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日向と邪馬台国4 管理人 投稿日: 2023年03月28日 00:00:40 No.211 【返信】

先日お話した吾平山上陵はニニギの墓ではなく、神武の父・ウガヤフキアエズの墓のようでした。そのニニギ陵は可愛山陵で、ニニギ宮が笠狭崎となり、九州南西部に偏っています。

神武母の玉依姫は宮浦神社で、これらの陵墓を結ぶと図1のラインができあがります。

具体的には、吾平山上陵⇔西都市山田古墳状地形⇔韓国岳⇔可愛山陵への東12度偏角のラインと、宮浦神社⇔西都市山田古墳状地形への西78度偏角のラインとが直交し、また前者は笠狭崎(ニニギ宮)⇔宮浦神社への東12度偏角のラインと平行関係となります。

ここで、その宮浦神社、あるいはその南にある丘陵あたりに墳墓がある可能性を感じますが、その玉依姫の存在が、この神武天皇に関わる日向系集団にとってかなり重要人物であったことが伺え、そこに西都市山田古墳状地形のある山田(ヤマダ)の地名、そして上記の大和池の大和(ヤマト)の字名がかかわってくることを考慮すると、邪馬台国との関わりが、古墳時代初期からこの周辺地域にあったであろうことも予想しうるでしょう。

そして霧島連山の韓国岳が彼らにとっての聖地だったことが伺えますが、そこに先日おしらせした図2のように、天岩戸社がかかわっています。

なお、宮崎神宮を神武天皇宮もしくは陵だとすると、父と母の陵に挟まれた位置に神宮を建てたことになりますね。




日向と邪馬台国3 管理人 投稿日: 2023年03月26日 01:48:49 No.210 【返信】

先日に続きまた日向方面と邪馬台国について調べています。
まず、先日お知らせした日向方面の古墳群や古墳状地形を結んだ方位ラインをさらに発展させたのが図1、図2となります。

ここでは、まず先日も指摘した活目古墳群(1号墳)⇔西都原古墳群(男狭穂塚)への南北ラインがあり、また西都市山田の古墳状地形(箸墓の1/2サイズ)⇔持田古墳群(48号墳:紀年銘鏡出土)への東40度偏角のラインがありますが、またその西都市山田古墳状地形⇔西都原古墳群(男狭穂塚)への東75度偏角のラインと、西都市山田の古墳状地形⇔活目古墳群(1号墳)への西74度偏角のラインがあり、そのラインに直交する形で、西都市山田古墳状地形⇔岩爪神社南部⇔吾平山上陵への東15度偏角のラインがみてとれます。

このラインにまた直交する形で、吾平山上陵⇔西都原古墳群(男狭穂塚)への西75度偏角のラインがありますが、これはまた活目古墳群(1号墳)⇔吾平山上陵⇔新田原古墳群(187号墳)への東75度偏角のラインと接合しており、最終的に図のような平行四辺形が構成されていきます。

なお、ここに見える吾平山上陵はウガヤフキアエズの陵墓とされており、直径150m、高さ10m前後の前方後円墳状地形があるようです。

その活目古墳群(1号墳)は箸墓古墳の2分の1の大きさの相似形で3世紀後半代、新田原古墳群(187号墳)は4世紀前半と見られているようで、先の西都市山田古墳状地形も同サイズ、同規格、おそらくは同時代と考えうることも先日指摘したとおりです。

また図のように、西都市山田古墳状地形⇔川南古墳群(10,11号墳)への東50度偏角のラインがあり、それに直交して西都原古墳群(男狭穂塚)⇔新田原古墳群(塚原支群3号墳)への西40度偏角のラインがあり、そのライン上に大和池(北部に古墳状地形?)があります。

その大和池⇔持田古墳群(48号墳)への東50度偏角のラインがあり、それに西都原古墳群(男狭穂塚)⇔持田古墳群(48号墳)への西40度偏角のラインが直交し、結果として図のような長方形領域が構成されていくこととなります。

