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忌部ライン6 管理人 投稿日: 2023年05月19日 03:23:38 No.260 【返信】

先日から、忌部氏の祖神を祀る諸社を結ぶ方位ラインを作成紹介してきましたが、今回は筑紫・伊勢忌部の祖の天目一箇神を祀る諸社を結んだラインを作成してみました。図1のとおりです。図2,3はその拡大図。

また、その天目一箇神を祀る諸社の詳細についてはこちら(https://genbu.net/saijin/mahitotu.htm)をご参照ください。

まず、この天目一箇神については、『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋戸に隠れた神話では祭具としての刀剣や斧、鉄鐸を作る役をしており、 『古事記』ではこの役をやっている神は鍛人天津麻羅となっており、同神とする説があるようです・

特に奈良の鏡作麻氣神社で祀られていることがあり、そのすぐ西隣に鏡作神社や孝霊天皇の黒田庵戸宮があるように、弥生時代末から古墳時代初期の鏡等の工房があった場所となるはずで、後代の忌部氏がその時代の鏡作りの技術を継承している可能性を示すことに留意しておくべきでしょう。

この鏡作麻氣神社の麻は、大麻比古神社からのライン上にあるように、忌部の象徴の麻を意味するものでしょう。同時に祀られる鏡作麻気神と同神とされる天糠戸命は、紀伊の日前國懸社のそれとともに物部の祖・ニギハヤヒが率いた物部の一人で鏡作りをしたイシコリドメの親神ともされます。

そこで図1のラインを分析していくと、全体的に畿内から東方への分布が確認できるのですが、まず以前ヤマトタケルを祀る諸社を結ぶラインでも主要拠点としてみえた多度大社の一目連神社にラインが集中していることがあります。

具体的には、天一神社⇔多度大社⇔倭文神社(富士宮)への東5度偏角のラインがあり、そのラインに天一神社⇔大麻比古神社への西85度偏角のラインとが直交しています。なお、この倭文神社(富士宮)は、先日の倭文氏の祖・天羽槌雄神が星神を征伐して伝承と関係することがありましたね。

同様に天羽槌雄神を祀る天羽槌雄神社⇔恵那神社ラインへの南北ラインが見えます。関連して、先日も指摘した鹿島神宮⇔倭文神社(富士宮)⇔天羽槌雄神社⇔伊勢外宮への東25度偏角のラインがありますが、これと平行して、恵那神社⇔多度大社⇔大隅宮付近⇔高尾神社(氷見)⇔薄野一目神社への東25度偏角のラインがあることに気づきます。

なお、多度大社と恵那神社には一言主神も祀られており、一目と一言の間にも関連性があったことが予想されます。

また、その高尾神社(氷見)については、平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡⇔高尾神社(伊予氷見)⇔大麻比古神社への東15度偏角のラインがあります。

そして、このラインに直交して、高尾神社(伊予氷見)⇔出雲大社への西85度偏角のラインがあり、また高尾神社(伊予氷見)⇔伊須流岐比古神社(氷見市北部)への東45度偏角のラインも見て取れます。

ここで出雲大社が出てきますが、この出雲大社については、出雲大社⇔御熊神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあり、また、図のように、平塚川添遺跡⇔出雲大社の偏角が東50度で、それに直交する形で出雲大社⇔大麻比古神社への西40度偏角のラインがあります。

また鹿島神宮に関しては、鹿島神宮⇔常陸国総社宮⇔黒姫神社への東40度偏角のラインがあり、それに直交する形で、黒姫神社⇔多度大社への東50度偏角のラインがあります。常陸国総社宮でもラインで接続する鹿島神宮同様にタケミカヅチを祀っており、ラインが常陸国総社宮のやや北側を通過していることは、元々そこにあった国府の位置によるものでしょう。

その黒姫神社⇔倭文神社(富士宮)への南北ラインがあり、また黒姫神社⇔伊須流岐比古神社⇔久テ比古神社への東5度偏角のラインがあります。

あとその伊須流比古神社⇔御熊神社⇔三雲小路南遺跡への東30度偏角のラインも確認できますが、このあたりで弥生時代の九州の遺跡とも接点をもってくることがわかります。

その御熊神社については、葦原中国平定のため、派遣された天穂日命が、三年経っても帰ってこないので、その子の大背飯三熊大人(おおそびのみくまのうし)、別名・武三熊之大人を遣わしたが、これも、父神同様、帰って来なかったことに由来する御熊命を祀っています。

ここでこのライン上に見える三雲小路南遺跡のミクモと、このミクマが類似することに気づきます。背くとの観点からいくと、そのラインの西に位置する出雲大社の大國主とも共通性があるでしょう。同時に南の忌部神社(山川)とも関係しています。

その三雲小路南遺跡⇔薄野一目神社西部⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への西52度偏角のラインと山田(西都市)古墳状地形⇔持田古墳群⇔大麻比古神社への東39度偏角のラインとが直交します。

その山田(西都市)古墳状地形については、以前もお知らせしたように、三雲小路南遺跡⇔山田(西都市)古墳状地形への西60度偏角のライン、川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田(西都市)古墳状地形への南北ラインがあり、三雲小路南遺跡⇔川部・高森遺跡への東西ラインとで図のような直角三角形を構成することがありました。

関連して、天岩戸神社⇔大麻比古神社への東30度偏角のラインもあり、その大麻比古神社⇔天一神社への西85度偏角のラインと平行になるのが、忌部神社(山川)⇔御熊神社への西85度偏角のラインとなります。

そして、山田(西都市)古墳状地形⇔天一神社⇔太田南5号墳(魏年号銘鏡出土)への東50度偏角のラインがあり、このラインと太田南5号墳⇔伊勢外宮への西40度偏角のラインとが直交しています。

その太田南5号墳⇔鏡作麻氣神社へのラインは西60度偏角でこれも意図的に設置された故のラインと言えるでしょう。

その他、日前國懸神宮⇔神山(山田)⇔多度大社への東39度偏角のラインがみえますが、ここでも邪馬台国を想起させる山田の字名が関係してきます。

このように魏年号銘鏡を出土した古墳ともこれらのラインが接続していることは、その年号銘鏡を保持あるいは製造した集団が、この鏡作りに関わる忌部系の集団とに接点があったことを示すもので、実際忌部氏の配下にいた秦氏が青銅精錬技術を伽耶方面からもたらしています。

これらの魏年号銘鏡が、魏から卑弥呼に配布されたものなのか、あるいは魏の命をうけて、楽浪・伽耶系の集団が製造し、それを後裔の忌部・秦氏等が保持していたのか、あるいは日本側で魏鏡を複製したのかについての識別も必要となってきますが、その手がかりをこのラインは与えてくれるかもしれません。

前述のように九州の弥生遺跡とこのラインとが接点をもっており、また、以前も指摘した邪馬台国と関わるであろう山田の字名、さらには卑弥呼を想起させる氷見の字名とが接点をもってくることがあり、その魏年号銘鏡出土地ともかかわりながら、忌部氏の祖先が邪馬台国および卑弥呼と接点をもっていた可能性を示すものではないかと感じます。

ただ、弥生時代に創始されたとされる播磨の天一神社のように宝剣があるケースがあり、その兵庫県佐用町は鉄伝承で知られていますから、精銅のみならず製鉄精錬にも関わっていたと考えるべきでしょう。

