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伊予氷見・八堂山遺跡と卑弥呼の都 3 管理人 投稿日: 2023年10月15日 00:02:36 No.342 【返信】

昨晩お知らせした伊予氷見・八堂山遺跡に関係する方位ラインについて、さらに周辺のライン遺跡を加えて、作成しなおしてみたのが図1となります。

今回加えたのは、天岩戸神社⇔大剣神社⇔布留遺跡への東25度偏角のラインと、持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔月讀宮(伊勢)⇔富士山(白山岳)⇔山中湖(長池)への東30度偏角のライン、中山茶臼山古墳(纒向型前方後円墳)⇔富士山への東10度偏角のラインがあります。

ここで見えてくる大剣神社がかなり古く、弥生末から邪馬台国時代でも重要拠点だったことを示している点に留意しておくべきでしょう。

ここに見えてくる天岩戸神社についてが、以前もこちらで分析した山田(西都市)の古墳状地形⇔川部・高森遺跡への南北ライン、山田(西都市)古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔平原遺跡への西60度偏角のライン、平原遺跡⇔川部・高森遺跡への東西ラインで構成される直角三角形もあります。

あと籠神社⇔布留遺跡への西60度偏角のラインのライン上に、佐紀盾列古墳群のうち、日葉酢姫陵と神功皇后陵が載ることにも留意しておくべきでしょう。

そして図2は特に、先日から注目してきた伊予氷見・八堂山遺跡周辺の拡大図となりますが、こうみると、弥生末期の八堂山遺跡を通過する平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡⇔萩原墳墓群(纒向型前方後円墳)へのラインを除いて、それ以外の3つのライン(女山神籠石⇔布留遺跡⇔富士山⇔山中湖(長池)ライン、持田古墳群⇔中山茶臼山古墳ライン、山田(北九州市)⇔大剣神社ライン)は、その西南の伊予氷見南部の山岳地帯で交差していることがわかります。

その交差点を拡大したのが図3となりますが、綱付山西南から、中世の幻城の東方面がその3交差領域となります。

その幻城については、こちら(https://cmeg.jp/w/castles/8357)をご参照いただきたいのですが、南北2㎞の山城とあり、このあたりに女山神籠石のような山城がかつてあった可能性も考慮すべきかもしれません。

また、詳細はこちらのサイト(https://kotobank.jp/word/幻城跡-3093848)にあるように、大日川沿いにあり、下砦は大日の字名にあるとの点も重要で、おつぼ山神籠石にも大日の字名が残っているように、伊川の古墳状地形でも大日寺の字名が残り、日神信仰の拠点だった可能性を示すものでしょう。

こちらのサイト(https://ameblo.jp/girou88/entry-12684018916.html)に引用された下記の古文書記載にも大日の字名がみえます。


「幻城、上城・下城あり 上城は新屋敷村の辰巳村山字上城山にあり 暦応三年五月細川刑部大輔頼春当国へ乱入の時 岡若丸此城を守て戦死す 其後天文中黒河肥前守元春要害に構へ番待とす 下城は同村辰巳村山字大日にあり 暦応三年細川頼春乱入の時 岡弾正此の城にて討死す 其後黒河の時も上城と同じく要害城なり」


伊予氷見南部のこの幻城周辺が、弥生末期から古墳初期にかけて、九州から畿内へと勢力が東遷していく過程で重要な拠点だった可能性がありそうですが、この周辺地域についてもう少し調べてみたいところです。




伊予氷見・八堂山遺跡と卑弥呼の都 2 管理人 投稿日: 2023年10月13日 01:44:16 No.341 【返信】

先日、四国の伊予氷見とそこに隣接する八堂山遺跡に関連する方位ラインを示しましたが、さらにそのラインを進展させて図1のようなラインを作成してみました。

まず、新たに拠点として女山神籠石を加えてみると、女山神籠石⇔高森古墳群南部(宇佐)⇔中山茶臼山古墳北部(楯築墳丘墓南部)⇔気比神宮⇔川柳将軍塚古墳への東30度偏角のラインのラインがあることに気づきます。ここにみえてくる中山茶臼山古墳と川柳将軍塚古墳は、ともに箸墓と同時期・同規格の古墳として知られています。3世紀後半から末期あたりでしょうか。

同じく女山神籠石⇔伊予氷見⇔八堂山遺跡⇔布留遺跡北部(豊日神社)⇔山中湖(長池)への東20度偏角のラインもあります。その布留遺跡は布留式土器の年代で3世紀末前後となるでしょうか。山中湖(長池)周辺からは呉の金印が発見されたことで知られていることは以前も紹介したとおりです。

そして前回も指摘した平塚川添遺跡⇔伊予氷見⇔八堂山遺跡⇔萩原墳墓群への東14度偏角のラインがありますが、また今回新たに加えるのが、持田古墳群⇔大剣神社⇔萩原墳墓群⇔川柳将軍塚古墳への東40度偏角のラインで、それと並行して、高千穂神社⇔伊予氷見へのラインも見て取れます。このラインは図のように籠神社⇔布留遺跡への西60度偏角のラインと、先の女山神籠石⇔川柳将軍塚古墳への東60度偏角のラインの交点へと至ります。

また、持田古墳群⇔高千穂神社⇔山田(北九州市)への西70度偏角のラインがあり、このラインが先の女山神籠石⇔萩原墳丘墓群への東20度偏角のラインと直交しています。

その持田古墳群は、魏年号銘をもつ三角縁神獣鏡の出土地であり、邪馬台国と関連が強い拠点と言えるでしょう。

その持田古墳群⇔平塚川添遺跡への西60度偏角のラインも意図的な位置付けと言えますが、また持田古墳群⇔女山神籠石への西50度偏角のラインと先の持田古墳群⇔川柳将軍塚古墳への東40度偏角のラインとが直交しています。

