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    瀬織津姫ライン(畿内) 管理人 投稿日: 2024年10月28日 23:59 No.571 【返信

    先日の投稿で最後にお知らせした天忍穂耳・栲幡千千姫命を祀る諸社を結んだラインがありましたが、そこでその先代にあたる瀬織津姫に関する全国・畿内の諸社を結んでみたものが図1となります。

    まず、起点は九州高千穂の天岩戸神社となり、先日の天忍穂耳に関するラインが大分の西寒多神社を起点としていたことと対照的です。

    その天岩戸神社から、それぞれ東20度偏角で、天岩戸神社⇔伊勢内宮⇔瀧川神社へのラインがあり、また同じく東32度偏角で、天岩戸神社⇔六甲比命神社⇔宇奈己呂和気神社へのライン、同じく東28度偏角で、天岩戸神社⇔泉穴師神社⇔郡山城⇔片山神社⇔熱田神宮⇔波羅比門神社へのラインがあります。

    そして、天岩戸神社⇔瀬織津姫神社への東40度偏角のラインもありますが、その瀬織津姫は伊勢内宮の真北にあたり、また、森将軍塚古墳の真西にあたります。

    その森将軍塚古墳は、図のように池宮神社の真北となり、その池宮神社⇔春日大社⇔石切神社⇔御霊神社への東西同緯度ラインがあります。

    なお、瀬織津姫神社については、瀬織津姫神社⇔六甲比命神社への東55度偏角のラインと、瀬織津姫神社⇔瀧川神社への西35度偏角のラインとが直交しています。

    同じく先の森将軍塚古墳については、森将軍塚古墳⇔伊勢内宮ラインが東60度偏角となり、このラインと平行に、瀧川神社⇔宇奈己呂和気神社⇔瀧澤神社への東60度偏角のラインがあります。

    あと、伊勢内宮⇔槻神社⇔波羅比門神社への東40度偏角のラインと、槻神社⇔池宮神社への西50度偏角のラインとが直交しており、その槻神社⇔片山神社⇔六甲比命神社への東10度偏角のラインも確認できます。

    その他、小野神社⇔宇奈己呂和気神社⇔八幡神社(大和町)⇔早池峰神社への東70度偏角のラインも留意しておくべきでしょう。

    そこで、畿内方面を拡大していくと、図2のようなラインが見えてきます。

    まず、先の六甲比命神社が西の起点としてあり、その真東に三角縁神獣鏡を最も多く出土した椿井大塚山古墳があります。

    その椿井大塚山古墳⇔石切神社⇔住吉大社への東30度偏角のラインもあります。


    同じく六甲比命神社⇔石切神社⇔郡山城⇔伊勢内宮へ至る西15度偏角のラインがあります。

    この瀬織津姫は天照大神の荒魂とされており、伊勢内宮も元々はその荒魂を祀っていたとされることと関係してくるでしょう。

    その石切神社は物部氏の祖・饒速日尊とその息子の可美真手命を祀ることからみて物部氏系の拠点と考えうるでしょう。

    なお郡山城については、後述するように、前方後円墳状の地形が残っています。

    続いて、以前天忍穂耳に関する諸社として挙げた泉穴師神社を起点として、泉穴師神社⇔池坐朝霧黄幡比売神社⇔大和神社への東15度偏角のラインがあり、このラインと、郡山城⇔池坐朝霧黄幡比売神社⇔勝手神社への西75度偏角のラインとが直交しています。

    同じく泉穴師神社⇔郡山城への東30度偏角のラインと、天忍穂耳神社⇔郡山城⇔大和神社⇔崇神陵⇔穴師兵主神社⇔三輪山西北部への西60度偏角のラインとが直交しています。

    その崇神陵に関しては、以前、椿井大塚山古墳⇔中山大塚古墳⇔崇神陵⇔桜井茶臼山古墳へ至る西8度偏角のラインがあることを指摘したことがあります。

    あと、孝霊天皇に関わるラインとして、天王寺古墳状地形⇔孝霊陵⇔孝霊神社南部(黒田庵戸宮)⇔纒向勝山古墳⇔三輪山北西部への西20度偏角のラインがありますが、その孝霊神社⇔郡山城⇔山田(精華町)への南北ラインもみえてきます。

    その山田(精華町)⇔天忍穂耳神社への東30度偏角のラインは、天忍穂耳神社⇔郡山城⇔大和神社⇔三輪山への西60度偏角のラインと直交しており、このラインと孝霊神社⇔豊日神社への東30度偏角のラインとが直交しています。

    その豊日神社⇔纒向勝山古墳への70度偏角のラインと先の天王寺古墳状地形⇔孝霊陵⇔三輪山ラインとが直交しています。

    その他、孝霊陵⇔勝手神社ラインが西60度偏角となり、同じく勝手神社⇔三輪山が南北ラインとなり、また住吉大社⇔豊日神社への東西ライン、泉穴師神社⇔住吉大社⇔天王寺古墳状地形への東65度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

    以上のようにみていくと、瀬織津姫に関する諸社を造った集団が畿内、東方へと展開していった時期は、森将軍塚古墳や、椿井大塚山古墳、桜井茶臼山古墳、その直前期の纒向勝山古墳あたりとなり、その後、後代、崇神陵なども位置づけられていったように見受けられますが、また、郡山城がその前後で拠点となり、山田(精華町)や、大和神社にみえる、ヤマダ、ヤマトの語音を残している点が重要です。

