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新・邪馬台国(畿内)方位ライン 管理人 投稿日: 2024年01月15日 20:02:44 No.366 【返信】

以前、畿内の邪馬台国時代に関連する古墳や遺跡、当時卑弥呼に銅鏡を賜与した魏の紀年銘を記した銅鏡の出土地を結んだ方位ラインを作成したことがありますが、今回、邪馬台国畿内説で卑弥呼の都とみなされている奈良の纒向遺跡と同様な構造を持つ滋賀県の伊勢遺跡を知る機会があり、この遺跡に関連するラインを洗いなおしてみました。

その作成したラインが図1となります。

ここでは、まず、安満宮山古墳(魏紀年銘鏡出土)⇔伊勢遺跡(滋賀)⇔象鼻山1号墳(3世紀末前方後方墳)への東30度偏角のラインがあり、このラインと太田南古墳群⇔安満宮山古墳⇔黒塚古墳(三角縁神獣鏡大量出土)への西60度偏角のラインが直交しています。

同じく黒塚古墳⇔伊勢遺跡⇔分校マエ山古墳への東75度偏角のラインがあります。

その分校マエ山古墳を起点とするものとしては、分校マエ山古墳⇔太田南古墳群(魏紀年銘鏡出土)南部⇔森尾古墳(魏紀年銘鏡出土)への東30度偏角のラインがありますが、このラインと先の安満宮山古墳⇔伊勢遺跡への東30度偏角のライン、同じく先の太田南古墳群⇔安満宮山古墳への西60度偏角のラインとが直交しています。

また分校マエ山古墳⇔伊勢遺跡⇔豊日神社(布留遺跡西部)⇔黒塚古墳への東75度偏角のラインがあります。

その他、森尾古墳⇔安満宮山古墳への西45度偏角のライン、同じく森尾古墳⇔広峯15号墳(魏紀年銘鏡出土)⇔豊日神社への西50度偏角のラインもあります。


そして、図のように、太田南古墳群⇔黒塚古墳⇔象鼻山1号墳を結ぶ三角形の垂線上に伊勢遺跡周辺地域が位置していることがあり、この場所が当時の畿内周辺を統治するのに相応しい場所であったことも伺えます。

その伊勢遺跡周辺地域については、伊勢遺跡群があり、伊勢集落が政治と祭祀を、下鈎集落が工業を、下長集落が商業を分担する「機能別都市構成」がなされていたと考えられています。詳細はこちらのサイトをご参照ください。遺跡群の地図も図2として引用します。

「伊勢遺跡-守山弥生遺跡研究会」伊勢遺跡群
https://ise-iseki.yayoiken.jp/isekigun.htm

この図2の中で、伊勢遺跡北西にある山田遺跡がありますが、邪馬台国関連遺跡には山田の字名がつくことが多いことがあり、この地も邪馬台国の主要な拠点であった可能性が高いでしょう。

実際、前述した伊勢遺跡周辺を通過する各種ラインのうち、安満宮山古墳⇔象鼻山1号墳へのラインは山田遺跡を通過することもわかります。

年代的にも邪馬台国時代にあたる、弥生時代後期後半がこの遺跡の発展時期とのことで、九州から邪馬台国の勢力が東遷によって畿内へと拡大していく過程で、この地が主要な拠点となっていったのではないでしょうか。

その時期は女王卑弥呼もしくはその次の女王・台与の時代に関わる可能性がありそうですが、その東遷の主体には、ニギハヤヒを祖とする物部氏の影響を考慮すべきで、実際、伊勢遺跡から山田遺跡の間に物部(村)の字名がみえることにも留意しておくべきでしょう。

以前、卑弥呼とその姪であろう台与について、物部氏系で孝元・開化天皇妃となったウツシコメとその姪のイカガシコメに対応していることを指摘したことがありますが、この時期に物部氏の影響力が強かったことを考慮しても、邪馬台国の都周辺に物部氏の影響をうけた拠点があるはずです。

そのことは、前述した黒塚古墳⇔象鼻山1号墳へのラインが、物部氏の拠点の石上神宮や布留遺跡(布留式土器出土)東部の豊日神社周辺を通過することがあり、この周辺にある豊井・豊田の地名も、女王・台与(トヨ)と関わっていた可能性を考えてきたこともあります。

そのラインの延長線上には、纒向遺跡があり、そこに隣接するヤマトトヒモモソヒメ陵の箸墓古墳周辺にも豊田の字名が残ることがあります。

この豊日神社については、前掲した豊日神社⇔広峯15号墳⇔森尾古墳へのラインがあり、その森尾古墳からは、卑弥呼に鏡を与えた魏の正始元年(西暦240年)の銘文があり、同じく広峯15号墳からも、同じの景初四年(非実在の年号・西暦240年)の銘文が記されていることがあります。

