日本語の起源 くまら掲示板


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2022/09/06 この掲示板は 鳩摩羅童子(くまらどうじ)のサイト
インド語・カンガルー  【副題】日本語の起源・インド弁検証
の掲示板です。「日本語の起源」全般の意見交換の場としてご利用下さい。
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青梅の黒曜石の鏃 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月25日 15:14:50 No.941 【返信】

黒曜石産地は、諏訪や箱根、熱海などにもあるそうや。
神津島は旧石器人が採取して交易したことで有名。
青梅の黒曜石の鏃の産地は、どこなんやろか。

いずれにしても、そうした貴重財の交易ルートの交差地が青梅あたりにあったということやろね。
やまだ 投稿日: 2024年03月25日 17:10:08 No.942
黒曜石の鏃などは武蔵野のあちこちの遺跡からいくらでも出る。先土器、縄文の時代はスパンがとても長い(弥生と比べてだが)。よく調べてないが青梅でも出てるはず。ネット検索で出土産地を検索すればまた流通経路を図式にまとめたものもあると思う。武蔵国府のあった府中国分寺近辺で発掘のアルバイトをしたことがあった。神津島のものもあったけど信州の和田峠のものが有名でその他いろいろで、さすがに北海道の白滝遺跡のものは伝えがないけど、ともかく神津島のものは舟の使用がないと運べない。埼玉の荒川近辺また狭山丘陵周辺あたりの遺跡から丸木舟の遺物が出てもいる。

それよりヒスイの大珠の方がめずらしい。岩藏遺跡は青梅でも山よりの黒沢川沿いだけど南東に開けた土地には霞川が流れていてこれは古多摩川で太古の多摩川になる。水源近くにある塩船観音寺は若狭の八百比丘尼が流れてきて観音像を祀ったという。越の国のものがどうして青梅に流れてきたのかその経路は今でも謎である。塩船観音寺はその後行基がきて船の形の地勢をみて命名したという。

関東の武蔵野には出雲族のモノノベが早くに入ってきてるようだ。


ピクニック やまだ 投稿日: 2024年03月24日 21:34:17 No.937 【返信】

いろいろ煌めきの思考があって、感謝です。

先日のモスクワの騒ぎがあって、何のコンサートだろうと調べていました。
「ピクニック」というロックバンドの公演予定だったらしい。
多忙だったもので中途半端な調査でしたが、タルコフスキーの映画「ストーカー」に因むバンドだという。この辺で調べは中断。

自分で提示して、中途半端な書き込みで申し訳なかった。
 日子番能邇邇藝命
 彦根火瓊瓊杵根尊

これは書紀に頻出する「瓊」だけを見ていました。ヌ・と読んで「玉・翡翠」をいう。
わたしの地元でも翡翠の大珠がひとつ出土してまして、ええ縄文ですけど、黒沢川の岩藏遺跡からで、姫川からの伝わる経路を考えていました。

〇ピクニックというのはジャンルノワールの映画にもありましたが、この時インスパイアされたのは『伊勢物語』惟喬親王水無瀬の鷹狩りというけれど桜狩りではないか、これも洋風ならピクニックかなと。

これとストーカーがどう関わるかというと、ちょっと困るので^^ ゴメン
やまだ 投稿日: 2024年03月25日 11:47:15 No.940
岩藏遺跡の翡翠の大珠は画像の通り。

「大珠は、重さ170g、長さ8.5cm、最大幅4.0cm。色は淡い緑色を帯びていま
す。直径8mmの穴が、長辺側の両側から開けられています。片方は6.3cm、もう一方
は3.3cm進んだところで貫通せず、その上部から穴を開けて、上下にずれた穴を通じさ
せた大変めずらしい例です。」(青梅市文化財ニュース)H14.1.15

… あまり見栄えのよいものではありませんが、穴あけの拙い細工跡もあっておもしろい。

〇翡翠の玉は、糸魚川のヒスイですが、その名の川はなく姫川です。むしろ海に近い河口で採れるようです。




>「瓊」だけを見ていました… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月25日 09:14:06 No.939 【返信】

「夏カ」<大きな人> と「榎えのき」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/7926b60504c69c7e266cee74a0fcf5d0
…(4)中国の王朝の名。「夏王朝カオウチョウ」(禹ウが建てたとされる王朝。近年、発掘成果から実在性が高まっている)
夏王朝…

