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投稿者:管理人
先日、九州の津久見島と、若狭湾の冠島を結ぶラインを中心として、それらに関連する弥生時代後期~古墳時代初期にかけての諸遺跡を結ぶ方位ラインを作成しましたが、その拠点の中で特に、四国伊予の山田池(松山市)周辺に地域に注目したことがあります。 この山田池に関するラインを再度確認していくと、さらにわかってきたことがあるので、その件について今回はお知らせしたいと思います。 まず、先日も紹介した帯隈山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡南部⇔山田池⇔八堂山遺跡⇔萩原墳墓群への東15度偏角のラインがありましたが、その延長線上に弥生時代後期の登呂遺跡が位置することがわかりました。 このラインの延長線について調べていくと、東端は親谷池(一宮町)あたりで、図のように荒神谷遺跡(西谷墳墓群)⇔富士山の東西同緯度ラインと交差することになります。 その親谷池(一宮町)⇔柳田布尾山古墳ラインは西30度偏角となり、直角の1/3角とのことで人工的な位置付けと言えるでしょう。 同じく、山田池(松山市)⇔山田(宗像市)⇔宗像大社への東西同緯度ラインが確認でき、山田の字名同志が同緯度にある確率を考えると、ある時期の邪馬台国(山田)の領域を示していた可能性がありそうです。 そしてこの山田(宗像市)⇔女山神籠石(日子神社)への東1度偏角の南北ラインがあり、そのそばにも山門の字名が残りますから、山田≒邪馬台国の支配領域を推測することができるでしょう。 この山田(宗像市)の正確な位置は、宗像のふれあいの森総合公園の西端となりまず。 その女山神籠石については、図のように、津久見島⇔八女津媛神社(鬼塚周辺)⇔おつぼ山神籠石への東西ライン(西1度偏角)がありましたが、このラインの延長線上にある高島(北部)で、先ほどの荒神谷遺跡⇔山田(宗像市)への東40度偏角のラインとが交差することがわかりますが、このラインは、また志賀島(火焔塚)付近を通過しており、志賀島にあった金印とそれを管理する役所との兼ね合いも想定しておくべきかもしれません。 あと、上記の2つのラインが1度の東偏角を持っていることは、当時の測量技術や道具に、1度の偏角のズレを生じさせる要因があったこととなり、同時代同時期の測量・造営と考えうることもあります。 さらに、図のようにこの高島北部で、先ほどの帯隈山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔山田池(松山市)⇔登呂遺跡ラインが交差することから、この場所が重要な測量起点であったことが明らかになるでしょう。 今回取り上げたこれらのラインは、概ね弥生時代後期には成立していたことになり、そこに山田の字名が示すであろう邪馬台国の支配領域を考慮すると、九州北部から四国東部にかけては、その領域にあった可能性が見えてきそうです。 そこでさらに今回注目しておきたいのが、前回注目した四国の伊予・阿波の対岸の吉備・播磨地域についてのライン拠点です。 まず、先の荒神谷遺跡⇔萩原墳墓群への西40度偏角のライン上に、楯築墳丘墓があることに気づきます。 その楯築墳丘墓⇔山戸4号墳⇔伊勢遺跡への東12度偏角のラインもあり、その古墳時代初期の纒向型前方後円墳である山戸4号墳については、山戸4号墳⇔孝霊天皇陵⇔黒塚古墳への西15度偏角のラインがあり、このラインと黒塚古墳⇔伊勢遺跡⇔分校マエ山古墳(纒向型前方後円墳)の東75度偏角のラインが直交していることも判ります。 加えて、先ほどの柳田布尾山古墳⇔分校マエ山古墳⇔山戸4号墳東部⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への東45度偏角のラインがあり、概して弥生時代末期から古墳時代初期にかけて造営されたラインと言えるでしょう。 なお、このライン上の山戸4号墳の位置がやや西へずれている理由としては、当時の海岸線を復元すると、本来あるべきラインの交差点が海中となるために、一方のライン上で西へとずらした丘陵地帯に墳墓を構築したと考えうることがあります。 同様に、前述した荒神谷遺跡⇔萩原墳墓群ラインと、津久見島⇔山田池⇔冠島ラインの交点は児島湾内の海中(浦安総合公園・体育館付近の島地)となり、その真東が、先ほどの孝霊天皇陵となりますが、この孝霊陵を起点として、奈良の欠史天皇陵や天皇宮が測量・構築されていったことを考慮すると、吉備・播磨方面に孝霊天皇に関わる集団、おそらくは山戸の字名に関連するであろう邪馬台国の東遷に関わる集団がおり、その後、孝霊天皇に象徴される王族が奈良南部方面へと進出し、黒田庵戸宮(孝霊宮)や黒塚古墳などを構築していったことが予想しうるでしょう。 そして、その件は、孝霊天皇と桃に関する伝承、纏向遺跡の桃の種や吉備の楯築墳丘墓にもみえる弧帯紋の遺物の出土とにも関係してくるかもしれません。 その前後の時代に、今回のラインにみられるような富山の分校マエ山、阿波の萩原、播磨の山戸にみられる纒向型前方後円墳や滋賀の伊勢遺跡等も構築されていたはずですが、そこに、また日向の魏年号銘鏡を出土した持田古墳群が関わってくることにも注目すべきで、概して邪馬台国の時代の構築と考えるのが妥当と言えそうです。 以上のように、弥生時代後期の各地の主要や弥生遺跡にライン構築が始まり、その前後で山田の字名にみられるような邪馬台国の原型が仕上がり、その後、弥生末期に瀬戸内の高地性集落の八堂山遺跡等が造営され、さらに古墳時代初期に入って、今回の楯築墳丘墓や纒向型前方後円墳等が構築されていった流れが見えてきますが、その終着点として、黒塚古墳が位置付けられていた点に留意すべきでしょう。 この古墳は多数の三角縁神獣鏡を出土するとともに、その東方には山田の字名とともに古墳軸を黒塚に向ける崇神陵等があり、古墳時代初期の主要な拠点として位置づけられていたことは明らかです。 年代としては、三角縁神獣鏡の古いタイプが出そろう280~300年前後となるでしょうか。 その直前期に、滋賀の伊勢遺跡や孝霊陵や宮・欠史天皇陵が構築され、同時に纒向型前方後円墳が各地に構築されていったはずですが、さらにその直前に楯築墳丘墓や萩原墳墓群といった最初期の纒向型前方後円墳が造営されたはずです。 そこで、邪馬台国の女王・卑弥呼の都がどこにあったのか?について考えてみると、富山、滋賀や四国、吉備、あるいは北九州、日向方面を視野にいれつつ、より年代を決めていくことが欠かせませんが、今回示したライン拠点のどこかに、卑弥呼・台与の都があったのかもしれません。 それはこれらのラインが狼煙などの情報通信の流れを示しており、その流れの集積地点に、その国の首都があるのは当然だからです。 その邪馬台国の領域の拡大にともない、それに相応しい地に情報の集積拠点を設けていったことは十分に予想しうることで、それなしでは国としての統治が難しいのではないでしょうか。 今回示してきた方位線の精度が1/1000前後の誤差精度で測量されていることを理解できれば、その都の位置も合理的に推測しうる可能性が高くなります。
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