    その郡山城については、図3のように、全長150m前後の前方後円墳状の地形が残っており、断面をみると、後円部が70m前後、高さ20m、前方部も長さ80m前後と見える点で、箸墓規格に近いと言えるでしょう。

    ただ、郡山城自体は中世からで、奈良時代は薬園であったそうで、古墳時代との関わりは周囲の遺跡等を調べる必要がありそうです。

    あと、上記の椿井大塚山古墳と森将軍塚との接点を考えてみると、椿井大塚山古墳⇔龍門寺古墳群⇔森将軍塚古墳への東45度偏角のラインがあり、同種の三角縁神獣鏡(天王日月銘 獣紋帯四神四獣鏡)を出土していることからみて、これらの古墳の築造年代や造営に関わった集団が共通していたことが考えうるでしょう。

    年代的には、3世紀末~4世紀初頭となるでしょうか。その椿井大塚山古墳の造営時期に、その西方に六甲比命神社の造営もなされていた可能性がありそうです。


    青面金剛 投稿日: 2024年11月30日 13:36 No.587
    植槻八幡神社(大和郡山市植槻町)祭神:誉田別命

    https://ameblo.jp/keith4862/entry-12434700300.html

    (中略)

    ◎ 創建由緒等は不明ながら、「裏鬼門」という鎮座地から平城京を守護する社であったものかと。「元享釈書」という書には、「植槻道場に維摩経、云々」との記述が見られ、平城京遷都の前年(709年)には、仏教施設の方は創建されていたものと見られます。当社そのものは不明。その仏教施設は当地より北西三町にあったと伝わりますが、場所の特定はなされていないようです。

    ◎ 境内社として、植槻坐藤原神社と植槻坐魚名神社が鎮座。植槻坐藤原神社は藤原不比等・武智麻呂・仲麻呂がご祭神。当社側は平城京遷都に功労があり、当社に関係の深い三座であると。

     一方の植槻坐魚名神社は、天押雲根命(https://ameblo.jp/keith4862/entry-12572990987.html)がご祭神。一般に「水を司る司祭者」といった見方とされますが、当社側は「憑依神・神託神」としています。いずれにしても藤原氏が関与し、平城京を守護する社であったかと。ちなみに表鬼門には東大寺が建立されています。

    ◎ 植槻坐魚名神社は通称「金魚神社」。金魚の町として知られる大和郡山市ならではのもの。こちらは「力をつけた金魚は、赤い髭を持つ青龍に変化して水を司る」という中国の故事に因んで、青龍神を祀っているとも。これはおそらく、平安京に遷都されて以降に祭神替えされたものと思います。

    ◎ 「植槻(殖槻)」について当社は、「『白村江の戦』後に高句麗から日本に帰化した高氏は『殖槻連』を名乗り、雅楽寮小属・陰陽頭兼陰陽師・遣唐留学生・金工・画師が任用の官職・専門分野であったという」と。

     「新撰姓氏録」には「高氏」の項が2ヶ所、「高史」の項が1ヶ所あり、いずれも高句麗国からの帰化人であると記されます。
    高氏が殖槻連を名乗ったということに関しては、引用元の資料が分からず不明。「続日本紀」の大宝元年八月の条に、高氏とともに殖槻連が位階を授かった旨が記されています。

    ◎ 「枕草子」に、「森は うゑつきの森」 とあり、森について記した中の、筆頭に挙げられています。

     また「万葉集」巻十三には、

     「我が思ふ 皇子の命は 春されば 殖槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし」 (長歌より抜粋)、と見えます。

    これは高市皇子が「植槻の丘」に登り、国見をしたという歌の一部。いずれも特別な地であるとの認識が、あったのだろうと思います。

    ◎ 奈良に都があった時代は大変に重要な社であったものの、京へ遷都されて以降は衰微したようです。郡山城の築城とともに復興しますが、武家の守護神として誉田別命を祀る社へと変遷したことが窺えます。



    ※ 植月御所(美作市高根鳥羽野)界隈にある萬福寺 https://www.e-tsuyama.com/report/2021/05/post-1075.html

    (美作南朝7代尊純天皇は、植月御所内の高福寺を現在地=鳥羽野に再建し、萬福寺と改称の上、弟の見政院法親王を初代住職にし、次の代も弟をこの寺の住職にしている)


    ※ 植月御所散見記 令和2年3月 https://www.e-tsuyama.com/report/2022/03/post-2072.html

     建武元年(1334)御南朝第二代・忠義親王、のちの髙福天皇は植月御所に帰られ、45歳でこの地で亡くなられ、植月北山御所に埋葬された。

     『東作誌』に依れば、この地を髙仁(たかに)と呼び親しみ、現在は髙根と改称されている。 植月御所に入る南正面入口付近を宮城と呼び、御所の北側を北野と呼んでいる。南の正面入口付近と鳥羽野辺りを南山と呼び、天皇の住まいは、北の台地頂上付近で、仙洞御所と呼んでいる。


    ※【親王墓】良懐親王(岡山県久米郡美咲町)https://ameblo.jp/ks57971104/entry-12854019582.html

     三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史 植月御所の真相(昭和三十六年二月十五日 田中千秋 著)

