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日韓方格規矩鏡ライン 2 管理人 投稿日: 2023年02月10日 00:52:01 No.201 【返信】

先日お知らせした日韓にまたがる方格規矩鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインの件ですが、その後も分析を進めています。

先日指摘したように、佐賀大和の十三塚遺跡の方格規矩鳥紋鏡と、韓国金海の大成洞古墳群出土の方格規矩鳥紋鏡が同型であることを示しましたが、特に特徴的なのは、図1のように中心に位置する紐の周りに円形に小さな乳が16個並んでいることであり、通常の方格規矩鏡(同型とされる津古生掛古墳出土鏡)が12個四角形に並んでいるのと対照的です。

ただ、よく上記の3鏡をみると、その数が16と12個でそれぞれ若干の相違がある点にも留意しておくべきでしょう。

ちなみに、大成洞古墳出土鏡が逆L字紋で、津古生掛古墳出土鏡が正L字紋、十三塚遺跡出土鏡は確認ができない点でも相違があり、また津古生掛鏡と十三塚遺跡鏡とは、2つの三角鋸歯紋の間に複波紋帯を挟んでいる点で共通性があります。

なお、上記の円形に乳を並べるケースは、前漢鏡に同様な事例があるようです。図1にも掲載しておきます。

漢鏡については、こちら参照。
https://www.hyogo-koukohaku.jp/kodaikyou/modules/mirror/index.php?action=PageView&page_id=98
https://pizza.sleptjan.best/index.php?main_page=product_info&products_id=33163

これら場合は、双方9個で並んでおり、逆L字紋、流雲紋で、全体的には大成洞鏡に近い構図です。

それに対して、津古生掛鏡と十三塚遺跡鏡では、三角縁神獣鏡に近い三角鋸歯紋・波紋帯の配置となっており、後に日本の方格規玖鏡の特徴となる正L字紋のそれも見えています。

このように、前漢代の鏡の要素を魏晋代に再現した倣古鏡としてとらえるべきかどうかの問題もありそうです

次に上記の方格規矩鳥紋鏡を出土した日韓の古墳を探していくと、熊本県の向野田古墳からも出土していることがわかります。

これらの鳥紋鏡についてはこちらの論文もご参照ください。
https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/assets/publications/knm-bulletin/17/017_zuisou_a.pdf

この向野田古墳は4世紀後半の古墳なので、伝世鏡と考えるべきですが、本来のこの鏡の所有者がいた位置は、おもうにその1.5km北方の弥生時代から古墳時代初期の宇土境目遺跡周辺ではないでしょうか。

この宇土境目遺跡については、部分的な調査にもかかわらず、環濠と考えられるV字形の溝状遺構、「三叉路」状遺構、合口式の大型甕棺などの重要な遺構と豊富な遺物が出土し遺物の時期も、弥生時代中期前半から後期終末まで途切れないうえ、古墳時代前期まで継続しているとされます。

そこで、この遺跡を方位ライン面でとらえていくと興味深いことがわかりました。

すなわちこの宇土境目遺跡を起点とするラインは図2のように、まず大成洞古墳群⇔十三塚遺跡西部⇔宇土境目遺跡への西60度偏角のラインがあり、それと直交する形で宇土境目遺跡⇔奥三号墳⇔安満宮山古墳(青龍三年鏡出土)⇔北山茶臼山西古墳⇔柴崎蟹沢古墳(正始元年鏡出土)への東30度偏角のラインがあります。

そして、この2つのラインを基軸として、他のラインが派生していったように見受けられます。

図では、紀年銘鏡に続く初期の三角縁神獣鏡を出土した古墳や纒向型前方後円墳も入れてラインを構成してますが、それらのラインについては、先日も説明しているので割愛しますが、特にこの宇土境目遺跡に関するラインとしては、図のように、宇土境目遺跡⇔赤塚古墳⇔竹島御家老屋敷古墳(正始元年銘鏡出土)⇔神原神社古墳(景初3年銘鏡出土)への東55度偏角のラインがあり、その重要性がわかります。

また、先の宇土境目遺跡⇔柴崎蟹沢古墳ラインと直交するのが、太田南5号墳(青龍三年鏡出土)⇔安満宮山古墳(青龍三年鏡出土)⇔黒塚古墳への西60度偏角のラインとなります。

あと、先日重視した鳥紋鏡を出土した十三塚遺跡に関するラインを再度みていくと、図のように十三塚遺跡⇔竹島御家老屋敷古墳⇔太田南5号墳の東30度偏角のラインがあり、また、十三塚遺跡⇔赤塚古墳北部⇔萩原墳墓群北方⇔新豊院山2号墳への東15度偏角ラインにも留意しておくべきでしょう。

