歴史掲示板(渡来人研究会)


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津久見島・冠島と邪馬台国の東方展開 管理人 投稿日: 2024年03月01日 01:17:58 No.377 【返信】

以前、九州の弥生遺跡や神籠石が津久見島を起点とした方位線測量で位置づけられていることと、畿内の元伊勢拠点や弥生遺跡や古墳が冠島を起点とした方位線上に存在していることを明らかにしましたが、その津久見島と冠島との間に、同様なライン面でもつながりがあるかどうかを考察してみると図のようなラインが明らかになってきました。

まず、津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳への東40度偏角のラインを確認できますが、この氷見市の柳田布尾山古墳は、3世紀末~4世紀初頭の前方後方墳とされており、墳丘長は107.5m(後方部54m×53m・前方部53.5m×49m)となります。以前、魏年号銘鏡を出土した古墳が、この前方後方墳(方墳)と纒向型前方後円墳とに見られることが多く、ラインで接合していることを明らかにしたこともありましたので、その件を留意しておきましょう。

その冠島については、元伊勢・籠神社の奥宮とされ、崇神朝からはじまる豊鍬入姫・倭姫による165年前後にわたる巡行の諸拠点の測量起点となっており、その巡行の終わりの伊勢に落ち着く年代がちょうど外宮が移動された雄略朝末期と重なることからも崇神朝が310年代であることを指摘したとおりです。

ここで、また冠島の真南に位置する弥生時代後期の池上曽根遺跡について、津久見島⇔萩原墳丘墓⇔池上曽根遺跡への東25度偏角のラインが存在します。

この萩原墳墓群については、弥生時代終末期で、纒向型前方後円墳の原型ともみなされる墳墓があり、畿内へ纒向型前方後円墳が入る直前期の遺跡であった可能性があります。

弥生時代後期に津久見島を拠点に支配を広げていた九州系集団が、畿内方面へと東遷していく過程で、徳島のこの萩原墳墓群周辺に拠点を置いていたことがあったのではないでしょうか。近くには忌部氏のアマテラス信仰に関わる大麻比古神社もあり重要拠点です。

その九州における拠点について再度確認していくと、図3のように、まず津久見島⇔八女津媛神社(西隣の鬼塚字周辺)⇔女山神籠石(日子神社)⇔おつぼ山神籠石への東西ラインがあり、また津久見島⇔小迫辻原遺跡⇔杷木神籠石⇔長田大塚古墳⇔平塚川添遺跡への西15度偏角のラインがありますが、このラインと津久見島⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への東75度偏角のラインとが図のように直交しています。

そしてその持田古墳群⇔幣立神宮北東部⇔八女津媛神社⇔平塚川添遺跡への西60度偏角のラインがあり、このラインと平塚川添遺跡⇔冠島の東30度偏角のライン、女山神籠石⇔小迫辻原遺跡への東30度偏角のラインとが直交しています。

つまり冠島は、平塚川添遺跡と池上曽根遺跡とに影響されて位置づけられた(正確には冠島北部をラインが通過するので、その一番近くにあった島)であり、そこに、元伊勢に関わるアマテラス・トヨウケ神に関わる信仰を持ち込んだ集団がいたことになるでしょう。

さらに図のように、平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡南部⇔山田池⇔八堂山遺跡(伊曽乃神社)⇔萩原墳墓群への東15度偏角のラインがあり、先の津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳への東30度偏角のラインと、山田池周辺で交差しています。

ここに見えてくる川部・高森古墳群南部には免ヶ平古墳があり、50m前後の前方後円墳とみられ、竪穴式石室には、割竹形木棺が納められ、副葬品として、斜縁二神二獣鏡、三角縁三神三獣鏡、硬玉製勾玉、鉄剣、鉄槍、斧、刀子などが出土しており、初期古墳の可能性を感じますが、またこのライン上にみえる八堂山遺跡は弥生時代末期の高地性集落であり、またその傍に位置する伊曽乃神社では天照大神の荒魂と武国凝別命を祀り、アマテラス信仰の重要拠点であったことが予想されます。

またそのライン上に位置する山田池で、後者のラインと交差していますが、その山田池の山田の名が邪馬台国と関わることは以前から指摘しているとおりです。


関連して図2のように、その山田池の南には日尾八幡神社があり、品陀和気命(応神)、帯仲日子命(仲哀)、大帯姫命(神功)の三神を主神とする件は、宇佐神宮同様に九州に多いのですが、その境内社に、天照皇大神(玉垣内本殿東隣)や 東道後神社(天満神社東隣)で天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神が祀られており、アマテラス・ツキヨミ信仰が見えてくる点に留意すべきでしょう。

すなわちこの社地および山田池が、先のようにツキヨミとの関連が予想される津久見島と、アマテラス・トヨウケ神と関連する冠島(元伊勢・籠神社の奥宮)を結ぶライン上にあることに対応する祭祀を行っていたことが伺えるのです。

図2に差し入れた測量地図のように、その山田池を周壕とするようにして、その尾根を利用した220m前後の高地性集落・前方後円墳状地形が2つほど確認でき、日尾の字名も、日神を祀る尾根の意味であった可能性もありそうです。

関連して先の日尾八幡社の中玉殿に伊予比売命、饒速日命が祀られており、物部氏の祖のニギハヤヒが祀られていることは、九州方面からのニギハヤヒの畿内方面への東征を想起させますが、その中継地として、この伊予の地があったのかもしれません。

その山田池については、さらに月隈山⇔山田池⇔石岡神社⇔池上曽根遺跡⇔富士山への東18度偏角のラインがあり、また山田池⇔西谷墳墓群への南北ラインがあり、その西谷墳墓群⇔富士山の同緯度東西ラインがありますので、これら3つのラインで図のように直角三角形を構築していたこともわかります。

この月隈山は図3のように佐賀の日隈山と東西ラインにあり、その延長線上に帯隈山神籠石がありますが、また日隈山⇔女山神籠石⇔持田古墳群への西50度偏角のラインが見て取れます。

したがって、山田池は、富士山を起点とした測量とともに、池上曽根遺跡や平塚川添遺跡に造営され、また西谷墳墓群が造営された弥生時代後期に、重要拠点として位置づけられていた可能性が高いでしょう。

そこに、先の津久見島や冠島、そして九州・瀬戸内の神籠石・山城が関わってくるのですが、概して弥生時代後期から末期にかけての造営拠点であったろうと予想します。

なお、その石岡神社については、西条市氷見に鎮座し、また、先の津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳へのライン上にみえる柳田布尾山古墳も氷見市にあることから、氷見(ヒミ)の名に共通した意味があったことも伺えます。

これは山田≒邪馬台国、豊≒台与と同様に、氷見≒卑弥呼といった語的な共通要素があることについて以前紹介・考察を加えたとおりです。

冠島は、アマテラスとトヨウケ神に関連し、津久見はツキヨミ神に関連しますが、アマテラスは日神に、トヨウケは月読神と関係することがあり、さらに今回のライン拠点としてみててきた月隈山・日隈山についても、同様な日月信仰と関係するでろうことを考慮しておく必要がありそうです。

