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仮名文字の起源とカモ・土師氏と銅鐸集団 管理人 投稿日: 2024年04月19日 00:52:46 No.430 【返信】

以前、仮名文字の起源とも言われる日文のうち、特に阿比留草文字とアラム・ヘブライ文字との比較をしたことがありますが、今回はその日文(阿比留草文字)をもたらした集団の特定について考察してみたいと思います。

まず、図1の比較表の説明ですが、ここでは日文を記した文字欄の左が平・カタ仮名、右上がヘブライ語音、左下がヘブライ文字となります。

特に、Lamedと「ア」「め」「レ」、Hey と「い」「ほ」、Vavと「う」、Gimelと「え」、Yodと「お」、Kaphと「コ」、Samekと「サ」「ま」「も」、Shinと「シ」、Kuphと「ク」「フ」、Bethと「ス」、Tavと「タ」、Tedと「チ」、Tsadiと「ツ」「ト」、Nunと「ヌ」「ノ」「ん」、Memと「ね」、Hetと「は」、Peと「ヘ」、Ayinと「や」、Yodと「ユ」、Alphaと「ら」「ろ」とで有意な対応がみられます。

このように、平仮名の起源とされる日文の起源は、漢字ではなく、アラム系の文字、特に古ヘブライ文字との相関性があることが判ってくるのですが、その類似した原因について考えていく必要があります。

その阿比留草文字が見つかった阿伎留神社について調べていくと、大物主神 、味耜高彦根神 (あじすきたかひこね)、建夷鳥神(たけひなとり)、天児屋根命(中臣氏の祖)が祀られていることがあります。

その味耜高彦根神は修験道に関わるカモ(加茂)氏の祖であり、また建夷鳥神 はその父・天穂日神ととに土師氏の祖とされ、古墳の埴輪を造ったとされる土師氏からは、のちの大江・菅原氏等が輩出されています。

方位ラインで見ると図2のように、建夷鳥およびその父・天穂日、および味耜高彦根を祀る諸社を結ぶライン上に位置していたことが判らかになります。

特に銅鐸出土地である加茂岩倉遺跡や、桜ヶ丘、三日月町釣、野洲町大岩山といった銅鐸出土地がライン上にあり、その測量の起点は同じく銅鐸出土地である吉野ヶ里遺跡にあります。

具体的には、まず、鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔比奈多神社への東45度偏角のラインがあります。

その鷺宮神社と比奈多乃神社では、阿伎留神社と同様に建夷鳥神が祀られており、建夷鳥神を祀る同族集団によって造られた拠点と考えて相違ないでしょう。

また阿伎留神社では、同じく味耜高彦根神(迦毛大御神)を祀りますが、その味耜高彦根神を祀るのが、比奈多乃神社⇔高鴨神社⇔加茂神社(菊間)への東10度偏角のライン上に見える高鴨神社で、加茂(カモ)氏の拠点と関わってきます。

そして、その比奈多乃神社を起点とする他のラインをみていくと、図のように比奈多乃神社⇔三日月町釣(銅鐸出土地)⇔馬見岡綿向神社⇔野洲銅鐸出土地⇔大江神社への西11度偏角のラインがあり、また比奈多乃神社⇔伊勢内宮⇔矢野銅鐸出土地⇔吉野ヶ里遺跡への東12度偏角のラインも確認できます。

さらに図のように、吉野ヶ里遺跡⇔加茂神社(菊間)⇔桜ヶ丘銅鐸銅鐸出土地南部⇔芦屋神社⇔馬見岡綿向神社⇔伝名古屋城壕銅鐸出土地への東20度偏角のラインが見えてきます。

ここで、銅鐸出土地が多く見えてくるのですが、またそれらのライン上に見える馬見岡綿向神社では、天穂日命と天夷鳥命(天穂日の子)、武三熊大人命(天穂日の子)を祀っており、概して土師氏の拠点と言えるでしょう。先のライン上にみえた大江神社も同じく土師氏系の大江氏の拠点でしょう。