ただ若干これらのライン拠点には南北へのズレがあり、年代が先のラインより、やや新しいことによる尺度誤差なども影響している可能性もありそうです。

また、同じく鳥紋鏡を出土する大成洞古墳の位置に注目すると、図のように、神原神社古墳の南部を通過して、広峯15号墳(景初4年斜縁盤龍鏡出土)へと至る同緯度東西ラインがあったようにも見えます。

この広峯15号墳は、図のように、広峯15号墳⇔奥3号墳⇔神原神社古墳の直角三角形、広峯15号墳⇔安満宮山古墳⇔奥3号墳の直角三角形を構成する起点を提供しており、その2つの直角三角形をとおして、西45度偏角で、神原神社古墳⇔奥3号墳ラインと、広峯15号墳⇔安満宮山古墳ラインが平行になってます。

その他、潮崎山古墳⇔森尾古墳(正始元年銘鏡出土)⇔太田南5号墳へのラインがあること、また潮崎山古墳⇔黒塚古墳への東西同緯度ライン、椿井大塚山⇔新豊院山2号墳への東西同緯度ライン、太田南5号墳⇔長田口遺跡への東西同緯度ラインがあることは先日も指摘したとおりですが、これらのラインは、おそらくは、三角縁神獣鏡が主流となった後代の派生ラインであり、その元となったのは最初に述べた2つのラインだと考えうるでしょう。

つまり三角縁神獣鏡の導入以前に、方格規矩鏡群の配布があり、特にその中でも方格規矩鳥紋鏡が初期段階で狗邪韓国経由で十三塚遺跡や宇土境目遺跡あたりにもたらされていく中で、東方展開への拠点構築がなされていったのではないでしょうか。

佐賀大和の十三塚遺跡が仮に先日予想したようにその地にある与止日女神社から類推して女王台与の時代だとすると、それ以前の卑弥呼の時代の拠点として、宇土境目遺跡が重要な遺跡となる可能性が見えてくるでしょう。

あと、図3のように、宇土境目遺跡と東西ラインで接続するのが高千穂方面であり、また西45度偏角のラインで西都原古墳群とも接続します。

その西都原古墳群からやや東方にある5~6世紀代の持田古墳群から出土したとされる景初四年鏡の斜縁盤龍鏡(広峯15号墳と同型)についても、伝世鏡と考え、もともとは西都原古墳あたりに保管されていたと考えれば理解しやすくなります。

図3のように、宇土境目遺跡は、弥生時代の九州においても、中心位置にあった遺跡となり、それなりに重視されていたはずで、東の西都原古墳周辺を投馬国とする見方に従えば、西の中心拠点はこの地であった可能性もあるでしょう。ある意味邪馬台国の位置とも矛盾ない場所ともいえますが、果たしてその是非がどうであったかは、発掘成果を待つことになるでしょう。

なお図3の九州の弥生遺跡・神籠石・古墳群を結ぶラインについては、過去にも何度も説明してきましたが、今回宇土境目遺跡に注目して作成しなおしてみると、図のように、西都原古墳群⇔宇土境目遺跡⇔おつぼ山神籠石への西45度偏角のラインがあり、それに概ね直交する形で、高森遺跡(赤塚古墳)⇔宇土境目遺跡⇔山門野への東へのライン55度偏角のラインがあったことが伺えます。

あと、女山神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔高森遺跡への東30度偏角のラインも重要で、また吉野ヶ里遺跡⇔小迫辻原遺跡への東西ラインと、おつぼ山神籠石⇔高森遺跡への東20度偏角のラインと平塚川添遺跡⇔女山神籠石への東65度偏角のラインとが、ひとつの交点で交差していることなどをみても、計画的な都市づくりが行われていたことがわかります。

その点は平原遺跡⇔岡本遺跡⇔高森遺跡への東西ラインにも現れてますが、このように当時の九州を支配していた集団は、その都を必ず計画的な位置に設置していたことは疑いないことで、それゆえ、邪馬台国の女王の都もこれらのラインの交点上にある可能性は極めて高いと言えるでしょう。

最終的にどこが卑弥呼や台与の都であったか?は、発掘調査にゆだねられることとなりそうですが、ある程度、その候補地となる領域が、これらの方位ライン分析で絞り切れる点で、ライン分析は有効な解析手段となるはずです。




