歴史掲示板(渡来人研究会)


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山田ライン03
管理人 投稿日:2023年04月18日 02:07 No.241
先日お知らせした九州各地の山田・山門等の字名と古墳状地形や弥生遺跡を結んだラインについて、追加で補足しておきたいと思います。

具体的には伊都国に位置する三雲小路南遺跡に関するライン、纒向型前方後円墳の那珂八幡古墳に関するライン、卑弥呼の墓ともされる祇園山古墳に関するラインです。

この3つの拠点を先日のライン図に加えたものが図1となりますが、まず、山田(北九州市)⇔名島4号墳(纒向型前方後円墳)東部⇔三雲小路南遺跡への東30度偏角のラインがあることがわかります。

また、このラインと直交して三雲小路南遺跡⇔吉野ヶ里遺跡北部⇔女山神籠石への西60度偏角のラインがあり、その女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインがあることは先日述べたとおりです。

あと、以前から指摘している三雲小路南遺跡⇔吉武高木遺跡⇔須玖・岡本遺跡⇔大野城⇔川部・高森遺跡への東西ラインがあること、また大野城⇔女山神籠石への南北ラインの存在もあります。

次に那珂八幡古墳についてですが、三雲小路南遺跡⇔那珂八幡古墳⇔赤村の古墳状地形への東12度偏角のラインがあり、また平塚川添遺跡⇔那珂八幡古墳⇔志賀島(潮見公園)への西45度偏角のラインがあり、このラインと先日指摘した高良大社⇔平塚川添遺跡⇔鎌田原遺跡南部⇔赤村の古墳状地形⇔石塚山古墳への東55度偏角のラインとが直交しています。

ここで志賀島が関わってくることは、その金印の件も考慮すると、外交・役所との関わりであり、平塚川添遺跡との重要拠点へと情報を伝達するルートとして存在していたことを示すものでしょう。

そして、またその平塚川添⇔石塚山古墳の石塚山古墳が、畿内の初期古墳の構造に近いとされることも、先日お知らせした図2の石塚山古墳を経由して石塚山古墳⇔奥3号墳⇔黒塚古墳への東10度偏角のラインや石塚山古墳⇔竹島御家老屋敷古墳(年号銘鏡出土)⇔蟹沢古墳(年号銘鏡出土)への東20度偏角のラインの存在を考慮すると、この石塚山古墳が九州から畿内、四国への情報や交易をおこなう起点として位置づけられていたことと関係するでしょう。その畿内方面へと進出していった年代はその魏年号の少し後となるはずです。

最後に祇園山古墳に関するラインですが、図3のように、特に伊川・大日寺の古墳状地形⇔祇園山古墳⇔女山神籠石への東75度偏角のラインがあることに気づきます。このラインと祇園山古墳⇔高良大社へのラインが直交するようです。

また、伊都平原遺跡⇔祇園山古墳への西40度偏角のラインが、祇園山古墳⇔平塚川添遺跡への東50度偏角のラインと直交していることもわかります。

したがって祇園山古墳の主は、そばの高良大社(神籠石)はもとより、女山神籠石と、伊川・大日寺の古墳状地形、そして平原遺跡、そして平塚川添遺跡とに関わる重要人物であったことが伺えます。

すでに平原遺跡と祇園山古墳の出土遺物との相関性は指摘されてますが、平塚川添遺跡というこの時期の最大拠点とも位置付けられていることは、この祇園山古墳に葬られた人物がこの地域を支配する首長としての位置付けにあった可能性を示す点で興味深いところです。

殉葬者らしき遺体が周囲に数十人見えるとの指摘からみても、この祇園山古墳はかなりの有力者であったことは疑いないでしょう。




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