歴史掲示板(渡来人研究会)


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日向と邪馬台国
管理人 投稿日:2023年03月12日 17:40 No.207
先日お話した和邇・物部氏関連の方位ラインで、特に城之越古墳⇔高尾神社(伊予氷見)⇔高屋神社北部⇔石清尾山古墳群⇔布留神社(和邇春日北部)への東30度偏角のライン、およびそこに関連してみえてくる積石塚の件から、楽浪郡の貞柏里古墳群の積石塚との関連を予想しましたが、楽浪郡との関わりからいくと、以前も指摘したことがある図1のラインがあります。

特に楽浪郡(貞柏里古墳群)⇔漢城(ソウル・景福宮南部)⇔金海東部⇔伊都平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔女山神籠石⇔西都市山田(古墳状地形)⇔宮崎神宮への西58度偏角のラインがあります。

ここで、図2、3のように、西都市山田を起点とした複数のラインが存在していることがわかります。

すなわち、西都市山田⇔持田古墳群への東30度偏角のラインがあり、これに直交するのが、西都市山田⇔畑中・境目遺跡(宇土)への西60度偏角のラインです。

また、西都市山田⇔川部・高森遺跡(宇佐)への南北ラインがあり、さらに先日指摘した鏡山⇔西都市山田⇔生目古墳群への西75度偏角のラインもあります。この鏡山は、先の畑中・境目遺跡(宇土)と東西ラインで接合します。

その鏡山⇔持田古墳群が西60度偏角で人工的な位置付けであったことが予想されます。

そしてその持田古墳群からは、景初4年銘の斜縁盤龍鏡(広峯15号墳出土鏡と同型)が出土したとの伝承があり、邪馬台国の卑弥呼との関わりが予想されます。

先日指摘したように、宇土境目遺跡周辺から延びる方位ライン上に紀年銘鏡を出土した各地の古墳が載ることから、宇土の邪馬台国時代における重要性を指摘したとおりですが、それに関係して今回の平原遺跡⇔西都市山田、西都市山田⇔持田古墳群へと直交する2つのラインを考えるべきでしょう。

なお、図のように持田古墳群⇔西都原古墳群への東15度偏角のライン、西都原古墳群⇔生目古墳群への南北ラインも確認できますが、この生目古墳群は西都原古墳群より古い可能性が指摘されており、西都原古墳群からは2世紀後半とされる纒向型前方後円墳がありますから、これらも邪馬台国時代と重なっていたことでしょう。

そこで、重要となってくるのが西都市山田ですが、まずその山田(ヤマダ)は邪馬台国のヤマタイにかかる地名であり、また、そこには図3のような直径140m・高さ15m前後の前方後円墳状地形があることに気づきます。その右に比較掲載したのが箸墓古墳(直径278m・高さ30m)ですが、こうみると双方撥型に開いた同型規格だったことがわかります。サイズは1/2とはずで、断面図をみても非常によく似ていることがわかります。どちらかの古墳が規格面で先行していた可能性があるでしょう。

関連して、上記生目古墳群の3世紀後半の築造とされる1号墳(全長136メートル、高さ17メートル)が、やはり箸墓の相似形、1/2サイズとされており、この地に2つ箸墓の半サイズの同規格古墳があった可能性が高まります。ライン面からみても1号墳の位置を前掲のラインが通過することになりますので、この2つの古墳(状地形)には相関性があると言えるでしょう。

なお、生目古墳群は垂仁天皇の活目入彦(イクメイリヒコ)を想起させる字名を持つことも重要で、卑弥呼→オオヒコ=神武→垂仁への流れとして日向系集団の長の称号として捉えることができれば、それ以前に畿内へ進出していたニギハヤヒ+トビ(台与)=物部→崇神への血統との比較から理解しやすくなるでしょう。

あと、周囲の神社に注目していくと、北西2km地点に山王大物主社があり、三輪の大物主と関わる箸墓と共通性を持ちます。

また北東4.5㎞地点に高屋温泉があり、前述の城之越古墳⇔高尾神社(伊予氷見)⇔高屋神社北部⇔石清尾山古墳群⇔布留神社(和邇春日北部)にみえる高屋の字名と共通する点にも留意しておくべきかもしれません。

日向神話におけるイワナガヒメ(老女を示す)とコノハナサクヤヒメ(若い女性を象徴)姉妹をニニギが娶る話は、開化天皇が物部系のウツシコ(卑弥呼)とイカガシコ(台与)を皇太后と皇后にしたことと同じ構造・起源であり、日向と畿内の双方に同様な系譜と伝承とが存在していたことに由来することを予想しますが、どちらが伝承面、考古面で時代的に古かったかを明らかにすることで、邪馬台国の女王の都の在処も明らかになってくるかもしれません。




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