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無題 sherpa 投稿日: 2023年06月08日 20:45:21 No.268 【返信】

吉野ヶ里遺跡ってどうよ?
管理人 投稿日: 2023年06月09日 00:58:24 No.269
吉野ヶ里は中国系の骨格だそうですね。

人の骨を調べてみると、男女の違いや年令、身長、さらには体つきや顔つき、栄養状態までわかるものもあります。吉野ヶ里のお墓から見つかっている人骨はおよそ300体ありますが、その特徴を調べてみると、身長が高く、顔は面長で鼻が低いなど中国大陸から渡ってきた「渡来系」と呼ばれる人々と共通しているところがたくさんあることが分かります。特に身長については同じ時代の関東や南九州で見つかる人骨と比べてみると、平均で10㎝位高いようです。もともとこの地に住んでいた人々と大陸から渡ってきた人々とが一緒になり、次第に混血が進んでいったものと考えられます。
https://www.yoshinogari.jp/introduction/restore/kamekanboretsu/


吉野ヶ里ライン 管理人 投稿日: 2023年06月08日 01:55:17 No.267 【返信】

ここ数日、吉野ヶ里遺跡の発掘ニュースで盛り上がっていますが、そこで今回はその吉野ヶ里遺跡を結ぶ方位ラインを再考してみることにしました。

以前からしばしば吉野ヶ里遺跡を通過するラインについてはいくらか紹介してきましたが、特に吉野ヶ里遺跡の中でも今回発掘された日吉神社のやや東南にある北墳丘墓付近を通過するラインをもとに、関連する各地の遺跡を結んで作成したのが図1となります。図2,3は拡大図です。

具体的にみていくと、まず平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔女山神籠石⇔国見山⇔山田(西都市)古墳状地形⇔宮崎神宮への西60度偏角のラインがあります。

このラインと直交して、吉野ヶ里遺跡⇔大穴貴神社への東30度偏角のラインがあります。

ここで、正確には大穴貴神社東北430mにある奈良の三輪山状の丘陵地をこのラインが通過していることに留意しておくべきでしょう。

このラインと平行して、女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡⇔三輪山への東30度偏角のラインも確認できます。

その川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田(西都市)への南北ラインがあり、このラインと直交するのが川部・高森遺跡⇔岡本遺跡北部(須玖遺跡)⇔平原遺跡への東西ラインです。

ここで天岩戸神社については、その東本宮の500mほど東にある丘陵地域をラインが通過していることがあるので、この地点を発掘すれば何か出てくる可能性があります。

また、岡本遺跡⇔大穴貴神社⇔ダンワラ古墳への西30度偏角のラインがありますが、このダンワラ古墳からは魏曹操墓出土鉄鏡と同類の鏡が出土したことで知られており、またそこに巨大な前方後円墳状地形があることも以前お知らせしたところです。

さらに、このラインと直交するのが、大穴貴神社⇔祇園山古墳への東60度偏角のラインです。

この祇園山古墳については、卑弥呼の墓との説もあるように、多数の殉死者らしき甕棺墓があるとともに、平原遺跡や楽浪阿残墓と共通性を持つことも指摘されているところで、先のように平原遺跡が今回のライン上に見えてくることとも関係しているでしょう。

また、先のダンワラ古墳については、山田(日田市)⇔月隈山西部⇔ダンワラ古墳⇔天岩戸神社への西60度偏角のラインがあり、そのラインと直交するのが、先の女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインとなります。

さらにその天岩戸神社⇔女山神籠石への西30度偏角のラインがあります。

そして、月隈山⇔鷹取宮⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔与止日女神社への東西ラインがありますが、図のように二串の萩尾神社付近で3つのラインが交差していることにも留意しておくべきでしょう。

あと、図1のように、吉野ヶ里遺跡⇔荒神谷遺跡への東45度偏角のラインがあり、荒神谷遺跡の銅鐸の鋳型が吉野ヶ里遺跡から出土していることも、このラインと関係してくるでしょう。

その他、鷹取宮⇔大穴貴神社への西60度偏角のラインと大穴貴神社⇔吉野ヶ里遺跡への東30度偏角のラインとが直交しています。

以上のように、今回のラインは、30度偏角と60度偏角を用いた三角測量で拠点を位置付けていった集団によることが明らかにできますが、その山田の字名にみえるように、邪馬台国領域に関わるラインとも言えるでしょう。その国見山の地名などはそのころからの国境地域を示していた名残と考えうるでしょう。

この集団がある時期に東遷して奈良の三輪山方面を開拓していったのではないでしょうか。一部は出雲の荒神谷遺跡方面へと展開していったはずです。

そこで、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の位置付けとなりますが、図3のように、以前女王台与との関連を考えた佐賀の与止日女神社の東方にあたり、またほかの多くのラインの通過地点でもあることからみても、九州全域に支配を及ぼした王たちの墓と考えるのが妥当でしょう。

ただ、その年代は弥生時代中・後期のものでしょうから、卑弥呼の時代より先行しているはずです。

そして、今回発掘された北墳丘墓西方の日吉神社の墓について考えてみると、北墳丘墓の王たちと関係性を保ちつつも、やや異なる集団の王墓の可能性があり、年代も異なっているかもしれません。

