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投稿者:管理人
先日、天孫降臨以前に渡来したとみられる天穂日・建夷鳥を祖とする土師氏、同じく味鍬高彦根を祖とする加茂氏の拠点を結ぶ方位ライン(プレ天孫降臨集団のライン)が、銅鐸出土地と関係することを指摘しましたが、その際に伊勢外宮がライン上に見えることもありました。 その伊勢外宮については、以前その外宮の遷宮拠点を結んだラインを作成したことがありましたが、再度そのラインを前述のプレ天孫降臨集団のラインとを接合して関係性を考察してみたのが今回のライン図となります。 まず、先日も指摘した吉野ヶ里遺跡を起点としたものとしては、吉野ヶ里遺跡⇔矢野銅鐸出土地⇔伊勢外宮⇔比奈多乃神社への東12度偏角のラインがあり、同じく吉野ヶ里遺跡⇔加茂神社(菊間)⇔桜ヶ丘銅鐸出土地⇔大神木神社(元伊勢外宮仮宮)⇔伝名古屋城銅鐸出土地への東20度偏角のラインがあります。 また加茂岩倉遺跡(銅鐸出土地)を起点としたものとしては、加茂岩倉遺跡⇔成務・日葉酢姫陵⇔春日大社⇔伊勢外宮への西15度偏角のラインがありますが、この成務陵の真南が橿原神宮で、橿原神宮は図のように伊勢外宮と34度29分05秒で同緯度東西ライン上に位置します。そのラインの延長線上に少しずれて池上曽根遺跡がある点にも留意しておくべきでしょう。 なお、元伊勢の籠神社から雄略朝に伊勢外宮へと遷宮される際に一時的に造営された仮宮の大神木神社があり、図のように、籠神社の奥宮とされる冠島(奈良初期に海底に沈んだ弥生遺跡・神殿がある)⇔大神木神社⇔河内大塚山古墳への西80度偏角のラインがあることは以前も指摘したとおり。 そして、このラインと先の伊勢外宮⇔橿原神宮ラインの延長線とが交差する廿山二丁目付近にも前方後円墳状地形が確認できます。 そのライン上にみえる河内大塚山古墳が本来の雄略陵であることが指摘されていますが、そのことはこの遷宮ラインが雄略朝の伝承をもつことからも明らかにしうるでしょう。 ここにみえる冠島が伊勢内宮の遷宮拠点を結ぶラインの起点ともなっていることも以前指摘したとおりですが、また図のように、池上曽根遺跡の真北に冠島が位置することがあり、また冠島⇔伊勢外宮⇔伊雑宮(元伊勢)への西50度偏角のラインも存在します。 さらに、冠島⇔芝山古墳群への35度40分38秒の同緯度東西ラインも確認できますが、その途中に後述する阿伎留神社(南部)や皇居(宮中三殿)が位置していることにも留意しておくべきでしょう。 この芝山古墳群にユダヤ人の風貌をした埴輪があることが近年、田中英道氏によって指摘されていますが、この芝山古墳を起点として、芝山古墳群⇔子ノ神古墳群⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインがあることも以前指摘したところで、このラインと直交するのが、綿貫観音山⇔比奈多乃神社への東60度偏角のラインとなります。 この比奈多乃神社に関しては、先日も指摘したように、比奈多乃神社⇔阿伎留神社⇔鷺宮神社への東45度偏角のラインがあり、これらの神社では、土師氏の祖の建夷鳥(タケヒナトリ)やその父の天穂日が祀られていることから、土師氏の同族によるライン拠点と考えたことがありました。 そしてその阿伎留神社(+伊勢神宮・出雲大社等)から、記紀に記された日文とみられ、仮名文字の起源とされる阿比留草文字が見つかっていること、その文字がアラム・古ヘブライ文字との相関性があることを先日もお話したところですが、前述のように、ユダヤ人風の埴輪が出土する芝山古墳と、これらの拠点が方位ライン面で接合していることはがあり、決して偶然ではないと考えるべきでしょう。 