その川南古墳群の11号墳は石塚山古墳と墳形が同縮尺でほぼ一致し、10号墳も撥型に開く初期の前方後円墳とみなしうることがあります。

その他、図2のように、西都市山田古墳状地形⇔持田古墳群(48号墳)への東40度偏角のラインが、西都市山田古墳状地形⇔宇土境目・畑中遺跡への西50度偏角のラインと直交しますが、その後者のライン上に山王大物主社があり、また、前述した吾平山上陵⇔西都原古墳群への東12度偏角のラインを延ばしていくと、霧島連山の韓国岳へと至ります。

このラインと直交するのが、宇土境目・畑中遺跡⇔韓国岳への西78度偏角のラインとなりますが、ここで韓国岳が測量の起点となっている点に留意しておくべきでしょう。

そして、この韓国岳に関しては図3のようなラインが確認できます。

すなわち、まず韓国岳⇔西都市山田古墳状地形⇔吾平山上陵への東12度偏角のラインがあり、それに直交する形で、西都市山田古墳状地形⇔宮浦神社(玉依姫=神武天皇母を祀る)への西79度偏角のラインがみえます。

その宮浦神社⇔韓国岳ラインが西30度偏角で人工的な設計であることが判りますが、またこのラインに直交するのが、韓国岳⇔天岩戸神社への東60度偏角のラインです。

さらに、その天岩戸神社⇔吾平山上陵東部⇔宮崎神宮⇔宮浦神社への西85度偏角のラインもあり、これらがある時期の日向神話に関わるラインであったことは容易に想像できますが、そのことは、韓国岳⇔宮崎神宮への東西同緯度ラインをみても理解しうるでしょう。

あと宮浦神社⇔大和池への南北ラインもあり、さらに宮浦神社⇔持田古墳群(48号墳)への東81度偏角のラインと、持田古墳群(48号墳)⇔韓国岳への東20度偏角のラインとで60度偏角を構成していることにも留意しておくべきかもしれません。

ここで、その宮浦神社、おそらくはその南にある丘陵あたりに墳墓がある可能性を感じますが、その玉依姫の存在が、この神武天皇に関わる日向系集団にとってかなり重要人物であったことが伺え、そこに西都市山田古墳状地形のある山田(ヤマダ)の地名、そして上記の大和池の大和(ヤマト)の字名がかかわってくることを考慮すると、邪馬台国との関わりが、古墳時代初期からこの周辺地域にあったであろうことも予想しうるでしょう。

仮に以前推定したように、神武天皇=オオヒコとみなすと、神武の母:玉依姫=ウツシコメとなり、老年のウツシコメ=卑弥呼とみなしうるならば、玉依姫と卑弥呼との間に相関性を見出しうるはずです。

その玉依姫については、魂を口寄せするの意味で、巫女・シャーマンであると解釈すべきですが、その姉妹である豊玉姫とともに、安曇族等の南方航海民の出自であり、そこにニニギとの物部・開化天皇とも関係するであろう新参の王が、日向方面へと移動してきて霧島の韓国岳を起点とした上記の拠点を構築していったのではないでしょうか。

最終的に、天岩戸神話にそれらの話は継承されていったことを予想しますが、またそこに上記持田古墳群の48号墳から出土した景初四年銘の斜縁盤龍鏡とが深くかかわっていくはずですから、やはり日向地域は邪馬台国の卑弥呼と深いかかわりがあったことが予想されます。

上記の大和池の北にある古墳状地形については、その形状からみて、弥生末期の高地性集落のそれに似ているように感じますが、西都市山田古墳状地形とともに、今年は実地調査をしてみたいところですね。




日向と邪馬台国2 管理人 投稿日: 2023年03月14日 01:02:39 No.209 【返信】

昨晩の投稿で、宮崎の古墳群を結ぶ方位ラインの存在と、そこに宇土・宇佐方面の古墳群とがライン面で接続すること、またこれらのライン上に位置する西都市山田の古墳状地形が箸墓と同規格であること等を指摘しましたが、またそのライン上に位置する持田古墳群から、景初4年銘の盤龍鏡が出土していることから、以前紹介した宇土境目遺跡方面と全国各地の紀年銘鏡を出土した古墳とを結ぶ方位ラインとの関係を予想したことがありました。