夐 (けい)https://kotobank.jp/word/瓊(漢字)-2786209#:~:text=普及版 字通 - 瓊 (漢字)の用語解説 - [字音],ケイ・セン [字訓] たま [説文解字] [字形] 形声声符は夐 (けい)。
赤い玉…(けい)…

音読み ケイ  セン…
玉部(たま・たまへん・おうへん) 画数 11画 (玉4+7) 音読み ケイ セン 意味 美しい玉。赤い玉。
赤い玉…

赤玉について 射精をしすぎると打ち止めになる??https://www.koba-otokojuku.com/entry/2017/10/17/141332
打ち止め…

禹の子の啓 (けい)…
黄帝と堯・舜・禹の伝説 http://kohkosai.com/kaisetu/16-goteidensetu.htm
…原始社会の崩壊
 こうした労働用具の改良、農業生産の向上により、氏族・部族・部族連合の
首領の地位を利用して、多くの産物を独り占めする、私有財産への動きが発生します。
伝説には、堯はたいへん物持ちで、美しい衣服や楽器やたくさんの牛・羊を舜に贈ったとか、
舜の家は粮食を貯蔵する倉庫を持っていた、などもあります。
 舜はかつて生産物の一部を別の地方に持っていって、他の氏族と交換しました。
禹の家もたいへん金持ちで、父親の鯀は城を築いて自分の財産を護りました。
禹の家はしだいに貴族になって行きます。
 氏族・部族・部族連合の中で、禹は次第に特別な地位を得ます。指導に服従しない者は懲罰をうけました。
あるとき禹が各部族の首領を招集した時、防風氏が遅刻し殺されたといいます。
 禹は部族連合の首領となった後、皋陶を助手にしました。
皋陶が死ぬと、益を助手にしました。
 禹が死んだ後、益が部族連合の首領の任務を継ぎました。
しかし、禹の家族は永久に部族連合の管理権を持ち続けようとしました。
禹の子の啓は一部の部族と氏族の首領の支持を勝ち取り、部族連合が分裂しました。
 益はやむなく職を離れ、啓が各部族を支配しました。
父子相伝(世襲)の始まりです。 
氏族共同体は瓦解し、原始社会(ユートピア)は崩壊、奴隷社会へと移行します。

夏后啓:中国の歴史上初めて帝位を世襲した夏王朝の二代目の帝 https://prometheusblog.net/2018/01/26/post-7352/
…武観の乱
生産性が上がり富を蓄え権力が強化されると、それまでの氏族制度は次第に衰えてより
中央集権的な共同体である国家が形成されていきました。
それが夏王朝ですが、姒啓は暴力を用いて禅譲制を終わらせましたが、皮肉なことに
啓の息子達の間に王位継承の骨肉の争いが始まってしまいました。これが武観の乱です。
周代の文献中に、”夏に観、扈があった。
”という一文があります。その中の扈とは有扈氏であり、観とは即ち武観、或いは五観のことです。
この武観と堯の子である丹朱、舜の子である商均、湯の子である太甲、文王の子である管蔡は比較されており、
”五王は皆元徳があったが、奸の子でもあった。”と評されています。
つまり姒武観は姒啓の”奸子”とされているわけです。
武観の乱の経過に関しては資料に乏しくよくわかっていませんが、《竹書紀年》には、”啓十一年、
王の子武観を西河へ追放した。
十五年に、武観は西河より反旗を翻し、彭伯寿が西河を征し、武観は帰順した。”とあります。
啓が直接戦ったという記載ではなく、彭伯寿が軍を率いていたと読み取れます。
姒啓の”奸子”…
奸…
· 奸は、部首は女部に属し、画数は6画、漢字検定の級は1級の漢字です。. 読み方には、カン / おか(す) / よこしまなどがあります。.https://kanji.jitenon.jp/kanjig/3373.html
よこしま…横島!

