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2022/09/06 この掲示板は 鳩摩羅童子(くまらどうじ)のサイト
インド語・カンガルー  【副題】日本語の起源・インド弁検証
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弥生後期の鉄剣の道 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月26日 00:56:16 No.945 【返信】

No.942
若狭から八百比丘尼が来た

青梅方面の南関東などに鉄剣と鉄釧がセットで流通するようになるのは、弥生後期になってからとされている。
この鉄剣や鉄釧は、若狭から流れたらしい。
その南関東では、入手した鉄剣の柄には独自に鹿の角が用いられたそうだ。
鹿の角に何か執着があったのだろうというから、鹿の角が威信の象徴だったのではないかとみられている。
南関東へのその交易のルートは、若狭からアルプスを横切って諏訪まで行き、そこから甲府を経て青梅方面へと進むものだったと考えられる。
一方、弥生後期には、近江や大和、尾張、東海には鉄器はまだまったく流れていないし、埼玉、群馬、茨城ほかへも流れていない。
南関東だけに鉄剣・鉄釧が流れたようだ。
そのルートの途中の信濃では、弥生時代の鉄釧が出ている。

この若狭から信濃を経て関東へ鉄剣・鉄釧が流れたのは、異例のことらしい。
なぜなら、日本海交易では福井、新潟方面へ鉄器がながれるのが通例で、その鉄器の供給元は山陰だったとみられている。

若狭はこの山陰とは墓制も異なっていて、独自の経済圏を造っていたらしい。
この若狭が独自に入手した鉄剣・鉄釧を信濃を経て関東へ流したとみられている。
つまり、若狭-関東には古くから独自の交易ルートが開かれていたということになる。
後のことだが、若狭から八百比丘尼が来たというのは、そうした交易ルートが生きていたということではないだろうか。
八百比丘尼は各地を巡ったあと、若狭に至って入定する筋書きのものが多いようだ。

信濃の諏訪大社で建御名方命が祀られていたりするのも、この古いルートの存在と関連するのかも知れない。
やまだ 投稿日: 2024年03月26日 13:08:02 No.951
>青梅方面の南関東などに鉄剣と鉄釧がセットで流通するようになるのは、弥生後期になってからとされている。
この鉄剣や鉄釧は、若狭から流れたらしい。

… 行田の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣はワカタケルの名が刻まれている。古墳時代で南関東というのでもない。

先日、多摩川に沿った街道外れの鍛刀工房で見学することあった。砂鉄から火で溶かし何で叩くのだろうだんだんと鉄の刃までつくりあげる。日本刀もつくるが包丁など注文が多くこなしきれないそうだ。これは現代の話だから、砂鉄や炭など原料は流通店から購入してるそうだ。

… なにかの記事で読んだが、埼玉の大宮行田あたりも砂鉄や他の鉄鉱石がよくとれるとか。大宮の神社は先住の昔はアラハバキの神が祀られていた。このアラハバキは鉄と関わりあるかも。

〇ところで、貴殿、ワオギツネ氏。どの土地にお住まいかな?
自分のもっとも魂の通う土地について、よく語るあるいは黙秘するというのが真実のこと。

多摩川、青梅はおもしろい処だよ。興味あるなら一度遊びに訪ねるとよい。
今、もの片づけで忙しくしてるけど、案内はできる。

①THOUSAND NIGHTS AND A NIGHT (R・BURTON版)全16巻
②黒曜石塊(神津島)、黒曜石鏃
③國譯大蔵経 大方廣佛華厳経 巻一
④雪舟筆國寶山水圖


ほしいものあれば安価でお分けする。


>善女真…女真族? ハラ…原氏?女真が発祥… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月26日 09:46:54 No.950 【返信】

善女真…女真族?
>ローマで女人だけの祭る不思議な女神ボナ・デア(Bona Dea 善女真)の名前とされた。
山羊 のような角をもつ(→ 獣人 ):ファウヌス(Faunus)は、古代イタリアの神格。https://ja.wikipedia.org/wiki/ファウヌス
ギリシア神話のパーンに相当する[1]。ローマ神話の農耕神・ルベルクスとも同一視される。
中世以降はパーンやサテュロスのイメージと混同され、財宝の守護者とも夢魔ともいわれた[1]。