     『 凡ソ今カラ五百十八前ノ嘉吉三年癸亥十月二十九日ヨリ元禄十年丁丑八月二日マデ、二百五十四年ノ長期間二亘ッテ美作国植月庄北村、現在ノ髙根、鳥羽野両部落ヲ中心二、後南朝正系初代髙福天皇ヨリ、九代良懐親王二到ルマデノ隠レタ天皇ノ行宮ガアッタ。』


    管理人 投稿日: 2024年11月30日 21:41 No.588
    植槻八幡みてきました。また詳細は12月の研究会にてお話しましょう。


    郡山城・箸墓・伊勢ライン 管理人 投稿日: 2024年11月26日 22:09 No.584 【返信

    続いて、関西方面の遺跡探索も行ってきたので、その報告をしたいと思います。

    熊本から宮崎を経て、関空経由で泉穴師神社、東大寺山古墳、豊日神社、吉野・勝手神社、生国魂神社、奈良春日、郡山城、猪上神社をみてきました。

    まず、泉穴師神社ですが、池上曾根遺跡の南西にあり、天照神(その荒魂の瀬織津姫)の息子・天忍穂耳尊と栲幡千千姫命(万幡豊秋津師比売命)を祀ることから、女王台与との関連を予想しましたが、図のように、瀬織津姫・忍穂耳を祀る諸社を結ぶラインの西の起点となっており、弥生時代から古墳時代の初期にかけて、物部氏の祖・ニギハヤヒと妻のトミが畿内に東征したあたりの伝承ともかかわっていることを予想します。

    実際訪れてみた限りにおいては古墳状の地形は確認できませんでしたが、ただ敷地の形状が通常の神社とかことなり多角形であることから、過去に前方後円墳のようなものがあった可能性も想定しておくべきかもしれません。

    次に東大寺山古墳ですが、こちらは4世紀後半の前方後円墳で、後漢時代の中平(184~189年)の年号を刻んだ刀が出土し、その年代が「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期にあたることから、後漢から倭の女王として当時即位したであろう卑弥呼へ賜った刀ではないかとも言われています。

    その古墳自体は丘陵を利用した中腹にあり、見晴らしの良い大型古墳と見受けられました。

    位置的には、図2のように、東大寺(辛国神社)⇔渟名城入姫神社⇔東大寺山古墳東部(古墳状地形)⇔箸墓古墳を結ぶ南北ライン上があり、図3のようにこの古墳の東のライン上のシャープ天理研究所に直径100m・高さ20m前後の古墳状の地形があるので、この古墳からの出土遺物を、和爾氏後裔が柄部を倭製にして埋納しなおしたものであるかもしれません。

    なお、このライン上にみえる渟名城入姫神社については、『日本書紀』崇神天皇6年条、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神・倭大国魂神の2神を居所に祀ったことにあると考え、そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭笠縫邑に祀らせ、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせるも、渟名城入姫命の髪は抜け落ちて体も痩せてしまったため、倭大国魂神を祀ることが出来なかったとの記載があります。

    また箸墓古墳は孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)を祀った陵墓とされており、崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら])に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたとの話があります。

    崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視されます。

    ここで、先の 渟名城入姫の神社と箸墓が南北に位置づけられていることも、これらの崇神朝の伝承との関係でとらえうるかもしれません。

    また、図2のように箸墓の真西に伊勢の斎宮があり、斎宮の起源は上記の天照大神を豊鍬入姫命につけて倭笠縫邑に祀らせたことに始まるとされており、また次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭り、この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮を五十鈴の川上に興つ。是を磯宮と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測されています。

    この天照大神を最終的に祀らせたのが図2の伊勢の内宮となり、伊勢内宮⇔箸墓古墳⇔応神陵⇔浦間茶臼山古墳への5度偏角のラインの存在はそのことを裏付けるものです。

    なお、浦間茶臼山古墳は箸墓と同規格の2分の1サイズで造営されていることが知られており、吉備方面から箸墓、伊勢へと流れていった集団の痕跡を示すものでしょう。

    この浦間茶臼山古墳は、以前も分析したように、森将軍塚古墳⇔浦間茶臼山古墳⇔川部・高森古墳群(宇佐)⇔女山神籠石への東30度偏角のライン上にあり、このラインと平行になるのが、図のように富士山(山頂)⇔伊勢内宮⇔西都市山田古墳状地形への東30度偏角のラインとなります。

    また伊勢内宮⇔森将軍塚古墳への東60度偏角のラインの存在も、30度の2倍角の人工的な位置付けと言えるでしょう。

    九州方面のラインについては以前も述べたので割愛しますが、川部・高森古墳群⇔天岩戸神社⇔西都市山田古墳状地形への南北ライン、宮崎神宮⇔西都市山田古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡北墳丘墓⇔平原遺跡への西60度偏角のラインなどがあり、元は九州系の集団が東遷によって、これらの拠点を構築していったことをうかがわせるものでしょう。

    また上記の伝承で、倭迹迹日百襲姫の父としてみえる孝霊天皇について、天王寺古墳状地形⇔孝霊陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔纒向勝山古墳⇔三輪山北部への西20度偏角のラインがあることも以前指摘したとおりですが、纒向勝山古墳にみえる纒向型前方後円墳が、箸墓よりも古くかつ同規格とみなされていることと一致してきます。