以上みてきたように、九州と畿内を結ぶ津久見島⇔冠島ラインの中間点としてみえてくる四国において、特に伊予の山田池周辺地域、その東の氷見・八堂山遺跡周辺、そして阿波の萩原墳墓群周辺の3つの領域が重要視されていたことが明らかになってきますが、また邪馬台国の東方への拡大過程において、これらの拠点を踏まえておくことが重要になってくるかもしれません。




あら不思議なこと 弓張月 投稿日: 2024年02月25日 14:17:03 No.375 【返信】

お久しぶりです。
一般的に酒を飲む為の小型の器(盃)の「おちょこ」は、漢字で御猪口なんですね。
宇佐八幡宮神託事件での和気清麻呂公におこった、「暗殺を謀って送られた道鏡の刺客(しかく)から、突然の天地雷鳴や300頭あまりの猪の大群が和気清麻呂を護り、さらに宇佐へ詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきたと伝えられています。」
それと、Google検索で面白いの見つけました。
漫画『ONE PIECE』に登場する架空の軍隊に登場する「サカズキ」は、悪は全て根絶やしにすべきという「徹底的な正義」を信条とする硬骨漢。とのこと
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍_(ONE_PIECE)#サカズキ

酒の神様で有名なのは、松尾大社ですね。まつおは、「末尾」で、酒(さか)は坂・阪のはん(伴氏)でしょうか? 
弓張月 投稿日: 2024年02月25日 14:24:37 No.376
サカズキは、通称「赤犬(あかイヌ)」なので、漢字で書くと坂月か阪月となりますか?


古代天皇の在位年代 管理人 投稿日: 2024年02月24日 16:19:58 No.374 【返信】

先日、箸墓および周辺の古墳や遺跡が、崇神紀の諸拠点と方位線で密接に接合して位置づけられていたことを明らかにしましたが、そのことにより、崇神朝記載の年代を確定することで、自動的に箸墓等の築造年代も明らかにしうる可能性を示しました。

そこでその崇神の在位年代を明らかにする必要がありますが、古事記の戌寅年の崩御年記載から、258年もしくは、60年繰り上げた318年が有力視されていることがあります。

そこで、まず318年として、そこから、他の古事記等の崩年干支を元にしながら、各天皇の在位年代を個人的に推測してみたのが図1の表となります。

その際、天皇の在位年代については、すでに指摘されているように、1干支60年を本来の在位年に加えられていたことを考慮して、記紀の在位年代から60年を差し引いた年を本来の在位年と見なします。

ただし、開化天皇の60年⇒7年、応神天皇の41年⇒25年、允恭天皇の42年⇒17年の3例だけは、特例として別に推測しました。

その允恭天皇については、崩御年・次王即位年が記紀ともに(甲午)454年となっており、この天皇の崩御年(在位年)が起点として、そこから記紀撰者が干支を加えて先祖の年代を延ばしていったと考えるべきですが、その在位年は42年ではなく17年とすべきでしょう。倭王済(443年・451年)の年代です。

同じく応神天皇については、古事記に甲午年(394)崩御記載があり、表のように、前代の神功皇后が69-60=9年、その前の仲哀天皇が9年の在位と考えると、380年~394年頃での在位と予想できますが、また次代の仁徳の在位が87-60=27年であり、その即位まで3年の空白期間があるので、30年を差し引いて、さらに、先の允恭454年・在位17年を起点として、そこから反正の5年、履中の6年を加えて差し引くと、結果として396年頃に崩御したことになり、古事記の394年に近くなるでしょう。

なお、応神25年の記載を境に37年まで記載なくなることも、応神の在位が25年前後であったことを意味するでしょうし、またその応神紀に(近)照古王(346年-375年)の献上記載応神紀に(近)照古王(346年-375年)の献上記載があり、375年頃までには応神が即位していたことになります。

さらに、応神25年に直支王が死去(420年)の記載があり、その直支王は、『三国史記』では次代の久尓辛王が420年3月に先王の死去に伴い即位したとあるので、そこから先の25年を引くと、やはり395年頃の即位が予想しうるでしょう。

その応神の記紀の在位年41年については、神功皇后の9年をその25年に足して、34年としてもまだ足りず、仲哀天皇の9年を足して、43年とすると近い値になりますから、仲哀天皇の存在もそもそもは架空であったことも考慮すべきでしょう。

なお、その前代の景行天皇、成務天皇は1干支60年の在位なので、そもそも記録が存在しておらず、適当に60年を差し込んだとも考えうるのですが、そうすると、その前代の垂仁天皇の次代が応神天皇であった可能性もみえてきます。

そのことは、垂仁の子の誉津別・品牟津和気命(ホムツワケ)が、応神の別名で『上宮記』の逸文では継体天皇の先祖に、通常応神天皇(誉田別命)とされる人物としてしるされる凡牟都和希王(ホムツワケ)と同音であることからも明らかにできそうです。

そして、垂仁天皇は53年で辛未年(371)崩御となっており、その庚午(370)年没の記載があるので、つまり応神の前代の神功皇后の崩御年と重なるのです。

すなわち、ある時期までの帝紀には、垂仁天皇の次はその息子の応神天皇と記されていたはずです。景行・成務・仲哀・神功皇后は後から挿入されたことになります。

さて、その垂仁天皇ですが、表のように、99年ー60年=39年の在位年代を予想しますが、先のように崇神天皇の崩御年を318年とすると、357年に崩御したこととなり、次の景行天皇を実在無しとして、その次の成務天皇(これも実在無し?)の古事記の崩御年・乙卯年(355年)より、2年プラスになってしまいます。

そこで、崇神の崩御年を316年として、垂仁の崩御年を39年を足した355年としてみました。

その垂仁39年を境に88年まで記載なくなることからみても、やはり在位39年で崩御した可能性が高まります。

そうすると、崇神が68-60=8年の在位となるので、その前代の開化天皇の崩御年は310年となるでしょう。

その開化天皇については、在位60年-60年=0年とのことで実在性が無いことになりそうですが、ただ、実際には開化5年に前代の孝元天皇を剣池付近(現孝元陵)に埋葬しており、陵墓造営に5年をかけたようにも見えます。

そのような崩御年から時間をおいての埋葬例は、他には孝霊天皇が次代の孝元6年に埋葬されている事例があり、また孝昭天皇が次の孝安38年に埋葬された事例、景行天皇が成務2年に埋葬、仲哀天皇が神功2年に埋葬された事例があり、その他は崩御年内に埋葬されています。(仁徳以降は生前に陵墓造営・崩御後すぐ埋葬か)

ここで、崩御年と埋葬年との間に開きがある場合、その陵墓の規模が大きかった可能性がありますが、現在の孝霊陵と孝元陵は形状やサイズも近似し、5年前後での造営であったことも予想しうるでしょう。

一方で孝昭陵はそうすると大きな規模であったのかもしれませんが、現在の孝昭陵はそこまで大きくは見えないので、別の古墳や場所を推定しなおすべきかもしれません。

ともあれ、これらの陵墓造営記載も、実在性を示す点で重要で、その開化天皇については、すくなくとも5年以上の在位期間があったことを想定すべきでしょう。その開化6年のイカガシコ(前代の孝元妃)を皇后とするなど、前王からの略奪婚?を思わせる記載がある点にも留意すべきで、6年以上の在位があった可能性が高まりますが、その後それ以降の記載がないので、その前後での崩御かもしれません。