ハラ…原氏?女真が発祥…
…男の子は母にいわれた通り舟にのって川を下り、人々が暮らす集落の岸にあがると、柳の枝で腰かけを拵えてそこに坐った。
柳の枝…

ヤナギの花が咲く頃に(自然の再生を祝う・畑の豊穣を促すために)枝を地面に差した. …https://ameblo.jp/sumire93/entry-11982845057.html
[古代地中海世界]:地母神デメテル(ローマではケレスになる)は彼女に捧げられた
柳の木に現れた/死と復活の女神ペルセフォネも柳の幹の暗闇に浮かび上がった/オデュッセウスは冥界の入口アケロン川のほとりで柳を見た/
バビロンの流れのほとりの柳に琴をかけて我らは涙を流した(『旧約聖書』)
…[古代ケルト]:神聖な木の1つ/“冬の巨人”を燃やす儀式は(中に生贄を入れて燃やしたのではなく)藁・干草を詰めたヤナギで作った人形を、ヤナギの枝で編んだ籠とともに焼いた可能性がある
◇籠そのものは「イニシエーションの小屋(炉)」だった可能性もある
◇同様のものとして、スキタイ人のシャーマンがヤナギの骨組みに屋根を葺いたものを建ててシャーマン的儀式を行ったものがある
◇ケルトの豊穣の儀式では、ドルイドの木文字の5番目の木として、ヤナギの花が咲く頃に(自然の再生を祝う・畑の豊穣を促すために)枝を地面に差した

ケルト人と謎の古代人スキタイhttps://note.com/yoshito0103/n/nf51eaa192ea5
ドルイドの起源は、前8世紀末黒海沿岸に居住していたスキタイ人が西進してきて、キンメリア人を中部ヨーロッパに追いやったことに端を発します。
キンメリア人はキムリス人と呼ばれ、もともとの居住民「ガル人(ガリア人)」と区別されるようになります。
こうしてケルト人はキムリス人とガリア人の二派に分類されました。

…[辱めの刑]:暑い盛夏に罪を犯した者にヤナギの鞭を持たせた/周りの人々と仲良く暮らせなかったことを告げ知らせていた(ゲルマン)
ゲルマン…
ケルト人とゲルマン人は紀元前1世紀には大きく二分していました。https://celeby-media.net/I0003165
…4世紀のゲルマン人の大移動により、一部のケルト人はゲルマン王国に吸収されて同化しました。

ハラ 原氏…
原さんのルーツはとにかく古い。
物部氏から出た原造(はらのみやっこ)、倭漢(やまとあや)坂上氏から出た原首(はらのおびと)、秦氏の一族である原公(はらのきみ)。
また、武蔵・遠江・安芸・讃岐にある幡羅からは幡羅(はら)氏が、肥後の波良からは波良(はら)氏が起こり、さらに、出雲の古族に腹(はら)氏も見える。
そして後に、原氏で有名な一族として下総と美濃の原氏が現れる。
下総の原氏は桓武平氏良文流千葉氏族で、房総半島に大きな勢力を振るった豪族の千場氏の支流である。https://tabi-mag.jp/roots-hara/
…地形姓ということから考えれば、福岡県福岡市早良区にある原は、九州、とくに福岡県の原さんのルーツといえるだろう。
元寇襲来の地も百道原で、福岡には原が付く地名が多い。

ハラ …
アイシン・ギョロ・ハラ (愛新覚羅氏) は、建州女真が発祥とされる満姓 (満洲族の姓氏) の一つで、あまた存在するギョロ・ハラの一つ。
アイシンは満洲語で「金」の意 (「愛新」は漢文音訳)。
アイシン・ギョロ・ハラも、アイシン・グルン (後金国) も、ともにヌルハチの代で成立したとされ、これらの金アイシンは、実際にはかつてワンヤン氏女真族が樹立した"金"王朝を指すとされる。[3]
嘗てはダイチン・グルン (大清国) の国姓とされたが、清朝滅亡後は同氏族の多くが漢姓として「金」に改称した。但し、「愛新覚羅氏」は現在も中華人民共和国、中華民国 (台湾) を中心に、そのほか日本にも存在する。
但し、「愛新覚羅氏」は現在も中華人民共和国、中華民国 (台湾) を中心に、そのほか日本にも存在する。
最後の皇帝・宣統帝溥儀とその同母弟・溥傑[4]には男子がなく、1994年に溥傑が死去してからは、その異母弟・溥任が皇位継承順位の一番となった。
2015年の溥任の死後はその長子・金毓嶂が承継したが、「愛新覚羅」ではなく漢姓の金に改称している。
従って、清朝 (および満洲帝国) が崩壊した今、金氏はアイシン・ギョロ氏の相続人ではあるが、当主ではない。
金氏…

金姓…
羌族 - 南北朝時代、羌族の中で金姓を称するものがあった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/金_(姓)
ユダヤ人 - 12世紀初期の北宋徽宗の治世、中国に移住・定着して商業を営んだ。
漢姓として金・李・俺・艾・趙・張など17の姓を称した。

