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投稿者:管理人
弓張月さん、お久しぶりです。情報ありがとうございます。 ご紹介ありました下記の文面に見える方位ラインについてですが、図1のようなラインが存在するかもしれません。 村史によれば、・・・・・・・  縄文時代の遺跡は村内を貫通する源氏川,山田川,浅川等の河川に広く分布するが、弥生時代及び古墳時代の遺跡は、山地が平地に移動する南半分の,沖積地に面する地域に集中して発見されている。特に古墳及び古墳群は、西茨城郡友部町小原,東茨城郡内原町黒磯,田島,水戸市加倉井町,国田町,那珂郡瓜連町鹿島,常陸太田市島町,幡町を結ぶ線上に位置しており、古代文化解明にも重要な位置を示している。 具体的には、小原神社(友部町小原)⇔加茂神社(内原町黒磯)⇔鹿嶋神社(瓜連町鹿島)への東50度偏角のラインと、それに平行する稲荷神社(加茂井町)⇔鹿嶋日吉神社(太田氏島町)への東50度偏角のラインとなります。この2つのラインの間に古墳や遺跡があるという意味ではないでしょうか。 また、図2の拡大図のように、手子后神社⇔小原神社(友部町小原)⇔筑波山(女体山)⇔氷川神社⇔富士山への東38度偏角のラインがみえてきますが、またここにみえる筑波山については、鹿島神宮⇔筑波山(女体山)への西30度偏角のラインがあり、鹿島神宮の位置付けについて考える上で重要です。 そして、氷川神社⇔田島神社(松伏町)⇔鹿島神宮への東2度偏角のラインもみえますが、氷川神社の位置自体は当時の島地の影響もあってかややずれた位置にあります。 全体的には富士山、筑波山、鹿島神宮が測量の起点となっていたはずですが、そこに先日の田道間守に関する集団がどうかかわっていたのかについて明らかにしていく必要があるかもしれませんね。
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