歴史掲示板(渡来人研究会)


| トップに戻る | 検索 | アルバム | 管理用 | ▼掲示板作るならRara掲示板 |

渡来人研究会(www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/)の歴史掲示板です。
オカルト等の歴史に関係のない投稿、誹謗中傷、宣伝目的・同じ内容の重複投稿、度を越した長文投稿等、なりすまし投稿については、管理人の独断で削除・投稿拒否設定をしますので、ご注意ください。

■アクセス数
TODAY 50
YESTERDAY 101
ALL 40403
お名前
メール
タイトル
画像添付
削除キー ( 記事を削除する際に使用 )
文字色

皆神山・水上と水口 弓張月 投稿日: 2024年04月24日 10:40:50 No.442 【返信】

ネットで、「世界情勢予測の第一人者であるイアン・ブレマー氏(ユーラシアグループ)は、イランとイスラエルの報復合戦については終戦と見ているとの見解を示した。もちろん中東の火薬庫がいつ爆発するかもしれないことは大前提だ。それゆえ本稿見出しには「水入り」と書いた。」とあるホームページで見た。

「水入り」とは、ヒフティー・ヒフティー(50・50ですか)
東海道五十三次の50番目の宿場は、水口です。
皆神山のある長野県は、物部守屋の伝承が多々あったんですね。
利根川の上流の水上町には藤原があります。そして、金精峠は栃木県日光市と群馬県利根郡片品村との境にあり、国道120号が栃木県日光市から群馬県沼田市に至り、水上町と沼田市の関係は上流・下流の位置にある。
また、金精峠には、男根を御神体とする金精神社が祀られている。

やっばり、沼田大蛇と八岐大蛇は別物で、第50代天皇は桓武天皇(桓≒かん・関)と水口から水入のヒフティー・ヒフティーかな?


第44代天皇と宍 弓張月 投稿日: 2024年04月23日 05:57:15 No.433 【返信】

今朝、TBSのTheTimeでのクイズで、干支から「12」を子=1,亥=12として、答えを稲としてました。

あれって思って、猪(いの宍)の「しし=44代」の天皇をウィキペディアで調べたら、

元正天皇(げんしょうてんのう、680年〈天武天皇9年〉- 748年5月22日〈天平20年4月21日〉)は、日本の第44代天皇(在位:715年10月3日〈霊亀元年9月2日〉- 724年3月3日〈養老8年2月4日〉)。

父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひだか)・日高、または新家(にいのみ)。和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)である。漢風諡号の「元正天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇である。と

歴史好きには、あら本当・笑っちゃいますよね?

https://ja.wikipedia.org/wiki/元正天皇
弓張月 投稿日: 2024年04月23日 06:21:12 No.434
TBSのTheTimeの天気予報でも

こちらでは、「あいの風」とは?について

コトバンクによると、
東風のこと。おもに、越(こし)地方(現在の福井県から新潟県に至る)で言った。あゆのかぜ。《季・夏》と

goo 辞書でも、日本海沿岸で、沖から吹く夏のそよ風。あい。あゆ。あえのかぜ。《季 夏》と

あゆのかぜの「あゆ」って?  
おも(阿)ねり従う。

「越(こし)地方」には安(阿?)宅関がありますね。調べれば調べるほど意味深いですね?
弓張月 投稿日: 2024年04月23日 21:52:38 No.438
元正天皇の諱は、氷高(ひだか)・日高、または新家(にいのみ)。 
まさに、意味深てす。

それと、福島県・茨城県を流れる久慈川の冬の風物詩「シガ」ですが、
学術的には晶氷、あるいは氷晶と表す。なお、氷花、あるいは氷華と表記する例も見られるが、これらは漢字の当て字である。とウィキペディアより
秦氏の研究(大和 岩雄)の本には、「ひ」が「し」変わっているる事がかかれているが、
そうなると、日高見国(ひだ神国)は、しだ神国となりますかね。
そして、「シガ」ですが、やっぱり鹿・四家(香取神宮は、≒家取神宮)を連想してしまいます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/シガ
弓張月 投稿日: 2024年04月24日 07:03:04 No.440
前回投稿の「そして、「シガ」ですが、やっぱり鹿・四家(香取神宮は、≒家取神宮)を連想してしまいます。」ですが、

