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狗邪韓国と三角縁神獣鏡 管理人 投稿日: 2022年11月30日 01:29:39 No.187 【返信】

昨日、三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡の記年銘鏡の出土古墳を結ぶ方位ライン(図1参照)が、狗邪韓国と推定されている金海市の首露王陵周辺を起点としていることを指摘し、そのことからこの周辺に三角縁神獣鏡等の原型となる鏡が出土する可能性を指摘したことがありました。

そこで、金海周辺から出土した銅鏡を調べはじめているのですが、特に金海市の大成洞古墳群や良洞里古墳群、金海西方の昌原三東洞18号甕棺墓から銅鏡が出土していることがわかりました。特に日本の記年銘鏡との関係を指摘している点が重要です。

詳細はこちらの報告書(上野祥史「朝鮮半島南部の鏡と倭韓の交渉」『国立歴史民俗博物館研究報告』第217集2019年9月号 https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwi-ztiWs9P7AhVLQd4KHZ66BdEQFnoECA4QAQ&url=https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2491&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&usg=AOvVaw3Dgi0BcAysPJd4AjEfbekJ)をご参照ください。

この報告書では下記のように指摘しています。

「第1期の鏡  4 世紀の遺構から出土した鏡には,慶南金海大成洞古墳群や同良洞里古墳群,昌原三東洞甕棺墓の出土鏡が該当する。3 世紀の遺構から出土した資料はない。
大成洞古墳群では,23 号墳と70 号墳で鏡を副葬しており,2 号墳でも盗掘坑から鏡片が出土している[大成洞古墳群博物館2015]。23 号墳出土鏡(図1-1)は,紋様構成や個々の図像表現が漢の方格規矩四神鏡と共通するが,鈕座の12 乳から三国西晋鏡の可能性を指摘ができる鏡である。70号墳出土鏡(図1-3)は,漢鏡の内行花文鏡の鏡片であり,2 号墳出土鏡(図1-4・5)は,いずれも浮彫式獣帯鏡片である。2 号墳出土鏡の一つは漢鏡であるが,いま一つは図像の表現が大きく,漢鏡やそれを模倣した古墳時代倭鏡に類例がない,位置づけの難しい鏡である。鏡片は,弥生時代後期に盛行した鏡の存在形態である(2)。大成洞古墳群では倭系文物や中国系文物との共伴が顕著であり,鏡の副葬古墳では倭系文物が共伴しており,70 号墳では西晋系の金銅装帯金具などが共伴した。

良洞里441 号墳では,三国西晋鏡の模倣方格規矩鏡が出土している(図1-2)。方格とT 字形のみの規矩表現をもつ退化型式である。魏の紀年銘方格規矩鏡から型式変遷を追うことが可能な鏡であり,形態的には三国西晋鏡の特徴を備える。しかし,中国での出土がなく,日本列島での出土が集中するため,中国鏡とすることに懐疑的な見解もある。良洞里441 号墳出土鏡は,福岡県東真方1号墳出土鏡と同型鏡であることでも注目されている。良洞里古墳群では数多くの倭系文物を保有しているが,441 号墳での共伴はみえない。

昌原三東洞18 号甕棺墓では,内行花文鏡系倭鏡(3)が出土した(図1-6)。六花内行花紋を特徴とする古墳時代倭鏡の内行花紋鏡であり,古墳時代前期に製作した倭鏡である。同墓には倭系文物がみえないが,2 号石棺墓では銅鏃と共伴している。
4 世紀後半までの時期に朝鮮半島南部が保有した鏡は,三国西晋鏡と,弥生時代の鏡(漢鏡片)と古墳時代倭鏡(第1 期倭鏡)の3 種であった。金海と昌原という,いずれも東南部沿岸地域からの出土であることを特徴としており,倭系文物を保有した集団が鏡を保有していた傾向がみえる。」


ここで、注目すべきは、良洞里441号墳出土鏡と東真方1号墳出土鏡と同型鏡と考えられていることでしょう。

この東真方1号墳に関しては、図1で楽浪土城⇔帯方郡(ソウル中心西部)⇔首露王陵西部⇔一貴山銚子塚古墳(九州での三角縁神獣鏡を最大数8枚出土)への西60度偏角のライン上に見えてくる一貴山銚子塚古墳のすぐ東2㎞地点に、この東真方1号墳が位置していることがあります。

この一貴山銚子塚古墳を起点として、多くの記年銘鏡等を出土した古墳を結ぶ方位ラインが仕上がっていったことは、先日掲載した図2のラインからもあきらかです。

おそらくは、その東真方1号墳の銅鏡も、この一貴山銚子塚古墳から分配されたもののひとつではないでしょうか。

なお、その東真方1号墳についての報告書はこちらをご参照ください。
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjWwIncuNP7AhVgh1YBHb6BCZQQFnoECDcQAQ&url=https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/40/40832/90662_1_%E5%9B%BD%E9%81%93202%E5%8F%B7%E4%BB%8A%E5%AE%BF%E9%81%93%E8%B7%AF%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf&usg=AOvVaw2Ff4L-sfW4B0PmTbzU3dMh


また金海市の大成洞古墳群は首露王陵の西に400m地点にあり、また良洞里古墳群については、首露王陵から西6kmの地点にありますが、その楽浪⇔一貴山銚子塚古墳へのラインは図3のように、その首露王陵から西方3km地点を通過しているので、概ねこの領域に三角縁神獣鏡の原型となる銅鏡が出土すると考えるとき、実際そのとおりのものが出土していると考えてよいでしょう。