嶼…興…(1)おこる(興る)。さかんになる。「勃興ボッコウ」「興亡コウボウ」

地名
島嶼 https://ja.wikipedia.org/wiki/横島
横島 (広島県福山市) - 広島県福山市
横島 (広島県呉市) - 広島県呉市
横島 (愛媛県今治市) - 愛媛県今治市
横島 (愛媛県宇和島市) - 愛媛県宇和島市
横島 (愛媛県愛南町) - 愛媛県愛南町
横島 (長崎県長崎市) - 長崎県長崎市
横島 (長崎県平戸市) - 長崎県平戸市
横島 (熊本県) - 熊本県天草市
横島 (大分県) - 大分県佐伯市
自治体
横島(岡山県) - 岡山県笠岡市
横島町 - 熊本県玉名郡[1]

干…幵…横並び?
「幵ケン」<たいら・高さをそろえる> と 「研ケン」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/61d12bf6ac22e0b03fceee4df929bf33
解字 干字の形を二つならべて、高さの同じものを二つならべた形を表し、たいらの意。新字体に含まれるとき、幵 ⇒ 开に変化する。
意味 たいらか。たかさがそろう。
…幵 ⇒ 开に変化する

枝折(しお)り…木の枝を折って(枝シ折る)道しるべとする…「旅の栞しおり」…地図?
…栞 カン・しおり  木部
解字 「木(き)+幵(高さがそろう)」の会意形声。
山林などを歩く時、木の枝を折って(枝シ折る)道しるべとする意につかう。
折った枝の高さが人の手のあたりで揃うから。
意味 しおり(栞)。①枝折(しお)り。山を歩くとき木の枝を折っておき道しるべとすること。
②案内書。手引き。「旅の栞しおり」
③[国]本の読みかけの所に挟んで、しるしとする紙片や紐。

春分、秋分の日の太陽が通過する
北緯34度27分23秒の緯度線に
伊勢神宮(三重県伊勢市)、伊弉諾神宮、対馬海神神社(長崎県対馬市)が
一直線に並び、冬至、夏至の日の出、日没の方角にも伊弉諾神宮ゆかりの
神社が並ぶと説明されている。https://www.sankei.com/article/20161129-EUMUZYRD5NN2JIHSLAMXIW67NQ/#:~:text=春分、秋分の日の,説明されている。
…伊弉諾神宮を中心に東は伊勢神宮内宮、西は対馬の海神神社が同緯度に並ぶことが分かった。
それだけではなく夏至には諏訪大社(長野県諏訪市など)の方角から日が昇り、
伊弉諾神宮を通過して出雲大社(島根県出雲市)の方角に日が沈み、
冬至には熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)から日が昇り、
高千穂神社、天岩戸神社(いずれも宮崎県高千穂町)に日没することが分かった。
北緯34度…

福建省(ふっけんしょう、中国語: 福建省、拼音: Fújiàn Shěng、英語: Fujian Province)は、
中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を
中華民国(台湾)が金馬地区として統治している 。https://ja.wikipedia.org/wiki/福建省

福建省 https://ja.wikipedia.org/wiki/福建省
古代閩人の領域であり、戦国時代に楚に滅ぼされた越王族が閩に逃げ込んだため、閩越と呼ばれるようになった。紀元前221年、秦に征服されて閩中郡が設置されたが、秦末の動乱期に閩越国として独立した。東冶(現在の福州)に都を置き、92年間にわたって漢に抵抗したが、武帝に滅ぼされた。
紀元前221年、秦に征服されて閩中郡が設置されたが、秦末の動乱期に閩越国として独立した。
東冶(現在の福州)に都を置き、92年間にわたって漢に抵抗したが、武帝に滅ぼされた。

驚愕の北緯34度14分…
日本の歴史と日本人のルーツ https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12223997191.html
…西からレバノンの世界遺産カディーシャ渓谷と神の杉の森、
秦の始皇帝ゆかりの咸陽(後の長安、現在の西安)、
世界遺産の沖ノ島、宮島、高野山、天河弁財天社(日輪弁財天)、伊雑宮、神津島などが一直線に並ぶ。


翡翠大珠と黒曜石鏃 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月25日 01:44:54 No.938 【返信】

No.937
翡翠の経路

青梅市と翡翠を結ぶルートは、青梅→甲府→諏訪→塩尻→姫川上流となりそう。
縄文時代も含めて、このルートは物流の大幹線と言える。
翡翠が関東にもたらされるルート上に青梅があるので、岩蔵遺跡で翡翠大珠が出たのは納得。
翡翠大珠は翡翠勾玉の前段階の形式とされているようなので、勾玉が流行る前から青梅で大珠が所有されていたことは重要だと思われる。
というのも、岩蔵遺跡では黒曜石の鏃も出ていることから、南の神津島からの物流ルートとも青梅は関係があって、日本海側からと太平洋側からの物流ルートが交わるあたりに青梅が位置していたことを示しているように思われる。