そこで、その全国各地の紀年銘鏡を出土した古墳と、上記の持田古墳、および西都市山田の古墳状地形を結んでみたものが、図1および図2,3の拡大図となります。

ここで、まず西都市山田(古墳状地形)⇔持田古墳群(48号墳・紀年銘鏡出土?)⇔布留神社への東40度偏角のラインがあることに気づきますが、またこのラインに直交する形で、畑中・境目遺跡(宇土)⇔国富町山田、女山神籠石⇔持田古墳群ライン、さらに森尾古墳(正始元年銘鏡出土)⇔広峯15号墳(景初4年銘鏡出土:持田古墳のものと同型)⇔布留遺跡・石上神宮周辺への西50度偏角のラインが見て取れます。

したがってこれらのことからも、西都市山田および持田古墳群の古墳(状地形)が、邪馬台国卑弥呼の時代の年号銘鏡との共通要素で接合していたことを明らかにしうるでしょう。

これらの紀年銘鏡の初期の分配地点が九州だったのか、畿内だったのかについて考える必要がありますが、仮に九州だった場合には、宇土方面や女山神籠石、もしくは今回取り上げた宮崎の持田古墳群、あるいは西都市山田の古墳状地形あたりが重要拠点だったことが考えうるでしょう。

その西都市山田の古墳状地形については、正確には字名・山田と荒武の間(西都市荒武3972)にまたがっていますが、一度近いうちに見学・調査しにいきたいところです。現地情報などございましたら、よろしくお知らせください。




日向と邪馬台国 管理人 投稿日: 2023年03月12日 17:40:09 No.207 【返信】

先日お話した和邇・物部氏関連の方位ラインで、特に城之越古墳⇔高尾神社(伊予氷見)⇔高屋神社北部⇔石清尾山古墳群⇔布留神社(和邇春日北部)への東30度偏角のライン、およびそこに関連してみえてくる積石塚の件から、楽浪郡の貞柏里古墳群の積石塚との関連を予想しましたが、楽浪郡との関わりからいくと、以前も指摘したことがある図1のラインがあります。

特に楽浪郡(貞柏里古墳群)⇔漢城(ソウル・景福宮南部)⇔金海東部⇔伊都平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔女山神籠石⇔西都市山田(古墳状地形)⇔宮崎神宮への西58度偏角のラインがあります。

ここで、図2、3のように、西都市山田を起点とした複数のラインが存在していることがわかります。

すなわち、西都市山田⇔持田古墳群への東30度偏角のラインがあり、これに直交するのが、西都市山田⇔畑中・境目遺跡(宇土)への西60度偏角のラインです。

また、西都市山田⇔川部・高森遺跡(宇佐)への南北ラインがあり、さらに先日指摘した鏡山⇔西都市山田⇔生目古墳群への西75度偏角のラインもあります。この鏡山は、先の畑中・境目遺跡(宇土)と東西ラインで接合します。

その鏡山⇔持田古墳群が西60度偏角で人工的な位置付けであったことが予想されます。

そしてその持田古墳群からは、景初4年銘の斜縁盤龍鏡(広峯15号墳出土鏡と同型)が出土したとの伝承があり、邪馬台国の卑弥呼との関わりが予想されます。

先日指摘したように、宇土境目遺跡周辺から延びる方位ライン上に紀年銘鏡を出土した各地の古墳が載ることから、宇土の邪馬台国時代における重要性を指摘したとおりですが、それに関係して今回の平原遺跡⇔西都市山田、西都市山田⇔持田古墳群へと直交する2つのラインを考えるべきでしょう。

なお、図のように持田古墳群⇔西都原古墳群への東15度偏角のライン、西都原古墳群⇔生目古墳群への南北ラインも確認できますが、この生目古墳群は西都原古墳群より古い可能性が指摘されており、西都原古墳群からは2世紀後半とされる纒向型前方後円墳がありますから、これらも邪馬台国時代と重なっていたことでしょう。