その良洞里古墳群の出土遺物と位置についてはこちらのサイトをご参照ください。
http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/iseki_Kimhae Changwon.html#162

同じく大成洞古墳群の出土遺物と位置はこちら参照。
http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/iseki_Kimhae Changwon.html


また、先の報告書で、その良洞里441 号墳の三国西晋鏡の模倣方格規矩鏡が出土し、その方格とT 字形のみの規矩表現をもつ退化型式であること、魏の紀年銘方格規矩鏡から型式変遷を追うことが可能な鏡であり,形態的には三国西晋鏡の特徴を備えるとの指摘について、その魏の紀年銘方格規矩鏡とは、大田南5号古墳と安満宮山古墳から出土した青龍三年(235年)銘の方格規矩四神鏡となり、これらの古墳は図2のようなラインで接合していることがありましたね。この青龍3年鏡の詳細についてはこちらのサイト(https://www.j-real.com/ta-san/yamatai/yamao.html)をご参照ください。

ここで、問題となってくるのは、漢の時代ではなく、その後の退化型の三国西晋時代のもので、かつ日本出土の魏の記年銘鏡の発展形と位置付けている点です。

つまり、三国西晋(~313年)ごろに、この良洞里441号墳が造営されたはずで、ここから、さらに倭へと魏の記年銘鏡(コピー鏡?)が配布されていったのか、あるいは倭からここに運ばれてきたのか?との識別が課題となってきます。

仮に前者だとすれば、日本における三角縁神獣鏡等の記年銘鏡は三国西晋時代以降に金海周辺を経由して分配されたものとなるでしょうし、後者であれば、なお卑弥呼の時代の鏡にそれらが由来していた可能性も出てくるでしょう。

いずれにせよ、方位ライン面からいけば、狗邪韓国のこの金海周辺に、後に三角縁神獣鏡を分配した集団の本拠があったと考えるのが自然であり、この地に三角縁神獣鏡の原型となる鏡が出土するのは至極当然な結論だと言えるでしょうから、この金海の銅鏡の変遷過程をさらに細かく行っていくことで、その是非も自ずから明らかになっていくのではないかと感じます。

またその辺について、さらに調べを進めていきたいところです。




三角縁・画紋帯神獣(記年銘)鏡方位ライン 2 管理人 投稿日: 2022年11月28日 02:04:11 No.186 【返信】

昨日お知らせした三角縁・画紋帯神獣(記年銘)鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインについてですが、さらに精度を上げてライン分析をしてみたところ図1のようなラインが浮かび上がってきました。図2は森尾古墳周辺図

まず、先日から指摘してきた帯方郡方面から狗邪韓国を経て、九州最大数8枚の三角縁神獣鏡を出土した一貴山銚子塚古墳への西60度偏角のラインについてですが、図のように楽浪土城(楽浪郡治か)から、漢城西部、特にソウル市の漢江北岸の国立中央博物館周辺を経て、金海市の首露王陵(金官伽耶・狗邪韓国)を経て、一貴山銚子塚へと至るラインがあきらかになります。

また、その首露王陵⇔森尾古墳(魏・正始元年(240)銘三角縁神獣鏡出土)⇔鳥居原狐塚古墳(呉・赤烏元年(238年)銘画紋帯神獣鏡出土)へと至る東西(東1度偏角)のラインがあることにも気づきました。

これらの方位ラインの精度はかなり高いので、偶然とは考えにくく、特に首露王陵のあった狗邪韓国あたりに、これらの銅鏡を日本へもたらした集団の拠点があったことは間違いないでしょう。

この狗邪韓国と推定されている首露王陵のある金海付近からは、鉄テイ等の遺物が多数でており、弁韓伝にも記されたように漢代から周辺諸国に金属を輸出していたと思われ、銅鏡に関する金属精錬技術も持ち合わせていた可能性があるでしょう。

そこに、楽浪郡、帯方郡経由で、魏や呉からの記年銘鏡などがもたらされたり、一部は複製、あるいは製造などをして、それらが今回分析してきた三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡の記年銘鏡となったことも考慮すべきかもしれません。

また、この金官伽耶からその西部の晋州に秦韓があり、そこから秦氏が渡来したこと、その首長が蘇伐(ソボル)であり、秦氏を支配下に入れていた蘇我氏の故地であった可能性も以前から指摘してきたところですが、昨晩してきたした秦氏と関わるであろう赤染氏の拠点が、今回の記年銘鏡ラインと間接的に接合してくることも、その精銅精錬技術の流れから考えていくと理解しやすくなるかもしれませんね。

そして、魏と呉の記年銘鏡を出土する古墳がこの同じライン上に見えてくることも、魏や呉と交易をおこなっていた狗邪韓国という存在を挟み込むことによって、その原因を解明する手はずがあきらかになってくるかもしれません。

なお、ライン的に鳥居原狐塚古墳の位置について考えていくと、もう少し南西で、後代になってその記年銘鏡が保管された一宮浅間神社あたりのほうが位置的には実はぴったりくることもあります。

主祭神が木花咲耶姫命 、相殿神が瓊瓊杵命、彦火火出見命となり、もともとは九州の日向系集団との関わりが予想しうるところですが、先の首露王の神話伝承に天から亀旨峰に6つの卵が下ったことによって王朝が成立していく話と、日向国、高千穂(クジフル岳)に天孫が下る構造との間には、相関性があることは指摘されているとおりで、その日向系集団の起源がこのライン上にあることも考えうるでしょう。