日韓方格規矩鏡ライン 管理人 投稿日: 2023年02月05日 17:20:19 No.198 【返信】

先日は、新井宏氏の論文(http://www.arai-hist.jp/lecture/07.11.17.pdf)で紹介されていた魏晋倣古鏡の同位体比表(図1として再引用)と、同じく三角縁神獣鏡の鉛と一致する箱式石棺・方形周溝墓の出土鏡の鉛同位体比表を参考にしながら、これらの出土古墳と以前もお知らせした紀年銘鏡を出土した古墳等を結ぶ方位ラインを作成しましたが、特にその中の佐賀大和・十三塚遺跡(箱式石棺)とそのそばの与止日女神社との関係から、女王・台与との関連を予想したことがありました。

そこで、その十三塚遺跡について注目して、ここから出土した方格規矩鳥紋鏡についてよく見てみると、以前取りあげた韓国金海(狗邪韓国?)の大成洞古墳出土鏡とほぼ同型であることに気づきます。図1下図参照。

そして、その大成洞古墳と十三塚遺跡、先図1にみえる青龍三年銘方格規矩四神鏡(波紋帯・珠点有り)を出土した太田南古墳群とを結んだものが、図2となります。

ここで、大成洞古墳⇔十三塚遺跡へのラインが西60度偏角となり、また十三塚遺跡⇔太田南古墳群ラインが東30度偏角となりますので、両者は直交していることが判ります。明らかに人工的な位置付けです。

したがって、この狗邪韓国の大成洞古墳あたりに、この銅鏡を配布した集団の当初の拠点があった可能性があるでしょう。

また、十三塚遺跡と同型の方格規矩鳥紋鏡を出土した津古生掛古墳の位置を考えたのが図3となります。

ここで、十三塚遺跡⇔津古生掛古墳ラインが東25度偏角となり、このラインの延長線上に図1に掲載された方格規矩鏡を出土した岡山の吉原6号墳が位置しています。

その津古生掛古墳⇔高良大社が南北ラインとなります。そして、十三塚遺跡⇔高良大社ラインが西5度偏角となりますから、30度偏角で十三塚遺跡と、津古生掛古墳、高良大社が位置づけられていたこともあきらでしょう。

その高良大社からも初期の三角縁神獣鏡も出土しており、そこには鏡山の字名も残りますが、また津古生掛古墳も纒向型前方後円墳ですから、十三塚遺跡も同時代に使用されていた可能性が高くなります。

この十三塚遺跡の主は、古墳時代初期に、狗邪韓国と交流をもっていたはずで、かつ日本においても紀年銘鏡を配布するなど、重要な役割を果たしていたはずです。

佐賀大和の字名からみても邪馬台国の関係した土地でしょうから、やはり女王台与との関係が疑われます。

なお、十三塚遺跡の箱式石棺からは2体の遺骨が確認されており、方格規矩鳥文鏡一面の他、夔鳳鏡片一面、鉄製刀子一点が副葬されており、その刀子は文官の存在を意味しますから、この周辺地域に当時の役所・文官がいた可能性が高いでしょう。詳細は下記サイトをご参照ください。

https://saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=5308




弥生末~古墳初期の銅鏡ライン 管理人 投稿日: 2023年01月27日 21:53:00 No.197 【返信】

ちょっとバタバタしており更新が滞っておりますが、先日の紹介しました新井宏氏の論文(https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiD-ZSz8rL8AhVOFogKHZtFDL8QFnoECBMQAQ&url=http://arai-hist.jp/lecture/07.11.17.pdf&usg=AOvVaw1ZxO8p8OwizwU7mbIBtZ9S)で紹介されていた魏晋倣古鏡の同位体比の表(図1として引用)と、同じく三角縁神獣鏡の鉛と一致する箱式石棺・方形周溝墓の出土鏡の鉛同位体比の表(図2として引用)を参考にしながら、これらの出土古墳と以前もお知らせした紀年銘鏡を出土した古墳等を結ぶ方位ラインを作成してみたのが図3です。

この図3をみていくと、まずその西の起点として十三塚遺跡(佐賀大和)があり、そこには与止日女神社があります。この神社については、以前、ヨドヒメもしくはトヨヒメとの名で分布し、女王台与(トヨ)との関係を予想したことがありました。したがって、台与の時代以降の古墳を結ぶラインの可能性もあります。

