歴史掲示板(渡来人研究会)


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忌部ライン6
管理人 投稿日:2023年05月19日 03:23 No.260
先日から、忌部氏の祖神を祀る諸社を結ぶ方位ラインを作成紹介してきましたが、今回は筑紫・伊勢忌部の祖の天目一箇神を祀る諸社を結んだラインを作成してみました。図1のとおりです。図2,3はその拡大図。

また、その天目一箇神を祀る諸社の詳細についてはこちら(https://genbu.net/saijin/mahitotu.htm)をご参照ください。

まず、この天目一箇神については、『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋戸に隠れた神話では祭具としての刀剣や斧、鉄鐸を作る役をしており、 『古事記』ではこの役をやっている神は鍛人天津麻羅となっており、同神とする説があるようです・

特に奈良の鏡作麻氣神社で祀られていることがあり、そのすぐ西隣に鏡作神社や孝霊天皇の黒田庵戸宮があるように、弥生時代末から古墳時代初期の鏡等の工房があった場所となるはずで、後代の忌部氏がその時代の鏡作りの技術を継承している可能性を示すことに留意しておくべきでしょう。

この鏡作麻氣神社の麻は、大麻比古神社からのライン上にあるように、忌部の象徴の麻を意味するものでしょう。同時に祀られる鏡作麻気神と同神とされる天糠戸命は、紀伊の日前國懸社のそれとともに物部の祖・ニギハヤヒが率いた物部の一人で鏡作りをしたイシコリドメの親神ともされます。

そこで図1のラインを分析していくと、全体的に畿内から東方への分布が確認できるのですが、まず以前ヤマトタケルを祀る諸社を結ぶラインでも主要拠点としてみえた多度大社の一目連神社にラインが集中していることがあります。

具体的には、天一神社⇔多度大社⇔倭文神社(富士宮)への東5度偏角のラインがあり、そのラインに天一神社⇔大麻比古神社への西85度偏角のラインとが直交しています。なお、この倭文神社(富士宮)は、先日の倭文氏の祖・天羽槌雄神が星神を征伐して伝承と関係することがありましたね。

同様に天羽槌雄神を祀る天羽槌雄神社⇔恵那神社ラインへの南北ラインが見えます。関連して、先日も指摘した鹿島神宮⇔倭文神社(富士宮)⇔天羽槌雄神社⇔伊勢外宮への東25度偏角のラインがありますが、これと平行して、恵那神社⇔多度大社⇔大隅宮付近⇔高尾神社(氷見)⇔薄野一目神社への東25度偏角のラインがあることに気づきます。

なお、多度大社と恵那神社には一言主神も祀られており、一目と一言の間にも関連性があったことが予想されます。

また、その高尾神社(氷見)については、平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡⇔高尾神社(伊予氷見)⇔大麻比古神社への東15度偏角のラインがあります。

そして、このラインに直交して、高尾神社(伊予氷見)⇔出雲大社への西85度偏角のラインがあり、また高尾神社(伊予氷見)⇔伊須流岐比古神社(氷見市北部)への東45度偏角のラインも見て取れます。

ここで出雲大社が出てきますが、この出雲大社については、出雲大社⇔御熊神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあり、また、図のように、平塚川添遺跡⇔出雲大社の偏角が東50度で、それに直交する形で出雲大社⇔大麻比古神社への西40度偏角のラインがあります。

また鹿島神宮に関しては、鹿島神宮⇔常陸国総社宮⇔黒姫神社への東40度偏角のラインがあり、それに直交する形で、黒姫神社⇔多度大社への東50度偏角のラインがあります。常陸国総社宮でもラインで接続する鹿島神宮同様にタケミカヅチを祀っており、ラインが常陸国総社宮のやや北側を通過していることは、元々そこにあった国府の位置によるものでしょう。

その黒姫神社⇔倭文神社(富士宮)への南北ラインがあり、また黒姫神社⇔伊須流岐比古神社⇔久テ比古神社への東5度偏角のラインがあります。

あとその伊須流比古神社⇔御熊神社⇔三雲小路南遺跡への東30度偏角のラインも確認できますが、このあたりで弥生時代の九州の遺跡とも接点をもってくることがわかります。

その御熊神社については、葦原中国平定のため、派遣された天穂日命が、三年経っても帰ってこないので、その子の大背飯三熊大人(おおそびのみくまのうし)、別名・武三熊之大人を遣わしたが、これも、父神同様、帰って来なかったことに由来する御熊命を祀っています。

ここでこのライン上に見える三雲小路南遺跡のミクモと、このミクマが類似することに気づきます。背くとの観点からいくと、そのラインの西に位置する出雲大社の大國主とも共通性があるでしょう。同時に南の忌部神社(山川)とも関係しています。

その三雲小路南遺跡⇔薄野一目神社西部⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への西52度偏角のラインと山田(西都市)古墳状地形⇔持田古墳群⇔大麻比古神社への東39度偏角のラインとが直交します。