帯方郡治については、ソウル周辺との見方が優勢のようですが、おそらくは、ライン面からみても、この楽浪土城と、首露王陵との間にあるはずで、そういう意味でも図3のようにソウルの国立中央博物館の西部あたりを発掘すれば何か出てくる可能性があると思いますね。

そしてこのライン上の拠点周囲から、三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡やその原型となる鏡が出土してくれば、それはそれで面白いことになると思います。




三角縁・画紋帯神獣(記年銘)鏡方位ライン 管理人 投稿日: 2022年11月25日 18:18:26 No.185 【返信】

先日の魏の年号銘をもつ三角縁神獣鏡(および斜縁神獣鏡・盤龍鏡・方格規矩鏡)を出土した古墳を結ぶ方位ラインにつづいて、以前も分析した画紋帯神獣鏡、特に呉の年号銘をもつ鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインと、先の三角縁のラインとの関係について考えています。特に今回は後述する理由により帯方郡等朝鮮方面も視野に入れてラインを作成してみました。

その両者を出土した古墳を結んだものが図1のラインとなります。図2は畿内方面の拡大図です。

こうみると、上記の三角縁のラインと、画紋帯のラインとが、偶然ではない接合をしていることがわかります。

具体的には、まず鳥居原狐塚古墳(呉・赤烏元年(238年)銘画紋帯神獣鏡)⇔安満宮山古墳(魏・青龍三年(235年)銘方格規矩四神鏡)⇔安倉高塚古墳(呉・赤烏七年(244年)銘画紋帯神獣鏡)⇔吉野ヶ里方面へと向かう東20度偏角のラインがあります。

また、図2のように、太田南古墳群(太田南5号古墳(青龍三年(235年)銘方格規矩四神鏡)、2号墳から画紋帯神獣鏡)⇔安満宮山古墳⇔桜井茶臼山古墳への西60度偏角のライン、同じく太田南古墳群⇔安倉高塚古墳⇔和泉黄金塚古墳(魏・景初三年(239年)銘画文帯同向式神獣鏡)への西75度偏角のラインもみえます。

そして、その太田南古墳群⇔安満宮山古墳⇔桜井茶臼山古墳ラインと平行に伸びるのが、森尾古墳(正始元年(240年)銘三角縁神獣鏡)⇔安倉高塚古墳への西60度偏角のラインとなります。

このように、畿内周辺で魏と呉の年号銘を持つ鏡を出土する古墳が接合していることがある点にまず留意しておくべきでしょう。

さらに視野を広げて図1をみていくと、先日も指摘した一貴山銚子塚古墳(九州での三角縁最大数出土古墳)⇔太田南古墳群北部⇔会津大塚山古墳への東30度偏角のラインがありますが、またその一貴山銚子塚古墳⇔奥三号墳⇔桜井茶臼山古墳⇔新宝院山2号墳への東10度偏角のラインがあることもわかります。

この桜井茶臼山古墳からは、蟹沢古墳出土の魏・正始元年(240年)銘鏡と同形鏡が出土してますが、また図2のように、この桜井茶臼山古墳は先の呉年号銘鏡を出土した和泉黄金塚古墳と同緯度の東西ラインで接合していることもわかります。

そして、新宝院山2号墳⇔鳥居原狐塚古墳西部⇔蟹沢古墳⇔会津大塚山古墳への東65度偏角のラインもあり、その蟹沢古墳からは複数の魏年号銘鏡を出土した古墳へと延びるラインがあることは、先日指摘したとおりです。

そこで、魏の帯方郡(漢城)を視野に入れてみると、図のように、帯方郡(漢城)⇔会津大塚山古墳が同緯度の東西ラインとなり、同じく帯方郡(漢城)⇔太田南古墳群⇔新宝院山2号墳への西20度偏角のラインもみてとれます。

加えて、帯方郡(漢城)⇔狗邪韓国⇔一貴山銚子塚古墳⇔への西60度偏角のラインがあり、その延長線上に吉野ヶ里遺跡周辺がみえてきます。

したがって、帯方郡もしくは狗邪韓国がこれらの方位ライン、つまり銅鏡制作集団の展開において、ひとつの起点となる地域だった可能性がみえてくるでしょう。

以前、楽浪遺民(阿残)とその末裔で狗邪韓国へと南下した阿を称号とする集団や、それと関係するであろう青羊を称号とする銅鏡制作集団が、三角縁神獣鏡等の製造に関わっていたことを指摘したことがありますが、その集団がある時期に、日本へと渡来してこれらの鏡を残したのではないでしょうか。

特に年号銘が残る魏の青龍3年(235年)~魏・正始元年(240年)~呉・赤烏七年(244年)の間に、彼らはどこかでそれらの鏡を仕入れるか、あるいはその製造そのものに携わっていて、その一部をさらに複製しながら、日本各地の上記の古墳へと分配したのかもしれません。

彼らの主が魏と呉の双方から鏡を賜与あるいは製造依頼をされていたとすると、邪馬台国内部以外にも、朝鮮の帯方郡や狗邪韓国での製造も考慮すべきでしょう。238年まで楽浪・帯方郡を支配していた公孫氏との関連も出てくるかもしれません。

そこで、安満宮山古墳について注目していくと、図3のように、その公孫氏最後の王・公孫淵を祖先とする赤染氏の本拠の常世岐姫神社の真北にこの安満宮山古墳があることに気づきます。