「四家」の読みを「四や」とするとて四弥ですので、藤原四家と平家の神:市杵島姫命の「市(し=四)」を連想しますね。

 であるとすると、総本家の墓にある謎の墓石「家田氏先祖代(文化二年?)」で、文化は、ふみ・あや=23=清寧天皇,阿弥神社の化けになって、よって、下弦の月は二十三夜月で、私の家の氏神様の祭りが旧暦9月24日、常陸太田市の国見山があるのは上・下大門町と瑞竜町と常福地(南方三十三館の「釜田(烟田)」が滅びた所)、浄土宗常陸国総社の常福寺の二十六夜尊(旧暦9月26日・27日に行われる通称「六夜さん」は地元で有名)なのかな?

https://ja.wikipedia.org/wiki/南方三十三館
弓張月 投稿日: 2024年04月24日 07:45:17 No.441
「秦氏の研究(大和 岩雄)の本には、「ひ」が「し」変わっている」ならは、

「ヒヒ」は、宍(しし」となりますね。ヒヒ退治の伝承があちらこちらにあるのもガッテ  ンですね。


仮名文字の起源とカモ・土師氏と銅鐸集団 管理人 投稿日: 2024年04月19日 00:52:46 No.430 【返信】

以前、仮名文字の起源とも言われる日文(特に阿比留草文字)とアラム・ヘブライ文字との比較をしたことがありますが、今回はその日文(阿比留草文字)をもたらした集団の特定について考察してみたいと思います。

まず、図1の比較表の説明ですが、ここでは日文を記した文字欄の左が平・カタ仮名、右上がヘブライ語音、左下がヘブライ文字となります。

特に、Lamedと「ア」「め」「レ」、Hey と「い」「ほ」、Vavと「う」、Gimelと「え」、Yodと「お」、Kaphと「コ」、Samekと「サ」「ま」「も」、Shinと「シ」、Kuphと「ク」「フ」、Bethと「ス」、Tavと「タ」、Tedと「チ」、Tsadiと「ツ」「ト」、Nunと「ヌ」「ノ」「ん」、Memと「ね」、Hetと「は」、Peと「ヘ」、Ayinと「や」、Yodと「ユ」、Alphaと「ら」「ろ」とで有意な対応がみられます。

このように、平仮名の起源とされる日文の起源は、漢字ではなく、アラム系の文字、特に古ヘブライ文字との相関性があることが判ってくるのですが、このことは以前からの仮名文字とヘブライ文字が類似するとの指摘を裏付ける結果と言えそうです。そして、その類似した原因について考えていく必要があります。

その阿比留草文字が見つかった阿伎留神社について調べていくと、大物主神 、味耜高彦根神 (あじすきたかひこね)、建夷鳥神(たけひなとり)、天児屋根命(中臣氏の祖)が祀られていることがあります。

その味耜高彦根神は修験道に関わるカモ(加茂)氏の祖であり、また建夷鳥神 はその父・天穂日神ととに土師氏の祖とされ、古墳の埴輪を造ったとされる土師氏からは、のちの大江・菅原氏等が輩出されています。

方位ラインで見ると図2のように、建夷鳥およびその父・天穂日、および味耜高彦根を祀る諸社を結ぶライン上に位置していたことが判らかになります。

特に銅鐸出土地である加茂岩倉遺跡や、桜ヶ丘、三日月町釣、野洲町大岩山といった銅鐸出土地がライン上にあり、その測量の起点は同じく銅鐸出土地である吉野ヶ里遺跡にあります。

具体的には、まず、鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔比奈多神社への東45度偏角のラインがあります。