    つまり孝霊天皇の時代に吉備方面から畿内へと入り、その後の娘の倭迹迹日百襲姫の時代に箸墓が構築されたのでしょう。

    その天王寺の古墳状地形は、天王寺公園にあり、位置的には、図1のように、大阪城⇔天王寺古墳状地形⇔住吉大社⇔大鳥大社への東70度偏角のライン上になります。

    そして図のように、大阪城⇔辛国神社(東大寺)、天王寺古墳状地形⇔郡山城、住吉大社⇔東大寺山古墳(+古墳状地形)、大鳥大社⇔箸墓古墳へとそれぞれ東西同緯度ラインがあることもわかります。

    これと平行して和泉黄金塚古墳⇔桜井茶臼山古墳への東西ラインもあり、その桜井茶臼山古墳⇔箸墓古墳⇔郡山城への西62度偏角のラインと、辛国神社(東大寺)⇔郡山城⇔信貴山南部⇔和泉黄金塚古墳⇔泉穴師神社への東30度偏角のラインとが概ね直交しています。

    この泉穴師神社⇔六甲比命神社への西60度偏角のラインもあり、その泉穴師神社については、天忍穂耳とその妻の  を祀っており、六甲比命神社については、その天忍穂耳の母にあたる天照大神の荒魂の瀬織津姫を祀っていることは以前も述べたとおりです。

    その六甲比命神社⇔石切神社⇔郡山城⇔伊勢内宮への西15度偏角のラインにも留意しておくべきで、同じく六甲比命神社⇔椿井大塚山古墳への東西ラインがあります。

    その椿井大塚山古墳⇔大和神社⇔箸墓古墳⇔勝手神社(大日寺)への西5度偏角のラインも以前指摘したとおりですが、その5度軸を傾けるラインは、先の浦間茶臼山古墳⇔箸墓古墳⇔伊勢内宮への西5度偏角のラインとともに、この箸墓とその年代にのみみられる測量方式です。

    あと、図のように、応神陵が伊勢⇔箸墓⇔浦間茶臼山古墳ライン上にあり、また応神陵⇔大阪城への西60度偏角のラインの存在を考慮すると、応神陵が5世紀代に造営される以前に、何等かの拠点が後円部に存在した可能性があるでしょう。

    同様にその大阪城についても、箸墓古墳⇔大阪城への西30度偏角のラインの存在を考慮すると、先日指摘したように、300m前後の箸墓サイズの前方後円墳の後円部に大阪城が構築された可能性が高くなります。

    ある時期の都城区画の西北の拠点として大阪城があり、東南の拠点として箸墓古墳があったように見受けられます。

    その他、石上神宮の東北にある豊井神社も見てきましたが、箸墓関連の拠点には豊(トヨ)の字名が多いことがあり、箸墓の真東にトヨスキイリヒメの斎宮が位置づけられていることや、このラインとかかわってくる天忍穂耳とその妻・栲幡千千姫命(万幡豊秋津師比売命)にみえるトヨの語音からみて、卑弥呼の次の女王・台与(トヨ)との関係を考慮しておくべきかもしれません。




    宮崎方位ライン 管理人 投稿日: 2024年11月25日 20:37 No.582 【返信

    先日の探索報告の続きですが、今回は宮崎神宮と生目古墳群をみてきました。
    その生目古墳群については、昨日の報告でも述べたように、西都原古墳群の男狭穂塚の真南に1号墳があり、この古墳がこの古墳群、強いては南九州で最も古い古墳と見なされていることがあります。発掘が進まないのには訳がありそうです。

    また宮崎神宮については、神宮の敷地南部に池地(五所稲荷の北)があり、ここが前方後円墳状の可能性を感じました。

    具体的には図3のようになりますが、100mほどの前方後円墳とその周壕のような楕円形の池地があることに気づきます。

    ライン面ではこの神宮と関係するラインを整理したのが図1、2となりますが、この池地をラインが交差・通過していることがわかります。

    具体的には、宮崎神宮に関するものとしては、図1のように、まず宮崎神宮⇔西都市山田古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡北墳丘墓⇔平原遺跡への西60度偏角のライン、天岩戸神社⇔宮崎神宮⇔宮浦神社への西85度偏角のライン、宮崎神宮⇔韓国岳の東西ラインがあります。

    この宮浦神社は宮浦宮とも呼ばれ、鸕鷀草葺不合尊の后神で神武天皇の母神である玉依姫命を御祭神とするが、神武天皇と、天神七代12柱、地神五代5柱の計18柱を祀っており、宮崎神宮同様に神武天皇に関わる重要拠点と言えるでしょう。

    ぞの宮浦神社⇔韓国岳ラインは西30度偏角となり、韓国岳が日向勢力の拠点の測量起点であったことは以前の分析で明らかにしたとおりです。

    図のように、桜島(中岳)⇔韓国岳⇔天岩度神社への東60度偏角のライン、それと直交する天岩戸神社⇔女山神籠石への西30度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

    その女山神籠石⇔川部・高森古墳群への東30度偏角のラインもあり、その川部・高森古墳群⇔平原遺跡⇔神集島への東西ライン、同じく川部・高森古墳群⇔天岩戸神社⇔西都市山田古墳状地形への南北ラインの存在も以前指摘したとおりです。

    その神集島については、神集島⇔平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインがあり、また女山神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔川部・高森古墳群への東30度偏角のライン、女山神籠石⇔津久見島への東西ラインがあることも以前お知らせしたとおりですが、その津久見島に関しては、図2のように、宮崎神宮⇔津久見島⇔出雲大社への東72度偏角のラインの存在が明らかになります。