ところで、前掲の三角形を形成するライン上にある安満宮山古墳と太田南5号墳からは、青龍三年(235年)方格規矩四神鏡が出土していることがあり、年代的に5年ですが上記の森尾古墳に関わるラインより古いことがわかります。

実際、今回のライン図をみても、双方のラインには、ずれがあり、構築年代に相違があったことも伺えますが、前者については、邪馬台国時代の指標とされる庄内式どきより新しい布留式土器を出土した布留遺跡周辺を通過することがあり、これを仮に女王台与が支配した250年代から60年代の構築と考えると、後者のラインについては、それ以前の235年頃の卑弥呼の時代には構築されていた可能性が出てくるでしょう。

伊勢遺跡については、後代の伊勢神宮との関わりも予想できますが、崇神天皇の年代を253年以降として、その時期に伊勢神宮が創始されたことを考えると、其れ以前に宮中で祀られていたアマテラス女神の存在を考慮しておくべきでしょう。

一説にはアマテラス女神と卑弥呼を同一視する見方もありますが、卑弥呼が果たして、この伊勢遺跡周辺にいたのが、それとも東遷前の九州や四国方面にいたのかについて確証するために必要となってくるのが、卑弥呼の径百歩の墓の存在となりそうです。

卑弥呼の墓が仮に畿内にあるとして、今回のライン上に位置するならば、伊勢遺跡周辺、もしくは、太田南古墳群、安満宮山古墳、黒塚古墳、象鼻山1号墳あたりが候補地に上がってくるはずです。

その象鼻山1号墳については、象鼻山の最高所に位置する前方後方墳で、全長約42.80m、後方部長22.95m、後方部幅25.86m、後方部高さ4.23m、前方部長17.15m、前方部幅14.40m、前方部高さ2.96m、濃尾平野に面する後方部東側のみ二段築成とし、部分的に葺石を備えています。埋葬施設からは鏡や石製品、刀、剣などが発見され、その築造時期は3世紀中頃と考えられています。

同じく安満宮山古墳の墳形は長方形で、規模は東西18メートル、南北21メートルと推定される、葬施設はコウヤマキ製の割竹形木棺の直葬。3世紀後半の築造と推定されています。

同じく太田南古墳群のうち、上記の魏年号銘鏡を出土した5号墳は、12m×19mの方墳で組合せ式石棺、4世紀後半の築造とされます。

同じく黒塚古墳は、全長約130メートルの前方後円墳で、後円部径約72メートル、高さ約11メートル、前方部長さ約48メートル、高さや6メートル、三角縁神獣鏡33面とそれよりも少し古い画文帯神獣鏡1面が出土し、北東隅に大小2本の鉄棒をU字形に曲げた用途不明の鉄製品が立てかけられていた。大小2本の棒の間にはV字形の鉄製の管が、複数、付着または崩落し、この管で鋸歯状に大小のU字形鉄棒を結び付けていた形跡がある。

ここで、黒塚古墳以外は、方墳、もしくは前方後方墳と、後に主流となる前方後円墳ではない点に留意しておくべきでしょう。そして、20-25m前後の尺度で構築されている点でも共通性があります。

そこで、その他の魏の紀年銘鏡を出土した古墳を調べていくと、下記のようになります。

まず、魏の景初三年(239年)銘の三角縁神獣鏡を出土した神原神社古墳についても、方墳で、復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程とされます。島根県で最古期の前期古墳とされます。

次に柴崎蟹沢古墳は古墳時代前期(4世紀)ころに築造された径12メートルの円墳(長22メートルの方墳との説も)であり、正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡が出土しています。

次に森尾古墳ですが、35×24m前後の南北に長い基底部をもつ、方形台状の墳丘が想定されています。正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡が出土しています。

次に、広峯15号墳は、直径40m、後円部径25m、前方部径13mの前方後円墳で、4世紀後半の築造、「景初四年(240年)」の銘の盤龍鏡が出土しています。

次に竹島古墳は全長56メートル、後円部径35メートルの前方後円墳で、4世紀前半の築造、正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡が出土しています。

次に持田48号墳は、全長78m、後円部径50m・高さ7.3m、前方部幅27m・高さ4m の柄鏡式前方後円墳で、、景初四年(240年)銘入り斜縁盤龍鏡が、この古墳から出土された(伝)があります。

このように、特に神原神社古墳、森尾古墳が方墳であり、柴崎蟹沢古墳も方墳だとすると、22~25m前後の方形部をもつ古墳である点で、先の古墳と同様な特徴と持つと言えるでしょう。広峯15号墳も円墳ですが、25mがみえます。