その他、川柳将軍塚古墳⇔山中湖(長池)への西60度偏角のラインと、先の女山神籠石⇔川柳将軍塚古墳への東30度偏角のラインとが直交しています。

また、山田(北九州市)⇔伊予氷見⇔大剣神社への東西ラインもあり、総じて、これらのラインを見ていくと3世紀後半から末期あたりにかけての拠点が多く、特に伊予氷見の南部あたりを多くのラインが交差していることがあります。

先日も示した弥生時代末期の八堂山遺跡を通過するラインは、平塚川添遺跡⇔高森遺跡南部(宇佐)⇔萩原墳墓群(纒向型前方後円墳)であり、やや今回のラインより古い時期のものと考えうるでしょう。

その伊予氷見の南部の交差点を調べる必要がありますが、それはまたの機会に。




伊予氷見・八堂山遺跡と卑弥呼の都 管理人 投稿日: 2023年10月10日 02:09:42 No.340 【返信】

先日、徳島にいた母方の祖母の松浦姓について調べてみたことがありましたが、そこでまた四国邪馬台国について再考してみたいと思います。

まず、図1は以前お知らせした方位ラインですが、ここでは平塚川添遺跡⇔宇佐(宇佐高校庭遺跡と高森古墳群との中間あたり)⇔高尾神社(伊予氷見)⇔八堂山遺跡(高地性集落)⇔萩原墳墓群(纒向型前方後円墳)への東14度偏角のラインと、平塚川添遺跡⇔堀之越古墳の弥生末の南北ライン、そしてその堀之越古墳⇔八堂山遺跡⇔高屋神社付近⇔石清尾山古墳群(3世紀~)⇔布留神社への東30度偏角のラインがあることを指摘したとおりです。

そして最後のラインと、石清尾山古墳⇔楯築墳丘墓とが図のように直交しており、双方に双方中円墳があることから、初期の纒向型前方後円墳の前段階にこれらの古墳が造営されたことを指摘しましたが、つまるところ、これらのラインはその時代の造営となるはずです。

その時期は2世紀後半の高地性集落が瀬戸内・四国へ造営されていく段階、その後の3世紀前半の邪馬台国の卑弥呼の時代と重なり、九州の平塚川添遺跡方面から、畿内の纒向方面へと東遷していく過程で、これらの吉備から四国北部の遺跡が造営されていったのではないかと感じます。

そこで、卑弥呼がどこに都していたかについてですが、仮に四国説を考えるとするならば、やはり八堂山遺跡周辺が、図のように2つのラインの交点となる点でも有力でしょう。瀬戸内に張り巡らされた烽火による情報通信網をこのラインは意味してますが、その交差点が情報の集約地であり、都としてふさわしい場所となるのです。

なお、萩原墳墓群のそばには、後代の忌部氏の拠点の大麻比古神社もあり、古来からアマテラス信仰に関する主要な拠点であった可能性を示しています。伊勢方面へと彼ら忌部氏等は進出していったことは以前こちらでもお話したとおりです。

その八堂山遺跡の西方に、伊予氷見、つまり氷見町があり、その氷見≒卑弥呼とする見方があることは以前紹介したとおりです。

その氷見町の歴史については、こちらのサイト(http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_history33.html)で詳しく考察されているのでよろしくご参照ください。

このサイトの考察に従うならば、かつて古代の氷見の領域は、現在の氷見町のそれより、東方へと広がっており、八堂山遺跡の対岸にあたる伊曽乃神社周辺の神戸(郷)まで含んでいた可能性がありそうです。その西隣の橘に関する字名も、5,6世紀ごろに屯倉経営で派遣された橘氏の祖の田道間守の末裔の三宅連等によって皇室の直轄領として重視されていた名残ではないでしょうか。

図2の7mの海進地図(https://flood.firetree.net/)、図3の地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を参照されれば、この地が、かつての四国で主要な港として機能していたこともあきらかでしょう。

その伊曽乃神社についてはウィキペディアによれば、天照大神の荒魂と、後代の武国凝別命(景行天皇の皇子)を祀っており、すでに大化年中(645年-650年)に「神野郡」とみえ、伊曽乃神社などにより既に神が祀られており、この地域が神の地(かみのち)と呼ばれていた事に由来するとの説があるように、かなり古い起源をもつと言えるでしょう。あえて天照大神の荒魂を祀っている点も、伊勢との兼ね合いで重要です。

その摂社の古茂理(こもり)神社 - 祭神:木花之佐久夜毘賣命も重要で、籠るの語と兼ね合わせると天岩戸を想起させます。

あと、地元の伝説によれば、その昔、伊曽乃の女神と石鎚山の男神が加茂川の畔で出会った。二人は恋仲となり、女神は結婚を迫った。しかし男神は、石鎚山で修行を続けなければならないために結婚はできないと断った・・・との話があり、その伊曽乃神が女神とされていることにも留意しておくべきでしょう。

仮にこの地に卑弥呼がいて、氷見の字名が残ったとするならば、その周辺に当然、魏志倭人伝に記された径百歩の卑弥呼の墓があるはずですが、図3の標高地図を見る限り、社地自体は台地状であり、古墳のようには見えないことがあります。

ただそばにある日明の字名は日神を示す点で重要で、その日明の南西に図3で示したような直径150m前後の円墳状地形があります。尾根を切り出したような形で、周囲に水濠を巡らせたようにも見えます。

