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天湯河板挙ライン 管理人 投稿日: 2023年06月06日 01:41:50 No.266 【返信】

先日分析した田道間守を祀る諸社を結ぶ方位ラインにおいて、特に魏年号銘鏡を出土した森尾古墳そばにある中嶋神社では、また天湯河板挙が祀られていることがあります。

この天湯河板挙については、古事記では、垂仁の息子で大人になっても声を発せなかった誉津別(ホムツワケ)が、鵠(白鳥)をみて、これはなんだ?とはじめて声を発するが、その鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に天湯河板挙に捕らえらることとなり、しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかったが、ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかったとの話があります。

そこで、この天湯河板挙を諸社と、先日の田道間守を祀る諸社等をあわせてラインで結んでみたのが図1となります。図2、3はその拡大図です。

まず、その中嶋神社については、天湯川田神社への西55度偏角のラインがあり、このラインとその天湯川田神社⇔波太神社への東35度偏角のラインとが直交します。

また先日も指摘した中嶋神社⇔吉田神社⇔太神山への西35度偏角のラインと、吉田神社⇔履中陵⇔橘本神社への東65度偏角のラインとが直交します。

ここで、図3のように履中陵の古墳軸にそってラインが通過していることがあり、河内王朝や百舌鳥古墳群の造営に今回のラインがダイレクトに直結していることがわかります。

あわせてその図にみえる右側のもう一つのラインは、波太神社⇔御野縣主神社⇔太神山⇔河桁御河邊神社への東45度偏角のラインであり、このライン上にみえる白鷺(サギ)公園あたりにも注目しておきたいところです。

その履中天皇については、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の長男ですが、履中陵自体は仁徳陵より古い古墳とされており、その大鷦鷯の父のホムダワケは、凡牟都和希王(ほむつわけのみこ/ほむたわけのみこ)との 『上宮記』逸文の記載もあるので、先のホムツワケとこの応神とに共通性があったこともわかります。

また大鷦鷯(オオササギ)尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは同日に生まれた際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けた伝承があり、ここで鳥に関する伝承があることにも留意しておくべきでしょう。

そこでまた、ライン分析に戻ると、先の橘本神社⇔日葉酢姫陵⇔河桁御河邉神社への東50度偏角のラインがみえますが、このラインと直交して日葉酢姫陵⇔和奈美神社への西40度偏角のラインが見られます。

そして図のように、先の2つのラインと籠神社⇔橘本神社への南北ラインが丹波篠山市周辺の1点で交差していることからみても、これらのラインが人工的な位置付けにあったことがわかります。

関連して鳥取大神宮⇔和奈美神社⇔河桁御河邊神社への西15度偏角のラインがあり、その鳥取大神宮⇔橘本神社への西60度偏角のラインも意図的な配置と言えるでしょう。

そして出雲大社⇔鳥取大神宮⇔籠神社⇔気比神宮⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインは、先の鳥取部の祖・天湯河板挙に伝承に出雲大神が見えてくることと関係するでしょう。

あと、橘本神社⇔出雲大社への西30度偏角のラインも意図的な位置付けであったことを示しますが、また河桁御河邊神社⇔鳥取神社(東員町)⇔下松原神社(滝口)への西5度偏角のラインがあり、また吉田神社⇔河桁御河邊神社⇔香取神宮への東11度偏角のラインは、橘本神社⇔天岩戸⇔下松原神社(滝口)への東11度偏角のラインと平行になります。

その天岩戸⇔鳥取神社(東員町)への西80度偏角のラインもあり、また鳥取神社(東員町)⇔日葉酢姫陵への東30度偏角のラインも意図的な配置です。

その他のラインについては、先日もお知らせしたので割愛しますが、4世紀前半から中葉にかけての田道間守や日葉酢姫・垂仁陵に関する先日のラインに続く形で、この天湯河板挙とホムツワケ(垂仁皇子)に関するラインが畿内から丹波・尾張方面へと構築されていったことが理解できるでしょう。

そしてそこに先の天湯河板挙とホムツワケの白鳥伝承とがかかわってくるのですが、ヤマトタケルの白鳥伝承とも関わるはずで、その年代を経たあとに、河内王朝の履中陵や百舌鳥古墳群が現れていくこととなります。

あと、履中天皇の時代、讃岐国造の鷲住王を天皇が呼び寄せようとしたことがありますが、この鷲住王の鷲は、阿波忌部の天日鷲とも関係しそうです。つまり忌部の祖が当時の王族であった可能性がみえてきます。

関連して景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えており、つまり鷲住王が白鳥伝承を持つ倭武と関わってくるわけです。

白鳥はヤマトタケルの死後の魂を示していますが、この集団にとって高貴な霊魂を示す象徴だったのではないでしょうか。

その高貴な霊魂が、垂仁皇子の障害を治すのに一役かっていたことになりますが、また鷲に関しては天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥(きっしょう)を表す鳥といって喜ばれたとの説話があり、吉兆とみなされてます。

また天湯河板挙については、その白鳥を追いかける人物(集団)を象徴していますが、wikiの(https://ja.wikipedia.org/wiki/天湯河板挙)条に下記の記載があります。


折口信夫は、『風土記の古代生活』という著作で、「水の女」という説を唱えている。それによると、常世からの水をあびて心身を若返らせる行為を「禊」といい、その水は温かいもので「湯」と呼ばれ、「禊」の場所は海へ通じる川の淵であり、そこを「湯川」と呼んだ。そして「湯川浴(あ)み」をするための場所を「ゆかわたな」と呼んだのではないか、と述べている。つまり、「天湯河板挙」とは、「白鳥を追いつつ、禊ぎを求めていった」という意味なのだと解釈している。


ここで、天湯河板挙が禊と白鳥(≒霊魂)とに関わることが判りますが、これは新約聖書でイエスが洗礼の際に、川へ沈められるとともに、神の霊(聖霊)が鳩のように降ったことから、白鳩が聖霊の象徴とみなされた事例に共通要素を見出しうるかもしれません。

この件は、秦氏の餅の的伝承でも、白鳥(神霊)の化身の餅を矢で射ると、多くの芋となりそれをみなで食べたという話があり、それは中国景教(ネストリウス派キリスト教)におけるミサ聖祭で用いられていた餅(=イエスの体)に聖霊が降り、それを分けて信徒たちが食べる儀式のそれに対応することとも関係するかもしれません。

先のとおり、波太神社が今回の履中陵・百舌鳥古墳群へのライン起点となっており、摂社となる三神社(重要文化財) - 祭神:神功皇后、武内宿禰、天湯河板拳命が祀られていることがありますが、先の秦氏と関わりが強く今回のライン上にも見える宇佐八幡での応神・神功皇后・比売大神(宗像三女神)の三神祭祀を想起させます。

その応神(ホンダワケ)と武内宿禰、母の神功皇后、宗像三女神とはセット関係にあり、また先のホムツワケと天湯河板拳命もセットとなり、天湯河板拳命は禊を示し、白鳥とのセット関係ですから、三女神と禊場との関係がないかどうかを確認する必要があります。