このような、22~25m前後の方墳として思い出されるのが、九州高良山そばの祇園山古墳で、形状は方墳で、規模は東西約23.7メートル、南北約22.9メートル、高さ約6メートル、主体部(石棺)、築造時期が3世紀中期であると考えられているケースがあります。規模とも吉野ケ里遺跡の楕円状構築物の上に築造された方形墳丘墓および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似するとされ、墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されていることなどから、卑弥呼の墓として有力視されていることもあります。

あと、今回のライン分析では北陸の分校マエ山古墳があり、1号墳が全長37mの纏向型前方後円墳とされており、それより古いとされる6号墳(前方後円墳)との間に方墳が複数挟まれていることもあります。

ライン的には、この古墳は、黒塚古墳と、森尾古墳とに接続しており、以前作成した図3の上図のように、初期の前方後円墳、特に纏向型前方後円墳とに接続関係があると言えます。

また象鼻山1号墳については、前方後方墳となりますが、以前作成した図3の下図のように、全国各地の前方後方墳、特に長野の弘法山を起点とした。弘法山古墳⇔象鼻山1号墳⇔芝ヶ原古墳⇔矢野遺跡⇔物部(高知市)⇔高千穂峰南部⇔笠狭崎への東35度ライン上に位置していることが重要です。

この前方後方墳に関する拠点は物部氏との関わりが想定されており、図のように、象鼻山1号墳⇔神原神社古墳への東西同緯度ラインの存在も確認できます。

その出雲方面の神原神社古墳も方墳とのことがあり、前方後方墳と方墳との間には相関性があることも予想できるでしょう。

また、その辺の方墳・前方後方墳、そして纏向型前方後円墳との関係についても、今年もこれから考察をすすめていきたいと思います。




新・ヤマトタケルライン 管理人 投稿日: 2024年01月09日 17:09:18 No.365 【返信】

以前、20年ほど前にヤマトタケル(倭武、日本武尊)伝承に関わる拠点を結んだ方位ラインを作成したことがありますが、今回、新たに多賀大社に関するラインがあることに気が付いたので、再度そのライン図を作成しなおしてみました。

図1はそのライン図で、図2、3は拡大図です。

まず、多賀大社に関わるラインとしては、伊弉諾神宮⇔今城塚古墳⇔多賀大社⇔伊夫伎神社南部⇔白根神社への東35度偏角のラインがあります。

ここで、多賀大社の祭神のイザナギ・イザナミと、淡路島の伊弉諾(イザナギ)神宮とが接合していることに留意しておくべきでしょう。また伊夫伎(いぶき)神社はヤマトタケルが五十葺山の蛇(白猪)神と戦った伝承にかかり、ヤマトタケルを祀る白根神社(草津)は草津に至ったタケルの伝承に基づく社と言えるでしょう。

今城塚古墳は、本来の継体天皇陵とも言われています。継体天皇は尾張氏の妻を迎えているように尾張と深い関わりがあります。その尾張氏は天火明命を祖神とし、天忍人命から始まり、美濃・飛騨などに居住の後、乎止与命のときに尾張国造となります。ヤマトタケルの時代には、拠点を熱田の南に移し、その尾張氏から出た宮簀媛はヤマトタケルの妃となり、後に三種の神器となる草薙神剣をヤマトタケルの死後に伊勢神宮へは戻さず熱田に置き、尾張宿彌の後裔の宗族は熱田神宮大宮司を代々務めました。

次に、多賀大社⇔浅間大社⇔走水神社への東西ラインがあり、その浅間大社は先の白根神社と南北ラインの関係にあり、双方が図のように直交しています。その走水神社は、弟橘姫の入水伝承としてヤマトタケル伝承に記されている地で、また浅間大社は富士山信仰の拠点となります。

続いて伊勢内宮⇔能褒野墓⇔多賀大社⇔気比神宮への西65度偏角のラインがあり、能褒野墓はヤマトタケルが最初に葬られた墓となりますが、のちにヤマトタケルの魂は白鳥となり、葛城の白鳥陵へと向かいます。

このラインは図のように、伊勢内宮⇔浅間大社への東25度偏角のラインと直交しています。

またその伊勢神宮は、ヤマトタケルに倭姫が草薙剣を渡した地であり、気比神宮は応神天皇と名前を取り替えた気比大神を祀っています。

その葛城の白鳥陵については、白鳥陵(葛城)⇔能褒野墓⇔熱田神宮への東35度偏角のラインがあり、また葛城一言主神社⇔白鳥陵(葛城)への東西ラインがみてとれます。

その熱田神宮は、ヤマトタケルの草薙剣がある神社となります。

またそこにみえる葛城一言主神社⇔多賀大社⇔泉神社への東60度偏角のラインがあり、また同じく葛城一言主神社⇔景行天皇陵⇔多度大社⇔白根神社への東40度偏角のラインがあります。