その天穂日に関する拠点としては、鳥取の天穂日命神社があり、ここに関わるラインとしては図のように、まず加茂岩倉遺跡(銅鐸出土地)⇔能義神社⇔天穂日命神社⇔鷺宮神社への東8度偏角のラインがあります。

同じく天穂日命神社⇔桜ヶ丘銅鐸出土地⇔高鴨神社への西40度偏角のライン、天穂日命神社⇔山阪神社⇔元宮土師社への西35度偏角のラインとがあり、その能義神社、山阪神社では天穂日命が祀られて、元宮土師社でも建夷鳥神が祀られているので、概して土師氏のラインと言えそうですが、そこに加茂岩倉(遺跡)、高鴨神社にみえるカモ氏との関わりが見えてくる点に留意しておくべきでしょう。

その加茂岩倉遺跡の真南に加茂神社(菊間)が見えることがあり、その他、図3のように、高鴨神社⇔元宮土師社東部⇔阿遅遅速雄神社への西68度偏角のラインも、カモ氏関連のラインと言えるでしょう。

このように、カモ氏と土師氏の拠点、そして銅鐸出土地がライン上で接合してくることについて考えてみる必要がありそうです。

そのカモ氏の祖・味耜高彦根神と、土師氏の祖・天穂日神(父)と建夷鳥神(子)はともに、天孫(天皇家の祖)降臨以前に高天原から派遣されており、後に出雲の大国主に天穂日神に仕えるように命じられたことから、出雲国造等の祖となっていますから、天孫降臨以前に渡来した集団として、なんらかの接点を有していた可能性がありますが、その時代が弥生時代前半にはじまる銅鐸の時代だったのかもしれません。

その銅鐸は弥生時代前半の紀元前3世紀頃から見られはじめて、古墳時代には消滅しますが、それは銅矛・銅剣を埋葬した集団、また銅鏡を埋葬する天皇家の祖先となった集団に滅ぼされたことが指摘されます。

出雲勢力は天孫降臨以前の土着勢力とみなされますが、また彼らが日文(仮名文字)をもたらしたことは、先の阿比留草文字が、出雲大社や伊勢神宮の他、味耜高彦根を祖とする三輪氏が祀る大神神社、建比良鳥の子孫の上総国造が祀る鹿島神宮や武蔵国造の鶴岡八幡にみえることからも伺え、それらを調べた平田篤胤が、「肥人(クマヒト・九州?)の字」とこの文字を述べていることも、上記ラインの起点の吉野ヶ里遺跡等と関わるかもしれません。

なお関連して、出雲の野見宿禰(土師氏の祖)と葛城の当麻蹶速との相撲の話がありますが、前者が勝ち、後者の葛城の拠点を手にした話も、葛城カモ氏の展開と関係しそうです。そして、その相撲を旧約聖書のヤコブと神との格闘に起源を求める説もあります。

そのカモ氏の祖・味耜高彦根については、全国を廻り高屋を建てていったことが書紀に記されていますが、その高屋とは測量に用いる櫓であり、カモ氏が後代修験道者を輩出していったことも、その山岳地帯から行う測量技術の継承によるものではなかったかと感じます。

同様に土師氏の祖の天穂日神・建夷鳥神については、垂仁朝に殉葬をやめさせる古墳の埴輪を造った伝承に見られるように、邪馬台国卑弥呼の伝承にみえるような多数の殉死者を古墳に埋葬していた時代から、それ以後の埴輪主体の埋葬方式をとる古墳時代のある時期に関係していた古墳造営技術者の集団と考えるべきかもしれません。

このカモ氏にみられる測量技術集団と、土師氏のような古墳造営技術者集団とがセットで動くことにより、以前から論じてきたような古墳(状のマウンド地形)や都市、寺社を結ぶ方位ラインが全国各地に展開していったのではないでしょうか。

その彼らが当初用いであろう銅鐸については、中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の「越」の貴族墓(前470年頃)から、弥生時代の銅鐸に似た磁器鐸が出土しており、その(百)越はスキタイ民族の南下と関係し、そのスキタイ民族の中に前720年に離散した北イスラエルが遺民がいた可能性については、以前こちらで論じたとおりです。