図で示したように、八堂山遺跡⇔伊曽乃神社⇔円墳状地形への東30度偏角のラインがありますから、意図的に位置づけられていた可能性もありそうです。

この辺の四国邪馬台国説については、またもう少し考えてみましょう。




松浦氏について 管理人 投稿日: 2023年10月08日 01:22:57 No.339 【返信】

また、青面さん、先の投稿について情報提供ありがとうございました。返信しておきましたが興味深く感じてます。

それで、青面さんもご興味もっておられる阿波の歴史についてですが、うちの母方の祖母の実家が徳島県の池田町にあり、松浦姓となります。

その松浦氏について、メモ代わりに調べて記しておこうとおもうのですが、長崎の肥前国松浦郡が起源(ルーツ)である、嵯峨天皇の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)の平戸松浦氏の流れだという説があります。こちら参照(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matura.html

魏志倭人伝の末盧国ともされる地域ですね。

その松浦氏は中世に松浦党として瀬戸内に展開し、江戸時代には平戸藩主として著名な松浦静山も排出しており、その静山の著書の中に、群馬の羊大夫の墓から十字架が出土したとの話を載せています。平戸は蘭学でも知られていたように、キリスト教の知識を彼も持っていた可能性が高いでしょうから、そのことを記していたのでしょう。

その静山の娘に、明治天皇の母の中山慶子の母の愛子がいたようで、愛子は大正天皇の養育にも関わっていたようです。


また、蝦夷地の開拓で有名な松浦武四郎は、平戸松浦氏から分かれて伊勢に向かった子孫との説があります。

徳島にはまた松浦酒造があり松浦酒造の歴史については下記のように記されています。(https://www.kuramotokai.com/kikou/64/history


およそ一万坪を有する本家松浦酒造場の敷地。その一角に200年を越える大屋敷の棟が並び、鬱蒼とした木立ちが繁っています。
文化元年(1804)創業の蔵構えを残す奥座敷で、八代目社主の松浦恭之助(まつうらきょうのすけ)会長に話しを聴き始めると、古い書簡箱から一枚の家系図が出されました。
ここに現物を披露することはできませんが、色褪せた書面にある恭之助氏の血筋をたどると、本家松浦酒造場の創始者・直蔵(なおぞう)の名が見られます。さらにその先代は豊朗(とよあき)とあり、安永年間頃(1772~1781)に活躍した人物のようです。
「豊朗は松浦本筋から分家しておりまして、“加美屋七郎兵衛(かみや しちろべい)なる商人の跡取りに入っています。酒造りだけでなく、回船、米、肥料なども商っておったようです。その息子の直蔵が、改めて松浦分家として酒蔵を始めたのでしょう」

そう言って松浦本筋の系譜をなぞる恭之助氏の指先は、さらに書面を上って行きます。そのルーツは戦国時代にまで遡り、始祖には郡弾正(こおり だんじょう)の名が記され、妻は細川讃岐守(ほそかわさぬきのかみ)の女ともあります。

歴史上、細川讃岐守が頻繁に現れるのは、応仁の乱の頃。何やら武家の匂い漂うご先祖と筆者が感じた時、恭之助氏からあっと驚く言葉が投げられました。

「肥前の松浦党をご存知でしょうか。鎌倉時代から九州の長崎・平戸・五島周辺を根城にしていた水軍です。どうやらその一派が、私どものご先祖様のようです」
あの文永の役(1274)・弘安の役(1279)で蒙古と戦った海賊の子孫!!と思わず顔を見合わせる筆者とカメラマン。
そして、その証となる逸品を、インタビューの後で我々は目の当たりにすることとなるのです。


その九代目の松浦一雄氏は科学者で下記のような功績で知られているようです。

1995年、松浦一雄現:ナノミストテクノロジーズ株式会社[14])らによりエタノールと水の混合溶液を超音波霧化するとエタノールと水が分離し、結果としてエタノールが濃縮されることが報告された[2][3][15][16]。これにより、蒸留に代わる非加熱の分離濃縮法として超音波霧化分離が注目されはじめた[17]。

超音波霧化分離装置の構成の一例は次の通りである。[8][18]

溶液中に設置した超音波振動子により溶液がミスト化される。
ミストは、サイクロン等分級装置により、軽いミストは上部へ、重いミストは下部に分離される。
軽いミストは冷却等により凝縮され液体化、重いミストは重さにより落下し液体化する。

メリットとデメリット

液体を加熱する蒸留装置に比べ、次の利点がある[4][9][19][20]。

蒸留法と比較してランニングエネルギーが少なく環境負荷が小さい

用途
工業への利用

廃液の浄化や、エタノールや薬液の分離・濃縮[6]
電子材料工場から排出されるイソプロピルアルコール溶液の濃縮・回収、有機溶媒を含む廃液からの有機溶媒の回収[19]
石油の分離精製[23][24]

食品・飲料への利用

酢や果汁など食品や酒類の濃縮およびエキス・香気成分の抽出が可能である[25][26]

シイタケエキスの抽出:加熱して水分を蒸発させる方法に比べ、熱に弱いシイタケのうまみが損なわれにくい[27]。

酒類の濃縮:超音波霧化による分離を利用したアルコール度数25度の日本酒が本家松浦酒造場より商品化された[28]。

食品系廃棄物から香気など有用成分の回収:香酸柑橘類の果皮からの香気成分の濃縮・回収として、徳島県立工業技術センターでは、超音波霧化分離装置を使用して、スダチ果皮中の香気成分を非加熱で濃縮し、回収油100%のスダチ精油を得ることに成功しており、得られたスダチ精油の香気成分組成は、新鮮なスダチ果汁に類似しており、高い官能評価を得ている[29]。(徳島県の特産物スダチは、ジュースやお酒などへの加工後に廃棄される搾りかす(皮など)の有効利用が課題である。)

その他

船舶の排気ガス処理[30]
温泉水の濃縮[31]:不溶性成分のみの湯の花とは異なり、温泉の成分をほぼそのまま濃縮できる[32]。
海水の淡水化[





それで話は戻って、徳島の松浦氏についてですが、東みよし町の町長も松浦敬治氏であるように、池田町あたりに多くいるのでしょう。

あと、母方の祖母が住んでいた北海道の風連町にも、松浦氏の小学校教員がいるようで、親戚すじかもしれません。こちら参照(http://www.city.nayoro.lg.jp/school/s_furencyuou/u11p0p0000000066.html