図3に差し込んだその周辺の断面図からみると、高さ8~10m、直径180m前後の丘陵上に神社が位置しており、円墳の可能性も考慮すべきかもしれません。

また同じく差し込んだ航空写真をみていくと、南内郭⇔日吉社(発掘地点)への東80度偏角のラインと、北内郭⇔公園北部の円形住宅地の中心地への東80度偏角のラインとが平行になっており、この2つのラインと直交する形で、北墳丘墓⇔日吉社(発掘地点)への西10度偏角のラインがあったようにも見受けられます。

そして、北内郭⇔日吉社への西70度偏角のライン上に北内郭の物見櫓が位置しているので、日吉社の丘陵の頂部の見晴らしの良い場所に同じく物見櫓のようなものを置いて、光信号等で情報伝達をしていたのではないでしょうか。

そういう意味では、日吉社の丘陵は吉野ヶ里遺跡が発展していく過程で元々重要な拠点だった可能性も感じますが、この上に墳墓を気づいた重要人物がある時期にいたことが伺えるでしょう。

今後の発掘成果が気になるところです。




天湯河板挙ライン 管理人 投稿日: 2023年06月06日 01:41:50 No.266 【返信】

先日分析した田道間守を祀る諸社を結ぶ方位ラインにおいて、特に魏年号銘鏡を出土した森尾古墳そばにある中嶋神社では、また天湯河板挙が祀られていることがあります。

この天湯河板挙については、古事記では、垂仁の息子で大人になっても声を発せなかった誉津別(ホムツワケ)が、鵠(白鳥)をみて、これはなんだ?とはじめて声を発するが、その鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に天湯河板挙に捕らえらることとなり、しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかったが、ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかったとの話があります。

そこで、この天湯河板挙を諸社と、先日の田道間守を祀る諸社等をあわせてラインで結んでみたのが図1となります。図2、3はその拡大図です。

まず、その中嶋神社については、天湯川田神社への西55度偏角のラインがあり、このラインとその天湯川田神社⇔波太神社への東35度偏角のラインとが直交します。

また先日も指摘した中嶋神社⇔吉田神社⇔太神山への西35度偏角のラインと、吉田神社⇔履中陵⇔橘本神社への東65度偏角のラインとが直交します。

ここで、図3のように履中陵の古墳軸にそってラインが通過していることがあり、河内王朝や百舌鳥古墳群の造営に今回のラインがダイレクトに直結していることがわかります。

あわせてその図にみえる右側のもう一つのラインは、波太神社⇔御野縣主神社⇔太神山⇔河桁御河邊神社への東45度偏角のラインであり、このライン上にみえる白鷺(サギ)公園あたりにも注目しておきたいところです。

その履中天皇については、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の長男ですが、履中陵自体は仁徳陵より古い古墳とされており、その大鷦鷯の父のホムダワケは、凡牟都和希王(ほむつわけのみこ/ほむたわけのみこ)との 『上宮記』逸文の記載もあるので、先のホムツワケとこの応神とに共通性があったこともわかります。

また大鷦鷯(オオササギ)尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは同日に生まれた際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けた伝承があり、ここで鳥に関する伝承があることにも留意しておくべきでしょう。

そこでまた、ライン分析に戻ると、先の橘本神社⇔日葉酢姫陵⇔河桁御河邉神社への東50度偏角のラインがみえますが、このラインと直交して日葉酢姫陵⇔和奈美神社への西40度偏角のラインが見られます。

そして図のように、先の2つのラインと籠神社⇔橘本神社への南北ラインが丹波篠山市周辺の1点で交差していることからみても、これらのラインが人工的な位置付けにあったことがわかります。

関連して鳥取大神宮⇔和奈美神社⇔河桁御河邊神社への西15度偏角のラインがあり、その鳥取大神宮⇔橘本神社への西60度偏角のラインも意図的な配置と言えるでしょう。

そして出雲大社⇔鳥取大神宮⇔籠神社⇔気比神宮⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインは、先の鳥取部の祖・天湯河板挙に伝承に出雲大神が見えてくることと関係するでしょう。

あと、橘本神社⇔出雲大社への西30度偏角のラインも意図的な位置付けであったことを示しますが、また河桁御河邊神社⇔鳥取神社(東員町)⇔下松原神社(滝口)への西5度偏角のラインがあり、また吉田神社⇔河桁御河邊神社⇔香取神宮への東11度偏角のラインは、橘本神社⇔天岩戸⇔下松原神社(滝口)への東11度偏角のラインと平行になります。

その天岩戸⇔鳥取神社(東員町)への西80度偏角のラインもあり、また鳥取神社(東員町)⇔日葉酢姫陵への東30度偏角のラインも意図的な配置です。

その他のラインについては、先日もお知らせしたので割愛しますが、4世紀前半から中葉にかけての田道間守や日葉酢姫・垂仁陵に関する先日のラインに続く形で、この天湯河板挙とホムツワケ(垂仁皇子)に関するラインが畿内から丹波・尾張方面へと構築されていったことが理解できるでしょう。

そしてそこに先の天湯河板挙とホムツワケの白鳥伝承とがかかわってくるのですが、ヤマトタケルの白鳥伝承とも関わるはずで、その年代を経たあとに、河内王朝の履中陵や百舌鳥古墳群が現れていくこととなります。

