歴史掲示板(渡来人研究会)


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田道間守ライン
管理人 投稿日:2023年06月02日 16:50 No.265
先日の香取神宮・芝山古墳群等を結んだ方位ライン分析で見えていた日葉酢姫陵に関して、その日葉酢姫陵が陵が属する佐紀盾列古墳群との関わりを指摘したことがありました。この古墳群については、垂仁陵と初瀬山を測量起点として位置づけられていることを以前指摘したことがあります。

その日葉酢姫については、垂仁天皇の皇妃であり、また垂仁天皇死後に、田道間守が常世の国から持ち帰った時じくの香の木(橘)の実の半分を受け取ったとされますが、その木は、縵8縵・矛8矛とも記されており、これが7枝刀や天日矛に象徴される王族のレガリアに相当するものであり、ユダヤ人のメノラー(8枝の燭台)とも関係することも以前お話したとおりです。

その形状はまた芝山古墳群もある房総半島方面に多く出土する石枕に取り付けられた8本前後の立花とも関係し、不老長寿や常世を意味するものではなかったかと考えますが、またヤコブの石枕(のちにその石枕を柱として立てる)、天梯子伝承とともに、旧約聖書との関係を予想したことがあります。

また田道間守は天日矛の玄孫で多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子ともされますが、そのヒナラキは、先のユダヤ人が用いる8枝の燭台ハヌッキヤーの語に対応し、その両側に広がる8つの枝、あるいは皿のほかに、中央の高くなった部分にシャンマーシュという部分が、点火用に使われる(あるいはその蝋燭や火のことをシャンマーシュということから、そのシャンマーシュを日葉酢姫のヒバス=火=日としたであろうこともお話したとおりです。

そこで、この田道間守と日葉酢姫の伝承がユダヤ教と関係すると仮定し、また同じくユダヤ教の籠目紋と真名(マナ)井の件で知られる籠神社との間に方位ライン面で関係性が見出しうるかどうかとの点について注目すると、先日の方位ライン図にも見えていたように、籠神社⇔日葉酢姫陵⇔初瀬山への西60度偏角のラインがあり、この60度偏角が30度、90度とともにもっとも基礎的な測量で用いる偏角とみなしうることからみても、その双方に同系の集団による造営と考えうることがありました。

このラインはまた磐境神明社⇔綿貫観音山古墳への東30度偏角のラインと直交しており、その磐境神明社ではユダヤ教の洗礼場に類似した磐境があることでもよく知られてますが、また綿貫観音山⇔芝山古墳群への西30度偏角のラインの存在があり、その芝山古墳群からユダヤ人の風貌をした埴輪が出土していることにも留意しておきたいところです。

そこで、今回その日葉酢姫陵、籠神社に注目しつつ、先の田道間守を祀る諸社をラインで結んでみたのが図1となります。図2,3は拡大図。

まず籠神社⇔橘本神社への南北ライン、日葉酢姫陵⇔吉田神社への南北ラインが確認できますが、その橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝えがあります。

また吉田神社境内に菓祖神社があり、そこで田道間守が祀られていますが、先の日葉酢姫陵を意識した位置付けであったことが予想されます。特に本殿で伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命)も祀っており、先日のラインでも香取神宮や阿彌神社などでフツヌシが関係していたことがありました。

そこで、また橘本神社⇔日葉酢姫陵⇔太神山への東50度偏角のライン上にみえる太神山がフトでフツヌシと関係しそうです。

その太神山⇔吉田神社⇔中島神社(森尾古墳そば)への西50度偏角のライン、同じく太神山⇔籠神社への西45度偏角のラインがあり、後者は図のように籠神社⇔石鎚神社の東45度偏角のラインと直交しています。

前者の中嶋神社については、その南東に魏年号銘(正始元年)鏡を出土した森尾古墳があり、また三宅の字名となるように、もともとは皇室領の屯倉(三宅)の地であったことが伺えます。

そして『国司文書』によれば、推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからとされます(wiki中嶋神社条参照)。

さらに、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから、養蚕の神ともされていること、合祀されている天湯河棚神が中古に合祀された安美神社の祭神で、鳥取連(ととりのむらじ)の祖神で、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の命により皇子誉津別命の為に鵠(くぐい。白鳥のこと)を捕えた人物で、一説には、『古事記』に記される鵠を捕らえた地、和那美之水門(わなみのみなと)の近くに祀られたものであるというとの見方(同じくwiki中嶋神社条参照)を考慮すると、忌部と関わる養蚕業、フツヌシを祀る茨城の阿彌神社と同名の安美神社があることに注目すべきで、特に天日鷲命の後裔にもその鳥取連(『斎部宿禰本系帳』)がいることからみても、先日から分析してきた忌部氏(天日鷲(別)≒天富≒フツヌシ)や白鳥伝承に関わるヤマトタケルの東征伝承を保持した集団が、この地にいたことが予想されます。

ここで、この中嶋神社(森尾古墳)⇔石塚山古墳⇔岡本遺跡⇔橘神社への東30度偏角のラインがあり、また中嶋神社⇔橘本神社への西80度偏角のラインは、橘本神社⇔石鎚神社⇔宇佐神宮南部⇔平塚川添遺跡⇔香橘神社(伊万里市)への東10度偏角のラインと直交していることがわかります。