この赤染氏の末裔の常世連ですが、新撰姓氏録では諸蕃として渡来系とみられており、河内国大県郡に本拠があったようですが、その赤染の技術については、茜染と見なす見方とは別に、豊前国田河郡香春郷の赤染氏のように精銅技術と関わる銅の赤に由来するとの見方もあるようです。こちらのサイトを参照ください。

https://tytsmed.wordpress.com/2017/06/12/赤染氏と置始氏/


上記のサイトでは、その畿内の赤染氏と豊前の赤染氏との間に何らかの関係があることは認めつつ、後者が豊前の秦氏とも関係することを指摘してますね。

ここで、秦氏は精銅精錬技術でよく知られていた渡来系集団ですが、その系譜をたどると、公孫氏にも関係してくることは以前お話したとおりです。

その赤染氏の系譜をこちらのサイト(http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-c-kouson-akazome.html)からみていくと
、公孫淵の子孫の脩に出自があり、その末裔の公孫比善那(538)(僧侶か?)の息子の)眞高が赤染造となったようです。

この系譜には、赤染氏の中でも複数分岐した系譜があることがわかりますが、具体的には先の眞高の子が日向で九州に関わる名をもっており、その子の徳足から4氏に分岐し、そのうち3氏族はおそらくは畿内に、黒麻呂以下の1氏族は、大隅介、筑後介、豊前介、大隅守など、九州にいつづけたこともわかります。

したがって、この赤染氏の赤染めの起源は、豊前等の銅の赤に由来していた可能性が高く、その精銅職人が畿内へと移動した際に、同族がすんでいたであろう安満宮山古墳の真南の地に、先の常世岐姫神を祀ったのではないでしょうか。


欽明天皇の時代に秦氏が現れはじめるのと同時に、この赤染氏の祖先も渡来してきたようにみえますが、その渡来前から日本各地に同族が展開していた可能性があることも、以前お話したとおりです。かれらの本拠は秦韓であり、狗邪韓国にも近い地域だったはずで、その大元は楽浪遺民と考えてきた経緯があります。

もっとも、安満宮山古墳については、6世紀後半から7世紀にかけて造られたと考えられる大規模な群集墳であり、秦氏等の渡来系集団の群衆墳であった可能性が高いでしょう。

その墳形は長方形で、規模は東西18メートル、南北21メートルと推定され、埋葬施設はコウヤマキ製の割竹形木棺の直葬、青龍三年の紀年鏡などの副葬品が出土したので、3世紀後半の築造とみなされているようですが、確かに割竹形木棺はその時代のものでしょうから、かなり古い可能性があり、しかし、6世紀ごろに、その古い集団と縁があった上記の渡来系集団が移住してきたことにより、このような出土状況になったのではないかと感じます。

したがって、魏と呉の年号銘を持つ三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡が同じ方位ライン上にみてくる背景には、そのような精銅精錬技術者の移住と渡来があるはずで、その集団が年号銘鏡を朝鮮方面からもってきて、その一部を日本で複製したのか、あるいはそれらはやはり卑弥呼の時代に魏が賜った銅鏡100枚の一つだったのか?について、上記のことを考慮しつつ慎重に識別をしていく必要があるでしょう。




三角縁神獣鏡と邪馬台国3 管理人 投稿日: 2022年11月19日 00:32:14 No.184 【返信】

昨晩お知らせした舶載の三角縁神獣鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインですが、昨晩とりあげた三角縁神獣鏡の魏の記年銘鏡を出土した古墳とは別に、三角縁神獣鏡ではない魏の記年銘鏡を出土した古墳もラインに加えながら、精度の高いラインのみを残したのが図1です。図2,3はその拡大図。

ここでまず新たに加えたのは、黒塚古墳⇔安満宮山古墳(青龍三年(235年)銘方格規矩四神鏡)⇔太田南5号古墳(青龍三年(235年)銘方格規矩四神鏡)の西60度偏角のラインがあります。

ここで、2つの古墳から同じ種類の方格規矩四神鏡が見えてくるわけですが、この鏡については三角縁神獣鏡に類似した三角鋸歯紋を規矩紋様の周囲に巡らせている点で、三角縁神獣鏡の原型とでもいうべき鏡であった可能性を示しています。

同じくその安満宮山古墳から出土した「陳是作」銘平縁同向式神獣鏡も、プレ三角縁神獣鏡とでもいうべきで、きわめて三角縁神獣鏡に近い紋様、構造と言えるでしょう。そこに同じく出土した三角縁四神四獣鏡の存在も考慮しつつ、その造営年代を推定すべきかもしれません。

その安満宮山古墳の出土銅鏡の写真はこちらから見ることができます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/安満宮山古墳


それで、その年号ですが、青龍3年(235年)と卑弥呼が魏に使いを始めておくる景初2年(238年)より古いことが重要で、卑弥呼が使いを送る以前から、おそらくは後に三角縁神獣鏡を用いた集団が魏との交流をしていた可能性が見えてきます。プレ三角縁神獣鏡を235年時点で与えられており、それをさらに改良した銅鏡としての三角縁神獣鏡を景初3年(239年)正始元年(240年)もしくは景初4年(240年)に与えられたのかもしれません。

同じく黒塚を起点としたラインとしては、昨晩も指摘したそのラインの西側へと延びる黒塚古墳⇔広峯15号墳(景初四年(240年)斜縁盤龍鏡)⇔森尾古墳(正始元年(240年)銘三角縁神獣鏡)への西50度偏角のラインがあります。

その斜縁盤龍鏡も三角縁神獣鏡に近い形状の鏡と言えるでしょう。年代は双方240年ですが、片方は景初四年と存在しない年号となっています。

先のラインとともに、同じ年号の銅鏡を出土していることは偶然ではない可能性があるでしょう。

そして、これらのラインは黒塚古墳を起点としてますが、同時に図のように赤塚古墳から延びるライン上にも位置しています。すなわち、赤塚古墳⇔森尾古墳⇔太田南5号墳への東35度偏角のラインです。