その三女神が産まる際に、アマテラスが誓約の際に、天照大神が素戔嗚尊の十握劒(とつかのつるぎ)を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天真名井(あめのまない)の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出し、その息の霧から生まれた神が宗像三女神とされるので、禊場と近い要素をもっているとも言えるでしょう。

その他、5世紀代の新羅の古墳で出土する東欧系のトンボ玉に白人王族と白鳥が描かれているようなこととも関係しそうですが、禊と白鳥、白鳥と癒しといった要素について、他にも同様な説話伝承がないかどうか調べていく必要がありそうです。




田道間守ライン 管理人 投稿日: 2023年06月02日 16:50:43 No.265 【返信】

先日の香取神宮・芝山古墳群等を結んだ方位ライン分析で見えていた日葉酢姫陵に関して、その日葉酢姫陵が陵が属する佐紀盾列古墳群との関わりを指摘したことがありました。この古墳群については、垂仁陵と初瀬山を測量起点として位置づけられていることを以前指摘したことがあります。

その日葉酢姫については、垂仁天皇の皇妃であり、また垂仁天皇死後に、田道間守が常世の国から持ち帰った時じくの香の木(橘)の実の半分を受け取ったとされますが、その木は、縵8縵・矛8矛とも記されており、これが7枝刀や天日矛に象徴される王族のレガリアに相当するものであり、ユダヤ人のメノラー(8枝の燭台)とも関係することも以前お話したとおりです。

その形状はまた芝山古墳群もある房総半島方面に多く出土する石枕に取り付けられた8本前後の立花とも関係し、不老長寿や常世を意味するものではなかったかと考えますが、またヤコブの石枕(のちにその石枕を柱として立てる)、天梯子伝承とともに、旧約聖書との関係を予想したことがあります。

また田道間守は天日矛の玄孫で多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子ともされますが、そのヒナラキは、先のユダヤ人が用いる8枝の燭台ハヌッキヤーの語に対応し、その両側に広がる8つの枝、あるいは皿のほかに、中央の高くなった部分にシャンマーシュという部分が、点火用に使われる(あるいはその蝋燭や火のことをシャンマーシュということから、そのシャンマーシュを日葉酢姫のヒバス=火=日としたであろうこともお話したとおりです。

そこで、この田道間守と日葉酢姫の伝承がユダヤ教と関係すると仮定し、また同じくユダヤ教の籠目紋と真名(マナ)井の件で知られる籠神社との間に方位ライン面で関係性が見出しうるかどうかとの点について注目すると、先日の方位ライン図にも見えていたように、籠神社⇔日葉酢姫陵⇔初瀬山への西60度偏角のラインがあり、この60度偏角が30度、90度とともにもっとも基礎的な測量で用いる偏角とみなしうることからみても、その双方に同系の集団による造営と考えうることがありました。

このラインはまた磐境神明社⇔綿貫観音山古墳への東30度偏角のラインと直交しており、その磐境神明社ではユダヤ教の洗礼場に類似した磐境があることでもよく知られてますが、また綿貫観音山⇔芝山古墳群への西30度偏角のラインの存在があり、その芝山古墳群からユダヤ人の風貌をした埴輪が出土していることにも留意しておきたいところです。

そこで、今回その日葉酢姫陵、籠神社に注目しつつ、先の田道間守を祀る諸社をラインで結んでみたのが図1となります。図2,3は拡大図。

まず籠神社⇔橘本神社への南北ライン、日葉酢姫陵⇔吉田神社への南北ラインが確認できますが、その橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝えがあります。

また吉田神社境内に菓祖神社があり、そこで田道間守が祀られていますが、先の日葉酢姫陵を意識した位置付けであったことが予想されます。特に本殿で伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命)も祀っており、先日のラインでも香取神宮や阿彌神社などでフツヌシが関係していたことがありました。

そこで、また橘本神社⇔日葉酢姫陵⇔太神山への東50度偏角のライン上にみえる太神山がフトでフツヌシと関係しそうです。

その太神山⇔吉田神社⇔中島神社(森尾古墳そば)への西50度偏角のライン、同じく太神山⇔籠神社への西45度偏角のラインがあり、後者は図のように籠神社⇔石鎚神社の東45度偏角のラインと直交しています。

前者の中嶋神社については、その南東に魏年号銘(正始元年)鏡を出土した森尾古墳があり、また三宅の字名となるように、もともとは皇室領の屯倉(三宅)の地であったことが伺えます。

そして『国司文書』によれば、推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからとされます(wiki中嶋神社条参照)。

さらに、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから、養蚕の神ともされていること、合祀されている天湯河棚神が中古に合祀された安美神社の祭神で、鳥取連(ととりのむらじ)の祖神で、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の命により皇子誉津別命の為に鵠(くぐい。白鳥のこと)を捕えた人物で、一説には、『古事記』に記される鵠を捕らえた地、和那美之水門(わなみのみなと)の近くに祀られたものであるというとの見方(同じくwiki中嶋神社条参照)を考慮すると、忌部と関わる養蚕業、フツヌシを祀る茨城の阿彌神社と同名の安美神社があることに注目すべきで、特に天日鷲命の後裔にもその鳥取連(『斎部宿禰本系帳』)がいることからみても、先日から分析してきた忌部氏(天日鷲(別)≒天富≒フツヌシ)や白鳥伝承に関わるヤマトタケルの東征伝承を保持した集団が、この地にいたことが予想されます。

ここで、この中嶋神社(森尾古墳)⇔石塚山古墳⇔岡本遺跡⇔橘神社への東30度偏角のラインがあり、また中嶋神社⇔橘本神社への西80度偏角のラインは、橘本神社⇔石鎚神社⇔宇佐神宮南部⇔平塚川添遺跡⇔香橘神社(伊万里市)への東10度偏角のラインと直交していることがわかります。

これらは弥生遺跡を含んでおり、初期の三角縁神獣鏡を出土する石塚山古墳など、邪馬台国時代のラインとも考えうるでしょう。

その石鎚神社については、鏡と玉と剣の三種の神器を現したとされる石鎚神を祀っており、忌部系の祭祀ともつながりを持ち、また先日のラインにみえてきた石動(イスルギ)神との関わりも考慮すべきかもしれません。その石鎚神社⇔吉田神社の東30度偏角のラインも意図的な位置付けと言えるでしょう。

その西の起点となっている伊万里市の香橘神社については、この地に非時香菓を一株植えたという言い伝えを聞いた橘嶋田麻呂が、橘氏の族祖橘諸兄との因縁を思い、諸兄を祀る社殿を創建したのが始まりとされており、その橘氏については、元は県犬養氏で、先の三宅連と同様に屯倉の管理者であったことからみて、もともと、この地が弥生時代以来の皇室領の屯倉であったところに、屯倉管理者として秦氏等とともに派遣された三宅連や県犬養氏が住みついたので、結果として弥生遺跡や初期古墳を結ぶライン上に、これらの後代の氏族のラインとが接合していくことになったのだろうと感じます。

