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邪馬台国時代の測量方法2 管理人 投稿日: 2023年05月01日 03:05:32 No.245 【返信】

先日、平塚川添遺跡から南北へ延びる方位ラインの存在とその測量方法について説明しましたが、また同じ平塚川添遺跡を拠点とした他のラインの測量方法についても考えてみたいと思います。

図1,2では、以前からお知らせしてきた平塚川添遺跡から西15度偏角の方位ラインについて示してますが、具体的には、平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳(朝倉市山田)北部⇔杷木神籠石⇔北方岳⇔小迫辻原遺跡⇔下綾垣遺跡⇔宝山⇔倉木山⇔古城山⇔津久見島へのラインとなります。

このラインと直交するのが、津久見島⇔持田古墳群への東75度偏角のラインで、その持田古墳群からは魏の景初四年銘を記した盤龍鏡が出土していることからみて邪馬台国時代と関係するラインと言えるでしょう。

その持田古墳群⇔八女津媛神社⇔平塚川添遺跡への西60度偏角のラインがありますが、このラインと直交するのが図のように、八女津媛神社⇔川部・高森遺跡への東45度偏角のラインとなります。

そのラインと直交するのは、川部・高森遺跡⇔津久見島への西45度偏角のラインであり、このラインと天岩戸神社⇔津久見への東45度偏角のラインが直交し、その天岩戸神社⇔八女津媛神社への西45度偏角とで正方形を形成していることも見て取れます。

その正方形の対角線として、天岩戸神社⇔庄内町阿蘇野⇔川部・高森遺跡への南北ラインと、女山神籠石⇔八女津媛神社⇔庄内町阿蘇野⇔津久見島への東西ラインがあります。

その他、先の平塚川添遺跡⇔持田古墳群ラインと、女山神籠石⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインが直交しており、これらのラインは、45度、90度、15度、30度、60度の偏角の測量を組み合わせていたことが予想しうるでしょう。

特に今回平塚川添遺跡とは別に、津久見島、八女津媛神社といった拠点が重視されていたことが伺えるのですが、おそらくは津久見島が測量の起点となり、そこから平塚川添遺跡、持田古墳群方面へと測量をしていったのではないでしょうか。

この方位ラインの電子地図動画についてはこちらにアップしておいたので、ご参照ください。
https://drive.google.com/file/d/1pjrBNWWgOSr_j-9OozwixXrGKSVcI_fl/view?usp=share_link

また、先日同様にGoogleEarthを用いた3D測量シュミレーション動画もこちらにアップしておきます。図3はそのスクリーンショットとなります。

平塚川添遺跡から津久見島への測量シュミレーション動画
https://drive.google.com/file/d/12h5exKo4NpnV1biAcyO4MDr96PWAAIyx/view?usp=share_link
津久見島から平塚川添遺跡への測量シュミレーション動画
https://drive.google.com/file/d/1KGuPPGIgmswvxlhzVXLK-GPkFEPOCjLD/view?usp=share_link

この平塚川添遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインについては、図のように、津久見島の他、月出山、北方岳、宝山、倉木山、古城山といった山・丘陵を目印としていたはずで、頂上部が若干加工されているようにも見受けられます。この辺は平地に造られた前方後円墳、それ以前の高地性集落とも共通する左右不均等な撥型の前方後円墳形状に近いものもあり、すでに弥生時代にはそのようなマウンドと狼煙通信施設とが設置されていたことを示すものかもしれませんが、ただ、その一部については、縄文時代、旧石器時代からの測量拠点も考慮しておく必要もあるでしょう。

また津久見島も月見と関係し、月出山とともに月に関する地名であり、日月信仰との関わりを想起させますが、関連して天岩戸神社、八女津媛神社等、女神・女性首長に関わる拠点がみえてくることも重要で、邪馬台国の女王とそれらがどう関わっていたのかについても考えてみたいところです。