そこで、重要となってくるのが西都市山田ですが、まずその山田(ヤマダ)は邪馬台国のヤマタイにかかる地名であり、また、そこには図3のような直径140m・高さ15m前後の前方後円墳状地形があることに気づきます。その右に比較掲載したのが箸墓古墳(直径278m・高さ30m)ですが、こうみると双方撥型に開いた同型規格だったことがわかります。サイズは1/2とはずで、断面図をみても非常によく似ていることがわかります。どちらかの古墳が規格面で先行していた可能性があるでしょう。

関連して、上記生目古墳群の3世紀後半の築造とされる1号墳(全長136メートル、高さ17メートル)が、やはり箸墓の相似形、1/2サイズとされており、この地に2つ箸墓の半サイズの同規格古墳があった可能性が高まります。ライン面からみても1号墳の位置を前掲のラインが通過することになりますので、この2つの古墳(状地形)には相関性があると言えるでしょう。

なお、生目古墳群は垂仁天皇の活目入彦(イクメイリヒコ)を想起させる字名を持つことも重要で、卑弥呼→オオヒコ=神武→垂仁への流れとして日向系集団の長の称号として捉えることができれば、それ以前に畿内へ進出していたニギハヤヒ+トビ(台与)=物部→崇神への血統との比較から理解しやすくなるでしょう。

あと、周囲の神社に注目していくと、北西2km地点に山王大物主社があり、三輪の大物主と関わる箸墓と共通性を持ちます。

また北東4.5㎞地点に高屋温泉があり、前述の城之越古墳⇔高尾神社(伊予氷見)⇔高屋神社北部⇔石清尾山古墳群⇔布留神社(和邇春日北部)にみえる高屋の字名と共通する点にも留意しておくべきかもしれません。

日向神話におけるイワナガヒメ(老女を示す)とコノハナサクヤヒメ(若い女性を象徴)姉妹をニニギが娶る話は、開化天皇が物部系のウツシコ(卑弥呼)とイカガシコ(台与)を皇太后と皇后にしたことと同じ構造・起源であり、日向と畿内の双方に同様な系譜と伝承とが存在していたことに由来することを予想しますが、どちらが伝承面、考古面で時代的に古かったかを明らかにすることで、邪馬台国の女王の都の在処も明らかになってくるかもしれません。




卑弥呼・台与と和邇・物部氏方位ライン 管理人 投稿日: 2023年03月04日 00:32:01 No.205 【返信】

先日、和邇氏の拠点を結ぶ方位ライン(図1)を作成し、その際に和爾日子押入(天足彦国押人命の子)の子・彦国姥津、姥津媛)⇒開化天皇妃を卑弥呼と考え、それが物部氏系譜の欝色謎命(うつしこめ):孝元天皇后とし、その「ウバツ・オケツ」の発音が、「ウツ」と共通することを指摘したとおりです。

その欝色謎については、大綜麻杵命の同母姉でもあり、その大綜麻杵命の子・伊香色謎(イカガシコ)(孝元天皇妃)を台与と考え、卑弥呼と台与の叔母と姪子との関係に共通することも述べたとおりです。

その伊香色謎(イカガシコ)については、母が高屋阿波良姫で、四国阿波方面と関わることも以前論じたとおりですが、前掲図1のラインをよく見ていくと、城之越古墳⇔和邇春日への東30度偏角のラインが四国阿波方面を通過していることに気づきます。

そこで、その四国阿波に注目してこのラインを調べてみたのが図2となります。

ここでは、まず城之越古墳⇔高尾神社(伊予氷見)⇔高屋神社北部⇔石清尾山古墳群⇔布留神社(和邇春日北部)への東30度偏角のラインがあることがわかります。

この石清尾山古墳群については、鶴尾神社4号墳が最も古く3世紀末の前方後円墳とみられており、また猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳が双方中円墳、北大塚東古墳が方墳、稲荷山南塚北古墳が円墳、その他は前方後円墳とされます。