関連してその香橘神社のある伊万里市には牛戻遺跡があり、その遺跡の石棺墓から鏡の出土があり、弥生時代中期中頃(紀元前1世紀頃)から弥生時代終末期(3世紀頃)にかけての墓群を確認されています。

そういう意味では、垂仁朝にはじまる屯倉制度の背景には、それ以前の邪馬台国時代からの皇室領があり、その皇室領としての、岡本・平塚川添遺跡や西都原古墳群(三宅)といった地があったことも考えうるでしょう。

ただ、その魏と関係をもっていた北部九州から畿内へとむかったニギハヤヒに象徴される物部氏系の集団とは別に、南部九州日向方面に由来する神武・オオヒコ・景行・倭武の東征に象徴される南方航海民の習俗を有した集団が、4世紀前半に畿内へ進出していく過程で、先の垂仁陵や日葉酢姫陵等を含む佐紀盾列古墳群を造営し、その集団と今回のユダヤ人の習俗を持つ集団とが何らかの接点をもっていた可能性がみえてきます。

そして前者はほとんど神社には関係しないものの、後者はここ数日示してきたラインのように、宇佐・出雲・伊勢・鹿島・香取・諏訪といった多くの大社と関係していることからみて、後者の集団が神道の基礎観念を持ち込んできた可能性が高いと言えるでしょう。その集団の祭祀氏族が忌部氏であり、後代まで宮中儀式をしきっていたわけです。

その集団は日向方面に本拠があった関係で呉とのつながりがあり、その点で魏とのつながりがあった北部九州の集団とやや異なるのですが、それゆえ、先日の西都原古墳群⇔伊勢外宮⇔長池(山中湖)⇔鹿島神宮への東30度偏角のラインにみられるように、呉の金印や年号銘鏡の出土地ともかかわっていたのでしょう。

この東30度偏角のラインと平行関係にあったのが、籠神社⇔黒姫神社(石動神社)ライン、綿貫観音山古墳⇔大麻比古神社⇔磐境神明社への東30度偏角のラインであり、それに直交して、今回の籠神社⇔日葉酢姫陵⇔初瀬山ライン等があるわけです。

この南方系集団が、呉との関わりをもっていたことは、4世紀前半以前のある時期に呉方面から、南西諸島経由で北上してきた集団がいたはずで、それはHLAハプロタイプB54の華南方面から日本列島への移住の流れと年代的にも一致してくることは以前もお話したところです。

日本のこの集団の関係地域から出土する呉の年号銘鏡については、日本列島で呉から仕入れたものではなく、南西諸島・華南方面で呉から賜ったものを持参したものではないでしょうか。

その集団は太平道の己大方の将軍の金印を保持して、ユフツ・フツ(ヌシ)を神祖としていた可能性がありますが、その太平道については、于 吉(う きつ、? - 200年 徐州琅邪郡出身)が『志林』によると、順帝の時代、薬草を採りに山に入ったところ、曲陽の水辺で白い絹に朱の罫を引いた神書『太平清領道』百余巻を手に入れたとされており、後に呉の孫策にも関わり(殺され)ますが、またそれを継いだ張角は『太平清領書』を教典として教団を創始し、張角は病人に対し、自分の罪を悔い改めさせ、符水を飲ませ、九節の杖で呪術を行って治癒を行い、その治癒の良否は当人の信仰心の篤さによるとします。

また同じくそれを四川・漢中で継承した五斗米道は、信者に五斗(=500合=当時20リットル)の米を寄進させたことに由来し、張魯が張陵を『天師』として崇めたことから、後には『天師道』という呼称に変わり、呪術的な儀式で信徒の病気の治癒をし、流民に対し無償で食料を提供する場を設け、悪事を行ったものは罪人とせず3度まで許し、4度目になると罪人と評して道路工事などの軽い労働を課しています。

ここで、前者で治癒に用いる九節の杖に注目すべきで、長寿の木である田道間守の橘=8矛や、ユダヤ教の8枝(真ん中の1本を加えれば9本)のメノラーを想起させますが、またその教義となった『太平清領道』百余巻について、旧約聖書や新約聖書の要素がなかったかどうかも気になるところです。

当時中国にはユダヤ人がいましたから、その可能性も否定はできないのですが、悔過と治癒、三度まで罪を許すとの点は、むしろ新約聖書の弟子ペテロが相手の罪を許すべくは三度までですか?とイエスに問いただしたシーンを想起させます。

その辺はまだ憶測にすぎないので、また折をみて、その『太平清領道』について、新・旧約聖書や忌部の神道教義と関連性があるかどうかを確認していきたいところです。




芝山古墳群・香取神宮ライン 管理人 投稿日: 2023年06月01日 00:43:42 No.264 【返信】

先日お知らせしたユダヤ人風の埴輪を出土した芝山古墳群について、さらに調べを進めているのですが、特にこの古墳が香取神宮に接続していることがわかりましたので、香取神宮に関するラインを作成しなおしてみたのが図1となります。図2,3は拡大図。

まず、図3を見ていただきたいのですが、大鷲神社⇔芝山古墳群⇔香取神宮への東65度偏角のラインがあります。

その東側に、以前お知らせした下松原神社(滝口)⇔大鷲神社⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインがあり、これは阿波々神社⇔綿貫観音山古墳への東60度偏角のラインと平行になりますが、これらのラインに直交するのが、芝山古墳群⇔子ノ神古墳群⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインとなります。

その香取神宮については、子ノ神古墳群西北の香取神社⇔香取神宮の東西ラインがあり、また鍬戸神社⇔香取神宮への東30度偏角のラインがあり、このラインと平行して、阿彌神社⇔長池(山中湖)⇔伊勢外宮⇔西都原古墳群への東30度偏角のライン、綿貫観音山古墳⇔磐境神明社への東30度偏角のライン、黒姫神社(石動神社)⇔籠神社北部への東30度偏角のラインが見て取れます。

これらラインと直交するのが、下松原神社(滝口)⇔綿貫観音山古墳への西60度偏角のラインがあります。

ここでみえてくる阿彌神社は普都大神(フツヌシ)を祀る点で香取神宮と同じであり、また長池(山中湖)では、呉の己大方(太平道の軍隊)の金印が出土したとされているおり、呉年号銘鏡の出土地とライン面で相関性があることは以前もお知らせしたとおりです。

その長池(山中湖)については、先の鍬戸神社⇔長池(山中湖)⇔黒姫神社(石動神社)への東85度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、鹿島神宮⇔籠神社⇔出雲大社への東5度偏角のラインとなります。

ここで先日も指摘した籠神社(元伊勢)が見えてきますが、その籠神社⇔大鷲神社の東西ライン、籠神社⇔鍬戸神社⇔下松原神社(滝口)への西10度偏角のラインがあり、また籠神社⇔日葉酢媛陵⇔初瀬山への西60度偏角のラインがあります。

その日葉酢媛陵については、出雲大社⇔日葉酢媛陵⇔伊勢外宮への西15度偏角のラインもみえます。

なお、ここにみえる日葉酢媛については、以前、タジマモリの常世・橘伝承と関わること、また房総方面に分布する石枕と、それに取り付けられた立花が、石上神宮の七枝刀やユダヤ教の七枝のメノラーとに関わると予想したことがありました。