その鷺宮神社と比奈多乃神社では、阿伎留神社と同様に建夷鳥神が祀られており、建夷鳥神を祀る同族集団によって造られた拠点と考えて相違ないでしょう。

また阿伎留神社では、同じく味耜高彦根神(迦毛大御神)を祀りますが、その味耜高彦根神を祀るのが、比奈多乃神社⇔高鴨神社⇔加茂神社(菊間)への東10度偏角のライン上に見える高鴨神社で、加茂(カモ)氏の拠点と関わってきます。

そして、その比奈多乃神社を起点とする他のラインをみていくと、図のように比奈多乃神社⇔三日月町釣(銅鐸出土地)⇔馬見岡綿向神社⇔野洲銅鐸出土地⇔大江神社への西11度偏角のラインがあり、また比奈多乃神社⇔伊勢外宮⇔矢野銅鐸出土地⇔吉野ヶ里遺跡への東12度偏角のラインも確認できます。

さらに図のように、吉野ヶ里遺跡⇔加茂神社(菊間)⇔桜ヶ丘銅鐸出土地南部⇔芦屋神社⇔馬見岡綿向神社⇔伝名古屋城壕銅鐸出土地への東20度偏角のラインが見えてきます。

ここで、銅鐸出土地が多く見えてくるのですが、またそれらのライン上に見える馬見岡綿向神社では、天穂日命と天夷鳥命(天穂日の子)、武三熊大人命(天穂日の子)を祀っており、概して土師氏の拠点と言えるでしょう。先のライン上にみえた大江神社も同じく土師氏系の大江氏の拠点でしょう。

その天穂日に関する拠点としては、鳥取の天穂日命神社があり、ここに関わるラインとしては図のように、まず加茂岩倉遺跡(銅鐸出土地)⇔能義神社⇔天穂日命神社⇔鷺宮神社への東8度偏角のラインがあります。

同じく天穂日命神社⇔桜ヶ丘銅鐸出土地⇔高鴨神社への西40度偏角のライン、天穂日命神社⇔山阪神社⇔元宮土師社への西35度偏角のラインとがあり、その能義神社、山阪神社では天穂日命が祀られて、元宮土師社でも建夷鳥神が祀られているので、概して土師氏のラインと言えそうですが、そこに加茂岩倉(遺跡)、高鴨神社にみえるカモ氏との関わりが見えてくる点に留意しておくべきでしょう。

その加茂岩倉遺跡の真南に加茂神社(菊間)が見えることがあり、その他、図3のように、高鴨神社⇔元宮土師社東部⇔阿遅遅速雄神社への西68度偏角のラインも、カモ氏関連のラインと言えるでしょう。

このように、カモ氏と土師氏の拠点、そして銅鐸出土地がライン上で接合してくることについて考えてみる必要がありそうです。

そのカモ氏の祖・味耜高彦根神と、土師氏の祖・天穂日神(父)と建夷鳥神(子)はともに、天孫(天皇家の祖)降臨以前に高天原から派遣されており、後に出雲の大国主に天穂日神が仕えるように命じられたことから、出雲国造等の祖となっていますから、天孫降臨以前に渡来した集団として、なんらかの接点を有していた可能性がありますが、その時代が弥生時代前半にはじまる銅鐸の時代だったのかもしれません。

その銅鐸は弥生時代前半の紀元前3世紀頃から見られはじめて、古墳時代には消滅しますが、それは銅矛・銅剣を埋葬した集団、また銅鏡を埋葬する天皇家の祖先となった集団に滅ぼされたことが指摘されます。

出雲勢力は天孫降臨以前の土着勢力とみなされますが、また彼らが日文(仮名文字)をもたらしたことは、先の阿比留草文字が、出雲大社や伊勢神宮の他、味耜高彦根を祖とする三輪氏が祀る大神神社、建比良鳥の子孫の上総国造が祀る鹿島神宮や武蔵国造の鶴岡八幡にみえることからも伺え、それらを調べた平田篤胤が、「肥人(クマヒト・九州?)の字」とこの文字を述べていることも、上記ラインの起点の吉野ヶ里遺跡等と関わるかもしれません。

