日本語の起源 くまら掲示板


| トップに戻る | 検索 | アルバム | 管理用 | ▼掲示板作るならRara掲示板 |

2022/09/06 この掲示板は 鳩摩羅童子(くまらどうじ)のサイト
インド語・カンガルー  【副題】日本語の起源・インド弁検証
の掲示板です。「日本語の起源」全般の意見交換の場としてご利用下さい。
お名前
メール
タイトル
画像添付
削除キー ( 記事を削除する際に使用 )
文字色

王権は3っあった 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月28日 00:32:58 No.959 【返信】

No.957
纏向王権

3世紀半ば過ぎから4世紀前半頃までの奈良盆地の王権を、纏向王権と呼称することにしている。
この王権の祭祀所は、纏向の大型建物群の最も大きい建物だったとする。
これらの建物群は、その最も大きな建物の中心点を通る東西線に対して南に5度弱の角度に揃えて計画的に建てられている。
この5度弱の角度は、二十四節気暦の啓蟄点を指していると考えられる。
建物は西に向かって建てられているので、啓蟄の初日の夕日に向かって夜通し祭祀が行われたと思われる。
啓蟄は農耕の作業の準備を始める節目とされているので、いよいよ春の農耕に向けての始発の祭祀が行われたのだろう。

二十四節気は長安を基準点として設定した農耕暦なので、長安で見た太陽の最南点を冬至点とし、そこから太陽の運行が再北点に達する日を夏至の終点とする。
この冬至の初日から夏至の終点までを180日と設定し、太陽の折り返しが再び冬至点に達するまでを180日と設定している。
合計で360日となる。
この片道180日を12節気に区分して、一節気を15日とする。

太陽が最も南になる冬至から東西線までは6節気で、今の分度器の角度では一節気は5度となり、6節気は合わせて30度となる。この6節気目が春分と名付けられていて、その春分の初日がちょうど東西線に当たることになる。
なので、計算上は、よ東西線(春分線)から南に5度の方位が啓蟄の初日になる。

しかし、日本にこの二十四節気暦をもってくると、冬至点が東西線(春分線)から南へ30度の方位にはならず、近畿地方では30度弱の方位に冬至点が来る。
二十四節気暦を用いたとみられる滋賀県の栗東市にある伊勢遺跡の円周上の建物群のうち、西側の最も南の建物が中心点から見て30度弱の方位に建てられているのは、この冬至点上に合わせて計画的に建てられた建物であることを示している。

纏向の大型建物群が東西線(春分線)に対して南に5度弱の方位に揃えて計画的に建てられているのは、この冬至点が30度弱になることに対応して、啓蟄点を5度弱の方位に設定したためであると考えることができる。(なお、今は現代の分度器の角度でもって二十四節気の方位を表わしているが、古代においてはこの角度にあたる間隙は日数で把握していたと考えるのがよい)

こうしたことから、纏向王権は、滋賀県の伊勢遺跡で用いられた二十四節気暦の運用技術をそのまま継承していて、祭祀所である大型建物の建築に用いていたとみなすことができるのである。
そして、纏向王権は王の陵墓の築造位置の決定にもこの二十四節気暦の方位を用いており、吉の方位とする冬至から夏至前までの特定の節気の方位上に王墓を築造しているようだ。
なお、纏向王権では、二十四節気暦を3年分連ねた3年で一巡する円環の3年連続二十四節気暦を用いたようだ。
この3年連続する円環上の二十四節気暦を鋳込んだのが舶載の画文帯神獣鏡であり、国内製の三角縁神獣鏡だと思われる。
この鏡を運用する技術者が王権にいたということになる。

この纏向王権のあとに続くのが佐紀に王墓を築造した佐紀王権であり、この佐紀王権を排除したのが河内王権である。
これが、記紀が記さない日本の古代の王権の真実だと思われる。
天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月28日 14:48:47 No.961
訂正
8行目と9行目の「夏至の終点」は誤り。
正しくは「芒種の終点」です。


>東西線に対して南に5度弱の角度… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月28日 08:09:15 No.960 【返信】