この十三塚遺跡(箱式石棺出土)を起点として、十三塚遺跡⇔平塚川添遺跡北部(鷂天神社付近)⇔赤塚古墳⇔荻原1号墳(纒向型前方後円墳)⇔新宝院山2号墳(纒向型前方後円墳)への東12度偏角のラインが予想されます。なお新宝院山古墳群の位置は若干ズレがあり、当時の海進関連等の事情でやや内陸寄りに設置されたのではないかと思います。

同じく十三塚遺跡⇔竹島御家老屋敷古墳(紀年銘鏡出土)⇔太田南5号墳(紀年銘鏡出土)への東30度偏角のラインがあります。この竹島御家老屋敷古墳の位置も海岸沿いにある若干ズレがあります。

またその竹島御家老屋敷古墳については、赤塚古墳⇔竹島御家老屋敷古墳⇔神原神社古墳(紀年銘鏡出土)の東55度偏角のラインがあることは先日指摘したとおりですが、またその神原神社古墳については、神原神社古墳⇔楯築墳丘墓⇔荻原1号墳への西40度偏角もラインもあります。

その楯築墳丘墓については、最初期の前方後円墳とみなされていることがありますが、図のように石切神社周辺と東西同緯度ラインで接合しており、この神社周辺からは先日も指摘した三角縁神獣鏡(波紋帯+珠点、天王日月銘あり)が出土しており、この波紋帯+珠点を持つ鏡には太田南5号墳(安満宮山古墳)出土 斜縁方格規矩鏡 青龍三年銘)も含まれることから、最初期の三角縁神獣鏡と関係するはずで、かつこの鏡が椿井大塚山古墳のものと同范鏡となります。

その椿井大塚山古墳については、図のように、荻原1号墳⇔石切神社周辺⇔椿井大塚山古墳⇔北山茶臼山西古墳への東30度偏角のライン上にあることもわかります。

その椿井大塚山古墳は、図のように新宝院山2号墳(纒向型前方後円墳)と東西同緯度ラインで接合しますが、この新宝院山2号墳⇔長田口遺跡⇔北山茶臼山西古墳への東60度偏角のラインがあります。

その長田口遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期を中心とした遺跡とされており、図2のリストにあるように銅鏡片と後漢時代の「位至三公鏡」も出土しているようです。

また、北山茶臼山西古墳については、図1のように魏晋倣古鏡(方格規矩鏡)が出土しており、紀年銘を持つ三角縁神獣鏡(太田南5号墳出土等)と成分的に近いことが指摘されています。

その太田南5号墳と長田口遺跡は東西同緯度ラインで接合しており、また北山茶臼山西古墳⇔太田南古墳群のやや北方⇔神原神社古墳への東10度偏角のラインも存在していたでしょう。

あと、十三塚遺跡⇔北山茶臼山西古墳への東22度偏角のライン上に、紀年銘鏡を出土した柴崎蟹沢古墳が位置していることも偶然ではないかもしれません。

こうみていくと、魏晋倣古鏡と紀年銘を持つような初期の三角縁神獣鏡、それを出土した纒向型前方後円墳などの初期古墳との間には、ライン面からみても明らかな相関関係があり、計画的に造営・展開していったことがわかります。

その起点として、十三塚遺跡(佐賀大和)があり、仮に女王台与と関わるならば、これらの古墳(ライン)の成立年代も、卑弥呼死後の台与の時代以降であった可能性がみえてくるでしょう。

加えて平塚川添遺跡とその北部の鷂天神社が、そのライン上の拠点としてかかわってくることがあり、この鷂天神社の祀神として大日霊貴命が祀られていることも、アマテラス(女王?)との関わりを想起させます。




三角縁神獣鏡の起源2 管理人 投稿日: 2023年01月07日 01:02:54 No.195 【返信】

先日、紀年銘鏡の一つである青龍三年銘の斜縁方格規矩鏡(安満宮山古墳・太田南5号墳出土⇒同范鏡
)と、一部の三角縁神獣鏡にみられる波紋帯に点を刻み込んだものがあり、双方同じ職人系統のものであることを予想したことがありました。

具体的には樋口隆康氏の『三角縁神獣鏡総監』から、その番号とともに抜き出すと下記のとおりです。


25 三角縁獣帯二神四獣鏡 四国出土か
37 三角縁複波文帯四神二獣二炉神獣鏡 阿保親王塚
59 三角縁獣帯四神四獣鏡 石切神社付近
83 三角縁獣帯五神四獣鏡 潮崎山古墳 国分寺古墳(鳥取県倉吉市)出土鏡と同笵
109 三角縁複波文帯三神三獣鏡 沖ノ島沖津宮 

