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邪馬台国諸国の位置推定2 管理人 投稿日: 2022年11月09日 02:18:01 No.179 【返信】

先日、南西諸島の徳之島を邪馬台国とみなす説について紹介しましたが、その主な遺跡として面縄遺跡があり、そこから弥生時代の箱式石棺や女性人骨等が発見されていることがありました。

詳細はこちら参照。
https://4travel.jp/travelogue/10682866
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/400168


それで、『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条の後漢書引用記載に、下記の記載があることに気づきます。


後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王帥升至

この面上国王の帥升について、その面上(土?)国の記載と位置について諸説あるようです。

詳細はこちら参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/帥升


それで、先の徳之島の面縄(オモナワ)遺跡について考えてみると、これは「メンジョウ」とも読めるかもしれません。

面縄の周辺の字名を調べていくと、佐弁(サベン)、目手久(メテグ)、検福(ケンフク)、伊仙(イセン)、阿三(アサン)とあり、前2者はメンジョウの名残を思わせます。

メン、ベン、セン、サン、ケンといった語が元々あったのでしょう。


なお、面上国王の帥升の升については、邪馬台国の官職の2番目の弥馬升や、魏に遣わされた難升米につく「升」と共通し、この国が後代の邪馬台国の原型となる称号を持ち合わせていた可能性が高いでしょう。


そこで、以前推定した魏志倭人伝に記載されている諸国の位置について、再度考え直してみたのが図1,2,3です。

ここで、「其餘旁國遠絶」と記された21国について、先日の推定のように、最初の「次有斯馬國 次有巳百支國」、特に後者を三養基(ミヤキ郡)周辺として、これ以後順番に続く諸国の最後に出てくる奴国に、先の面上国と予想した面縄遺跡=徳之島を比定し、その南にあったとされる邪馬台国の対立国の狗奴国を、沖縄本島北部の国頭(クニガミ=コクズ)地域と仮定してみましょう。


すると、最後の奴(ド)国=徳之島とすると、徳之島は記紀に度感(ドカン)とも記されてますから、もともとはド+C音の島地だったことが予想できるでしょう。

もっとも徳之島の北西部は大和城・天城地域があり、邪馬台国とのつながりを思わせる領域です。

次にその徳之島の北に向かい、奄美大島をみていくと、西部に宇検(ウケン)、東部に龍郷(リュウゴウ)、宇宿(ウジュク)の字名が残り、これが次の烏奴(ウド)国だったかもしれません。ウ音で共通します。

また中央部には大和浜の字名が残ることも以前指摘したとおりです。そのそばに奄美(アマミ)がありますが、この構造は先の徳之島と同様で、その天城(アマギ)に対応する地名と言えるでしょう。

すると、次順の支惟(キユイ)國は、その奄美大島の東に隣接する喜界(キカイ)島と発音が近いことに気づきます。かつては喜駕島、喜海島とも記され、キカイが本来の音でしょう。

続いて、巴利(ハリ)國については、その北隣となる諏訪之瀬(スハノセ)島やその西隣の平(ヒラ)島とハ音で共通してきます。

次の躬臣(クウジン)國についても、その北に位置する口之島や口永良部島の口(クチ)音に対応しそうです。

次の邪馬(ヤマ)國は、北に向かい屋久(ヤク)島のヤ音と関係するでしょうか。その東隣に馬毛(マケ)島があり、隣の種子(タネ)島ともども熊毛(クマケ)郡ともされてましたから、ヤ+マの語音が周辺に残っていることになります。

次の鬼奴(キヌ・キド)國は、九州南部に上陸してすぐの肝付(キモツキ)あたりにキ音+ト音が残ってますね。霧島(キリシマ)あたりまでその領域だったのではないでしょうか。

次の為吾(イゴ)國ですが、その北西の伊佐(イサ)・出水(イデミズ)あたりのイ音がみえますが、ゴ音については、その南の鹿児(カゴ)島のゴあたりと関係しないでしょうか。

次の鬼(キ)国については、その鹿児島の南の阿多半島の喜入(キイリ)、日置(ヘキ)、ニニギの宮地の笠沙(カササ)あたりと関係づけれないでしょうか。

次の華奴蘇奴(カヌソヌ・カドソド)國ですが、次の呼邑(コユウ)國が、西都原古墳群のある児湯(コユ)郡周辺と見なしうることがあり、次の蘇奴(ソヌ・ソド)国が、その北の延岡の佐野(サノ)周辺と以前推定したことがあるので、その周辺域と考えうるでしょう。