なお、伊須流岐神社のそばには、雨の宮古墳群があり、1号墳は前方後方墳で、2号墳は前方後円墳で、4世紀前半が推定されているようです。その南部の氷見市にある3世紀末とされる柳田布尾山古墳の前方後方墳を継承した集団の古墳だったのではないでしょうか。

その雨の宮第1号墳の前方部には、天日陰比咩神、崇神天皇、その息子の印色之入日子命(五十瓊敷入彦命)の御陵があったとされますが、その五十瓊敷入彦命については、ここ数日取り扱ってきた忌部関連のライン拠点と関係のある品部の記載があります。

すなわち、下記のとおりです。(https://ja.wikipedia.org/wiki五十瓊敷入彦命)より引用。


●垂仁天皇30年1月6日条

垂仁天皇が五十瓊敷命・大足彦尊兄弟に望むものを聞いたところ、五十瓊敷命は弓矢を、大足彦尊は皇位を望んだ。そこで天皇は五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には皇位を継ぐように言った。

●垂仁天皇35年9月条

五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った。

石上神宮(奈良県天理市)

●垂仁天皇39年10月条

五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮(奈良県天理市)に納めた。そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した。

同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で大刀1千口を作らせ、この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部を賜った。また、その大刀は忍坂邑(奈良県桜井市忍坂)から移して石上神宮に納めたという。



ここで最後にみえる楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部が、ここ数日忌部に関連して取り扱ってきた倭文氏や楯縫・弓削・玉造といった集団とそのまま関わるとともに、刀鍛冶としてその金属精錬技術者をこの五十瓊敷命が率いていたことを表しています。

石上神宮の武器を管理した物部氏とも関わりをもっているはずですが、また、兄弟の大帯彦(景行天皇)、妹の倭姫は東夷の討伐に向かう日本武尊に草薙剣を与えています。

このことは、今回の忌部のラインが、オオヒコ・武ヌナガワワケの父子東征伝承、オオタラシジコ(景行天皇)・ヤマトタケル(倭武)の父子討伐伝承の拠点と関わっていることを指摘したことと関係するはずで、彼らが河内に拠点を持ったころに、東海・関東へと支配を及ぼしていく過程で、今回のラインが形成されていったことを示しているのかもしれません。

その五十瓊敷命(イ(ソ)ニシキイリヒコ)が、この伊須流岐比古(イスルギヒコ)神社のそれと関係しそうですが、後者は、ユスルの意味で石動とみなされていったようです。

また、崇神天皇皇子の大入杵(オオイリキ)命をこの伊須流岐比古と関係づける見方もあるようですが、位置的には、伊須流岐比古神社西方に黒姫神社からのラインで接続する久テ比古神社に近く、先のサイト(https://genbu.net/saijin/mahitotu.htm)ではこの久テ比古神社をクエビコと関係づけています。

その黒姫神社では、また石動彦命 石動姫命も祀られており、石動彦命は先の伊須流岐となりますから、この伊須流岐比古神社⇔黒姫神社ライン上では、伊須流岐比古が双方で祀られていたことになるでしょう。

関連して父の垂仁天皇は、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』、伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王 - 『上宮記』とも記されており、全体的にはよく似た名といえます。

その伊佐知は、五十+幸とも訳せそうですが、河内から東征にむかったのは、オオヒコの子とも弟ともいわれるタケヌナガワワケで、先日分析した忌部の祖で天日鷲(別)セット神で、その子の彦狭知のサチを想起させます。

楯縫いをしたことになってますが、五十瓊敷命(イ(ソ)ニシキイリヒコ)が楯部を献上しているように、その五十(イソ)で相関性をもってくるでしょう。五十は伊勢(イセ)の五十鈴(いすず)川のそれとも関係して、天日別は伊勢から東海へと海を渡っていったわけです。

ここで、垂仁紀をみると、下記のようにあります。

即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した


ここで、大鹿嶋というのは中臣の祖で、今回のラインにもみえる鹿島神宮の中臣の祖でしょうし、物部十千根も先の五十瓊敷命が千本の剣を造らせた伴部に関連する名とも見えます。大伴は弓削・楯などの制作をしたでしょう。

特に今回のラインにみえた薄野一目神社周辺には銅山があり、その九州山鹿地域には、弓削負や矢を的に射る男性像を横穴墓に刻み込んだ鍋田・長岩横穴群等がありますが、その西の日輪山あたりをラインが通過していることは、銅山の在処を重視しながらも、また同時に周辺の拠点を結ぶ方位ラインの位置を意識して、その拠点を選んでいったことを示すものでしょう。

その薄野一目神社の神主が若山連から出た吉田氏となり、この若山氏については、熱田神宮の神官家で岐阜南部に多く由来する姓ともされますから、この薄野一目神社⇔高尾神社(伊予氷見)⇔多度大社へのラインに関連して移住していった集団の子孫である可能性も考慮すべきかもしれません。

関連して、その高尾神社(伊予氷見)の祀神は、スサノオとクシイナダヒメ(櫛名田比売)となりますが、図のように、出雲大社とこの高尾神社が関連づけられていることがあり、出雲大社のスサノオ伝承の影響を伺うことができます。

また、櫛名田比売は、『出雲国風土記』の飯石郡の項では久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)とあり、また、能登国の久志伊奈太伎比咩神社(石川県七尾市)では久志伊奈太伎比咩(くしいなだきひめ)を祀神としたという記述が延喜式神名帳にあり、同一神と考えられています。(ウィキペディア「クシナダヒメ」条参照)

ここで先の石川県七尾市の伊須流岐比古神社でもスサノオを祀っており、またその北方にそれらの諸社があることも興味深いところですが、図2の差し込み図のように、その久志伊奈太伎比咩神社(傍の雨の宮古墳1号墳の天日陰比咩神社)⇔伊須流岐比古神社への西80度偏角のラインと、伊須流岐比古神社⇔久テ比古神社への東10度偏角のラインが直交しており、そして久氐比古神社⇔久志伊奈太伎比咩神社への東60度偏角のライン(その延長線上に日前國懸神社)とで正確な直角三角形を構成していることがわかります。

同様に、久志伊奈太伎比咩神社⇔天日陰比咩神社への東75度偏角のラインと天日陰比咩神社⇔伊須流岐比古神社への西15度偏角のラインとが直交しています。

したがって、櫛名田比売と天日陰比咩との間に相関性があったことも予想できますが、その天日陰比咩神社では、櫛社例祭がなされており、その祭神が忌部の祖・太玉命となってますから、ここでもクシナダヒメとヒカゲヒメとの接点、忌部との接点がみえてきます。

ここで、その櫛名田比売の櫛で思い出すのが、忌部の祖の太玉命が率いていた出雲玉造の祖である櫛玉命ですが、櫛明玉命神社が奈良の真弓付近にあり、ここが先の鏡作麻氣神社の真南にあたることに留意すべきでしょう。

ここには櫛玉姫命も祀られており、クシタマヒメと、クシナダヒメとが類似してきます。豊明玉命も祀られてますが、これは久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)のトヨと関係しないでしょうか。

したがって、四国伊予・氷見の高尾神社(氷見)の祀神が、スサノオとクシイナダヒメ(櫛名田比売)であることと、その東45度ライン上にあるこの伊須流岐比古神社(天日陰比咩神社)とには明確な接点があり、おそらくは同じ集団が移動した結果もたらされたと考えるべきでしょう。