呂不韋…始皇帝の父親、古代イスラエル人(ユダヤ商人)。
呂氏の始祖である姜子牙(呂尚)は羌族である。
李信の子孫|表舞台から消された羌族との関係 https://note.com/kazugaga/n/nf00f39f0d134
…イスラエルの調査機関アミシャーブのDNA調査により、中国の羌族は代表的なマナセ族の末裔だと断定されています。

始皇帝や呂不韋とは別のユダヤ民族の歴史を焼いたのかもしれません。
始皇帝はおそらくユダ族のユダヤ人ですが、他の支族も中国大陸にいたことが確認できます。
【日ユ同祖論】ユダヤ民族を解放した大秦国【太秦と呂不韋】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜https://note.com/ai_auwa/n/n703f8d7a67da
…秦国の民が日本列島へ入って来ている可能性があります。
その中の1人が応神天皇だったのではないかとも言われています。
応神天皇は渡来人を用いて国家を発展させたことで有名です。
応神 16年には儒教が日本に入って来たとあります。
秦王と応神天皇の関係について研究をしていたのが藤間正大(とうませいた)氏や鹿島曻氏です。
両者は応神天皇は百済王久爾辛(くにしん)と深い関係があったと研究されていますが真相はわかりません。
詳しい情報は両者の書籍を読んでみて下さい。
では秦氏のご先祖とされる秦始皇帝はユダヤとどのように結びつくのか、時代を遡って秦国から見ていきます。

…呂不韋のもとで呂氏春秋編纂の作業を手伝っていたのが儒家の人々です。
儒家は古代中国の思想集団だと言われていますが儒はジュウでユダ民族のことです。
儒教における伝統的な徳目の一つに孝という徳目がありますが、ユダヤ教においても孝愛は貴ばれ、モーセの十戒の中にも見ることができます。
この他にも儒教とユダヤの共通点については様々な研究がされていますので参考書籍をご覧下さい。
明治時代の歴史学者津田左右吉(つだそうきち)氏は、儒教のルーツがギリシャ哲学であることを指摘しています。
儒教とはギリシャ、バクトリアを経由しユダヤ民族が持ち込んだ思想なのかもしれません。

…南越国が滅亡して海路で逃げたと考えられる紀元前111年、この頃の朝鮮半島の様子を見てみます。
契丹古伝第18章にはこのようにあります。
「初め五原に先住の民あり。没皮(ぼつひ)・龍革(りゅうかく)は北原で牧畜し、魚目(ぎょぼく)・姑腹(こふく)は西原に穴居し、
能耳(のうじ)・黄眉(おうび)は中原に住み、苗族(びょうぞく)・丞馮(もうば)は南原に農耕し、兎首(としゅ)狼裾(ろうきょ)は海原で漁猟していた…云々」とあります。

…秦氏以外にもユダヤ民族は日本列島に到着していますし、ユダヤになる前のバアル信仰の状態で日本に持ち込んだ民族もいます。
これらの民族は日本列島にいた一部の民族の話であり、日本人全体の話ではありません。
古代史は膨大な学説があるので、今回の動画はそのうちの一つだと思って頂いてぜひ皆さんも調べて見てください。


>諏訪大社… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月26日 08:53:48 No.949 【返信】

「日本とイスラエル」諏訪の地に伝わるユダヤ人の痕跡 https://nihonjintoseisho.com/blog001/2017/03/27/japanese-and-jews-32/
日本のお祭りの中に残るユダヤ人渡来の痕跡について、坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」からご紹介します。
…諏訪大社の祭とイサクの物語の共通点
では、はたしてこの諏訪の地と古代ユダヤ人と何の関係があるのだろうか?実はそれを知る手がかりが、
「守屋山」を御神体とする諏訪大社で行われる「御頭祭(おんとうさい)」という祭りの中にあった。
ミサクチの祭り
「御頭祭」は別名、「ミサクチの祭り」とも言われ、毎年四月十五日に行われている。
(中略)この祭りの内容を簡単に記すと、「少年が『御贄柱(おにえばしら)』に縄で縛られ、
神官が小刀で少年を切りつけようとすると、使者が現れ神官を止め、少年は解き放たれて命が救われる」というお話だ。そして少年の代わりに鹿七十五頭を燔祭として捧げ、その首を神殿に供えたのだ。(中略)
そして少年の代わりに鹿七十五頭を燔祭として捧げ、その首を神殿に供えたのだ。(中略)
ヘブライ語でイサクに由来する祭り
まず「御頭祭」の別名である「ミサクチの祭り」だが、「ミサクチ」という言葉はヘブライ語で、「ミ・イツハク」と読むことができる、とトケイヤー氏(ユダヤ教のラビ)は言う。
その意味は、「イサクから」とか「イサク由来の」という意味だ。(中略)
山羊の代わりに鹿を捧げた
諏訪には山羊がいなかったので、代わりに鹿が捧げられたのだろう。
また、鹿の中に耳の裂けた鹿がいたとあるが、これは藪に角を引っかけた山羊をイメージしたに違いない。

