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投稿者:管理人
ここ数日、忌部に関する拠点を結ぶ方位ラインを作成してきましたが、以前同様に忌部のラインを作成した際に、徳島の白人神社とそのそばにある磐境神明神社を入れたことを思い出しました。そこで、その磐境神明神社に関するラインを作成してみたのが図1となります。図2,3は拡大図。 まず、平塚川添遺跡⇔宇佐神宮⇔伊予岡八幡宮⇔石鎚神社⇔磐境神明社⇔伊勢内宮⇔下松原神社(千倉町)を結ぶ東11度偏角のラインがあることに気づきます。 ここでここ数日作成した方位ラインで見えてきた伊勢外宮ではなく、内宮がライン上に見えてきたことに留意しておくべきでしょう。また房総半島の下松原神社については、先日の滝口の同社ではなく、千倉町の神社となります。その下松原神社(千倉町)では忌部の祖・天日鷲命および彦狭知神、木花開耶姫命、月夜見命を祀っており、先日指摘した阿波忌部とツキヨミ神(トヨウケ神)との関係を想起させます。 なお、伊予岡神社そばには伊予岡古墳群があり、6世紀~7世紀の築造とのことです。 次に、天岩戸神社⇔磐境神明社⇔大麻比古神社⇔多度大社への東30度偏角のラインがありますが、また持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔磐境神明社⇔黒姫神社への東40度偏角のラインがあり、このラインと直交して、磐境神明社⇔出雲大社への西50度偏角のラインが見えます。 その大麻比古神社そばには山田の字名が残り、魏年号銘鏡が出土している持田古墳群と関わることなども邪馬台国の名残を思わせます。 同様に磐境神明社⇔綾羅木郷遺跡への東西同緯度ラインがあり、弥生時代の遺跡とも絡んでくることがあります。 その綾羅木郷遺跡については、綾羅木郷遺跡⇔天岩戸神社⇔持田古墳群への西75度偏角のラインがあり、そのラインと直交するのが、綾羅木郷遺跡⇔天計神社への東15度偏角のラインとなります。 その綾羅木郷遺跡やや南の下関市に大和の字名が残ることにも留意しておくべきでしょう。さらにそのライン上にみえる天計神社の東隣りにも大和町の地名が残り、豊宇氣神社があるように、トヨウケ神を祀った名残がみえます。 そして、このラインと石鎚神社⇔出雲大社への西75度偏角のラインとが直交することになり、すなわち、先ほどの綾羅木郷遺跡⇔持田古墳群ラインと、磐境神明社⇔天計神社ラインとに平行となるわけです。 関連して、出雲大社⇔伊予岡八幡宮への南北ライン、綾羅木郷遺跡⇔出雲大社への東45度偏角のラインもあり、そのラインと直交するのが、天岩戸神社⇔伊予岡八幡宮⇔天計神社⇔伊須流岐比古神社への東40度偏角のラインとなりますが、このラインは先の持田古墳群⇔磐境神明社⇔黒姫神社への東40度偏角のラインと平行になります。 その伊須流岐比古神社⇔磐境神明社への東50度偏角のラインと直交するのが、伊須流岐比古神社⇔下松原神社への西40度偏角のラインとなり、またこのラインと平行して、黒姫神社⇔常陸國総社宮⇔鹿島神宮への西40度偏角のラインがあります。 あと、黒姫神社⇔倭文神社(富士宮)への南北ライン、下松原神社⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインからも意図的な位置にこれらの諸社があったことを示しています。 これらのことから、磐境神明社とそのそばにある白人神社は、弥生時代末期から古墳時代にかけて、これらのライン上に位置する諸社にとっても測量面も含めてきわめて重要な位置に存在していたことがわかるでしょう。 その白人神社では、伊弉冉神、瓊瓊杵尊、天照大神、豊秋津姫命等を祀っていますが、豊秋津姫命については、『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)とも記され、その栲は楮の繊維または白膠木、「ハタ」は「機(はた)」とされるので、忌部氏の繊維・布関連の職掌と関わってくるでしょう。 天岩戸神話の思兼命の妹とのことで、ライン上に見えてくる天岩戸との関連も予想しますが、ライン面からみると、その天岩戸社⇔磐境神明社⇔大麻比古神社⇔多度大社ラインがあり、また伊勢内宮⇔磐境神明社⇔宇佐神宮⇔平塚川添遺跡ラインもあるので、平塚川添遺跡から東遷していった集団によった可能性も考慮すべきかもしれません。 その内宮ではアマテラス神を、外宮ではトヨウケ神を祀ってますが、今回の磐境神明社に関係するラインは、内宮を通過しており、以前分析した大麻比古社や忌部神社(山川)等からのラインにみえた外宮や月読社・倭姫社のそれと異なります。 また、その内宮では相殿神として、前述した白人神社(そばに磐境神明社)で祀られる万幡豊秋津姫命を祀る点でも、この方位ラインをとおしての相関性があります。 なお、その磐境神明社には、古神道の磐境が残っており、古代イスラエルの礼拝所との類似性が指摘されていますが、詳細はこちらのサイトをご参照ください。 https://ameblo.jp/kazu55kun/entry-12533129954.html 伊勢神宮の儀式と旧約聖書等に記されたユダヤ教儀式との類似性は多く指摘されていますが、今回のラインでその伊勢神宮とこの磐境神明社とが接合してくることも偶然ではないでしょう。 関連して、前述した下松原神社⇔鹿島神宮への東60度偏角のラインが芝山古墳群(6世紀後半)東部500mの大宮神社(芝山町山田)付近を通過しており、その芝山古墳群からユダヤ人の風貌をした埴輪が出土したことは近年田中英道氏によって指摘されていることがあり、忌部氏が秦氏を率いてその祭儀執り行っていたであろう6世紀頃には、シルクロード方面で交易をおこなっていたソグド人やユダヤ人の影響を受けた集団が、そこに混じっていったことも十分にありうることなので、その可能性についても考察を進めてみたいところです。
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