その山田(西都市)古墳状地形については、以前もお知らせしたように、三雲小路南遺跡⇔山田(西都市)古墳状地形への西60度偏角のライン、川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田(西都市)古墳状地形への南北ラインがあり、三雲小路南遺跡⇔川部・高森遺跡への東西ラインとで図のような直角三角形を構成することがありました。

関連して、天岩戸神社⇔大麻比古神社への東30度偏角のラインもあり、その大麻比古神社⇔天一神社への西85度偏角のラインと平行になるのが、忌部神社(山川)⇔御熊神社への西85度偏角のラインとなります。

そして、山田(西都市)古墳状地形⇔天一神社⇔太田南5号墳(魏年号銘鏡出土)への東50度偏角のラインがあり、このラインと太田南5号墳⇔伊勢外宮への西40度偏角のラインとが直交しています。

その太田南5号墳⇔鏡作麻氣神社へのラインは西60度偏角でこれも意図的に設置された故のラインと言えるでしょう。

その他、日前國懸神宮⇔神山(山田)⇔多度大社への東39度偏角のラインがみえますが、ここでも邪馬台国を想起させる山田の字名が関係してきます。

このように魏年号銘鏡を出土した古墳ともこれらのラインが接続していることは、その年号銘鏡を保持あるいは製造した集団が、この鏡作りに関わる忌部系の集団とに接点があったことを示すもので、実際忌部氏の配下にいた秦氏が青銅精錬技術を伽耶方面からもたらしています。

これらの魏年号銘鏡が、魏から卑弥呼に配布されたものなのか、あるいは魏の命をうけて、楽浪・伽耶系の集団が製造し、それを後裔の忌部・秦氏等が保持していたのか、あるいは日本側で魏鏡を複製したのかについての識別も必要となってきますが、その手がかりをこのラインは与えてくれるかもしれません。

前述のように九州の弥生遺跡とこのラインとが接点をもっており、また、以前も指摘した邪馬台国と関わるであろう山田の字名、さらには卑弥呼を想起させる氷見の字名とが接点をもってくることがあり、その魏年号銘鏡出土地ともかかわりながら、忌部氏の祖先が邪馬台国および卑弥呼と接点をもっていた可能性を示すものではないかと感じます。

ただ、弥生時代に創始されたとされる播磨の天一神社のように宝剣があるケースがあり、その兵庫県佐用町は鉄伝承で知られていますから、精銅のみならず製鉄精錬にも関わっていたと考えるべきでしょう。

なお、伊須流岐神社のそばには、雨の宮古墳群があり、1号墳は前方後方墳で、2号墳は前方後円墳で、4世紀前半が推定されているようです。その南部の氷見市にある3世紀末とされる柳田布尾山古墳の前方後方墳を継承した集団の古墳だったのではないでしょうか。

その雨の宮第1号墳の前方部には、天日陰比咩神、崇神天皇、その息子の印色之入日子命(五十瓊敷入彦命)の御陵があったとされますが、その五十瓊敷入彦命については、ここ数日取り扱ってきた忌部関連のライン拠点と関係のある品部の記載があります。

すなわち、下記のとおりです。(https://ja.wikipedia.org/wiki五十瓊敷入彦命)より引用。


●垂仁天皇30年1月6日条

垂仁天皇が五十瓊敷命・大足彦尊兄弟に望むものを聞いたところ、五十瓊敷命は弓矢を、大足彦尊は皇位を望んだ。そこで天皇は五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には皇位を継ぐように言った。

●垂仁天皇35年9月条

五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った。

石上神宮(奈良県天理市)

●垂仁天皇39年10月条

五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮(奈良県天理市)に納めた。そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した。

同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で大刀1千口を作らせ、この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部を賜った。また、その大刀は忍坂邑(奈良県桜井市忍坂)から移して石上神宮に納めたという。



ここで最後にみえる楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部が、ここ数日忌部に関連して取り扱ってきた倭文氏や楯縫・弓削・玉造といった集団とそのまま関わるとともに、刀鍛冶としてその金属精錬技術者をこの五十瓊敷命が率いていたことを表しています。

石上神宮の武器を管理した物部氏とも関わりをもっているはずですが、また、兄弟の大帯彦(景行天皇)、妹の倭姫は東夷の討伐に向かう日本武尊に草薙剣を与えています。

このことは、今回の忌部のラインが、オオヒコ・武ヌナガワワケの父子東征伝承、オオタラシジコ(景行天皇)・ヤマトタケル(倭武)の父子討伐伝承の拠点と関わっていることを指摘したことと関係するはずで、彼らが河内に拠点を持ったころに、東海・関東へと支配を及ぼしていく過程で、今回のラインが形成されていったことを示しているのかもしれません。

その五十瓊敷命(イ(ソ)ニシキイリヒコ)が、この伊須流岐比古(イスルギヒコ)神社のそれと関係しそうですが、後者は、ユスルの意味で石動とみなされていったようです。

また、崇神天皇皇子の大入杵(オオイリキ)命をこの伊須流岐比古と関係づける見方もあるようですが、位置的には、伊須流岐比古神社西方に黒姫神社からのラインで接続する久テ比古神社に近く、先のサイト(https://genbu.net/saijin/mahitotu.htm)ではこの久テ比古神社をクエビコと関係づけています。