その黒塚古墳を起点とするものとして、今回新たに加えたのが神原神社古墳⇔東求女塚古墳⇔黒塚古墳への西20度偏角のラインです。

この神原神社古墳からは景初三年(239年)銘の三角縁神獣鏡を出土しており、またその神原神社古墳を起点として神原神社古墳⇔竹島御家老屋敷古墳⇔赤塚古墳への東55度偏角のラインがあることは昨晩も指摘したとおりです。

その竹島御家老屋敷古墳からは、正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡が出土しています。

またその神原神社古墳⇔橋津古墳群⇔太田5号墳北部⇔蟹沢古墳への東10度偏角のラインがありますが、この蟹沢古墳からも正始元年(240年)銘鏡が出土していることがありました。

ただ、太田南5号古墳の位置は、そのラインよりやや南にズレており、なぜずれているのかについても考察する必要がありでしょう。

このラインと平行に、石塚山古墳⇔西山古墳・奥3号墳⇔黒塚古墳への東10度偏角のラインがあり、この2つのラインに挟まれた領域がある時期のこの集団の支配領域だった可能性があります。

そして図のように、この2つのラインに直交する形で奥3号墳⇔橋津古墳群への西80度偏角のラインがあり、図のように、そのライン上に3つのラインが交差する交点が生じていることも見て取れます。

あと、赤塚古墳⇔楯築墳丘墓北部⇔広峯15号墳⇔会津大塚山古墳への東30度偏角のライン、および一貴山銚子塚⇔石塚山古墳⇔竹島御家老屋敷古墳⇔楯築墳丘墓北部⇔蟹沢古墳への東20度偏角のラインがありますが、ここで楯築墳丘墓の北部を通過している点に留意しておくべきでしょう。楯築墳丘墓自体は、弥生時代末期に差し掛かるやや古い古墳とされており、纒向型前方後円墳の時代に近いので、今回の記年銘鏡を出土した古墳群より年代が異なっていることが、その誤差の原因かもしれません。

蟹沢古墳へのラインとしては、奥3号墳⇔東求女塚古墳⇔安満宮山古墳⇔蟹沢古墳への東28度偏角のラインもあり、昨日指摘した新豊宝院山2号墳⇔蟹沢古墳西部⇔会津大塚山古墳への東60度偏角のラインも見えます。

蟹沢古墳の位置が東にズレている件については、会津大塚山古墳の築造年代がやや新しいことと関係しているのではないでしょうか。時代が替われば、測量に用いる銅鏡の尺度も若干変化していきますから、その影響がズレとして現れる可能性があります。

加えて、西都原古墳群⇔黒塚古墳⇔蟹沢古墳への33度偏角のラインも非常に精度の高いラインで黒塚の真上をラインが通過していきます。

その西都原古墳群⇔赤塚古墳の南北ライン、赤塚古墳⇔岡本遺跡⇔吉武高木遺跡⇔三雲南小路遺跡⇔一貴山銚子塚古墳への南北ライン、一貴山銚子塚古墳⇔山門野の南北ライン、山門野⇔西都原古墳群への東西ラインの存在は昨晩もお知らせしたとおりで、これらの弥生時代からの拠点もこの三角縁神獣鏡を用いた集団と密接にリンクしていることは間違いないのですが、九州から東遷していったのか、あるいは畿内、関東から西に移動して、九州のこれらの弥生遺跡を取り込んでいったのか?についても識別していく必要があるでしょう。

その他、新豊院山2号墳⇔椿井大塚山古墳への東西ラインもありますが、黒塚同様に三角縁神獣鏡を大量に出土した椿井大塚山古墳については、黒塚のように、記年銘鏡等とはダイレクトにはリンクしてない点で、黒塚とは少し異なる性質を持ち合わせていた可能性がありますね。

その椿井大塚山古墳については、画紋帯神獣鏡も出土しており、以前分析した画紋帯神獣鏡+呉年号銘鏡の出土古墳を結ぶ方位ライン上では、先の魏の青龍3年銘を記した方格規矩四神鏡出土した太田南5号墳そばの太田南2号墳からも出土しており、この古墳群から、桜井茶臼山古墳等、画紋帯神獣鏡+呉年号銘鏡を出土した古墳を結ぶラインの起点となっていることもあるので、三角縁神獣鏡を導入する直前期、あるいは並行期にこの太田南古墳群の首長が重要な役目を果たしていた可能性を考慮しておくべきかもしれませんね。

なお、大田南5号古墳自体は、4世紀後半の方墳とされており、先の青龍3年(235年)銘鏡は、先祖からの伝世鏡だった可能性もあるでしょう。おそらくは、その組み合わせ石棺をもつ5号墳より、舟形木棺の2号、4号墳のほうが古いはずで、どれも方墳ではありますが、新旧の年代差に留意しておくべきでしょう。

先のとおり、太田南5号墳からは三角縁神獣鏡ではなく三角縁神獣鏡に近い方格規矩鏡を出土しており、そのプレ段階の三角縁神獣鏡を持つとともに、前方後円墳体制が展開・支配する直前段階にあったので、方墳のままであった可能性もあるでしょう。

そこで、今回取り上げた三角縁神獣鏡とは別に、再度、画紋帯神獣鏡+呉年号銘鏡を出土した古墳のラインを調べなおして、比較検証していく必要がありそうですね。その年代差があるのか、ライン面での接合形態などから、さらにわかってくることがありそうです。