その他、徳島にまつわる松浦姓の起源としてこちらのサイト(https://name-power.net/fn/松浦.html)下記の記載があります。

地形。徳島県美馬郡つるぎ町貞光皆瀬では松の裏による明治新姓と伝える。


おそらくは、先の中世の松浦氏に由来する地として松の裏があり、そこの住民が新姓を名乗ったのではないでしょうか。


地元の小学校 daizen 投稿日: 2023年09月27日 22:54:44 No.330 【返信】

私の出身校である福岡県久留米市にある大善寺小学校の敷地に不毛の霊地があるのですが、由来がわかりません。大善寺には、日本三大火祭りの鬼よがあるのですがこれと何か関係があるのですか?Bing AIで調べてもわかりませんでした。
管理人 投稿日: 2023年10月01日 01:30:32 No.333
daizenさん、お知らせありがとうございます。

ご指摘の大善小学校についてGoogleの航空写真でみると、その西側に荒地が見えますね。
その由来については残念ながらこちらでも調べることはできませんでしたが、そばにある玉垂宮については、高良山に関わる玉垂命と関係して造営されたはずです。

そして、その玉垂宮と関係しそうなので、その東北の御塚古墳・権現塚古墳でしょう。
これらの古墳はこの地の支配者の水沼君と関係づけられているようですが、そうだとすると初期の天皇家の外戚である物部氏と関わるでしょう。

特にその御塚古墳については、5世紀代の横穴式石室を持つ1130m前後で3重の堀を持つ帆立貝式前方後円墳とされます。

ただ、この帆立貝式前方後円墳については、個人的には西都原古墳群の男狭穂塚のケースのように、もっと古い纒向型前方後円墳との関わりを考慮しておくべきではないかと感じます。つまり邪馬台国時代の古墳を、後代の豪族が再度自身の古墳として利用したケースです。

この御塚古墳については、図1のように、先の高良山神籠石⇔御塚古墳⇔おつぼ山神籠石を結ぶ東15度偏角のライン上にあり、図3の拡大図のように、このラインのそばに玉垂宮やご指摘あった大善小学校付近(赤の□)を通過していることがあります。

また御塚古墳⇔女山神籠石⇔宇土境目遺跡を結ぶ西75度偏角のラインと、先のラインが直交しており、また御塚古墳⇔雷山神籠石への西45度偏角のラインも人工的な位置付けと言えそうです。

そして、図2のように雷山神籠石⇔与止日女神社への西75度偏角のラインと先の高良山神籠石⇔御塚古墳⇔おつぼ山神籠石へのラインとが直交しています。

その与止日女(ヨトヒメ)神社については、邪馬台国の女王台与(トヨ)との関わりを以前こちらで予想したことがあります。

このようにみていくと、この御塚古墳の原型となった古墳は、これらの神籠石の造営年代、さらに言えば境目遺跡の弥生時代後半から末期にかけての時代に造営されていた可能性がみえてきます。

そして、そこに玉垂命=武内宿禰?のモデルとなる人物がこの地を支配しにやってきた可能性が見えてくるのですが、その年代は河内王朝の時代とも重なってくるでしょう。それ以前にこの地を支配していた物部系の水沼県主(三間君)等を取り込んでいったのではないでしょうか。その影響がこの周辺の地に残っており、そして荒地・霊地として何らかの伝承とともにも現在の姿になっている可能性を感じますね。

その玉垂命については、こちらのサイト(https://kouratamadare.com/高良玉垂命とは?)に下記のように記されていますので、よろしくご参照ください。


もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が籠石を築いて結界(区を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのもこの神に因むものである。

高良大社麓高樹神社伝承


もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が籠石を築いて結界(区を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのもこの神に因むものである。

高良大社麓高樹神社伝承


daizen 投稿日: 2023年10月01日 18:54:09 No.334
ありがとうございます。まさかここまで解析してくれるとは思いませんでした。
元々妹が、自分に不毛の霊地の話をしてきて、妹いわく、源氏の女性と平家の男の人が結ばれ間にできたしまった子供を時代背景上土に埋めたとか、、、また自分の父に聞いたらお坊さんが関係しているなど、、結局妹の言うことも父の言うこともためしようがないですし、自分的には、せっかく近くに歴史古そうな古墳や神社❔がありますので関係しているのかな?と思ったりしていました。(家族みんな大善寺育ちです。)割と自分も地域の人なので、御塚古墳など詳しいはずですが初めて知ったこともあり新鮮だなと感じました。実際自分は、筑邦西中学校にかよっていて毎日はみている御塚古墳でさえ知らないことが多いと感じました。地元の古墳が、邪馬台国と関係していると考えると夢をかんじます。最後に聞きたいのですが、西75度偏角のラインなどの意味がよくわかりません。これは何をもとにして関係図けているのでしょうか?また、帆立貝式前方後円墳などがある事がはじめてしりました。社会は得意なはずなのに、、、中学生の学力では追いつきませんでした。
こんなことのためにここまで考察していただきありがとうございます。
管理人さんは、このようなことを独学で学んだのですか?それとも専門学校など行ったんですか?
管理人 投稿日: 2023年10月02日 00:46:48 No.335
daizenさん、さっそくお返事ありがとうございます!
源平のお話など、地元ならではの情報、大変興味深く感じます。

九州には、いまだ発掘されていなかったり、あまり注目されてない古墳や遺跡が多数眠っているようですので、その周辺に伝わる神話や伝承などと関わらせて、新たな発見が出てくるかもしれませんよ。