そこで、今回は開化の在位期間を表のように6年を想定したのですが、そうすると興味深いことがわかってきます。

まず、孝元天皇の在位は57年、また古事記の崩御年齢が57歳、書紀は116(-60=56)歳で崩御としており、ともに57年としていることに何らかの年代的な意味があったことがわかります。

先のように開化天皇の在位を6年として崩御年を310年、その前代の孝元の在位を57年として303年の崩御とすると、その前代の孝霊の崩御年が246年となり、邪馬台国の女王卑弥呼の崩御年の247年に近似してきます。

次に、孝霊天皇の在位を76-60=16年とすると、前代の孝安の崩御年が230年となり、その在位を102-60=42年とすると、その前代の孝昭の崩御年が188年となり、その在位期間は83-60=23年となりますから、その年代が、ちょうど桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)の末頃 に卑弥呼が擁立されたとの漢書の記載に対応してきます。

ここで、一般的に考えられているように、卑弥呼が189年頃に即位して247年まで58年間統治したとの理解とは異なり、189年頃に孝安天皇が即位しその後崩御、その次代の孝霊天皇が231年頃に即位して、246年頃に崩御したとの流れで、2人の王の在位を、卑弥呼という1人の女王の在位として理解していた可能性が見えてきます。

そして卑弥呼を継いだ女王台与にあたるのが、次代の孝元天皇の在位57年となりそうですが、実際13歳で即位した台与が、その後70歳前後まで統治していた可能性も考えうるでしょう。

そうすると、ひとつ考えうることは、卑弥呼の墓が、現在の孝霊天皇陵(150m前後)として、台与の墓はそれと同型同サイズの孝元天皇陵とみなすことがありますが、ただ、57年も築造時期があるのにもかかわらず、形状やサイズが同じでしかも、図2のように同じ方位線上(つまり設計時期が同じ)となるのは不自然な感じがします。

ただ、その孝霊天皇陵については、その宮の黒田庵戸宮(孝霊宮)が、その後の欠史天皇陵や宮地をはじめとする多くの古墳の測量起点となっていることは以前指摘したとおりです。

実際、その孝霊天皇陵は、大阪の天王寺公園そばの箸墓サイズの前方後円墳状地形⇔孝霊天皇陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔纒向矢塚古墳へと至るライン上に位置していますが、このラインと、纒向矢塚古墳⇔孝元天皇陵ラインとが直交しています。

さらに孝霊天皇陵⇔神武天皇陵⇔孝元天皇陵へのラインもあります。

したがって、この孝霊陵と孝元陵が、奈良のもっとも古い纒向矢塚古墳や纒向遺跡の起点となっていたことも予想されるのでして、年代としては、ある時期に実在した孝霊天皇と見なされた王の時代の築造と考えるべきでしょう。

そして、神武天皇陵については、この直角三角形のラインが形成された後、しばらく経ってから、このライン上に構築されたと考えるべきで、孝霊天皇の時代より後代に神武天皇の時代(東征)があったことを伺わせます。

なお、この孝霊朝の前代にいたであろうもう一人の卑弥呼については、188年~230年の在位で、どこか別のところにおり、先の孝霊⇔纒向矢塚古墳ラインの延長線上にある天王寺公園のある大阪方面やさらにその延長線上にある以前も指摘した播磨の桜ヶ丘銅鐸出土地、あるいは孝霊天皇と関係が深い吉備方面、四国・九州方面まで視野を広げて置く必用があるかと感じます。

そのことは、先の表のように、孝昭天皇の前代の懿徳天皇を在位34年として、165年崩御、その前代の安寧天皇の在位を38年として、131年の崩御とすると、ちょうど安帝(106-125)の永初元年(107年)に倭国王帥升等朝貢の時期と重なることがあり、その安寧が、安帝をなぞっていたことも伺えます。

淡海三船が、これらの天皇名を名付ける際に、中国史書の記録をもとに、当時理解していた天皇の実年代を当てて、安帝=安寧、霊帝=孝霊、元帝(魏)=孝元といった具合で名付けたことについても以前指摘したことがあります。

そして、その帥升の升が、女王の使者の難升米の升、邪馬台国の官職の彌馬升の升との関係を考えるときに、この倭国王帥升の倭国と、後の卑弥呼とが邪馬台国の升といった官職・組織面でもつながっていたことを理解しうるのですが、さらにその前代の綏靖天皇の在位を33年として、その崩御年を93年、そして初代の神武天皇の在位を76-60=16年として、その崩御年を57年とすると、ちょうど倭奴国王に金印(57年)を与えた時期となるのです。

これも偶然ではないとすれば、九州方面の奴国の系統の国としての邪馬台国が見えてきますから、したがって先のもう一人の卑弥呼の居住地についても九州方面まで視野に入れておく必要があるでしょう。

その九州方面の弥生時代中期以降の諸遺跡の測量の起点は大分の津久見島にあり、また同じく畿内の同時期からの諸遺跡の起点が若狭湾の冠島にあることも以前も指摘したとおりですが、具体的には図3のようになり、九州では平塚川添遺跡や神籠石、持田古墳群(魏年号銘鏡出土)、四国では萩原墳墓群、ます。その件については、畿内では池上曽根遺跡や伊勢遺跡、黒塚古墳、北陸の柳田布尾山古墳など、弥生遺跡や初期古墳がみえてきますが、その件についてはまた機会を改めてお知らせします。




新・元伊勢(内宮)移動と箸墓の築造年代 管理人 投稿日: 2024年02月13日 16:46:50 No.373 【返信】

先日、元伊勢のうち外宮を結んだラインに続き、箸墓古墳に関する拠点を結んだラインを作成し、特に箸墓が笠縫邑(笠山荒神宮)や三輪山や長谷山口坐神社、大和神社等の崇神朝の諸拠点が関わっていることを明らかにしましたが、今回はそれらの結果をもとにして、今度は元伊勢のうち内宮の移動拠点を結んだラインを作成しなおしてみました。

図1がそのライン図となりますが、以前も指摘したように、元伊勢籠神社の奥宮とされる若狭湾の冠島(弥生時代の海底神殿⇒701年の地震で沈む)を測量の起点として意識され続けていたことがわかります。

今回、その内宮の移動拠点(滞在年数)とその推定地の一覧は下記のとおりです。

■豊鍬入姫命巡歴
笠縫邑(33年):笠山荒神宮
太神官社:吉志部神社
笠縫邑(33年:笠山荒神宮
吉佐宮(4年):真名井神社(籠神社摂社)
伊豆加志本宮(8年):笠縫邑?あるいは長谷山口坐神社
奈久佐浜宮(3年):濱宮
名方浜宮(4年):濱宮
弥和乃御室嶺上宮(2年):三輪山

■倭姫命巡歴
宇多秋宮(4年):阿紀神社
佐佐波多宮:御杖神社
隠市守宮(2年):宇流冨志禰神社
穴穂宮(4年):神戸神社
敢都美恵宮(2年):敢國神社
甲可日雲宮(4年):日雲神社
坂田宮(2年):坂田神明宮
伊久良河宮(4年):宇波刀神社
中島宮:真清田神社境外末社
桑名野代宮(4年)尾野神社
奈其波志忍山宮:布気皇館太神社
阿野国(未詳)
阿佐加(4年):阿射加神社
飯野高宮(高丘宮)(4年):神戸神館神明社
佐佐牟江宮:竹佐々夫江神社
伊蘓宮:伊雑宮
大河之滝原之国:瀧原宮(皇大神宮別宮)
矢田宮:口矢田ノ森
家田々上宮:神宮神田南の忌鍬山山頂(西ノ森)
大土御祖神社(皇大神宮摂社)
奈尾之根宮:那自売神社(皇大神宮末社)
五十鈴宮:皇大神宮