邪馬台国時代の測量方法01 管理人 投稿日: 2023年04月27日 01:26:50 No.244 【返信】

ここしばらく、弥生末期から古墳時代初期にかけての方位ラインをおしらせしてきましたが、そのような数十キロ離れた遠距離の遺跡間をどのように正確に測量しうるのかについて疑問を感じておられる方も多いかと思いましたので、今回あらためてその測量の実態について考えてみたいと思います。

まず図1は、以前お知らせした平塚川添遺跡(大型建物)⇔伊川・大日寺の古墳状地形への南北ラインですが、27.5㎞で50m前後の誤差範囲で測量していたことが伺えます。双方、東経130度39分10秒で、1/500の誤差範囲ですから、0.3度以下の誤差となり、かなり精度が高いと言えるでしょう。

そこでどのようにその測量を行ったのかですが、図1に示したように、その2点を含むライン上にいくつか測量の目印となる拠点を置いていたことが予想されます。

具体的には、平塚川添遺跡(大型建物)⇔大穴貴神社西北の岡(三輪山状)⇔目配山(東山頂部)⇔少彦神社⇔三箇山北部(西部に三箇山大山祇神社)⇔伊川・大日寺の古墳状地形⇔笠置山東部⇔大山祇神社といったラインが見て取れます。

ここで、大穴貴、少彦、大山祇といった日本神話の神々が見えてきますが、また目配山、三箇山、笠置山のように、弥生時代からの目安とした山の名がそのまま残っていることにも気づきます。そこに弥生時代末期から古墳時代初期に使用されたであろう平塚川添遺跡がダイレクトにかかわっていくわけです。

これらの拠点から次の拠点を眺めた風景をGoogleAEarthで再現したのが図2となりますが、10㎞前後で丘陵や山岳地帯の一部に目安をつけて、そこに向けて移動して拠点をつくり、その拠点同士で烽火を上げたり鏡や鏡石で反射させながら、次の拠点への目印・信号を送りながら、南北へと測量を進めていったことがわかります。

そのGoogleEarthで具体的な測量風景を再現した動画を作成しましたので、こちらご参照ください。(200mbほどあります)
https://drive.google.com/file/d/15949lY14PoFoLr8JNDNpT3tcHoZR6c1L/view?usp=share_link

同じく電子地図の動画(160mb)もこちらからご覧いただけます。いかに高い精度で測量していたかは、その緯度・経度の数値をみていただければ一目瞭然です。
https://drive.google.com/file/d/1EkH52d9yQdzJ4MqQzU5fDs48xDO15b_J/view?usp=share_link


なお、平地においては、アジスキタカヒコネが梯子をかけた高屋を建てながら、全国を巡り歩いた話にあるように、高屋を建てて、見晴らしをよくしたうえで測量を行い、支配領域を決めてから、いわゆる天孫降臨といった形で軍事進出していったのでしょう。

同様に、南北のラインができたら、次に分度器がわりとなる三角縁神獣鏡などのメモリを用いて、半角の45度、3分の1角の30度といった具合で、斜め方向へのラインを構築していくことで、先日お知らせしたような拠点間を結ぶ直角三角形領域を構築し、最終的には方格を構成しながら測量地図を作成していったはずです。

その距離単位の算出には、三輪山伝承のように、リールにまいた糸や縄の長さ(尺)で具体的に長さを1里なりで測っていったことはずですが、長距離になると周髀算経のようにして、ノーモン棒を用いた古代中国の緯度計算から正確な南北間距離を算出していたはずです。

その辺の距離算出と地図作りの詳細については次回、改めて考えていきましょう。




山田ライン04 管理人 投稿日: 2023年04月21日 01:39:21 No.243 【返信】

先日から、九州各地の山田の字名に関するラインを作成してきましたが、ひとつ忘れてはいけないのが、朝倉市山田にある長田大塚古墳でしょう。ここも卑弥呼の墓との指摘もあるようですが、図1のように、平塚川添遺跡⇔山田(朝倉市)長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡への西15度偏角のラインがあることは以前もお知らせしたとおりです。