あと、履中天皇の時代、讃岐国造の鷲住王を天皇が呼び寄せようとしたことがありますが、この鷲住王の鷲は、阿波忌部の天日鷲とも関係しそうです。つまり忌部の祖が当時の王族であった可能性がみえてきます。

関連して景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えており、つまり鷲住王が白鳥伝承を持つ倭武と関わってくるわけです。

白鳥はヤマトタケルの死後の魂を示していますが、この集団にとって高貴な霊魂を示す象徴だったのではないでしょうか。

その高貴な霊魂が、垂仁皇子の障害を治すのに一役かっていたことになりますが、また鷲に関しては天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥(きっしょう)を表す鳥といって喜ばれたとの説話があり、吉兆とみなされてます。

また天湯河板挙については、その白鳥を追いかける人物(集団)を象徴していますが、wikiの(https://ja.wikipedia.org/wiki/天湯河板挙)条に下記の記載があります。


折口信夫は、『風土記の古代生活』という著作で、「水の女」という説を唱えている。それによると、常世からの水をあびて心身を若返らせる行為を「禊」といい、その水は温かいもので「湯」と呼ばれ、「禊」の場所は海へ通じる川の淵であり、そこを「湯川」と呼んだ。そして「湯川浴(あ)み」をするための場所を「ゆかわたな」と呼んだのではないか、と述べている。つまり、「天湯河板挙」とは、「白鳥を追いつつ、禊ぎを求めていった」という意味なのだと解釈している。


ここで、天湯河板挙が禊と白鳥(≒霊魂)とに関わることが判りますが、これは新約聖書でイエスが洗礼の際に、川へ沈められるとともに、神の霊(聖霊)が鳩のように降ったことから、白鳩が聖霊の象徴とみなされた事例に共通要素を見出しうるかもしれません。

この件は、秦氏の餅の的伝承でも、白鳥(神霊)の化身の餅を矢で射ると、多くの芋となりそれをみなで食べたという話があり、それは中国景教(ネストリウス派キリスト教)におけるミサ聖祭で用いられていた餅(=イエスの体)に聖霊が降り、それを分けて信徒たちが食べる儀式のそれに対応することとも関係するかもしれません。

先のとおり、波太神社が今回の履中陵・百舌鳥古墳群へのライン起点となっており、摂社となる三神社(重要文化財) - 祭神:神功皇后、武内宿禰、天湯河板拳命が祀られていることがありますが、先の秦氏と関わりが強く今回のライン上にも見える宇佐八幡での応神・神功皇后・比売大神(宗像三女神)の三神祭祀を想起させます。

その応神(ホンダワケ)と武内宿禰、母の神功皇后、宗像三女神とはセット関係にあり、また先のホムツワケと天湯河板拳命もセットとなり、天湯河板拳命は禊を示し、白鳥とのセット関係ですから、三女神と禊場との関係がないかどうかを確認する必要があります。

その三女神が産まる際に、アマテラスが誓約の際に、天照大神が素戔嗚尊の十握劒(とつかのつるぎ)を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天真名井(あめのまない)の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出し、その息の霧から生まれた神が宗像三女神とされるので、禊場と近い要素をもっているとも言えるでしょう。

その他、5世紀代の新羅の古墳で出土する東欧系のトンボ玉に白人王族と白鳥が描かれているようなこととも関係しそうですが、禊と白鳥、白鳥と癒しといった要素について、他にも同様な説話伝承がないかどうか調べていく必要がありそうです。




田道間守ライン 管理人 投稿日: 2023年06月02日 16:50:43 No.265 【返信】

先日の香取神宮・芝山古墳群等を結んだ方位ライン分析で見えていた日葉酢姫陵に関して、その日葉酢姫陵が陵が属する佐紀盾列古墳群との関わりを指摘したことがありました。この古墳群については、垂仁陵と初瀬山を測量起点として位置づけられていることを以前指摘したことがあります。

その日葉酢姫については、垂仁天皇の皇妃であり、また垂仁天皇死後に、田道間守が常世の国から持ち帰った時じくの香の木(橘)の実の半分を受け取ったとされますが、その木は、縵8縵・矛8矛とも記されており、これが7枝刀や天日矛に象徴される王族のレガリアに相当するものであり、ユダヤ人のメノラー(8枝の燭台)とも関係することも以前お話したとおりです。

その形状はまた芝山古墳群もある房総半島方面に多く出土する石枕に取り付けられた8本前後の立花とも関係し、不老長寿や常世を意味するものではなかったかと考えますが、またヤコブの石枕(のちにその石枕を柱として立てる)、天梯子伝承とともに、旧約聖書との関係を予想したことがあります。

また田道間守は天日矛の玄孫で多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子ともされますが、そのヒナラキは、先のユダヤ人が用いる8枝の燭台ハヌッキヤーの語に対応し、その両側に広がる8つの枝、あるいは皿のほかに、中央の高くなった部分にシャンマーシュという部分が、点火用に使われる(あるいはその蝋燭や火のことをシャンマーシュということから、そのシャンマーシュを日葉酢姫のヒバス=火=日としたであろうこともお話したとおりです。

