歴史掲示板(渡来人研究会)


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日向と邪馬台国3
管理人 投稿日:2023年03月26日 01:48 No.210
先日に続きまた日向方面と邪馬台国について調べています。
まず、先日お知らせした日向方面の古墳群や古墳状地形を結んだ方位ラインをさらに発展させたのが図1、図2となります。

ここでは、まず先日も指摘した活目古墳群(1号墳)⇔西都原古墳群(男狭穂塚)への南北ラインがあり、また西都市山田の古墳状地形(箸墓の1/2サイズ)⇔持田古墳群(48号墳:紀年銘鏡出土)への東40度偏角のラインがありますが、またその西都市山田古墳状地形⇔西都原古墳群(男狭穂塚)への東75度偏角のラインと、西都市山田の古墳状地形⇔活目古墳群(1号墳)への西74度偏角のラインがあり、そのラインに直交する形で、西都市山田古墳状地形⇔岩爪神社南部⇔吾平山上陵への東15度偏角のラインがみてとれます。

このラインにまた直交する形で、吾平山上陵⇔西都原古墳群(男狭穂塚)への西75度偏角のラインがありますが、これはまた活目古墳群(1号墳)⇔吾平山上陵⇔新田原古墳群(187号墳)への東75度偏角のラインと接合しており、最終的に図のような平行四辺形が構成されていきます。

なお、ここに見える吾平山上陵はウガヤフキアエズの陵墓とされており、直径150m、高さ10m前後の前方後円墳状地形があるようです。

その活目古墳群(1号墳)は箸墓古墳の2分の1の大きさの相似形で3世紀後半代、新田原古墳群(187号墳)は4世紀前半と見られているようで、先の西都市山田古墳状地形も同サイズ、同規格、おそらくは同時代と考えうることも先日指摘したとおりです。

また図のように、西都市山田古墳状地形⇔川南古墳群(10,11号墳)への東50度偏角のラインがあり、それに直交して西都原古墳群(男狭穂塚)⇔新田原古墳群(塚原支群3号墳)への西40度偏角のラインがあり、そのライン上に大和池(北部に古墳状地形?)があります。

その大和池⇔持田古墳群(48号墳)への東50度偏角のラインがあり、それに西都原古墳群(男狭穂塚)⇔持田古墳群(48号墳)への西40度偏角のラインが直交し、結果として図のような長方形領域が構成されていくこととなります。

その川南古墳群の11号墳は石塚山古墳と墳形が同縮尺でほぼ一致し、10号墳も撥型に開く初期の前方後円墳とみなしうることがあります。

その他、図2のように、西都市山田古墳状地形⇔持田古墳群(48号墳)への東40度偏角のラインが、西都市山田古墳状地形⇔宇土境目・畑中遺跡への西50度偏角のラインと直交しますが、その後者のライン上に山王大物主社があり、また、前述した吾平山上陵⇔西都原古墳群への東12度偏角のラインを延ばしていくと、霧島連山の韓国岳へと至ります。

このラインと直交するのが、宇土境目・畑中遺跡⇔韓国岳への西78度偏角のラインとなりますが、ここで韓国岳が測量の起点となっている点に留意しておくべきでしょう。

そして、この韓国岳に関しては図3のようなラインが確認できます。

すなわち、まず韓国岳⇔西都市山田古墳状地形⇔吾平山上陵への東12度偏角のラインがあり、それに直交する形で、西都市山田古墳状地形⇔宮浦神社(玉依姫=神武天皇母を祀る)への西79度偏角のラインがみえます。

その宮浦神社⇔韓国岳ラインが西30度偏角で人工的な設計であることが判りますが、またこのラインに直交するのが、韓国岳⇔天岩戸神社への東60度偏角のラインです。

さらに、その天岩戸神社⇔吾平山上陵東部⇔宮崎神宮⇔宮浦神社への西85度偏角のラインもあり、これらがある時期の日向神話に関わるラインであったことは容易に想像できますが、そのことは、韓国岳⇔宮崎神宮への東西同緯度ラインをみても理解しうるでしょう。

あと宮浦神社⇔大和池への南北ラインもあり、さらに宮浦神社⇔持田古墳群(48号墳)への東81度偏角のラインと、持田古墳群(48号墳)⇔韓国岳への東20度偏角のラインとで60度偏角を構成していることにも留意しておくべきかもしれません。

ここで、その宮浦神社、おそらくはその南にある丘陵あたりに墳墓がある可能性を感じますが、その玉依姫の存在が、この神武天皇に関わる日向系集団にとってかなり重要人物であったことが伺え、そこに西都市山田古墳状地形のある山田(ヤマダ)の地名、そして上記の大和池の大和(ヤマト)の字名がかかわってくることを考慮すると、邪馬台国との関わりが、古墳時代初期からこの周辺地域にあったであろうことも予想しうるでしょう。

仮に以前推定したように、神武天皇=オオヒコとみなすと、神武の母:玉依姫=ウツシコメとなり、老年のウツシコメ=卑弥呼とみなしうるならば、玉依姫と卑弥呼との間に相関性を見出しうるはずです。

その玉依姫については、魂を口寄せするの意味で、巫女・シャーマンであると解釈すべきですが、その姉妹である豊玉姫とともに、安曇族等の南方航海民の出自であり、そこにニニギとの物部・開化天皇とも関係するであろう新参の王が、日向方面へと移動してきて霧島の韓国岳を起点とした上記の拠点を構築していったのではないでしょうか。

最終的に、天岩戸神話にそれらの話は継承されていったことを予想しますが、またそこに上記持田古墳群の48号墳から出土した景初四年銘の斜縁盤龍鏡とが深くかかわっていくはずですから、やはり日向地域は邪馬台国の卑弥呼と深いかかわりがあったことが予想されます。

上記の大和池の北にある古墳状地形については、その形状からみて、弥生末期の高地性集落のそれに似ているように感じますが、西都市山田古墳状地形とともに、今年は実地調査をしてみたいところですね。




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