関連して、女山神籠石⇔山田(朝倉市)長田大塚古墳への東45度偏角のラインがあり、また図のように、山田(朝倉市)長田大塚古墳⇔鷹取山西部への東65度偏角のラインが、平塚川添遺跡⇔吉田・辺田ノ上遺跡⇔女山神籠石への東65度偏角のライン、小迫辻原遺跡⇔八女津媛神社への東65度偏角のラインと平行となっています。

なお、その吉田・辺田ノ上遺跡⇔祇園山古墳の南北ラインがあり、また吉田・辺田ノ上遺跡⇔鷹鳥山西部⇔杷木神籠石への東30度偏角のラインを考慮すると、最近弥生後期の環濠集落や多数の鉄器を出土したこの吉田・辺田ノ上遺跡もかなり重要な遺跡であり、かつ祇園山古墳の被葬者とも関係していたことが伺えます。

そして、この吉田・辺田ノ上遺跡⇔杷木神籠石ラインと鷹鳥山西部で直交するのが、平塚川添遺跡⇔八女津媛神社への西60度偏角のラインです。

この八女津媛神社については、図のように女山神籠石⇔八女津媛神社への西1度偏角の東西ラインがあり、それと直交して、八女津媛神社⇔杷木神籠石への東1度偏角の南北ラインがあります。

あと、小迫辻原遺跡⇔八女津媛神社への東65度偏角のラインが、祇園山古墳⇔八女津媛神社への西35度偏角のラインと直交しています。加えて、祇園山古墳⇔鷹取山西部の東西ラインもみてとれます。

さらに、図3の拡大図のように、その平塚川添遺跡⇔八女津媛神社ラインの延長線上に、日向の持田古墳群(魏記念銘鏡出土)が西60度偏角で位置しています。

その他、平原遺跡⇔祇園山古墳への西40度偏角のラインが祇園山古墳⇔平塚川添遺跡への東50度偏角のラインと直交し、また平塚川添遺跡⇔伊川・大日寺の古墳状地形への南北ライン、伊川・大日寺の古墳状地形⇔祇園山古墳⇔女山神籠石への東75度偏角のラインがあることも先日指摘したとおりです。

こうみていくと、先日から注目してきた祇園山古墳については、高良山神籠石、女山神籠石、平塚川添遺跡や平原遺跡のみならず、吉田・辺田ノ上遺跡や八女津媛神社とも関わる人物の墓だったことも明らかにしうるでしょう。

また八女津媛神社自身も北部九州のライン構成上で重要な起点となっており、そして朝倉市山田の長田大塚古墳も平塚川添遺跡と関わりの深い人物の墳墓であった可能性がみえてきます。

そこに山田の字名がかかわってくることは、やはり邪馬台国との関連、その領域との兼ね合いでとらえるべきこともわかります。

これらの弥生時代後期から古墳時代初期にかけての古墳や遺跡は計画的に配置されていったことが明らかになるのですが、その構築年代の相違と編年をいかに整理していくかが今後の課題でしょう。

今回の場合だと、平原遺跡がみえてきていますが、それ以前の時代の拠点はそのやや東南の三雲小路南遺跡の王墓だったこともあきらかです。つまり弥生末期に平原遺跡の墳丘墓は構築され、それ以前は後者の支配によっていたはずですから、ここで権力交替があった可能性も伺えます。

同様に、今回は小迫辻原遺跡が拠点としてみえてきましたが、その北部の日田市山田を用いていた時期もあったはずで、前者の時代のライン上に山田(朝倉市)と長田大塚古墳が構築されたことも伺えます。

そして、女山神籠石⇔八女津媛神社への東西ラインと、八女津媛神社⇔杷木神籠石への南北ラインが東に1度傾いており、これも測量方式等の相違や時代による測量集団に変化によって相違が生じていった可能性も考慮すべきでしょう。