勝利に導いた…
ローマ神話 の 農耕神 ・ ルベルクス とも同一視される。https://ja.wikipedia.org/wiki/ファウヌス
…ローマ人に神託を与え、ローマとエトルリアの戦争の際にはローマ人たちへローマ側が有利である事を伝え、勝利に導いたとされる[要出典]。

鹿の角の硬さは木と同程度と言われており、柄の代用に向きます。
また、鹿は泳ぎが得意とされ「水難除け」のご利益があるとされています。 …
【4K】鹿の角で鉈の柄を作ってみました!【ソロキャンプ薪割り用】https://www.youtube.com/watch?v=uG06amY2c3U


>「安宅関(あたか)」も暗号なのかなー 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月26日 07:51:27 No.948 【返信】

atacar「攻撃する」 https://verbojp.com/atacar/

安宅の関 (あたかのせき)は、 石川県 小松市 の 日本海 側にある安宅に 守護 、 富樫氏 が設けたと言われる 関所 。https://ja.wikipedia.org/wiki/安宅の関

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。
将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。https://ja.wikipedia.org/wiki/守護
軍事指揮官…攻撃する?

富樫氏の歴史. 1.鎌倉時代の富樫氏 (12代 泰家) 1182年、木曽義仲・平氏・討伐の挙兵に応じ平維盛 (これもり)の率いる十万の大軍と対陣。
鎌倉時代の富樫氏(12代 泰家)http://www.edu.city.daisen.akita.jp/~om-higashisyo/kosiou-4-5.html
泰家…

清和天皇を祖とする清和源氏家系図に足利泰氏、子の賢宝の名前があり、小俣の名もあった。https://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-en/id/ref/M2018031510144090380
小俣…

栃木県足利市小俣町…
世尊寺が“鶏足寺”と名を改めたのは、次のような伝説のためであるとされる。.
天慶の乱を起こした平将門を討とうと立ち上がった藤原秀郷は、直接的な武力だけではなく、調伏という呪術的な力も利用した。
鶏足寺 https://japanmystery.com/totigi/keisokuji.html
…藤原秀郷が討ち取った将門の首は寺にも運ばれ、法印は自分の見た奇瑞を秀郷に語り、その土首を見せた。
秀郷はこの土首を調伏の証しとして京都へ持参して報告、朝廷は勅願寺に定め、その名を“鶏足寺”と改めたのである。

藤原氏と秦氏の関係…親戚、というかほぼ同族です。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1275334647

歴史の陰に秦氏あり・・・
秦氏と藤原家 http://uzumasa-1962.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-3533.html
藤原氏は秦氏ですね。違うならば、“元”から違うことになってしまいます。

藤原鎌足と由井一族、源頼朝と秦氏、そして摩多羅神、 非常に密接した関係性が伺えます
…由井一族は、馬に装備する鞍などの皮革製品の製造や、鎌や包丁、刀などの鉄器製品の製造(鍛冶)に長けた一族として知られています。
そのため、戦で必要な馬の鞍、矢じり、刀などの武具を製造できたことで、様々な戦で重宝された一族だったと考えられています。
由井一族の歴史について その①https://yui-anniversary-museum.org/info/4278089
…由井一族は、由井ガ浜(由比ガ浜)を長らく支配したことで、そこから採れた良質な砂鉄(産鉄)をもとに、タタラやタマハガネを造り、
矢じりや包丁、刀などを製造していたと考えられています。
そのため、由井一族の拠点、由井(由比)郷があった付近には、現在でも白山神社(鍛冶の神様)が祭られています。
* 白山神社は、鎌倉の鬼門を護る鍛冶職人系の神社とされています
…由井一族は、秦氏と藤原鎌足、源義家、源頼朝と密接な関係にあったと考えられています。

…秦氏が奉じている八幡神の根源は矢とされています。
由井(由比)郷付近にある白山神社、由比若宮(元八幡宮)、佐助稲荷を線で結び、現在の鶴岡八幡宮と白山神社に向かって線を結びます。
すると矢の形を成します。
佐助が谷から白山神社、由比若宮から白山神社の距離は、等しい距離となり、これは偶然では無いと考えられています。
その理由は、秦氏の拠点、京都でも同様な構造が存在するためです。
由井(由比)郷付近の白山神社から佐助稲荷を経由して北東に線を結ぶと、ぴったりと鍛冶ヶ谷の白山神社に至ります。
加えて白山には秦川勝が創建したとする仙福寺も存在します。
秦氏の根源とする矢、秦氏に関係する由井一族、藤原鎌足と源頼朝、
鎌倉時代の誕生の裏には、この藤原鎌足、秦氏、源頼朝、そして由井一族が非常に密接に関わっていた事は、ほぼ疑いようがありません。