そして、これに加えて、上記の斜縁方格規矩鏡を出土した安満宮山古墳から出土した三角縁神獣鏡にも、同様に波紋帯に珠点が打たれているものがあることに気づきました。

これらを再度比較図にしたのが図1です。

こうみると、安満宮山古墳から出土した三角縁獣帯四神四獣鏡は、上記59番の石切神社付近出土のものとおそらくは同型と考えうることもわかります。

そして、この安満宮山古墳と石切神社西部とは、先日掲載した点を打つ波紋帯を持つ鏡を出土した古墳等を結んだライン(図2)ように、南北のラインで接合していることもわかりますから、双方に強いつながりがあったことも予想できます。

なおその石切神社の同范鏡は椿井大塚山古墳からも出土しています。

そこで、わかってくるのが、安満宮山古墳からは、プレ三角縁神獣鏡とでもいうべき青龍三年銘の斜縁方格規矩鏡があり、同時にその後にできたであろう三角縁神獣鏡とで、同系統の職人による2鏡を同時に出土しているということになります。

なお、その前者の銘文は下記のとおりです。またこちらのサイト(http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/amamiyama.html)に安満宮山古墳出土遺物の一覧と詳細情報が載ってます。

「青龍三年顔氏作鏡成文章左龍右虎辟不詳朱爵玄武順陰陽八子九孫治中央壽如金石宜侯王」

したがって、この点を波紋帯の間に珠点を打ち込んだのは、ひとつには、 顔氏であった可能性がみえてくるでしょう。

ただ、仮にこの系統の鏡が魏の顔氏作の銅鏡だったとしても、これらの鏡自体が複製鏡で日本や朝鮮で再作成されたものであるならば、それを出土する古墳の年代も、紀年銘の年代よりはるかに新しくなってくることも確かです。

その件については、すでに新井宏氏が紀年銘を持つ銅鏡を鉛同位体比の比較から主に2つのグループに分類できること、これらが中国ではない地域で複製された可能性を指摘しています。鉛同位体比関連の表も図3として引用します。(https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiD-ZSz8rL8AhVOFogKHZtFDL8QFnoECBMQAQ&url=http://arai-hist.jp/lecture/07.11.17.pdf&usg=AOvVaw1ZxO8p8OwizwU7mbIBtZ9S)参照。


その2グループについては、下記のとおり。

Aグループ
正始元(240)年森尾鏡
景初4(240)年辰馬鏡
青龍3(235)年大田南鏡
青龍3(235)年個人蔵鏡

Bグループ
正始元(240)年柴崎鏡
景初4(240)年広峯鏡


ここで、Aグループでは、年代と種類の違う鏡の鉛同位体比が近似してしまうという矛盾があり、また景初4年という実際にはなかった年号を用いていることから、そのことを知る中国本土ではない地域で複製された鏡との指摘をしてます。

この件について、再度図2の方位ラインをみていくと、Aグループの太田南鏡と森尾鏡とを結ぶラインがあり、このラインの延長線上には83番の波紋帯に点を打つ三角縁神獣鏡を出土した潮崎山古墳、氷見市の柳田布尾山前方後方墳(3世紀末~4世紀初頭)がみえます。これらは近い年代と同系統の職人集団によることが予想しうるでしょう。


一方Bグループについては、特に広峯鏡について、先日のライン分析では、森尾古墳⇔黒塚ラインと、赤塚古墳⇔会津大塚山古墳ラインとの交点に造られており、やや時代が下った集団による可能性を指摘したとおりです。

Bグループの柴崎蟹沢古墳の位置をみても、会津大塚山古墳⇔新豊院山古墳、椿井大塚山古墳等との関連が伺えるので、東海・東北進出を行った時代の鏡であった可能性もあるでしょうか。

加えて、先日指摘したように、紀年銘をもつ画紋帯神獣鏡を結ぶラインとも、これらのラインが接合していることがあり、魏に特化した集団というよりは、呉・魏の双方に卑弥呼の遣使以前から関わっていた集団によってこれらのラインの造営、つまり三角縁神獣鏡の配布が行われた可能性がありそうです。

その件は、黄金塚の景初3年画文帯神獣鏡と神原神社古墳の景初3年三角縁神獣鏡が内区同型とされることからも伺えることであり、魏鏡であるはずの三角縁神獣鏡が呉系と言われる画紋帯神獣鏡の一部を採用していることにも関係してきそうです。

朝鮮、楽浪郡等で複製されたものが分配されていた可能性も否定できないことは、先の新井氏の論考の後半を読んでいくと理解できるのですが、特に先日指摘した帯方郡、狗邪韓国との関係がこの辺はまた日を改めて考えてみたいと思います。