ただ、概ね、60度、30度、15度、45度、75度、90度と、円の3分割による三角測量を繰り返す測量集団であったことは間違いないでしょう。

これらが狼煙台による通信目的であると仮定すると、当然、そのラインの中心域が首都となり、そこに各地の情報が集積されていき、また発信されていったであろうことも確かでしょうから、やはり平塚川添遺跡はその中心地として相応しい位置にあったことは疑いないところです。

そこで卑弥呼の墓についてですが、卑弥呼の墓自体は、情報発信の中心に位置している必要はないわけで、あくまで血縁関係や生年に過ごしていた拠点(都)等との関係で位置付けられていたことでしょう。

つまり、弥生時代からの狼煙や鏡光による情報通信のそれとダイレクトに関わっていない可能性が高く、その意味では、祇園山古墳等は恣意的な位置付けである点でも興味深いところです。

そして狼煙台としての機能を持つ場合は、高さも高く、その高さを維持するためのマウンド半径も大きくなるでしょうし、高地性集落のように見晴らしのよい場所を選んでいったことも予想しうるところですが、王墓としての機能だけなら、そこまで大きいサイズ、高い位置である必要もないはずです。

このように、合理性と恣意性の双方の観点から、被葬者や都市を特定していくことも重要になってくるかもしれません。




山田ライン03 管理人 投稿日: 2023年04月18日 02:07:00 No.241 【返信】

先日お知らせした九州各地の山田・山門等の字名と古墳状地形や弥生遺跡を結んだラインについて、追加で補足しておきたいと思います。

具体的には伊都国に位置する三雲小路南遺跡に関するライン、纒向型前方後円墳の那珂八幡古墳に関するライン、卑弥呼の墓ともされる祇園山古墳に関するラインです。

この3つの拠点を先日のライン図に加えたものが図1となりますが、まず、山田(北九州市)⇔名島4号墳(纒向型前方後円墳)東部⇔三雲小路南遺跡への東30度偏角のラインがあることがわかります。

また、このラインと直交して三雲小路南遺跡⇔吉野ヶ里遺跡北部⇔女山神籠石への西60度偏角のラインがあり、その女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインがあることは先日述べたとおりです。

あと、以前から指摘している三雲小路南遺跡⇔吉武高木遺跡⇔須玖・岡本遺跡⇔大野城⇔川部・高森遺跡への東西ラインがあること、また大野城⇔女山神籠石への南北ラインの存在もあります。

次に那珂八幡古墳についてですが、三雲小路南遺跡⇔那珂八幡古墳⇔赤村の古墳状地形への東12度偏角のラインがあり、また平塚川添遺跡⇔那珂八幡古墳⇔志賀島(潮見公園)への西45度偏角のラインがあり、このラインと先日指摘した高良大社⇔平塚川添遺跡⇔鎌田原遺跡南部⇔赤村の古墳状地形⇔石塚山古墳への東55度偏角のラインとが直交しています。

ここで志賀島が関わってくることは、その金印の件も考慮すると、外交・役所との関わりであり、平塚川添遺跡との重要拠点へと情報を伝達するルートとして存在していたことを示すものでしょう。

そして、またその平塚川添⇔石塚山古墳の石塚山古墳が、畿内の初期古墳の構造に近いとされることも、先日お知らせした図2の石塚山古墳を経由して石塚山古墳⇔奥3号墳⇔黒塚古墳への東10度偏角のラインや石塚山古墳⇔竹島御家老屋敷古墳(年号銘鏡出土)⇔蟹沢古墳(年号銘鏡出土)への東20度偏角のラインの存在を考慮すると、この石塚山古墳が九州から畿内、四国への情報や交易をおこなう起点として位置づけられていたことと関係するでしょう。その畿内方面へと進出していった年代はその魏年号の少し後となるはずです。

