投稿画像
投稿者:管理人
先日方位ライン分析をした磐境神明社の磐境がユダヤ教の洗礼儀式で使う儀式場に類似するとの見方や、同じくライン面で接続する芝山古墳群からユダヤ人風の風貌をした埴輪があるとの指摘を紹介しましたが、またそのほかにも、元伊勢の籠神社そばにある真名井神社があり、その詳細はこちらを参照(https://kanai.hatenablog.jp/entry/2017/12/04/213650)いただきたいのですが、ユダヤ人との関わりが指摘されています。このトヨウケ神を祀る真名井神社については、籠目紋・真名(旧約のマナ?)の一致など伊勢外宮、出雲との儀式・伝承面でのつながりが確認できますが、鞍馬寺にもその籠目紋が残っており、この籠神社(真名井神社)や鞍馬寺もふくめて先日のライン図を再構築してみたのが図1となります。図2,3は拡大図。 仮にこれらの神社や遺跡が同じ集団によってユダヤ教の影響を受けて造営されたならば、ライン面でもこれらの遺跡との間に明確な接点がみえてくるはずですが、実際そのような結果が出ています。 具体的には、籠神社を通るラインとしては、出雲大社⇔籠神社⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあり、また天岩戸神社⇔伊予岡八幡宮⇔籠神社⇔伊須流岐比古神社への東41度偏角のラインがあります。 同じく籠神社⇔鞍馬寺北部⇔天岩戸(伊勢)への西40度偏角のライン、籠神社⇔鍬戸神社⇔下松原神社(千倉町)への西10度偏角のライン、籠神社⇔大鷲神社への東西ラインがみてとれます。 ここで、千葉県の大鷲神社がみえてきますが、ヤマトタケルを祀っており、また忌部の祖の天日鷲の鷲とも関わりそうすが、図3のように、先日指摘した下松原神社(千倉町)⇔鹿島神宮への東60度偏角のライン上に位置しています。 そして図のように。ユダヤ人の風貌をした埴輪を出土した芝山古墳群もこのラインに近いところに位置しますが、正確には下松原神社(滝口)⇔鹿島神宮へのラインのほうが近くなります。 その大鷲神社については、天岩戸神社(高千穂)⇔阿波々神社北部⇔天岩戸(伊勢)⇔鍬戸神社⇔大鷲神社への東20度偏角のライン、大鷲神社⇔子ノ持古墳群⇔黒姫神社へ西50度偏角のラインもみえてきます。 またその芝山古墳群については、芝山古墳群⇔森将軍塚古墳⇔伊須流岐比古神社への西25度偏角のライン、また以前も指摘した芝山古墳群⇔子ノ持古墳群⇔奥の宮古墳(さきたま古墳群南部)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインがあります。 その綿貫観音山古墳の綿貫の語も衣服に関わる用語で忌部とも関係するかもしれませんが、実際図のように阿波忌部に関わる阿波々神社⇔綿貫観音山古墳への東60度偏角のラインがみてとれます。 このラインと平行して、伊勢内宮⇔森将軍塚古墳⇔黒姫神社への東60度偏角のラインがあり、先の下松原神社(滝口)⇔芝山古墳群⇔鹿島神宮へのライン、磐境神明社⇔籠神社へのラインとも平行になります。 そして、その綿貫観音山古墳⇔多度大社(一目連神社)⇔大麻比古神社⇔磐境神明社への東30度偏角のラインがあります。 その他、磐境神明社⇔出雲大社への東40度偏角のラインは、持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔磐境神明社⇔鞍馬寺北部⇔黒姫神社への東40度偏角のライン、および先の天岩戸神社⇔籠神社⇔伊須流岐比古神社への東40度偏角のラインと直交しており、概して出雲大社もこれらのラインの主要拠点となっていることがわかります。 その出雲大社のオオクニヌシ神話についても、旧約聖書のヨセフ伝承との類似性があります。 以上のようにみていくと、忌部氏等の拠点を結ぶラインと関わりながら、先のユダヤ人に関係する拠点とが重なりあっていることがわかり、ある時期にユダヤ系の影響をうけた集団が忌部氏とともに各地へと展開していったことが予想されます。 そういう意味では、逆にユダヤ系文化の名残を探す上では、今回のライン上の拠点を再度調べていくことでさらに明らかになることがあるかもしれません。 特に、図2のラインは六角形を構成しており、先の籠目紋のようにもみえますが、またその頂点2つを形成する伊須流岐比古神社や黒姫神社で祀られる石動神・イスルギヒコ神は、ユダヤ人が住むイスラエルの発音にも近く、偶然の類似ではないかもしれません。 同様に偶然として片付けられてきたユダヤ文化と日本神道との類似性についても、学問的に考察する時期が来てもよいのではないでしょうか。
投稿記事
画像を拡大