三角縁神獣鏡の起源 管理人 投稿日: 2023年01月02日 21:29:34 No.193 【返信】

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

しばらく期間があきましたが、昨年末に紀年銘を持つ銅鏡を調べたおりに、太田南5号墳(安満宮山古墳)出土の斜縁方格規矩鏡(青龍三年銘)に、複波紋帯があり、その波紋の間に点が打たれているケースがあることを指摘しました。

そして、下記の三角縁神獣鏡(樋口隆康『三角縁神獣鏡綜鑑』雄山閣,1992 参照、番号もそれによる)にも同様な (複)波紋帯があり、点が打たれていることがあり、またその出土古墳を結ぶ方位ラインも存在し、記年銘鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインと接合していることも述べたとおりです。

25 三角縁獣帯二神四獣鏡 四国出土か
37 三角縁複波文帯四神二獣二炉神獣鏡 阿保親王塚
59 三角縁獣帯四神四獣鏡 石切神社付近
83 三角縁獣帯五神四獣鏡 潮崎山古墳 国分寺古墳(鳥取県倉吉市)出土鏡と同笵
109 三角縁複波文帯三神三獣鏡 沖ノ島沖津宮 


そして上記の三角縁神獣鏡と斜縁方格規矩鏡(青龍三年銘):太田南5号墳・安満宮山古墳出土)を一覧にしたのが図1となります。


こうみると、まず25番、59番、83番が、紋様的に類似していることに気づきます。神獣の数は異なるものの、1番外の三角鋸歯紋帯から数えて2番目に(複・単)波紋帯があり、そこに点が打たれている点、内区と外区の間に銘帯があり、「天・王・日・月・天・王」の文字を右まわり外向に配し,獣文帯によりつないでいる点など、共通性が多くみえます。

先日のこれらの(複)波紋帯(点付)を持つ三角縁神獣鏡の出土古墳等を結んだ方位ライン(図2)からいくと、その59番の潮崎山古墳は、沖ノ島(沖津宮)⇔潮崎山古墳⇔石切神社周辺への東5度偏角のライン上にあり、これと平行に神原神社古墳(魏紀年銘鏡出土)⇔国分寺古墳(潮崎山古墳と同ハン鏡)南部⇔森尾古墳(魏紀年銘鏡出土)への東5度偏角のラインがありました。

その石切神社の真北に安満宮山古墳があり、先の太田南5号墳⇔安満宮山古墳⇔黒塚古墳への西60度ラインがあることも指摘したとおりです。

この安満宮山古墳と太田南5号墳から、先の斜縁方格規矩鏡(青龍三年銘)が出土していることがあり、また黒塚古墳の真西にあたるのが、先の潮崎山古墳となるわけです。

したがって、これらの古墳と出土鏡との間には、なんらかの職人系統の継承があったことを想定したのですが、図のように、上記の沖ノ島(沖津宮)へのラインがあり、その沖津宮出土鏡が109番となるのですが、ここでは内区に近い位置に複波紋帯(点付)があり、その外に鋸歯紋がある点で、先の3つの鏡とは異なる要素を持ちます。

この109番(阿保親王塚出土)と同様なのが、37番といえるでしょう。

この37番の四国出土鏡が、仮に徳島の奥3号墳あたりからの出土だったとすると、図のように、奥3号墳⇔阿保親王塚⇔安満宮山古墳へのラインに関係するでしょう。

このラインはおそらくは、上記の9太田南5号墳⇔安満宮山古墳⇔黒塚古墳と直交していることからみて、そのラインに近い年代で構築されたのではないでしょうか。

三角縁神獣鏡の紋様面からみると、まず紀年銘を持つ斜縁方格規矩鏡(青龍三年銘)がつくられて、  続いて、次に25,59,83番の三角縁神獣鏡を造り、これらはともに最外の三角鋸歯紋の次に波紋帯(点付)があるタイプです。そして、最後に内区に近いところに波紋帯(点付)を持つタイプが造られたと考えるべきでしょう。

この辺は、図3(京都大学文学部考古学研究室 編『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』六一書房 1989より引用)の波紋帯鏡群として分類される鏡にあたり、紀年銘鏡群とも近い関係にあるはずですが、その波紋の種類と位置の相違に今回注目してみた結果として、さらに詳細な分類ができる可能性がみえてきます。