なお、図のように、伊勢外宮⇔豊川稲荷⇔阿伎留神社南部⇔氷川神社⇔虎塚古墳への東30度偏角のラインがあり、その豊川稲荷の稲荷社が秦氏と関連する稲荷神を祀っている点にも留意しておくべきでしょう。 その秦氏の稲荷神の拠点としては、伏見稲荷がありますが、図のように、伊勢外宮から西30度偏角のライン上にあり、豊川稲荷が伊勢外宮から東30度偏角のライン上にあるのと線対称となっている点からみても秦氏と外宮との関係性が理解できます。 その秦氏の祖の秦大津父の伝承にも、欽明天皇即位前記に伊勢へ商いに向かっていた話があり、彼らは伊勢と深いつながりがあったと考えるべきでしょう。 同じくライン上にみえる氷川神社については、出雲方面から移住した武蔵国造の祭祀拠点とみられており、スサノオやクシナダヒメ、大己貴を祀っていることからもその件は明らかです。 そしてこのライン上にみえる虎塚古墳については、壁画が描かれていることが知られていますが、その壁画に描かれた盃と供え物(餅?)が、山城国風土記の秦氏に関する「餅の的」伝承と関係を想起させるもので、当時中国に伝わっていたネストリウス派キリスト教(大秦景教)のミサ儀式で用いる聖杯(酒)と聖体(種なしパンの代わりに餅を用いた)を表していた可能性を考えます。 当時のネストリウス派キリスト教はユダヤ人が多く混ざっていましたから、仮に彼らが渡来しならば、当然ユダヤ人風の風貌をした人物やアラム・ヘブライ語・文字・儀式が伝わってくることもありうることであり、今回示したライン拠点に、それらの痕跡が見えてくることも、然るべき結果と考えるべきでしょう。 このように、伊勢外宮については、弥生時代前期に遡る銅鐸などを用いていた渡来系集団のカモ氏等によってまずは測量拠点として形作られた後、その後、土師氏や秦氏といった後続の渡来系集団によって、雄略朝ごろまでには、トヨウケ神の信仰拠点としても重要視され、儀式面でも整備されていったのではないでしょうか。 なお九州方面に目を向けると、弥生時代前期の吉野ヶ里遺跡については、図3のように、宮崎神宮⇔山田(西都市)古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(銅鐸鋳型出土地)⇔平原遺跡への西60度偏角のラインがあり、またその平原遺跡⇔川部・高森遺跡(宇佐)への東西同緯度(33度32分20秒)ラインと、このラインと直交する川部・高森古墳群⇔天岩戸神社東部⇔山田(西都市)古墳状地形への南北ライン(131度21分30秒)とで、直角三角形を構成していることがあり、この件は以前もお知らせしたとおりです。 この弥生時代の拠点では、天岩戸に関わるアマテラス信仰が存在して、それらが後に冠島(元伊勢籠神社の奥宮)へと東遷していく過程で、最終的に伊勢内宮のアマテラス祭儀が確立していき、先の外宮・トヨウケ関連儀式も融合されていったのではないでしょうか。 その他、ユダヤ文化と神社との関わりでいえば、秦河勝の伝承が残る大避神社の大避が中国語で言う「ダビデ」を記すとの説がありますが、この大避神社⇔籠神社への東50度偏角のラインと、伊勢外宮⇔籠神社への西40度偏角のラインとが直交しております。 その元伊勢の籠神社の奥宮に眞名井社があり、そこに籠目紋が記されていることから、ユダヤ人の六芒星との関わりがあるとされ、伊勢にも籠目紋があることが知られています。 またその眞名井のマナが、ユダヤ人の神宝のマナの壺と関連づける見方もありますが、これらも単なる偶然の一致ではなく、今回の方位ライン面からも明らかにしうるのであり、それらの件については、また後日さらに詳細に考察してみたいと思います。
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