もっとも、この蘇奴を、朝鮮半島の蘇塗(ソト)と同類の聖域とみなしうるならば、その周辺に祭祀を祀る場と天君にあたる祭祀王がいた可能性も考慮すべきでしょう。

それが次の對蘇(タイソ)國、つまり高千穂(タカチホ)となるかもしれません。その西北の高森も関係しそうです。

次の姐奴(シャヌ・シャド)國も、阿蘇方面へと北上して、波野(ハノ)、立野(タテノ)あたりとなるでしょうか。

次の不呼(フコ)國は、以前も予想したように有明湾沿いの宇土(ウド)・富合(フゴウ)周辺で境目遺跡があります。

次の好古都(クウクツ)國は、そのまま北上して菊池(キクチ)周辺とします。

次の彌奴(ミヌ)國は、その北部の美納(ミノ)山周辺に勢力を伸ばした水沼(ミヌマ)・三間(ミマ)君等の領域で、女山神籠石や八女、高良山周辺域でしょう。

次の都支(ツキ)國は、筑紫川周辺域とみて、竹野(タケノ)、あるいはその対岸の平塚川添遺跡周辺と見なしうるでしょう。

次の伊邪(イヤ)國は、その北東の飯塚(イイヅカ)、伊田(イタ)、伊川(イカワ)、京都(ミヤコ)といったイ音がつく領域を比定します。

次の巳百支(ミヒャクチ)國は、通説どおり三養基(ミヤキ)郡で、西方に向かい筑後川河口から吉野ケ里遺跡周辺とみなしうるでしょう。

最後の斯馬(シマ)國は、その西南の有明和沿いの杵島、鹿島、さらに南の島原方面の島(シマ)地を意味していたのかもしれません。

ここで、女王国=邪馬台国連合の北限に至り、その北に隣接して、最初に出てくる6国が見えてくるわけです。


ここで、この21国は邪馬台国内にある連合国と考えると、邪馬台国の北限までの距離は、那珂川沿いの奴国(岡本遺跡から倭奴国の金印が出土したあたり)からみて南に二千里前後となって方角も南で矛盾しないことになります。平塚川添遺跡あたりに政治的な中心地があったと考えるべきでしょう。

ただし、女王卑弥呼の住処は、そこから陸行1月、水行10日を南に進んだところだったのかもしれませんね。

そして、南に水行20日の投馬(ツマ)国は薩摩(サツマ)か日向あたりでしょうか。

つまり、先の徳之島が奴國だとすると、ここが「女王境界所盡」となるのでしょう。南の境界となりそうですね。

そして、これらの邪馬台国連合国家の間には、大和、山門、山戸といったヤマトの地名が残っており、そこか後代の皇室領の屯倉みたいに、直轄領だったのではないでしょうか。それでそれらの地名を結ぶ先日の方位ラインがみえてくるわけです。

そうすると、邪馬台国は巨大な九州から南西諸島、時代が下ると瀬戸内・畿内まで拡大する領域だったはずで、七万戸はいたでしょうし、これは朝鮮半島の馬韓等の連合国家の数万家の数え方に似てます。

その女王国連合の東に海を渡って千里にまた倭人の国があり、また南4千里に侏儒国等があったことになりますが、前者は九州全体からみての四国方面と考えるのが妥当でしょう。後者は八重山諸島あたりではないでしょうか。

そして、徳之島あたりを女王の居所と考えると、その位置は陳寿が言う会稽・東治の東となるわけで、冬でも野菜栽培ができる温暖な地との記載にも一致してきます。

もっとも、卑弥呼の擁立自体は、それまでの男王の闘争の打開策からなされたもので、

あと、倭王が使した伊聲耆(イセイキュウ)、掖邪拘(ヤクヤク)についても、前者は面縄遺跡そばの伊仙(イセン)を、後者は屋久(ヤク)島周辺の首長を想起させますね。

そして「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」となる卑弥呼の墓についてですが、先のサイトにある徳之島の古墳?あたりを調べる必要があるかもしれません。