シリウスは午後9時に南の地平線の最高点に上昇し、その後、午前2時までに地平線の下に徐々に下降します。

夜明け…
明け方の東の空には非常に明かるい星があります。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1192646286
シリウスは、午前4時で地平線すれすれのところにやっと上ってくるところです。
地平線近くで夜明け近くなので、空も明るくなってきており、シリウスは暗く見えているはずです。

聖徳太子とシリウス信仰(妙見信仰)https://ameblo.jp/agnes99/entry-12151896525.html
…シリウスは真南から20度東に傾いた方向に煌々と輝いた。
この方向に向かって、新年を告げるシリウスを遙拝するとすると、遙拝する者の真後ろ(後ろの正面)は真北から20度西に傾くことになる。

南東…
纒向遺跡の南東端に位置する全長80メートル、径55メートル、3段築成の後円部、25メートルの前方部をもつ前方後円墳
纏向遺跡を巡る https://www.usagitabi.com/makimukuiseki.html
纒向遺跡の南端に位置する箸墓古墳は、3世紀中頃~後半に築造された最古の定型化した前方後円墳として、また
日本列島における最初の大王墓として、全国的にもよく知られている古墳である。
全長約280mの墳丘部分は、現在倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソビメ)の大市墓として管理され、調査・立ち入りは出来ない。

箸墓古墳の主軸の前方部方向は冬至の日の入りに向いている。https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12113128335.html
…冬至は「太陽の力が復活する始まりの日」、太陽の力が強くなっていくに伴って運気も上昇していくとされて、言葉の響きの中に
「ん(運)」がつくものを食べて「運」を取り込もう、と言った試みであったようです。
南瓜は(なんきん)と呼ばれていました。

箸墓古墳は太陽信仰に基づいた位置に築造されている https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12110807280.html

古代エジプトでは、シリウスのことをイシス、つまりオシリスの王妃の名で呼ばれている。https://plus.chunichi.co.jp/blog/asada/article/282/2119/

オリオンの三ツ星とピラミッドの深い関係?2https://plus.chunichi.co.jp/blog/asada/article/282/2119/
南に伸びるシャフトは、なんと!南中した三ツ星の左下のζ星(クフ王のピラミッドにあたる星)を指していることがわかった。
…オリオン座はエジプト神話の冥界の神オシリスに見立てられていて、ファラオ(王)が死ぬと、その魂は三ツ星の左下の星が南中したときに、ピラミッドの孔を通って
オシリスの元に帰ると書かれているという。

オシリスの死と再生を象徴しているとされる。https://ja.wikipedia.org/wiki/オシリスとイシスの伝説
…バラバラになったオシリスをエジプト中にばら撒いた。
イシスは、再び救出に赴き、パピルスの舟で遺体の破片を探し出し、オクシリンコスで魚に飲み込まれた男根を除いて繋ぎ合わせた体を強い魔力で復活させた。
復活…

>晩年の生気も陰る鬱屈する気分と、そうした中で急に訪れる生き生きした精気との対比を詠んだものだろうか。
>のっと日の出る…    ヌ(さあ来て)?
ヘブライ語対照表 https://www.historyjp.com/dictionary/

始まりは太陽と月の不思議からhttps://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/shinyabin/you20240129.html
縣:https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/37590ce207da2135d7b32a7b20dc9484

銅鐸を使って測量ができる https://blog.goo.ne.jp/kagome1248/e/c3705046892c0df8581e8e9d084ccc0a
…[縣] ケン・あがた  目部…吊るす…睪の古形(タク)?

見えるものはどこでもほぼ同じですから、天の文を読み解こうという天文のアプローチのしかたは、似たところがあると思うんです。
でも興味深いのは、いにしえの昔、古代と呼ばれている時代に、私たちの祖先は、さまざまな場所でさまざまな宇宙の姿を考えていたということです。
特に有名なのは、古代文明発祥の地でしょうね。
古代文明といえば、中国・インド・メソポタミア・エジプトでしょうか。それぞれ独自に天文学が発展したんです。
共通して言えることは、まず、空を見上げて一番わかりやすいのは太陽ですよね。
昼間は太陽が見えていて、動きますものね。朝、日が昇り、夕方には沈んでいく。
規則正しくて何か法則性がありそうだということで、太陽の動きに注目する。
それから、夜だとまず気がつくのは月じゃないでしょうか。