私自身は、実は大学時代に古代史(文献史学)を学んでいますが、古墳などを扱う考古学はもともと門外漢で、卒業後に得た知識がほとんどです。

またご指摘あった方位線(ライン)研究も古くからはありますが、まだ学問レベルではあまり注目されていない分野です。

畿内の古墳などでは、特定の山等を目安にしてその立地が決定づけられていったことが考古学でも明らかにされてきていますが、個人的に調べたかぎりでは、ほぼすべての古墳、神社、古代遺跡は、それぞれが明確な方位線を描く形で、双方が位置付けられていたことを確認しています。偶然ではない大変高い精度で測量されており、そのことが電子地図であきらかにできます。

そして、方位線研究は、まだ知られてない古墳や遺跡を発掘したり、その年代推定の手がかりとなるものです。

ここ最近は幸いなことにネットで多くの遺跡情報や地図情報等を仕入れることができますから、それをdaizenさんたちの若い世代が今後さらに生かしていくことを望んでいます。

ひとつ地図関連で最近注目されているものとして、海進状態を復元できる「Flood Map」(https://flood.firetree.net/)の利用があります。

図1~3は、昨日の投稿で分析した御塚古墳や大善寺、小学校、玉垂宮付近を7mの海進状態にした地図です。

こうみると、このあたりはほとんど海だったことがわかりますが、この古墳周辺だけが島地もしくは岬のようにして存在していたことがわかります。

実際、吉野ヶ里遺跡や多くの古墳は、この地図を用いると海岸沿いに立地していたことが明らかになり、逆にいえば海進が7m以下の低地には、全国的にみてもほぼ古代遺跡が存在しないこともわかります。

中世から近代にかけて、徐々に土砂が埋まったり、埋め立てられていく過程で、それらの土地にも遺跡が見えてくることがありますが、古代に海の下であったろう大善小学校の荒地については、その点からいくとご指摘にあったような中世以降の伝承に由来する可能性もありそうです。

ちなみに、このあたりの地域は、古代は海だったので遺跡や古墳はないだろうと考えていたので、今回情報をお教えいただき、すくなくとも5世紀にまで遡る古墳があることに気づき驚かされました。

なぜこのような海岸や島地にこのような古墳や神社が造営されていったのか?について、明らかにすることができれば面白いですし、さらに、なぜ火祭りや鬼の伝承がのこり、特に水沼君といった豪族がここに拠点を置いて、そのようなことをしていたのか?についても想像していくと、何か新たにわかってくることもあるかもしれません。

日本の歴史はロマンであふれていますので、ぜひ社会の勉強頑張ってくださいね!


青面金剛 投稿日: 2023年10月02日 03:30:10 No.336
 daizenさん、初めまして。Google Map の検索欄に「史跡」で検索すると、不毛霊跡と、夜明神社 乙名塚が見つかります。今の不毛霊跡には案内板も立てられた様です。

『朝日寺開山神子栄尊禅師にまつわる話です。土地の長者藤吉種継の娘が流人平康頼(安徳天皇の説もある)との間に子供をもちます。この子は口から異光を放ち、父母は恐れてこの子を野に捨てます。この子は千光寺の元琳和尚に拾われ、後に高僧の神子栄尊禅師となります。
この捨てられた場所は、草木も生えないと伝えられ、この碑が建てられました。』

朝日寺
『この寺は1245年に神子栄尊禅師が開いた久留米でも古い歴史を持つ臨済宗のお寺の一つです。
 神子栄尊は1192年に生まれました。父は平康頼(安徳天皇と云う説もある)、母は三潴庄の住人であった藤吉種継の娘です。
 栄尊は生まれたとき、口から異光を放ち、恐れた母親は寺院の近くに捨てました。永勝寺の元琳和尚が、その子を拾い仏門にいれました。栄尊は宋に渡り無準和尚に学び、帰国後各地を行脚し、万寿寺、円通寺、朝日寺などひらきました。朝日寺には、木造の神子栄尊座像が安置されています。』

宇佐市 円通寺
『伝説によれば、栄尊は宇佐神宮で祀られている八幡神との強い繋がりがあったとされている。寺院への参道と門、そして本堂が宇佐神宮の表参道と同じ直線上にあり、この寺が宇佐神宮と深い関わりがあることを物語っている。
 栄尊は日本に帰国した後、八幡大神に渡海の安全と成功の感謝御礼ため1243年に宇佐宮を参拝した。』
https://www.city.usa.oita.jp/sougo/soshiki/14/toshikeikaku/keikan/matidukuri/usachiku/syuyumap/hotoke/12774.html


鬼夜  https://tamataregu.or.jp/oniyo

鬼夜2023 『偲フ花:五條桐彦』
https://omouhana.com/2023/01/08/鬼夜-2023/

大善寺玉垂宮『鬼夜』上:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇 序
https://omouhana.com/2023/01/07/大善寺玉垂宮『鬼夜』:前半/

大善寺玉垂宮『鬼夜』下:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇 序
https://omouhana.com/2023/01/07/大善寺玉垂宮『鬼夜』:後半/

『この秘密の神事に月は必須だからです。

 水沼氏は謎の多い氏族ですが、聞くところによると禊(みそぎ)の介添えの巫女を「水沼」と言い、水の女神を水沼女と呼ぶそうです。
 月には生命の大源で不老不死の水「変若水」(おちみず)があるという思想があり、神の禊を介添えすることでその水を地上で受けとることのできる巫女が「水沼」なのだそうです。

 月と不老不死、このキーワードに引っかかる、重要な人物に僕は心当たりがあります。
魏書に記された邪馬台国の女王にして龍宮の乙姫、宇佐王国の豊玉女王です。

 大松明の行事に民衆が気を取られている間に、秘密裏に鬼面尊神を連れ出し禊を介添えします。
 なぜなら、尊神は一年の間、参拝する人たちの罪・穢れをその身に受け、ドロドロになってしまっているのです。
 それを水沼の巫女の介添えを得て禊を行うことで月の再生の力を得る、それがこの鬼夜に隠された本質です。
 なんと美しく、そして物哀しい話でしょう。

