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投稿者:管理人
先日の忌部に関するラインで能登の拠点として見えてきた石動神社について、全国の石動神社を結んでみたところ、いくらか興味深いことが判ってきたのでお知らせします。 まずその石動神社を結んだラインが図1となり、その拡大図が図2,3となりますが、その起点は図のように伊須流岐比古神社(石動神社)となります。 ここから忌部・ヤマトタケル関連の諸社、伊勢・元伊勢・出雲大社・鹿嶋神宮へのライン上に石動神社が設けられていったことも伺えます。 具体的には、伊須流岐比古神社⇔石動神社(大津市)⇔磐船神社への東65度偏角がありますが、ここで物部氏の拠点である磐船神社が見えてくることが興味深いところです。 この磐船神社⇔豊川稲荷⇔焼津神社⇔阿波々神社⇔下松原神社(滝口)への東5度偏角のラインが確認できますが、忌部の拠点とヤマトタケルの拠点がここにみえてくることがあります。 その磐船神社については、饒速日命が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨した伝承が先代旧事本紀にありますが、その哮ヶ峯(たけるがみね)のタケルが、そのままヤマトタケルにかかってくるかもしれません。 磐船神社境内には稲荷社もあり、そのライン上の豊川稲荷との関係を想起させますが、このラインと平行して、籠神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあります。 次に伊須流岐比古神社⇔白山中居社⇔多度大社への東80度偏角のラインがありますが、このラインと直交するのが、白山中居社⇔大鷲神社への西10度偏角のラインと、多度大社⇔焼津神社への西10度偏角のラインです。 その白山中居社については、 菊理媛神(白山比咩神・白山権現)、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀り、言い伝えでは、景行天皇12年の創祀で、雄略天皇9年に護国鎮護のために剣を奉納したと伝えらている。ここで、景行天皇の息子のヤマトタケルと雄略天皇のワカタケルとの武の共通性があり、また剣に関わる姫神とのことで、草薙剣を渡した倭姫を想起させます。 そして、この菊理媛神は、先のライン起点の伊須流岐比古神社でも相殿神として、白山比咩神が祭られており、その石動彦と白山比咩神は、イザナギ・イザナミとしても扱われている点で共通性があります。 もっとも白山中居社については、白鳥町にあるように、ヤマトタケルの死後の姿である白鳥とつながる点にも留意しておくべきでしょう。稲荷神も白い鳥と関係づける秦氏系の餅の的伝承等があります。 また以前も指摘したように、その白山中居社⇔諏訪大社(前宮)⇔鹿島神宮への東西ラインがありますが、ここでヤマトタケル伝承に関わる諏訪大社(前宮)が見えてくる点に留意しておくべきでしょう。 この諏訪大社(前宮)⇔石動神社(豊田市)⇔伊勢内宮への東55度偏角のラインもありますが、また諏訪大社(前宮)⇔多度大社⇔物部(高知市)⇔韓国岳への東35度偏角のラインの存在も、ヤマトタケルに関わる諏訪、多度大社、物部氏の拠点、そして神武・日向系集団の本拠の韓国岳とが関わっていることがあります。 さらに、伊須流岐比古神社⇔石動神社(豊田市)⇔豊川稲荷への西80度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、石動神社(豊田市)⇔大鷲神社への東10度偏角のラインです。 ここで、石動神社(豊田市)がでてきますが、この石動神社(豊田市)⇔黒姫神社(石動神社)⇔石動神社(長岡市五反田)⇔石動神社(秋田市)への東60度偏角のラインがあり、後代までこの石動神社(豊田市)が重要拠点として意識されていたことが伺えます。 もっともそのラインと平行するのが、先日も指摘した下松原神社(滝口)⇔大鷲神社⇔芝山古墳群東部)⇔鹿島神宮への西60度偏角のラインとなり、大鷲神社でもヤマトタケルが祀られていることがありましたね。 その大鷲神社⇔石動神社(新庄市)への南北ラインと、大鷲神社⇔籠神社への東西ラインとが直交しており、その石動神社(新庄市)⇔石動神社(村上市)⇔石動神社(新潟市東区)への東40度偏角のラインもみてとれます。新潟周辺の石動神社の分布は図3をご参照いただきたいのですが、鹿島神宮⇔石動神社(新潟市北区)への西60度偏角のラインが、新潟の海上で伊須流岐比古神社⇔石動神社(村上市)への東30度偏角のラインとで直交していたこともわかります。 続いて、伊須流岐比古神社⇔石動神社(高山市)西部⇔焼津神社への西60度偏角のラインが見えますが、このラインと直交するのが、石動神社(高山市)⇔鹿島神宮への西5度偏角のラインと、多度大社⇔下松原神社(滝口)への西5度偏角のラインです。 その他、伊須流岐比古神社⇔鹿島神宮への西20度偏角のラインがあり、それに沿う形で、伊須流岐比古神社⇔石動神社(黒部市)も設けてられていた可能性があるでしょう。 このようにみていくと、石動神社の分布は忌部氏天日鷲(天日別)を祖とする伊勢から東海へと東征をしていった集団の拠点と関係があり、同時に同様な東征伝承をもつヤマトタケルの拠点ともかかわっていたことがわかります。 そしてそこに物部氏の拠点である磐船神社などがみえてくることがあり、おそらくは諏訪大社など、上記の集団が東征する以前にいた物部系集団との戦いが、ヤマトタケルの東征伝承として残っていったのではないでしょうか。それはまた鹿島神宮のタケミカヅチと諏訪のタケミナカタとの戦いの伝承ともなり、そして宝剣との関わりがみえてくるのですが、先の白山社の伝承にみえるような雄略天皇と剣奉納の話ともかかわってくるかもしれません。 それらの東征伝承や関係拠点に関連づけられてくる白鳥(鷲)の存在については、天上へ上る霊魂、あるいは天から降る神霊とのイメージが背景にあり、新羅の5世紀代の古墳の東欧系の金銀装飾遺品とともに描かれた白鳥・白馬との関係や、忌部が祭祀面で率いていた秦氏の稲荷伝承にみえる餅の的を矢で射る話にみられるような神霊=白鳥=餅との伝承との兼ね合いで、その起源を探ることができるかもしれません。 そこから伊須流岐比古(石動神)の起源も明らかになってくるように感じますが、そのイスルギの語源については、また出雲の大國主伝承とヤマトタケル伝承との共通性、そのモチーフとなったであろう元テキストの存在について再考察する必要があるでしょう。 そこには後漢時代の外戚集団に関する伝承や旧約聖書がそこにかかわってくるはずですが、その辺についてはまた後日あらためてお話したいと思います。
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