歴史掲示板(渡来人研究会)


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邪馬台国時代の測量方法01
管理人 投稿日:2023年04月27日 01:26 No.244
ここしばらく、弥生末期から古墳時代初期にかけての方位ラインをおしらせしてきましたが、そのような数十キロ離れた遠距離の遺跡間をどのように正確に測量しうるのかについて疑問を感じておられる方も多いかと思いましたので、今回あらためてその測量の実態について考えてみたいと思います。

まず図1は、以前お知らせした平塚川添遺跡(大型建物)⇔伊川・大日寺の古墳状地形への南北ラインですが、27.5㎞で50m前後の誤差範囲で測量していたことが伺えます。双方、東経130度39分10秒で、1/500の誤差範囲ですから、0.3度以下の誤差となり、かなり精度が高いと言えるでしょう。

そこでどのようにその測量を行ったのかですが、図1に示したように、その2点を含むライン上にいくつか測量の目印となる拠点を置いていたことが予想されます。

具体的には、平塚川添遺跡(大型建物)⇔大穴貴神社西北の岡(三輪山状)⇔目配山(東山頂部)⇔少彦神社⇔三箇山北部(西部に三箇山大山祇神社)⇔伊川・大日寺の古墳状地形⇔笠置山東部⇔大山祇神社といったラインが見て取れます。

ここで、大穴貴、少彦、大山祇といった日本神話の神々が見えてきますが、また目配山、三箇山、笠置山のように、弥生時代からの目安とした山の名がそのまま残っていることにも気づきます。そこに弥生時代末期から古墳時代初期に使用されたであろう平塚川添遺跡がダイレクトにかかわっていくわけです。

これらの拠点から次の拠点を眺めた風景をGoogleAEarthで再現したのが図2となりますが、10㎞前後で丘陵や山岳地帯の一部に目安をつけて、そこに向けて移動して拠点をつくり、その拠点同士で烽火を上げたり鏡や鏡石で反射させながら、次の拠点への目印・信号を送りながら、南北へと測量を進めていったことがわかります。

そのGoogleEarthで具体的な測量風景を再現した動画を作成しましたので、こちらご参照ください。(200mbほどあります)
https://drive.google.com/file/d/15949lY14PoFoLr8JNDNpT3tcHoZR6c1L/view?usp=share_link

同じく電子地図の動画(160mb)もこちらからご覧いただけます。いかに高い精度で測量していたかは、その緯度・経度の数値をみていただければ一目瞭然です。
https://drive.google.com/file/d/1EkH52d9yQdzJ4MqQzU5fDs48xDO15b_J/view?usp=share_link


なお、平地においては、アジスキタカヒコネが梯子をかけた高屋を建てながら、全国を巡り歩いた話にあるように、高屋を建てて、見晴らしをよくしたうえで測量を行い、支配領域を決めてから、いわゆる天孫降臨といった形で軍事進出していったのでしょう。

同様に、南北のラインができたら、次に分度器がわりとなる三角縁神獣鏡などのメモリを用いて、半角の45度、3分の1角の30度といった具合で、斜め方向へのラインを構築していくことで、先日お知らせしたような拠点間を結ぶ直角三角形領域を構築し、最終的には方格を構成しながら測量地図を作成していったはずです。

その距離単位の算出には、三輪山伝承のように、リールにまいた糸や縄の長さ(尺)で具体的に長さを1里なりで測っていったことはずですが、長距離になると周髀算経のようにして、ノーモン棒を用いた古代中国の緯度計算から正確な南北間距離を算出していたはずです。

その辺の距離算出と地図作りの詳細については次回、改めて考えていきましょう。




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