なお関連して、出雲の野見宿禰(土師氏の祖)と葛城の当麻蹶速との相撲の話がありますが、前者が勝ち、後者の葛城の拠点を手にした話も、葛城カモ氏の展開と関係しそうです。そして、その相撲を旧約聖書のヤコブと神との格闘に起源を求める説もあります。

そのカモ氏の祖・味耜高彦根については、全国を廻り高屋を建てていったことが書紀に記されていますが、その高屋とは測量に用いる櫓であり、カモ氏が後代修験道者を輩出していったことも、その山岳地帯から行う測量技術の継承によるものではなかったかと感じます。

同様に土師氏の祖の天穂日神・建夷鳥神およびその子孫の野見宿禰については、垂仁朝に野見宿禰が殉葬をやめさせるために古墳の埴輪を造った伝承に見られるように、邪馬台国卑弥呼の記録にみえるような多数の殉死者を埋葬していた時代から、それ以後の埴輪主体の埋葬方式をとる古墳に変化したある時期に関係していた古墳造営技術者の集団と考えるべきかもしれません。

このカモ氏にみられる測量技術集団と、土師氏のような古墳造営技術者集団とがセットで動くことにより、以前から論じてきたような古墳(状のマウンド地形)や都市、寺社を結ぶ方位ラインが全国各地に展開していったのではないでしょうか。

その彼らが当初用いであろう銅鐸については、中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の「越」の貴族墓(前470年頃)から、弥生時代の銅鐸に似た磁器鐸が出土しており、その(百)越はスキタイ民族の南下と関係し、そのスキタイ民族の中に前720年に離散した北イスラエルが遺民がいた可能性については、以前こちらで論じたとおりです。

その経緯については、言語面からいくと、高句麗祖語の数詞が日本の数詞と類似すること、その数詞が同時にヘブライ語の数詞とも類似することが知られていることがあり、同様に、今回とりあげた日本語の音を記した仮名文字とアラム・ヘブライ文字とが類似すること、その祖語や仮名文字の成立年代が弥生時代と思われることは、偶然の一致ではなく、必然的な理由があるだろうと思います。

その日本語の起源に関する言語的な考察については、以前、契丹古伝(朝鮮南部の古文書や邪馬台国を思わせる『耶馬駘記』を元にしている)に記された誓約の文書とアマテラス・スサノオ神話の誓約のそれとが儀式面・発音面でも類似することがあり、その王統の日孫を「戞勃(カモ)」とする語がみえることから、カモ氏との関わりを予想したことがありますが、その件については、また改めて後日考察しなおしてみたいと思います。