山門・山戸ライン 管理人 投稿日: 2022年11月05日 01:12:23 No.177 【返信】

先日の山門の字名や弥生遺跡・神籠石・初期古墳を結んだ方位ラインについて、さらに山戸の字名も加えてみました。図1のとおりです。図2,3は拡大図。

まず図のように、姫路市の山戸4号墳(纒向型前方後円墳)を通過するラインが多いことに気づきますが、具体的には山戸4号墳⇔山門(宇部市)⇔山門町(北九州市)への東18度のラインがあることと、それと平行に布留遺跡⇔兎之山(伊予氷見)⇔女山神籠石への東18度偏角のラインがあることは先日も指摘したとおりです。

その山門町(北九州市)、女山神籠石(瀬高町山門)については、九州各地の山門関連の字名の測量起点であったろうことも先日お話したとおりですが、また図のように、吉野ケ里遺跡⇔女山神籠石⇔西都原古墳群への西55度偏角のラインがあることも、以前から指摘してきたところで、図のようにニニギの宮・笠狭崎⇔西都原古墳群⇔女山神籠石が直角三角形を構成しています。西都原古墳群もニニギの関連地名です。

さらに、その笠狭崎⇔西都原古墳群⇔黒塚古墳(大和)⇔山戸町(名古屋市)への東35度偏角のラインがあります。

その西都原古墳群については、西都原古墳群⇔山戸4号墳⇔分校マエ山古墳⇔柳田布尾山古墳(氷見市)への東45度偏角のラインがあり、これらはすべて纒向型前方後円墳を結ぶラインです。

このラインと直交するのが、図のように柳田布尾山古墳(氷見市)⇔富士山への西45度偏角のラインで、富士山は纒向型前方後円墳を結ぶラインの測量拠点であったろうことも先日お話したところです。

その富士山⇔伊勢内宮(南部)⇔西都原古墳群への東30度偏角のラインがありますが、その伊勢内宮に関しては図2のように、伊勢内宮⇔小山戸町(奈良市)⇔布留遺跡⇔山戸4号墳への西10度偏角のラインが見え、このラインと小山戸町(奈良市)⇔分校マエ山古墳への東80度偏角のラインとが直交して直角三角形を構成しています。

その他、山戸4号墳⇔山戸町(枚方市)への東西同緯度ラインもあります。


さらに九州方面に目を向けると、図3のように、先日も指摘した山門町(北九州市)⇔平塚川添遺跡⇔女山神籠石への東65度偏角のラインがあり、また山門町(北九州市)⇔下山門(福岡市)⇔伊都平原遺跡への東30度偏角のライン、伊都平原遺跡⇔女山神籠石への西55度偏角のラインとで直角三角形を構成していることもあります。

加えて、先日も指摘した西都原古墳群⇔山門野(長島町)への東西同緯度ライン、笠狭崎⇔山門野(長島町)⇔伊都平原方面への南北ラインもあります。


以上のように、山門・山戸・大和の字名はヤマトの語音で共通するのみならず、計画的に位置づけられていたことも明らかにしうるでしょう。

そして、そこに初期の前方後円墳である纒向型前方後円墳が密接に関係していたこともわかります。

45度、30度といった比較的シンプルな三角測量を繰り返しながら、全国拡大していったように見えますが、奈良・大和方面へと入っていくのが、、布留遺跡、黒塚古墳、あるいは纒向遺跡の年代と考えるべきで、その年代がいつ頃となるのかが課題ですね。

あと、柳田布尾山古墳のある氷見市や、伊予氷見周辺にある兎之山付近をラインが通過することからみても、その氷見と卑弥呼のヒミとが関係するかどうかが、先日の弓張月さんのご指摘以来の課題でもあります。

おそらくは、このヤマトに関する字名と邪馬台国領域とは一致してくるはずですが、その拡大時期と、拡大前の領域が九州ないったのか、奈良にあったのかでも、論議の対象となるべきでしょう。

なお、奈良東部の小山戸町には、都祁山口神社があり、神武天皇の皇子神八井耳命の御孫である都祁直が闘鶏(つげ)国造となり、小山戸に居住し氏神を祀ったのを起源とされてますね。