そこで、この田道間守と日葉酢姫の伝承がユダヤ教と関係すると仮定し、また同じくユダヤ教の籠目紋と真名(マナ)井の件で知られる籠神社との間に方位ライン面で関係性が見出しうるかどうかとの点について注目すると、先日の方位ライン図にも見えていたように、籠神社⇔日葉酢姫陵⇔初瀬山への西60度偏角のラインがあり、この60度偏角が30度、90度とともにもっとも基礎的な測量で用いる偏角とみなしうることからみても、その双方に同系の集団による造営と考えうることがありました。

このラインはまた磐境神明社⇔綿貫観音山古墳への東30度偏角のラインと直交しており、その磐境神明社ではユダヤ教の洗礼場に類似した磐境があることでもよく知られてますが、また綿貫観音山⇔芝山古墳群への西30度偏角のラインの存在があり、その芝山古墳群からユダヤ人の風貌をした埴輪が出土していることにも留意しておきたいところです。

そこで、今回その日葉酢姫陵、籠神社に注目しつつ、先の田道間守を祀る諸社をラインで結んでみたのが図1となります。図2,3は拡大図。

まず籠神社⇔橘本神社への南北ライン、日葉酢姫陵⇔吉田神社への南北ラインが確認できますが、その橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝えがあります。

また吉田神社境内に菓祖神社があり、そこで田道間守が祀られていますが、先の日葉酢姫陵を意識した位置付けであったことが予想されます。特に本殿で伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命)も祀っており、先日のラインでも香取神宮や阿彌神社などでフツヌシが関係していたことがありました。

そこで、また橘本神社⇔日葉酢姫陵⇔太神山への東50度偏角のライン上にみえる太神山がフトでフツヌシと関係しそうです。

その太神山⇔吉田神社⇔中島神社(森尾古墳そば)への西50度偏角のライン、同じく太神山⇔籠神社への西45度偏角のラインがあり、後者は図のように籠神社⇔石鎚神社の東45度偏角のラインと直交しています。

前者の中嶋神社については、その南東に魏年号銘(正始元年)鏡を出土した森尾古墳があり、また三宅の字名となるように、もともとは皇室領の屯倉(三宅)の地であったことが伺えます。

そして『国司文書』によれば、推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからとされます(wiki中嶋神社条参照)。

さらに、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから、養蚕の神ともされていること、合祀されている天湯河棚神が中古に合祀された安美神社の祭神で、鳥取連(ととりのむらじ)の祖神で、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の命により皇子誉津別命の為に鵠(くぐい。白鳥のこと)を捕えた人物で、一説には、『古事記』に記される鵠を捕らえた地、和那美之水門(わなみのみなと)の近くに祀られたものであるというとの見方(同じくwiki中嶋神社条参照)を考慮すると、忌部と関わる養蚕業、フツヌシを祀る茨城の阿彌神社と同名の安美神社があることに注目すべきで、特に天日鷲命の後裔にもその鳥取連(『斎部宿禰本系帳』)がいることからみても、先日から分析してきた忌部氏(天日鷲(別)≒天富≒フツヌシ)や白鳥伝承に関わるヤマトタケルの東征伝承を保持した集団が、この地にいたことが予想されます。

ここで、この中嶋神社(森尾古墳)⇔石塚山古墳⇔岡本遺跡⇔橘神社への東30度偏角のラインがあり、また中嶋神社⇔橘本神社への西80度偏角のラインは、橘本神社⇔石鎚神社⇔宇佐神宮南部⇔平塚川添遺跡⇔香橘神社(伊万里市)への東10度偏角のラインと直交していることがわかります。

これらは弥生遺跡を含んでおり、初期の三角縁神獣鏡を出土する石塚山古墳など、邪馬台国時代のラインとも考えうるでしょう。

その石鎚神社については、鏡と玉と剣の三種の神器を現したとされる石鎚神を祀っており、忌部系の祭祀ともつながりを持ち、また先日のラインにみえてきた石動(イスルギ)神との関わりも考慮すべきかもしれません。その石鎚神社⇔吉田神社の東30度偏角のラインも意図的な位置付けと言えるでしょう。

その西の起点となっている伊万里市の香橘神社については、この地に非時香菓を一株植えたという言い伝えを聞いた橘嶋田麻呂が、橘氏の族祖橘諸兄との因縁を思い、諸兄を祀る社殿を創建したのが始まりとされており、その橘氏については、元は県犬養氏で、先の三宅連と同様に屯倉の管理者であったことからみて、もともと、この地が弥生時代以来の皇室領の屯倉であったところに、屯倉管理者として秦氏等とともに派遣された三宅連や県犬養氏が住みついたので、結果として弥生遺跡や初期古墳を結ぶライン上に、これらの後代の氏族のラインとが接合していくことになったのだろうと感じます。

関連してその香橘神社のある伊万里市には牛戻遺跡があり、その遺跡の石棺墓から鏡の出土があり、弥生時代中期中頃(紀元前1世紀頃)から弥生時代終末期(3世紀頃)にかけての墓群を確認されています。

そういう意味では、垂仁朝にはじまる屯倉制度の背景には、それ以前の邪馬台国時代からの皇室領があり、その皇室領としての、岡本・平塚川添遺跡や西都原古墳群(三宅)といった地があったことも考えうるでしょう。