>八百比丘尼… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月26日 06:49:18 No.947 【返信】

比丘尼 (びくに) 出家して戒を受けた女性,仏教 教団 の正規の女性出家者。.
尼僧のこと,単に尼(あま)ともいう。. サンスクリットbhikṣuṇī, パーリ語 bhikkhunīの音写。.
日本における比丘尼のはじめは, 蘇我馬子 が桜井道場で弥勒像をまつらしめた ...
善信,禅蔵,恵善の3人であり,彼女らは神に奉仕する巫女と同じであった。
以後,仏教受容は急速に進み,624年(推古32)には尼569人に達した。
比丘尼に限らず,古代の僧尼は巫覡(ふげき)的な性格が著しく,仏教的呪力に対する期待から,集団的得度さえ行われた。
平安時代には皇女や貴族の子女を教育する尼僧が現れ,また比丘尼となる皇女も出た。
皇女が尼僧となって住した寺を江戸時代には比丘尼御所と称した。
弥勒像…

秦氏の広隆寺に弥勒菩薩半跏像があるように、秦氏は弥勒信仰を持っていたと思われます。 https://note.com/morfo/n/nd71a636a2a55

古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察 https://ameblo.jp/hex-6/entry-10734584745.html
邪神扱いされた、ミトラ・バール神は、牛が山羊(羊)に転化した姿に歪められていく。
六芒星は、魔術の怪しいイメージもあり、邪神教のイメージも植えつけられ、悪魔には五芒星を上下逆にしたシンボルが当てはめられた。悪魔=バアル神である

ヤハウェの意味は「我が主」や「主」 アッラーの意味は「神」 古代ユダヤの文化が日本に伝わっているかもしれない?https://zatsugaku-circle.com/yahweh/
…秦氏が異教の神を祀っていたとしても、またそれがユダヤの神ヤハウェであったとしても、その名を冠したヤハウェ神社=やはた神社=八幡神社が作れたとしてもおかしくはありません。

【ヤハウェ】と【バアル】とは? 聖書の中では「神」と「主」が混在しますが、どちらもヤハウェの ことを指します。https://paintermarsblog.com/旧約聖書/【ヤハウェ】と【バアル】とは?その関係性とイ/
…イスラエルの民たちは、広く信仰されていた異教の神、バアル神を礼拝していたのです。

「八百万」はヘブライ語で「万軍の主」を表すという説です。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1462253319
「ヤオ・ヨロズ」の「ヤオ」が「ヤハウェ(YHWH)」のこと…

八には意味があります。
ゲマトリア的には、イエスのことを指しています。
漢字の八をちょっと平たくすると、ヘブライ語のヘイにそっくりなのです。
神道に八が出てくるのは https://life.jah.tokyo/神道とゲマトリア数秘術に隠された神/
…日本の神道の場合には、八が多いのです。思いつくところでは、
八幡神社、八坂神社、八雲神社、八柱神社、八千矛神神社、八百万の神、八咫の鏡、八咫烏、といったやたら八が出てきます。
八には意味があります。ゲマトリア的には、イエスのことを指しています。漢字の八をちょっと平たくすると、ヘブライ語のヘイにそっくりなのです。ヘイという文字は、神様を表します。正式にはヤハウェイなのです。YHVH、このYだけでも神様のハーが八と書いてヤーと読みます。数字で見ていっても日本には、神の存在が隠されているのです。
ゲマトリア的には、イエスのことを指しています。
漢字の八をちょっと平たくすると、ヘブライ語のヘイにそっくりなのです。
ヘイという文字は、神様を表します。正式にはヤハウェイなのです。
YHVH、このYだけでも神様のハーが八と書いてヤーと読みます。
数字で見ていっても日本には、神の存在が隠されているのです。



鳥居(とりい)とは、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもの。一種の「門」である。
…鳥居は一般的には神社を象徴するものとして捉えられているが、仏教寺院にも見られることがある(→神仏習合)。
一方で鳥居を持たず楼門(随神門)をもつ神社も存在する。
戦後の区画整理により境内が縮小されたり移転したため、現在の神社境内とはかけはなれた場所に孤立している鳥居もしばしば見かけられる。
御陵に建てられていることもある。https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥居

ストーンヘンジの画像 https://www.bing.com/images/search?q=t型 ストーンヘンジ&qpvt=T型 ストーンヘンジ&form=IGRE&first=1

紀元前2500年ごろ、人々はサークルの中央に石を立て始めた。
世界遺産ストーンヘンジ:レイラインの結集する場所https://spiritualjourney.jp/travel/england-stonehenge/
…考古学者たちによれば、紀元前4000年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。
…中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。