ここで、宮中から崇神5年の疫病災害を経て、6年に内宮のアマテラス大神を笠縫邑へ豊鍬入姫に託して移動させたことに始まり、その豊鍬入姫巡行のルートとしては、笠縫邑(33年):笠山荒神宮に宮中から移動したのち33年は笠縫邑におり、その後、一時期だけ摂津の吉志部神社方面に移動して、ふたたび笠縫邑へと戻り33年そこに居座ったことになっています。

その後、吉佐宮(4年)へ移動することとなりますが、これは真名井神社(籠神社摂社)と推定し、その後、再び伊豆加志本宮(8年):笠縫邑方面へと戻りますが、先の箸墓ラインにも見えてきた長谷山口坐神社は、図のように冠島⇔笠山荒神社ラインの延長線上にあることにも留意しておくべきでしょう。

その後、紀伊の奈久佐浜宮(3年):濱宮に向かい、その後、名方浜宮(4年)へと向かいますが、双方紀伊の濱宮周辺と予想します。

この濱宮は、図のように籠神社の真南に位置しており、また濱宮⇔笠山荒神社⇔熱田神宮への東35度偏角のラインを考慮すると、まず池上曽根遺跡の真北にあたる冠島に最初の弥生時代後期の信仰拠点があり、そこから、その後のある時期に奈良の宮中や笠縫邑方面へと移動する契機があり、その後、元伊勢の籠神社・熱田神宮・濱宮の三拠点が形成され、最後に籠神社⇔吉志部神社への西70度偏角のラインとそれに直交する吉志部神社⇔日雲神社⇔熱田神宮への東20度偏角のラインとが造られていく過程で、日雲神社等、豊鍬入姫の巡行を受け継いだ倭姫の巡行拠点が見えてくることになります。

豊鍬入姫は崇神天皇と紀国造の荒河戸畔の娘の子であり、図のように紀伊が拠点としてみえてくることとも関係しそうですが、またそれを引き継いだ倭姫は次代の垂仁天皇の娘とされ、年代が異なってきます。

具体的には豊鍬入姫は、崇神(在位68年)のうち、概ね66年前後を笠縫邑方面で過ごしたことになり。その後、垂仁朝になり、4年を若狭湾の籠神社へ、また8年を笠縫邑で過ごした後、7年を紀伊方面で過ごし、晩年?の2年をまた三輪山山頂で過ごしたことになるでしょう。

その後、倭姫は三輪山で受け継いで、垂仁25年に伊勢内宮へ祀るまで各地を移動したことになっていますが、年数は垂仁25年よりもっと多く、雄略22年(478年頃)まで移動していたことになるでしょう。

その倭姫の移動経路をみていくと、図のように、まず先の冠島⇔笠山荒神社⇔長谷山口神社ラインの延長線上にある宇多秋宮(阿紀神社)へと向かい、その後、図のように、ひとつ東にずれた冠島⇔御杖神社ラインへの西60度偏角のラインへと移動し、そのライン上にあったであろう隠市守宮:宇流冨志禰神社を経て、さらに東の穴穂宮:神戸神社を経て、その東にある冠島⇔日雲神社(甲可日雲宮)⇔敢國神社(敢都美恵宮)への西55度偏角のライン上へと拠点を移動させていきます。

その後、図のように、長谷山口坐神社⇔日雲神社への東70度偏角ラインの延長線上にある滋賀の坂田神明社(坂田宮)へと北上していきますが、このラインと熱田神宮⇔坂田神明社への西20度偏角のラインとが直交しています。

この時期に何らかの契機で伊賀方面から滋賀・美濃方面へと拠点を移動させる必要があったようにおもわれますが、その際に重要となってくるのが、熱田神宮で、倭姫が伊勢で渡したとされるヤマトタケルの草薙剣が最終的に奉納されたのがその熱田神宮となる点に留意しておくべきでしょう。

その後、岐阜の宇波刀神社(伊久良河宮)を経て、真清田神社境外末社(中島宮)へと東遷していきますが、図のように、坂田明神宮⇔宇波刀神社が東西同緯度ラインとなり、また冠島⇔宇波刀神社⇔真清田神社への西20度偏角のラインも想定できそうです。

その後は、先の吉志部神社⇔日雲神社⇔熱田神宮ライン上にある尾張の熱田神宮の西の野志里神社(桑名野代宮)、その南の奈其波志忍山宮(布気皇館太神社)、阿野国(尾野神社?)を経て、三重・伊勢方面へと移動していったように見受けられます。

その布気皇館太神社については、冠島⇔布気皇館太神社への西45度偏角のラインと、濱宮⇔笠山荒神社⇔布気皇館太神社⇔熱田神宮への東35度偏角のライン上の拠点であるとともに、笠山荒神社⇔真清田神社への東45度偏角のラインと前者のラインとが直交しています。

そして、その後、三重・伊勢方面へと南下していきますが、図のように、まず阿射加神社(阿佐加)は、濱宮⇔御杖神社(佐佐波多宮)⇔阿射加神社への東20度偏角のライン上にあり、それに続く、神戸神館神明社(飯野高宮(高丘宮))と、次の竹佐々夫江神社(佐佐牟江宮)は、御杖神社⇔神戸神館神明社⇔竹佐々夫江神社への東10度偏角のラインを構成しています。

それに続く伊蘓宮は伊雑宮と見なし、その西の瀧原宮(大河之滝原之国)と考えると、図のように、先の真清田神社の真南に伊雑宮が位置し、その真西に瀧原宮が、その瀧原宮と熱田神宮を結ぶ東60度偏角のライン上に先の神戸神館神明社が位置してくることも判ります。

またその瀧原宮は、図のように、冠島⇔日雲神社⇔敢國神社⇔瀧原宮への西60度偏角のライン上に位置することからみても、伊勢方面へと移動していく際の重要拠点であったことは間違いないでしょう。

最終的に、冠島⇔伊雑宮への西50度偏角のライン上に、図のように伊勢外宮と伊勢内宮が位置してくるのですが、その前に矢田宮、家田々上宮神宮、大土御祖神社、奈尾之根宮等を経て、伊勢内宮へと落ちづいたようにも見受けられます。

倭姫が伊勢方面の竹佐々夫江神社へと移動するまでには、4-?(4)-2-4-2-4-2-4-?(2)-4-?(2)-?(4)-4-4-?(4)年かかっており、?の部分を()で推測したように、前半は繰り返されている2年と4年の周期に合わせて、後半は4年になったとすると、合計で50年ほどかかったことになるでしょう。

そこから、さらに年数のわからない伊蘓宮から7つの拠点を経ますが、ここも4年周期とすると28年かかったとして、倭姫の巡行は78年、つまり80年前後かかったことになるでしょうか。