 鬼面尊神は大松明廻しの時も、姿を隠し、赫熊姿の子供らに囲まれて鬼堂を7周半回っていたそうです。
 人目を避けながらも人々の穢れを受けてくださる鬼の名を負った優しき神、それを月神の力を借りて禊ぐ巫女、それが当社の真の祭神の姿です。

 この大善寺玉垂宮の新年の祭事では、置き換えられた新たな神の影で、古い神をひっそりと大切に、今日まで禊ぎ祀ってきたのです。
 その二人が主役であることは、この祭りが当社で最も重要な祭りであり、単に鬼払いの祭りではないことが示しています。』
管理人 投稿日: 2023年10月07日 23:55:17 No.337
また、青面さん、下記の情報ありがとうございました。ご紹介あった巫女の禊の話は、まさに先日指摘した大善寺周辺の御塚古墳周辺の岬状地形と関わる伝承と言えそうですね。

大善寺玉垂宮『鬼夜』下:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇 序
https://omouhana.com/2023/01/07/大善寺玉垂宮『鬼夜』:後半/

『この秘密の神事に月は必須だからです。

 水沼氏は謎の多い氏族ですが、聞くところによると禊(みそぎ)の介添えの巫女を「水沼」と言い、水の女神を水沼女と呼ぶそうです。
 月には生命の大源で不老不死の水「変若水」(おちみず)があるという思想があり、神の禊を介添えすることでその水を地上で受けとることのできる巫女が「水沼」なのだそうです。

 月と不老不死、このキーワードに引っかかる、重要な人物に僕は心当たりがあります。
魏書に記された邪馬台国の女王にして龍宮の乙姫、宇佐王国の豊玉女王です。

 大松明の行事に民衆が気を取られている間に、秘密裏に鬼面尊神を連れ出し禊を介添えします。
 なぜなら、尊神は一年の間、参拝する人たちの罪・穢れをその身に受け、ドロドロになってしまっているのです。
 それを水沼の巫女の介添えを得て禊を行うことで月の再生の力を得る、それがこの鬼夜に隠された本質です。
 なんと美しく、そして物哀しい話でしょう。


静川遺跡ライン 管理人 投稿日: 2023年09月27日 01:33:57 No.329 【返信】

先日は、久しぶりに知人と苫小牧方面にある植苗貝塚やタプコプ遺跡、植苗古墳、その東方の静川遺跡に行ってきました。

その植苗貝塚については、5640年前の縄文時代の海進がもっとも進んでいたころの貝塚となり、図1の海進地図(7m)で見ると湾の西岸沿いにあったことがわかります。

その対岸にあったのがタプコプ遺跡で、縄文時代中期のタプコプ式土器や、その後も続縄文・擦文時代まで使用され、北海道最古の鉄器も出土しています。

なお、タプコプの意味は、コブのように海岸へ突き出た尾根上の土地で後代のチャシと関連づけうるでしょう。

そしてその北方にあったのが、北海道式古墳の植苗古墳ですが、こちらは跡地を確認するだけでした。位置的にはやはり内陸へと入り込んだ位置にあり、まだこの時代まではなお内陸への航海も可能だったのでしょう。

支笏湖そばの樽前山の噴火が複数回起こっており、それにともなう火山灰層の厚さがあるので、現在予想するよりも、はるか内陸まで船で移動できたのではないでしょうか。つまり9000年前から1739年に至る複数回の噴火で2m前後の厚さで千歳空港付近に堆積が繰り返されているので、それを差し引くと、千歳空港東側まで海が進出していたはずです。そしてそこから北上して、祝梅三角山遺跡あたりから、今度は石狩側からの海が入り込んでいたのでしょう。

そこで、また今回見てきたのが、静川遺跡となりますが、こちらも図のように、半島に沿った海岸沿いに位置しており、同時に図2のように、縄文中期後半の垣ノ島遺跡から東45度偏角でのびるライン上にあり、同時に、同じく縄文中期の札幌市豊平区西岡5条3丁目にあったT204遺跡からのびる西45度偏角との交差点上にあります。

具体的には、垣ノ島遺跡⇔静川遺跡への東45度偏角ラインと、T204遺跡⇔T469遺跡⇔恵庭公園遺跡⇔静川遺跡への西45度偏角のラインが確認できます。

その恵庭公園遺跡については、縄文時代から続縄文・擦文・アイヌ時代まで活用されています。


また図のように、大船遺跡⇔白老ポロト3遺跡⇔恵庭公園遺跡⇔冷水遺跡⇔神居古潭環状列石への東60度偏角のラインもあり、恵庭公園遺跡の位置が先のラインと交点に位置していることからみてもこの遺跡が重要な位置付けだったことが理解しうるでしょう。

白老ポロト3遺跡は縄文中期(特に中・後半)以降で擦文時代・アイヌ時代にも用いられています。この縄文中期後半は、環状列石(ストーンサークル)が伝来してくる時代であり、このラインが神居古潭環状列石へと結びつくこともその集団の影響と考えうるでしょう。アイヌ時代までこれらの遺跡とラインが神聖視されて継承されていったのでしょう。


その他図3の拡大図のように、垣ノ島遺跡⇔T210遺跡⇔T204遺跡への東70度偏角のラインがあり、T204遺跡は縄文時代から続縄文時代、T469遺跡も擦文時代にもちいられていることがあり、かなりこれらの遺跡も長い間重要視されていたでしょう。

