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投稿者:管理人
先日、和邇氏の拠点を結ぶ方位ライン(図1)を作成し、その際に和爾日子押入(天足彦国押人命の子)の子・彦国姥津、姥津媛)⇒開化天皇妃を卑弥呼と考え、それが物部氏系譜の欝色謎命(うつしこめ):孝元天皇后とし、その「ウバツ・オケツ」の発音が、「ウツ」と共通することを指摘したとおりです。 その欝色謎については、大綜麻杵命の同母姉でもあり、その大綜麻杵命の子・伊香色謎(イカガシコ)(孝元天皇妃)を台与と考え、卑弥呼と台与の叔母と姪子との関係に共通することも述べたとおりです。 その伊香色謎(イカガシコ)については、母が高屋阿波良姫で、四国阿波方面と関わることも以前論じたとおりですが、前掲図1のラインをよく見ていくと、城之越古墳⇔和邇春日への東30度偏角のラインが四国阿波方面を通過していることに気づきます。 そこで、その四国阿波に注目してこのラインを調べてみたのが図2となります。 ここでは、まず城之越古墳⇔高尾神社(伊予氷見)⇔高屋神社北部⇔石清尾山古墳群⇔布留神社(和邇春日北部)への東30度偏角のラインがあることがわかります。 この石清尾山古墳群については、鶴尾神社4号墳が最も古く3世紀末の前方後円墳とみられており、また猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳が双方中円墳、北大塚東古墳が方墳、稲荷山南塚北古墳が円墳、その他は前方後円墳とされます。 その双方中円墳で思い出すのが、瀬戸内海を挟んで対岸にある楯築墳丘墓ですが、図のように、石清尾山古墳群⇔楯築墳丘墓の西60度偏角のラインが、前掲の城之越古墳⇔布留神社への東30度ラインと直交していることもわかるので、この2墳は意図的に対岸に造営された古墳であり、纒向型前方後円墳に先行する最初期のプレ前方後円墳だったと考えるべきでしょう。 そして、これらはみな積石塚であり、特殊な様式であることに留意しておくべきですが、その様子については下記のサイトをご参照ください。 http://inoues.net/ruins/iwaseoyama.html その積石塚で思い出すのが、楽浪郡(後代の高句麗)の墓制となりますが、紀元前から楽浪郡では方形の積石塚が造営されていたようで、上記の猫塚古墳から中国の前漢時代の内行花文精白鏡を出土していることや、北大塚東古墳が方墳であることなどにも留意しておくべきかもしれません。 なお、前掲の城之越古墳⇔布留神社ライン上には、高尾神社、高屋神社、高松、高島(布留神社西方)といった高がつく地名が多く、高屋神社ではニニギが祀られ、高松市の田村神社でも高倉下の別名とされる天隠山命が祀られていることもあります。 ある意味、上記の布留神社のフルも朝鮮語に近い発音を有しており、物部・和邇氏の本拠・石上神宮そばの布留遺跡の布留とも同義ですが、石上神宮の「布都御魂」は高倉下が受け取ったことでも知られています。 したがって、この30度偏角のラインを構築した集団は物部・和邇氏系であり、楽浪郡・高句麗方面と関係して高・布留(国や都・コフル)に関する呼称を有していたことも予想しうるところです。 そこで、和邇氏のワニの語源ですが、これは楽浪郡との関わりでいけば、楽浪・王氏のワンの音と関係していたのではないでしょうか。 高句麗神話にワニの上を飛び越えていく兎の話がありますが、このワニと和邇、そして王氏とは接点があるように感じます。 なお高良山にある卑弥呼の墓ともいわれる祇園山古墳についても、楽浪郡の阿残墓との関係が指摘されており、高良山の高もやはり楽浪・高句麗との関わりで理解すべきかもしれません。 後漢末期のある時期に、楽浪郡・高句麗方面から、九州北部を経由して、四国阿波、畿内へと移住していった集団がいたのではないでしょうか。 その集団が物部氏や和邇氏の祖先であり、卑弥呼や台与もその血筋にあったのでしょう。 そこで図2に戻って、先の城之越古墳⇔平塚川添遺跡への南北ラインの存在は、以前も指摘したところですが、また平塚川添遺跡⇔宇佐高校庭遺跡(高森古墳群南部)⇔高尾神社⇔八堂山遺跡(高地性集落)⇔萩原古墳群(纒向型前方後円墳)への東12度偏角のラインがあることにも気づきます。 そしてその萩原古墳群⇔高屋神社への東西ラインもあり、萩原2号墳は国内最古の積石塚とされている点で、上記の石清尾山古墳群のそれと共通性を見出すことができます。萩原1号墳からは庄内式土器と画紋帯神獣鏡が出土してますから、やはりこれらのラインは古墳時代最初期の造営と見なしうるでしょう。 その起点は平塚川添遺跡と宇土方面となるのですが、そのライン上に氷見(ヒミ)の地名が見えてくることは、邪馬台国の卑弥呼や狗奴国の卑弥弓呼のヒミと関係する可能性があるでしょう。 あと、和邇春日の北方にあたる布留神社ですが、石上神社同様に布留大神「十種の神宝」を祀っており、図1のように城之越古墳⇔布留遺跡(石上神宮)⇔浅間神社へのラインや、平塚川添遺跡⇔布留遺跡⇔武射郡への東15度偏角のライン、平塚川添遺跡⇔太田南5号墳への東30度偏角のライン、太田南5号墳⇔布留遺跡への西60度偏角のライン、太田南5号墳⇔浅間神社への東西ライン等を考慮すると、これらは布留式土器の時代の造営で、庄内式土器の時代から数段階にわけて東方へと展開していった様子がうかがえます。 弥生末期の平塚川添遺跡を本拠としていた時代から高地性集落の時代と移行する中で東遷が行われていき、その時代が物部氏の祖・ニギハヤヒやその子の高倉下の時代となるでしょう。 その最中に楽浪郡方面から高・王氏といった職人集団が移住して鏡作り等を行いながら、阿波や吉備を経由して、孝霊天皇・孝元天皇の時代に田原本町の黒田庵戸宮(鏡作神社)方面へと落ち着いていったのかもしれません。 布留式土器の時代は、女王・台与の時代で周辺に豊の字名を残すのですが、箸墓なども周囲に豊の字名が残りますから、その年代だと思いますね。また先の布留神社西北にも伊香立の字名が残り、先に台与とみなした伊香謎命(イカガシコ)を想起させます。 それよりやや古い庄内式土器の時代が卑弥呼の時代だと思うのですが、楽浪郡が公孫氏の支配となる年代、あるいは公孫氏が魏に滅ぼされる年代あたりで、段階的に伽耶や九州北部を経て瀬戸内方面へと展開していた集団がいたのではないでしょうか。一部が纒向遺跡へと移動していったものとおもわれますが、ただそこに卑弥呼の都がすでに存在していたかどうかは微妙な感じです。 いずれにせよ、血縁集団の拠点を結ぶ方位ラインは、正確に時を刻んでおり、その種類と構築年代を確定することで、10年単位での編年も可能になってくるかもしれませんね。
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