先の豊鍬入姫の巡行が87年ですから、2人合計で165年移動し続けたことになります。

この内宮の巡行が開始された崇神6年を、以前予想したように、崇神没年干支から258年とするか、318年とするかで、それぞれ、423年もしくは、483年となるでしょう。

ここで、先日の元伊勢の外宮が伊勢へと落ち着いた年代が、雄略22年で478年頃となりますから、この年代と後者の483年とが近いことに気づきます。

仮に以前推理したように、内宮と外宮とがセットで近い位置に移動し続けたとすると、伊勢へと双方が最後に落ち着いた年代も双方近い年代となるはずで、その点で雄略22年が内宮の最後に落ち着いた年代とするならば、結果として、崇神朝は310年代とのことになりそうです。

そして、崇神朝の拠点と箸墓古墳とが先日の方位ライン分析にあるように、密接に接合していることを考慮すれば、箸墓の築造年代も、310年前後とのことになるかもしれません。

それに先行するであろう纒向遺跡や纏向古墳群(纒向型前方後円墳)の年代も、3世紀後半から末期にかけてである可能性が見えてきます。

その件については、図2の笠山荒神社⇔黒塚古墳の東西同緯度ラインの存在があり、すなわち、笠縫邑の位置決定において、奈良最古級の前方後円墳である黒塚古墳があったことを示しています。

その黒塚古墳については、図のように、黒塚古墳⇔大和神社⇔垂仁陵への西65度偏角のラインがあり、その垂仁陵は開化天皇の率川宮(率川神社)と東西同緯度ラインとなるので、崇神の前代の開化天皇陵であった可能性も出てくるでしょう。

その率川神社⇔大和神社⇔箸墓古墳への西85度偏角のラインの存在は以前もお知らせしたとおりですが、また垂仁陵⇔豊日神社⇔笠山荒神社への西50度偏角のラインもあり、このラインと、黒塚古墳⇔豊日神社⇔伊勢遺跡への東75度偏角のラインとが、豊日神社で交差していることにも気づきます。

このラインについては、以前お知らせした魏年号銘鏡を出土した古墳を結んだ図3のラインのように、纒向型前方後円墳である分校マエ山古墳⇔伊勢遺跡⇔豊日神社⇔黒塚古墳へのラインと同じです。

ここから、予想できることとして、魏年号銘鏡(初期の三角縁神獣鏡含む)の年号(235年ー240年)以降のある時期に、方墳(前方後方墳)を主体として図3のラインが構築され、その末期に三角縁神獣鏡の第Ⅲ期までの鏡を33枚出土した黒塚古墳が造営され、その前後で笠縫邑(笠山荒神社)が出現することとなったのでしょう。

その年代は、被葬者の死後に古墳が造営されたとすると、その魏年号銘の年代より、20年~後の260~70年代前後で、女王・台与の年代となるかもしれません。

その時期の末期、年代からいくと孝元天皇から開化天皇の時代にかけて纒向型前方後円墳や纒向遺跡が造営され、そのころの都であった滋賀の伊勢遺跡方面から、奈良の纒向方面へと南下していく勢力がいて、それが物部氏の祖・ニギハヤヒと妻トビ(トミ)≒豊・台与に象徴される集団にあたるでしょう。

その孝元・開化天皇の時代は、物部系の伊香色謎命(イカガシコメ)が妃として両方の天皇に嫁ぐ(略奪婚?)時代となり。先の開化天皇の率川宮やその西の垂仁陵(本来の開化陵か?)が造営されていったことになるでしょうか。

その後、崇神朝となり、南下して纒向・三輪方面へと向かうことになり、その崇神5年に疫病がおきて6年に今回の豊鍬入姫による笠縫邑への内宮移動が始まるわけです。

その年代を310年代とすると、前述の開化朝は270年~310年代となり、図2のように、滋賀から奈良、纒向へと都が移動していく過程にあったと言えるでしょう。

その後、310年代前後のある時期に箸墓古墳が造営され、それに続いて、西殿塚・桜井茶臼山古墳なども造営していったことになります。年代的には320~330年頃となるでしょうか。

その後、崇神朝から垂仁朝へと以降して、佐紀盾列古墳群が、奈良方面へと構築されていくのが、330年~360年前後ではないでしょうか。このころに、先日お知らせした現在の崇神陵⇔巣山古墳(馬見古墳群)ラインに見えるような古墳が構築されていき、最終的に4世紀後半から末期にかけて応神・仁徳陵といった河内王朝にみられるような巨大古墳を造営する集団の時代へと移行していきます。

その崇神朝を310年頃であることを証明するには、やはり崇神5年の疫病災害に注目する必要がありますが、人口の大半が失われる疫病となるので、隣国の朝鮮や中国でも同様な疫病記載が見えてくる可能性が高いでしょう。

そこで、まず朝鮮のその当時の疫病記載をみていくと、百済の比流王(在位:304年 - 344年)の9年に下記の記載があります。

九年,春二月,發使巡問百姓疾苦,其鰥寡孤獨不能自存者,賜穀人三石。夏四月,謁東明廟。拜解仇為兵官佐平。

313年頃の出来事となりますが、疾苦として疫病が流行り、とり残された寡婦や子供が多数いたことがわかります。高い死亡率の疫病災害とみてよいでしょう。

次にお隣の新羅についてみていくと、基臨尼師今(在位:298年 - 310年)の末年に下記の記載があります。

十三年,夏五月,王寢疾彌留,赦內外獄囚。六月,王薨。

310年頃に疾病で死去したことになりますが、国全体への疫病災害であったかどうかは不明です。

同じく高句麗についてみていくと、美川王(在位:300年 - 331年)の時代となり、313年に楽浪郡、314年に帯方郡が高句麗によって滅ぼされることとなります。疫病記載はないようです。

同じく中国では西晋の懐帝(307年1月11日 - 313年3月14日)、愍帝(313年6月7日 - 316年12月11日)あたりが該当しますが、疾病記載は見つからない感じですが、末期の混乱した時代となるので、細かい状況記載が漏れている可能性もありそうです。

そうすると、上記の百済の比流王9年つまり313年頃の疫病記載が、崇神5年(315年?)の疫病記載と重なりそうですが、なお十分な証明とは言えないので、疫病記載以外の他の検証も進めていく必要がありそうです。




新・箸墓ライン 管理人 投稿日: 2024年02月06日 00:55:59 No.372 【返信】

先日、元伊勢を結ぶ方位ラインを作成したおりに、崇神紀の伊勢関連伝承について触れましたが、特に邪馬台国畿内説でかつて卑弥呼の墓とみなされた箸墓古墳について、その関連拠点を結んでみると新たに明らかになってくることがありましたので、お知らせします。

まず、箸墓については、ヤマトトヒモモソヒメの墓とされており、三輪山の大物主との伝承がよく知られているところですが、図のように、箸墓⇔三輪山⇔長谷山口坐神社(磯城か?)への西10度偏角のラインがみてとれます。

この長谷山口坐神社については、垂仁朝に倭姫命を御杖として、「磯城厳樫の本」に約8年間天照大神を祀った時に随神としてこの地に手力雄神を、また北の山の中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座したとされます。

ここで、磯城厳樫の本とあるように、この地域を磯城として、アマテラスつまり内宮の拠点としていた可能性があるでしょう。特に箸墓と内宮との関係でいくと、以前お知らせした図3のように、浦間茶臼山古墳⇔箸墓⇔伊勢内宮へ西10度偏角のラインがあり、浦間茶臼山古墳は、図にみえる杵ガ森古墳等とともに、箸墓と同時代の築造との見方がなされています。