またその初瀬山が、4世紀前半の日葉酢媛陵をはじめとした佐紀盾列古墳群の測量起点となっていることがあり、今回のラインの構築年代とも重なってくるでしょう。

このラインと直交するのが、先のカゴメ紋で知られる籠神社(元伊勢)⇔黒姫神社(石動(イスルギ)神社)への東30度偏角のラインとなります。

その黒姫神社⇔出雲大社への東20度偏角のラインと平行になるのが、磐境神明社⇔初瀬山南部⇔長池(山中湖)⇔鹿島神宮への東20度偏角のライン、天岩戸神社⇔天岩戸⇔阿波々神社⇔鍬戸神社⇔大鷲神社への東20度偏角のラインとなります。

そして、その磐境神明社⇔出雲大社への西50度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが西都原古墳群⇔磐境神明社への東40度偏角のライン、天岩戸神社⇔籠神社⇔伊須流岐比古神社への東40度偏角のラインとなります。

その伊須流岐比古(イスルギヒコ)神社については、磐境神明社⇔伊須流岐比古神社(石動神)への東50度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが伊須流岐比古神社⇔下松原神社(滝口)への西40度偏角のラインとなります。

その他、大麻比古神社⇔伊勢外宮⇔下松原神社(滝口)への東10度偏角のラインもあります。

以上のように方位ライン面からみていくと、香取神宮の位置付けは、ユダヤ教の洗礼場に似た磐境を持つ磐境神明社を拠点とした忌部氏の一派の天日鷲(別)や天富神を祀る集団が東方展開をして、阿彌神社、大鷲神社や鹿島神宮等を造営していく過程で、仕上がっていった拠点と考えうるのではないでしょうか。

その時期には籠神社や伊勢、出雲大社も造営されていったはずで、年代的には先の日葉酢媛陵がみえてくる4世紀前半頃に車輪石や石釧といった南方航海民系の文化が畿内に入ってくる時期にあたるかもしれません。

そこに日向からの神武東征伝承やオオヒコ・タケヌナガワワケ親子、景行天皇・ヤマトタケル親子の東征伝承がかかわっているはずですが、特に今回のラインにみえる呉の己大方の金印出土地の長池(山中湖)の存在、その長池(山中湖)とライン面で接続する呉年号銘鏡出土地の存在とが重要となってくるでしょう。

この集団と、タジマモリ・橘伝承にみえる常世国へ向かった集団との関わりがあるかどうかも確認する必要がありますが、その延長線上に、今回の6世紀代の芝山古墳群がみえてくること、そしてそこにユダヤ人風の埴輪が見えてくることとがどうかかわっていったのかも明らかにする必要がありそうです。

またその辺の流れについては、後日改めて考えてみたいと思います。




石動神社ライン 管理人 投稿日: 2023年05月28日 03:00:31 No.263 【返信】

先日の忌部に関するラインで能登の拠点として見えてきた石動神社について、全国の石動神社を結んでみたところ、いくらか興味深いことが判ってきたのでお知らせします。

まずその石動神社を結んだラインが図1となり、その拡大図が図2,3となりますが、その起点は図のように伊須流岐比古神社(石動神社)となります。

ここから忌部・ヤマトタケル関連の諸社、伊勢・元伊勢・出雲大社・鹿嶋神宮へのライン上に石動神社が設けられていったことも伺えます。

具体的には、伊須流岐比古神社⇔石動神社(大津市)⇔磐船神社への東65度偏角がありますが、ここで物部氏の拠点である磐船神社が見えてくることが興味深いところです。

この磐船神社⇔豊川稲荷⇔焼津神社⇔阿波々神社⇔下松原神社(滝口)への東5度偏角のラインが確認できますが、忌部の拠点とヤマトタケルの拠点がここにみえてくることがあります。

その磐船神社については、饒速日命が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨した伝承が先代旧事本紀にありますが、その哮ヶ峯(たけるがみね)のタケルが、そのままヤマトタケルにかかってくるかもしれません。

磐船神社境内には稲荷社もあり、そのライン上の豊川稲荷との関係を想起させますが、このラインと平行して、籠神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあります。

次に伊須流岐比古神社⇔白山中居社⇔多度大社への東80度偏角のラインがありますが、このラインと直交するのが、白山中居社⇔大鷲神社への西10度偏角のラインと、多度大社⇔焼津神社への西10度偏角のラインです。

その白山中居社については、 菊理媛神(白山比咩神・白山権現)、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀り、言い伝えでは、景行天皇12年の創祀で、雄略天皇9年に護国鎮護のために剣を奉納したと伝えらている。ここで、景行天皇の息子のヤマトタケルと雄略天皇のワカタケルとの武の共通性があり、また剣に関わる姫神とのことで、草薙剣を渡した倭姫を想起させます。

そして、この菊理媛神は、先のライン起点の伊須流岐比古神社でも相殿神として、白山比咩神が祭られており、その石動彦と白山比咩神は、イザナギ・イザナミとしても扱われている点で共通性があります。

もっとも白山中居社については、白鳥町にあるように、ヤマトタケルの死後の姿である白鳥とつながる点にも留意しておくべきでしょう。稲荷神も白い鳥と関係づける秦氏系の餅の的伝承等があります。

また以前も指摘したように、その白山中居社⇔諏訪大社(前宮)⇔鹿島神宮への東西ラインがありますが、ここでヤマトタケル伝承に関わる諏訪大社(前宮)が見えてくる点に留意しておくべきでしょう。

この諏訪大社(前宮)⇔石動神社(豊田市)⇔伊勢内宮への東55度偏角のラインもありますが、また諏訪大社(前宮)⇔多度大社⇔物部(高知市)⇔韓国岳への東35度偏角のラインの存在も、ヤマトタケルに関わる諏訪、多度大社、物部氏の拠点、そして神武・日向系集団の本拠の韓国岳とが関わっていることがあります。

さらに、伊須流岐比古神社⇔石動神社(豊田市)⇔豊川稲荷への西80度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、石動神社(豊田市)⇔大鷲神社への東10度偏角のラインです。

ここで、石動神社(豊田市)がでてきますが、この石動神社(豊田市)⇔黒姫神社(石動神社)⇔石動神社(長岡市五反田)⇔石動神社(秋田市)への東60度偏角のラインがあり、後代までこの石動神社(豊田市)が重要拠点として意識されていたことが伺えます。

もっともそのラインと平行するのが、先日も指摘した下松原神社(滝口)⇔大鷲神社⇔芝山古墳群東部)⇔鹿島神宮への西60度偏角のラインとなり、大鷲神社でもヤマトタケルが祀られていることがありましたね。

その大鷲神社⇔石動神社(新庄市)への南北ラインと、大鷲神社⇔籠神社への東西ラインとが直交しており、その石動神社(新庄市)⇔石動神社(村上市)⇔石動神社(新潟市東区)への東40度偏角のラインもみてとれます。新潟周辺の石動神社の分布は図3をご参照いただきたいのですが、鹿島神宮⇔石動神社(新潟市北区)への西60度偏角のラインが、新潟の海上で伊須流岐比古神社⇔石動神社(村上市)への東30度偏角のラインとで直交していたこともわかります。

