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投稿者:管理人
先日から、九州各地の山田の字名に関するラインを作成してきましたが、ひとつ忘れてはいけないのが、朝倉市山田にある長田大塚古墳でしょう。ここも卑弥呼の墓との指摘もあるようですが、図1のように、平塚川添遺跡⇔山田(朝倉市)長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡への西15度偏角のラインがあることは以前もお知らせしたとおりです。 関連して、女山神籠石⇔山田(朝倉市)長田大塚古墳への東45度偏角のラインがあり、また図のように、山田(朝倉市)長田大塚古墳⇔鷹取山西部への東65度偏角のラインが、平塚川添遺跡⇔吉田・辺田ノ上遺跡⇔女山神籠石への東65度偏角のライン、小迫辻原遺跡⇔八女津媛神社への東65度偏角のラインと平行となっています。 なお、その吉田・辺田ノ上遺跡⇔祇園山古墳の南北ラインがあり、また吉田・辺田ノ上遺跡⇔鷹鳥山西部⇔杷木神籠石への東30度偏角のラインを考慮すると、最近弥生後期の環濠集落や多数の鉄器を出土したこの吉田・辺田ノ上遺跡もかなり重要な遺跡であり、かつ祇園山古墳の被葬者とも関係していたことが伺えます。 そして、この吉田・辺田ノ上遺跡⇔杷木神籠石ラインと鷹鳥山西部で直交するのが、平塚川添遺跡⇔八女津媛神社への西60度偏角のラインです。 この八女津媛神社については、図のように女山神籠石⇔八女津媛神社への西1度偏角の東西ラインがあり、それと直交して、八女津媛神社⇔杷木神籠石への東1度偏角の南北ラインがあります。 あと、小迫辻原遺跡⇔八女津媛神社への東65度偏角のラインが、祇園山古墳⇔八女津媛神社への西35度偏角のラインと直交しています。加えて、祇園山古墳⇔鷹取山西部の東西ラインもみてとれます。 さらに、図3の拡大図のように、その平塚川添遺跡⇔八女津媛神社ラインの延長線上に、日向の持田古墳群(魏記念銘鏡出土)が西60度偏角で位置しています。 その他、平原遺跡⇔祇園山古墳への西40度偏角のラインが祇園山古墳⇔平塚川添遺跡への東50度偏角のラインと直交し、また平塚川添遺跡⇔伊川・大日寺の古墳状地形への南北ライン、伊川・大日寺の古墳状地形⇔祇園山古墳⇔女山神籠石への東75度偏角のラインがあることも先日指摘したとおりです。 こうみていくと、先日から注目してきた祇園山古墳については、高良山神籠石、女山神籠石、平塚川添遺跡や平原遺跡のみならず、吉田・辺田ノ上遺跡や八女津媛神社とも関わる人物の墓だったことも明らかにしうるでしょう。 また八女津媛神社自身も北部九州のライン構成上で重要な起点となっており、そして朝倉市山田の長田大塚古墳も平塚川添遺跡と関わりの深い人物の墳墓であった可能性がみえてきます。 そこに山田の字名がかかわってくることは、やはり邪馬台国との関連、その領域との兼ね合いでとらえるべきこともわかります。 これらの弥生時代後期から古墳時代初期にかけての古墳や遺跡は計画的に配置されていったことが明らかになるのですが、その構築年代の相違と編年をいかに整理していくかが今後の課題でしょう。 今回の場合だと、平原遺跡がみえてきていますが、それ以前の時代の拠点はそのやや東南の三雲小路南遺跡の王墓だったこともあきらかです。つまり弥生末期に平原遺跡の墳丘墓は構築され、それ以前は後者の支配によっていたはずですから、ここで権力交替があった可能性も伺えます。 同様に、今回は小迫辻原遺跡が拠点としてみえてきましたが、その北部の日田市山田を用いていた時期もあったはずで、前者の時代のライン上に山田(朝倉市)と長田大塚古墳が構築されたことも伺えます。 そして、女山神籠石⇔八女津媛神社への東西ラインと、八女津媛神社⇔杷木神籠石への南北ラインが東に1度傾いており、これも測量方式等の相違や時代による測量集団に変化によって相違が生じていった可能性も考慮すべきでしょう。 ただ、概ね、60度、30度、15度、45度、75度、90度と、円の3分割による三角測量を繰り返す測量集団であったことは間違いないでしょう。 これらが狼煙台による通信目的であると仮定すると、当然、そのラインの中心域が首都となり、そこに各地の情報が集積されていき、また発信されていったであろうことも確かでしょうから、やはり平塚川添遺跡はその中心地として相応しい位置にあったことは疑いないところです。 そこで卑弥呼の墓についてですが、卑弥呼の墓自体は、情報発信の中心に位置している必要はないわけで、あくまで血縁関係や生年に過ごしていた拠点(都)等との関係で位置付けられていたことでしょう。 つまり、弥生時代からの狼煙や鏡光による情報通信のそれとダイレクトに関わっていない可能性が高く、その意味では、祇園山古墳等は恣意的な位置付けである点でも興味深いところです。 そして狼煙台としての機能を持つ場合は、高さも高く、その高さを維持するためのマウンド半径も大きくなるでしょうし、高地性集落のように見晴らしのよい場所を選んでいったことも予想しうるところですが、王墓としての機能だけなら、そこまで大きいサイズ、高い位置である必要もないはずです。 このように、合理性と恣意性の双方の観点から、被葬者や都市を特定していくことも重要になってくるかもしれません。
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