ここに見えてくる葛城一言主神社は、一言主神と幼武尊(わかたけるのみこと)=雄略天皇を祀っていますが、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競った話があり、旧約聖書でヤコブ(イスラエル民族の祖)がペヌエル(神の使い)と徹夜で格闘した伝承との類似性が指摘されているところです。

またその景行天皇陵で祀られる景行天皇は、ヤマトタケルの父であり、その景行天皇陵は西の白鳥陵(羽曳野)と東西ラインとなります。この羽曳野の白鳥陵は、先の葛城の白鳥陵からヤマトタケルの魂である白鳥が向かった場所とされています。

そして、その羽曳野の白鳥陵は、先の今城塚古墳と南北ラインで接合していることから、このことからも継体天皇とヤマトタケル伝承拠点とが関係していたことが明らかにしうるでしょう。

続いて、先の能褒野墓については、能褒野墓⇔伊夫伎神社への南北ライン、能褒野墓⇔焼津神社への東西ラインがあり、その焼津神社は、ヤマトタケルが草薙剣で草を薙ぎ向火を放って、悉く賊徒を討滅された焼津の伝承に由来しています。

そして図のように、伊勢内宮⇔焼津神社⇔走水神社への東18度偏角のラインも確認できます。

あと、その走水神社⇔白根神社への西55度偏角のラインと、先の伊弉諾神宮⇔白根神社への東35度偏角のラインとが直交しています。

その他、泉神社⇔伊夫伎神社への東西ライン、熱田神宮⇔伊夫伎神社⇔気比神宮への西39度偏角のライン、焼津神社⇔熱田神宮⇔多賀大社への西13度偏角のラインもありますが、その泉神社は、ヤマトタケルが先の伊吹山の神と戦った際に弱り果て、この「居醒(いざめ)の泉」の水を飲んでなんとか命を取り留めたとの伝承があります。

以上のように、ヤマトタケルに関する伝承拠点は正確に測量された拠点に位置していることがあり、そこに雄略天皇(ワカタケル)、応神天皇五世孫の継体天皇がかかわっていたことも伺えるのですが、これらの天皇が当時武力を行使しえた背後には、大陸から渡来した製鉄技術者集団の存在を意識していおく必用があり、その大陸由来の伝承要素も、これらのヤマトタケル伝承や関連伝承ににどのように影響を与えていたのかについて、考察していくことが課題です。

その伝承の起源については、すでに何度か研究会でも大陸由来の伝承との比較で考察を重ねていますが、改めて今年は考察しなおしてみたいと思います。




新・城郭ライン4 管理人 投稿日: 2024年01月08日 16:38:08 No.364 【返信】

先日の全国の城郭を結んだ方位ラインの件ですが、特に近江の長浜城に関するラインを調べてみました。図1のとおりです。

ここで、まず熊本城⇔高松城⇔長浜城⇔須賀川城⇔葛尾村夏湯への東30度偏角のラインがあります。

次に鶴丸城⇔高知城⇔長浜城⇔横山城⇔米沢城への東40度偏角のラインも確認できます。

この長浜城については、秀吉が1558年に構築したことになっていますが、その今浜が交通の要衝であったこととともに、これらの城郭ラインの交点に位置していたことも重視されていたのではないでしょうか。

なお現在の高松城は秀吉が1587年に四国制圧後に生駒氏に造らせてもので、また熊本城は1469年に菊池氏に一族が千葉城として築城され、加藤清正が1591年から中世城郭を取り込んで改築しています。

加えて高知城は1588年に長宗我部元親がここに構築しようとしたことがあり、その後、山内氏が1601年から築城しはじめます。

鹿児島の鶴丸城は1601年に島津氏によって築城されています。

長野の横山城については、1351年の足利氏の時代に山城があったようですが、ライン面ではややズレがあります。

山形の米沢城については、1238年に長井氏によって築城されたのが起源のようで、後に伊達氏の所領となります。

福島の須賀川城については、1399年に二階堂氏によって築城されています。

その他、葛尾村夏湯は、私の父方の祖父・先祖の地で南朝・田村氏と関わる領地のようです。


こうみると、西日本方面のラインは、秀吉との関わりがみえており、秀吉との協働関係にあった城郭・測量集団によるものではないでしょうか。以前秀吉と修験道等に関わる加茂・鴨氏との関わりを考えたことがありますが、その辺について追及していくべきかもしれません。

