歴史掲示板(渡来人研究会)


| トップに戻る | 検索 | アルバム | 管理用 | ▼掲示板作るならRara掲示板 |

卑弥呼・鏡関連・和邇氏ライン
管理人 投稿日:2023年02月26日 02:37 No.204
先日お知らせした平塚川添遺跡⇔城之越古墳(宇土)の南北ラインについて、また考えを進めています。

図1のように、そのラインの延長線上に印鑰神社(鏡村)があり、さらにその延長線上に国見岳があることに気づきます。

そして、城之越古墳⇔鏡山の東西ラインがあり、その鏡山から東西60度で平塚川添遺跡、国見岳が位置していますから、鏡とこれらの拠点が関連していたことも予想しうるでしょう。

以前も印鑰神社を結ぶラインについては考えたことがありますが、当時の役所の所在地と関わっていたはずで、先の国見も同様に、国境を決める拠点と考えうることがあります。

地域支配領域の確定において、これらのラインや拠点が後代まで継承されていたことは間違いないでしょう。

城之越古墳は、古墳時代初期の古墳で邪馬台国時代のものと考えうることがありますが、またその周辺域に散在する女性首長の遺骨等から、卑弥呼のような女性首長が権力をもっていた可能性を考えましたが、その女性首長と鏡等の遺物についても考えていく必要があるでしょう。

特に卑弥呼が魏から賜ったともされる中平刀については、和邇氏の支配領域の東大寺山古墳から出土していることが知られています。

それで、その和邇氏の拠点等を結んでみたのが図2となります。

具体的には、滋賀郡志賀町の和邇春日、奈良の天理市和邇町の高地性集落、そのそばの布留遺跡(石上神宮北部から和邇町南部)、山梨県東八代郡一宮町の浅間神社、和邇氏を祖とする武射国造のいた武射郡(山室姫塚周辺)あたりがその拠点となるのですが、図のように、まず、城之越古墳⇔和邇春日への東30度偏角があります。

また太田南5号墳⇔浅間神社⇔武射郡(山室姫塚周辺)への東西同緯度ラインがあり、そして城之越古墳⇔布留遺跡⇔浅間神社への東25度偏角のラインも見えてきます。

さらに、平塚川添遺跡⇔布留遺跡⇔武射郡(山室姫塚古墳)への東15度偏角のラインがあります。

あと、平塚川添遺跡⇔太田南5号墳への東30度偏角のラインと、城之越古墳⇔和邇春日への東30度偏角のラインが平行になり、またそれらと太田南5号墳⇔和邇春日への西60度偏角のラインと、平塚川添遺跡⇔鏡山への西60度偏角のラインとが直交します。

特に、太田南5号墳から出土した青龍三年の方格規矩鏡がプレ三角縁と考えうることと、これらのラインが弥生末期の高地性集落と関わっていることも重要で、概ね邪馬台国時代と重なっていたでしょう。

その他、先の山室姫塚古墳⇔鹿島神宮ラインが東60度であることにも留意しておくべきでしょう。

弥生後期の平塚川添遺跡から宇土の境目遺跡の最盛期から、高地性集落の時代を経て、畿内に前方後円墳をつくりながら進出していく布留遺跡の布留式土器段階のラインつまり支配領域と考えると理解しやすくなりそうですが、そこに中平刀がどうかかわっていたのかが課題です。

和邇氏は物部氏と血縁関係にあり、もともと同じ系譜を共有していたように見えますが、双方、欠史天皇時代の外戚家で、その系譜はこちらのサイト(http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-10.html)をご参照いただきたいのですが、特に、その系譜にみえる和爾日子押入(天足彦国押人命の子)の子・彦国姥津、姥津媛(意祁都比売:おけつひめ:姉おけつ))⇒開化天皇妃、彦坐王母と、同じく子・袁姥津媛(孫説もある)(妹おけつ):彦坐王妃を以前、卑弥呼と考えたことがありました。

物部氏系譜でいけば、欝色謎命(うつしこめ):孝元天皇后にあたる人物ですが、その「ウバツ・オケツ」の発音が、「ウツ」と共通します。

双方、老年の女性として後代知られており、元は同じ系譜を和邇氏・物部氏の双方で共有していたことによるものでしょう。その姪子が開化妃の伊香色謎命(イカガシコ)で、これが卑弥呼の姪の台与(トヨ)にあたるはずです。

その欠史天皇時代の外戚・和邇氏の古墳から後漢の霊帝(184~189年)時代の中平刀が出土しているのも偶然ではないはずで、実際、金象嵌が施されていることからみても、諸外国の王族への賜与を想定すべきものでしょう。

弥生時代末期の高地性集落で保持されたものを、東大寺山古墳の被葬者であろう和邇氏の末裔が他の4つの刀とともに継承していたように見受けられますが、その和邇氏自身は九州に展開してないようで、畿内・瀬戸内・中部・関東方面に分布していたようにも見えます。

ただ、同族の物部氏は九州北部の筑後川沿いにも拠点があり、物部氏から和邇氏が別れたとすると、物部時代に得た刀だった可能性もあるでしょう。

その物部氏が東遷してきたのがニギハヤヒの時代となり、布留遺跡がそこに関わってくるはずです。ライン的には、石上神宮の東北の豊田・豊井あたりを通過しており、その豊が女王の台与(トヨ)と関わってくるのではないでしょうか。

その東遷の前の拠点が、これらのラインの起点として出てくる平塚川添遺跡であったことも容易に予想できますが、また城之越古墳周辺の宇土境目遺跡や畑中遺跡も重要な拠点であったことも確かでしょう。

このように、和邇氏のラインが、やはり邪馬台国時代と深くかかわっており、女王の都や邪馬台国の位置・領域を考える上でも目安になるかもしれません。




お名前
メール
画像添付


削除キー ( 記事を削除する際に使用 )
文字色