また、いつの時代も同じであるが、物の交易場所は山間部と平野部が交わるあたりに形成されるので、青梅はちょうどそうした地勢にあり、翡翠と黒曜石がともに出土していることは、その条件に合致していたことを示しているように見える。

なお、瓊瓊杵の名は「たくさんの瓊(珠)を身に着け、威信を示す杵(王杖)を持った者」の意と思われるので、吾田族の始祖王を示す名であったことが推測される。
あるいは、書紀がそのような観念のもとにその名を考え出したとも考えられる。
このことは、纏向王権の初代崇神天皇の贈り名である御間城入彦五十瓊殖天皇も「たくさん珠を殖やして(身に着けた)天皇」の意であり、初代王の贈り名には珠の字を付ける観念があったのかも知れない。


書紀も圧力と取り引きした 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月24日 17:59:22 No.936 【返信】

No.934より続く
鋤持神

書紀は神武の紀伊半島迂回の際に兄が人身御供として荒れる海に飛び込ませており、その兄が鋤持神(サイモチノカミ=鮫)になったと記している。
No.929では、この鋤持神に鋤の字が用いられていることから、書紀は神武の兄を農耕の神に衣替えさせたのだと述べた。

書記が、皇統の祖神を農耕の神として記しているのは、天照大神の子の忍穂耳尊(オシホミミノミコト)と神武の兄の稲飯命(イナヒノミコト=鋤持神)である。
稲穂の穂や稲飯の稲が名に用いられていることで、そのことが理解される。
このことは、火瓊瓊芸尊やその子たちに火の字を用いていることと矛盾するのではないかとの指摘があることと思われるが、これは書紀も当時の政権からの圧力を受けていたと仮定すれば、かなり理解しやすいものとなる。
つまり、書紀も、当時の政権の王地王民思想(班田収授の基礎思想)のプロバガンダに協力した可能性はあるということだ。

忍穂耳尊の穂の字は、そうした圧力に対して「やむを得ない」としたものだろう。
また、神武の兄の稲飯命(鋤持神)の稲・鋤のケースも、書紀としては圧力と取り引きした結果だった可能性も考えなければいけないだろう。
そして、その見返りとして、皇統のルーツとして海神の血統を書き入れることができたと解釈すれば、神武の兄の名に対して稲と鋤の字が挿入されていることの理由が非常に理解しやすくなるのではないか。

日本最初の官撰王権史の編纂事業には、各方面から多大な圧力があったことは想像に難くないのである。


>天忍骨命… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月24日 15:50:15 No.935 【返信】

宇佐八幡神は新羅の神だった http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html
…この八幡神はもとはれっきとした新羅からの外来神だったのである。
別稿(日本人および日本の誕生)で述べたが、鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じた節がある。
ならば、守護神を八幡神とするのも至極当然である。
源氏の「白旗」とは実は八幡の「素幡」(しろはた)だったということになる。
そう言えば、「八幡」太郎義家と名乗った者もいる。また、明治維新の元勲・
西郷隆盛が育った薩摩藩では、幼少からの藩士教育が盛んだったことが有名であるが、その
作法が八幡神経由の新羅由来のものだったとしたら、どうだろう。
…「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前の地(現在は福岡・大分両県に二分される)のことであった。
秦氏は、秦の始皇帝の流れを汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来した、と自称していたのだ。
…確かに秦氏は相当の多数で渡来し、豊前に留まらず山背国南部(太秦:うずまさ)など日本全国に拡がり、様々な活躍をしたことは間違いない。
しかし、ここでは秦氏の神・八幡神の変貌を中心に記述し、彼らの信仰がいかにニッポン人の信仰へと流れ込んでいったのかを考えるための「補助線」を何本か引いてみるばかりである。

忍骨命(オシホネ-ノ-ミコト)とは、偉大なる母神・天照大神の御子神(みこがみ)である
天忍穂根命(アメ-ノ-オシホネ-ノ-ミコト)から「天」の一字を除いただけの神名に見える。
しかし屈折がある。
「オシホネ」は「大-シホ-根」である(接尾の「根」は天皇和名にしばしば登場する美称)。
つまり中核は「シホ」で、これは古代朝鮮語の原語「ソホ」よりの転訛、そしてその
神名はニッポン神・天オシホネ命への付会(こじつけ)と思われる。
ソホとは「ソフル」(聖地の意:大韓民国の首都名もこれ)の「ソフ」と同じで、神の降臨する聖地を意味する。オシホネ命は、本当は新羅の「御子神」である。
オシホネ命は、本当は新羅の「御子神」である。