長崎県は野崎島に、「王位石(おえいし)」という日本版ストーンヘンジとも言うべき謎の巨石がある。.
サークル状にこそなってないものの、巨大な石が鳥居のように積み重なっている。https://dailyportalz.jp/kiji/150319193013

野崎島(のざきじま)は、長崎県五島列島の北東部に位置する島である。長崎県北松浦郡小値賀町に属する。https://ja.wikipedia.org/wiki/野崎島
…旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡などが多数出土している事から、太古より人が住んでいたとされる。
沖ノ神島神社(おきのこうじまじんじゃ)
島の北部にある神社で、704年(大宝4年)に創建された五島で最も古い神社。
神殿の後ろには「王位石(おえいし)」と呼ばれる奇岩がそびえる。

長崎の野崎島にある王位石の謎 https://nareji.com/throne/

度分秒 33° 11′ 12″ N, 129° 7′ 50″ E
十進数 33.186667, 129.130556

北緯33度0分 東経35度5分…イスラエル
シオン Sion、 セィヨン ( アラビア語: سيون、 ヘブライ語: ציון ‎、 ティベリア式発音 :Ṣiyyôn )は、 イスラエル の エルサレム 地方の歴史的 地名 。

栞(シオリ)https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/61d12bf6ac22e0b03fceee4df929bf33
>解字 干字の形を二つならべて、高さの同じものを二つならべた形を表し、たいらの意。
新字体に含まれるとき、幵 ⇒ 开に変化する。…鳥居 神殿?
二つならべた形…

二本の軸線を決定し…
聖なる道を東西に通すことは諦め、代わりにカピトリヌスへ向かう方向が設定されたが、その結果、聖なる道はフォルムの途中で著しく折れ曲がってしまった。
ローマ建築
…ローマ人は、都市を一辺2400ペース[63]、100ヘレディア[64] の正方形に整然と区画する手法を用いたが、さらに東西南北に大きな幹線道路を通している。
これは、都市建設に際して用いられた基軸となる測量線を道路に整備したもので、南北に通る大通りを「カルド・マクシムス」、東西の大通りを「デクマヌス・マクシムス」と呼んだ。
デクマヌスは正確な語源は不明であるが、カルドは蝶番や軸を意味し、天空がこれを軸にして回転しているということを示す。
都市の創建者は儀式に則って、はじめにこの二本の軸線を決定し、都市の輪郭となる部分は鋤で土を掘り起こしつつ溝を切った。
この溝は「ポメリウム」と呼ばれ、都市を他と聖別する重要な溝であった。
測量技師は「グローマ」と呼ばれる機器を用いて測量を行い、都市を碁盤目状に区切っていく(これによって整形される街区を「インスラ」と呼ぶ)[65]。

フォルムの軸となるヴィア・サクラ(聖なる道)はすでに古来のデクマヌスとはかなりずれており、東西南北に軸線を構成することは不可能になっていた。
このため、聖なる道を東西に通すことは諦め、代わりにカピトリヌスへ向かう方向が設定されたが、その結果、聖なる道はフォルムの途中で著しく折れ曲がってしまった。
周囲のフォルム、神殿は、紀元前2世紀から帝政初期にかけて継続的に造営され、今日の姿になるまでに、実に200年近い時間を要している[78]。

ケルト人の種族に由来…
シオン (スイス)https://ja.wikipedia.org/wiki/シオン_(スイス)
シオンの語源は、この地域に住んでいたケルト人の種族に由来するラテン語の Sedunum から来ている。

シオンの山はイスラエル・エルサレム旧市街の南西隅にある丘。https://ja.wikipedia.org/wiki/シオンの山
この單語は歴史的には神殿の丘と関連付けられて論じられているものの、一般的には意味の変遷によって現在使われているように古代エルサレムの西側の丘の事を意味している。
また、より広義として「イスラエルの地」の意で使われる事もある。
この丘には多数の墓地や教会が存在しており、アルメニア人やユダヤ人が多く居住する地域である。
また、ダビデ王の墓がこの丘の山頂にあり、そこに「最後の晩餐」が持たれたといわれる「上の部屋」も存在している。
度分秒 31° 47′ 33″ N, 35° 14′ 39″ E
十進数 31.7925, 35.244167

リー郡(リーぐん、英: Lee County)は、アメリカ合衆国のジョージア州にある郡。
郡庁所在地はリーズバーグ(英語版) (Leesburg)である。https://ja.wikipedia.org/wiki/リー郡_(ジョージア州)#都市および町
度分秒 31° 46′ 48″ N, 84° 8′ 24″ W
十進数 31.78, -84.14
ジョージア…地名?