最後に祇園山古墳に関するラインですが、図3のように、特に伊川・大日寺の古墳状地形⇔祇園山古墳⇔女山神籠石への東75度偏角のラインがあることに気づきます。このラインと祇園山古墳⇔高良大社へのラインが直交するようです。

また、伊都平原遺跡⇔祇園山古墳への西40度偏角のラインが、祇園山古墳⇔平塚川添遺跡への東50度偏角のラインと直交していることもわかります。

したがって祇園山古墳の主は、そばの高良大社(神籠石)はもとより、女山神籠石と、伊川・大日寺の古墳状地形、そして平原遺跡、そして平塚川添遺跡とに関わる重要人物であったことが伺えます。

すでに平原遺跡と祇園山古墳の出土遺物との相関性は指摘されてますが、平塚川添遺跡というこの時期の最大拠点とも位置付けられていることは、この祇園山古墳に葬られた人物がこの地域を支配する首長としての位置付けにあった可能性を示す点で興味深いところです。

殉葬者らしき遺体が周囲に数十人見えるとの指摘からみても、この祇園山古墳はかなりの有力者であったことは疑いないでしょう。




本土日本人における「超渡来人9県民」と「やや縄文人9県民」 sherpa 投稿日: 2023年04月13日 19:20:51 No.235 【返信】

本土日本人における「超渡来人9県民」と「やや縄文人9県民」
● 超渡来人9県民:福井・滋賀・奈良・和歌山・三重・徳島・香川・愛媛・高知.
● やや縄文人9県民:青森・秋田・岩手・宮城・福島・茨城・群馬・鹿児島・島根.

また、縄文人ゲノムが多めの地域では肥満率が高く、少ない地域では喘息が悪化する可能性が示唆された。


管理人 投稿日: 2023年04月14日 01:02:02 No.238
縄文系と弥生・渡来系との分布がはっきりみえてきますね。
喘息が多くなるのは、北方モンゴロイドに多い乾燥肌のせいでしょうね。アトピーもそうですし、皮膚の脂や水分が少なく保湿効果が低いせいでしょう。縄文系の顔立ちの人は、逆に油分や保湿力のある肌の人が多く、太りやすい体質ともかかわっていそうです。


山田ライン02 管理人 投稿日: 2023年04月14日 00:56:58 No.237 【返信】

昨晩お知らせした日田市や西都市の山田の字名や前方後円墳状地形を等を結ぶ方位ラインについて、さらに今回九州各地の山田等の字名と前方後円墳状地形を接続したのが図1となります。

具体的には、まず山田(日田市)⇔鎌田原遺跡⇔伊川・大日寺の古墳状地形へと延びる西52度偏角のラインがあり、それと平行して、名島4号墳⇔平塚川添遺跡への西52度偏角のラインがあります。

また高良大社⇔平塚川添遺跡⇔鎌田原遺跡⇔赤村古墳状地形(今任原)⇔石塚山古墳への東52度偏角のラインが見えてきます。

その交点となる鎌田原遺跡遺跡については、そのやや南方でラインが交差することになりますが、その北方に前方後円墳状地形があることも以前指摘したとおりです。

その石塚山古墳は3世紀代とも言われる初期の前方後円墳であり、初期の三角縁神獣鏡等も出土しています。

また、後者と直交するのが、山田(北九州市)⇔石塚山古墳⇔川部・高森遺跡への西38度偏角のラインがあります。

そのラインと平行になるのが、山田(北九州市)⇔伊川・大日寺(古墳状地形)への東52度偏角のラインとなります。

その伊川・大日寺の古墳状地形については、図のように、名島4号墳(纒向型前方後円墳)⇔伊川・大日寺の古墳状地形⇔赤村の古墳状地形への東西ラインがあり、また伊川・大日寺の古墳状地形⇔平塚川添遺跡への南北ラインがあることも以前指摘したとおりです。

