(といかけぼし)」と呼ぶ地方がある。」と。
「大鎌」、「トイカケボシ(岐阜)、イトカケボシ(京都)」 不思議に不規則でなさそうです。(逆に、日本刀の刃紋の「皆焼」の読みが「ひたつら」としたのか。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/しし座
https://www.touken-world.jp/tips/56580/


弓張月 投稿日: 2023年08月08日 14:05:09 No.308
それと、水戸東照宮の神輿は宍戸町の纏と同じ八角形ですね。


レイライン 御前山⇒大山寺の先 弓張月 投稿日: 2023年08月01日 09:22:28 No.304 【返信】

城里町の大山寺の住職は知り合いで、御前山⇒大山寺の資料を前にあげたら、城里町企企画展行っていたようで、

大山寺と白山神社の間には、龍谷院(曹洞宗)があったんですね。ここも、五三桐(大山寺)と五七桐(龍谷院)かな?曹洞宗の道元禅師の「禅師」は天皇から授かるものでしたっけ?そして、谷は、影の「黒」かな?
そして、御前山から大山寺のレイラインを伸ばしていくと、七つ洞公園(水戸市)
,ひたちなか市の虎塚古墳や酒列磯前神社も含むかな。

それとおまけ 正月の神棚飾りについて
陽明門,長屋門や鹿島神宮の昔は竜神門と入り口は大切なのか、棒飾りでない干し柿4つとみかんが付いたもの。「干し柿」は四方神(星)、「みかん」は太陽とでも考えたのかな?




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