その黒姫神社では、また石動彦命 石動姫命も祀られており、石動彦命は先の伊須流岐となりますから、この伊須流岐比古神社⇔黒姫神社ライン上では、伊須流岐比古が双方で祀られていたことになるでしょう。

関連して父の垂仁天皇は、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』、伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王 - 『上宮記』とも記されており、全体的にはよく似た名といえます。

その伊佐知は、五十+幸とも訳せそうですが、河内から東征にむかったのは、オオヒコの子とも弟ともいわれるタケヌナガワワケで、先日分析した忌部の祖で天日鷲(別)セット神で、その子の彦狭知のサチを想起させます。

楯縫いをしたことになってますが、五十瓊敷命(イ(ソ)ニシキイリヒコ)が楯部を献上しているように、その五十(イソ)で相関性をもってくるでしょう。五十は伊勢(イセ)の五十鈴(いすず)川のそれとも関係して、天日別は伊勢から東海へと海を渡っていったわけです。

ここで、垂仁紀をみると、下記のようにあります。

即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した


ここで、大鹿嶋というのは中臣の祖で、今回のラインにもみえる鹿島神宮の中臣の祖でしょうし、物部十千根も先の五十瓊敷命が千本の剣を造らせた伴部に関連する名とも見えます。大伴は弓削・楯などの制作をしたでしょう。

特に今回のラインにみえた薄野一目神社周辺には銅山があり、その九州山鹿地域には、弓削負や矢を的に射る男性像を横穴墓に刻み込んだ鍋田・長岩横穴群等がありますが、その西の日輪山あたりをラインが通過していることは、銅山の在処を重視しながらも、また同時に周辺の拠点を結ぶ方位ラインの位置を意識して、その拠点を選んでいったことを示すものでしょう。

その薄野一目神社の神主が若山連から出た吉田氏となり、この若山氏については、熱田神宮の神官家で岐阜南部に多く由来する姓ともされますから、この薄野一目神社⇔高尾神社(伊予氷見)⇔多度大社へのラインに関連して移住していった集団の子孫である可能性も考慮すべきかもしれません。

関連して、その高尾神社(伊予氷見)の祀神は、スサノオとクシイナダヒメ(櫛名田比売)となりますが、図のように、出雲大社とこの高尾神社が関連づけられていることがあり、出雲大社のスサノオ伝承の影響を伺うことができます。

また、櫛名田比売は、『出雲国風土記』の飯石郡の項では久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)とあり、また、能登国の久志伊奈太伎比咩神社(石川県七尾市)では久志伊奈太伎比咩(くしいなだきひめ)を祀神としたという記述が延喜式神名帳にあり、同一神と考えられています。(ウィキペディア「クシナダヒメ」条参照)

ここで先の石川県七尾市の伊須流岐比古神社でもスサノオを祀っており、またその北方にそれらの諸社があることも興味深いところですが、図2の差し込み図のように、その久志伊奈太伎比咩神社(傍の雨の宮古墳1号墳の天日陰比咩神社)⇔伊須流岐比古神社への西80度偏角のラインと、伊須流岐比古神社⇔久テ比古神社への東10度偏角のラインが直交しており、そして久氐比古神社⇔久志伊奈太伎比咩神社への東60度偏角のライン(その延長線上に日前國懸神社)とで正確な直角三角形を構成していることがわかります。

同様に、久志伊奈太伎比咩神社⇔天日陰比咩神社への東75度偏角のラインと天日陰比咩神社⇔伊須流岐比古神社への西15度偏角のラインとが直交しています。

したがって、櫛名田比売と天日陰比咩との間に相関性があったことも予想できますが、その天日陰比咩神社では、櫛社例祭がなされており、その祭神が忌部の祖・太玉命となってますから、ここでもクシナダヒメとヒカゲヒメとの接点、忌部との接点がみえてきます。

ここで、その櫛名田比売の櫛で思い出すのが、忌部の祖の太玉命が率いていた出雲玉造の祖である櫛玉命ですが、櫛明玉命神社が奈良の真弓付近にあり、ここが先の鏡作麻氣神社の真南にあたることに留意すべきでしょう。

ここには櫛玉姫命も祀られており、クシタマヒメと、クシナダヒメとが類似してきます。豊明玉命も祀られてますが、これは久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)のトヨと関係しないでしょうか。

したがって、四国伊予・氷見の高尾神社(氷見)の祀神が、スサノオとクシイナダヒメ(櫛名田比売)であることと、その東45度ライン上にあるこの伊須流岐比古神社(天日陰比咩神社)とには明確な接点があり、おそらくは同じ集団が移動した結果もたらされたと考えるべきでしょう。

双方の周へに氷見(ヒミ)の地名が見えることも偶然ではないはずです。そこにヒミコがかかわるかどうかは以前から考察してきたとおりなので割愛しますが、無関係ではないようにも感じます。

またその辺の話については、後日考察をすすめていきましょう。




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