ただ、その魏と関係をもっていた北部九州から畿内へとむかったニギハヤヒに象徴される物部氏系の集団とは別に、南部九州日向方面に由来する神武・オオヒコ・景行・倭武の東征に象徴される南方航海民の習俗を有した集団が、4世紀前半に畿内へ進出していく過程で、先の垂仁陵や日葉酢姫陵等を含む佐紀盾列古墳群を造営し、その集団と今回のユダヤ人の習俗を持つ集団とが何らかの接点をもっていた可能性がみえてきます。

そして前者はほとんど神社には関係しないものの、後者はここ数日示してきたラインのように、宇佐・出雲・伊勢・鹿島・香取・諏訪といった多くの大社と関係していることからみて、後者の集団が神道の基礎観念を持ち込んできた可能性が高いと言えるでしょう。その集団の祭祀氏族が忌部氏であり、後代まで宮中儀式をしきっていたわけです。

その集団は日向方面に本拠があった関係で呉とのつながりがあり、その点で魏とのつながりがあった北部九州の集団とやや異なるのですが、それゆえ、先日の西都原古墳群⇔伊勢外宮⇔長池(山中湖)⇔鹿島神宮への東30度偏角のラインにみられるように、呉の金印や年号銘鏡の出土地ともかかわっていたのでしょう。

この東30度偏角のラインと平行関係にあったのが、籠神社⇔黒姫神社(石動神社)ライン、綿貫観音山古墳⇔大麻比古神社⇔磐境神明社への東30度偏角のラインであり、それに直交して、今回の籠神社⇔日葉酢姫陵⇔初瀬山ライン等があるわけです。

この南方系集団が、呉との関わりをもっていたことは、4世紀前半以前のある時期に呉方面から、南西諸島経由で北上してきた集団がいたはずで、それはHLAハプロタイプB54の華南方面から日本列島への移住の流れと年代的にも一致してくることは以前もお話したところです。

日本のこの集団の関係地域から出土する呉の年号銘鏡については、日本列島で呉から仕入れたものではなく、南西諸島・華南方面で呉から賜ったものを持参したものではないでしょうか。

その集団は太平道の己大方の将軍の金印を保持して、ユフツ・フツ(ヌシ)を神祖としていた可能性がありますが、その太平道については、于 吉(う きつ、? - 200年 徐州琅邪郡出身)が『志林』によると、順帝の時代、薬草を採りに山に入ったところ、曲陽の水辺で白い絹に朱の罫を引いた神書『太平清領道』百余巻を手に入れたとされており、後に呉の孫策にも関わり(殺され)ますが、またそれを継いだ張角は『太平清領書』を教典として教団を創始し、張角は病人に対し、自分の罪を悔い改めさせ、符水を飲ませ、九節の杖で呪術を行って治癒を行い、その治癒の良否は当人の信仰心の篤さによるとします。

また同じくそれを四川・漢中で継承した五斗米道は、信者に五斗(=500合=当時20リットル)の米を寄進させたことに由来し、張魯が張陵を『天師』として崇めたことから、後には『天師道』という呼称に変わり、呪術的な儀式で信徒の病気の治癒をし、流民に対し無償で食料を提供する場を設け、悪事を行ったものは罪人とせず3度まで許し、4度目になると罪人と評して道路工事などの軽い労働を課しています。

ここで、前者で治癒に用いる九節の杖に注目すべきで、長寿の木である田道間守の橘=8矛や、ユダヤ教の8枝(真ん中の1本を加えれば9本)のメノラーを想起させますが、またその教義となった『太平清領道』百余巻について、旧約聖書や新約聖書の要素がなかったかどうかも気になるところです。

当時中国にはユダヤ人がいましたから、その可能性も否定はできないのですが、悔過と治癒、三度まで罪を許すとの点は、むしろ新約聖書の弟子ペテロが相手の罪を許すべくは三度までですか?とイエスに問いただしたシーンを想起させます。

その辺はまだ憶測にすぎないので、また折をみて、その『太平清領道』について、新・旧約聖書や忌部の神道教義と関連性があるかどうかを確認していきたいところです。




芝山古墳群・香取神宮ライン 管理人 投稿日: 2023年06月01日 00:43:42 No.264 【返信】

先日お知らせしたユダヤ人風の埴輪を出土した芝山古墳群について、さらに調べを進めているのですが、特にこの古墳が香取神宮に接続していることがわかりましたので、香取神宮に関するラインを作成しなおしてみたのが図1となります。図2,3は拡大図。

まず、図3を見ていただきたいのですが、大鷲神社⇔芝山古墳群⇔香取神宮への東65度偏角のラインがあります。

その東側に、以前お知らせした下松原神社(滝口)⇔大鷲神社⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインがあり、これは阿波々神社⇔綿貫観音山古墳への東60度偏角のラインと平行になりますが、これらのラインに直交するのが、芝山古墳群⇔子ノ神古墳群⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインとなります。

その香取神宮については、子ノ神古墳群西北の香取神社⇔香取神宮の東西ラインがあり、また鍬戸神社⇔香取神宮への東30度偏角のラインがあり、このラインと平行して、阿彌神社⇔長池(山中湖)⇔伊勢外宮⇔西都原古墳群への東30度偏角のライン、綿貫観音山古墳⇔磐境神明社への東30度偏角のライン、黒姫神社(石動神社)⇔籠神社北部への東30度偏角のラインが見て取れます。