双方の周へに氷見(ヒミ)の地名が見えることも偶然ではないはずです。そこにヒミコがかかわるかどうかは以前から考察してきたとおりなので割愛しますが、無関係ではないようにも感じます。

またその辺の話については、後日考察をすすめていきましょう。




忌部ライン5 管理人 投稿日: 2023年05月16日 20:19:12 No.258 【返信】

ここ数日お知らせしてきた忌部の祖のみえる手置帆負命と彦狭知命の東方展開とそのセット関係、また天日鷲命の孫・由布津主命と香取神宮等で祀られるフツヌシとの関係、そしてタケミカヅチ・フツヌシのセット神との関連性について、今回は考えてみたいと思います。

先日もお知らせしたように、安房忌部系の文書には、天日鷲命の子である大麻比古命は亦の名を津咋見命、津杭耳命とあり、次に天白羽鳥命。亦の名を長白羽命。次に天羽雷雄命。亦の名を武羽槌命と記されていることがあり、その津咋見命と天白羽鳥命について分析をし、それぞれツキヨミ神と白鳥に関わるヤマトタケルの東征伝承がそこに関連していることを指摘したとおりですが、また最後にみえる天羽雷雄命(武羽槌命、天羽槌雄神)について考えていくと、これはその名が示すように、武御雷(タケミカヅチ)神と類似していることに気づきます。

そこで、この天羽槌雄神を祀る諸社(https://genbu.net/saijin/hazuti.htm 参照)を結んだ方位ラインを作成して見たものが図1となります。図2,3はその拡大図ですが、ここでタケミカヅチを祀る鹿島神宮境内の静神社でもこの神が祀られていることがあり、このことからも、すでに武御雷(タケミカヅチ)と天羽雷雄(武羽槌)に共通性があることが伺えます。

そして、その鹿島神宮からのラインをみていくと、まず鹿島神宮⇔倭文神社(韮崎)への西10度偏角のラインと、倭文神社(韮崎)⇔倭文神社(富士宮)への西80度偏角のラインとが直交していることがわかります。

また、その倭文神社(韮崎)⇔富士山(久須志神社)⇔鍬戸神社への西60度偏角のラインと、鍬戸神社⇔鹿島神宮への東30度偏角のラインが直交して図のように直角三角形を構成していることに気づきます。

次に鹿島神宮⇔諏訪大社(前宮)への東西ラインがあることは、百瀬直也さんからも以前掲示板でお知らせしただいたところですが、また図のように、鹿島神宮⇔下松原神社への東60度偏角のラインもみてとれます。

続いて鹿島神宮⇔倭文神社(富士宮)⇔天羽槌雄神社(濱名惣社神明宮)⇔伊勢方面への東25度偏角のラインが確認できますが、細かく見ていくと、鹿島神宮⇔倭文神社(富士宮)⇔倭姫宮へのラインと、鹿島神宮⇔天羽槌雄神社⇔伊勢外宮へのラインに分かれているようです。

そして先の鍬戸神社⇔天羽槌雄神社(濱名惣社神明宮)⇔大麻比古神社への東15度偏角のラインがあります。

続いて、茨城方面についてみていくと、まず大洗磯前神社(静神社)⇔倭文神社(伊勢崎)⇔服部神社への東西ラインがあり、また静神社(那珂)⇔倭文神社(伊勢崎)⇔倭文神社(東伯耆)への東10度偏角のラインが確認できます。

その後者と直交するのが、図のように服部神社⇔倭姫宮への西80度偏角のラインとなり、このラインと倭文神社(富士宮)⇔坐摩神社(繊維神社)への東10度偏角のライン、大麻比古神社⇔倭姫宮(南部・月読社北部)⇔安房神社への東10度偏角のラインとが直交しています。

関連して、忌部神社(山川)⇔大麻比古神社⇔坐摩神社(繊維神社)⇔諏訪大社(前宮)への東30度偏角のラインもあります。

あと、出雲大社⇔倭文神社(東伯耆)⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあり、また諏訪大社(前宮)⇔倭文神社(富士宮)への西65度偏角のラインと、坐摩神社(繊維神社)⇔静神社(那珂)への東25度偏角のラインとが直交していることもあります。

以上のようにみていくと、倭文氏の祖・天羽槌雄神を祀る諸社は、鹿島神宮や阿波忌部氏の大麻比古神社、安房神社や伊勢の倭姫社等が関連づけられていたことがわかります。

そして、天羽槌雄神と鹿島神宮のタケミカヅチとが相関性を持っていたことが予想されますが、またそのことは、タケミカヅチが討伐したタケミナカタと関わる諏訪大社(前宮)がこのラインに接続していることからもあきらかです。

特に諏訪大社(前宮)⇔倭文神社(富士宮)へのラインがありますが、この倭文神社については、星山のそばにあり、その星山の地は、神代、香々背男が支配し、中央に叛いたため、当社祭神・健羽雷神によって討たれ、後、健羽雷神によって、織物・製紙などの産業が発展した地とされ、『日本書紀』によれば、大化改新の一年前に、大生部多という人物が、虫を祀るよう村民を扇動したため、秦河勝によって討伐されたとあり、大生部多が倭文部であったとの見方もあります(https://genbu.net/data/suruga/sitori_title.htm参照)

そのことは、天羽槌雄神が建葉槌命の名で『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神の香香背男(かがせお)を服従させた神とされることからみて、そのフツヌシ・タケミカヅチと深い関係がある神としてこの天羽槌雄神が存在していたことを示します。

ここでまた、大生部多等の常世虫(三尸虫か)を祀る道教集団≒星神・香香背男を、秦河勝や天羽槌雄神(倭文氏の祖)が征伐した話と捉えるべきですが、正確には秦氏の神との宗教・武力闘争であった可能性も考慮すべきでしょう。

つまり、この秦河勝が富士川の大生部多を討伐した出来事に関して下記の歌が記されています。


太秦は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも(ウヅマサハ カミトモカミト キコエクル トコヨノカミヲ ウチキタマスモ)
〈太秦(うづまさ)は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を、打ちこらしたのだから。〉


ここでウズマサとは河勝のことではなく、ウズマサという神を指しており、その神が、常世の神を懲らしめたと言っているのです。

ウズマサのマサは、河勝の勝(マサる)の意味で、当時勝をマサと読ませていたように、ウヅと勝つとの組み合わせ名であり、もとの神名がウヅだったとすれば、秦氏の祖・弓月・融通(ユヅ)君とも関わり、ウヅ・ユヅといった神を秦氏が祀っていたことも予想しうるでしょう。

そして、先日お話した秦氏を率いていた忌部氏の神であるユフツ神、フツ(ヌシ)のフツと、このユヅ神とが接点をもってくることがわかります。

もっとも秦河勝は5世紀後半から6世紀初頭の聖徳太子時代人物であり、この644年に秦河勝が出てくるのは不自然ですから、秦河勝は秦氏とその宗教を象徴していた可能性があるでしょう。

ここで、忌部系の天羽槌雄神(倭文氏の祖)の伝承としては、星神である香香背男を討伐した形になったのかもしれませんが、その常世虫の原型とされる三尸虫信仰によれば、その三尸虫が天井へと報告へ向かう庚申の日に北斗七星が降りてくるという話があり、そのことが元で星神の信仰とみなしていたのではないでしょうか。