その双方中円墳で思い出すのが、瀬戸内海を挟んで対岸にある楯築墳丘墓ですが、図のように、石清尾山古墳群⇔楯築墳丘墓の西60度偏角のラインが、前掲の城之越古墳⇔布留神社への東30度ラインと直交していることもわかるので、この2墳は意図的に対岸に造営された古墳であり、纒向型前方後円墳に先行する最初期のプレ前方後円墳だったと考えるべきでしょう。

そして、これらはみな積石塚であり、特殊な様式であることに留意しておくべきですが、その様子については下記のサイトをご参照ください。
http://inoues.net/ruins/iwaseoyama.html

その積石塚で思い出すのが、楽浪郡(後代の高句麗)の墓制となりますが、紀元前から楽浪郡では方形の積石塚が造営されていたようで、上記の猫塚古墳から中国の前漢時代の内行花文精白鏡を出土していることや、北大塚東古墳が方墳であることなどにも留意しておくべきかもしれません。

なお、前掲の城之越古墳⇔布留神社ライン上には、高尾神社、高屋神社、高松、高島(布留神社西方)といった高がつく地名が多く、高屋神社ではニニギが祀られ、高松市の田村神社でも高倉下の別名とされる天隠山命が祀られていることもあります。

ある意味、上記の布留神社のフルも朝鮮語に近い発音を有しており、物部・和邇氏の本拠・石上神宮そばの布留遺跡の布留とも同義ですが、石上神宮の「布都御魂」は高倉下が受け取ったことでも知られています。

したがって、この30度偏角のラインを構築した集団は物部・和邇氏系であり、楽浪郡・高句麗方面と関係して高・布留(国や都・コフル)に関する呼称を有していたことも予想しうるところです。

そこで、和邇氏のワニの語源ですが、これは楽浪郡との関わりでいけば、楽浪・王氏のワンの音と関係していたのではないでしょうか。

高句麗神話にワニの上を飛び越えていく兎の話がありますが、このワニと和邇、そして王氏とは接点があるように感じます。

なお高良山にある卑弥呼の墓ともいわれる祇園山古墳についても、楽浪郡の阿残墓との関係が指摘されており、高良山の高もやはり楽浪・高句麗との関わりで理解すべきかもしれません。

後漢末期のある時期に、楽浪郡・高句麗方面から、九州北部を経由して、四国阿波、畿内へと移住していった集団がいたのではないでしょうか。

その集団が物部氏や和邇氏の祖先であり、卑弥呼や台与もその血筋にあったのでしょう。

そこで図2に戻って、先の城之越古墳⇔平塚川添遺跡への南北ラインの存在は、以前も指摘したところですが、また平塚川添遺跡⇔宇佐高校庭遺跡(高森古墳群南部)⇔高尾神社⇔八堂山遺跡(高地性集落)⇔萩原古墳群(纒向型前方後円墳)への東12度偏角のラインがあることにも気づきます。

そしてその萩原古墳群⇔高屋神社への東西ラインもあり、萩原2号墳は国内最古の積石塚とされている点で、上記の石清尾山古墳群のそれと共通性を見出すことができます。萩原1号墳からは庄内式土器と画紋帯神獣鏡が出土してますから、やはりこれらのラインは古墳時代最初期の造営と見なしうるでしょう。

その起点は平塚川添遺跡と宇土方面となるのですが、そのライン上に氷見(ヒミ)の地名が見えてくることは、邪馬台国の卑弥呼や狗奴国の卑弥弓呼のヒミと関係する可能性があるでしょう。

あと、和邇春日の北方にあたる布留神社ですが、石上神社同様に布留大神「十種の神宝」を祀っており、図1のように城之越古墳⇔布留遺跡(石上神宮)⇔浅間神社へのラインや、平塚川添遺跡⇔布留遺跡⇔武射郡への東15度偏角のライン、平塚川添遺跡⇔太田南5号墳への東30度偏角のライン、太田南5号墳⇔布留遺跡への西60度偏角のライン、太田南5号墳⇔浅間神社への東西ライン等を考慮すると、これらは布留式土器の時代の造営で、庄内式土器の時代から数段階にわけて東方へと展開していった様子がうかがえます。