なお、秀吉に関わる地を結ぶラインとしては、以前も紹介した図2のラインがあり、秀吉が木下氏の時代から、鴨・加茂氏に関わる地と関係が深かったこともみてとれます。

同じく家康の先祖の加茂氏と岡崎城との関係もこれらのラインから見えてくることがあり、明智氏の祖と加茂氏との関係も含めて、当時の有力な戦国大名の背後には、鴨・加茂氏といった修験道・城郭・都市構築集団の存在があったことをうかがわせるものです。

その鴨・加茂氏については、全国を高屋を作って梯子をかけそれを上り下りした(つまり測量・櫓構築)を阿遅志貴高日子根命(迦毛之大御神)を祖としており、役行角のような修験道者(測量・偵察)を主として集団へとそれらの技術が継承されていった結果として、戦国時代にはこれらの城郭を測量・構築する集団へと化していったのではないでしょうか。

そこから秀吉や家康、光秀等が現れてくるわけですが、彼らの奇抜な行軍や情報戦略の背景にはこれらの集団の先導があったことも想像しうるでしょう。正確に地理を把握し、素早い情報を得ているものが戦いを有利に進めることができるのは、昔も今も同じことです。




新・城郭ライン3 管理人 投稿日: 2023年12月28日 03:24:21 No.361 【返信】

先日お知らせしたいくつかの城郭を結んだ方位ラインを整理してまとめてみたのが図1となります。図2,3は拡大図です。いくらか城郭を追加しています。

まず、鹿島神宮を起点としたものは下記のとおりです。

鹿島神宮⇔浜松城⇔宮崎城⇔鶴丸城への東29度偏角のライン、
鹿島神宮⇔江戸城⇔富士山⇔和歌山城への東20度偏角のライン
鹿島神宮⇔京都御所⇔岡山城⇔山口城への東15度偏角のライン
鹿島神宮⇔金ヶ崎城⇔松江城への東5度偏角のライン
鹿島神宮⇔高崎城⇔富山城への西15度偏角のライン
鹿島神宮⇔水戸城⇔鶴ヶ城への西70度偏角のライン

次に鶴ヶ城を起点としたものは前記のものを除くと下記のとおりです。

鶴ヶ城⇔富山城⇔松江城への東20度偏角のライン
鶴ヶ城⇔長野城⇔金ヶ崎城⇔岡山城⇔宇佐神宮周辺への東30度偏角のライン
鶴ヶ城⇔上田城⇔松本城⇔大阪城⇔徳島城⇔鶴丸城への東35度偏角のライン
鶴ヶ城⇔前橋城⇔高崎城⇔浜松城への東56度偏角のライン

続いて松江城に関するラインとしては前記のものを除いて下記のものがあります。

松江城⇔岡山城⇔徳島城への西50度偏角のライン
松江城⇔宇佐神宮⇔熊本城への東55度偏角のライン
松江城⇔山口城⇔佐賀城への東45度偏角のライン
松江城⇔京都御所⇔浜松城への西10度偏角のライン

続いて、東西同緯度ラインとしては下記のものがあります。

上田城⇔前橋城⇔水戸城の東西ライン
岡山城⇔大阪城⇔平城京⇔浜松城⇔高天神城への東西ライン
宇佐神宮⇔高知城への東西ライン
山口城⇔和歌山城への東西ライン

その他、下記のラインも確認できます。

上田城⇔舞鶴城⇔富士山への西70度偏角のライン
小倉城⇔熊本城⇔鶴丸城への東80度偏角のライン
佐賀城⇔熊本城⇔宮崎城への西65度偏角のライン
高知城⇔徳島城⇔平城京⇔高崎城への東30度偏角のライン

そして、図で示したように、富士山と鹿島神宮を結ぶ20度偏角のラインを基礎として、そのラインに直交するラインで方格を形成しています。

これらのラインの主な起点は上記の鶴ヶ城、鹿島神宮、松江城、富士山あたりとなりますが、平城京など奈良時代ごろから、これらのラインの基礎となる測量がなされはじめていた可能性がありそうです。

これらの城郭を結ぶラインの形成には、以前もお話したように、武家の足利氏およびその支流の斯波氏、今川、細川氏等が三河方面から全国展開するにあたって関わっていた可能性を考えますが、その足利氏は清和源氏の棟梁家であり、清和源氏を遡っていくと、先日お話した征夷大将軍の坂上田村麻呂の娘が産んだ春子の子・葛井親王が武芸にたけており、その息子の棟貞王の娘の清和天皇の更衣が、兵部卿にもなった貞純親王を産み、ここから清和源氏が出てくるわけです。