なお、この天羽槌雄神を祖とする倭文氏は倭文(シヅ)をつくる集団で、忌部が得意とする麻などから色鮮やかな倭文を織っていたのですが、上記のように武闘神としての性格も有していることがあります。

先の鹿島神宮や石上神宮には、タケミカヅチがもちいた布都御魂(ふつのみたま)との大刀がありますが、別名を韴霊剣、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言い、ここでフツ・サジの名が見えてきます。

そのサジが、先日の忌部の東方にむかったセット神で楯縫をした彦狭知のサチを想起させます。その相方が父の天日鷲(別)となるわけです。

そして倭文氏と同様に、天羽槌雄神を祖とする氏族に弓削氏がおり、この祖が天日鷲(翔矢命)となり、矢やユキを負う弓削の職掌を相続していたことからみて、武闘的な側面を有していた一族がこの集団内にいたことも予想しうるでしょう。

あと、今回のライン上で特に留意しておくべきなのは、先日の天日鷲を祀る諸社にもみえてくる服部神社の服部(ハトリベ)の存在があり、当社そばの桑の木の多さから蚕による絹織が予想されていますが、このハタオリの起源については、忌部氏によって記された『古語拾遺』では、養蚕を得意とした秦氏のハタとその織物との兼ね合いから生じた語であることも記されています。

その服部神社は、図のように伊勢崎の倭文社や、大洗の静(シヅ)社と東西ラインで接合しており、そこからも秦氏と倭文氏との関係が伺えます。

また服部神社は先のとおり服部神社⇔伊勢ラインの西80度ラインがあり、そのラインと直交していたのが、倭文社(那珂)⇔倭文社(東伯耆)、倭文社(富士宮)⇔座摩神社(繊維神社)ライン、安房神社⇔伊勢⇔大麻比古神社への東10度偏角のラインでした。

これらは密接に計画された位置に造営されており、同族集団のラインと考えてよいと思いますが、その多くは倭文を名乗りタケハヅチを祀っています。ただ、その一部はまた倉吉の倭文社のようにもともとタケミカヅチを祀っていたケースもあり、また那珂の倭文社のように、手力男を祀ったりしているケースもあったのでしょう。

その那珂の倭文社に、手接足尾(テツギアシオ)神社がありますが、これは忌部の手置帆負(タオキホオイ)と関係しないでしょうか。

その他、出雲大社も関わってくることがあり、タケミカヅチとフツヌシが大国主に国譲りさせた神話とかかわりそうです。その件は諏訪のタケミナカタ(大國主の子)と同様な構造で、これらの諸社が今回のライン上に見えてくることも、その支配領域の占領・拡大と関係していたのかもしれません。先の星神の富士川のケースも同様な支配を意味していたはずです。

あと、天羽槌雄神については、日本書紀第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、ここで、日本書紀第九段本文と似た記述があり、これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したとの見方があります。(https://ja.wikipedia.org/wiki/天羽槌雄神 参照)

ここにみえる斎主とは、忌部(後代の斎部)で、その神としてのタケハヅチと見なしうるならば、理解しやすくなるでしょう。忌部自体は職掌集団伴部なので、かならずしも血縁集団であったとは言い難いものの、その信仰面では共通したものがあったのでしょう。

その彼らが信仰していた神として、ユフツ・フツ(ヌシ)・ユヅ(弓月)との神と、タケミカヅチ・タケハヅチといった神がおり、同時に殖産の神としての性格も持ち合わせいたのかもしれませんが、その前者はまた手置帆負神のように、三種の神器をかかげた帆(斎槻)を背負い、同時に帆に両手を広げて置く神のイメージであり、また弓削負のようにユキを背負う武神のイメージとして描かれることもあったのでしょう。

これらの信仰や伝承は、天岩戸方面から日向経由で、讃岐・安房を経由して、紀伊・畿内へと忌部の祖とともにもたらされ、宮中儀式へと取り込まれていったことが予想されますが、その一部は東海・関東・中部・北陸・出雲へと伝わって行き、それらの伝承も地方豪族の伝承として、再度宮中へともたらされ最終的に記紀に記されていったのかもしれません。

現在も宮中や伊勢で祀っている儀式の主要な部分は、これらの集団によってもたらされたものですが、その起源を明らかにすることで、はじめて日本文化の源流を探ることができるのかもしれません。




忌部ライン4 管理人 投稿日: 2023年05月14日 01:21:03 No.256 【返信】

先日お知らせした讃岐忌部の祖・手置帆負命、忌部全体の祖・天太玉命を祀る諸社に関するラインにつづいて、阿波忌部の祖・天日鷲命を祀る諸社(https://genbu.net/saijin/hiwasi.htm 参照)を結ぶ方位ラインを作成したのが図1とまります。図2,3は拡大図です。

こうみると阿波忌部と関わる徳島の大麻比古神社を起点として多くのラインが派生していることがわかりますが、具体的には、まず、天岩戸神社⇔大麻比古神社⇔和志取神社(愛知)⇔谷保八幡宮への東30度偏角のラインがあり、また手置帆負命社⇔大麻比古神社⇔伊勢内宮北部(月讀社付近)⇔下松原神社(白浜町)への東10度偏角のラインが見て取れます。

また大麻比古神社⇔わら天神社西部⇔諸岡比古神社への東60度偏角のラインがあり、その諸岡比古神社⇔忌部神社(出雲)南部⇔大麻山神社への東30度偏角のラインがあります。

そして大麻比古神社⇔天計神社西部⇔忌部神社(出雲)への西45度偏角のラインについては先日も指摘したとおりですが、岡山の天計神社については、大麻山神社⇔天計神社⇔伊勢内宮への西5度偏角のラインがあります。

その大麻山神社⇔弓削神社(白紙神社)⇔谷保天満宮への東10度偏角ラインは、諸岡比古神社⇔和志取神社への西80度偏角のラインと直交しています。

なお、伊勢内宮⇔諸岡比古神社は南北ラインとなり、また諸岡比古神社⇔和志取神社への西80度偏角のラインと、大麻山神社⇔谷保天満宮への東10度偏角のラインとが直交します。このラインは先の手置帆負社⇔大麻比古神社⇔伊勢内宮⇔下松原神社へのラインと平行関係にありますが、その下松原神社⇔服部神社への西80度偏角のラインと直交しています。

あと、伊勢内宮に関するラインとしては、伊勢内宮⇔和志取神社⇔服部神社への東60度偏角のラインがあり、また伊勢内宮⇔富士山⇔谷保天満宮への東30度偏角のラインがあります。

その他、手置帆負神社⇔服部神社への東30度偏角のラインと、服部神社⇔鷲子山上神社への西60度偏角のラインとが直交しており、その鷲子山上神社⇔弓削神社(白紙神社)⇔伊勢内宮への東40度偏角のラインもあり、下松原神社⇔和志取神社⇔わら天神宮への西5度偏角のラインがあります。

さらに、図3のように、四国方面では、(鷲子山上神社⇔)大麻山神社⇔忌部神社(山川)⇔高越神社(⇔天岩戸神社)への東30度偏角のラインがあり、また(服部神社)⇔大麻比古神社⇔大剣神社への40度偏角のライン、大剣神社⇔忌部神社(御所神社)西部⇔天計神社への西80度偏角のラインがあり、このラインと先の手置帆負命神社⇔大麻比古神社⇔伊勢内宮への東10度偏角のラインが直交しています。