これらラインと直交するのが、下松原神社(滝口)⇔綿貫観音山古墳への西60度偏角のラインがあります。

ここでみえてくる阿彌神社は普都大神(フツヌシ)を祀る点で香取神宮と同じであり、また長池(山中湖)では、呉の己大方(太平道の軍隊)の金印が出土したとされているおり、呉年号銘鏡の出土地とライン面で相関性があることは以前もお知らせしたとおりです。

その長池(山中湖)については、先の鍬戸神社⇔長池(山中湖)⇔黒姫神社(石動神社)への東85度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、鹿島神宮⇔籠神社⇔出雲大社への東5度偏角のラインとなります。

ここで先日も指摘した籠神社(元伊勢)が見えてきますが、その籠神社⇔大鷲神社の東西ライン、籠神社⇔鍬戸神社⇔下松原神社(滝口)への西10度偏角のラインがあり、また籠神社⇔日葉酢媛陵⇔初瀬山への西60度偏角のラインがあります。

その日葉酢媛陵については、出雲大社⇔日葉酢媛陵⇔伊勢外宮への西15度偏角のラインもみえます。

なお、ここにみえる日葉酢媛については、以前、タジマモリの常世・橘伝承と関わること、また房総方面に分布する石枕と、それに取り付けられた立花が、石上神宮の七枝刀やユダヤ教の七枝のメノラーとに関わると予想したことがありました。

またその初瀬山が、4世紀前半の日葉酢媛陵をはじめとした佐紀盾列古墳群の測量起点となっていることがあり、今回のラインの構築年代とも重なってくるでしょう。

このラインと直交するのが、先のカゴメ紋で知られる籠神社(元伊勢)⇔黒姫神社(石動(イスルギ)神社)への東30度偏角のラインとなります。

その黒姫神社⇔出雲大社への東20度偏角のラインと平行になるのが、磐境神明社⇔初瀬山南部⇔長池(山中湖)⇔鹿島神宮への東20度偏角のライン、天岩戸神社⇔天岩戸⇔阿波々神社⇔鍬戸神社⇔大鷲神社への東20度偏角のラインとなります。

そして、その磐境神明社⇔出雲大社への西50度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが西都原古墳群⇔磐境神明社への東40度偏角のライン、天岩戸神社⇔籠神社⇔伊須流岐比古神社への東40度偏角のラインとなります。

その伊須流岐比古(イスルギヒコ)神社については、磐境神明社⇔伊須流岐比古神社(石動神)への東50度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが伊須流岐比古神社⇔下松原神社(滝口)への西40度偏角のラインとなります。

その他、大麻比古神社⇔伊勢外宮⇔下松原神社(滝口)への東10度偏角のラインもあります。

以上のように方位ライン面からみていくと、香取神宮の位置付けは、ユダヤ教の洗礼場に似た磐境を持つ磐境神明社を拠点とした忌部氏の一派の天日鷲(別)や天富神を祀る集団が東方展開をして、阿彌神社、大鷲神社や鹿島神宮等を造営していく過程で、仕上がっていった拠点と考えうるのではないでしょうか。

その時期には籠神社や伊勢、出雲大社も造営されていったはずで、年代的には先の日葉酢媛陵がみえてくる4世紀前半頃に車輪石や石釧といった南方航海民系の文化が畿内に入ってくる時期にあたるかもしれません。

そこに日向からの神武東征伝承やオオヒコ・タケヌナガワワケ親子、景行天皇・ヤマトタケル親子の東征伝承がかかわっているはずですが、特に今回のラインにみえる呉の己大方の金印出土地の長池(山中湖)の存在、その長池(山中湖)とライン面で接続する呉年号銘鏡出土地の存在とが重要となってくるでしょう。

この集団と、タジマモリ・橘伝承にみえる常世国へ向かった集団との関わりがあるかどうかも確認する必要がありますが、その延長線上に、今回の6世紀代の芝山古墳群がみえてくること、そしてそこにユダヤ人風の埴輪が見えてくることとがどうかかわっていったのかも明らかにする必要がありそうです。

またその辺の流れについては、後日改めて考えてみたいと思います。




石動神社ライン 管理人 投稿日: 2023年05月28日 03:00:31 No.263 【返信】

先日の忌部に関するラインで能登の拠点として見えてきた石動神社について、全国の石動神社を結んでみたところ、いくらか興味深いことが判ってきたのでお知らせします。

まずその石動神社を結んだラインが図1となり、その拡大図が図2,3となりますが、その起点は図のように伊須流岐比古神社(石動神社)となります。

ここから忌部・ヤマトタケル関連の諸社、伊勢・元伊勢・出雲大社・鹿嶋神宮へのライン上に石動神社が設けられていったことも伺えます。

具体的には、伊須流岐比古神社⇔石動神社(大津市)⇔磐船神社への東65度偏角がありますが、ここで物部氏の拠点である磐船神社が見えてくることが興味深いところです。

この磐船神社⇔豊川稲荷⇔焼津神社⇔阿波々神社⇔下松原神社(滝口)への東5度偏角のラインが確認できますが、忌部の拠点とヤマトタケルの拠点がここにみえてくることがあります。