その赤村の古墳状地形については、地元の歴史家によって前方後円墳状であることが明らかにされているところです。

そして、その赤村の古墳状地形⇔山田(北九州市)への南北ラインも見えてきますが、赤村の古墳状地形の前方部に今任原の字名があり、そのイマトウがヤマトと関係することも明らかでしょう。


その他、先日も指摘した女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインもありますが、その女山神籠石の西に山門の字名があり、こちらもヤマトの音で山田等と共通性があります。


なお、その山田(北九州市)の位置には山田緑地があり、元は集落があったようです。
こちらの地図参照(https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000807026.jpg

全体的には、ヤマダ・ヤマトといったヤマタイ国に関わる字名と、弥生末期から古墳初期の遺跡を結ぶラインとなり、弥生時代後期の主要拠点であった平塚川添平遺跡から派生していった集団の拠点であったろうことが予想しうるでしょう。

そのどこかに卑弥呼の都があったとしてもおかしくはないのですが、先の赤村の古墳状地形から西へ延びるライン上に豊受神社がみえるように、伊勢・アマテラス信仰との関わりも予想されることがあり、昨晩示した天岩戸神社へと延びるライン群とともに、卑弥呼・台与といった女王と女神との関わりも考慮しておくべきかもしれません。




過去5100年間のチベット高原の人類史ー遺伝的歴史を中心に Sherpa 投稿日: 2023年04月07日 22:27:33 No.226 【返信】

2023年3月にチベット高原の集団の歴史に関する興味深い論文が発表されました。蔵北高原(羌塘)を含めたチベット人の形成過程に関するより詳しい研究です。

黄河流域の集団と類似した遺伝的構成の集団が、現代のチベット人および日本人の主要な遺伝的祖先と推測されています。

また、チベット高原は、日本列島やアンダマン諸島とともに ♂Y染色体ハプログループ(→用語解説**)D系統が多いことからも日本人の間で関心が高い地域でした(チベット高原の型はD1a1〔D‐Z27278〕, 日本人の型はD1a2a〔D-M55〕, アンダマン諸島の型はD1a2b〔D‐Y34637〕)。

対象:A. 青藏高原古人、B. 宗日文化遺跡(青海省海南チベット族自治州)、C. 黄河上流域の斉家文化遺跡(甘粛省東南部および青海省東北部)、D. ヒマラヤ地域(中央ネパール北部のムスタン・マナン地方)、E. 都蘭遺跡吐蕃墓(青海省海西モンゴル族チベット族自治州)の古代DNA、計89個体。

結果:紀元前3000年頃から吐蕃期までの「古代チベット人」(89個体)の♂Y染色体ハプログループ(YHg)においてはO-M117(O2a2b1a1, 50.56%を占める)が最も優勢で、二番手は中国大陸先住のN-F2390(N1b, 20.22%)であることが分かりました。狩猟採集民のD-Z27278(D1a1)は13.48%で三番手。

また、下記参考文献1によって、初期古代チベット人における主要な祖先供給源は「74%超の東アジア北方古代人祖先系統」と再確認されました。以下はA〜Eそれぞれのデータです:

A. 青藏高原古人(48個体)ー下記参考文献1
青藏高原古人においてはO-M117が最優勢、次いでN-F2390とD-Z27278の比率が同程度。
内訳:O-M117(とくにCTS4658)=41.66%(20個体),N-F2390=22.91%(11個体), D‐Z27278=20.83%(10個体), C-F1067=6.25%(3個体), O-F114=2.08%(1個体),O-P164=2.08%(1個体), O-JST002611=2.08%(1個体), O-F2320(O1b1)=2.08%(1個体).

B. 宗日文化遺跡(青海省海南チベット族自治州, 10個体)ー参考文献1
この遺跡の個体群は例外的にN-F2407とO-F114のみで占められています(N-F2407=60%, O-F114=40%)。彼らはチベット高原南東部および北東インド・アルナチャル州のロパ(Lhoba)とドゥンパ(Dengba)の祖先ではないでしょうか?ロパではN-F2390(N1b)=35%、ドゥンパではO-F114=31%。

A. 青藏高原古人とB.宗日文化遺跡を合わせた結果:O-M117=34.48%(20個体),N-F2390=29.31%(17個体), D‐Z27278=17.24%(10個体),O-F114=8.62%(5個体), C-F1067=5.17(3個体), O-P164=1.72%(1個体), O-JST002611=1.72%(1個体), O-F2320(O1b1)=1.72%(1個体).