その経緯については、言語面からいくと、高句麗祖語の数詞が日本の数詞と類似すること、その数詞が同時にヘブライ語の数詞とも類似することが知られていることがあり、同様に、今回とりあげた日本語の音を記した仮名文字とアラム・ヘブライ文字とが類似すること、その祖語や仮名文字の成立年代が弥生時代と思われることは、偶然の一致ではなく、必然的な理由があるだろうと思います。

その日本語の起源に関する言語的な考察については、以前、契丹古伝(朝鮮南部の古文書を元にしている)に記された誓約の文書とアマテラス・スサノオ神話の誓約のそれとが儀式面・発音面でも類似することがあり、そこにカモの語が多くみえてくることから、カモ氏との関わりを予想したことがありますが、その件については、また改めて後日考察しなおしてみたいと思います。




新治郡2ヶ所の佐志能神社 弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:18:02 No.427 【返信】

まずは、常陸国新治郡の佐志能神社

https://genbu.net/data/hitati/sasino2_title.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐志能神社_(笠間市)

次に、茨城県新治郡の佐志能神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐志能神社_(石岡市染谷)

源頼朝は、藤川の合戦で平家を破り、石岡にきたんでしたよね?
弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:19:08 No.428
藤川は、富士川の間違いです。
弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:43:45 No.429
てなわけで、

常陸太田市小島町の古墳は、「星神古墳」と「諏訪古墳」と二つの呼び名が、
また、常陸太田市馬場町の馬場八幡宮にある古墳は、「亀の子古墳」とたぶん「藤古墳」の呼び名があるのかな?


「六之宮」、やっぱり似たのが茨城に 弓張月 投稿日: 2024年04月16日 16:59:14 No.422 【返信】

許斐登山口右側に鎮座される「六之宮」
弓張月 投稿日: 2024年04月16日 17:23:43 No.423
許斐登山口右側に鎮座される「六之宮」ですが、相模の国では国府祭が行われる相模國総社 六所神社が、ウィキペディアには、「旧六所神社(茨城県つくば市) --明治一村一社制により廃社。ご神体は蚕影神社にうつされている。」と
また、笠間市笠間市下郷上町にも六社神社があり、 https://ibamemo.com/2020/01/05/6sho/
ブログ「茨城見聞録」によると、「社殿右手の小高い場所には蚕影神社が鎮座しています。おそらく神郡(つくば市)の蚕影山を模しているのでしょう。」とあり、現在のような幌獅子や山車が参加する形式の祭礼は、明治6年の合祀を記念して始められたといわれており、140年を超える歴史を重ねています。祭礼ではいろいろな慣例やしきたりがあり、それを守ることで、町内間のもめごとが起こらなくなり、地域との結びつきがより密なものとなっています。(例大祭/笠間市公式)と書かれています。
茨城県は、常陸風土記の新治郡と明治時代からの新治郡は違う場所なんですね。こんな所は素直ですよね?
弓張月 投稿日: 2024年04月16日 19:11:33 No.424
二つの新治郡

1594年(文禄3年)に常陸国内で太閤検地が行われた際に再び新治郡が成立したが、これは古代の茨城郡、筑波郡、信太郡の領域のそれぞれ一部からなるものであり、古代の新治郡とは全く領域を異にする。
弓張月 投稿日: 2024年04月17日 07:10:27 No.425
笠間市笠間市下郷上町にも六社神社で行われる例大祭

前回投稿の「現在のような幌獅子や山車が参加する形式の祭礼は、明治6年の合祀を記念して始められたといわれており、140年を超える歴史を重ねています。祭礼ではいろいろな慣例やしきたりがあり、それを守ることで、町内間のもめごとが起こらなくなり、地域との結びつきがより密なものとなっています。(例大祭/笠間市公式)」ですが、

よく、日本は平和ボケしてる?と、人間の本能は、
平家物語の「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。」が本能であるとすると、

であるから、鹿島神宮で行われる祭頭祭のような今では訳がわからなくなっている祭りを行っているのでしょうかね。でも、実際は行う理由の記録はあるのでしょうけど?