…「大目」とは、「秦王国」に六世紀末に実在した巫女のオトメやオフメから採ったものと思われる。
結局、朝鮮と日本の和合名である。
 豊姫命は紀記神話の豊玉姫に比せられたりもするが、この女神こそが秦氏の主神の一つである。
その名は地名「豊」を付けた程度の意味で、要は母神である。
実は、秦氏の八幡信仰は母子神信仰である。そしてその御子神は「太子」と呼ばれる。
ニッポン人なら「太子」と聞けば、聖徳太子を思い起こすだろう。そう、
八幡神信仰には聖徳太子から、何と最澄や空海にまでつながっていたのである。

…香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏である。
どちらも秦氏一族である。
後者の「鶴賀」は「敦賀」と同音であり、その
「ツルガ」とは書紀にある「オホカラの王子ツヌガアラシト」の上陸地(福井県・ケヒの浦)にちなむものである。
その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意である
(「アル」=「卵」とも考えられるが。後述)。
秦氏も多く居住した敦賀には気比(けひ)社がある。
八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この気比の神(イザサワケ)と名を交換し合ったという、紀記に載る意味深長な伝承もある。
 香春社の主祭神・オシホネ命の「シホ」についてはすでに述べたが、1313年成立の
『八幡宮宇佐御託宣集』(以下『宇佐託宣集』)によれば「八幡神は天童の姿で日本の辛国の城(き:峯、山)に降臨し、そこは
神武天皇再臨の蘇於峯(そほだけ)である」とある。
「辛国の城」とは、秦氏の神山であった豊前・香春岳に他ならない。「ソホ」ついては前述の通りだが、
新羅の始祖王カクコセは「ソフル」の聖林(ソフル)に、加羅の初代王シュロは「ソフル」である亀旨(くじ)峯に降臨した。

…書紀は、天オシホネ命の子・ニニギ命が降臨した山を「日向の襲(そ)の
高千穂の添(そほり)山峯」と本文で記し、他の一書として「日向の高千穂の樓触(くしふる)峯」と記している。
また、古事記は「日向の高千穂のクジフルタケ」としている。
…朝鮮の降臨神話では王は卵から生まれる(加羅神話の亀旨とは卵生の亀を示唆している)。
実はこれが聖山より重要なのである。その卵は箱舟に乗って海から漂着したというのが、
南朝鮮も含めた「倭族」神話の古形である。
日本の場合は、少なくともニニギ命の場面では聖山への降臨に重点がある。
ただし、命が包まれていたという「真床追衾」(まとこおうふすま)には、卵の王たちを温めた布の温かみがかすかに残っている。

…宇佐での八幡神祭祀は辛島氏のもの
…辛島氏の神山に天下ったと書かれてあるのである。
辛島氏の神山とは、本来は香春岳以外にはない。
あえて、宇佐における辛島氏の神山を探せば「稲積山」である。
実は「辛島」とは「辛国(宇豆)高島」をつづめた称である。
ちなみに、山背の「太秦」(うずまさ)の「うず」とは「宇豆」であり、「まさ」は
「勝」で「すぐり」(朝鮮の「村長」)の意である。
だから太秦とは、秦氏一族の勝(すぐり)の統領(が住んだ地)を表している。
 辛島郷には、辛島氏が祭祀した鷹居社や鷹栖山の山号をもつ寺があった。
この「鷹」とは、実は香春の八幡神である。

…神懸かりして託宣するシャーマンが八幡宮の巫女である。
誰かに似ていないだろうか。
そう、紀記中最大のシャーマン・神功皇后である。
巫女に憑依しているのは母子神である八幡神だ(八幡神は「太子神」として現れるが、そのとき巫女は言わば「母神」である)。
母神の神格にぴったりなのが神功皇后なのである。
大神氏はこうして「太子」たる応神天皇を持つ「大帯姫神」を持ち込んだのである。
神功皇后が討伐に向かう中でもらす新羅への「愛憎」のうち、愛の方は「望郷愛」だったのかも知れない。