青面金剛 投稿日: 2024年04月23日 06:34:08 No.435
>その阿比留草文字が見つかった阿伎留神社について調べていくと、大物主神 、味耜高彦根神 (あじすきたかひこね)、建夷鳥神(たけひなとり)、天児屋根命(中臣氏の祖)が祀られていることがあります。                                                                                                                                                                                                                                                                                                        ☆                                                   ☆ 「仮名文字とヘブライ文字が類似した原因について考えていく」のに、たった1社の神社の祭神を基に、展開するには無理が有るし、更に、それから方位ラインを引いても、論証の根拠と成り得ません。 ☆                                                   ☆ 大物主神 は、東出雲王家・富家の8代少名彦の八重波津身・事代主、味鋤高彦根神は『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」と記されますが、彼は西出雲王家・郷戸家(ごうどけ)の8代大名持・八千矛(大国主)と宗像の三姉妹・多岐津姫との間に生まれた皇子で、9代目少名彦を務めたと考えられます。
記紀は余計な「根」の字を加えていますが、正式名称は「味鍬高彦」(あじすきたかひこ)となります。 https://omouhana.com/2022/02/10/土佐神社/                 ☆                                                   ☆ 建夷鳥は、その父・天穂日の指示で、8代大名持・八千矛(大国主)と、8代少名彦の八重波津身・事代主を、拉致し、枯れ死させた側で、 並べて論じる価値も有りません。                                     ☆                                                   >『その王統の日孫を「戞勃(カモ)」とする語がみえることから、カモ氏との関わりを予想した 』         ※                                                   ※ 「味鍬高彦」とカモ氏との関わりを論じたいのであれば、その内容にだけ限定して、一気に書き上げないと。                                                  。                                                   >カモ氏と土師氏の拠点、そして銅鐸出土地がライン上で接合してくる。                                                   。                                                  。カモ氏と土師氏とは、全くの別系統で、銅鐸出土地については、カモ氏の側で論じないと意味無いです。数ある神社と遺跡古墳を、ライン上で偏角の接合を示したところで、論拠には成り得ません。                                                  。(再稼働を掛けたのに、改行キーが使えない。)
青面金剛 投稿日: 2024年04月23日 07:14:30 No.437
>その阿比留草文字が見つかった阿伎留神社について調べていくと、大物主神 、味耜高彦根神 (あじすきたかひこね)、建夷鳥神(たけひなとり)、天児屋根命(中臣氏の祖)が祀られていることがあります。  
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        ☆ 「仮名文字とヘブライ文字が類似した原因について考えていく」のに、たった1社の神社の祭神を基に、展開するには無理が有るし、更に、それから方位ラインを引いても、論証の根拠と成り得ません。

                                                          
☆ 大物主神 は、東出雲王家・富家の8代少名彦の八重波津身・事代主、味鋤高彦根神は『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」と記されますが、彼は西出雲王家・郷戸家(ごうどけ)の8代大名持・八千矛(大国主)と宗像の三姉妹・多岐津姫との間に生まれた皇子で、9代目少名彦を務めたと考えられます。

 記紀は余計な「根」の字を加えていますが、正式名称は「味鍬高彦」(あじすきたかひこ)となります。https://omouhana.com/2022/02/10/土佐神社/  

                                                              
☆ 建夷鳥は、その父・天穂日の指示で、8代大名持・八千矛(大国主)と、8代少名彦の八重波津身・事代主を、拉致し、枯れ死させた側で、並べて論じる価値も有りません。

                                                                                      >『その王統の日孫を「戞勃(カモ)」とする語がみえることから、カモ氏との関わりを予想した 』   
                                                          
※ 「味鍬高彦」とカモ氏との関わりを論じたいのであれば、その内容にだけ限定して、一気に書き上げないと。

                                                                                                     >カモ氏と土師氏の拠点、そして銅鐸出土地がライン上で接合してくる
                                                                                                     ☆ カモ氏と土師氏とは、全くの別系統で、銅鐸出土地については、カモ氏の側で論じないと意味無いです。数多くある神社と遺跡古墳を、ライン上で偏角の接合を示したところで、論拠には成り得ません。                                                  
管理人 投稿日: 2024年04月23日 22:20:48 No.439
青面さん、ご無沙汰してます。ご意見ありがとうございます。

おっしゃりたいことはわかりますし、私も当初はカモ氏や土師氏が、銅鐸と関わるとは予想だにしてませんから、今回の結果には驚いているんです。

ただ、ライン的には極めて高い精度で、銅鐸出土地とカモ・土師氏の拠点とが接合していますから、関連性が高いことは間違いないでしょう。

カモ・土師氏の祖先は、ともあれ、弥生時代後半の皇族の祖・天孫降臨の前段階に渡来した集団とのことで、大國主など天孫以前の原住民の信仰とみなされた地祇に属する集団として、カモ氏をあげて、そこからカモ氏と銅鐸とのつながりを論じる説はあるようですので、参考にしてみてください。