なお静川遺跡については、下記のウィキ記載にあるように、環濠がある点で特殊な目的あったと言えるでしょう。


静川遺跡は、苫小牧市から厚真町・安平町・むかわ町にまたがる厚真台地上にある。1982年(昭和57年)の調査で、東西に双頭状に分かれた台地上から、縄文時代早期から続縄文時代までの土器、石器や装身具類18万点が発掘された。
東側のA地区からは、幅0.3〜3メートル、深さ1〜1.8メートル、全長139メートルにおよぶV字状の環壕と径8メートルほどの建物跡2棟が出土した。この環壕は縄文時代末期のものと考えられている。また、西側のB地区からは、環壕とほぼ同時期のものと考えられる竪穴建物跡33棟、土坑墓、落し穴、土器片囲炉、焼土跡など多数の遺構が発掘された。
静川遺跡は集落と環壕が一体となった、日本では他に例がない貴重な学術資源である。
本州における弥生時代の環濠集落が、集落を守る防御施設であると考えられているのに対して、静川遺跡の場合は環濠の外に多くの建物跡があることから、防御施設とは考えられず、その目的は諸説あり定まっていない。なお、環壕は現在埋め戻されているため、見ることはできない。


その環濠については、海岸沿いでかつ重要な交易・防衛拠点であったことによることと関係していたのではないでしょうか。

測量面では、道南から石狩平野へと北上しながら進出していく上で、45度偏角の最初の起点として、欠く事のできない位置にあり、最初期の進出拠点だった可能性がありそうです。

二つの集落に分かれており、それが梯子のようにして接合されていることも特徴的で、その集落の間が港湾のようになっており、そこに船が数隻入ってきて接合していたのかもしれませんが、環濠はその縄文末期のそれとのことで、大陸系の集団の移住の可能性も視野にいれておくべきかもしれません。その辺についてはまた追って考えていきましょう。




梁書の倭国関連記載について2 管理人 投稿日: 2023年09月17日 01:23:03 No.328 【返信】

先日、梁書の倭国関連の記載みえる倭国を九州方面、その東北7000里にある文身国を吉備・岡山方面、その東5000里にある大漢国を河内・奈良方面、その東2万里にある扶桑国を関東・東北方面、その東1000里にある女国を北海道方面と推定したことがありました。

そこで、さらにその詳細について考えを進めてみたいのですが、まずこれらの記載がいつ頃のものだったかについて考える必要があるでしょう。

最初の記載に下記のようにありますが、

其南有侏儒國、人長三四尺。又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。
又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而醜。其肉美、行者或射而食之。

これは魏志倭人伝にある次の記載と同一の文献からの引用でしょう。

女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

ただ、ここで、いくらか記載に相違があることに気づきます。

まず、魏志倭人伝では侏儒國は女王国の南に四千餘里にあるとし、裸國と黒齒國は別にその東南で東南 船行一年の距離にあるとしているのに対して、梁書では、侏儒國の南に黒齒國、裸國があり、去倭四千餘里、船行可一年至としてます。

ここで「其々」との語を省略していないならば、四千餘里=船行可一年との理解がなりたちます。

ただし、ここで、侏儒國とその南の黒齒國、裸國を1セットとして、南に四千餘里にあるとして、それとは別に船行可一年の場所で、かつその西南方面に海人がおり、身は黒、眼が白いとの記載をしているようにも見えます。

この場合、1万里=船行一年の距離として、肌の黒いフィリピン・インドネシア人が住む地域を、東南から西南にあらためて記載しなおしていた可能性もあるでしょう。

以前考えたように、倭人伝の侏儒國を低身長の遺骨が出ている種子島方面として、女王国から四千里として、裸国・黒歯国も琉球の奄美・沖縄方面とし、そこから1?万里に西南方面に距離を延ばした地点となると、例えば沖縄⇔フィリピン北部までが1000㎞となり、1里445mで、1万里を445㎞とすると、やや足りない計算です。

なお台湾南部からフィリピン北部へは南北ですが、400㎞ですから近似してきますね。仮にこの文献が魏以前の漢の時代のそれだとすると、尺度はもっと短くなり、1里420mで1万里で420㎞前後となるので、さらに近似してくるでしょう。

これらの前提の上で、次の下記の記載となりますが、

文身國、在倭國東北七千餘里 
大漢國、在文身國東五千餘里

これも基本的には魏志倭人伝の元テキストからの引用の可能性が高いでしょう。距離尺も方角も上記の記載の延長線上にあるはずです。

それで、方角と距離の件で、今回の西南万里が参考になるのは、次の記載でしょう。

扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、


ここでこの話は5世紀当時の僧・慧深からとなるので、上記の倭人伝の元テキストからの引用ではない可能性が高いわけです。

ただ、彼の話している扶桑国の記載は、それより古い扶余伝・高句麗伝の記載と共通性が多く、また同じくそ扶桑の東千餘里の女國の記載についても、先日指摘したように、『三国志』東夷伝東沃沮の条の王頎が毋丘倹の命令で高句麗王宮?、憂位居)を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際の話と共通要素が多いことがありました。

ここで、その女国を習俗記載などからみて、東北(扶桑)から1千里北にある北海道方面と先日は予想したのですが、北沃沮の東方の海の向こうにある島は、図2のように北海道となるわけですから、矛盾しないことがわかります。

またかれらの描いていた距離・方角の理解は図1のようになりそうですが、全体的には東北が北へ、東が東北へと軸を西へ傾けた世界観をもっていたであろうことも予想できます。

そこで、特に扶桑国と女国の記載から、実際に関東・東北と、北海道に当てはまる要素があるかどうかについても考えみたいのですが、そのヒントとなるのが植生の記載でしょう。

まず、扶桑国の下記の記載があります。

其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笑、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。