…太宰府の命で「秦王国」の人々の一部は、七世紀頃から日向南部に移住したらしい。
そこは未だ朝廷に服さぬ「隼人」たちの国であった。699年に「稲積」(辛島氏の神山の名)城が築かれ、
713年には日向国から大隅国として分立されるが、隼人の叛乱が相次いでいた。
『続日本紀』には、714年の記事として「豊前国の民二百戸(五千名ほどか)を移して」とある。
秦氏は曽於郡とそこから分けられた桑原郡に多く住んだ。
「曽於」はソホであり、新郡名「桑原」とは豊前香春にある地名である。
そして、曽於郡には韓国宇豆峯社が、桑原郡には鹿児島社が建てられたのである。

…大隅八幡宮は、もと隼人の聖地・石体宮(しゃくたいぐう)に発する。
神仏習合ならぬ「神々習合」である。大隅国隼人の地主神に、新住民・秦氏の八幡神信仰が架上されたのだ。
平安末期の記録には、その神官は辛島氏出自の漆島・酒井氏とある。なお、秦氏は大隅から薩摩国にも移住した。西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。この社は「亀山」にある。
なお、秦氏は大隅から薩摩国にも移住した。西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。この社は「亀山」にある。
西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。
現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。
この社は「亀山」にある。

…紀記の「日向にニニギ命は降臨した。イワレヒコ命は日向から東遷した」などの記述から、
日向国を中心に九州には「天孫降臨パラノイア」が蔓延している。どこもかしこも「降臨地」だらけで、あちこちの神社にはニニギ命らが盛んに祭られている。しかし実は、それらの天孫降臨伝説のすべてが「ソホリ」(ソホ・ソフル)か「クジ」(クシ:亀旨)の名をもってそこを「聖地」として聖別していることからも分かるように、奇妙なことに「外部」に依拠しているのだ。
どこもかしこも「降臨地」だらけで、あちこちの神社にはニニギ命らが盛んに祭られている。
しかし実は、それらの天孫降臨伝説のすべてが「ソホリ」(ソホ・ソフル)か
「クジ」(クシ:亀旨)の名をもってそこを「聖地」として聖別していることからも分かるように、奇妙なことに「外部」に依拠しているのだ。
 九州での「降臨」伝説は、新羅・加羅から秦氏が八幡神とともに持ち込んだとも考えられる。
豊前の秦王国から日向へ、そして大隈となった現鹿児島県東部から西部の薩摩へと、
秦氏の移住先には八幡神信仰が移植され、その降臨伝承がニッポンの天孫降臨神話に置換されていった。
降臨神話のすべてとは言わないが、少なくとも、もと八幡神信仰のあった地でのそれは置換されたものに相違ない。

(三)新羅、秦氏、八幡神の信仰の広がり
島津氏が継承した新羅の民俗
 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわたり南九州を支配した豪氏である。
だが、その素性は案外知られていない。
島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、
源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。
その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。
…名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、
集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、
戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。
この稚児様とは、八幡神の依り代であった。
実は、新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。

…「太子」とは朝鮮の巫女が降神させるある神霊への呼称であり、
その巫女は「太子巫」と呼ばれた。
ここにも「母子」のセットが見つかるが、朝鮮の神王は卵から生まれる。
だからその卵(アル)は太子なのだが、生まれた太子もアルなら、生んだ卵たる母もアルなのだ。
紀記神話の天照大神と天オシホネ命、神功皇后とホムタワケ命も「アル」だと分かる。
しかしニッポンではしだいに母神が欠け落ち、太子だけの信仰となる。
 思えば、アメノヒボコはなぜ新羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか、
ツヌガアラシトはなぜ大加羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか。彼らが童神、すなわち太子(アル)だったからに他ならない。新羅・若者組の「花郎」や薩摩藩・兵児二才の「稚児様」とは、太子だったことも分かる(新羅の「源花」はアルのもう一側面の母神か)。紀記中の神名に登場する「彦」(日子)もアルであり、太子信仰に拠るものである。
彼らが童神、すなわち太子(アル)だったからに他ならない。
新羅・若者組の「花郎」や薩摩藩・兵児二才の「稚児様」とは、太子だったことも分かる
(新羅の「源花」はアルのもう一側面の母神か)。紀記中の神名に登場する「彦」(日子)もアルであり、太子信仰に拠るものである。