奈良・薬師寺は二ヶ所にある 弓張月 投稿日: 2024年04月21日 15:23:38 No.431 【返信】

茨城県潮来市日の出にある奈良薬師寺・東関東別院の潮音寺で、今年仏足石が設置された。約1300年前の薬師寺創建当初より現存する「東塔」の基礎石を仏足石に加工したもの。
仏足石とは、仏像がない時代に人々が釈迦の足跡を描き、そこに釈迦が立っていると連想しながら手を合わせたものと。

ウィキペディアに、「奈良・薬師寺は、本薬師寺(もとやくしじ)と薬師寺があり、本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった]。本薬師寺は元薬師寺とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。」と
https://ja.wikipedia.org/wiki/本薬師寺

仏足石の「足」と鹿嶋市は中臣鎌足の発祥地?の「足=たらし」から、

天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第5代孝昭天皇皇子で、第6代孝安天皇の同母兄、第7代孝霊天皇の外祖父である。和珥氏(和邇氏/丸邇氏)・春日氏・小野氏ら諸氏族の祖とされる。が気にかかるんですかね?
https://ja.wikipedia.org/wiki/天足彦国押人命

そして、梶山古墳をウィキペディアで調べると「被葬者については不明であるが、675年(天武4年)に因幡に配流された皇族の麻績王(麻続王)であるとの説が有力である。」と書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/梶山古墳

麻績王(麻続王)について調べると、
7世紀末の皇族。麻続王、麻積王とも称される。

出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島の伊豆大島に流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)に流罪されたとある]。さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある]。と
「常陸国行方郡板来村西の榎木林」とはいいですね。柊(ひいらく→ひらく)と榎ですよね。よく考えてますね。時代的にも
https://ja.wikipedia.org/wiki/麻績王
弓張月 投稿日: 2024年04月21日 15:32:39 No.432
ウィキペディアに、「日本における仏足石」として、

日本には奈良時代に唐を経て伝わった。

特に奈良の薬師寺所蔵の仏足石(国宝)が有名で、これは753年(天平勝宝5年)、天武天皇の孫である智努王によってつくられたことを示す銘が刻まれた、日本最古の仏足石である。

また、検索で、智努女王(ちぬじょおう)を開くと、
智努女王(ちぬじょおう)は、

奈良時代の皇族、万葉集に円方女王がその死を悼む歌を詠んでいることから、
1.長屋王の娘(円方女王の姉)、または妻妾(円方女王の母)と考えられている。
2.奈良時代の皇族、長親王の王女。智努王(文室浄三)らの姉妹。茅沼女王。と


新治郡2ヶ所の佐志能神社 弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:18:02 No.427 【返信】

まずは、常陸国新治郡の佐志能神社

https://genbu.net/data/hitati/sasino2_title.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐志能神社_(笠間市)

次に、茨城県新治郡の佐志能神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐志能神社_(石岡市染谷)

源頼朝は、藤川の合戦で平家を破り、石岡にきたんでしたよね?
弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:19:08 No.428
藤川は、富士川の間違いです。
弓張月 投稿日: 2024年04月17日 20:43:45 No.429
てなわけで、

常陸太田市小島町の古墳は、「星神古墳」と「諏訪古墳」と二つの呼び名が、
また、常陸太田市馬場町の馬場八幡宮にある古墳は、「亀の子古墳」とたぶん「藤古墳」の呼び名があるのかな?


