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投稿者:管理人
以前、仮名文字の起源とも言われる日文(特に阿比留草文字)とアラム・ヘブライ文字との比較をしたことがありますが、今回はその日文(阿比留草文字)をもたらした集団の特定について考察してみたいと思います。 まず、図1の比較表の説明ですが、ここでは日文を記した文字欄の左が平・カタ仮名、右上がヘブライ語音、左下がヘブライ文字となります。 特に、Lamedと「ア」「め」「レ」、Hey と「い」「ほ」、Vavと「う」、Gimelと「え」、Yodと「お」、Kaphと「コ」、Samekと「サ」「ま」「も」、Shinと「シ」、Kuphと「ク」「フ」、Bethと「ス」、Tavと「タ」、Tedと「チ」、Tsadiと「ツ」「ト」、Nunと「ヌ」「ノ」「ん」、Memと「ね」、Hetと「は」、Peと「ヘ」、Ayinと「や」、Yodと「ユ」、Alphaと「ら」「ろ」とで有意な対応がみられます。 このように、平仮名の起源とされる日文の起源は、漢字ではなく、アラム系の文字、特に古ヘブライ文字との相関性があることが判ってくるのですが、このことは以前からの仮名文字とヘブライ文字が類似するとの指摘を裏付ける結果と言えそうです。そして、その類似した原因について考えていく必要があります。 その阿比留草文字が見つかった阿伎留神社について調べていくと、大物主神 、味耜高彦根神 (あじすきたかひこね)、建夷鳥神(たけひなとり)、天児屋根命(中臣氏の祖)が祀られていることがあります。 その味耜高彦根神は修験道に関わるカモ(加茂)氏の祖であり、また建夷鳥神 はその父・天穂日神ととに土師氏の祖とされ、古墳の埴輪を造ったとされる土師氏からは、のちの大江・菅原氏等が輩出されています。 方位ラインで見ると図2のように、建夷鳥およびその父・天穂日、および味耜高彦根を祀る諸社を結ぶライン上に位置していたことが判らかになります。 特に銅鐸出土地である加茂岩倉遺跡や、桜ヶ丘、三日月町釣、野洲町大岩山といった銅鐸出土地がライン上にあり、その測量の起点は同じく銅鐸出土地である吉野ヶ里遺跡にあります。 具体的には、まず、鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔比奈多神社への東45度偏角のラインがあります。 その鷺宮神社と比奈多乃神社では、阿伎留神社と同様に建夷鳥神が祀られており、建夷鳥神を祀る同族集団によって造られた拠点と考えて相違ないでしょう。 また阿伎留神社では、同じく味耜高彦根神(迦毛大御神)を祀りますが、その味耜高彦根神を祀るのが、比奈多乃神社⇔高鴨神社⇔加茂神社(菊間)への東10度偏角のライン上に見える高鴨神社で、加茂(カモ)氏の拠点と関わってきます。 そして、その比奈多乃神社を起点とする他のラインをみていくと、図のように比奈多乃神社⇔三日月町釣(銅鐸出土地)⇔馬見岡綿向神社⇔野洲銅鐸出土地⇔大江神社への西11度偏角のラインがあり、また比奈多乃神社⇔伊勢外宮⇔矢野銅鐸出土地⇔吉野ヶ里遺跡への東12度偏角のラインも確認できます。 さらに図のように、吉野ヶ里遺跡⇔加茂神社(菊間)⇔桜ヶ丘銅鐸出土地南部⇔芦屋神社⇔馬見岡綿向神社⇔伝名古屋城壕銅鐸出土地への東20度偏角のラインが見えてきます。 ここで、銅鐸出土地が多く見えてくるのですが、またそれらのライン上に見える馬見岡綿向神社では、天穂日命と天夷鳥命(天穂日の子)、武三熊大人命(天穂日の子)を祀っており、概して土師氏の拠点と言えるでしょう。先のライン上にみえた大江神社も同じく土師氏系の大江氏の拠点でしょう。 その天穂日に関する拠点としては、鳥取の天穂日命神社があり、ここに関わるラインとしては図のように、まず加茂岩倉遺跡(銅鐸出土地)⇔能義神社⇔天穂日命神社⇔鷺宮神社への東8度偏角のラインがあります。 同じく天穂日命神社⇔桜ヶ丘銅鐸出土地⇔高鴨神社への西40度偏角のライン、天穂日命神社⇔山阪神社⇔元宮土師社への西35度偏角のラインとがあり、その能義神社、山阪神社では天穂日命が祀られて、元宮土師社でも建夷鳥神が祀られているので、概して土師氏のラインと言えそうですが、そこに加茂岩倉(遺跡)、高鴨神社にみえるカモ氏との関わりが見えてくる点に留意しておくべきでしょう。 