神八井耳命は東征した神武天皇の息子で日向系の集団とみられ、その耳(ミミ)は、投馬国(日向・ツマ方面?)の官職・弥弥(ミミ)に対応するとの見方もあります。

だから、これらのラインに日向のニニギに関わる西都原古墳群がみえてきて、そのライン上にこの小山戸の字名なりが見えてくることは偶然ではないと考えうるわけです。

神武東征(=オオヒコの遠征)の伝承とも関係しそうですが、それ以前に奈良にいた物部氏・ニギハヤヒ系集団との兼ね合いについても考慮すべきでしょう。

そして、纒向型前方後円墳、それにかかわるであろうヤマトの字名との関わりですね。

この山門・山戸の字名のある地域伝承が、物部・ニギハヤヒ信仰と関わるのか、あるいは神武東征やオオヒコのそれと関わるのかについても、調べていくことで、その年代を明らかにしうるかもしれません。




山門野の古墳状地形 管理人 投稿日: 2022年11月02日 00:52:33 No.176 【返信】

先日の山門の字名を結んだ方位ライン(図3参照)に関連して、そのうち、雷山神籠石⇔守山大塚古墳⇔山門野(長島町)への南北ラインについて、その守山大塚古墳は4世紀前半代と長崎県では最も古い古墳であり、また山門野のうち、丸岡鼻という半島の先端付近に、150m前後の方墳状地形が確認できることを指摘したとおりです。

この山門野はまた西都原古墳群の真西にもあたり、その南にはニニギの宮ともされた笠狭崎に至ることからみても、西都原古墳群とともにニニギに関わる拠点だった可能性がありそうです。

その古墳状地形の標高・断面図と航空写真が図1,2となりますが、こうみると、図1のように変形した円墳状の地形がみてとれます。

サイズは150m~200m、正確には前方後円墳とみなすと、後円部が150m前後、前方部が100m前後ではないでしょうか。 高さが40~50mとなり、東方にある男狭穂塚が墳丘長176m(推定復元)高さ19.1m(円丘部)ですから、サイズ的には近いことになるでしょう。

おそらくはこの男狭穂塚は、纒向型前方後円墳の一種と考えるべきでしょうから、この山門野の古墳状地形も同時代の構造物だった可能性があるでしょう。

偶然にしてはいい位置にあり、サイズ面からみても、この古墳状地形については、人工物か否かについて確かめておきたいところですね。

あと、南対岸の神崎鼻にも同様なサイズの古墳状地形があります。




山門・大和ライン 管理人 投稿日: 2022年10月29日 16:11:56 No.175 【返信】

以前九州各地の山門等のヤマト(≒邪馬台国?)に関する地名を結ぶ方位ラインを作成したことがありますが、今回再考しなおしてみたところ、いくらか新たなことがわかったのでお知らせいたします。

まず図1は九州各地の山門の関連地名と、弥生末期の遺跡、神籠石、古墳群を結んだもので、図2はその拡大図です。

図1のように、大きな四方区画として、平原遺跡・雷山神籠石⇔守山大塚古墳⇔山門野(長島町)⇔西都原古墳群⇒宇佐高校庭遺跡⇔大野城(烏奴国?)⇔岡本遺跡(奴国?)⇔平原遺跡(伊都国?)へのラインがあります。

また、図2の拡大図のように、平原遺跡⇔岡本遺跡⇔大野城⇔宇佐高校庭遺跡への東西ラインと、それに直交する宇美神社⇔基イ城⇔女山神籠石への南北ラインがあることは、以前も指摘したとおりです。

そして平原遺跡⇔女山神籠石⇔八女津媛神社平塚川添遺跡⇔宇美神社(不弥国?)へと至る西60度偏角のラインを基軸として平行四辺形領域があることにも気づきます。

あと、平塚川添遺跡⇔宇木汲田遺跡への東西ライン、おつぼ山神籠石⇔女山神籠石⇔八女津媛神社への東西ラインにも注目しておくべきでしょう。

そこでまた本題の山門の字名に注目していくと、まず北九州市小倉北区の山門町を起点として、複数のラインがのびていることが判ります。

まず①山門町(北九州市)⇔下山門(福岡市)⇔平原遺跡⇔宇木汲田遺跡への東30度偏角のラインがあり、同じく②山門町(北九州市)⇔おつぼ山神籠石への東45度偏角のライン、同じく③山門町(北九州市)⇔平塚川添遺跡⇔女山神籠石への東68度偏角のラインも確認できます。