愛(あい,いと)と中臣氏&清明 弓張月 投稿日: 2024年04月14日 08:51:15 No.420 【返信】

大阪府の北摂地域を流れる淀川水系の一級河川に安威川(あいがわ)があります。ウィキペディアに、「京都府亀岡市の竜ヶ尾山付近及び大阪府高槻市樫田地区を水源とし、大阪市東淀川区相川/吹田市高浜地先で神崎川に合流する。そして、茨木市内には川の名前の元になった安威(藍)という地名がある。安威地区は中臣氏ゆかりの地で中臣藍連が祖神を祀ったとされる阿為神社がある。」と

茨城県稲敷郡阿見町を流れる清明川は地図上では、阿見町中郷の阿弥神社からか?中流には塙城(阿見町塙字たて)が左岸にあり、下流は稲敷郡美浦村舟子を流れ霞ケ浦に至る。

よくも、こんな地名にしたと思いません?
中郷と中臣は中(なか)」が一緒ですね。塙城の「塙(はなわ)」茨城県発祥のようで、「はな」は、≒花とすると、「か」で、塙=かわ(川・花輪)となり、霞ケ浦に阿見町から流れるのではなく美浦村からなのが面白いですね。美浦村の美浦は、≒「みうら(三浦)」でしょうね。

安威川(あいがわ)の「あい」は、既に沢山投稿したので省略。茨木市と茨城県
そして、二十四節気(4×6)、二十八宿(4×7) 二十四代天皇は仁賢天皇で、二十八代天皇は宣化天皇(せんか≒・千が化ける) やっぱり、赤穂浪士は四十七士でないとならない?

やっぱり、平家物語の「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。」ですね?

https://ja.wikipedia.org/wiki/安威川
http://www.oshiro-tabi-nikki.com/hanawa.htm
弓張月 投稿日: 2024年04月14日 19:50:38 No.421
常陸風土記に書かれている黒坂命の古墳は、美浦村大塚にあるんですね。

https://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/fudoki/visit/30/index.html


韓国の国旗は「八卦」から。歴史の考察に使えるものですか? 弓張月 投稿日: 2024年04月12日 21:23:24 No.417 【返信】

私には理解不能な「八卦(はっけ、はっか)図式と韓国国旗の図案は、一部欠けているようですが、何かの意味があるのでしょうか?そして、韓国の国は八卦の八個の中の四個が描かれていますが、これを四角形と考えると、書かれていない四角形と合わせると八角形神輿,高御座,九曜に紋なりますよね。
弓張月 投稿日: 2024年04月12日 21:25:12 No.418
ウィキペディアにある「「八卦(はっけ、はっか)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/八卦
弓張月 投稿日: 2024年04月12日 21:27:02 No.419
大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう)とも同じになる。


北九州の弥生遺跡と古墳状地形 ② 管理人 投稿日: 2024年04月10日 02:35:01 No.406 【返信】

紀氏さん、お久しぶりです。以前お会いしてから随分年月が経ちましたね、またどこかでお会いですね。

さて、先日お知らせした北九州の弥生遺跡と古墳状地形を結ぶ方位ラインについて、追加でいくらか判ってきたことがあるのでお知らせしたいと思います。

図1のように、2つの主軸となる南北同経度のラインと、津久見島から西15度偏角で平塚川添遺跡方面へと延びるラインがあることは以前もお知らせしたとおりですが、今回はその中でも宗像市の大井(大井ダム北西部)を起点としたラインに注目してみたいと思います。

まず、宗像大社⇔宗像市大井⇔大城山(大野城)⇔一井木古墳状地形⇔女山神籠石への130度31分00秒の南北ラインがあり、それと平行して、綾羅木郷遺跡⇔山門町北西部(北九州市)⇔御所ケ谷神籠石西部⇔小迫辻原遺跡(その北隣の日田市山田)への130度55分37秒の南北ラインがありました。

また図のように、宗像市大井⇔山門(北九州市)⇔山門(宇部市)⇔山戸4号墳(南部・海域)への東15度偏角のライン、同じく宗像市大井⇔御所ケ谷神籠石⇔川部・高森遺跡南部への西20度偏角のライン、同じく宗像市大井⇔鎌田原古墳状地形⇔小迫辻原遺跡への西55度偏角のラインがあることは過去にもお知らせしたとおりですが、また同じく宗像市大井⇔津久見島への西30度偏角のライン上に、伊田・今任原の古墳状地形があることが判りました。