このようにみていくと、天日鷲命の拠点は大麻比古神社を起点として、手置帆負命を祀った天計神社と手置帆負命神社、忌部神社(出雲)無視し、島根の大麻山神社をのぞくと、すべて阿波から東方に展開していたことがわかります。

特に、愛知の和志取神社、伊勢内宮が中部・東海地域の主要拠点であり、関東方面へと展開していったことが伺えますが、先日お話したように、この天日鷲が天日別であったとして、天日別がオオヒコの子のタケヌナカワ別、あるいは神武の子のタケヌマカワ別に象徴される東海地方へと進出した集団であれば、なおさら今回のライン図がそれらの地域に偏っていることと適合するでしょう。

天日別は伊勢から東海へと移動したことになっておりますが、また関東方面では天富命が阿波から向かったことになっており、これがまた先日お知らせしたフツヌシと関係する可能性があります。

そのことは、房総半島南部の拠点、下松原神社において、天太玉命の後裔である天富命が、天日鷲命の孫・由布津主命を率いて、阿波から当地(安房)開拓のため上陸し、その由布津主命が、祖神である天日鷲命を祀った神社とされること(詳細はこちらの安房忌部に関する資料説明サイトを参照 https://genbu.net/data/awa/simotate_title.htm)からもあきらかです。

つまり天富(フ)命は、由布津主(ユフツヌシ)命と同一に近い存在で、由布津主命は香取神宮や竹来阿彌神社の主神のフツヌシとなるはずです。

ここで天太玉(布刀玉)命のフトの発音も、そのユフツにかかっていた可能性もありますが、フト=フツ=ユフツとすると、ユ音が元々あったものの、それが聞き取りにくく省略されたことも考えうるでしょう。

特に忌部氏が率いていた秦氏の祖・弓月(ユツ)君や、秦氏が祀ったウズ・マサ神、また秦氏系譜にみえるユヅウ・フトウといったユヅ・フツ・フト音の存在との関係性も考慮しておくべきでしょう。

関連して、上記の安房忌部系の文書では、天日鷲命の子である大麻比古命は亦の名を津咋見命、津杭耳命との記載に始まり、次に天白羽鳥命。亦の名を長白羽命。次に天羽雷雄命。亦の名を武羽槌命。この三柱は言苫比賣命が生んだ子としていますが、ここでまず注目すべきは、大麻比古命の別名を津咋見命、津杭耳命としていることで、ツクイミ(ミ)となることでしょう。

特にアマテラス神話のツキヨミ(月讀命)の音にも似ますが、先の手置帆負命社⇔大麻比古神社⇔伊勢内宮北部(月讀社付近)⇔下松原神社(白浜町)ライン上にみえてくる月讀社と関わってくるかもしれません。

なおツキヨミと忌部や大麻比古との接点については、書紀第五書でツキヨミ(古事記ではスサノオ)が保食神である(オオゲツヒメ)を殺したことにより、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれたことと関係するでしょう。

ここで蚕や粟(アワ)が見えてきますが、阿波忌部については、伊勢から東海・関東へと東方展開した痕跡があり、それらの地域に良質な麻をもたらしたことが記されており、その穀物神との関係も考慮すべきかもしれません。

もうひとつ上記の文章で注目すべきなのが、そのツクイミの息子の天白羽鳥命(長白羽命)でしょう。

これはヤマトタケルの象徴である白鳥と関わるはずです。ヤマトタケルは東海・関東遠征に際して、伊勢神宮で草薙剣を受け取り、先日のラインにもみえてきた熱田神宮にその剣が最終的に収まることになってますが、この倭武の武は、先の大彦の息子の武渟川(タケヌナカワ)別の武と同じであり、そのことは倭武の父が景行天皇(大帯彦)であることからもあきらかです。

すなわち、その大帯彦(景行天皇)=大彦であり、その息子の倭武=武渟川(タケヌナカワ)別となるわけです。景行天皇は九州から畿内にかけての征伐を行い、その息子は東海から関東へと支配を広げたのでしょう。その話がもとになって、神武の東征、その子・(建沼河)タケヌマカワ別(綏靖)の継承となったはずです。

結局、この四道将軍や景行・倭武親子の征伐伝承については、忌部では、 手置帆負(テオキホオイ) と彦佐知(ヒコサチ)親子の話と対応しますが、また先日の分析では、父の手置帆負命とともに天岩戸神話でセット出てくるのが彦狭知命であり、この神は楯縫神とされることがありました。下記のとおりです。


新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)

特選神名帳は「今按、楯縫の社号によるときは、彦狭知命を祭れるが如くなれども、出雲国風土記意宇郡楯縫郷の条に、布都怒志命之天石楯縫直給レ之、故云二楯縫一とあるに、社説を合せて、經津主命なることしるへし」と、「楯縫」の称が必ずしも「楯縫神(彦狭知命)」に由来するわけではないと記している。https://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫神社_(美浦村郷中)


ここで、彦狭知命は楯造りとなり、またフツヌシ(布都・普都主)とも関わっており、その富都は、阿波・安房忌部の祖の天富命 のそれと関係するわけです。

そして、常陸とともに、出雲に同様な伝承や地名が見えてくる原因の一つしては、この忌部の展開で、玉作を主とした今回のライン上にも拠点としてみえてくる出雲忌部の展開が関係してくるのではないでしょうか。

同じ伝承が全国各地へと展開していくなかで、その地域に根差した形へと変化していき、最後にまた宮中へと取り込まれていったのでしょう。

そういう意味では、フトダマ(布刀玉)神の玉の部分は出雲忌部の玉に関係していた可能性も感じます。

布と刀にかんするフト神と、玉に関する神とが合わさったようなイメージです。

あと、今回のライン上に山梨の弓削神社の境内の白紙神社がみえており、この社についての説明は下記のとおりです。


祭神:瓊瓊杵命 木花開耶姫命 彦火火出見尊(山幸彦=神武の祖父) 日本武尊 大伴武日連命

社伝によると、日本武尊が東夷平定の帰路、大伴武日命が当地に留まったが、その館跡が当社であるという。大伴武日命は、日本武尊より「靱部」を賜ったことから靱部社=弓削社となったという。『日本後記』延暦二十四年(805)十二月二十日の条に「甲斐国巨摩郡弓削社預二官社一。以レ有二霊験一也。」と記載されている。
https://genbu.net/data/kai/yuge_title.htm 参照)


ここで、先のヤマトタケルが見えてくることにも留意すべきですが、また先日、手置帆負命の帆を背負う神像のモデルとしてあげた九州横穴墓の壁画や岩戸山古墳などの石人像にみえる大きく手を開き弓で的を射る人物や靱を背負う人物像の件を想起させます。


その際に、この弓削負(ユゲオイ)と、手置帆負(テオキホオイ)との関連性を指摘しましたが、上記の横穴墓や石人については軍事氏族の大伴氏の九州の拠点にあり、その大伴氏の下に後代、渡来系の東・新漢氏等が組み込まれていくこととなります。

その祭神は日向系の集団と、東海征伐をした集団とが混合しているようにみえますが、今回のラインを見れば、天岩戸方面から四国阿波をへて、伊勢・東海・関東へと至るので、これらの祭神とつながることも理解しうるでしょう。