またライン①に直交する形で、平原遺跡⇔っ吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔女山神籠石⇔西都原古墳群への西60度偏角のラインがあり、またライン③に直交する形で、平原遺跡⇔基イ城⇔平塚川添遺跡への西22度偏角のラインが見えます。

そして、ライン②と前述の平原遺跡⇔女山神籠石ライン、宇木汲田遺跡⇔平塚川添遺跡ラインとは脊振町周辺の一点で交差していることもわかります。

なお、女山神籠石のやや西側に山門(瀬高町)の字名があり、また平塚川添遺跡周辺を多くのラインが通過していることからみても、この両者が重要な拠点であったことが伺えるでしょう。

そして本州に目を向けると、図3のようになりますが、まず先の山門町(北九州市)⇔山門(宇部市)⇔山戸4号墳(纒向型前方後円墳)への東18度偏角のラインがあり、それに平行する形で、女山神籠石⇔兎之山(愛媛)⇔石上神宮・布留遺跡⇔富士山への東18度偏角のラインが見えます。兎之山について先日の分析で古墳状地形(高地性集落?)らしき痕跡があることを指摘しましたね。

また、おつぼ山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔山戸4号墳への東22度偏角のラインにも注目すべきでしょう。

富士山についても、先日の纒向型前方後円墳を結ぶライン分析でその測量拠点となっていたことをあきらかにしたとおりです。

ここで平塚川添遺跡とヤマトの字名、纒向型前方後円墳とが接合してくる点にも留意しておくべくでしょう。

総じて、平塚川添遺跡と女山神籠石、おつぼ山神籠石、山門町(北九州市)あたりが初期のこれらのラインの重要な測量拠点だったことがわかりますが、その東方展開においては布留遺跡あたりの年代が指標になってくるのではないでしょうか。

女山神籠石の西方には、山門の字名とともに、蜘蛛塚古墳もあり、ここの女王塚伝承なども考慮しておくべきでしょう。この古墳については下記サイト等もご参照ください。

https://ameblo.jp/nobuyuki1010/entry-12635735637.html
https://lunabura.exblog.jp/16895784/

あと、先の雷山神籠石⇔守山大塚古墳⇔山門野(長島町)への南北ラインについて、その守山大塚古墳は4世紀前半代と長崎県では最も古い古墳であり、また山門野のうち、丸岡鼻という半島の先端付近に、150m前後の方墳状地形が確認できることにも注目したいところです。この古墳状地形については、また後日改めて分析したいと思います。




平塚川添遺跡⇔八堂山遺跡⇔萩原1号墳ライン 管理人 投稿日: 2022年10月24日 01:20:47 No.172 【返信】

先日お知らせした愛媛県の高地性集落の八堂山遺跡に関係して、図のように平塚川添遺跡⇔八堂山遺跡⇔萩原1号墳があることがわかりましたのでお知らせします。

東12度偏角のラインとなりますが、萩原1号墳は纒向型前方後円墳となり、弥生時代の平塚川添遺跡、弥生時代末期の高地性集落と接合していることからみて、邪馬台国時代のラインの可能性が高いでしょう。

萩原1号墳についてはこちら参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/萩原墳墓群


この八堂山遺跡から西条・氷見あたりが、九州と畿内とを結ぶ上で重要な拠点であったことは間違いないでしょう。




四国邪馬台国説2 管理人 投稿日: 2022年10月21日 01:45:45 No.170 【返信】

先日、分析した四国と能登半島の氷見の字名と卑弥呼の関係について再考しはじめています。

以前図1のように、全国の纒向型前方後円墳や初期前方後円墳を結ぶ方位ラインを紹介しましたが、その中に氷見市の柳田布尾山古墳⇔森将軍塚古墳⇔浅間山古墳へのラインともかかわっており、その延長線上に、息栖神社が見えてくるがありましたね。

それで、四国の氷見町南部にある兎之山付近について注目すると、図2のように、女山神籠石⇔兎之山⇔布留遺跡(石上神宮外苑公園の古墳状地形)⇔富士山⇔神栖神社への東18度偏角のラインが明らかになります。