弥生末期の平塚川添遺跡を本拠としていた時代から高地性集落の時代と移行する中で東遷が行われていき、その時代が物部氏の祖・ニギハヤヒやその子の高倉下の時代となるでしょう。

その最中に楽浪郡方面から高・王氏といった職人集団が移住して鏡作り等を行いながら、阿波や吉備を経由して、孝霊天皇・孝元天皇の時代に田原本町の黒田庵戸宮(鏡作神社)方面へと落ち着いていったのかもしれません。

布留式土器の時代は、女王・台与の時代で周辺に豊の字名を残すのですが、箸墓なども周囲に豊の字名が残りますから、その年代だと思いますね。また先の布留神社西北にも伊香立の字名が残り、先に台与とみなした伊香謎命(イカガシコ)を想起させます。

それよりやや古い庄内式土器の時代が卑弥呼の時代だと思うのですが、楽浪郡が公孫氏の支配となる年代、あるいは公孫氏が魏に滅ぼされる年代あたりで、段階的に伽耶や九州北部を経て瀬戸内方面へと展開していた集団がいたのではないでしょうか。一部が纒向遺跡へと移動していったものとおもわれますが、ただそこに卑弥呼の都がすでに存在していたかどうかは微妙な感じです。

いずれにせよ、血縁集団の拠点を結ぶ方位ラインは、正確に時を刻んでおり、その種類と構築年代を確定することで、10年単位での編年も可能になってくるかもしれませんね。




卑弥呼・鏡関連・和邇氏ライン 管理人 投稿日: 2023年02月26日 02:37:01 No.204 【返信】

先日お知らせした平塚川添遺跡⇔城之越古墳(宇土)の南北ラインについて、また考えを進めています。

図1のように、そのラインの延長線上に印鑰神社(鏡村)があり、さらにその延長線上に国見岳があることに気づきます。

そして、城之越古墳⇔鏡山の東西ラインがあり、その鏡山から東西60度で平塚川添遺跡、国見岳が位置していますから、鏡とこれらの拠点が関連していたことも予想しうるでしょう。

以前も印鑰神社を結ぶラインについては考えたことがありますが、当時の役所の所在地と関わっていたはずで、先の国見も同様に、国境を決める拠点と考えうることがあります。

地域支配領域の確定において、これらのラインや拠点が後代まで継承されていたことは間違いないでしょう。

城之越古墳は、古墳時代初期の古墳で邪馬台国時代のものと考えうることがありますが、またその周辺域に散在する女性首長の遺骨等から、卑弥呼のような女性首長が権力をもっていた可能性を考えましたが、その女性首長と鏡等の遺物についても考えていく必要があるでしょう。

特に卑弥呼が魏から賜ったともされる中平刀については、和邇氏の支配領域の東大寺山古墳から出土していることが知られています。

それで、その和邇氏の拠点等を結んでみたのが図2となります。

具体的には、滋賀郡志賀町の和邇春日、奈良の天理市和邇町の高地性集落、そのそばの布留遺跡(石上神宮北部から和邇町南部)、山梨県東八代郡一宮町の浅間神社、和邇氏を祖とする武射国造のいた武射郡(山室姫塚周辺)あたりがその拠点となるのですが、図のように、まず、城之越古墳⇔和邇春日への東30度偏角があります。

また太田南5号墳⇔浅間神社⇔武射郡(山室姫塚周辺)への東西同緯度ラインがあり、そして城之越古墳⇔布留遺跡⇔浅間神社への東25度偏角のラインも見えてきます。

さらに、平塚川添遺跡⇔布留遺跡⇔武射郡(山室姫塚古墳)への東15度偏角のラインがあります。

あと、平塚川添遺跡⇔太田南5号墳への東30度偏角のラインと、城之越古墳⇔和邇春日への東30度偏角のラインが平行になり、またそれらと太田南5号墳⇔和邇春日への西60度偏角のラインと、平塚川添遺跡⇔鏡山への西60度偏角のラインとが直交します。