三角縁神獣鏡と邪馬台国2 管理人 投稿日: 2022年11月17日 02:56:30 No.183 【返信】

昨晩お知らせした九州方面の三角縁神獣鏡出土古墳を結ぶ方位ラインに続いて、全国の主に舶載の三角縁神獣鏡を結ぶ方位ラインを作成したのが図1です。図2,3はその拡大図。

以前も10年ほど前に三角縁神獣鏡を結んだ方位ラインを作成してますが、その時気づかなかったことが多く明らかになってきました。

まず、魏の年号銘をしるした鏡の出土古墳に注目していくと、神原神社古墳(「景初三年」銘 )、蟹沢古墳(「正始元年」銘。持田旧48号墳の同范鏡 )、竹島御家老屋敷古墳(「正始元年」銘)、 森尾古墳(「正始元年」銘)の4面となりますが、図のように、神原神社古墳は中国瀬戸内地方における測量起点となっていたことがわかりますし、また蟹沢古墳も東日本のラインの起点となっていたこともわかります。

特に、この2つの古墳の位置が定まらないと、他の古墳の位置も定まらない点で、最初期の古墳であった可能性が見えてきます。そして、それが記念銘鏡だったというのも偶然ではないでしょう。

具体的にラインをみていくと、まず神原神社古墳に関するラインとしては、神原神社古墳⇔竹島御家老屋敷古墳(東部)⇔赤塚古墳⇔白岩遺跡⇔山門野(長島町)への東55度偏角のラインがあります。

そのラインに直交する形で神原神社古墳⇔西山古墳・奥三号墳⇔宮谷古墳への西45度偏角のラインがみえます。このライン上に2つの年号銘鏡があることにも注目しておくべきでしょう。

なお竹島御家老屋敷古墳の東部海上沖をラインが通過していきますが、海上に拠点を造れなかったのでその西部に古墳を造営しって、通信・測量の指標としたことも予想しうるところです。

また神原神社古墳⇔花岡山古墳は東西ラインとなり、若干西に軸を傾けているのは、昨晩指摘した九州の四方区画のラインと同様です。

そして、図のように神原神社古墳⇔潮崎山古墳への西70度偏角のラインは、一貴山銚子塚古墳⇔石塚山古墳⇔竹島御家老屋敷古墳⇔潮崎山古墳⇔中山茶臼山古墳(北部)⇔蟹沢古墳への東20度偏角のラインと直交しています。


その東の起点の蟹沢古墳に関しては、赤塚古墳⇔花岡山古墳⇔蟹沢古墳への東23度偏角のラインがあり、また笠狭崎(ニニギ宮)⇔西都原古墳群の男狭穂塚(ニニギ墓)I⇔黒塚古墳⇔蟹沢古墳への東35度偏角のラインもあります。ニニギに関する東征ライン、つまりニギハヤヒの東征ラインともいえるかもしれません。蟹沢古墳出土の銘文鏡が、西都原古墳群の東部の持田旧48号墳と同範鏡を出土していることも、その同じ集団の東征と関係していたのかもしれませんね。

さらに新宝院山2号墳⇔甲斐銚子塚古墳(西部)⇔蟹沢古墳⇔会津大塚山古墳への東60度偏角のラインもあります。


その新宝院山2号墳⇔椿井大塚山古墳⇔鶴山丸山古墳への東西ラインがありますが、若干鶴山丸山古墳の位置は南へずれております。

その椿井大塚山古墳は最大の三角縁神獣鏡の出土数を誇る古墳ですが、図のように赤塚古墳⇔西山古墳⇔椿井大塚山古墳⇔甲斐銚子塚古墳への東20度偏角のラインがあります。

その甲斐銚子塚古墳⇔黒塚古墳⇔宮谷古墳への東25度偏角のラインもあり、また黒塚古墳⇔西山古墳と奥3号墳の中間地点⇔石塚山古墳への東10度偏角のラインもありますが、この椿井大塚山古墳、黒塚古墳が、これらの測量を行う上での中継拠点として重視されていたことも、これらのライン分析から明らかにしうるでしょう。そのライン測量の道具として三角縁神獣鏡があったはずで、中継拠点には多数の分配用の三角縁神獣鏡が確保されていたことを示すものでしょう。

その他、昨晩指摘した一貴山銚子塚古墳⇔吉武高木遺跡⇔須玖岡本遺跡⇔大野城⇔赤塚古墳への東西ライン、赤塚古墳⇔西都原古墳群(男狭穂塚)への南北ライン、西都原古墳群⇔山門野への東西ライン、山門野⇔一貴山古墳への南北ラインで四方区画を構成していることがあり、この区画を起点として、東部へとラインが展開していったことは明らかですが、その展開の際に、まず先の蟹沢古墳という東端の拠点を確保してから、その間を測量していったであろうことも伺える点で、東征の仕方、つまり東への領域拡大の仕方に、通説のそれとは異なるあり方をしていたことが考えうるでしょう。すなわち、一気に東へ拡大してから、中間地域を埋めていくわけです。


あと、正始元年銘の三角縁神獣鏡を出土した森尾古墳については、図のように神原神社古墳⇔森尾古墳への東5度偏角のラインとともに、黒塚古墳⇔広峯15号墳⇔森尾古墳への東50度偏角のライン上にあり、その広峯15号墳からは景初四年銘の斜縁盤龍鏡が出土していることから、斜縁盤龍鏡と三角縁神獣鏡とは類似した用途で同時期に用いられていたことがわかるだろう。