また、箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社への東25度偏角のラインがありますが、この笠山荒神社については、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた笠縫邑の候補地として知られています。

その笠山荒神社については、初期の前方後円墳やその元となったであろう弥生時代末期の高地性集落(烽火台)ににた左右不均等な前方部をもつ墳丘が確認できます。

その際に、同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされますが、図のように、大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社への西15度偏角のラインがあることがわかります。

この西殿塚古墳は、箸墓に続く大型前方後円墳で、図のように箸墓⇔西殿塚古墳への東75度偏角のラインと、先の箸墓⇔三輪山⇔長谷山口坐神社へのラインとが直交しています。

そして、箸墓⇔桜井茶臼山古墳への西65度偏角のラインと、その箸墓⇔西殿塚古墳ラインは同距離となり、この西殿塚、桜井茶臼山の二つの古墳がセット関係で箸墓を起点として構築された可能性を示しています。

その桜井茶臼山⇔長谷山口坐神社への東25度偏角のラインは、箸墓⇔桜井茶臼山古墳ラインと直交しており、同時に先の箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社へのラインと平行になります。

桜井茶臼山古墳については、207mの前方後円墳で、やはり西殿塚同様に、箸墓に続く年代の古墳とされ、多数の三角縁神獣鏡され、神武天皇等の大王墓との見方もあるようですが、ここで図のように、この桜井茶臼山古墳⇔陶荒田神社との東西同緯度ライン上に位置していることに注目すべきでしょう。

この陶荒田神社は、崇神8年、崇神天皇により陶邑の大田の森に住む太田田根子が神主として選ばれ。彼の祖霊を祀る目的で創建された神社とされています。

この太田田根子については、崇神朝の当時、大規模な疫病がはやり、国土が荒廃したある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げ、天皇が、茅渟県陶邑に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主神を祀らせたことによります。

なお、図2のように、陶荒田神社⇔孝霊天皇陵への東30度偏角のラインと、桜井茶臼山古墳⇔孝霊天皇陵への西30度偏角のラインとがあり、孝霊天皇陵を中点として、位置づけられていたこともわかります。

この孝霊天皇陵については、以前お知らせしたように、孝霊天皇陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔纒向矢塚古墳⇔三輪山への西20度偏角のラインに見えるように、箸墓より古い纏向型前方後円墳との関わりがあるとともに、同じく以前お知らせしたように、欠史天皇陵が、この孝霊天皇陵を起点として構築されていったことを考慮しておく必要があるでしょう。

同様に、この孝霊天皇陵については、図のように、孝霊陵⇔片塩浮孔宮(安寧天皇宮)への西60度偏角のラインがあり、このラインと先の孝霊陵⇔陶荒田神社ラインとが直交しています。

同じく、以前、箸墓規格の巨大前方後円墳状地形を想定した桜ヶ丘銅鐸出土地⇔天王寺公園⇔孝霊陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔三輪山への西20度偏角のラインがあり、このラインと先の片塩浮穴宮⇔黒田庵戸宮(孝霊天皇宮)⇔率川神社(開化天皇宮)への東70度偏角のラインとが直交しています。

その天王寺公園古墳状地形⇔大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社への西15度偏角のラインもあり、弥生時代後期に、播磨の桜ヶ丘銅鐸を残した吉備系集団が東遷して畿内にはいっていく過程で、この天王寺付近を経て、黒田庵戸宮(孝霊天皇宮)へと三輪山を目標にして進出していったことが予想できるでしょう。

そのことは孝霊天皇と息子の吉備津彦、その吉備の桃に関する伝承とが接点をもってくることもあり、吉備とその纒向遺跡にみえる桃のの種に関する大陸系の避邪観念、弧帯紋の流れ等とも関係してくるでしょう。

ただ、箸墓⇔纒向遺跡⇔大和神社⇔率川宮への西85度偏角のラインにみえるように、纒向遺跡は崇神朝以降のある時期の宮地だった可能性もありそうです。

関連して、欠史天皇陵である孝元天皇陵⇔三輪山⇔笠山荒神社への東45度偏角のラインもあり、概して欠史天皇陵や宮地が、実在のモデルを参考にしていることが明らかにしうるのです。

あと、大和神社⇔纒向山⇔長谷山口坐神社への西35度偏角のライン、同じく大和神社⇔崇神陵⇔穴師兵主神社⇔三輪山への西55度偏角のラインもあり、大和神社が重要拠点であったこともわかりますが、先の大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社ラインを考慮すると、西殿塚古墳の被葬者は、大和神社に関わる人物で、大和神社とかかわる渟名城入姫命だとすると、この渟名城入姫命は崇神天皇の子であるから、西殿塚古墳よりも古い箸墓等が、本来の崇神陵となってしまうでしょう。

ただ、箸墓は笠山荒神社方向へ古墳軸を向けており、先の箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社ラインにみえるように、笠山荒神社、つまり笠縫邑(最初の内宮遷宮地)の伝承と関わる人物が埋葬されている可能性があり、そうすると、アマテラス神とともに笠縫邑に向かった崇神の娘の豊鍬入姫命との関わりがまず想起しうるでしょう。

ただし、箸墓はヤマトトヒモモソヒメの墓とされていますが、ヤマト・トビ・モモソヒメは、以前の考察では、ニギハヤヒの妻トビ・トミに関連する存在で、後述する豊鍬入媛とも同一人物と思われます。

なお桜井茶臼山古墳については、図のように孝霊天皇陵と関わっており、また西の大田田根子と関わる陶荒田神社と関係する点で、大田田根子等との関わりも予想できますが、太田の字名が残っているのは、箸墓古墳の北隣の纒向遺跡周辺であり、この地にいた大田田根子等が、祭祀者として崇神朝に陶荒田神社方面へと移動させられた可能性もあるでしょう。

その箸墓古墳は箸中に位置しますが、その西隣りに豊前・豊田の字名が残っており、豊鍬入媛との関係をうかがわせます。

つまり、北隣の太田の大田田根子とともに、豊鍬入媛とが、崇神朝にこの周辺で祭祀を行っており、そこから笠縫邑や陶邑方面へと派遣された構造が浮かび上がってきます。

その崇神朝当時の宮地としては、現在比定されている崇神の磯城瑞籬宮跡地は、以前推定したように、箸墓サイズの巨大前方後円墳の後円部にあり、宮地であったところに、陵墓を造営した可能性、あるいは宮地は別に周辺に存在していたことも想定しておくべきでしょう。

その件は図1のように、箸墓⇔磯城瑞籬宮への西50度偏角のラインと、磯城瑞籬宮⇔三輪山への東40度偏角のラインとが直交していたり、穴師兵主神社⇔磯城瑞籬宮への東80度偏角のラインと、箸墓⇔三輪山ラインとが直交していること、磯城瑞籬宮⇔櫛山古墳⇔西殿塚古墳⇔石上神宮西部への西87度偏角のラインに見られるように、箸墓・西殿塚古墳と磯城瑞籬宮との関係性が浮かび上がってくる点で、箸墓とその被葬者は崇神朝の人物であった可能性が高まります。