続いて、伊須流岐比古神社⇔石動神社(高山市)西部⇔焼津神社への西60度偏角のラインが見えますが、このラインと直交するのが、石動神社(高山市)⇔鹿島神宮への西5度偏角のラインと、多度大社⇔下松原神社(滝口)への西5度偏角のラインです。

その他、伊須流岐比古神社⇔鹿島神宮への西20度偏角のラインがあり、それに沿う形で、伊須流岐比古神社⇔石動神社(黒部市)も設けてられていた可能性があるでしょう。

このようにみていくと、石動神社の分布は忌部氏天日鷲(天日別)を祖とする伊勢から東海へと東征をしていった集団の拠点と関係があり、同時に同様な東征伝承をもつヤマトタケルの拠点ともかかわっていたことがわかります。

そしてそこに物部氏の拠点である磐船神社などがみえてくることがあり、おそらくは諏訪大社など、上記の集団が東征する以前にいた物部系集団との戦いが、ヤマトタケルの東征伝承として残っていったのではないでしょうか。それはまた鹿島神宮のタケミカヅチと諏訪のタケミナカタとの戦いの伝承ともなり、そして宝剣との関わりがみえてくるのですが、先の白山社の伝承にみえるような雄略天皇と剣奉納の話ともかかわってくるかもしれません。

それらの東征伝承や関係拠点に関連づけられてくる白鳥(鷲)の存在については、天上へ上る霊魂、あるいは天から降る神霊とのイメージが背景にあり、新羅の5世紀代の古墳の東欧系の金銀装飾遺品とともに描かれた白鳥・白馬との関係や、忌部が祭祀面で率いていた秦氏の稲荷伝承にみえる餅の的を矢で射る話にみられるような神霊=白鳥=餅との伝承との兼ね合いで、その起源を探ることができるかもしれません。

そこから伊須流岐比古(石動神)の起源も明らかになってくるように感じますが、そのイスルギの語源については、また出雲の大國主伝承とヤマトタケル伝承との共通性、そのモチーフとなったであろう元テキストの存在について再考察する必要があるでしょう。

そこには後漢時代の外戚集団に関する伝承や旧約聖書がそこにかかわってくるはずですが、その辺についてはまた後日あらためてお話したいと思います。




忌部ライン8 管理人 投稿日: 2023年05月24日 15:31:03 No.262 【返信】

先日方位ライン分析をした磐境神明社の磐境がユダヤ教の洗礼儀式で使う儀式場に類似するとの見方や、同じくライン面で接続する芝山古墳群からユダヤ人風の風貌をした埴輪があるとの指摘を紹介しましたが、またそのほかにも、元伊勢の籠神社そばにある真名井神社があり、その詳細はこちらを参照(https://kanai.hatenablog.jp/entry/2017/12/04/213650)いただきたいのですが、ユダヤ人との関わりが指摘されています。このトヨウケ神を祀る真名井神社については、籠目紋・真名(旧約のマナ?)の一致など伊勢外宮、出雲との儀式・伝承面でのつながりが確認できますが、鞍馬寺にもその籠目紋が残っており、この籠神社(真名井神社)や鞍馬寺もふくめて先日のライン図を再構築してみたのが図1となります。図2,3は拡大図。


仮にこれらの神社や遺跡が同じ集団によってユダヤ教の影響を受けて造営されたならば、ライン面でもこれらの遺跡との間に明確な接点がみえてくるはずですが、実際そのような結果が出ています。

具体的には、籠神社を通るラインとしては、出雲大社⇔籠神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあり、また天岩戸神社⇔伊予岡八幡宮⇔籠神社⇔伊須流岐比古神社への東41度偏角のラインがあります。

同じく籠神社⇔鞍馬寺北部⇔天岩戸(伊勢)への西40度偏角のライン、籠神社⇔鍬戸神社⇔下松原神社(千倉町)への西10度偏角のライン、籠神社⇔大鷲神社への東西ラインがみてとれます。

ここで、千葉県の大鷲神社がみえてきますが、ヤマトタケルを祀っており、また忌部の祖の天日鷲の鷲とも関わりそうすが、図3のように、先日指摘した下松原神社(千倉町)⇔鹿島神宮への東60度偏角のライン上に位置しています。

そして図のように。ユダヤ人の風貌をした埴輪を出土した芝山古墳群もこのラインに近いところに位置しますが、正確には下松原神社(滝口)⇔鹿島神宮へのラインのほうが近くなります。

その大鷲神社については、天岩戸神社(高千穂)⇔阿波々神社北部⇔天岩戸(伊勢)⇔鍬戸神社⇔大鷲神社への東20度偏角のライン、大鷲神社⇔子ノ持古墳群⇔黒姫神社へ西50度偏角のラインもみえてきます。

またその芝山古墳群については、芝山古墳群⇔森将軍塚古墳⇔伊須流岐比古神社への西25度偏角のライン、また以前も指摘した芝山古墳群⇔子ノ持古墳群⇔奥の宮古墳(さきたま古墳群南部)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインがあります。

その綿貫観音山古墳の綿貫の語も衣服に関わる用語で忌部とも関係するかもしれませんが、実際図のように阿波忌部に関わる阿波々神社⇔綿貫観音山古墳への東60度偏角のラインがみてとれます。

このラインと平行して、伊勢内宮⇔森将軍塚古墳⇔黒姫神社への東60度偏角のラインがあり、先の下松原神社(滝口)⇔芝山古墳群⇔鹿島神宮へのライン、磐境神明社⇔籠神社へのラインとも平行になります。

そして、その綿貫観音山古墳⇔多度大社(一目連神社)⇔大麻比古神社⇔磐境神明社への東30度偏角のラインがあります。

その他、磐境神明社⇔出雲大社への東40度偏角のラインは、持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔磐境神明社⇔鞍馬寺北部⇔黒姫神社への東40度偏角のライン、および先の天岩戸神社⇔籠神社⇔伊須流岐比古神社への東40度偏角のラインと直交しており、概して出雲大社もこれらのラインの主要拠点となっていることがわかります。

その出雲大社のオオクニヌシ神話についても、旧約聖書のヨセフ伝承との類似性があります。

以上のようにみていくと、忌部氏等の拠点を結ぶラインと関わりながら、先のユダヤ人に関係する拠点とが重なりあっていることがわかり、ある時期にユダヤ系の影響をうけた集団が忌部氏とともに各地へと展開していったことが予想されます。

そういう意味では、逆にユダヤ系文化の名残を探す上では、今回のライン上の拠点を再度調べていくことでさらに明らかになることがあるかもしれません。

特に、図2のラインは六角形を構成しており、先の籠目紋のようにもみえますが、またその頂点2つを形成する伊須流岐比古神社や黒姫神社で祀られる石動神・イスルギヒコ神は、ユダヤ人が住むイスラエルの発音にも近く、偶然の類似ではないかもしれません。