    このラインと直交して、津久見島⇔平原遺跡への西18度偏角のライン、出雲大社⇔伊勢内宮への西18度偏角のラインが見えてきます。

    その出雲大社⇔小室浅間神社への東西ライン、小室浅間神社⇔宮崎神宮⇔桜島(中岳)への東30度偏角のラインも明らかにできます。

    小室浅間神社については富士山の北に位置しており、「下宮」と呼ばれる所以は、かなり古い時代からの神武関連の祭祀拠点であったことに由来するのではないでしょうか。

    このように、日向勢力の中心拠点として宮崎神宮とその古墳(状地形)があり、その位置は韓国岳や桜島、富士山、津久見島、神集島をもとに割り出さていったことが伺えます。

    これらの拠点を結ぶライン上に、後代の小迫辻原遺跡や平塚川添遺跡、天岩戸神社といった弥生遺跡やアマテラス信仰の中心拠点が現られてゆき、神武東征に象徴される東方進出によって伊勢神宮や出雲大社などが造営されていったことも予想できますが、出雲大社については先住民の信仰拠点を再活用した可能性があることも以前お話したとおりです。

    あと、上記のように30度、60度、90度の三分角を多用した測量方法は、後代まで継承され続けているものですが、このライン理論を応用することで、まだ見出されていない遺跡や古墳も多く見つけることができるでしょう。

    年代は弥生時代


    青面金剛 投稿日: 2024年11月26日 05:19 No.583
    >神武東征に象徴される東方進出によって伊勢神宮や出雲大社などが造営されていったことも予想できますが、

    ※ 伊勢神宮の伊雑宮は、元々は、東出雲王家『富家』の分家である『伊澤富』が建てた社。内宮第一の別宮・荒祭宮は、内宮が建つ以前から、祀り続けられている、地主神を祭神としています。


    >出雲大社については先住民の信仰拠点を再活用した可能性があることも以前お話したとおりです。

    ※ 出雲大社の造営に当たっては、西出雲王家である『神門臣家』が木材を提供し、東出雲王家である『富家』が敷地と造営資金を提供しました。出雲国造家や中央政府からの出資は何も有りません。

     方位ラインだけを頼りに、中央史の史観から、安易な憶測を綴っても、評価の対象にも成りません。

     方位ラインは、起点を選ぶ段階で、その人の好みによる趣向が強い、と見做されますから、偏角の部分は、興味が薄く、未発見の古墳や遺跡に興味ある人以外は、飛ばし読みで済ませてるのが、大半だと思います。


    熊本方位ライン 管理人 投稿日: 2024年11月24日 02:01 No.578 【返信

    先日、仕事の関係で熊本から宮崎を経て、奈良を廻ってきたのですが、その報告を少しづつ書いておきたいと思います。

    まず、熊本では、先の目をつけておいた水前寺公園と熊本城を見てきました。水前寺公園については、中世細川氏の庭園とみなされていますが、それ以前に古墳があった可能性をライン面から指摘しましたが、実際に見てみると、図2のように小型の前方後円墳のような地形が多くあり古墳群だったのではないかと感じます。

    特に富士山を模した大型の築山あたりも古墳の可能性を感じますが、その他築山になってない公園の外れの地域にも、前方後円墳状の地形が残っているので、これらの古墳群を築山にある時期にしたことを予想します。

    その水前寺公園の位置については、図1のように、水前寺公園⇔豊岡⇔菊池城⇔ダンワラ古墳への東70度偏角のラインがあり、また水前寺公園⇔田原坂(豊岡)⇔山門(瀬高町)⇔吉野ヶ里遺跡西南部⇔平原遺跡への西60度偏角のラインもあり、図のように、田原坂(豊岡)⇔菊池城への東30度偏角のラインと直交しています。

    その田原坂(豊岡)⇔平塚川添遺跡への南北ラインがあり、その平塚川添遺跡⇔ダンワラ古墳への西20度偏角のラインと、先の水前寺公園⇔ダンワラ古墳への東70度偏角のラインとが直交しています。

    その田原坂(豊岡)⇔ダンワラ古墳への東60度偏角のラインもありますが、ここで豊岡との豊(トヨ)に関わる字名が複数見えてくることに留意しておくべきでしょう。

    ここで菊池城がこれらのラインの中心拠点として浮かび上がってくるのですが、菊池城に関しては、その他にも山門(瀬高町)⇔菊池城⇔天岩戸神社への西30度偏角のラインや、図のように、菊池城⇔西都原古墳群⇔那珂八幡古墳への西60度偏角のライン、同じく菊池城⇔神崎ノ鼻(山門野)への東30度偏角のラインと、西都原古墳群⇔神崎ノ鼻(山門野)への東西同緯度ラインとが正三角形領域を形成していることにも気づきます。

    加えて、その神崎ノ鼻(山門野)⇔天岩戸神社への30度偏角のラインもあります。

    そして、天岩戸神社⇔ダンワラ古墳への西60度偏角のラインも、上記ラインと平行になるのですが、その山門野や先の山門(瀬高町)にみえるヤマトの語音を考慮すると、弥生時代後期から古墳時代初期にかけての邪馬台国の領域支配とこれらの拠点とが関係していた可能性がありそうです。