全体的に古代からの武家の血筋があり、その周囲に城郭などを造る技術者集団もいて、それが武家の棟梁家あたりに受け継がれていったのではないでしょうか。

これらの城郭を構築していた技術者集団がどのような血縁・氏族であったかはまた考えてみたいと思いますが、先の坂上田村麻呂が、176㎝の長身で筋肉質で碧眼・金髪とのことでコーカソイド系の風貌をしていたとの記録をみると、古代から武家として知られていた渡来系の東漢氏の棟梁家の坂上氏において、その血縁集団の中に、北方騎馬民族のコーカソイド系の血筋を引くものがいた可能性を考慮すべきかもしれません。

東漢氏は、渡来系で大陸から乗馬・製鉄技術をもたらすとともに、馬・兵器に長けた軍事氏族として同じく軍事氏族の大伴氏の元にいました。

それらの技術系譜を追うことで、これらの城郭を構築していった集団の起源を明らかにすることができるかもしれず、その一つが今回の測量技術を用いた方位ラインとなるわけです。

その特徴としては、10度偏角での測量、つまり90度を3分割して、さらにそれえを三分割するタイプの測量と言えるでしょう。尺度も調べる必要がありますが、彼らは代々、武神タケミカヅチを祀る鹿島神宮を最大の信仰拠点としていたはずで、その集団を特定することで、明らかにしうることもあるかもしれません。


益人 投稿日: 2024年01月02日 14:12:14 No.363
鹿島神宮と富士山の中点にも非常に興味深い神社がありますね


日本中央の碑について 管理人 投稿日: 2023年12月22日 03:58:08 No.360 【返信】

先日見た下記のネットニュースに興味深い記事が載ってます。「日本(国)」とは東北のことだったのか?その日本国の中央が青森県の千曳にあったとするとどうなるのか?が気になるところです。

坂上田村麻呂の遺物「日本中央の碑」は本物か、青森の巨石に刻まれた謎を検証https://news.yahoo.co.jp/articles/17ed01dac673b599cd72aaa4913318cf6117e284?page=1

そこで、その日本国の位置を確認する上で、図1のような方位ラインを作成してみました。

ここで、まず南の起点は武神タケミカヅチを祀る鹿島神宮で、古代から多くの方位ラインの測量起点となっていることは以前からお知らせしてきたとおりです。

そこから先の日本中央の碑へ向けて北上していくと、鹿島神宮⇔葛尾村夏湯(私の父方の祖父の実家・先祖の地)⇔伊達家の墓⇔日本中央の碑(青森県上北郡東北町千曳)⇔白老(伊達家)仙台藩陣屋(東にアイヌ民族の拠点ポロトコタン)⇔T204遺跡(縄文・続縄文遺跡)へと東85度偏角のラインがあることに気づきます。

もっとも父方の祖先は征夷大将軍の坂上田村麻呂となるので、今回その田村麻呂が刻んだとされる日本中央の碑と関係していてもおかしくはない気がするのですが、また伊達家の墓や陣屋とも関係していくところが興味深いところです。

そして北端のT204遺跡(札幌市豊平区西岡5条3丁目)は、我が家から東へ100mとなるわけでして因縁としか言いようがない位置付けと言えそうです。

先の白老の仙台藩陣屋そばにはアイヌ(縄文時代からあったであろう)のチャシ(砦)や、最大拠点のポロトコタン(ウポポイ)もありますが、日本中央の碑の位置は、図のように、蝦夷遠征に関連する多賀城碑と、北海道の同時代の続縄文時代の遺跡でもあるT204遺跡との中間地点にあることを考慮すると、日本国が札幌から仙台にかけての同心円の地域にあり、その中央の地点として、青森県のこの地が田村麻呂等によって占拠されたことによる可能性も考慮すべきかもしれませんね。


ただ、盛岡の志波城(斯波)までが、この田村麻呂当時の遠征の北限とみられることから、青森北端まで支配領域を広げていたかどうかは確認できない感じですが、一時的に支配を延ばしていた可能性はあるかもしれませんね。

以前お知らせしたように、多賀城碑には、(天平宝字六年(762)十二月一日)「去京一千五百里 去蝦夷国界一百二十里 去常陸国界四百十二里 去下野国界二百七十四里 去靺鞨国界三千里」と見えており、距離換算からこの時代に靺鞨国が沿海州方面にあることを把握し、その中間地点に「蝦夷國」があるとの認識を記してます。

ここで、先のT204遺跡⇔日本中央の碑の間が247㎞で、日本中央の碑⇔伊達家の墓の間が285㎞、伊達家の墓⇔鹿島神宮の間が253㎞となるので、概ね、常陸國境から多賀城までが412里=230㎞前後(唐尺の1里560m前後で計算)とすると、