特に、太田南5号墳から出土した青龍三年の方格規矩鏡がプレ三角縁と考えうることと、これらのラインが弥生末期の高地性集落と関わっていることも重要で、概ね邪馬台国時代と重なっていたでしょう。

その他、先の山室姫塚古墳⇔鹿島神宮ラインが東60度であることにも留意しておくべきでしょう。

弥生後期の平塚川添遺跡から宇土の境目遺跡の最盛期から、高地性集落の時代を経て、畿内に前方後円墳をつくりながら進出していく布留遺跡の布留式土器段階のラインつまり支配領域と考えると理解しやすくなりそうですが、そこに中平刀がどうかかわっていたのかが課題です。

和邇氏は物部氏と血縁関係にあり、もともと同じ系譜を共有していたように見えますが、双方、欠史天皇時代の外戚家で、その系譜はこちらのサイト(http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-10.html)をご参照いただきたいのですが、特に、その系譜にみえる和爾日子押入(天足彦国押人命の子)の子・彦国姥津、姥津媛(意祁都比売:おけつひめ:姉おけつ))⇒開化天皇妃、彦坐王母と、同じく子・袁姥津媛(孫説もある)(妹おけつ):彦坐王妃を以前、卑弥呼と考えたことがありました。

物部氏系譜でいけば、欝色謎命(うつしこめ):孝元天皇后にあたる人物ですが、その「ウバツ・オケツ」の発音が、「ウツ」と共通します。

双方、老年の女性として後代知られており、元は同じ系譜を和邇氏・物部氏の双方で共有していたことによるものでしょう。その姪子が開化妃の伊香色謎命(イカガシコ)で、これが卑弥呼の姪の台与(トヨ)にあたるはずです。

その欠史天皇時代の外戚・和邇氏の古墳から後漢の霊帝(184~189年)時代の中平刀が出土しているのも偶然ではないはずで、実際、金象嵌が施されていることからみても、諸外国の王族への賜与を想定すべきものでしょう。

弥生時代末期の高地性集落で保持されたものを、東大寺山古墳の被葬者であろう和邇氏の末裔が他の4つの刀とともに継承していたように見受けられますが、その和邇氏自身は九州に展開してないようで、畿内・瀬戸内・中部・関東方面に分布していたようにも見えます。

ただ、同族の物部氏は九州北部の筑後川沿いにも拠点があり、物部氏から和邇氏が別れたとすると、物部時代に得た刀だった可能性もあるでしょう。

その物部氏が東遷してきたのがニギハヤヒの時代となり、布留遺跡がそこに関わってくるはずです。ライン的には、石上神宮の東北の豊田・豊井あたりを通過しており、その豊が女王の台与(トヨ)と関わってくるのではないでしょうか。

その東遷の前の拠点が、これらのラインの起点として出てくる平塚川添遺跡であったことも容易に予想できますが、また城之越古墳周辺の宇土境目遺跡や畑中遺跡も重要な拠点であったことも確かでしょう。

このように、和邇氏のラインが、やはり邪馬台国時代と深くかかわっており、女王の都や邪馬台国の位置・領域を考える上でも目安になるかもしれません。




平塚川添遺跡⇔宇土ライン 管理人 投稿日: 2023年02月12日 01:39:13 No.202 【返信】

昨晩の投稿で、宇土境目遺跡の邪馬台国時代における重要性を指摘しましたが、また調べていくと、宇土境目遺跡の西方に古墳時代初期の城之越古墳があることに気づきます。

この古墳の位置と詳細ついては、下記のサイト・報告もご参照ください。

位置について
https://www.mapple.net/articles/bk/21175/
写真
https://blog.goo.ne.jp/asotakadakedake1592/e/a493a8e3c376bd7f5738fadd628d52f1
詳細(表を図3として引用します)
https://core.ac.uk/download/pdf/294898315.pdf

まず、この古墳の位置について注目すると、図1、2のように、平塚川添遺跡⇔城之越古墳の南北ラインがあることに気づきます。

前者が130度39分12.19秒で、後者が130度39分12.15秒となり、まったく10mもずれてないことが判ります。

なお、その延長線上は図1のように、桜島の北岳(130度39分31.8秒)の西方500mの地点を通過しますが、堀之越古墳⇔桜島北岳が120100mですので、そのズレは偶然ではない位置にあると言えるかもしれません。