次代の垂仁天皇の纒向珠城宮については、珠城宮古墳群(もともとは巨大古墳状地形)周辺となり、纒向遺跡東方となるので、纒向遺跡も垂仁の時代まで用いられていた可能性があるでしょう。

外戚・物部氏系の血が濃い崇神系統と、その後の垂仁系統には相違があり、垂仁天皇は九州・日向方面からの進出者(神武・オオヒコに象徴される)で、其れ以前のニギハヤヒに例えられる物部系の集団と区別する必要があります。

年代的には4世紀前半に畿内に進出した南方航海民の影響を受けた集団を想定しますが、其れ以前のニギハヤヒと妻トビ=ヤマト・トビ・モモソヒメとで勢力争いがあったはずです。

ニギハヤヒ・崇神系統は三輪山を中心として測量をしているのに対し、神武・垂仁系統は初瀬山を中心とした測量をしており、現在の崇神陵は、図3のように、4世紀末の巣山古墳⇔崇神陵の東西ライン、崇神陵⇔耳成山⇔神武陵への東50度偏角のライン、これと直交する耳成山⇔巣山古墳への西40度偏角のラインを考慮すると4世紀代の古墳と考えるべきで、先の箸墓や三輪山・磯城方面に関係する崇神の陵墓とは時代的にも考えにくく、むしろ垂仁天皇の陵墓のほうは自然でしょう。垂仁=神武との見方に従えばさらにその可能性が高まります。

また、その穴師兵主神社については、その東北に前述の左右不均等の前方部をもつ前方後円墳状地形があり、弥生末期のそれと考えると、穴師・兵主などにかかわる後漢末期の渡来系集団の影響を受けていたことも想定しうることで、纒向日代宮との関わりとともに、考えを進めていく必要がありそうです。

以上みてきたように、箸墓は崇神紀およびその記載にある各種祭祀拠点と密接に関係づけられており、このことは、崇神紀そのものの記載の信o性が高いことを示すとともに、実在した王朝をモデルとしてこれらの崇神紀の説話等が構成されていったと考えうるでしょう。

その崇神紀の年代が250年頃か、1干支降って310年頃なのかについては、なお断定できないのですが、箸墓が先のように女王台与(≒豊)の墓との見方ができるならば、その260年代以降、それほどくだらない時期の古墳と考えるべきでしょうから、崇神関連の上記拠点の多くは卑弥呼のいた247年頃までには、存在していたことになるでしょう。

ただ、台与が仮に箸墓の被葬者で周辺に都を構えていたとしても、その先代の卑弥呼もその周辺にいたとは限らず、なお九州や四国、滋賀、若狭方面にいた可能性もあるでしょうから、その件も明らかにしたいところです。




新・元伊勢(外宮)ライン 管理人 投稿日: 2024年01月30日 20:18:24 No.371 【返信】

先日、元伊勢に関する拠点を結んだ方位ラインを作成しなおしたのですが、特に若狭湾の冠島を起点として、外宮・内宮ともにその移動拠点の位置付けがなされていることがありました。

この冠島については、元伊勢の籠神社の奥宮とされる老人嶋神社(丹後風土記に凡海坐息津島社)があり、海底に神殿風の弥生遺跡があることがしられており、調べていくと図1のように、弥生時代の池上曽根遺跡と南北ラインで接合していたことがわかります。

そして、その池上曽根遺跡は図1のように、伊勢外宮と同緯度東西ラインで接合しています。

なお、その冠島の海底遺跡については、こちらのYouTubeをご参照ください。神殿部のスクリーンショットも図3として添付します。
https://youtu.be/zAys_Ze5kjo?si=SXoSwLc67SoYHy2h

この冠島については、701年5月8日(5月12日)(大宝元年3月26日) 大宝地震で海没したことが知られており(こちらのサイト参照 「徐福の探したもの、元伊勢と老人嶋神社」http://nohgaku.com/?p=6032 )、その際に先の弥生遺跡の神殿も沈んだ可能性があるでしょう。

この冠島の神殿域を測量起点として、前掲の内宮・外宮の拠点が構築・移動を繰り返していることを考慮すると、この神殿がアマテラス・豊受を信仰する集団にとって、アイデンティティに関わるものであったことが判るでしょう。

この冠島の神殿の構築時期は、先の図1からいくと、池上曽根遺跡以降の弥生時代中期後半以降のある時期となるはずで、邪馬台国の時代にもかかってくる可能性がありそうです。

そのことは、以前作成した全国各地の主要な弥生遺跡を結んだ方位ラインの測量拠点として、その池上曽根遺跡が位置していることと関係してきますが、今回注目した冠島をそのライン上に位置付けなおしてみたものが図2となります。

ここで、冠島については、上記2つのラインの他に、荒神谷遺跡⇔妻木晩田遺跡南部⇔青谷上寺地遺跡⇔太田南古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔冠島(老人嶋神社)⇔池守・池上遺跡への東10度偏角のラインがあることがわかります。

同じく、冠島⇔荒尾南遺跡北部⇔登呂遺跡への西15度偏角のライン、津島遺跡⇔冠島南部⇔大塚・千坊山遺跡⇔反町遺跡への東35度偏角のラインも見えてきます。

また池上曽根遺跡については、志賀島(前田遺跡周辺・漢の金印出土地)⇔池上曽根遺跡⇔登呂遺跡への東10度偏角のラインがあり、このラインは先の荒神谷遺跡⇔池守・池上遺跡へのラインと平行関係にあります。

同じく池上曽根遺跡⇔大塚・千坊山遺跡⇔恵山貝塚への東55度偏角のラインもあります。

その北海道の恵山貝塚は先の反町遺跡と南北ラインとなります。

その他、荒神谷遺跡⇔荒尾南遺跡が同緯度東西ラインとなります。

このように、冠島(老人嶋神社)は弥生時代の諸遺跡からみても、重要な位置付けにあったことがわかり、その海底に沈んでいる神殿遺跡自体も、弥生時代の構築であった可能性が高まるでしょう。

さらに、魏の年号銘鏡を出土した太田南古墳群がそこに関係してくることは、邪馬台国時代にこのライン拠点が関係していたことを意味していますが、以前取り上げた丹後の羽衣天女伝説と豊受神(≒女王台与?)を考慮しておく必要があるでしょう。その天女が死んだ奈具神社は、太田南古墳群に近い位置にあります。

特に元伊勢・籠神社の豊受神については、雄略天皇の夢に現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(豊受大神)を近くに呼び寄せるように」と言われたので、外宮に祀る様になったとされる。ここで天照女神と豊受女神は双方、セットとなるべき女神であったことが伺えるのであり、天照=卑弥呼説にしたがえば、豊受(トヨケ)=台与(トヨ)とみなすのは自然な流れともいえるでしょう。

実際、伊勢外宮については、伊勢国高倉山渡会の山田ヶ原の地への移動となり、この山田(ヤマダ)の字名が邪馬台国と関係することも周知のとおりです。

その元となったであろう丹波の天女については、どこかからやってきて、元の故郷に戻れなくなったとの話があり、個人的には何らかの事情で西から東遷してきた台与が丹波経由で畿内へと入ったことを暗示しているのではないかと考えたことがあります。