…河内国大県郡に高尾山(現高安山か。新羅系ニギハヤヒ命の降臨地だとの説もある山)がある。
別名鷹尾山、鷹巣山である。そしてそこには高尾社(鐸比古鐸比売社:たくひこ-たくひめ社。実は夫婦ではなく母子神)がある。秦氏の「高尾」である(もう、くだくだしい説明は不要だろう)。高尾社の祭神は鐸石別(ぬてしわけ:鉱石と石を分けるの意)命であるが、これは河内秦氏の鍛冶・鋳造神の名である。香春山はカル(金属)の山であったが、八幡神は鍛冶神でもあった。
実は夫婦ではなく母子神)がある。秦氏の「高尾」である(もう、くだくだしい説明は不要だろう)。
高尾社の祭神は鐸石別(ぬてしわけ:鉱石と石を分けるの意)命であるが、これは河内秦氏の鍛冶・鋳造神の名である。
香春山はカル(金属)の山であったが、八幡神は鍛冶神でもあった。

…大和の穴師兵主(あなしひょうず)社は新羅の王子アメノヒボコを祭り、かつては穴師山(弓月嶽・巻向山)にあった。
ここは秦氏始祖とされる弓月君に関わる地である。アメノヒボコは書紀によれば、近江国吾名(あな:阿那)邑にしばらく住んだ。ここは新羅系息長氏の本拠地である。
アメノヒボコは書紀によれば、近江国吾名(あな:阿那)邑にしばらく住んだ。
ここは新羅系息長氏の本拠地である。

秦氏のもう一つの聖山・英彦山
 781年頃、朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩」の号を奉り、さらに783年に「大自在王菩薩」を追号している。
これで、名実ともに「八幡大菩薩」となったわけだ。
この「菩薩」とは何か。神宮寺が弥勒寺であるように、弥勒菩薩である。
そして、秦王国にはもう一つの聖山があった。
豊前・豊後・筑前に広がる英彦山(彦山。もと「日子」山)である。
ここには英彦山社があり、香春と同じオシホネ命が祭られている。

…弥勒は下生し修行するが、これが洞窟に籠もる花郎や童子である。
下生した弥勒を写したのが、弥勒半跏思惟像とされる。
弥勒は第二のシャカであり、それは出家前(在家)のシャカ、シッダールタ王子(悉達「太子」)像である。聖徳太子は、夢殿という「窟」に籠もった。聖徳太子信仰を支えた「聖徳太子伝建立七寺」(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。
聖徳太子は、夢殿という「窟」に籠もった。聖徳太子信仰を支えた「聖徳太子伝建立七寺」(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。
(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。

最澄と円珍の弥勒信仰
…延暦寺の第五世座主・円珍は、唐からの帰国後、園城寺(三井寺)を開くが、その本尊は弥勒像であった。
円珍没後、園城寺の寺門派は比叡山の山門派に対して天台宗正統を主張するが、この論拠の一つは
最澄の弥勒信仰を円珍の園城寺が受け継いだことにあった。
その園城寺の鎮守社・新羅善神堂の祭神は新羅明神と称する弥勒の化身である。そしてもう一つの鎮守は白山明神であり、その神官は秦河勝の子孫であった。
そしてもう一つの鎮守は白山明神であり、その神官は秦河勝の子孫であった。

…『熊野縁起』に熊野権現は北魏(あるいは唐)から英彦山へ飛来したとか、
『彦山縁起』に北魏僧善正が英彦山の開山だとかあるように、「魏」は方位磁石の針のように秦王国を指し示している。

…空海の密教とは、自力の虚空蔵信仰と他力の弥勒信仰から成るものだったことが分かる。
弥勒信仰は聖徳太子(タイシ)信仰となって普及していった。
この信仰は、なぜか大工や鍛冶屋など手工業者の信仰なのである。
しかしこれももう読者諸賢にはご明察であろう。
そこに弘法大師(ダイシ)も流れ込み、太子・大師信仰となっていく。
弥勒たる八幡神と秦氏がこれを裏打ちしていたのだった。天台宗と真言宗が、
なぜ聖徳太子を問題にし、また山岳信仰に深く関わるのかもお分かりだろう。