多賀城⇔胆沢城の間が97㎞となるので、120里で計算するならば67㎞にしかならず、まだ760年当時のこの多賀城碑の時代には、実際、アテルイが後に拠点としてであろう胆沢城までは大和朝廷の支配領域が広がっていなかったことを意味しています。

ちなみに、下野国境から多賀城までが274里=153㎞とされてますが、実際現在の栃木県境の白坂付近までが153㎞となっており、ここでこの距離が、曲がりくねった道程を里数として数えていたのではなく、2点間の直線距離を測った距離であった可能性がでてきます。

そこで、多賀城⇔平城京の間が1500里とされたことについて考えてみると、唐尺で840㎞にならないといけませんが、直線距離にすると611㎞しかないので、多賀城⇔鹿島神宮(261㎞)+鹿島神宮⇔奈良平城京(458㎞)=720㎞でこれも少し足りない計算ですから、この1500里はアバウトな数値であった可能性が高くなるでしょう。同様に多賀城⇔靺鞨国の3,000里もアバウトな数値と考えうるはずです。

それでなぜ青森のこの地を日本国の中央と記したか?が課題ですが、日本を蝦夷の国とされた日高見国と同義であったとの見方によるならば、日本の中心が青森周辺と見なすことはありうることと感じます。

ただ当時日本国の称号はすでに天武朝頃には成立して使用されていたはずですか、日本列島の中心は奈良京都周辺と考えるのが自然ですが、なぜかそうでない観念をここに記してある点が問題となります。

ちなみに、鹿島神宮⇔平城京(大極殿)⇔宇佐神宮への東18度偏角のラインがあり、その距離は427㎞:461㎞です。

平城京に都がおかれていた奈良時代においては、この両神宮が特に重要視されていた理由は、この測量支配面での意味も大きかったことでしょう。

同様に、北方支配の拠点として、鹿島神宮が位置づけられていることも自然な流れで、その鹿島神宮を起点としてライン上に、日本中央の碑が見えてくるのも不思議ではない感じがします。

あと日本中央の碑の真南に胆沢城が位置することにも留意しておくべきかもしれません。

もう少し日本中央の碑の日本の意味について、追ってこれから考察をすすめていきましょう。




新・城郭ライン2 管理人 投稿日: 2023年12月17日 01:26:37 No.359 【返信】

先日、城郭を結んだ方位ライン(図2)を紹介した際に、かなり前に明智光秀に関連して作成したものも同時に紹介しましたが、そのラインを再度城郭メインで整理して作成しなおしたのが図1となります。

ここでは、まず小田原城を起点としたものとして、小田原城⇔名古屋城⇔安土城への東1度偏角の東西ラインがあります。

同じく、小田原城⇔新潟城への西1度偏角の南北ラインがあり、また小田原城⇔富士山⇔福井城への東20度偏角のラインもあります。

同じく、小田原城⇔忍城⇔若松城への東74度偏角のラインも見られます。同じく、小田原城⇔岡崎城⇔大阪城への東10度偏角のラインもあります。

なお、小田原城⇔江戸城への東40度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

次に駿府城を起点としたものとしては、駿府城⇔岡崎城⇔伏見城への東1度偏角の東西ラインがあり、同じく駿府城⇔富士山⇔忍城への東50度偏角のラインもあります。

次に江戸城に関するものとして、江戸城⇔名古屋城⇔二条城への東11度偏角のラインがあります。

あと、以前もお知らせした明智平⇔明智城⇔本徳寺・岸和田城への東34度偏角のライン、若松城⇔明智平⇔富士山への東65度偏角のラインあります。

その他、福井城⇔忍城への東1度偏角の東西ラインにも留意しておくべきでしょう。

全体的に東に1度軸を倒した測量をしていることも、この時代の測量の特徴としてみえてくるかもしれません。

先日のラインとあわせて、これらの城郭を結ぶラインが作成された年代を推定する必要がありますが、そのはじまりは14半ば頃に多く、次いで15世紀中頃、そして16世紀末が多いように見えます。

東からいくと、下記のようになります。

若松城 1384年 蘆名氏
水戸城 建久年間(1190年 - 1198年) 馬場氏
忍城  文明年間(1469-87)成田氏
江戸城 1457 太田氏
小田原城 15世紀 大森氏
新潟城 1581年 新発田氏
前橋城 15世紀末 長野氏
駿府城 14世紀 今川氏
浜松城 15世紀 今川氏
岡崎城 1452 西郷氏 
富山城 室町時代前期 神保氏
名古屋城 大永年間(1521年 - 1528年) 那古野・今川氏 
明智城 1342年 明智氏
福井城 1338 斯波氏
安土城 1576年 織田氏
伏見城 1592年 豊臣氏
二条城 1350年 斯波氏
大阪城 1583年 豊臣氏
岸和田城 15世紀
和歌山城 1585年 豊臣氏
岡山城 正平年間(1346年 - 1369年) 名和氏
広島城 1589年 毛利氏
熊本城 文明年間(1469年 - 1487年) 出田氏