この位置は図のように、すでに知られている赤村の古墳状地形の真西にあたり、図2の航空写真(1963年)に見えるような前方部が撥型に開く初期の前方後円墳状の地形が確認できます。

そのサイズは図3の測量断面図のように、後円部、前方部ともに120m前後で240m、高さ15m~20m前後となるでしょう。

この古墳状地形の周囲には周濠を思わせる池があり、ほかにも円墳状の地形がいくらか散在していますが、その後円部西隣りに豊受神社があり、アマテラス・トヨウケ信仰の名残を見出しうる点が重要です。

なお、後円部と前方部の大部分は伊田地域に、前方部の最南部は今任原地域にありますが、その今任原はかつては今任村・今任で記されており、今任(イマトウ)からヤマト、つまり邪馬台国とも関係するでしょう。

そして、この古墳状地形の位置は図1のように、今任原古墳状地形⇔鎌田原古墳状地形⇔平塚川添遺跡(大型建物跡)⇔高良山(山頂・奥宮)への東58度偏角のライン上にあることからみて、平塚川添遺跡や高良山と関わっていたことも明らかにしうるでしょう。

その平塚川添遺跡については、先のとおり、津久見島⇔小迫辻原遺跡⇔平塚川添遺跡⇔一井木古墳状地形への西15度偏角のラインがあるのですが、同じ津久見島を起点としたラインがこの今任原の古墳状地形を通過していることからみて、弥生時代後半にはこの周辺地域が、ヤマト(邪馬台国)に関わる集団によって開拓されていったことが伺えます。

おそらくは、弥生時代後期から末期にかけて、すでに前方後円墳状(高地性集落含む)のマウンドを用いて測量をする集団が北九州におり、その規格を用いてそれらを全国各地へ造営していった結果として、畿内に古墳時代初期になり箸墓や纒向型前方後円墳が現れていったことを予想します。

その件は、図1の女山神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔川部・高森遺跡の東30度偏角のラインの延長線上に、楯築墳丘墓が位置しており、この墳丘墓が後の畿内の前方後円墳へと発展していったことからも裏付けうるでしょう。

つまり、突然に箸墓や纒向型前方後円墳が畿内に現れたわけではなく、北九州のプレ前方後円墳の延長線上にそれらが造営されていったとのことです。

それらを造営した集団は、山門・山戸・山田(ヤマト・ヤマダ)、そして今回とりあげた今任(イマトウ)といった地名を拠点に残していったわけで、その集合体として邪馬台国が存在していたのでしょう。

それらの拠点のどこかに女王卑弥呼や台与の都や墓もあったのではないでしょうか。

そして、そこに今回の今任原古墳状地形そばにもみえたアマテラス・トヨウケ神信仰とが付随してくることがあり、トヨウケ神とツキヨミ神との相関性から、今回の測量起点の津久見島=ツキヨミ島との見方ができれば、その月神の信仰がそこにかかわってくるでしょう。

それと同時に日神についても、今回の日田(小迫辻原遺跡)、先日のライン拠点にみえたおつぼ山神籠石の大日、同じく伊川・大日寺の古墳状地形の大日、佐賀大和の与止日女神社につく日、日出尾など、日神信仰も同時に見えてくることがあり、アマテラス=日神信仰へと発展していったのではないでしょうか。

さらに今回のライン上に平塚川添遺跡が見えてくる点があり、この遺跡と日神信仰との関わりについては、たとえば、図1のように、佐賀の帯隈山神籠石の東隣にある日隈山を起点として、日隈山⇔平塚川添遺跡⇔川部・高森古墳群への東15度偏角のライン、その日隈山⇔月隈山(日田)の39度19分44秒ライン等からも明らかにしうるでしょう。




ご機嫌伺い 荊の紀氏 投稿日: 2024年04月09日 20:54:29 No.402 【返信】

>いろいろ情報ありがとうございます。


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