大伴・物部の軍事(武具制作)、忌部・中臣の祭祀(神殿・器具制作)といった職掌分担が初期の時点から存在し、これが天孫降臨・天岩戸神話につながっていると考えるべきでしょう。

そして今回のラインに双方の集団の痕跡がみえてくることは、双方が一緒になって東方展開していったと考えるべきかもしれません。

あと、以前分析した出雲大社、諏訪大社、鹿島神宮、伊勢神宮、天岩戸等を結ぶ方位ラインでは、鹿島神宮のタケミカヅチの影響がありましたが、今回は香取神宮のフツヌシが見えてくる点が、そのセット神を考える上で重要になってきそうです。

その件についてもまた考察をすすめていきましょう。




忌部ライン3 管理人 投稿日: 2023年05月12日 02:20:53 No.254 【返信】

昨晩の讃岐忌部の祖・手置帆負命を祀る諸社を結ぶラインにつづいて、忌部氏の祖とされる天太玉(布刀玉)を祀る拠点を結ぶラインも作成してみたのが図1となります。図2,3は拡大図。

具体的には、まず奈良の天太玉命神社に関しては、天岩戸神社⇔剣神社南部⇔天太玉神社への東25度偏角のラインがあり、また天太玉命神社⇔大口神社(伊勢)への東西ラインがありますが、それに直交する形で、天太玉命神社⇔金礼宮への南北ラインがあり、その金礼宮⇔大口神社への西30度ラインとで直角三角形を構成しています。

さらに図のように、天計神社(岡山)⇔金礼宮⇔洲崎大神(横浜)への東10度偏角のラインが見えますが、その洲崎大神は忌部神社(出雲)と東西ラインで接合しています。

そして剣神社南部⇔大口神社⇔洲崎大神への東15度偏角のラインも確認があり、洲崎大神⇔安房口神社への西75度偏角のラインと直交しています。

あと、忌部神社(出雲)との関わりでいくと、出雲神社(出雲)⇔天計神社西部⇔大麻比古神社への西45度偏角のラインがあり、先日も指摘した忌部神社(出雲)⇔剣神社への西60度偏角のライン、忌部神社(出雲)⇔飯盛山周辺⇔天太玉命神社への西20度偏角のライン等にも留意しておくべきでしょう。

その他、剣神社⇔忌部神社(山川)⇔飯盛山周辺への東60度偏角のラインもあります。


全体的には昨晩の手置帆負命を祀る諸社のラインで抜けていた畿内や関東地域へのラインを埋めていること、天岩戸社や大口神社など共通の拠点を共有している点で、両者が同じ集団であったことが伺えるのですが、祭神が、ある時点で手置帆負命と天太玉命とに分かれていったのかもしれません。

天太玉命については、太占や玉造りと関わらせる見方(http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/futotamanomikoto/ 等参照)もありますが、天岩戸神話での役割は、鏡・勾玉・剣といった三種の神器をとりつけた賢木を捧げ持つ役割を演じており、それは昨晩説明した手置帆負命の名にみえるように、船の十字の帆柱を背負う神とのイメージに近いと言えるでしょう。実際神宮皇后の記紀記載には、船の帆柱に鏡と剣と玉を取り付けて祀るシーンがあり、船の帆柱と賢木とは、神器を取り付けるという意味で共通した題材だったことが伺えます。

その太玉の名については、布刀玉とも記されるように、刀と玉、そして布=和幣(麻や木綿の布)を意味していた可能性があります。そのことは古語拾遺に下記の記載(https://kakunodate-shinmeisha.jp/kojiki3.htmlより引用)があることからもあきらかです。

[古くは佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う。]を堀って上の枝には玉を掛け、中程の枝には鏡を掛け、 下の枝には青和幣・白和幣を掛けて、太玉命に捧げ持たせて讃えさせ・・


つまり、布刀玉とは、賢木や帆にかけた神器・幣帛のことであり、それを捧げもったり背負ったりする役目を忌部の祖先(神)が引き受けていた様子を象徴化したのではないかと考えうるでしょう。

その神器用の賢木を八百(多く)つくり全国へと配布したのが讃岐忌部であり、讃岐でも香川県が竹の産地として知られていることや、讃岐忌部の拠点である忌部神社(豊中)が竹田の字名にあることも、その竹を用いた賢木や帆柱の作成にかかわっていたことと関係しているのかもしれません。

さらに言えば竹取物語が讃岐がモチーフにされていることとも関係するはずで、宮中で祭祀を執り行っていた忌部と竹・麻栽培との兼ね合いが後代まで影響していたのではないでしょうか。

「太玉命に捧げ持たせて讃えさせ」とあるように、三種の神器=アマテラスの分身の賢木を抱え持つ、あるいは背負いながら、神を賛美することを忌部が執り行っていたはずですが、抱え持つと背負うとは若干ニュアンスが異なるかもしれません。

帆を背負うのは、柱自体の役割ですから、帆柱自体を神格化しているとも言えますし、布刀玉自体も神器自体を神格化していますが、その帆も忌部の栽培する麻布等で制作していた可能性もあるでしょうから、ここでも布が関わってきます。

ここで、父の手置帆負命とともに天岩戸神話でセット出てくるのが彦狭知命であり、この神は楯縫神とされることは、下記のとおりです。


新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)

特選神名帳は「今按、楯縫の社号によるときは、彦狭知命を祭れるが如くなれども、出雲国風土記意宇郡楯縫郷の条に、布都怒志命之天石楯縫直給レ之、故云二楯縫一[10]とあるに、社説を合せて、經津主命なることしるへし」[6]と、「楯縫」の称が必ずしも「楯縫神(彦狭知命)」に由来するわけではないと記している。https://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫神社_(美浦村郷中)


ここで、彦狭知命は楯づくりと関わることはあきらかですが、またフツヌシ(布都・普都主)とも関わっており、その富都は、阿波・安房忌部の祖の天富命 のそれと関係するでしょうか。

つまり天太玉と天富とは同義であり、フ音、フツ音であったのかもしれません。

もっともその普都神話の聖地の結び付きから竹来阿彌神社と関係があるとされること(https://ja.wikipedia.org/wikihttps://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫神社_(美浦村郷中)参照)
も興味深い点で、このフツヌシとみられる神が東征の終わりに楯や武具を脱ぎしてた話と、呉の軍隊や張角の太平道との関係を呉年号銘鏡を出土した古墳を結ぶラインから去年論じたとおりで、その呉との関係にも留意しておくべきでしょう。

そして、昨晩もお見せした九州の横穴墓の入り口に描かれた楯やユキ、弓を射る男性像、手を広げた男性像とが、この忌部氏の神像となんらかの関係性をもってくる可能性がでてきます。

興味深いのは、天孫降臨に出てきた忌部氏等の祖神が日向からの神武東征の際にも再度でてきていることです。

先日お話したように、天岩戸神社と日向の古墳群や陵墓はライン面で接合しており、同じくここ数日述べてきた忌部関連のラインでも天岩戸神社が拠点としてみえてくることがありました。

その神武(彦火火出見尊)の父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊であり、また大彦とともにハニヤスヒコとアタノヒメの反乱を鎮めたのも彦国葺ですが、彦を名の頭につけたりする集団であり、その影響を受けていたのが、先の彦狭知命であったとすると、大彦=神武との私論に従えば、さらに関係がわかりやすくなります。