その築城に関わった室町時代初期(14世紀半ば)の氏族としては、斯波氏が関わっていますが、足利将軍家から分かれた武衛家・屋形・陣として斯波氏が各地に拠点を構築していく途上で、これらの初期の城郭を構築していったのではないでしょうか。

特に斯波氏の武衛陣があった二条城あたりを起点として、また富士山を絡ませながら城郭を結ぶこれらのラインを構築していったようにみえます。

その後、小田原城・江戸城・駿府城あたりを15世紀半ばに太田氏等が構築し、それを元に、戦国時代末期に織田・豊臣氏が城郭を構築していったように見えます。

その城郭の位置測量、構築技術の伝播については、また足利・斯波氏の配下にいた技術者集団を確認する必要がありますが、その件はまたの機会に。




新・城郭ライン 管理人 投稿日: 2023年12月12日 20:46:29 No.358 【返信】

先に中・近世の話題が出てましたが、以前もお知らせした全国の城郭を結ぶラインを再作成してみました。図1はその作成図で、図2は以前作成したものです。

まず、江戸城を起点としたものをみていくと、江戸城⇔名古屋城⇔二条城⇔岡山状⇔広島城への東12度偏角のラインがあることがわかります。

また、江戸城⇔富士山⇔和歌山城⇔剣山北部⇔熊本城への東20度偏角のラインもあります。

そして江戸城⇔前橋城への西50度偏角のラインと、江戸城⇔水戸城への東50度偏角のラインとが線対称となっており、その前橋城⇔水戸城への東西ラインも確認できます。

次に岡崎城に関しては、岡崎城⇔富山城への南北ラインがあり、また岡崎城⇔前橋城⇔明智平への東40度偏角のラインがあり、さらに岡崎城⇔善光寺⇔新潟城西部⇔久保田城への東65度偏角のラインがあります。新潟東部は海となるので、少しずらして内陸へ城を構築したのでしょう。

富山城⇔明智平への東西ラインもありますが、それと直交して、前橋城⇔新潟城への南北ラインも確認できます。

続いて、鹿島神宮関連としては、鹿島神宮⇔前橋城⇔富山城への西20度偏角のラインがあり、同じく鹿島神宮⇔仙台中心部⇔札幌へのラインの他、また図3のように、鹿島神宮⇔水戸城⇔若松城への西70度偏角のラインもあります。

その若松城に関するラインとしては、若松城⇔忍城⇔小田原城への東75度偏角のラインがあり、若松城⇔明智平⇔長楽寺⇔富士山への東75度偏角のラインがあります。

その他、小田原城に関するものとしては、小田原城⇔名古屋城⇔安土城に関する東5度偏角のライン、小田原城⇔駿府城⇔伊勢内宮への東20度偏角のラインもあります。

その駿府城に関しては、駿府城⇔岡崎城⇔伏見城の東西ライン、駿府城⇔富士山⇔忍城への東50度偏角のラインもあります。

それと平行して、安土城⇔名古屋城⇔小田原城へのラインもあります。

その他、明智光秀関連で、本徳寺⇔明智城⇔明智平への東32度偏角のライン、同じく本徳寺⇔大阪城⇔京都御所への東60度偏角のラインなど、明智氏や松平氏、羽柴氏等が関わっていた加茂・鴨氏関連の測量集団の影響がこれらの城郭の位置づけに深くかかわっていたことも以前指摘したとおりです。

今回作成したラインの意義付けとしては、中近世の都市形成にあたり、城郭の位置付けが大きく影響しており、その城下町が発展した形で現在の主要都市がなりたっていること、またその都市間を結ぶ交通網が形成していった点があり、物資・人といったエネルギー面での流れにもこれらのラインが指標として今も関わり続けていることに気づく必用があるのかもしれません。

都市間を結ぶ方位ラインの件は欧州のそれでもなりたつことを以前お知らせしましたが、資金・人・物といった物流を越えたエネルギーの流れを支配することは、そのままその領域支配ともなり、その拠点として鹿島神宮が意識され続けていることも、武神タケミカヅチへの崇敬の念が中近世の武士層にも影響を及ぼしていたことの顕れではなかったかと感じます。




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