これらは弥生遺跡を含んでおり、初期の三角縁神獣鏡を出土する石塚山古墳など、邪馬台国時代のラインとも考えうるでしょう。

その石鎚神社については、鏡と玉と剣の三種の神器を現したとされる石鎚神を祀っており、忌部系の祭祀ともつながりを持ち、また先日のラインにみえてきた石動(イスルギ)神との関わりも考慮すべきかもしれません。その石鎚神社⇔吉田神社の東30度偏角のラインも意図的な位置付けと言えるでしょう。

その西の起点となっている伊万里市の香橘神社については、この地に非時香菓を一株植えたという言い伝えを聞いた橘嶋田麻呂が、橘氏の族祖橘諸兄との因縁を思い、諸兄を祀る社殿を創建したのが始まりとされており、その橘氏については、元は県犬養氏で、先の三宅連と同様に屯倉の管理者であったことからみて、もともと、この地が弥生時代以来の皇室領の屯倉であったところに、屯倉管理者として秦氏等とともに派遣された三宅連や県犬養氏が住みついたので、結果として弥生遺跡や初期古墳を結ぶライン上に、これらの後代の氏族のラインとが接合していくことになったのだろうと感じます。

関連してその香橘神社のある伊万里市には牛戻遺跡があり、その遺跡の石棺墓から鏡の出土があり、弥生時代中期中頃(紀元前1世紀頃)から弥生時代終末期(3世紀頃)にかけての墓群を確認されています。

そういう意味では、垂仁朝にはじまる屯倉制度の背景には、それ以前の邪馬台国時代からの皇室領があり、その皇室領としての、岡本・平塚川添遺跡や西都原古墳群(三宅)といった地があったことも考えうるでしょう。

ただ、その魏と関係をもっていた北部九州から畿内へとむかったニギハヤヒに象徴される物部氏系の集団とは別に、南部九州日向方面に由来する神武・オオヒコ・景行・倭武の東征に象徴される南方航海民の習俗を有した集団が、4世紀前半に畿内へ進出していく過程で、先の垂仁陵や日葉酢姫陵等を含む佐紀盾列古墳群を造営し、その集団と今回のユダヤ人の習俗を持つ集団とが何らかの接点をもっていた可能性がみえてきます。

そして前者はほとんど神社には関係しないものの、後者はここ数日示してきたラインのように、宇佐・出雲・伊勢・鹿島・香取・諏訪といった多くの大社と関係していることからみて、後者の集団が神道の基礎観念を持ち込んできた可能性が高いと言えるでしょう。その集団の祭祀氏族が忌部氏であり、後代まで宮中儀式をしきっていたわけです。

その集団は日向方面に本拠があった関係で呉とのつながりがあり、その点で魏とのつながりがあった北部九州の集団とやや異なるのですが、それゆえ、先日の西都原古墳群⇔伊勢外宮⇔長池(山中湖)⇔鹿島神宮への東30度偏角のラインにみられるように、呉の金印や年号銘鏡の出土地ともかかわっていたのでしょう。

この東30度偏角のラインと平行関係にあったのが、籠神社⇔黒姫神社(石動神社)ライン、綿貫観音山古墳⇔大麻比古神社⇔磐境神明社への東30度偏角のラインであり、それに直交して、今回の籠神社⇔日葉酢姫陵⇔初瀬山ライン等があるわけです。

この南方系集団が、呉との関わりをもっていたことは、4世紀前半以前のある時期に呉方面から、南西諸島経由で北上してきた集団がいたはずで、それはHLAハプロタイプB54の華南方面から日本列島への移住の流れと年代的にも一致してくることは以前もお話したところです。

日本のこの集団の関係地域から出土する呉の年号銘鏡については、日本列島で呉から仕入れたものではなく、南西諸島・華南方面で呉から賜ったものを持参したものではないでしょうか。

その集団は太平道の己大方の将軍の金印を保持して、ユフツ・フツ(ヌシ)を神祖としていた可能性がありますが、その太平道については、于 吉(う きつ、? - 200年 徐州琅邪郡出身)が『志林』によると、順帝の時代、薬草を採りに山に入ったところ、曲陽の水辺で白い絹に朱の罫を引いた神書『太平清領道』百余巻を手に入れたとされており、後に呉の孫策にも関わり(殺され)ますが、またそれを継いだ張角は『太平清領書』を教典として教団を創始し、張角は病人に対し、自分の罪を悔い改めさせ、符水を飲ませ、九節の杖で呪術を行って治癒を行い、その治癒の良否は当人の信仰心の篤さによるとします。

また同じくそれを四川・漢中で継承した五斗米道は、信者に五斗(=500合=当時20リットル)の米を寄進させたことに由来し、張魯が張陵を『天師』として崇めたことから、後には『天師道』という呼称に変わり、呪術的な儀式で信徒の病気の治癒をし、流民に対し無償で食料を提供する場を設け、悪事を行ったものは罪人とせず3度まで許し、4度目になると罪人と評して道路工事などの軽い労働を課しています。

ここで、前者で治癒に用いる九節の杖に注目すべきで、長寿の木である田道間守の橘=8矛や、ユダヤ教の8枝(真ん中の1本を加えれば9本)のメノラーを想起させますが、またその教義となった『太平清領道』百余巻について、旧約聖書や新約聖書の要素がなかったかどうかも気になるところです。

当時中国にはユダヤ人がいましたから、その可能性も否定はできないのですが、悔過と治癒、三度まで罪を許すとの点は、むしろ新約聖書の弟子ペテロが相手の罪を許すべくは三度までですか?とイエスに問いただしたシーンを想起させます。

その辺はまだ憶測にすぎないので、また折をみて、その『太平清領道』について、新・旧約聖書や忌部の神道教義と関連性があるかどうかを確認していきたいところです。




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