C. 黄河上流域の斉家文化遺跡(甘粛・青海, 7個体)ー参考文献2
O-M117=71.42%, O-F114=14.28%, D‐Z27278=16.92%=14.28%.
A+B+C:O-M117(YP5864, ACT7481)=38.46%(25個体),N-F2390(N1b)=26.15%(17個体), D‐Z27278=16.92%(11個体), C-F1067=4.61(3個体), O-F114=9.23%(6個体),O-P164=1.53%(1個体), O-JST002611=1.53%(1個体), O-F2320(O1b1)=1.53%(1個体).

D. ヒマラヤ地域(ネパールのムスタン・マナン地方, 19個体)ー参考文献3
O-M117=89.47%, O-P164=5.26%, D‐Z27278=5.26%.

A+B+C+D:O-M117=50.0%(42個体),N-F2390=20.23%(17個体), D‐Z27278=14.28%(12個体), C-F1067=3.57%(3個体), O-F114=7.14%(6個体),O-P164=2.38%(2個体), O-JST002611=1.19%(1個体), O-F2320(O1b1)=1.19%(1個体).

E. 都蘭遺跡吐蕃墓(青海省海西モンゴル族チベット族自治州, 5個体)ー参考文献4
この個体群の遺伝的組成は、上記のヒマラヤ地域の古代高地人および現代チベット人と95~100%一致。吐蕃による吐谷渾の攻略は吐蕃人口の移動を伴うものであったことが裏付けられました。O-M117=60%, N-F2390=20%, R-Z93=20%.

まとめ
A+B+C+D+E(89個体):O-M117=50.56%(45個体),N-F2390=20.22%(18個体), D‐Z27278=13.48%(12個体), O-F114=6.74%(6個体), C-F1067=3.37%(3個体), O-P164=2.24%(2個体), O-JST002611=1.12%(1個体), O-F2320(O1b1)=1.12%(1個体), R-Z93=1.12%(1個体).

考察
「古代チベット人」(89個体)においては、O-M117が最も優勢(O-M117=50.56%〔45個体〕)で、次いでN-F2390(N1b, 20.22%〔18個体〕)が優勢、D‐Z27278(D1a1)は13.48%(12個体)と奮いません。

一方、現代チベット人のY染色体ハプログループの構成は、D-Z27278が45%、O-M117が35%、N‐F2390が5%ほどで、「古代チベット人」よりもD-Z27278が30%ほど多くなっています。また、D-Z27278が30%ほど増える代わりにO-M117やN-F2390は15%ずつ失ったことになります。

D-Z27278が古代のチベット高原で一般的ではなかったとすると、彼らはどこにいて、どのようにしてチベット高原で数を増やしたのでしょうか。確定とまではいきませんが、古代チベットと現代チベットのギャップは、ひとつには始祖効果(→用語解説**)に由来するのかもしれません。

もう一点。
初期古代チベット人における主要な祖先供給源は「74%超の東アジア北方古代人祖先系統」と確証されましたが、残りの祖先系統(7~26%)の由来が未だ明らかではありません。これはアジア祖先系統から深く分岐した祖先系統に起因し、以下のひとつもしくは複数の供給源と関連していると見られています:

① 西シベリアのウスチ・イシム(Ust'-Ishim)近郊のエルティシ河の土手で発見された44,380年前頃となる現生人類男性1個体(ウスチ・イシム人♂K2a, ♀R*)
② 中国北部に位置する北京の南西56km にある田園洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性1個体(田園人♂K2b, ♀B)
③ 現在のアンダマン諸島人(オンゲ人)(♂D1a2b)