「六之宮」、やっぱり似たのが茨城に 弓張月 投稿日: 2024年04月16日 16:59:14 No.422 【返信】

許斐登山口右側に鎮座される「六之宮」
弓張月 投稿日: 2024年04月16日 17:23:43 No.423
許斐登山口右側に鎮座される「六之宮」ですが、相模の国では国府祭が行われる相模國総社 六所神社が、ウィキペディアには、「旧六所神社(茨城県つくば市) --明治一村一社制により廃社。ご神体は蚕影神社にうつされている。」と
また、笠間市笠間市下郷上町にも六社神社があり、 https://ibamemo.com/2020/01/05/6sho/
ブログ「茨城見聞録」によると、「社殿右手の小高い場所には蚕影神社が鎮座しています。おそらく神郡(つくば市)の蚕影山を模しているのでしょう。」とあり、現在のような幌獅子や山車が参加する形式の祭礼は、明治6年の合祀を記念して始められたといわれており、140年を超える歴史を重ねています。祭礼ではいろいろな慣例やしきたりがあり、それを守ることで、町内間のもめごとが起こらなくなり、地域との結びつきがより密なものとなっています。(例大祭/笠間市公式)と書かれています。
茨城県は、常陸風土記の新治郡と明治時代からの新治郡は違う場所なんですね。こんな所は素直ですよね?
弓張月 投稿日: 2024年04月16日 19:11:33 No.424
二つの新治郡

1594年(文禄3年)に常陸国内で太閤検地が行われた際に再び新治郡が成立したが、これは古代の茨城郡、筑波郡、信太郡の領域のそれぞれ一部からなるものであり、古代の新治郡とは全く領域を異にする。
弓張月 投稿日: 2024年04月17日 07:10:27 No.425
笠間市笠間市下郷上町にも六社神社で行われる例大祭

前回投稿の「現在のような幌獅子や山車が参加する形式の祭礼は、明治6年の合祀を記念して始められたといわれており、140年を超える歴史を重ねています。祭礼ではいろいろな慣例やしきたりがあり、それを守ることで、町内間のもめごとが起こらなくなり、地域との結びつきがより密なものとなっています。(例大祭/笠間市公式)」ですが、

よく、日本は平和ボケしてる?と、人間の本能は、
平家物語の「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。」が本能であるとすると、

であるから、鹿島神宮で行われる祭頭祭のような今では訳がわからなくなっている祭りを行っているのでしょうかね。でも、実際は行う理由の記録はあるのでしょうけど?


愛(あい,いと)と中臣氏&清明 弓張月 投稿日: 2024年04月14日 08:51:15 No.420 【返信】

大阪府の北摂地域を流れる淀川水系の一級河川に安威川(あいがわ)があります。ウィキペディアに、「京都府亀岡市の竜ヶ尾山付近及び大阪府高槻市樫田地区を水源とし、大阪市東淀川区相川/吹田市高浜地先で神崎川に合流する。そして、茨木市内には川の名前の元になった安威(藍)という地名がある。安威地区は中臣氏ゆかりの地で中臣藍連が祖神を祀ったとされる阿為神社がある。」と

茨城県稲敷郡阿見町を流れる清明川は地図上では、阿見町中郷の阿弥神社からか?中流には塙城(阿見町塙字たて)が左岸にあり、下流は稲敷郡美浦村舟子を流れ霞ケ浦に至る。

よくも、こんな地名にしたと思いません?
中郷と中臣は中(なか)」が一緒ですね。塙城の「塙(はなわ)」茨城県発祥のようで、「はな」は、≒花とすると、「か」で、塙=かわ(川・花輪)となり、霞ケ浦に阿見町から流れるのではなく美浦村からなのが面白いですね。美浦村の美浦は、≒「みうら(三浦)」でしょうね。

安威川(あいがわ)の「あい」は、既に沢山投稿したので省略。茨木市と茨城県
そして、二十四節気(4×6)、二十八宿(4×7) 二十四代天皇は仁賢天皇で、二十八代天皇は宣化天皇(せんか≒・千が化ける) やっぱり、赤穂浪士は四十七士でないとならない?

やっぱり、平家物語の「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。」ですね?

https://ja.wikipedia.org/wiki/安威川
http://www.oshiro-tabi-nikki.com/hanawa.htm
弓張月 投稿日: 2024年04月14日 19:50:38 No.421
常陸風土記に書かれている黒坂命の古墳は、美浦村大塚にあるんですね。

https://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/fudoki/visit/30/index.html


<< | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | >>


Powered by Rara掲示板
管理者に連絡 | 新着投稿をメールで受け取る | スポンサー募集