その磐船神社については、饒速日命が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨した伝承が先代旧事本紀にありますが、その哮ヶ峯(たけるがみね)のタケルが、そのままヤマトタケルにかかってくるかもしれません。

磐船神社境内には稲荷社もあり、そのライン上の豊川稲荷との関係を想起させますが、このラインと平行して、籠神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあります。

次に伊須流岐比古神社⇔白山中居社⇔多度大社への東80度偏角のラインがありますが、このラインと直交するのが、白山中居社⇔大鷲神社への西10度偏角のラインと、多度大社⇔焼津神社への西10度偏角のラインです。

その白山中居社については、 菊理媛神(白山比咩神・白山権現)、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀り、言い伝えでは、景行天皇12年の創祀で、雄略天皇9年に護国鎮護のために剣を奉納したと伝えらている。ここで、景行天皇の息子のヤマトタケルと雄略天皇のワカタケルとの武の共通性があり、また剣に関わる姫神とのことで、草薙剣を渡した倭姫を想起させます。

そして、この菊理媛神は、先のライン起点の伊須流岐比古神社でも相殿神として、白山比咩神が祭られており、その石動彦と白山比咩神は、イザナギ・イザナミとしても扱われている点で共通性があります。

もっとも白山中居社については、白鳥町にあるように、ヤマトタケルの死後の姿である白鳥とつながる点にも留意しておくべきでしょう。稲荷神も白い鳥と関係づける秦氏系の餅の的伝承等があります。

また以前も指摘したように、その白山中居社⇔諏訪大社(前宮)⇔鹿島神宮への東西ラインがありますが、ここでヤマトタケル伝承に関わる諏訪大社(前宮)が見えてくる点に留意しておくべきでしょう。

この諏訪大社(前宮)⇔石動神社(豊田市)⇔伊勢内宮への東55度偏角のラインもありますが、また諏訪大社(前宮)⇔多度大社⇔物部(高知市)⇔韓国岳への東35度偏角のラインの存在も、ヤマトタケルに関わる諏訪、多度大社、物部氏の拠点、そして神武・日向系集団の本拠の韓国岳とが関わっていることがあります。

さらに、伊須流岐比古神社⇔石動神社(豊田市)⇔豊川稲荷への西80度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、石動神社(豊田市)⇔大鷲神社への東10度偏角のラインです。

ここで、石動神社(豊田市)がでてきますが、この石動神社(豊田市)⇔黒姫神社(石動神社)⇔石動神社(長岡市五反田)⇔石動神社(秋田市)への東60度偏角のラインがあり、後代までこの石動神社(豊田市)が重要拠点として意識されていたことが伺えます。

もっともそのラインと平行するのが、先日も指摘した下松原神社(滝口)⇔大鷲神社⇔芝山古墳群東部)⇔鹿島神宮への西60度偏角のラインとなり、大鷲神社でもヤマトタケルが祀られていることがありましたね。

その大鷲神社⇔石動神社(新庄市)への南北ラインと、大鷲神社⇔籠神社への東西ラインとが直交しており、その石動神社(新庄市)⇔石動神社(村上市)⇔石動神社(新潟市東区)への東40度偏角のラインもみてとれます。新潟周辺の石動神社の分布は図3をご参照いただきたいのですが、鹿島神宮⇔石動神社(新潟市北区)への西60度偏角のラインが、新潟の海上で伊須流岐比古神社⇔石動神社(村上市)への東30度偏角のラインとで直交していたこともわかります。

続いて、伊須流岐比古神社⇔石動神社(高山市)西部⇔焼津神社への西60度偏角のラインが見えますが、このラインと直交するのが、石動神社(高山市)⇔鹿島神宮への西5度偏角のラインと、多度大社⇔下松原神社(滝口)への西5度偏角のラインです。

その他、伊須流岐比古神社⇔鹿島神宮への西20度偏角のラインがあり、それに沿う形で、伊須流岐比古神社⇔石動神社(黒部市)も設けてられていた可能性があるでしょう。

このようにみていくと、石動神社の分布は忌部氏天日鷲(天日別)を祖とする伊勢から東海へと東征をしていった集団の拠点と関係があり、同時に同様な東征伝承をもつヤマトタケルの拠点ともかかわっていたことがわかります。

そしてそこに物部氏の拠点である磐船神社などがみえてくることがあり、おそらくは諏訪大社など、上記の集団が東征する以前にいた物部系集団との戦いが、ヤマトタケルの東征伝承として残っていったのではないでしょうか。それはまた鹿島神宮のタケミカヅチと諏訪のタケミナカタとの戦いの伝承ともなり、そして宝剣との関わりがみえてくるのですが、先の白山社の伝承にみえるような雄略天皇と剣奉納の話ともかかわってくるかもしれません。

それらの東征伝承や関係拠点に関連づけられてくる白鳥(鷲)の存在については、天上へ上る霊魂、あるいは天から降る神霊とのイメージが背景にあり、新羅の5世紀代の古墳の東欧系の金銀装飾遺品とともに描かれた白鳥・白馬との関係や、忌部が祭祀面で率いていた秦氏の稲荷伝承にみえる餅の的を矢で射る話にみられるような神霊=白鳥=餅との伝承との兼ね合いで、その起源を探ることができるかもしれません。