関連して、紀伊忌部の祖とされる天道根の子にも比古麻命がおり、ヒコアサと読ませれば、ヒコサチとも近い語音になるでしょう。

この紀伊忌部と先の彦狭知神の後裔が紀伊国名草郡の御木・麁香二郷にいるとされることがあり、いずれにせよ、神武東征とそれに随行した紀伊忌部の祖とで共通性をもちます。

そして、彦狭知命と父の手置帆負命ですが、仮に先の呉や日向との影響があるならば、山幸神話のヤマサチのサチとも関係してくるでしょうし、南方航海民の影響を考慮すべきかもしれません。

その他、阿波忌部の祖の天日鷲命についても考察すべきですが、天日鷲翔矢命とも記され、さらに天日別として伊勢国造の祖ともみられることがあります。

天岩戸神話では、弦を奏でており、また木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされますが、翔矢として矢を象徴しており、彦狭知命が楯を象徴することとセット関係にあったのかもしれません。

元の名が伊勢から尾張へと勢力を移動させた天日別だったとすると、これは神武とその子の神沼河耳命(綏靖天皇)、あるいは大彦とその子・武渟川別(たけぬなかわわけ、建沼河別命)との関係を想起させます。

武渟川別は東海を征伐した四道将軍ですから、天日別の東海方面の支配拡大と共通性を持つでしょう。

阿波・安房忌部の祖には、天日鷲とは別に、天富命がいましたが、ここでも日と富がヒ、フ音で近いことに気づきます。

天太玉の孫が天富命とされてますから、祖父が天太玉=手置帆負で、父は彦狭知命となるでしょうか。

阿波から紀伊、そして東海・関東へと勢力を拡げていった集団の系譜のようにもみえます。

その祖先は日向から天岩戸社のある高千穂方面となりそうですね。

これらの系譜を、ここ数日お知らせしてきた忌部の拠点を結ぶ方位ラインが示しているようにも感じますが、年代としては、方位ラインの起点となっていた平塚川添遺跡がまだもちいられていた弥生時代末から古墳時代初期にはじまり、忌部が表にでてくる6世紀前半ごろにかけて、徐々に構築されていったのではないでしょうか。

その間に様々な土俗・外来宗教の影響を受けながら、忌部神道が形成されていき、現在の天皇家の祭儀へとつながっていったはずですが、その原型をもう少しあきらかにしてみたいところですね。特に呉との関わりでいけば、先日お知らせした呉の太平道の影響なども考慮しておくべきなのかもしれませんが、その辺はまた後日にまわしましょう。




忌部ライン2 管理人 投稿日: 2023年05月10日 17:57:11 No.253 【返信】

昨日お知らせした忌部関連の拠点等を結ぶ方位ラインについてですが、その全国展開を調べるために、特に讃岐忌部の祖・手置帆負命を祀る諸社(こちら参照https://www.genbu.net/saijin/taoki.htm)を結んでみたものが図1となります。図2,3は拡大図です。

まず、讃岐忌部の拠点である忌部神社(豊中)についてみていくと、忌部神社(豊中)⇔多和神社⇔大口神社(伊勢)へのラインがあり、また忌部神社(豊中)⇔忌部神社(出雲)への西65度偏角のラインと、忌部神社(山川)⇔天計神社への西65度偏角のラインとが平行関係にあります。

これらのラインと直交するのが、手置帆負神社⇔斎神社北部⇔大津神社へと向かう25度偏角のラインです。

この大津神社に関しては、日枝神社(飛騨)⇔大津神社西部⇔三柱神社への西81度偏角のラインがあり、これと直交して三柱神社⇔手置帆負神社への東9度偏角のラインがあります。

同じく大津神社西部⇔熱田神宮⇔大口神社への東75度偏角のラインがあり、また大津神社西部⇔忌部神社(豊中)⇔天岩戸神社への東35度偏角のラインがあります。

その天岩戸神社⇔天計神社⇔斎神社への東40度偏角のラインがあり、このラインと天岩戸神社⇔手置帆負神社への西50度偏角のラインとが直交しており、また手置帆負神社⇔忌部神社(出雲)への東40度偏角のラインが、先の天岩戸神社⇔天計神社⇔斎神社への東40度偏角のラインとで平行となります。

あと、忌部神社(出雲)⇔斎神社⇔熱田神宮⇔安房神社への西5度偏角のラインがあり、その安房神社⇔大口神社⇔多和神社⇔忌部神社(豊中)への東10度偏角のラインも見て取れます。

その他、以前もお知らせした天岩戸神社⇔宇佐神宮のラインがあり、同じく宇佐神宮⇔忌部神社(山川)⇔日前国懸神宮⇔大口神社への東11度偏角のラインもあります。

こうみていくと、忌部氏の全国展開の起点として、九州の天岩戸神社や宇佐神宮、手置帆負社があり、そこから四国や出雲の忌部神社、へ展開し、さらにそこから熱田神宮や大口神社のある伊勢方面、そして飛騨の大津神社や、千葉房総の安房神社へと東方展開していった歴史が伺えます。

忌部氏は中臣、物部と並ぶ古代からの祭祀氏族ですが、天岩戸に関する伝承と儀式を当初から有して継承していた集団とも考えうることはこのラインからも明らかで、特に手置帆負神を重要視していたことも伺えるでしょう。

この手置帆負神に関する竿を八百(多数)祭祀のために造っていたことについては、神功皇后の記載にもみえるような、船の帆(木)の枝に鏡や剣、勾玉などをかけて祀る祭祀と関わっていたはずで、その斎槻(木)を竿という形で造営し、各地の忌部集団の拠点等に分配していったのではないでしょうか?

ただ、問題はその船の帆を背負う神として描かれている点で、その帆の枝部に手を伸ばして置くといういわゆる十字架状態の神のようなイメージを想起させる件についても考察を進める必要があるかもしれません。

図1下部に挟み込んだ九州の横穴墓や岩戸山古墳などにみられる楯とユキで十字状に手を広げる弓削負(ユゲオイ)のイメージにも近いのですが、アマテラス女神自体もスサノオと戦う際の弓削負のシーンがあり、そこにこの手置帆負神が天岩戸神話とのかねあいで、どう関わっていたのか、またその原型がどのようなものであったのかについてさらに考察を進めてみたいところです。




忌部ライン 管理人 投稿日: 2023年05月09日 15:28:52 No.252 【返信】

先日、剣山(剣神社)と魏年号銘鏡出土地等を結ぶラインを作成しましたが、その剣山について後代の伝承を調べていくと、特に忌部との関わりが重要になってきそうです。

以前、各地の忌部神社を結んだ方位ラインを作成したことがありますが、再考してみたのが図1です。図2,3はその拡大図。

具体的には、伊勢外宮⇔国見山⇔岩橋千塚古墳群(南部・将軍塚付近)⇔忌部神社(山川)⇔宇佐神宮⇔平塚川添遺跡⇔与止日女神社への東12度偏角のラインが確認できます。

ここで、伊勢外宮の豊受(トヨウケ)神と、女王台与(トヨ)との関係を予想した与止日女神社がライン上にみえ、平塚川添遺跡とともに邪馬台国時代、特に台与(トヨ)の名残をこの忌部が引き継いでいた可能性がでてきます。