その加茂岩倉遺跡の真南に加茂神社(菊間)が見えることがあり、その他、図3のように、高鴨神社⇔元宮土師社東部⇔阿遅遅速雄神社への西68度偏角のラインも、カモ氏関連のラインと言えるでしょう。 このように、カモ氏と土師氏の拠点、そして銅鐸出土地がライン上で接合してくることについて考えてみる必要がありそうです。 そのカモ氏の祖・味耜高彦根神と、土師氏の祖・天穂日神(父)と建夷鳥神(子)はともに、天孫(天皇家の祖)降臨以前に高天原から派遣されており、後に出雲の大国主に天穂日神が仕えるように命じられたことから、出雲国造等の祖となっていますから、天孫降臨以前に渡来した集団として、なんらかの接点を有していた可能性がありますが、その時代が弥生時代前半にはじまる銅鐸の時代だったのかもしれません。 その銅鐸は弥生時代前半の紀元前3世紀頃から見られはじめて、古墳時代には消滅しますが、それは銅矛・銅剣を埋葬した集団、また銅鏡を埋葬する天皇家の祖先となった集団に滅ぼされたことが指摘されます。 出雲勢力は天孫降臨以前の土着勢力とみなされますが、また彼らが日文(仮名文字)をもたらしたことは、先の阿比留草文字が、出雲大社や伊勢神宮の他、味耜高彦根を祖とする三輪氏が祀る大神神社、建比良鳥の子孫の上総国造が祀る鹿島神宮や武蔵国造の鶴岡八幡にみえることからも伺え、それらを調べた平田篤胤が、「肥人(クマヒト・九州?)の字」とこの文字を述べていることも、上記ラインの起点の吉野ヶ里遺跡等と関わるかもしれません。 なお関連して、出雲の野見宿禰(土師氏の祖)と葛城の当麻蹶速との相撲の話がありますが、前者が勝ち、後者の葛城の拠点を手にした話も、葛城カモ氏の展開と関係しそうです。そして、その相撲を旧約聖書のヤコブと神との格闘に起源を求める説もあります。 そのカモ氏の祖・味耜高彦根については、全国を廻り高屋を建てていったことが書紀に記されていますが、その高屋とは測量に用いる櫓であり、カモ氏が後代修験道者を輩出していったことも、その山岳地帯から行う測量技術の継承によるものではなかったかと感じます。 同様に土師氏の祖の天穂日神・建夷鳥神およびその子孫の野見宿禰については、垂仁朝に野見宿禰が殉葬をやめさせるために古墳の埴輪を造った伝承に見られるように、邪馬台国卑弥呼の記録にみえるような多数の殉死者を埋葬していた時代から、それ以後の埴輪主体の埋葬方式をとる古墳に変化したある時期に関係していた古墳造営技術者の集団と考えるべきかもしれません。 このカモ氏にみられる測量技術集団と、土師氏のような古墳造営技術者集団とがセットで動くことにより、以前から論じてきたような古墳(状のマウンド地形)や都市、寺社を結ぶ方位ラインが全国各地に展開していったのではないでしょうか。 その彼らが当初用いであろう銅鐸については、中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の「越」の貴族墓(前470年頃)から、弥生時代の銅鐸に似た磁器鐸が出土しており、その(百)越はスキタイ民族の南下と関係し、そのスキタイ民族の中に前720年に離散した北イスラエルが遺民がいた可能性については、以前こちらで論じたとおりです。 その経緯については、言語面からいくと、高句麗祖語の数詞が日本の数詞と類似すること、その数詞が同時にヘブライ語の数詞とも類似することが知られていることがあり、同様に、今回とりあげた日本語の音を記した仮名文字とアラム・ヘブライ文字とが類似すること、その祖語や仮名文字の成立年代が弥生時代と思われることは、偶然の一致ではなく、必然的な理由があるだろうと思います。 その日本語の起源に関する言語的な考察については、以前、契丹古伝(朝鮮南部の古文書や邪馬台国を思わせる『耶馬駘記』を元にしている)に記された誓約の文書とアマテラス・スサノオ神話の誓約のそれとが儀式面・発音面でも類似することがあり、その王統の日孫を「戞勃(カモ)」とする語がみえることから、カモ氏との関わりを予想したことがありますが、その件については、また改めて後日考察しなおしてみたいと思います。
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