    また菊池城の北に先日考察した天照大神の荒魂・瀬織津姫に関する瀬成神社があり、先の天岩戸神社とともに、アマテラス信仰とのかかわりがみえてくることも重要です。

    あと、西都原古墳(男狭穂塚)の南に生目古墳群(1号墳)があり、この古墳群も今回見てきたのですが、西都原古墳より生目古墳群のほうが古いこともあり、上記の菊池城を頂点とした正三角形領域の形成については、古墳時代の最初期からやや時間を経た年代にさしかかっていた可能性も考慮すべきかもしれません。

    そこと先の豊岡の豊、つまり女王台与の年代とが重なってくれば興味深いのですが、いずれにせよ菊池城周辺が、重要拠点として認識されていたことは間違いないでしょう。

    そこで、菊池城の航空写真や断面図をまとめてみたのが図3となります。ここで菊池城は直径300m、高さ30m前後の前方後円墳状地形の上に建てられていたことが明らかにできそうですが、これは箸墓古墳のサイズと近似するかもしれません。

    古墳時代初期のある時期に、菊池城周辺に南九州を支配する一大勢力があり、その後の時代に、水前寺公園周辺を拠点とする「豊(岡)」に関わる拠点が形成されていったことが考えうるでしょう。

    この熊本の勢力と、宮崎の勢力との関係については、また宮崎神宮などもみてきたので、その辺との兼ね合いから、後日報告したいと思いますが、菊池城そばの菊池神社摂社には生目神社があり、また宮崎の生目神社は、後代の応神とは別に、相殿神として彦火瓊々杵尊、彦火火出見尊、鵜茅葺不合尊の3柱を相殿に祀っているように、日向系の勢力との関わりが予想されます。

    その生目神については、崇神の次の垂仁(活目(イクメ)イリヒコ)との兼ね合いが予想されており、つまり、北部九州に拠点があった物部系の崇神朝(ニギハヤヒの畿内進出)と、その後に畿内にはいった垂仁朝(神武東征と関わる日向南方海人の勢力)との2つの軸から解き明かしていくと、理解しやすくなるかもしれません。


    青面金剛 投稿日: 2024年11月25日 03:35 No.581
     先ず、菊池城が、菊池神社の在る菊池城趾の事と、7世後半(約1350年前)にヤマト政権が築いた鞠智城(きくちじょう)「当時は、久々知(くくち)の城(き)と呼ばれていました。」の方を分けて紹介すべき。

    菊池神社について 
    熊本県菊池市、菊池を舞台に活躍した菊池一族の居城、菊池城の本丸跡にある菊池神社と我ふるさと菊池市のイベントやグルメ情報
    xn--btw921c.net


    鞠智城・温故創生館 
    画像
    鞠智城(きくちじょう)は7世紀後半(約1300年前)に大和朝廷(政権)が築いた日本の古代山城です。熊本県山鹿市菊鹿町にて当時の建物を復元した「鞠智城跡」と鞠智城に関する展示を行う「温故創生館」をご案内しております。国営公園化を目指しています。
    kofunkan.pref.kumamoto.jp



     田原坂(豊岡)は西南戦争の激戦地。 古来から、この周辺の土地は交通の要衝で、流通と防衛の重要拠点でもあった。


    熊本市田原坂西南戦争資料館 https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/216



    >古墳時代初期のある時期に、菊池城周辺に南九州を支配する一大勢力があり、


    ※ 古墳時代初期のある時期に、南九州を治める国津神である『球磨国』『曽於国』と連携する勢力が、この菊池城周辺にも営んでいた。


    ☆ 菊池神社の真東には、阿蘇國造神社(熊本県阿蘇市一の宮町手野)が鎮座し、「昔、阿蘇谷が湖だったころ、その主たる大鯰がいた。」の神話を伝えています。

    阿蘇國造神社 https://asokokuzo.com/shinwa/


    ◆ 方位ラインによる遠回しの推測を、断片的に沢山列挙しても、枝葉部分の話ばかりで、九州の古代史の、主立った流れが掴み難い。

     年内に、九州の古代史を時系列的に纏めた、「九州の古代史のまとめ。」のページを設けないと、読んでる側は、話が散漫すぎて、内容を整理習得できない。

     十年余り前、地元の方々に、『球磨国』の主立った地を案内して貰えた厚遇を受けて、今回も都市間バスで『球磨国』を通って来た筈なのに、『球磨国』の名前すら忘れてるんじゃ。

     記述の表現も、地元の方々に配慮した気配りが必要。国津神が共存共栄で、平和的に地元を栄えさせているのに、「支配する」の中央史からの視点で書くと、反発も受けます。




    熊本ライン 管理人 投稿日: 2024年11月04日 01:20 No.575 【返信

    九州に向かうにあたって、特に今回は熊本方面の方位ラインを作成してみました。図1,2のとおりです。

    まず、菊池城に関するラインが見えてきたのですが、具体的にはダンワラ古墳⇔菊池城⇔水前寺公園への東70度偏角のラインがあります。この水前寺公園には後述するように、古墳状地形があるようです。

    このラインと直交して、以前もお知らせしたダンワラ古墳⇔平塚川添遺跡への西20度偏角のラインがあります。

    また天岩戸神社⇔菊池城への東30度偏角のラインがあり、同じくその天岩戸神社⇔ダンワラ古墳への西60度偏角のラインがあることも以前お知らせしたとおりです。

    さらに田原坂に注目すると、平塚川添遺跡⇔田原坂への南北ラインがあり、また田原坂⇔菊池城への東30度偏角のラインと、田原坂⇔水前寺公園への西60度偏角のラインとが直交しています。