ジョージア (国)https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージア_(国)#メディア
ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。
古来から数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながらキリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。
…民族
同国は多民族国家である。住民の多くはカルトヴェリ人(ジョージア人、正教徒)(86.8%)となっている[91]。
その他アルメニア人、ロシア人、アゼルバイジャン人、オセット人、アブハズ人、ギリシャ人、ユダヤ人などがいる。
…言語
公用語はカルトヴェリ語族のグルジア語(71%)で、次いでロシア語(9%)、アルメニア語(7%)、アゼルバイジャン語(6%)となっている。
その他、アブハズ語、オセット語、グルジン語なども使われている。
また、統計上では同じカルトヴェリ語族としてグルジア語話者に含まれることも多いスヴァン語、メグレル語、ラズ語も使われているなど、多言語国家となっている。
反露感情が強い国民とされるが、実際にはソ連時代に普及したロシア語は広範に使われており、独立以降のグルジア語統制への反発などから一部地域では異民族間の共通語として機能している。

アフリカ大陸で誕生した現生人類は、アラビア半島経由でユーラシア大陸に進出し、大陸全域に居住地域を拡大する。
このうちコーカソイドはユーラシア大陸のイラン付近から中東、ヨーロッパに移動していた人々の末裔である。
クロマニョン人はコーカソイドの直接の祖先と考えられる。https://ja.wikipedia.org/wiki/コーカソイド
コーカソイドとはヨーロッパ人がキリスト教的価値観に基づいて自己を定義するために創出された概念である。
戦後しばらくまでの人類学は科学的根拠に乏しい、偏見や先入観に満ちた内容であるこ…とが多く、人種差別的な思想を多分に含んでいた。
事実、提唱者であるブルーメンバッハもさまざまな人間の集団の中で「コーカサス出身」の「白い肌の人々」が最も美しい、人間集団の「基本形」で、
他の4つの人類集団はそれから「退化」したものだと考えていた[3]。つまり最初の時点で白人至上主義的な考えが基盤に存在していたのである。

…遺伝的傾向
白人(コーカソイド)とアジア人(モンゴロイド)が混血した場合、顔の外見(形質)は白人(コーカソイド)の特徴が優性して遺伝する[5]。
遺伝子
Y染色体ハプログループの拡散と人種
コーカソイドは出アフリカ後にイラン付近から中東・ヨーロッパに至る「西ルート」をとった集団である。
コーカソイド人種を特徴づけるY染色体ハプログループとしてG、I、J、Rなどが挙げられる[9]。
ハプログループGはコーカサスで高頻度でみられる。1991年にイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷で発見された
約5,300年前の凍結ミイラ・アイスマンのY染色体ハプログループは、G2a2a1b(G-L91)であることが判明した[10]。
ハプログループIはヨーロッパ大陸最古層の系統であると考えられ、クロマニョン人もハプログループI2aであることが判明している。
I1系統は北欧で高頻度、西欧やブリテン島で中頻度。I1系統の分布率と金髪や碧眼の分布率は相関しており、ゲルマン系民族と関連深い。
I2系統はバルカン半島で高頻度。
ハプログループJはアラビア半島で高頻度、南欧や地中海地域、中央アジアで中頻度。アラブ系民族に多く見られる。
ハプログループRはコーカソイドのほぼ全てで見られる。系統別に見ると、東アジア系のハプログループOと並んで現代人類において最も帰属人口の多い系統である。
R1a系統は東欧やペルシャ系民族で高頻度。北欧で中頻度。インドから中央アジア、ヨーロッパまでの西ユーラシア全域で一般的に見られるため、R1a系統が印欧語族の担い手であると考えられる。
R1b系統は西欧やブリテン島、イベリア半島で高頻度、北欧で中頻度。その他ヨーロッパ大陸全域で一般的な系統であるが、R1a系統とは異なりヨーロッパ以外のコーカソイドにはあまり見られない。バスク人やケルト系民族で特に多く見られる。R1b系統の分布と赤毛の分布は相関している[11]。
その他ヨーロッパ大陸全域で一般的な系統であるが、R1a系統とは異なりヨーロッパ以外のコーカソイドにはあまり見られない。バスク人やケルト系民族で特に多く見られる。R1b系統の分布と赤毛の分布は相関している[11]。
バスク人やケルト系民族で特に多く見られる。
R1b系統の分布と赤毛の分布は相関している[11]。
伝統的な下位分類
北方人種:北ヨーロッパに居住。明色の体表、中頭、長身。ハプログループI1と関連。
ラップ人種:北ヨーロッパに居住。背が小さく、腕脚も短い。ハプログループNと関連。
東ヨーロッパ人種:東ヨーロッパに居住。極めて薄い体表の色素、短頭。ハプログループR1aと関連。
アルプス人種:アルプス地方を中心とした中部ヨーロッパに居住。明色の体表、短頭、ずんぐりした体つき。ハプログループR1bと関連。
ディナール人種:バルカン半島に居住。濃色の毛髪と虹彩、短頭、長身。ハプログループI2と関連。
地中海人種:地中海周辺に居住。やや浅黒い皮膚、濃色の虹彩、黒髪、長頭。
アルメノイド(アナトリア人種):西南アジアに居住。短頭、肉厚な鼻。ハプログループJ2と関連。
南東人種:アラビア半島に居住。浅黒い皮膚、濃色の虹彩と毛髪、ほっそりした体つき。ハプログループJ1と関連。
インド・アフガン人種:イラン、アフガニスタン、インド北部に居住。濃い体表の色素、やや幅広い鼻。ハプログループR1aと関連。
トゥラン人種(ツラン人種):中央アジアに居住。中位の身長で極度に頭が丸い。ハプログループC2と関連。
北部ハム人種:北アフリカに居住。
東部ハム人種:
…東アジア(北東アジア)
東アジア(北東アジア)の北海道・樺太・千島列島に住むアイヌは、かつては白色人種に分類されることもあったが、
大和民族・琉球民族に最も近い古モンゴロイドとされた。
しかし、その後の研究でアイヌ民族及び北日本の縄文人はANE[Ancient North Eurasian]系統(コーカソイド)から遺伝的浮動を受けていたことが明らかになった。
この割合はアイヌで16%北海道の縄文人で22%程度である[要出典]。
つまり主にモンゴロイドであるがコーカソイドの遺伝子を持つユーラシアンと呼べる。
さらに、遣唐使によって鑑真の弟子でイラン系(ペルシア系)に属するソグド人と見られる如宝などが渡日して、鑑真に随伴して日本に帰化したことからソグド系の一部が日本人と同化したともされる[16]。『続日本紀』には「波斯人」の李密翳が日本に来て叙位を受けた記録があり、木簡で存在が確認された官吏の破斯清道はペルシア人であるという説がある。
日本に帰化したことからソグド系の一部が日本人と同化したともされる[16]。『続日本紀』には「波斯人」の李密翳が日本に来て叙位を受けた記録があり、木簡で存在が確認された官吏の破斯清道はペルシア人であるという説がある。
続日本紀』には「波斯人」の李密翳が日本に来て叙位を受けた記録があり、木簡で存在が確認された官吏の破斯清道はペルシア人であるという説がある。
また、モンゴル人やチベット人などは古来よりコーカソイド系民族と隣接しているため、コーカソイド系の遺伝子も数%確認されている。

