歴史掲示板(渡来人研究会)


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吉野ヶ里ライン
管理人 投稿日:2023年06月08日 01:55 No.267
ここ数日、吉野ヶ里遺跡の発掘ニュースで盛り上がっていますが、そこで今回はその吉野ヶ里遺跡を結ぶ方位ラインを再考してみることにしました。

以前からしばしば吉野ヶ里遺跡を通過するラインについてはいくらか紹介してきましたが、特に吉野ヶ里遺跡の中でも今回発掘された日吉神社のやや東南にある北墳丘墓付近を通過するラインをもとに、関連する各地の遺跡を結んで作成したのが図1となります。図2,3は拡大図です。

具体的にみていくと、まず平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔女山神籠石⇔国見山⇔山田(西都市)古墳状地形⇔宮崎神宮への西60度偏角のラインがあります。

このラインと直交して、吉野ヶ里遺跡⇔大穴貴神社への東30度偏角のラインがあります。

ここで、正確には大穴貴神社東北430mにある奈良の三輪山状の丘陵地をこのラインが通過していることに留意しておくべきでしょう。

このラインと平行して、女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡⇔三輪山への東30度偏角のラインも確認できます。

その川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田(西都市)への南北ラインがあり、このラインと直交するのが川部・高森遺跡⇔岡本遺跡北部(須玖遺跡)⇔平原遺跡への東西ラインです。

ここで天岩戸神社については、その東本宮の500mほど東にある丘陵地域をラインが通過していることがあるので、この地点を発掘すれば何か出てくる可能性があります。

また、岡本遺跡⇔大穴貴神社⇔ダンワラ古墳への西30度偏角のラインがありますが、このダンワラ古墳からは魏曹操墓出土鉄鏡と同類の鏡が出土したことで知られており、またそこに巨大な前方後円墳状地形があることも以前お知らせしたところです。

さらに、このラインと直交するのが、大穴貴神社⇔祇園山古墳への東60度偏角のラインです。

この祇園山古墳については、卑弥呼の墓との説もあるように、多数の殉死者らしき甕棺墓があるとともに、平原遺跡や楽浪阿残墓と共通性を持つことも指摘されているところで、先のように平原遺跡が今回のライン上に見えてくることとも関係しているでしょう。

また、先のダンワラ古墳については、山田(日田市)⇔月隈山西部⇔ダンワラ古墳⇔天岩戸神社への西60度偏角のラインがあり、そのラインと直交するのが、先の女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインとなります。

さらにその天岩戸神社⇔女山神籠石への西30度偏角のラインがあります。

そして、月隈山⇔鷹取宮⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔与止日女神社への東西ラインがありますが、図のように二串の萩尾神社付近で3つのラインが交差していることにも留意しておくべきでしょう。

あと、図1のように、吉野ヶ里遺跡⇔荒神谷遺跡への東45度偏角のラインがあり、荒神谷遺跡の銅鐸の鋳型が吉野ヶ里遺跡から出土していることも、このラインと関係してくるでしょう。

その他、鷹取宮⇔大穴貴神社への西60度偏角のラインと大穴貴神社⇔吉野ヶ里遺跡への東30度偏角のラインとが直交しています。

以上のように、今回のラインは、30度偏角と60度偏角を用いた三角測量で拠点を位置付けていった集団によることが明らかにできますが、その山田の字名にみえるように、邪馬台国領域に関わるラインとも言えるでしょう。その国見山の地名などはそのころからの国境地域を示していた名残と考えうるでしょう。

この集団がある時期に東遷して奈良の三輪山方面を開拓していったのではないでしょうか。一部は出雲の荒神谷遺跡方面へと展開していったはずです。

そこで、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の位置付けとなりますが、図3のように、以前女王台与との関連を考えた佐賀の与止日女神社の東方にあたり、またほかの多くのラインの通過地点でもあることからみても、九州全域に支配を及ぼした王たちの墓と考えるのが妥当でしょう。

ただ、その年代は弥生時代中・後期のものでしょうから、卑弥呼の時代より先行しているはずです。

そして、今回発掘された北墳丘墓西方の日吉神社の墓について考えてみると、北墳丘墓の王たちと関係性を保ちつつも、やや異なる集団の王墓の可能性があり、年代も異なっているかもしれません。

図3に差し込んだその周辺の断面図からみると、高さ8~10m、直径180m前後の丘陵上に神社が位置しており、円墳の可能性も考慮すべきかもしれません。

また同じく差し込んだ航空写真をみていくと、南内郭⇔日吉社(発掘地点)への東80度偏角のラインと、北内郭⇔公園北部の円形住宅地の中心地への東80度偏角のラインとが平行になっており、この2つのラインと直交する形で、北墳丘墓⇔日吉社(発掘地点)への西10度偏角のラインがあったようにも見受けられます。

そして、北内郭⇔日吉社への西70度偏角のライン上に北内郭の物見櫓が位置しているので、日吉社の丘陵の頂部の見晴らしの良い場所に同じく物見櫓のようなものを置いて、光信号等で情報伝達をしていたのではないでしょうか。

そういう意味では、日吉社の丘陵は吉野ヶ里遺跡が発展していく過程で元々重要な拠点だった可能性も感じますが、この上に墳墓を気づいた重要人物がある時期にいたことが伺えるでしょう。

今後の発掘成果が気になるところです。




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