投稿画像
投稿者:管理人
先日、平塚川添遺跡から南北へ延びる方位ラインの存在とその測量方法について説明しましたが、また同じ平塚川添遺跡を拠点とした他のラインの測量方法についても考えてみたいと思います。 図1,2では、以前からお知らせしてきた平塚川添遺跡から西15度偏角の方位ラインについて示してますが、具体的には、平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳(朝倉市山田)北部⇔杷木神籠石⇔北方岳⇔小迫辻原遺跡⇔下綾垣遺跡⇔宝山⇔倉木山⇔古城山⇔津久見島へのラインとなります。 このラインと直交するのが、津久見島⇔持田古墳群への東75度偏角のラインで、その持田古墳群からは魏の景初四年銘を記した盤龍鏡が出土していることからみて邪馬台国時代と関係するラインと言えるでしょう。 その持田古墳群⇔八女津媛神社⇔平塚川添遺跡への西60度偏角のラインがありますが、このラインと直交するのが図のように、八女津媛神社⇔川部・高森遺跡への東45度偏角のラインとなります。 そのラインと直交するのは、川部・高森遺跡⇔津久見島への西45度偏角のラインであり、このラインと天岩戸神社⇔津久見への東45度偏角のラインが直交し、その天岩戸神社⇔八女津媛神社への西45度偏角とで正方形を形成していることも見て取れます。 その正方形の対角線として、天岩戸神社⇔庄内町阿蘇野⇔川部・高森遺跡への南北ラインと、女山神籠石⇔八女津媛神社⇔庄内町阿蘇野⇔津久見島への東西ラインがあります。 その他、先の平塚川添遺跡⇔持田古墳群ラインと、女山神籠石⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインが直交しており、これらのラインは、45度、90度、15度、30度、60度の偏角の測量を組み合わせていたことが予想しうるでしょう。 特に今回平塚川添遺跡とは別に、津久見島、八女津媛神社といった拠点が重視されていたことが伺えるのですが、おそらくは津久見島が測量の起点となり、そこから平塚川添遺跡、持田古墳群方面へと測量をしていったのではないでしょうか。 この方位ラインの電子地図動画についてはこちらにアップしておいたので、ご参照ください。 https://drive.google.com/file/d/1pjrBNWWgOSr_j-9OozwixXrGKSVcI_fl/view?usp=share_link また、先日同様にGoogleEarthを用いた3D測量シュミレーション動画もこちらにアップしておきます。図3はそのスクリーンショットとなります。 平塚川添遺跡から津久見島への測量シュミレーション動画 https://drive.google.com/file/d/12h5exKo4NpnV1biAcyO4MDr96PWAAIyx/view?usp=share_link 津久見島から平塚川添遺跡への測量シュミレーション動画 https://drive.google.com/file/d/1KGuPPGIgmswvxlhzVXLK-GPkFEPOCjLD/view?usp=share_link この平塚川添遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインについては、図のように、津久見島の他、月出山、北方岳、宝山、倉木山、古城山といった山・丘陵を目印としていたはずで、頂上部が若干加工されているようにも見受けられます。この辺は平地に造られた前方後円墳、それ以前の高地性集落とも共通する左右不均等な撥型の前方後円墳形状に近いものもあり、すでに弥生時代にはそのようなマウンドと狼煙通信施設とが設置されていたことを示すものかもしれませんが、ただ、その一部については、縄文時代、旧石器時代からの測量拠点も考慮しておく必要もあるでしょう。 また津久見島も月見と関係し、月出山とともに月に関する地名であり、日月信仰との関わりを想起させますが、関連して天岩戸神社、八女津媛神社等、女神・女性首長に関わる拠点がみえてくることも重要で、邪馬台国の女王とそれらがどう関わっていたのかについても考えてみたいところです。
投稿記事
画像を拡大