そして、その広峯15号墳については、図のように赤塚古墳⇔広峯15号墳⇔会津大塚山古墳への東30度偏角のライン上に位置付けられており、会津大塚山古墳の築造年代が4世紀末とされているので、正始元年銘の240年代との間に大きな開きがあることが課題と言えるでしょう。




三角縁神獣鏡と邪馬台国1 管理人 投稿日: 2022年11月15日 02:49:36 No.181 【返信】

先日の山門・山戸の地名を結ぶラインに関連して、今回は九州の三角縁神獣鏡の出土古墳を結ぶラインを作成してみました。
図1のとおりで、長方形の四方区画がみてとれます。図2,3はその拡大図。

まず、九州最大枚数の8面の三角縁神獣鏡を出土した一貴山銚子塚古墳に注目してみると、一貴山銚子塚古墳⇔三雲南小路遺跡(王墓付近)⇔飯盛山(山頂部)⇔吉武高木遺跡(最南部の特定集団墓・大型建物付近)⇔須玖岡本遺跡(奴国の丘歴史公園の王墓~北側の甕棺墓遺構付近)⇔大野城(山頂部)⇔赤塚古墳(宇佐)への東西ラインがあります。

このラインは、1度以下の若干西へと軸を傾けており、この偏角は図1の他のラインにも見えるものです。

具体的には、西端の一貴山銚子塚古墳は経度130度10分19秒、緯度33度31分59秒となり、東端の赤塚古墳(後円部)は経度131度22分07秒、緯度33度32分27秒となり、110.9kmの距離で約30秒の差がが出てきます。

次にその赤塚古墳(宇佐)⇔西都原古墳群への南北ラインがあることは、先のラインとともに以前から指摘してきたとおりですが、西都原古墳群で三角縁神獣鏡を出土したのがその13号墳となります。

ただ、その北西の未発掘の男狭穂塚(ニニギ墓)を起点としていた可能性、そこからも三角縁神獣鏡が出土する可能性を考慮して考えを進めるべきでしょう。

位置的には先のとおり、南北軸が若干西へ偏角をもっており、具体的には、北端の赤塚古墳(後円部)は経度131度22分07秒、緯度33度32分27秒となり、南端の男狭塚は経度131度23分13秒、緯度32度07分06秒で、158.12kmの距離ですからここで約66秒の差がが出てきます。

なお13号墳の位置はやや東南となり、経度131度23分49秒 緯度32度06分30秒ですから、102秒の差となるでしょう。

ここで111㎞尺は以前お話したように晋・南北朝尺を使用した単位であることに留意すべきで、また158㎞は、52.5㎞×3で、105㎞の後漢尺を用いていた可能性が高くなります。

つまり、この四方区画は、弥生時代の四方区画をもとにして、晋・南北朝時代の尺度で再構築しなおしたものと考えうるわけです。

したがって、三角縁神獣鏡の使用年代もその時代だったのでしょう。

それで、図1のように、その男狭塚(西都原古墳群)⇔国見岳(須木烏田町)⇔山門野(長島町)への東西ラインがあることも先日述べたとおりですが、また先の一貴山銚子塚古墳⇔峰山・鏡山(小城町)⇔烽火山(島原)⇔山門野⇔笠狭崎(崎ノ山)への南北ラインがあり、これも先のように若干西へ軸を傾けています。

つまり北端の一貴山銚子塚古墳は経度130度10分19秒、緯度33度31分59秒、南端の笠狭崎(崎ノ山)が経度130度11分28秒、緯度
31度25分22秒ですから、194㎞で69秒ずれていることになります。

なお、図3のように、このラインと、先の西都原古墳群からの東西ラインとの交点は八代海上となり、そこから、やや西側に山門野の字名があります。また図のように山門野と北西に隣接する川床に前方後円墳状の地形も確認できます。

この南北ライン上に見えてくる鏡山の地名も、三角縁神獣鏡等を出土した可能性があるでしょうし、また烽火山については、弥生時代末期の高地性集落にもみられた狼煙通信の拠点であったのでしょう。この南北ライン上にそのような烽火通信の拠点が複数あり、その通信に三角縁神獣鏡等が使用されていたわけです。

そして、この四方区画の北・西端の一貴山銚子塚古墳から九州最大の8枚の三角縁神獣鏡が出土していることも、その烽火通信・測量上で重要な位置にあったことに由来するはずで、単にこの古墳の被葬者が権威があったからという理由ではなかった可能性があります。

なおこの古墳の築造時期は4世紀後半とされ、全長103m、竪穴式石室、組み合わせ式木棺とのことですが、年代が邪馬台国時代からやや後代へとずれていく点に留意すべきでしょう。

その出土の銅鏡については下記のとおりです。

銅鏡 10面 - いずれも鏡面を内向きとする[3]。
鍍金方格規矩四神鏡 1面 - 頭部。中国製後漢鏡。
長宜子孫内行花文鏡 1面 - 頭部。中国製後漢鏡。
仿製三角縁神獣鏡 8面 - 左右脇に各4面。計5種(3種各2面は同笵鏡)。一部は勅使塚古墳(兵庫県加古川市)・ヌク谷北塚古墳(大阪府柏原市)・谷口古墳(佐賀県唐津市)出土鏡と同笵鏡。

https://ja.wikipedia.org/wiki/一貴山銚子塚古墳


先日指摘した谷口古墳など4世紀後半以降の古墳から同じ三角縁神獣鏡を出土していることなどもあり、勅使塚古墳の石釧などをみてもその年代は4世紀後半とみるべきかもしれません。

