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投稿者:管理人
先日お話した吾平山上陵はニニギの墓ではなく、神武の父・ウガヤフキアエズの墓のようでした。そのニニギ陵は可愛山陵で、ニニギ宮が笠狭崎となり、九州南西部に偏っています。 神武母の玉依姫は宮浦神社で、これらの陵墓を結ぶと図1のラインができあがります。 具体的には、吾平山上陵⇔西都市山田古墳状地形⇔韓国岳⇔可愛山陵への東12度偏角のラインと、宮浦神社⇔西都市山田古墳状地形への西78度偏角のラインとが直交し、また前者は笠狭崎(ニニギ宮)⇔宮浦神社への東12度偏角のラインと平行関係となります。 ここで、その宮浦神社、あるいはその南にある丘陵あたりに墳墓がある可能性を感じますが、その玉依姫の存在が、この神武天皇に関わる日向系集団にとってかなり重要人物であったことが伺え、そこに西都市山田古墳状地形のある山田(ヤマダ)の地名、そして上記の大和池の大和(ヤマト)の字名がかかわってくることを考慮すると、邪馬台国との関わりが、古墳時代初期からこの周辺地域にあったであろうことも予想しうるでしょう。 そして霧島連山の韓国岳が彼らにとっての聖地だったことが伺えますが、そこに先日おしらせした図2のように、天岩戸社がかかわっています。 なお、宮崎神宮を神武天皇宮もしくは陵だとすると、父と母の陵に挟まれた位置に神宮を建てたことになりますね。
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