なお、先の斜縁方格規矩鏡(青龍三年銘)の場合、複波紋は三角鋸歯紋に近い三角紋の連続で、外側片方のみに点が打たれています。

また、83番は複波紋の両側に点が打たれており、59番は(複ではなく単)波紋の両側に点が打たれている点で相違があります。

さらに25番は逆に(複ではなく単)波紋の内側のみに点が打たれている点でも83番と59番の双方の特徴を持っていると言えるでしょう。

これらの波紋帯の変遷過程を考えていくことで、三角縁神獣鏡の起源に迫られるかもしれません。




三角縁・画紋帯神獣(記年銘)鏡方位ライン 3 管理人 投稿日: 2022年12月09日 14:35:52 No.191 【返信】

先日最後にお話したように、記年銘を持つ三角縁神獣鏡が画紋帯神獣と類似する形式の銅鏡を調べて分析することで、その起源をあきらかにできるかもしれないことがあります。

そこで、今回注目するのが、太田南5号墳(安満宮山古墳と同笵鏡)から出土した青龍三年銘の斜縁方格規矩鏡に描かれている波文帯の形状です。

図3のように、複波文帯の波の間に点が打ってあるのが判ります。これはほかの多くの三角縁神獣鏡等には見えない特徴で、一部の三角縁神獣鏡のみに描かれていることから、同じ系統の職人によるものと判断できそうです。

つまり、三角縁神獣鏡のプレ段階にあるであろう上記の斜縁方格規矩鏡と同系統の職人集団の作と理解できれば、初期の三角縁神獣鏡等を造った集団の特定ができるかもしれません。

もっとも記年銘鏡をみていくと、後代の三角縁神獣鏡より内区の画像が大きく、紐や周囲の三角文・鋸歯紋帯などの比率が小さい傾向があります。逆に言えば、三角縁神獣鏡は日本での用途にあうように、徐々に画像が簡略化・象徴化して、周囲の紋様や紐を重視するような改造を加えていったことも予想しうるでしょう。

以前から申しているように、三角縁神獣鏡等が測量道具であったとの視点にしたがえば、当然、星位等を示す神獣像は小さく象徴化して、分度器のようなメモリを提供する三角文や鋸歯紋帯が大きく複雑化するのは当然の流れでしょう。


そこで、話を戻して、上記の複波紋帯に点が打ってある三角縁神獣鏡を樋口隆康氏の『三角縁神獣鏡総監』から抜き出すと下記のとおりになります。



複波紋帯 点付

太田南5号墳(安満宮山古墳)出土 斜縁方格規矩鏡 青龍三年銘 

25 三角縁獣帯二神四獣鏡 四国出土か
37 三角縁複波文帯四神二獣二炉神獣鏡 阿保親王塚
59 三角縁獣帯四神四獣鏡 石切神社付近
83 三角縁獣帯五神四獣鏡 潮崎山古墳 国分寺古墳(鳥取県倉吉市)出土鏡と同笵
109 三角縁複波文帯三神三獣鏡 沖ノ島沖津宮 


そして、これらの古墳を結んだものが図1,2となります。

こうみると、以前お知らせした記年銘鏡を結んだ方位ラインと、上記の古墳が接合していることがわかりますから、同系統の初期の三角縁神獣鏡の職人集団による展開があったと考えうるでしょう。

そのラインについて具体的には、まず
神原神社古墳(魏記年銘鏡出土)⇔国分寺古墳南部⇔森尾古墳(魏記年銘鏡出土)への東5度偏角のラインがあり、それと平行に沖ノ島(沖津宮)⇔潮崎山古墳⇔石切神社周辺への東5度偏角のラインが見えます。

また潮崎山古墳⇔森尾古墳⇔太田南5号墳⇔柳田布尾山古墳への東35度偏角のラインがあり、それと直交する形で、太田南5号墳⇔安満宮山古墳(魏記年銘鏡出土)⇔黒塚古墳への西60度偏角のラインがあります。

その太田南5号墳⇔安満宮山古墳⇔黒塚古墳ラインと直交するのが、安満宮山古墳⇔阿保親王塚古墳⇔奥3号墳への東30度偏角のラインです。

その他、安満宮山古墳⇔石切り神社周辺への南北ライン、潮崎山古墳⇔石切神社周辺への東西ラインも見て取れます。

あと、上記四国出土の三角縁獣帯二神四獣鏡については、ライン的に接合する奥古墳群あたりから出土していた可能性もあるのではないかと感じます。


このように、記年銘鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインに、上記の点付の複波紋帯を持つ古墳の位置が接合していることが明らかになります。