同様に偶然として片付けられてきたユダヤ文化と日本神道との類似性についても、学問的に考察する時期が来てもよいのではないでしょうか。




忌部ライン7 管理人 投稿日: 2023年05月22日 01:16:06 No.261 【返信】

ここ数日、忌部に関する拠点を結ぶ方位ラインを作成してきましたが、以前同様に忌部のラインを作成した際に、徳島の白人神社とそのそばにある磐境神明神社を入れたことを思い出しました。そこで、その磐境神明神社に関するラインを作成してみたのが図1となります。図2,3は拡大図。

まず、平塚川添遺跡⇔宇佐神宮⇔伊予岡八幡宮⇔石鎚神社⇔磐境神明社⇔伊勢内宮⇔下松原神社(千倉町)を結ぶ東11度偏角のラインがあることに気づきます。

ここでここ数日作成した方位ラインで見えてきた伊勢外宮ではなく、内宮がライン上に見えてきたことに留意しておくべきでしょう。また房総半島の下松原神社については、先日の滝口の同社ではなく、千倉町の神社となります。その下松原神社(千倉町)では忌部の祖・天日鷲命および彦狭知神、木花開耶姫命、月夜見命を祀っており、先日指摘した阿波忌部とツキヨミ神(トヨウケ神)との関係を想起させます。

なお、伊予岡神社そばには伊予岡古墳群があり、6世紀~7世紀の築造とのことです。

次に、天岩戸神社⇔磐境神明社⇔大麻比古神社⇔多度大社への東30度偏角のラインがありますが、また持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔磐境神明社⇔黒姫神社への東40度偏角のラインがあり、このラインと直交して、磐境神明社⇔出雲大社への西50度偏角のラインが見えます。

その大麻比古神社そばには山田の字名が残り、魏年号銘鏡が出土している持田古墳群と関わることなども邪馬台国の名残を思わせます。

同様に磐境神明社⇔綾羅木郷遺跡への東西同緯度ラインがあり、弥生時代の遺跡とも絡んでくることがあります。

その綾羅木郷遺跡については、綾羅木郷遺跡⇔天岩戸神社⇔持田古墳群への西75度偏角のラインがあり、そのラインと直交するのが、綾羅木郷遺跡⇔天計神社への東15度偏角のラインとなります。

その綾羅木郷遺跡やや南の下関市に大和の字名が残ることにも留意しておくべきでしょう。さらにそのライン上にみえる天計神社の東隣りにも大和町の地名が残り、豊宇氣神社があるように、トヨウケ神を祀った名残がみえます。

そして、このラインと石鎚神社⇔出雲大社への西75度偏角のラインとが直交することになり、すなわち、先ほどの綾羅木郷遺跡⇔持田古墳群ラインと、磐境神明社⇔天計神社ラインとに平行となるわけです。

関連して、出雲大社⇔伊予岡八幡宮への南北ライン、綾羅木郷遺跡⇔出雲大社への東45度偏角のラインもあり、そのラインと直交するのが、天岩戸神社⇔伊予岡八幡宮⇔天計神社⇔伊須流岐比古神社への東40度偏角のラインとなりますが、このラインは先の持田古墳群⇔磐境神明社⇔黒姫神社への東40度偏角のラインと平行になります。

その伊須流岐比古神社⇔磐境神明社への東50度偏角のラインと直交するのが、伊須流岐比古神社⇔下松原神社への西40度偏角のラインとなり、またこのラインと平行して、黒姫神社⇔常陸國総社宮⇔鹿島神宮への西40度偏角のラインがあります。

あと、黒姫神社⇔倭文神社(富士宮)への南北ライン、下松原神社⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインからも意図的な位置にこれらの諸社があったことを示しています。

これらのことから、磐境神明社とそのそばにある白人神社は、弥生時代末期から古墳時代にかけて、これらのライン上に位置する諸社にとっても測量面も含めてきわめて重要な位置に存在していたことがわかるでしょう。

その白人神社では、伊弉冉神、瓊瓊杵尊、天照大神、豊秋津姫命等を祀っていますが、豊秋津姫命については、『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)とも記され、その栲は楮の繊維または白膠木、「ハタ」は「機(はた)」とされるので、忌部氏の繊維・布関連の職掌と関わってくるでしょう。

天岩戸神話の思兼命の妹とのことで、ライン上に見えてくる天岩戸との関連も予想しますが、ライン面からみると、その天岩戸社⇔磐境神明社⇔大麻比古神社⇔多度大社ラインがあり、また伊勢内宮⇔磐境神明社⇔宇佐神宮⇔平塚川添遺跡ラインもあるので、平塚川添遺跡から東遷していった集団によった可能性も考慮すべきかもしれません。

その内宮ではアマテラス神を、外宮ではトヨウケ神を祀ってますが、今回の磐境神明社に関係するラインは、内宮を通過しており、以前分析した大麻比古社や忌部神社(山川)等からのラインにみえた外宮や月読社・倭姫社のそれと異なります。

また、その内宮では相殿神として、前述した白人神社(そばに磐境神明社)で祀られる万幡豊秋津姫命を祀る点でも、この方位ラインをとおしての相関性があります。

なお、その磐境神明社には、古神道の磐境が残っており、古代イスラエルの礼拝所との類似性が指摘されていますが、詳細はこちらのサイトをご参照ください。
https://ameblo.jp/kazu55kun/entry-12533129954.html

伊勢神宮の儀式と旧約聖書等に記されたユダヤ教儀式との類似性は多く指摘されていますが、今回のラインでその伊勢神宮とこの磐境神明社とが接合してくることも偶然ではないでしょう。

関連して、前述した下松原神社⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインが芝山古墳群(6世紀後半)東部500mの大宮神社(芝山町山田)付近を通過しており、その芝山古墳群からユダヤ人の風貌をした埴輪が出土したことは近年田中英道氏によって指摘されていることがあり、忌部氏が秦氏を率いてその祭儀執り行っていたであろう6世紀頃には、シルクロード方面で交易をおこなっていたソグド人やユダヤ人の影響を受けた集団が、そこに混じっていったことも十分にありうることなので、その可能性についても考察を進めてみたいところです。




忌部ライン6 管理人 投稿日: 2023年05月19日 03:23:38 No.260 【返信】

先日から、忌部氏の祖神を祀る諸社を結ぶ方位ラインを作成紹介してきましたが、今回は筑紫・伊勢忌部の祖の天目一箇神を祀る諸社を結んだラインを作成してみました。図1のとおりです。図2,3はその拡大図。

また、その天目一箇神を祀る諸社の詳細についてはこちら(https://genbu.net/saijin/mahitotu.htm)をご参照ください。

まず、この天目一箇神については、『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋戸に隠れた神話では祭具としての刀剣や斧、鉄鐸を作る役をしており、 『古事記』ではこの役をやっている神は鍛人天津麻羅となっており、同神とする説があるようです・