「ケルト人といえば、金髪碧眼で背が高くて、森の中で女神や妖精と戯れて……」というイメージは、
ケルト人と呼ばれる大集団のうち、ごく一部の人々の外見や神話上のイメージを切り取ったもの …https://www.phantaporta.com/2017/05/2.html
…最終的にはゲルマン人たちの侵攻もあり、ローマやゲルマンに同化され姿を消していった。


>黒曜石の鏃(矢じり)… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月25日 20:24:54 No.944 【返信】

紀元前6800年頃 朝鮮系土器・九州系石器の出土 越高遺跡(上県町)から、隆起文土器(朝鮮半島系)・
九州産黒曜石の鏃(矢じり)や銛(もり)が出土。
縄文時代早期から、対馬では朝鮮半島・九州本土と交流・交易が行われていたことをうかがわせる。
縄文時代~室町時代の年表 https://kacchell-tsushima.net/chronicle/chronology/chronology1

旧石器時代 から 縄文時代 にかけては、 黒曜石 が丸木舟によって運ばれて長距離交易の品物になった。
現在の 佐賀県 にあたる地域から産出した黒曜石が、朝鮮半島の 釜山 にある東三洞貝塚からも出土している 。
新石器時代 の朝鮮半島の土器は、 対馬 や 壱岐 から発見されている。
日朝関係史 https://ja.wikipedia.org/wiki/日朝関係史#:~:text=旧石器時代 から 縄文時代 にかけては、 黒曜石 が丸木舟によって運ばれて長距離交易の品物になった。 現在の 佐賀県,にある東三洞貝塚からも出土している 。 新石器時代 の朝鮮半島の土器は、 対馬 や 壱岐 から発見されている。
7000年前の縄文時代前期には、九州北部と朝鮮半島南部には漁撈民が移動生活をしながら海峡を往来していた。
朝鮮半島の南部では縄文土器が発見されており、日本列島では対馬・壱岐、九州北部から朝鮮半島由来の櫛目文土器があり、釣針や中国製耳飾りも運ばれた。
こうした交流は、漁の途中で一時的に海岸に立ち寄りながら行われていた。
石器時代ののちには、朝鮮半島の金属器を求めて海を渡るようになる[2]。


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