そこから伊須流岐比古(石動神)の起源も明らかになってくるように感じますが、そのイスルギの語源については、また出雲の大國主伝承とヤマトタケル伝承との共通性、そのモチーフとなったであろう元テキストの存在について再考察する必要があるでしょう。

そこには後漢時代の外戚集団に関する伝承や旧約聖書がそこにかかわってくるはずですが、その辺についてはまた後日あらためてお話したいと思います。




忌部ライン8 管理人 投稿日: 2023年05月24日 15:31:03 No.262 【返信】

先日方位ライン分析をした磐境神明社の磐境がユダヤ教の洗礼儀式で使う儀式場に類似するとの見方や、同じくライン面で接続する芝山古墳群からユダヤ人風の風貌をした埴輪があるとの指摘を紹介しましたが、またそのほかにも、元伊勢の籠神社そばにある真名井神社があり、その詳細はこちらを参照(https://kanai.hatenablog.jp/entry/2017/12/04/213650)いただきたいのですが、ユダヤ人との関わりが指摘されています。このトヨウケ神を祀る真名井神社については、籠目紋・真名(旧約のマナ?)の一致など伊勢外宮、出雲との儀式・伝承面でのつながりが確認できますが、鞍馬寺にもその籠目紋が残っており、この籠神社(真名井神社)や鞍馬寺もふくめて先日のライン図を再構築してみたのが図1となります。図2,3は拡大図。


仮にこれらの神社や遺跡が同じ集団によってユダヤ教の影響を受けて造営されたならば、ライン面でもこれらの遺跡との間に明確な接点がみえてくるはずですが、実際そのような結果が出ています。

具体的には、籠神社を通るラインとしては、出雲大社⇔籠神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあり、また天岩戸神社⇔伊予岡八幡宮⇔籠神社⇔伊須流岐比古神社への東41度偏角のラインがあります。

同じく籠神社⇔鞍馬寺北部⇔天岩戸(伊勢)への西40度偏角のライン、籠神社⇔鍬戸神社⇔下松原神社(千倉町)への西10度偏角のライン、籠神社⇔大鷲神社への東西ラインがみてとれます。

ここで、千葉県の大鷲神社がみえてきますが、ヤマトタケルを祀っており、また忌部の祖の天日鷲の鷲とも関わりそうすが、図3のように、先日指摘した下松原神社(千倉町)⇔鹿島神宮への東60度偏角のライン上に位置しています。

そして図のように。ユダヤ人の風貌をした埴輪を出土した芝山古墳群もこのラインに近いところに位置しますが、正確には下松原神社(滝口)⇔鹿島神宮へのラインのほうが近くなります。

その大鷲神社については、天岩戸神社(高千穂)⇔阿波々神社北部⇔天岩戸(伊勢)⇔鍬戸神社⇔大鷲神社への東20度偏角のライン、大鷲神社⇔子ノ持古墳群⇔黒姫神社へ西50度偏角のラインもみえてきます。

またその芝山古墳群については、芝山古墳群⇔森将軍塚古墳⇔伊須流岐比古神社への西25度偏角のライン、また以前も指摘した芝山古墳群⇔子ノ持古墳群⇔奥の宮古墳(さきたま古墳群南部)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインがあります。

その綿貫観音山古墳の綿貫の語も衣服に関わる用語で忌部とも関係するかもしれませんが、実際図のように阿波忌部に関わる阿波々神社⇔綿貫観音山古墳への東60度偏角のラインがみてとれます。

このラインと平行して、伊勢内宮⇔森将軍塚古墳⇔黒姫神社への東60度偏角のラインがあり、先の下松原神社(滝口)⇔芝山古墳群⇔鹿島神宮へのライン、磐境神明社⇔籠神社へのラインとも平行になります。

そして、その綿貫観音山古墳⇔多度大社(一目連神社)⇔大麻比古神社⇔磐境神明社への東30度偏角のラインがあります。

その他、磐境神明社⇔出雲大社への東40度偏角のラインは、持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔磐境神明社⇔鞍馬寺北部⇔黒姫神社への東40度偏角のライン、および先の天岩戸神社⇔籠神社⇔伊須流岐比古神社への東40度偏角のラインと直交しており、概して出雲大社もこれらのラインの主要拠点となっていることがわかります。

その出雲大社のオオクニヌシ神話についても、旧約聖書のヨセフ伝承との類似性があります。

以上のようにみていくと、忌部氏等の拠点を結ぶラインと関わりながら、先のユダヤ人に関係する拠点とが重なりあっていることがわかり、ある時期にユダヤ系の影響をうけた集団が忌部氏とともに各地へと展開していったことが予想されます。

そういう意味では、逆にユダヤ系文化の名残を探す上では、今回のライン上の拠点を再度調べていくことでさらに明らかになることがあるかもしれません。

特に、図2のラインは六角形を構成しており、先の籠目紋のようにもみえますが、またその頂点2つを形成する伊須流岐比古神社や黒姫神社で祀られる石動神・イスルギヒコ神は、ユダヤ人が住むイスラエルの発音にも近く、偶然の類似ではないかもしれません。

同様に偶然として片付けられてきたユダヤ文化と日本神道との類似性についても、学問的に考察する時期が来てもよいのではないでしょうか。




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