特に奈良の鏡作麻氣神社で祀られていることがあり、そのすぐ西隣に鏡作神社や孝霊天皇の黒田庵戸宮があるように、弥生時代末から古墳時代初期の鏡等の工房があった場所となるはずで、後代の忌部氏がその時代の鏡作りの技術を継承している可能性を示すことに留意しておくべきでしょう。

この鏡作麻氣神社の麻は、大麻比古神社からのライン上にあるように、忌部の象徴の麻を意味するものでしょう。同時に祀られる鏡作麻気神と同神とされる天糠戸命は、紀伊の日前國懸社のそれとともに物部の祖・ニギハヤヒが率いた物部の一人で鏡作りをしたイシコリドメの親神ともされます。

そこで図1のラインを分析していくと、全体的に畿内から東方への分布が確認できるのですが、まず以前ヤマトタケルを祀る諸社を結ぶラインでも主要拠点としてみえた多度大社の一目連神社にラインが集中していることがあります。

具体的には、天一神社⇔多度大社⇔倭文神社(富士宮)への東5度偏角のラインがあり、そのラインに天一神社⇔大麻比古神社への西85度偏角のラインとが直交しています。なお、この倭文神社(富士宮)は、先日の倭文氏の祖・天羽槌雄神が星神を征伐して伝承と関係することがありましたね。

同様に天羽槌雄神を祀る天羽槌雄神社⇔恵那神社ラインへの南北ラインが見えます。関連して、先日も指摘した鹿島神宮⇔倭文神社(富士宮)⇔天羽槌雄神社⇔伊勢外宮への東25度偏角のラインがありますが、これと平行して、恵那神社⇔多度大社⇔大隅宮付近⇔高尾神社(氷見)⇔薄野一目神社への東25度偏角のラインがあることに気づきます。

なお、多度大社と恵那神社には一言主神も祀られており、一目と一言の間にも関連性があったことが予想されます。

また、その高尾神社(氷見)については、平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡⇔高尾神社(伊予氷見)⇔大麻比古神社への東15度偏角のラインがあります。

そして、このラインに直交して、高尾神社(伊予氷見)⇔出雲大社への西85度偏角のラインがあり、また高尾神社(伊予氷見)⇔伊須流岐比古神社(氷見市北部)への東45度偏角のラインも見て取れます。

ここで出雲大社が出てきますが、この出雲大社については、出雲大社⇔御熊神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあり、また、図のように、平塚川添遺跡⇔出雲大社の偏角が東50度で、それに直交する形で出雲大社⇔大麻比古神社への西40度偏角のラインがあります。

また鹿島神宮に関しては、鹿島神宮⇔常陸国総社宮⇔黒姫神社への東40度偏角のラインがあり、それに直交する形で、黒姫神社⇔多度大社への東50度偏角のラインがあります。常陸国総社宮でもラインで接続する鹿島神宮同様にタケミカヅチを祀っており、ラインが常陸国総社宮のやや北側を通過していることは、元々そこにあった国府の位置によるものでしょう。

その黒姫神社⇔倭文神社(富士宮)への南北ラインがあり、また黒姫神社⇔伊須流岐比古神社⇔久テ比古神社への東5度偏角のラインがあります。

あとその伊須流比古神社⇔御熊神社⇔三雲小路南遺跡への東30度偏角のラインも確認できますが、このあたりで弥生時代の九州の遺跡とも接点をもってくることがわかります。

その御熊神社については、葦原中国平定のため、派遣された天穂日命が、三年経っても帰ってこないので、その子の大背飯三熊大人(おおそびのみくまのうし)、別名・武三熊之大人を遣わしたが、これも、父神同様、帰って来なかったことに由来する御熊命を祀っています。

ここでこのライン上に見える三雲小路南遺跡のミクモと、このミクマが類似することに気づきます。背くとの観点からいくと、そのラインの西に位置する出雲大社の大國主とも共通性があるでしょう。同時に南の忌部神社(山川)とも関係しています。

その三雲小路南遺跡⇔薄野一目神社西部⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への西52度偏角のラインと山田(西都市)古墳状地形⇔持田古墳群⇔大麻比古神社への東39度偏角のラインとが直交します。

その山田(西都市)古墳状地形については、以前もお知らせしたように、三雲小路南遺跡⇔山田(西都市)古墳状地形への西60度偏角のライン、川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田(西都市)古墳状地形への南北ラインがあり、三雲小路南遺跡⇔川部・高森遺跡への東西ラインとで図のような直角三角形を構成することがありました。

関連して、天岩戸神社⇔大麻比古神社への東30度偏角のラインもあり、その大麻比古神社⇔天一神社への西85度偏角のラインと平行になるのが、忌部神社(山川)⇔御熊神社への西85度偏角のラインとなります。

そして、山田(西都市)古墳状地形⇔天一神社⇔太田南5号墳(魏年号銘鏡出土)への東50度偏角のラインがあり、このラインと太田南5号墳⇔伊勢外宮への西40度偏角のラインとが直交しています。

その太田南5号墳⇔鏡作麻氣神社へのラインは西60度偏角でこれも意図的に設置された故のラインと言えるでしょう。

その他、日前國懸神宮⇔神山(山田)⇔多度大社への東39度偏角のラインがみえますが、ここでも邪馬台国を想起させる山田の字名が関係してきます。

このように魏年号銘鏡を出土した古墳ともこれらのラインが接続していることは、その年号銘鏡を保持あるいは製造した集団が、この鏡作りに関わる忌部系の集団とに接点があったことを示すもので、実際忌部氏の配下にいた秦氏が青銅精錬技術を伽耶方面からもたらしています。

これらの魏年号銘鏡が、魏から卑弥呼に配布されたものなのか、あるいは魏の命をうけて、楽浪・伽耶系の集団が製造し、それを後裔の忌部・秦氏等が保持していたのか、あるいは日本側で魏鏡を複製したのかについての識別も必要となってきますが、その手がかりをこのラインは与えてくれるかもしれません。

前述のように九州の弥生遺跡とこのラインとが接点をもっており、また、以前も指摘した邪馬台国と関わるであろう山田の字名、さらには卑弥呼を想起させる氷見の字名とが接点をもってくることがあり、その魏年号銘鏡出土地ともかかわりながら、忌部氏の祖先が邪馬台国および卑弥呼と接点をもっていた可能性を示すものではないかと感じます。

ただ、弥生時代に創始されたとされる播磨の天一神社のように宝剣があるケースがあり、その兵庫県佐用町は鉄伝承で知られていますから、精銅のみならず製鉄精錬にも関わっていたと考えるべきでしょう。

なお、伊須流岐神社のそばには、雨の宮古墳群があり、1号墳は前方後方墳で、2号墳は前方後円墳で、4世紀前半が推定されているようです。その南部の氷見市にある3世紀末とされる柳田布尾山古墳の前方後方墳を継承した集団の古墳だったのではないでしょうか。

その雨の宮第1号墳の前方部には、天日陰比咩神、崇神天皇、その息子の印色之入日子命(五十瓊敷入彦命)の御陵があったとされますが、その五十瓊敷入彦命については、ここ数日取り扱ってきた忌部関連のライン拠点と関係のある品部の記載があります。