この点付の複波紋帯については、初期の職人はその意味を理解していたはずですが、後代、踏みかえし鏡等を日本で造っていく過程で点が失われていったのでしょう。

その点の意味としては、複波紋の△が、角度等を定めるのに不十分な形で歪んでいる場合などに、点を打つことで、メモリを見やすくしたことなどが考えうるでしょう。

なお、三角鋸歯紋に点を打つケースは、中国華南・雲南のドンソン文化圏の銅鼓や貯貝器の紋様に類似したものがあり、当時中国で銅鏡制作が盛んだった四川省等の職人がその彼らの得意とする神獣紋等を中国各地に広めていく中で、同時にもたらされていった紋様だったのではないでしょうか。

ただ、三角縁神獣鏡の記年銘鏡については、樋口氏が指摘するように、同じく記年銘を持つ画紋帯神獣鏡の紋様とも共通性があり、同じ職人集団が三角縁神獣鏡と画紋帯神獣鏡、斜縁方格規矩鏡のすべてを製造していたか、あるいは後2者を仕入れて、それをもとにしてあらたに三角縁神獣鏡を制作した可能性があるでしょう。

いずれにせよ、今回の複波紋帯のケースのように、三角縁神獣鏡の紋様にある特徴を見ていくことで、そのルーツをたどることができるのではないでしょうか。




日韓の方格規矩鏡 管理人 投稿日: 2022年12月05日 16:23:47 No.189 【返信】

先日お知らせした狗邪韓国と銅鏡と、記年銘を持つ三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡のとの関係についてですが、特に金海(狗邪韓国?)の大成洞古墳群と良洞里古墳群から方格規矩鏡が出土しており、その写真を調べてみました。

図1は、大成洞古墳群、良洞里古墳群、楽浪区域出土、武寧王陵出土、椿井大塚山古墳、太田南5号墳(安満宮山古墳と同型鏡)出土のの方格規矩鏡の比較図です。

ここで、大成洞古墳群(図は金海国立博物館の図録から引用。23号墓 逆L型方格規矩鏡)、良洞里古墳群出土鏡(尚方作十二支流雲紋縁方格規矩四神鏡 )については、こちらをご参照ください。良洞里古墳群出土・楽浪出土鏡の図も引用。(http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/iseki_Kimhae Changwon.html


武寧王陵出土鏡については、樋口氏の論文によると(樋口隆康「武寧王陵出土鏡と七子鏡」『史林』1972,55(4)https://images.app.goo.gl/8GFeBcciWX4CjtZ17 より。図も引用)、尚方(作)の銘文があり、漢鏡の踏み返し鏡と考えられており、もともとこの地(帯方郡)周辺にあったの方格規矩鏡を元に、5つの半肉刻の神像等を加えるなど隋唐時代の様式に近い変更を加えたものと考えうるようです。斜縁になっている点も重要です。最外の鋸歯紋や四葉座を消去したとみられることも指摘されてますが、その点も椿井大塚山古墳のそれとの比較で類似性を見て取れるでしょう。


こうみると、まず、朝鮮のものは、TVL紋様のL紋様が、いわゆる逆L字となっていることがわかります。


それに対して、日本の椿井大塚山古墳、太田南5号墳(安満宮山古墳と同型・青龍三年(235年)銘)出土鏡については、通常のL字紋となっていることに留意しておきましょう。


また、武寧王陵出土鏡、椿井大塚山古墳出土鏡は、太めで小型のL字紋が逆であること以外はよく似ています。

そして、楽浪区域出土鏡と、良洞里古墳群出土鏡が、その流雲紋縁等でほぼ同じで、これは平原方形周溝墓出土のそれとも同じであることは、先のサイトの比較からも明らかです。これらはすべて逆L字紋となっている点にも留意しておくべきでしょう。

なお、先日の上野氏の論文で指摘されていた良洞里441号墳出土の方格規矩鏡が、三国西晋鏡で九州糸島の東真方古墳のそれと同型であることについては、ちょっとしっかりした写真が見つからないのですが、ひとまず図2をご参照ください。TVL紋様の一部がサイズの関係で両略された小型鏡のようにみえます。倣製鏡ではないでしょうか。

そこで、記年銘をもつ太田南5号墳(安満宮山古墳)出土鏡については、椿井大塚山古墳のそれと全体的には似ており、ただTVL紋の太さや紋様の種類・配置にも相違がありますね。

中国含めて多数ある方格規矩鏡のうち、どれが記年銘鏡に近いのかを確認することで、三角縁神獣鏡の成立の謎に迫れるかもしれません。




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