この年代になると先の111㎞、つまり晋・南北朝尺が見えてくるのは、然るべきで、河内王朝の古墳群にも共通してみられる尺度ではありますね。

あと図1のように、一貴山銚子塚古墳⇔山門(瀬高町)⇔国見岳(椎葉村)⇔西都原古墳群への西55度偏角のラインもあり、これが先の笠狭崎⇔西都原古墳群への東35度偏角のラインと直交していることにも留意しておくべきでしょう。

この国見岳(椎葉町)と先の国見岳(須木烏田町)とが図のように南北ラインとなり、また同じく大野城⇔山門(瀬高町)への南北ラインも同様です。この国見岳の国見は国境を策定する上での境界であったはずで、その測量拠点だったと言えるでしょう。

この図のように、35度、55度の直角三角形を多用した測量を繰り返している点もこれらの古墳を造営した集団の特徴で、そこに山門の地名と、三角縁神獣鏡とが関わっていくわけです。

三角縁神獣鏡は先のとおり、分度器や尺度を提供する測量・光通信の道具と見なしうるでしょうから、その出土枚数が多いことは、測量・通信面で重要な位置にあったことが予想され、畿内で三角縁神獣鏡を多数出土した椿井大塚山古墳や黒塚古墳についても同様なことが言えるでしょう。

畿内に多数の鏡を配布する際にまずそれらの古墳を管理する首長へあらかじめ多目に配布しておき、それらを支配地域の首長へと分配し終えた後の残りを、そのままその古墳へ埋納・保管しておいたとの理解もできるかもしれません。威信財としての鏡ではなかった可能性もありますね。

ただ、赤塚古墳は3世紀末の築造とみなされており柄鏡式前方後円墳となり、西都原13号墳も柄鏡式前方後円墳でこちらは4世紀後半とされてますから、この四方区画にはやや年代にばらつきがあることがわかります。

元々は九州北部の弥生遺跡を結ぶラインや笠狭崎・三雲南小路遺跡といった漢の影響のもとで造営されていった拠点を起点としているのですが、そこに後代のある時期になって、三角縁神獣鏡を用いた集団があらたに古墳を造りながら、これらの四方区画を造営しながら支配領域を広げていったことが考えうるでしょう。

その年代が邪馬台国の卑弥呼の時代なのか、それ以降なのかは、三角縁神獣鏡の他の地域の出土事例なども比較しながら検討してみたいところです。




邪馬台国諸国の位置推定3 管理人 投稿日: 2022年11月10日 16:52:59 No.180 【返信】

ここ数日とりあげてきた邪馬台国徳之島説の面縄貝塚について、さらに調べを進めています。

その弥生時代の箱式石棺や女性人骨を出土した面縄貝塚については、以前、こちらでも沖縄本島の同時代の箱式石棺を出土した木綿原遺跡、奄美大島の宇宿貝塚・グスク周辺を結ぶ50度偏角のラインがあることを指摘したとおりです。

その宇宿については、先日の邪馬台国の位置が不明な21国の中の最後から2番目に記載された烏奴国のウヌと関係することを予想したことがありました。

つまり、徳之(ドク)島を奴(ド)国、その前順に記載された烏奴(ウド・ウヌ)国を奄美大島(宇検・宇宿)と推定し、その前順の支惟(キユイ)國を喜界(キカイ)島、その前順の巴利(ハリ)國を諏訪之瀬(スハノセ)島、その前順の躬臣(クウジン)國を、口之(クチノ)島へと北上する順番だと考えたことがあります。

そこでその奄美大島の宇宿貝塚周辺の地名を調べていくと、宇宿貝塚のすぐ北方に須野(スノ)の字名が残っており、これが先の烏奴(ウヌ)国の音に近いことがわかります。

そして図1のように、その木綿原遺跡(沖縄本島)⇔恩納グスク(沖縄本島)⇔面縄貝塚(徳之島)⇔宇宿貝塚(奄美大島)のラインをさらに北へ伸ばしていくと池上曽根遺跡に至ることもわかりました。このライン上を先の宇宿貝塚北部の須野地域を通過することもあり、須野がこれらの支配に関係した烏奴国の中心域だった可能性も見えてきます。

また図のように、この面縄貝塚を起点として、60度偏角で面縄貝塚⇔八堂山遺跡⇔鬼ノ城へのラインがあり、また40度偏角で面縄貝塚⇔富士山へのラインもみえてきます。

さらにその富士山⇔池上曽根遺跡⇔八堂山遺跡⇔女山神籠石(瀬高街山門)への東20度偏角のラインもあり、これらが意図的に測量された可能性を示すものです。その起点として、面縄貝塚が位置していたのでしょう。

したがって、面縄貝塚のある徳之島を奴国として(面縄は後漢書の面上国)、女王国の領域の境界が尽きるところとすると、その南の狗奴国あたるのが、沖縄本島方面で、その中北部の国頭(クンズ)方面にあたることを予想しますが、その沖縄本島を通過するライン上には、図2のように、名護市北方に古我知(コガチ)の字名が残り、また木綿原遺跡南部にも渡具知(トグチ)の字名がみえますが、これが、狗奴国の官職・狗古智(クコチ)卑狗(ヒコ)に関係するかもしれません。

そういう意味でも、徳之島、奄美大島の遺跡や古墳を調べて、卑弥呼の墓を探す必要がありますね。

なお前述の徳之島の面縄貝塚の女性人骨とは別に、奄美大島からも弥生時代の若い女性人骨が出土しており、高価なガラス装飾品を身に着けている点で興味深いところです。

詳細はこちらのサイトをご参照ください。
https://amamikke.com/7179/




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