すなわち、下記のとおりです。(https://ja.wikipedia.org/wiki五十瓊敷入彦命)より引用。


●垂仁天皇30年1月6日条

垂仁天皇が五十瓊敷命・大足彦尊兄弟に望むものを聞いたところ、五十瓊敷命は弓矢を、大足彦尊は皇位を望んだ。そこで天皇は五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には皇位を継ぐように言った。

●垂仁天皇35年9月条

五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った。

石上神宮(奈良県天理市)

●垂仁天皇39年10月条

五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮(奈良県天理市)に納めた。そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した。

同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で大刀1千口を作らせ、この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部を賜った。また、その大刀は忍坂邑(奈良県桜井市忍坂)から移して石上神宮に納めたという。



ここで最後にみえる楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部が、ここ数日忌部に関連して取り扱ってきた倭文氏や楯縫・弓削・玉造といった集団とそのまま関わるとともに、刀鍛冶としてその金属精錬技術者をこの五十瓊敷命が率いていたことを表しています。

石上神宮の武器を管理した物部氏とも関わりをもっているはずですが、また、兄弟の大帯彦(景行天皇)、妹の倭姫は東夷の討伐に向かう日本武尊に草薙剣を与えています。

このことは、今回の忌部のラインが、オオヒコ・武ヌナガワワケの父子東征伝承、オオタラシジコ(景行天皇)・ヤマトタケル(倭武)の父子討伐伝承の拠点と関わっていることを指摘したことと関係するはずで、彼らが河内に拠点を持ったころに、東海・関東へと支配を及ぼしていく過程で、今回のラインが形成されていったことを示しているのかもしれません。

その五十瓊敷命(イ(ソ)ニシキイリヒコ)が、この伊須流岐比古(イスルギヒコ)神社のそれと関係しそうですが、後者は、ユスルの意味で石動とみなされていったようです。

また、崇神天皇皇子の大入杵(オオイリキ)命をこの伊須流岐比古と関係づける見方もあるようですが、位置的には、伊須流岐比古神社西方に黒姫神社からのラインで接続する久テ比古神社に近く、先のサイト(https://genbu.net/saijin/mahitotu.htm)ではこの久テ比古神社をクエビコと関係づけています。

その黒姫神社では、また石動彦命 石動姫命も祀られており、石動彦命は先の伊須流岐となりますから、この伊須流岐比古神社⇔黒姫神社ライン上では、伊須流岐比古が双方で祀られていたことになるでしょう。

関連して父の垂仁天皇は、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』、伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王 - 『上宮記』とも記されており、全体的にはよく似た名といえます。

その伊佐知は、五十+幸とも訳せそうですが、河内から東征にむかったのは、オオヒコの子とも弟ともいわれるタケヌナガワワケで、先日分析した忌部の祖で天日鷲(別)セット神で、その子の彦狭知のサチを想起させます。

楯縫いをしたことになってますが、五十瓊敷命(イ(ソ)ニシキイリヒコ)が楯部を献上しているように、その五十(イソ)で相関性をもってくるでしょう。五十は伊勢(イセ)の五十鈴(いすず)川のそれとも関係して、天日別は伊勢から東海へと海を渡っていったわけです。

ここで、垂仁紀をみると、下記のようにあります。

即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した


ここで、大鹿嶋というのは中臣の祖で、今回のラインにもみえる鹿島神宮の中臣の祖でしょうし、物部十千根も先の五十瓊敷命が千本の剣を造らせた伴部に関連する名とも見えます。大伴は弓削・楯などの制作をしたでしょう。

特に今回のラインにみえた薄野一目神社周辺には銅山があり、その九州山鹿地域には、弓削負や矢を的に射る男性像を横穴墓に刻み込んだ鍋田・長岩横穴群等がありますが、その西の日輪山あたりをラインが通過していることは、銅山の在処を重視しながらも、また同時に周辺の拠点を結ぶ方位ラインの位置を意識して、その拠点を選んでいったことを示すものでしょう。

その薄野一目神社の神主が若山連から出た吉田氏となり、この若山氏については、熱田神宮の神官家で岐阜南部に多く由来する姓ともされますから、この薄野一目神社⇔高尾神社(伊予氷見)⇔多度大社へのラインに関連して移住していった集団の子孫である可能性も考慮すべきかもしれません。

関連して、その高尾神社(伊予氷見)の祀神は、スサノオとクシイナダヒメ(櫛名田比売)となりますが、図のように、出雲大社とこの高尾神社が関連づけられていることがあり、出雲大社のスサノオ伝承の影響を伺うことができます。

また、櫛名田比売は、『出雲国風土記』の飯石郡の項では久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)とあり、また、能登国の久志伊奈太伎比咩神社(石川県七尾市)では久志伊奈太伎比咩(くしいなだきひめ)を祀神としたという記述が延喜式神名帳にあり、同一神と考えられています。(ウィキペディア「クシナダヒメ」条参照)

ここで先の石川県七尾市の伊須流岐比古神社でもスサノオを祀っており、またその北方にそれらの諸社があることも興味深いところですが、図2の差し込み図のように、その久志伊奈太伎比咩神社(傍の雨の宮古墳1号墳の天日陰比咩神社)⇔伊須流岐比古神社への西80度偏角のラインと、伊須流岐比古神社⇔久テ比古神社への東10度偏角のラインが直交しており、そして久氐比古神社⇔久志伊奈太伎比咩神社への東60度偏角のライン(その延長線上に日前國懸神社)とで正確な直角三角形を構成していることがわかります。

同様に、久志伊奈太伎比咩神社⇔天日陰比咩神社への東75度偏角のラインと天日陰比咩神社⇔伊須流岐比古神社への西15度偏角のラインとが直交しています。

したがって、櫛名田比売と天日陰比咩との間に相関性があったことも予想できますが、その天日陰比咩神社では、櫛社例祭がなされており、その祭神が忌部の祖・太玉命となってますから、ここでもクシナダヒメとヒカゲヒメとの接点、忌部との接点がみえてきます。

ここで、その櫛名田比売の櫛で思い出すのが、忌部の祖の太玉命が率いていた出雲玉造の祖である櫛玉命ですが、櫛明玉命神社が奈良の真弓付近にあり、ここが先の鏡作麻氣神社の真南にあたることに留意すべきでしょう。

ここには櫛玉姫命も祀られており、クシタマヒメと、クシナダヒメとが類似してきます。豊明玉命も祀られてますが、これは久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)のトヨと関係しないでしょうか。

したがって、四国伊予・氷見の高尾神社(氷見)の祀神が、スサノオとクシイナダヒメ(櫛名田比売)であることと、その東45度ライン上にあるこの伊須流岐比古神社(天日陰比咩神社)とには明確な接点があり、おそらくは同じ集団が移動した結果もたらされたと考えるべきでしょう。

双方の周へに氷見(ヒミ)の地名が見えることも偶然ではないはずです。そこにヒミコがかかわるかどうかは以前から考察してきたとおりなので割愛しますが、無関係ではないようにも感じます。

またその辺の話については、後日考察をすすめていきましょう。




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