なお、岩橋千塚北西部には紀伊忌部の拠点があったことにも留意しておくべきでしょう。

そして図3のように、忌部神社(山川)の南方の忌部山古墳群をラインが通過していることがあります。

年代的には、岩橋千塚と同様6世紀中葉あたりに、忌部氏が蘇我氏のもとで全国展開していった際にこれらの古墳群が造営させていったのでしょう。

また図2のように、忌部神社(豊中)⇔大剣神社への西40度偏角のラインと、大剣神社⇔忌部神社(山川)への東50度偏角のラインとが直交しています。

ここでは、忌部神社(山川)と剣山を起点にして、忌部神社(豊中)を造営したことも伺えます。

なお、忌部氏の展開については、『古語拾遺』のほうに、下記の記載等(https://kakunodate-shinmeisha.jp/kojiki3.html から引用)があるので、よろしくご参照ください。


天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫。] 手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち始めて山の材木を採取し、 正殿を建てた。[所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、 高天原に届くほど高く御殿を造られた。]その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ) の二郷に居る。[古くは正殿を麁香と言う。]材を採取する斎部の居る所を御木と言い、 殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしである。
また、天富命は斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、 櫛明玉命の孫は御祈玉(ミホギタマ)[古くは美保伎玉(ミホギタマ)と言い意味は祈祷である。]造る。 その末裔は今は出雲の国に居る。年毎に調物とその玉を天日鷲命の孫が造る木綿・麻・織布[古くは阿良多倍と言う。]と共に進貢した。
天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地を求め、阿波の国に遣わして穀・麻種を植えた。 その末裔は今は彼の国に居る。大嘗の年に木綿・麻布・種々の蓑を貢ぎ奉った。 故に郡の名を麻殖(アサウエ)としたのは是が元である。
天富命は更に肥沃な土地を求めて阿波の斎部を分けて東の国に率いて往き麻・穀を播き殖、 良い麻が生育した。故にこの国を總国(フサノクニ)と言う。穀・木の生育したところは、 是を結城郡(ユフキノコオリ)と言う。[古くは麻を總と言う。 今の上總・下總のに国がこれである。] 阿波の忌部が居るところを安房郡(アワノコオリ)[今の安房の国がこれである。]と言う。
天富命はやがてその地に太玉命の社を建てた。今は安房社(アワノヤシロ)と言う。 その神戸(カムベ)に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を作る。 その末裔は、今別れて讃岐の国に居る。年毎に調庸の他に八百竿を奉る。是はその事のしるしである。


ここで、讃岐忌部氏がみえてきますが、これは図3の忌部神社(豊中)を拠点とした集団で、手置帆負命を祖として、祭具の矛竿を献上していたとの記載があります。詳細は下記(http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1510.htmlから引用)のとおりです。この手置帆負命の件は後日、改めて説明したいと思います。


古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の一つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。

讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発した。また、善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている。
その他現在、香川県内にみられる神社や地名のうち、三豊市高瀬町の麻部(あさべ)神社、観音寺市の粟井(あわい)神社などの神社、高瀬町麻(あさ)、同町佐文(さぶみ、麻分の意味)、同町佐股(麻またの意味) などの地名はその名残である。香川県神社誌(上巻)には、「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」との記録がある。
その後の讃岐忌部氏の足取りは定かではないが、高瀬町誌に「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたがその後高瀬町上麻に転住し現在に至る」との記述がある。




邪馬台国時代の測量方法4 管理人 投稿日: 2023年05月06日 23:57:32 No.250 【返信】

先日、九州、瀬戸内、畿内を結ぶ魏年号銘鏡出土地などを結んだラインを作成しましたが、その折に、四国の剣山付近を通過することがあり、その剣山について注目しながら、あらためて魏年号銘鏡を出土した各地の拠点を結んでみたのが図1,2,3となります。

ここで、まず剣山そばの剣神社をラインが通過することがわかりますが、具体的には持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔物部(高知市)⇔剣神社⇔安満宮山古墳(魏年号銘鏡出土)⇔森将軍塚古墳へと延びる東40度偏角のラインがあることがわかります。

このラインと直交するのが、以前もお知らせした森尾古墳(魏年号銘鏡出土)⇔広峯15号墳(魏年号銘鏡出土)⇔黒塚古墳(三角縁神獣鏡多数出土)への西50度偏角のラインです。

また先の持田古墳群⇔竹島御家老屋敷古墳(魏年号銘鏡出土)への東85度偏角のラインと、竹島御家老屋敷古墳⇔剣神社への西5度偏角のラインとが直交して直角三角形を構成していますが、また先日も指摘した神集島⇔竹島御家老屋敷古墳⇔楯築墳丘墓への東20度偏角のラインと、楯築墳丘墓⇔剣神社への西70度偏角のラインとが直交しています。

あと、先の持田古墳群⇔神原神社古墳(魏年号銘鏡出土)への東70度偏角のラインは、神原神社古墳⇔黒塚古墳への西20度偏角のラインと直交しており、また持田古墳群⇔黒塚古墳南部(箸墓付近)⇔柴崎蟹沢古墳(魏年号銘鏡出土)への東32度偏角のラインは、太田南5号墳⇔安満宮山古墳⇔黒塚古墳への西60度偏角のラインと直交しています。

加えて、神原神社古墳⇔太田南5号墳北部⇔柴崎蟹沢古墳への東10度偏角のラインと、平塚川添遺跡⇔剣神社への東10度偏角のラインとが平行関係にあり、留意しておくべきラインです。

またその神原神社古墳⇔津久見島⇔西都原古墳群への東68度偏角のラインがありますが、その津久見島⇔持田古墳群への東75度偏角のラインが、先日も説明した神集島⇔平塚川添遺跡⇔小迫辻原遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインと直交していることもあります。

その他のラインについては、先日も説明したので詳細は割愛しますが、太田南5号墳⇔安倉高塚古墳(呉年号銘鏡出土)⇔和泉黄金塚古墳(魏年号銘鏡出土)への西75度偏角のラインについては、呉の年号銘鏡の出土地も関わっている点で注目すべきでしょう。

そして神集島⇔三雲小路南遺跡⇔吉武高木遺跡⇔岡本遺跡⇔赤塚古墳への東西ラインは以前から指摘しているところですが、赤塚古墳⇔竹島御家老屋敷古墳⇔神原神社古墳への東55度偏角のラインの存在も重要です。

このように、すべての魏年号銘鏡出土古墳は、整然とこれらのライン上に位置付けられていることからみて、剣神社についても、魏年号銘鏡等が出土していたもおかしくはない感じがします。

その剣神社については、大山祇、スサノオ、安徳天皇を祀っており、安徳天皇が天叢雲剣(草薙剣)を修めたという伝説があり、それがもとになって剣山と改名されたとの由来があります。

このように剣山については、三種の神器の剣に関わる伝承があることも興味深いところですが、ともあれ、ラインが通過するのは、図1下図のように、剣山頂上ではなく、この木屋平の剣神社であることに留意しておくべきで、先のとおり魏の年号が記された銅鏡が奉納されていた可能性は、その測量上での重要位置にあることからみても高く、そのことと神器伝承とが後代、何らかの接点をもったのかもしれません。

あと、大剣神社については、先の竹島御家老屋敷古墳⇔剣神社へのライン上にあり、ここにも何らかの宝物等が残っていた可能性はあるかもしれません。




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