歴史掲示板(渡来人研究会)


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津久見島・冠島と邪馬台国の東方展開
管理人 投稿日:2024年03月01日 01:17 No.377
以前、九州の弥生遺跡や神籠石が津久見島を起点とした方位線測量で位置づけられていることと、畿内の元伊勢拠点や弥生遺跡や古墳が冠島を起点とした方位線上に存在していることを明らかにしましたが、その津久見島と冠島との間に、同様なライン面でもつながりがあるかどうかを考察してみると図のようなラインが明らかになってきました。

まず、津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳への東40度偏角のラインを確認できますが、この氷見市の柳田布尾山古墳は、3世紀末~4世紀初頭の前方後方墳とされており、墳丘長は107.5m(後方部54m×53m・前方部53.5m×49m)となります。以前、魏年号銘鏡を出土した古墳が、この前方後方墳(方墳)と纒向型前方後円墳とに見られることが多く、ラインで接合していることを明らかにしたこともありましたので、その件を留意しておきましょう。

その冠島については、元伊勢・籠神社の奥宮とされ、崇神朝からはじまる豊鍬入姫・倭姫による165年前後にわたる巡行の諸拠点の測量起点となっており、その巡行の終わりの伊勢に落ち着く年代がちょうど外宮が移動された雄略朝末期と重なることからも崇神朝が310年代であることを指摘したとおりです。

ここで、また冠島の真南に位置する弥生時代後期の池上曽根遺跡について、津久見島⇔萩原墳丘墓⇔池上曽根遺跡への東25度偏角のラインが存在します。

この萩原墳墓群については、弥生時代終末期で、纒向型前方後円墳の原型ともみなされる墳墓があり、畿内へ纒向型前方後円墳が入る直前期の遺跡であった可能性があります。

弥生時代後期に津久見島を拠点に支配を広げていた九州系集団が、畿内方面へと東遷していく過程で、徳島のこの萩原墳墓群周辺に拠点を置いていたことがあったのではないでしょうか。近くには忌部氏のアマテラス信仰に関わる大麻比古神社もあり重要拠点です。

その九州における拠点について再度確認していくと、図3のように、まず津久見島⇔八女津媛神社(西隣の鬼塚字周辺)⇔女山神籠石(日子神社)⇔おつぼ山神籠石への東西ラインがあり、また津久見島⇔小迫辻原遺跡⇔杷木神籠石⇔長田大塚古墳⇔平塚川添遺跡への西15度偏角のラインがありますが、このラインと津久見島⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への東75度偏角のラインとが図のように直交しています。

そしてその持田古墳群⇔幣立神宮北東部⇔八女津媛神社⇔平塚川添遺跡への西60度偏角のラインがあり、このラインと平塚川添遺跡⇔冠島の東30度偏角のライン、女山神籠石⇔小迫辻原遺跡への東30度偏角のラインとが直交しています。

つまり冠島は、平塚川添遺跡と池上曽根遺跡とに影響されて位置づけられた(正確には冠島北部をラインが通過するので、その一番近くにあった島)であり、そこに、元伊勢に関わるアマテラス・トヨウケ神に関わる信仰を持ち込んだ集団がいたことになるでしょう。

さらに図のように、平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡南部⇔山田池⇔八堂山遺跡(伊曽乃神社)⇔萩原墳墓群への東15度偏角のラインがあり、先の津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳への東30度偏角のラインと、山田池周辺で交差しています。

ここに見えてくる川部・高森古墳群南部には免ヶ平古墳があり、50m前後の前方後円墳とみられ、竪穴式石室には、割竹形木棺が納められ、副葬品として、斜縁二神二獣鏡、三角縁三神三獣鏡、硬玉製勾玉、鉄剣、鉄槍、斧、刀子などが出土しており、初期古墳の可能性を感じますが、またこのライン上にみえる八堂山遺跡は弥生時代末期の高地性集落であり、またその傍に位置する伊曽乃神社では天照大神の荒魂と武国凝別命を祀り、アマテラス信仰の重要拠点であったことが予想されます。

またそのライン上に位置する山田池で、後者のラインと交差していますが、その山田池の山田の名が邪馬台国と関わることは以前から指摘しているとおりです。


関連して図2のように、その山田池の南には日尾八幡神社があり、品陀和気命(応神)、帯仲日子命(仲哀)、大帯姫命(神功)の三神を主神とする件は、宇佐神宮同様に九州に多いのですが、その境内社に、天照皇大神(玉垣内本殿東隣)や 東道後神社(天満神社東隣)で天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神が祀られており、アマテラス・ツキヨミ信仰が見えてくる点に留意すべきでしょう。

すなわちこの社地および山田池が、先のようにツキヨミとの関連が予想される津久見島と、アマテラス・トヨウケ神と関連する冠島(元伊勢・籠神社の奥宮)を結ぶライン上にあることに対応する祭祀を行っていたことが伺えるのです。

図2に差し入れた測量地図のように、その山田池を周壕とするようにして、その尾根を利用した220m前後の高地性集落・前方後円墳状地形が2つほど確認でき、日尾の字名も、日神を祀る尾根の意味であった可能性もありそうです。

関連して先の日尾八幡社の中玉殿に伊予比売命、饒速日命が祀られており、物部氏の祖のニギハヤヒが祀られていることは、九州方面からのニギハヤヒの畿内方面への東征を想起させますが、その中継地として、この伊予の地があったのかもしれません。

その山田池については、さらに月隈山⇔山田池⇔石岡神社⇔池上曽根遺跡⇔富士山への東18度偏角のラインがあり、また山田池⇔西谷墳墓群への南北ラインがあり、その西谷墳墓群⇔富士山の同緯度東西ラインがありますので、これら3つのラインで図のように直角三角形を構築していたこともわかります。

この月隈山は図3のように佐賀の日隈山と東西ラインにあり、その延長線上に帯隈山神籠石がありますが、また日隈山⇔女山神籠石⇔持田古墳群への西50度偏角のラインが見て取れます。

したがって、山田池は、富士山を起点とした測量とともに、池上曽根遺跡や平塚川添遺跡に造営され、また西谷墳墓群が造営された弥生時代後期に、重要拠点として位置づけられていた可能性が高いでしょう。

そこに、先の津久見島や冠島、そして九州・瀬戸内の神籠石・山城が関わってくるのですが、概して弥生時代後期から末期にかけての造営拠点であったろうと予想します。

なお、その石岡神社については、西条市氷見に鎮座し、また、先の津久見島⇔山田池⇔冠島⇔柳田布尾山古墳へのライン上にみえる柳田布尾山古墳も氷見市にあることから、氷見(ヒミ)の名に共通した意味があったことも伺えます。

これは山田≒邪馬台国、豊≒台与と同様に、氷見≒卑弥呼といった語的な共通要素があることについて以前紹介・考察を加えたとおりです。

冠島は、アマテラスとトヨウケ神に関連し、津久見はツキヨミ神に関連しますが、アマテラスは日神に、トヨウケは月読神と関係することがあり、さらに今回のライン拠点としてみててきた月隈山・日隈山についても、同様な日月信仰と関係するでろうことを考慮しておく必要がありそうです。

以上みてきたように、九州と畿内を結ぶ津久見島⇔冠島ラインの中間点としてみえてくる四国において、特に伊予の山田池周辺地域、その東の氷見・八堂山遺跡周辺、そして阿波の萩原墳墓群周辺の3つの領域が重要視されていたことが明らかになってきますが、また邪馬台国の東方への拡大過程において、これらの拠点を踏まえておくことが重要になってくるかもしれません。




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