    その他、菊池城⇔平塚川添遺跡への西70度偏角のラインと、線対称にして、菊池城⇔ダンワラ古墳への東70度偏角のラインもあります。

    同様に菊池城⇔天岩戸神社への東30度偏角のラインと、菊池城⇔田原坂への西30度偏角のラインとが線対称になっています。

    菊池城や水前寺公園については、中世の構築とされますが、ライン面からみると、弥生時代の遺跡と接合しており、この地にもその時代の遺跡なり拠点があった可能性が高いでしょう。

    その水前寺公園については図3の断面図にみえるように、全長100m、高さ10m前後の前方後円墳状の地形が残っているようにも見受けられます。


    あと熊本城⇔水前寺公園への西30度偏角のラインがあり、また熊本城⇔菊池城への東60度偏角のラインと直交しているので、この熊本城についても、注目しておきたいところです。

    またそれらの地形については現地調査を行いながら考察を進めてみたいと思います。




    箸墓ライン2 管理人 投稿日: 2024年11月03日 02:39 No.574 【返信

    先日は箸墓についての方位ラインを作成しましたが、さらに細かく見ていくと、図1~3のようなラインも見えてきます。

    まず六甲比命神社⇔生国魂神社⇔猪上神社⇔纒向勝山古墳⇔纒向遺跡⇔三輪山への西25度偏角のラインがあります。このラインが本来は西30度偏角のラインであるはずのものも、軸5度ずれていることからくるものでしょう。

    その三輪山⇔纒向矢塚古墳⇔黒田庵戸宮⇔孝霊陵⇔天王寺古墳状地形への西20度偏角のラインもあります。

    また春日大社⇔郡山城⇔山田町⇔猪上神社⇔高尾山⇔鐸比命神社⇔泉穴師神社への東28度偏角のラインは先日もお知らせしたとおりです。

    続いて、春日大社⇔西山古墳⇔箸墓古墳への東2度偏角の南北ラインも見えてくださります。

    箸墓古墳⇔黒田庵戸宮⇔猪上神社への西25度偏角のラインも見えますが、このラインは先日もお知らせしたように、本来は西30度偏角のラインであったものが5度軸がずれていることによると考えうるでしょう。

    あと、泉穴師神社⇔山田⇔黒田庵戸宮への東15度偏角のラインもあり、勝手神社⇔猪上神社への西55度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

    このように、先日指摘した軸を5度ずらした時期の測量の痕跡が、上記のように六甲比命神社⇔三輪山へのラインに見え、そのライン上に纏向遺跡や、纏向勝山古墳が載っていること、逆に同じ三輪山を起点としていても、纒向矢塚古墳⇔黒田庵戸宮⇔孝霊陵⇔天王寺古墳状地形にみえるように5度のズレの影響を受ける以前のやや古いものがあることも重要な相違と言えます。

    つまり、天王寺古墳状地形⇔黒田庵戸宮⇔纒向遺跡へと構築する集団が現れて、その後、5度軸をずらした漢魏洛陽城をもした城郭都市を作り上げていく時代とがあり、後者に六甲比命神社や箸墓、椿井大塚山古墳、伊勢内宮などをもたらしていった集団、すなわち瀬織津姫、天照大神を畿内へともたらした集団がいたように見受けられます。

    ただし、正確には28度偏角など、2度軸をずらした測量をした集団もいたことも想定しておくべきで、元の起点は先日も指摘した天岩戸神社にあり、そこから東32度偏角で六甲比命神社へ、また東28度偏角で泉穴師神社⇔郡山城へのラインが出てくることも留意しておくべきでしょう。

    森将軍塚古墳などが見えてくるのは、その後の時代で、このときには、また東60度偏角、0度偏角の測量が用いられていることからみて、5度軸をずらした測量を行った期間は限定的であったことを想定しておくべきでしょう。

    箸墓、椿井大塚山古墳、桜井茶臼山古墳、西殿塚古墳、纒向勝山古墳、纒向遺跡あたりの年代で、三角縁神獣鏡でも魏年号銘鏡の時代より少し後の時代、台与の時代あたりではないでしょうか。ここで上記ように、邪馬台国と関わるであろう山田の字名もライン上に見えてくることに注目しておきたいところです。

    ただ、畿内でも黒田庵戸宮は中心点(軸)として機能しており、もともと大王の宮のあった地点を起点としつつ、軸を5度ずらした都城区画を構築する集団、そばの鏡作神社にみえるような金属精錬を行う技術者が、畿内へと移動してくる契機が、少し後にやってきて、その結果として、上記のような2種の構築がみえることとなったのではないでしょうか。

    この辺については、また来週の現地調査をもとに、さらに考えを進めてみたいと思います。




    箸墓ライン 管理人 投稿日: 2024年10月31日 00:22 No.572 【返信

    先日、邪馬台国畿内説に関わるであろう方位ラインを作成しましたが、その中でその畿内説で卑弥呼(最近は台与の墓)とみなされている箸墓古墳について触れることがなかったので、今回その箸墓古墳に関するラインを再度作成してみたのが図1~3です。

    まず図1のように、浦間茶臼山古墳⇔箸墓古墳⇔三輪山西北部⇔伊勢内宮へと至る西5度偏角のラインがあります。

    このライン上にみえる浦間茶臼山古墳は、椿井大塚山古墳と同様に箸墓の2分の1サイズで規格された古墳とみられており、吉備にあることから、箸墓古墳と吉備系の出土物に関係してくるでしょう。