むしろ、この場合は、城之越古墳の東方2㎞地点にある宇土境目遺跡あるいは、1.5㎞にある畑中遺跡(女性人骨の足元から鉄片出土)あたりが、弥生時代に桜島を起点として測量をしていた可能性もあるでしょう。

その城之越古墳については、図3のように、初期の三角縁神獣鏡の時代にあたり、そのことは箱式石棺から三角縁四神四獣鏡を出土していることからもあきらかです。全長は43.5m。

この古墳と共に南北に迫ノ上古墳、スリバチ山古墳もあり、またその西南に先日もプレ三角縁神獣鏡期と考えた鳥紋鏡の出土地としてあげた向野田古墳(4~5世紀代)から女性首長の遺体が出土していることにも留意しておくべきでしょう。上記の畑中遺跡(後述する曽畑貝塚内か)の女性人骨の足元からの鉄片出土について考慮すると、女性の地位が比較的高かった可能性もありそうです。

したがって、弥生時代の後半から末期にかけて九州の中心拠点として存在していたであろう平塚川添遺跡を意識して、この堀之越古墳が造営された可能性が極めて高いとのことになりそうです

当然邪馬台国とも関わってきそうですが、また、その南の迫之上古墳も壁面をやや持ち送りして天井石を載せる0.5mの竪穴式石室、粘土槨、割竹形木棺の全長54mの前方後円墳となり、図3では城之越古墳に続く年代の造営となるようです。こちら参照(http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/12/post-a978.html http://yumeko2.otemo-yan.net/e735020.html https://www.city.uto.lg.jp/article/view/1100/1806.html)あと、弁天山古墳(53.5m、割竹形木棺)等も年代的に邪馬台国の時代に関わるのではないでしょうか。


仮に、この宇土の地が卑弥呼と関わるならば、先の城之上古墳や、迫之上古墳あたりがその年代と重なりそうですが、上記畑中遺跡や向野田古墳にみられるような女性首長の可能性を考慮していくと、その可能性も考慮すべきかもしれません。

なお、その畑中遺跡の女性人骨については、その東方の曽畑貝塚と隣接しており、その報告書によると下記のように、記されています。


また,1994年(平成6)7~ 8月に個人住宅建設に伴う緊急調査を宇土市教育委員会が実施し,土壌墓1基を検出した。墓坑はかなり狭く,遺体との隙間はほとんどなかった。墓坑内からは胸部付近を中心に赤色顔料の散布が見られた20~ 30代前半の女性人骨が1体検出され,左下顎骨付近から碧玉製管玉が1点,下肢骨付近から刀子片が出土したのみで,細かい時期の特定はできなかったものの,付近から出上した上師器からおおむね古墳時代前期~ 中期の所産であることが確認された。上述した人骨の出土状況や土壊墓の形状などが,慶応大学調査における人骨の出土状況と酷似することから,1959年調査当時,縄文時代とされた人骨についても同様に古墳時代の所産と想定されている(高木・木下2002)。

https://www.city.uto.lg.jp/museum/d?q=23611f0b2fc82be.pdf


こうみると、刀子の使用が文官の存在を意味しますから、役所がこの辺にあったことを予想させますし、若くして古墳時代にこの地で権力についていた女性の可能性がありそうですね。

あと、図2のように、城之越古墳から真東にラインを延ばすと、鏡山へと至ることもあり、この鏡山の位置から西60度偏角で、先の平塚川添遺跡へと至ることからみて、この鏡山周辺に銅鏡などが存在していた可能性も考慮すべきでしょう。ただ、鏡石大明神が祀られていたとのことで、銅鏡ではない可能性も考慮すべきかもしれません。

いずれにせよ、平塚川添遺跡の真南に位置することと、女性首長の可能性という点で、宇土の地は邪馬台国研究でも興味深い場所とは感じます。




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