したがって、二つの氷見の字名は、纒向型前方後円墳等の初期前方後円墳、神籠石、布留遺跡あたりの年代と関係する年代に存在していた可能性があるでしょう。

富士山あたりを測量基準としていたように見受けられますね。

仮に、以前弓張月さんのご指摘にあったように、卑弥呼と氷見が関係するならば、卑弥呼の墓もそのあたりにありそうですが、図3のように、兎之山周辺は高地性集落のような形状をしており、その周囲を川が堀のようにして巡っていたようにも見えます。

兎之山の上には、松岡神社があり、国常立尊(くにのとこたちのみこと)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冊尊(いざなみのみこと)金刀比羅神社(大物主神)八幡社(神功皇后、仲哀天皇、応神天皇)厳島神社(市杵島姫神)荒神社(素盞鳴尊)が祀られているようです。詳細は下記のサイトをご参照ください。

http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=7292


また、兎之山北東に、伊曽乃神社があり、天照大神の荒魂と武国凝別命を祀っていることも注目しておくべきでしょう。コノハナサクヤヒメなども祀られているようですが、女神の伝承があることにも留意しておくべきでしょう。下記のとおり。


地元の伝説によれば、その昔、伊曽乃の女神と石鎚山の男神が加茂川の畔で出会った。二人は恋仲となり、女神は結婚を迫った。しかし男神は、石鎚山で修行を続けなければならないために結婚はできないと断った。しかも石鎚山上は女人禁制のため、同行は許されない。「修行を終えれば結婚するのでそれまで待ってほしい。山頂から三つの大石を投げるので、真ん中の石が落ちた所に館を造って待つように」と言い残して山へ登った。間もなく、石鎚山から三つの石が飛んできたので、真ん中の石が落ちたところに営まれたのが伊曽乃神社だという。現在、伊曽乃神社の一の鳥居の脇には、石鎚の神の投げ石と伝えられる石が残っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊曽乃神社

その石鎚山は、兎之山の南部に位置しますが、そこから三方向に石を投げた真ん中がこの社地となるわけですね。

アマテラス女神の荒魂を祀るというのは、卑弥呼や台与といった女王との関係も想起させますね。

あと、その北東に、先日の沖縄から延びるラインでも見えてくる八堂山の高地性集落があり、これが神籠石や山城やグスクへのラインと関係することもありました。

そういう意味でも、この四国の氷見から八堂山にかけての地が、弥生時代末期から古墳時代初期において重要な拠点だった可能性が高いでしょう。この辺、もう少し調べてみたいところです。




邪馬台国徳之島説 管理人 投稿日: 2022年10月14日 01:38:51 No.168 【返信】

童子さん、お知らせありがとうございます。琉球弁気になるところですね・・・。

先日紹介した邪馬台国徳之島説について、再考しはじめています。
主な論拠はこちらをご参照ください。

https://koiy.hatenablog.com/entry/2014/08/26/202446
https://koiy.hatenablog.com/entry/2015/06/18/113719

そこに上面縄姫按司墓古墳という古墳があるようです。
https://ameblo.jp/is6689/entry-12118429750.html
https://plaza.rakuten.co.jp/momo009/diary/201309190000/


特に面縄第1貝塚から弥生時代の箱式石棺と女性人骨が出土していることがあります。こちら参照。

https://note.com/gosanjin/n/n240a79347e46
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/400168


そこで、この面縄貝塚周辺に関するラインを考えてみたのが図1です。

ここで南の起点としては、沖縄の久高島の聖地・フボ―御獄とし、そこから東60度偏角で伸ばしていくと下記のようになります。

フボ―御獄⇔面縄貝塚西部⇔高千穂神社(大和村・奄美大島)⇔八堂山(高地性集落)⇔鬼ノ城

なお、そのフボ―御嶽については、沖縄最重要の聖地とされており、こちらご参照ください。

http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/3326/


大和村を通過している点で、邪馬台国との関わりを考えることは先日の分析のとおりです。

そして八堂山の弥生時代末期の高地性集落で、また吉備の鬼ノ城は弥生後期の山城の名残でしょう。

この東60度ラインは、沖縄国頭方面や種子島なども通過しており、重要な航路だった可能性がありますね。

その上に大和の字名がみえることもあり、徳之島の箱式石棺と九州北部の箱式石棺との関係も強いでしょうし、邪馬台国時代までこのライン上の拠点が意識されていた可能性は高いと思います。

あとは、卑弥呼との関連ですね。もう少し迫れないか・・・。




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