    また伊勢内宮も先日お話したように、天照大神の荒魂を祀る点で卑弥呼との関連を予想した瀬織津姫との関係が見えてきます。

    その三輪山西北部は先日も注目した位置となり、箸墓と関わるヤマトトトビモモソヒメと三輪山の大物主との神話伝承がよく知られているところです。

    このラインと直交するのが、箸墓古墳⇔春日大社への東85度偏角のラインとなります。

    次に、先日も注目した椿井大塚山古墳⇔大和神社⇔纒向遺跡⇔箸墓古墳⇔大日寺(勝手神社)への西85度偏角のラインがあり、このラインと平行に、春日大社⇔三輪山西北部への西85度偏角のラインがあります。

    この大和神社は、上記ヤマトトトビモモソヒメと同様に崇神朝の神祇祭祀に関する伝承と関わっており、また大日寺そばの勝手神社は、先日もお知らせしたように、瀬織津姫の息子の天忍穂耳を祀っていることがありました。

    これらのラインと直交するのが、西殿塚古墳⇔黒田庵戸宮への東5度偏角のラインです。

    西殿塚古墳も箸墓古墳と年代的に近いものとされており、黒田庵戸宮については、先日の瀬織津姫に関するラインでも見えてきた孝霊神社南部にあたり、吉備と孝霊天皇との関わりから捉える必要が出てきます。

    そこで、先日の瀬織津姫関連のラインで注目した郡山城についてみていくと、まず池上曽根遺跡⇔猪上神社⇔郡山城⇔春日大社への東27度偏角のラインがあり、このラインと郡山城⇔箸墓古墳⇔桜井茶臼山古墳への西63度偏角のラインとが直交していることがわかります。

    その池上曽根遺跡は弥生時代の遺跡となりますが、その南に天忍穂耳と関わる泉穴師神社があり、また、春日大社は後代の中臣・藤原氏等の拠点でもありますが、郡山城周辺にも彼らの拠点があり、猪上神社で祀られる天足彦国押人命が5代孝昭天皇皇子で、第6代孝安天皇の同母兄、第7代孝霊天皇の外祖父となり、和珥氏・春日氏・小野氏ら諸氏族の祖となることから、上記の春日大社と関わってくるのも然るべき流れと言えるでしょう。

    その春日大社そばには、祓戸神社があり、ここでは瀬織津姫が祀られていますが、『南安曇郡誌』の記述などから、春日大社本殿第四殿に祀られている比売神とは、もともとは瀬織津姫のことであったとする説もあります。

    この祓戸神社の位置は、上記のライン上にあたり、その意味でも今回のラインと前回の瀬織津姫に関するラインとが関係性を持つことがわかるでしょう。

    なお、上記小野氏についても、瀬織津姫に関するラインで関東に小野神社が見えてくることとも関係するかもしれません。

    あと、その猪上神社⇔黒田庵戸宮⇔箸墓古墳への西25度偏角のラインもあり、ここでも吉備に関わる孝霊天皇の宮と箸墓、そして、和邇・春日氏との関わりが予想できます。

    和邇氏に関しては、天理市和邇・櫟本周辺に拠点があり、その東大寺山古墳(4世紀後半)の金象嵌の西暦184年-188年にあたる「中平」年間の紀年銘を持つ鉄刀が出土したことから、卑弥呼に与えられた刀ではないかとの説もありますが、 先の椿井大塚山古墳⇔大和神社⇔纒向遺跡⇔箸墓古墳⇔大日寺ラインと直交して、黒田庵戸宮⇔東大寺山古墳の東5度偏角のラインがみえてくることからも明らかにしうるかもしれません。

    上記のように、今回のライン分析では5度偏角が多様されており、その結果、本来は30度偏角であるものが25度偏角として現れてきていることがあります。

    この5度偏角、つまり5度軸をずらして測量することは、他の次代には見えないもので、この時代の畿内特有の特徴と言えるでしょう。

    そのライン上に上記の纒向遺跡(大型建物跡)が載ってくることがあり、その建物群自体も5度軸を西に傾けていることから、以前、この地に5度西に軸を傾けた中国式の都城が存在していたことを指摘したことがあります。

    具体的には、漢魏洛陽城と同様な都城区画があり、その宮殿位置が黒田庵戸宮で、その東西市が、大市つまり纒向遺跡となることを予想したとおりです。

    ある時期に、洛陽城の構築にかかわった技術者集団が日本へと渡来する契機があり、その影響で、奈良に同様な都城を構築することとなったのではないでしょうか。その都城構築、おそらくは宮廷工房の技術者が三角縁神獣鏡をデザイン・製造したのではないかと考えています。

    その技術者に関連して先の後漢末期の中平銘の刀がもたらされた可能性を感じますが、その集団が前述の瀬織津姫や内宮の天照大神の荒魂の祭祀にかかわっていたとすると、これらの箸墓古墳に関するラインの意味するとことは、重要性を増してくると言えるでしょう。

    ただ、その起点は、先日の瀬織津姫関連のラインにみえるように、九州の天岩戸神社や、女山神籠石あたりにあり、どの時期に卑弥呼および台与、その子孫が九州から畿内へと移動したか?がやはり検討課題と言えそうです。

    また今回のラインの詳細は11月に九州・畿内へ向かった際に、調査してくる予定で、結果がわかり次第報告いたします。




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