古代のチベット高原の遺跡群においてどうやら♂D1a1系統の集団は一般的ではなさそうなので、残りの祖先系統(7~26%)の由来はウスチ・イシム人と田園人である可能性が少し高まったのかもしれません。

ウスチ・イシム人のK2a(NOの祖先型)は東アジアおよびシベリアで優勢であるし、田園人のK2bは欧州・米大陸先住民、オセアニアで優勢です。

もっとも、チベット高原の古人骨にもD1a1はいることにはいるので(89個体中12個体=13.48%)、今のところは仮にウスチ・イシム人、田園人、アンダマン諸島人類似の集団由来のゲノムが数パーセント含まれていても不思議ではないです。

参考文献:
1. Wang. H et al.(2023): Human genetic history on the Tibetan Plateau in the past 5100 years. Science Advances, Vol 9, Issue 11.
https://doi.org/10.1126/sciadv.add5582
2. Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
3. Liu CC. et al.(2022): Ancient genomes from the Himalayas illuminate the genetic history of Tibetans and their Tibeto-Burman speaking neighbors. Nature Communications, 13, 1203. https://doi.org/10.1038/s41467-022-28827-2
4. Zhu K. et al.(2022): Cultural and demic co-diffusion of Tubo Empire on Tibetan Plateau. iScience, 25, 12, 105636.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2022.105636
5. Xiong J. et al.(2022): Sex-Biased Population Admixture Mediated Subsistence Strategy Transition of Heishuiguo People in Han Dynasty Hexi Corridor. Frontiers in Genetics, 13, 827277.
https://doi.org/10.3389/fgene.2022.827277
管理人 投稿日: 2023年04月09日 15:43:20 No.231
Sherpaさん、お知らせありがとうございます。特に下記のデータは興味深いですね。

A. 青藏高原古人(48個体)ー下記参考文献1
青藏高原古人においてはO-M117が最優勢、次いでN-F2390とD-Z27278の比率が同程度。
内訳:O-M117(とくにCTS4658)=41.66%(20個体),N-F2390=22.91%(11個体), D‐Z27278=20.83%(10個体), C-F1067=6.25%(3個体), O-F114=2.08%(1個体),O-P164=2.08%(1個体), O-JST002611=2.08%(1個体), O-F2320(O1b1)=2.08%(1個体).


やはりチベットビルマ系の祖・CTS4568の割合が多いですね。NとD1a1はこの集団が来る前までは優勢だったのでしょうけど。

この集団が現れるのが、そうすると紀元前3000年前ごろとなりそうですね。何らかの理由で優勢になったのでしょう。

このO-M117の下層の7080を、以前百越・月氏のハプロと見なしたはずですが、TMRCA年代も紀元前700~前500年で、弥生人の祖先や日本語の形成にも関係してくるですよね。その点でも日本人にとっては縁が深い系統ですが、また日本に多いD1a2ですね、旧石器時代人でしょうけど、やはりアフリカからアンダマン経由でダイレクトに日本へ来たのでしょうか。

その一部がチベットへと北上して残り続けているのか・・・。

いずれにせよ、チベットのハプロの変遷は興味深いところです。、
sherpa 投稿日: 2023年04月12日 18:09:33 No.232
チベット・ビルマ系では一般的ではない斉家文化のO-M117-YP4864とO-M117-ACT7481、宗日遺跡のN1bとO-F114辺りが西羌になるのでしょう。彼らが馬家窯文化のチベット・ビルマ系を南方に追いやったのではないかと見ています。D1a1はもう話しになりません。
sherpa 投稿日: 2023年04月13日 02:05:55 No.234
現代チベット人に4割も見られるD1a1の由来はヤルルン河流域で勃興した吐蕃勢力でしょう。彼らがD1a1を同化した後で、D1a1を多く含んだ状態でチベット高原全域に広がっていった。



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