…アルの母子神を求めて、日子=太子=弥勒を求めて、常世=兜率天の出入口を求めて、神仏との回路たる鉱物を求めて…。
シャーマニズム、アニミズム、道教、仏教、神道、朝鮮宗教などの坩堝(るつぼ)…。
それが仏像による立体曼陀羅であり、護摩などの加持祈祷であった。
秦氏の八幡神「雑密」信仰は、空海によって「純密」と姿を変えたのである。それはすでにニッポン宗教であった。しかし「秘密仏教」と言われる空海の密教に「秘密」はあったのだろうか。私たちが解体点検してきたように、空海に「秘密」なぞなかったのである。あったとすれば、私たちがニッポン人の中に流れ込んでいる「八幡神」を忘れていただけのことである。
それはすでにニッポン宗教であった。
しかし「秘密仏教」と言われる空海の密教に「秘密」はあったのだろうか。
私たちが解体点検してきたように、空海に「秘密」なぞなかったのである。
あったとすれば、私たちがニッポン人の中に流れ込んでいる「八幡神」を忘れていただけのことである。
弥勒…

弥勒(ドルイド)信仰とは死と再生の常世信仰である・・・生命や活力の源???https://rara.jp/kumara/page927
…ドルイド教は、キリスト教の布教以前に存在したケルト社会の原始宗教で、そこでは「全ての自然に、神(精霊)が宿っている」と考えられていました。

宗教を創造した非常に強い力を持った権力者たちがいた…
ミトラ教はフリーメイソンの教義でもある。と言う事も忘れずに。https://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10703372350.html
…この救世主待望はキリストであり、弥勒であり、現代のニューエイジであり、UFO待望であり、ようは延々と利用されて来た。

…今は、はやりのグローバル化でグローバル宗教に統一しようとしているということか。…


火瓊瓊芸尊は霧島火山の神 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月24日 14:54:40 No.934 【返信】

No.931より
火瓊瓊芸

書紀は二ニギ尊に火の字を付けている。
一方、古事記は番(播)と書いている。
播くは籾を水田に播く意だから、古事記は二二ギ尊を農耕神に衣替えさせているものだ。

書記が二二ギ尊に付けている火は吾田族の部族神を表していて、その火は霧島連山の火山の火を指すものだろう。
これが本筋だ。

なので、古事記は、書紀の記述を翻案したことになる。
この翻案は、ときの政権の王地王民思想(班田収授の基礎的な思想)のプロパガンダだといえる。
まあ、古事記の著者は政権お雇いのプロパガンダーだったという見方が出てくるのは、やむを得ないことだろう。

書紀が記しているように、火のニニギの尊の子たちも火を名に持っているのだから、この火は彼ら吾田族の部族神である火の神の子という位置付けなのは明白。
つまり、吾田族は霧島連山の火山の火から生まれた者たちであるとする部族神話があったことを示すものだ。
二二ギ尊が高千穂峰から吹上浜のある吾田まで進んだ書紀のエピソードは、そうした霧島連山の火山の火を祖神とす阿多族の部族神話があったことを物語っている。

一方、古事記では、ニニギ尊は高千穂から移動せずに、高千穂に宮を建てる筋書きとなっている。
古事記が書紀の記述を何らかの意図をもって翻案したことは、疑いなく明らかだろう。
おそらく、皇統の出自が南九州の阿多の部族にあったことを隠蔽することが目的だったと思われる。

書紀では、神武が紀伊半島迂回の時に天磐盾の沖の海神の怒りに触れて遭難の危機に陥り、これを救おうと兄たちが人身御供となって海に飛び込むのであるが、その際兄たちは「吾が祖は天神、母は海神なり」「我が母及び姨は、並びに是海神なり」と叫んで、母方が海神である自分たちを同じ海神が災いを送り付けて来るのはどうしたことかとなじっている。
一方、古事記では、その兄たちは高千穂の宮ですでに亡くなっている設定となっており、この紀伊半島迂回の途中の天磐盾の沖での遭難の危機のエピソード自体が記されず、母方が海神系であると明確にする部族神話自体が掻き消されているのである。

古事記が皇統のルーツを物語る部族神話そのものを闇に葬るための改竄を行っている歴史書であることは、まず間違いないだろう。

では、なにゆえに、そのような改竄を行ったのか。
皇統のルーツは高天原の天照大神であり、地上の海神の部族の血縁は入っていない、皇統は水田稲作を基幹とする農耕を普及させるために地上に送られたのであって、王地王民の思想のもと班田収授する使命を帯びた王権なのだ、と主張することが眼目だったためだろう。

その点、さすがに書紀は、そこまでは付き合えんと突き放したのではないか。
そして、ニニギ尊とその子たちの名に伝承通り火の字を付け、紀伊半島沖では堂々と皇統には母方の海神の血が入っていると叫ばせたのだろう。

書紀と古事記の違いは、実に大きいのである。


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