投稿画像
投稿者:管理人
先日分析した田道間守を祀る諸社を結ぶ方位ラインにおいて、特に魏年号銘鏡を出土した森尾古墳そばにある中嶋神社では、また天湯河板挙が祀られていることがあります。 この天湯河板挙については、古事記では、垂仁の息子で大人になっても声を発せなかった誉津別(ホムツワケ)が、鵠(白鳥)をみて、これはなんだ?とはじめて声を発するが、その鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に天湯河板挙に捕らえらることとなり、しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかったが、ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかったとの話があります。 そこで、この天湯河板挙を諸社と、先日の田道間守を祀る諸社等をあわせてラインで結んでみたのが図1となります。図2、3はその拡大図です。 まず、その中嶋神社については、天湯川田神社への西55度偏角のラインがあり、このラインとその天湯川田神社⇔波太神社への東35度偏角のラインとが直交します。 また先日も指摘した中嶋神社⇔吉田神社⇔太神山への西35度偏角のラインと、吉田神社⇔履中陵⇔橘本神社への東65度偏角のラインとが直交します。 ここで、図3のように履中陵の古墳軸にそってラインが通過していることがあり、河内王朝や百舌鳥古墳群の造営に今回のラインがダイレクトに直結していることがわかります。 あわせてその図にみえる右側のもう一つのラインは、波太神社⇔御野縣主神社⇔太神山⇔河桁御河邊神社への東45度偏角のラインであり、このライン上にみえる白鷺(サギ)公園あたりにも注目しておきたいところです。 その履中天皇については、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の長男ですが、履中陵自体は仁徳陵より古い古墳とされており、その大鷦鷯の父のホムダワケは、凡牟都和希王(ほむつわけのみこ/ほむたわけのみこ)との 『上宮記』逸文の記載もあるので、先のホムツワケとこの応神とに共通性があったこともわかります。 また大鷦鷯(オオササギ)尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは同日に生まれた際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けた伝承があり、ここで鳥に関する伝承があることにも留意しておくべきでしょう。 そこでまた、ライン分析に戻ると、先の橘本神社⇔日葉酢姫陵⇔河桁御河邉神社への東50度偏角のラインがみえますが、このラインと直交して日葉酢姫陵⇔和奈美神社への西40度偏角のラインが見られます。 そして図のように、先の2つのラインと籠神社⇔橘本神社への南北ラインが丹波篠山市周辺の1点で交差していることからみても、これらのラインが人工的な位置付けにあったことがわかります。 関連して鳥取大神宮⇔和奈美神社⇔河桁御河邊神社への西15度偏角のラインがあり、その鳥取大神宮⇔橘本神社への西60度偏角のラインも意図的な配置と言えるでしょう。 そして出雲大社⇔鳥取大神宮⇔籠神社⇔気比神宮⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインは、先の鳥取部の祖・天湯河板挙に伝承に出雲大神が見えてくることと関係するでしょう。 あと、橘本神社⇔出雲大社への西30度偏角のラインも意図的な位置付けであったことを示しますが、また河桁御河邊神社⇔鳥取神社(東員町)⇔下松原神社(滝口)への西5度偏角のラインがあり、また吉田神社⇔河桁御河邊神社⇔香取神宮への東11度偏角のラインは、橘本神社⇔天岩戸⇔下松原神社(滝口)への東11度偏角のラインと平行になります。 その天岩戸⇔鳥取神社(東員町)への西80度偏角のラインもあり、また鳥取神社(東員町)⇔日葉酢姫陵への東30度偏角のラインも意図的な配置です。 その他のラインについては、先日もお知らせしたので割愛しますが、4世紀前半から中葉にかけての田道間守や日葉酢姫・垂仁陵に関する先日のラインに続く形で、この天湯河板挙とホムツワケ(垂仁皇子)に関するラインが畿内から丹波・尾張方面へと構築されていったことが理解できるでしょう。 そしてそこに先の天湯河板挙とホムツワケの白鳥伝承とがかかわってくるのですが、ヤマトタケルの白鳥伝承とも関わるはずで、その年代を経たあとに、河内王朝の履中陵や百舌鳥古墳群が現れていくこととなります。 あと、履中天皇の時代、讃岐国造の鷲住王を天皇が呼び寄せようとしたことがありますが、この鷲住王の鷲は、阿波忌部の天日鷲とも関係しそうです。つまり忌部の祖が当時の王族であった可能性がみえてきます。 関連して景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えており、つまり鷲住王が白鳥伝承を持つ倭武と関わってくるわけです。 白鳥はヤマトタケルの死後の魂を示していますが、この集団にとって高貴な霊魂を示す象徴だったのではないでしょうか。 その高貴な霊魂が、垂仁皇子の障害を治すのに一役かっていたことになりますが、また鷲に関しては天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥(きっしょう)を表す鳥といって喜ばれたとの説話があり、吉兆とみなされてます。 また天湯河板挙については、その白鳥を追いかける人物(集団)を象徴していますが、wikiの(https://ja.wikipedia.org/wiki/天湯河板挙)条に下記の記載があります。 折口信夫は、『風土記の古代生活』という著作で、「水の女」という説を唱えている。それによると、常世からの水をあびて心身を若返らせる行為を「禊」といい、その水は温かいもので「湯」と呼ばれ、「禊」の場所は海へ通じる川の淵であり、そこを「湯川」と呼んだ。そして「湯川浴(あ)み」をするための場所を「ゆかわたな」と呼んだのではないか、と述べている。つまり、「天湯河板挙」とは、「白鳥を追いつつ、禊ぎを求めていった」という意味なのだと解釈している。 ここで、天湯河板挙が禊と白鳥(≒霊魂)とに関わることが判りますが、これは新約聖書でイエスが洗礼の際に、川へ沈められるとともに、神の霊(聖霊)が鳩のように降ったことから、白鳩が聖霊の象徴とみなされた事例に共通要素を見出しうるかもしれません。 この件は、秦氏の餅の的伝承でも、白鳥(神霊)の化身の餅を矢で射ると、多くの芋となりそれをみなで食べたという話があり、それは中国景教(ネストリウス派キリスト教)におけるミサ聖祭で用いられていた餅(=イエスの体)に聖霊が降り、それを分けて信徒たちが食べる儀式のそれに対応することとも関係するかもしれません。 先のとおり、波太神社が今回の履中陵・百舌鳥古墳群へのライン起点となっており、摂社となる三神社(重要文化財) - 祭神:神功皇后、武内宿禰、天湯河板拳命が祀られていることがありますが、先の秦氏と関わりが強く今回のライン上にも見える宇佐八幡での応神・神功皇后・比売大神(宗像三女神)の三神祭祀を想起させます。 その応神(ホンダワケ)と武内宿禰、母の神功皇后、宗像三女神とはセット関係にあり、また先のホムツワケと天湯河板拳命もセットとなり、天湯河板拳命は禊を示し、白鳥とのセット関係ですから、三女神と禊場との関係がないかどうかを確認する必要があります。 その三女神が産まる際に、アマテラスが誓約の際に、天照大神が素戔嗚尊の十握劒(とつかのつるぎ)を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天真名井(あめのまない)の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出し、その息の霧から生まれた神が宗像三女神とされるので、禊場と近い要素をもっているとも言えるでしょう。 その他、5世紀代の新羅の古墳で出土する東欧系のトンボ玉に白人王族と白鳥が描かれているようなこととも関係しそうですが、禊と白鳥、白鳥と癒しといった要素について、他にも同様な説話伝承がないかどうか調べていく必要がありそうです。
投稿記事
画像を拡大