また、先の雄略天皇の陵墓については、図1のように、冠島⇔大神木神社(仮宮)⇔河内大塚山古墳(本来の雄略陵?)への西85度偏角のラインがあり、その河内大塚山古墳⇔景行天皇陵⇔伊勢外宮への西5度偏角のラインも確認できます。

その大神木神社については、豊受神が山田ヶ原の外宮への移動途中で1年すごした仮宮とされており、ここが図1のように雄略陵とのライン上に位置していることも雄略天皇との関わりを示すものでしょう。

もっとも、現在の雄略天皇陵は、先の冠島⇔大神木神社へのラインから東にズレており、むしろ、今回取り上げた本来の雄略天皇陵とされる河内大塚山古墳のほうがライン面でも接合するので、この古墳が雄略天皇陵であった可能性が高まってくるでしょう。

あと、その河内大塚山古墳⇔伊勢外宮ライン上に載る景行天皇陵については、その真南にあるメスリ山古墳が、池上曽根遺跡⇔伊勢外宮ライン上にあり、年代が4世紀初頭の大王陵級で、景行天皇陵も4世紀前半とされるので、雄略陵とみなした5世紀半ばとされる河内大塚山古墳のそれよりはかなり古いこともわかります。その真西には、図1のように景行天皇の息子のヤマトタケルの白鳥陵があり、これは5世紀後半となります。

いずれにせよ、この雄略天皇の年代とされる5世紀中葉ごろまで、冠島の老人嶋神社(神殿?)が、常にアマテラス・豊受神を信仰する集団に意識されつづけていたことが明らかになり、そこに豊受が丹波方面に本拠をおいていた可能性を示すものです。

その内宮・外宮の移動の開始は、崇神天皇の5年に疫病の流行は人口の大半が失われた際に、天皇が翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにして、天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせたことに始まります。

この年代については、古事記の崩年干支が戊寅年となり、258年、あるいは318年とされるので、崇神68年から一干支分を差し引いて崇神8年に崩御と考えると、即位が250年となりますが、卑弥呼の死が247年で、その後、男王が即位するものの騒乱がおきたので、台与が即位したことになっており、梁書の記載から249年頃に即位したとの見方が有力となっています。

そうすると、崇神天皇の5年頃に流行った疫病は、251年からローマで流行した疫病の可能性があることを以前お話したことがありますが、崇神5年を255年とすると、そのころに、疫病からの隔離の意味もあって、宮中から豊鍬入媛とともに天照大神を外へ出すという行為にいたった背景には、疫病隔離の意味がどこかにあったと考えるべきでしょう。

それで、その255年から、豊鍬入媛から倭姫に受け継がれて、内宮は90年かけて、現在の伊勢へ至ったことになりますが、その年代が345年前後とすると、垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったことになっているので、垂仁即位年は。320年前後となるでしょう。

ここで、崇神は先のとおり、250年頃に即位して、その68年後に死んだことになるので、318年に崩御となりますが、概ね次の垂仁の即位年と重なってくることがわかります。

ただ、また崇神崩御年を318年とする見方に従うならば、崇神即位は先のように310年頃となり、その315年に疫病とともに、内宮の移動開始があり、その後90年後に伊勢へ鎮座したとすると、405年ごろに鎮座したことになるでしょうか。

なお、外宮を伊勢へ鎮座させた雄略天皇の即位は457年頃となり、先のとおり、雄略22年に外宮へと鎮座させたことになっているので、そうすると479年頃の鎮座となるでしょう。

内宮も、外宮も、先のとおり、冠島を起点としたライン上の拠点に移動を繰り返しており、元はともに、冠島の神殿域にあったと考えるのが自然でしょう。そして内宮と外宮のセットで近い位置に移動しながら遷宮し続けたようにも感じますが、ただ、伝承上では、内宮のほうが先に移動をしはじめたことにとなりますが、その理由についても考えてみる必要があります。

また、その辺のことについては、その遷宮再拠点の確認、滞在年月の推定とともに、またの機会に考察してみましょう。




出雲・(元)伊勢・応神陵ライン 管理人 投稿日: 2024年01月22日 20:20:45 No.367 【返信】

先日、Facebookグループ「新邪馬台国探求会」経由で、福知山の元伊勢内宮皇大神社についての情報をいただいたことがあり、さっそく、関連しそうな遺跡を探して方位ライン図を作成してみました。

まず、図1のように、その元伊勢内宮皇大神社のすぐ南にある外宮豊受大神社に関して、外宮豊受大神社⇔出雲大社⇔息長陵への東西同緯度ラインがあることがわかりました。

この息長陵については、石棺・出土埴輪より5世紀中葉-後半頃の築造、6世紀中ごろの敏達天皇妃の広姫の墓とされますが、年代が合わないので、息長氏との関連が指摘されてます。墳長100m以上、後円部径55m以上、前方部長53m以上の前方後円墳との見方もあり、埴輪・葺石を備え、埴輪は古市古墳群との関係が強いとの指摘もあるようです。詳細はこちら参照(https://kofun.dosugoi.net/e1077964.html)その古市古墳群(応神陵)とのつながりは次のラインからも伺えます。


すなわち図2のように、その外宮豊受大神社⇔伊勢内宮への西35度偏角のラインがあり、これと直交して、息長陵⇔荒神山古墳⇔新開古墳群⇔応神陵への東55度偏角のラインがあることに気づきます。

その荒神山古墳については、4世紀末築造の全長124mの前方後円墳ですが、葺石で覆い、埴輪を巡らせるなど、大和中枢部のそれと同一の様式を持つことから、大和との強いつながりが指摘されてます。

またその新開古墳群(1号墳)からは、北燕(馮素弗墓)とのつながりが予想される馬具や甲冑が出土するなど、渡来系集団(新漢氏?)の影響を強く受けています。

このように、以上の拠点は、出雲大社、本伊勢、伊勢神宮といったアマテラス・豊受神に関する信仰を持つ集団との関わりが予想されると同時に、応神陵に代表される河内王朝の進出とも関わっているように見受けられますが、年代的には4世紀後半~6世紀前半にかけてで、その河内王朝の巨大古墳造営の背後には当時渡来してきた中国系渡来人(漢人等)の製鉄技術等の影響も大きかったはずです。

特に琵琶湖沿岸は、後代まで渡来系集団の拠点でしたが、また先の息長氏についても、応神の母・息長帯比売(神功皇后)を出すなど、5世紀の河内王朝、その後の6世紀前半の継体朝とも関わりが深かったことが予想されます。

継体朝擁立の背景には、古事記に近江から継体天皇が出てきたことが記載されているように、その周辺地域にいた渡来系集団(新漢氏)等のバックボーンがあったはずで、本来の継体陵とされる今城塚古墳自体にも中国系の土木技術が応用されているような事例にも見受けられます。

その上で、なぜ、出雲大社、(元)伊勢神宮といった信仰拠点がこのライン上にみえてくるのかが課題となりますが、元伊勢に関しては、その外宮と内宮の移動の歴史があり、その拠点を結んだ方位ラインを以前作成したことがありますが、それは図3のようになります。

上図が内宮の移動地点、下図が外宮の移動地点を結んだもので、双方冠島が起点となりますが、ただ外宮のラインについては、今回の福知山の元伊勢外宮の件もあるので、再度作成しなおしたものを、後日その考察とともにお知らせしたいと思います。




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