ここで、この扶桑の木については、桑とする説などがあるようですが、桐に似た葉を持つもので、かつ食用の赤い実をもつものとしては、イイキリ(飯桐(https://www.jugemusha.com/jumoku-zz-iigiri.htm 参照))が挙げうるでしょう。実際赤い実をもち、本州以南に生えてますが、扶桑の名にふさわしい高木で、葉の形も桐に似てます。その扶桑国ではその木の皮を衣服にしたり、紙として用いていたのですが、そのイイキリの皮については灰褐色で比較的桐にいた感じとのことなので加工はしやすかったのかもしれません。

なお、この扶桑国には文字があったとの記載が重要で、しかも漢字であったとは記されていないことからみて、朝鮮系、あるいは日本独自の文字があったことを想定すべきでしょう。それを木の皮に記していたはずですから、それがどこからか発掘されれば古代関東・東北の歴史を知る手がかりになるかもしれません。

もうひとつ、この扶桑国記載で注目すべきは下記の記載です。

有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不責金銀。


まず、非常に角の長い牛がいるはずで、和牛でも角の短いものではないものを探す必要があります。

また鹿を牛の代わりにして車を引かせたりしているわけですが、鹿の埴輪あたりをみると、特に房総方面の古墳のそれなどに注目すべきでしょうか。

そして桑と梨があるとしてますが、梨はどちらかというと関東・東北方面を思わせます。

蒲桃が多いとの記載もありますが、これは調べていくと葡萄(ブドウ)のことと考えうるでしょう。これも関東・東北方面を思わせます。

そして銅はあるものの、鉄がないといってますね。

これらの植生や動物、鉱物にみあった地域が扶桑国となるはずです。

次に、その東とされる女国の記載についてみていくと、そこに描かれた人物像は、毛が長く、かつ色白とのことで、アイヌ民族の祖先、おそらくは縄文系の特徴が見えることを先日予想しましたが、また下記の記載もあります。

食戯草如禽獣。戯草葉似邪蒿、而氣香味鹹。」

訳文(http://inoues.net/yamahonpen4.html より)はこちら

鹹草(かんそう=「あしたば」)を食い禽獸の如し。
鹹草の葉は邪蒿(じゃこう)に似て氣は香しく味は鹹(から)し」


天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉、
男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戸如竇云。


その邪蒿に似た草があって、いい香りがする辛い草があるといった記載のようにみえます。

この邪蒿は、先日も指摘したように、伊吹防風(http://www.atomigunpofu.jp/ch5-wild flowers/ibukibofu.htm)となりそうですが、これは北海道や近畿以東に分布してます。

ただ、それに似た葉だといっているので、それとは別の植物のはずで、辛みをする草となりますが、その辛みを出す草としては、からし菜(https://lovegreen.net/library/vegetables/p119936/)があげうるでしょう。

実際、そのギザギザの多い葉の形などは、先の邪蒿にも似ており、またwikiのカラシナ条によると下記のようにあります。


中央アジア原産といわれる。中央アジアから中国にかけて、アブラナの交雑、あるいはクロガラシとアブラナの交雑により生じた品種と考えられている。日本への伝来は弥生時代ともいわれ、平安時代である延喜年間(901年 - 923年)編纂の『本草和名』や承平年間(931年 - 938年)編纂の『和名抄』に記載がある。また、川沿いの土手などにも野生化して生えている。高さは1 - 1.5メートル (m) 。春に開花し、アブラナに似た黄色い花を咲かせる。辛味成分のシニグリンを含み、種子はからし粉の原料に使われる[1]。葉や茎は、漬物やお浸し、炒め物などにして食べられている。中国北部で栽培されていて、日本では北海道や東北地方を中心に栽培されている。耐寒性は高い作物で、発芽適温は25度前後とされる。葉を食べる場合の栽培期間は約3か月ほどで、春まきで初夏に収穫する栽培法と、秋まき(晩夏)で晩秋に収穫する栽培法がある。


このように、日本にも弥生時代以降には存在しており、かつ北海道・東北方面に適した植生を持っていることからみても、からし菜だった可能性が高いのではないでしょうか。

あと小豆を食べるとの記載ですが、縄文時代から小豆は食べられていたようです。ただ、またここには水稲記載がないので、小豆をその代わりに主食としていた可能性があるでしょう。小豆は全国で栽培されてますが、現在は北海道で多く栽培されているようです。

そして、築土爲墻、其形圓、其戸如竇云。との記載ですが、まず垣を巡らすようにして土塀を盛り、その形が角がなく丸みを帯びていて、かつ穴のような家に住んでいるとのことになるでしょう。

縄文時代の竪穴住居を想起させますが、wikiの竪穴住居条によれば、特に北海道東部の標津遺跡群のものは2m以上掘り下げており、穴に住むという表現が相応しい構造とも言えそうです。

その角が丸いとの記載についても、縄文時代には円形、楕円形、方形、長方形、六角形などがあるが、弥生時代から古墳時代前期にかけては隅丸方形が主体となり、古墳時代後期以降は方形に近い長方形が主流となるとのことなので、日本のそれとは矛盾しないでしょう。

そして家を囲む土塀の有無ですが、下記のwiki記載がありますね。

弥生時代から古墳時代前期の低湿地遺跡の集落などでは、竪穴部の外側に幅1-5メートルほどの土手状の盛土が廻る事例があり、周堤(しゅうてい)と呼ばれる(大阪府八尾市・八尾南遺跡など)。これらは雨水の侵入を防ぐ目的で構築されたと考えられている。また周堤のさらに外側には、外周溝(がいしゅうこう、単に周溝とも)と呼ばれる幅1-2メートルほどの溝が廻る事例がある。これらも弥生時代から古墳時代前期の低湿地遺跡集落などで検出事例が多く、除湿などの目的で構築されたと考えられている。


これらのことを考慮していくと、その女国が日本列島、特に北海道に存在していた可能性が高くなるのですが、その特定には、もう少し細かく東北・北海道の調査をすすめていく必要がありそうです。また何かわかり次第お知らせいたします。




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