毎日形が変わるのが興味深いですよね。ですから月の満ち欠けの観察もしたと思うんです。
そして星はあまりにも多いので、それぞれの人々がそれぞれに、星座、明るい星と星をむすんで何かの形を考案してきたということでしょう。

ヌトという大きな女性の神様は天空で私たちの世の中を覆っているわけですけれど、毎朝、東のほうで太陽をはき出します。
これは月もそうで、ですから太陽も月も、ヌトという天空の女性の神様の上を移動するんです。
太陽の場合は昼間、この神様の上を、船に乗って東から西に毎日移動していると想像したわけです。
ヌト…

ラー神を飲み込み…
日の出 https://ancientmythology.org/ja/ナット/
ラー神は空の女神の子供たちの誕生を知った瞬間、非常に動揺し、この結合を引き離し、
一年365日お互いに会えないようにしました。
しかし、ナットには2つの時間枠がありました。ゲブに会うために月。
一方、この女神は夜にラー神を飲み込み、翌日新たな夜明けを示して輝いて現れたので、太陽と関係がありました。

飲み込み…新しい知識や経験を受け入れ、自分の中に取り込むという意味合いもあります。https://kotobasta.com/17499/

則る(ノットル)
解字 金文第一字は「鼎(かなえ)+鼎(かなえ)+刂(刀)」の会意。
鼎は溶かした青銅を鋳型に流し込んで作る。鼎二つは土の模範型と出来上がった鼎を表している。
模範型は粘土で作り、出来上がると鋳物砂をいれた型枠にいれて外側の型をとる(足や持ち手は分離し型をとる)。
次に模範型を刀で全体的に薄く削って鋳物を流し込むスペースを生み出し内側の型をとる。
この二つが出来上がると、鋳物砂をいれた型枠のなかで外型と内型を組み合わせて組み立て、鋳物を流し込み固まったら型枠をはずし砂を取り除くと鼎が完成する。
金文の意味は、「のっとる」や「すなわち」の意味で使われており、模範型に
「のっとり」作業し、鋳型に流し込むと「すなわち」鼎ができあがる意と思われる。
金文第二字は鼎(かなえ)が一つになり、篆文から鼎が貝に変化した則となった。
鼎が貝に変化する字に、貞テイ・員イン・賊ゾクなどがある。
 鼎は祖先や神々を祀る祭祀で用いられることから春秋時代には[詩経・大雅]が「識ら不(ず)知ら不(ず)帝の則ソクに順(したが)ふ」
(識らず知らずのうちに天帝の(法)則に従う)と、のり(則)。
きまり(法則)の意味に用いており、現在に通じる意味が成立した。
意味 (1)のっとる(則る)。手本とする。「則天去私ソクテンキョシ」(天にのっとり私心を捨てる。我執を捨てて自然に身をゆだねる)
 (2)すなわち(則ち)。接続の助字。「否則ヒソク」[否(しか)らずんば則(すなわ)ち]
(3)のり(則)。きまり。道理。「規則キソク」「法則ホウソク」
イメージ 
 「きまり・基準」(則・測・惻)
  模様は鼎の側面にあることから、「かたわら」(側・廁)
きまり・基準
測 ソク・はかる  氵部 cè
解字 「氵(水)+則(基準)」の会意形声。一定の基準(ものさし)を用いて水の深さをはかること。
意味 (1)はかる(測る)。長さ・広さ・深さを測る。「測定ソクテイ」「計測ケイソク」「測量ソクリョウ」 (2)おしはかる。「臆測オクソク」「推測スイソク」
惻 ソク・ショク・いたむ  忄部
解字 「忄(心)+則(=測の略体。はかる)」の会意形声。相手の心を推し量ること。
意味 いたむ(惻む)。悲しむ。あわれむ。
「惻隠ソクインの情」(いたわしく思うこと)

 不幸な境遇にある相手に対して推し量る心をいう…


晩年における生きている感覚 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月27日 21:22:33 No.958 【返信】

No.954
のっと日の出る

夜明け前の薄暗がりの中、足元を気にしつつ、梅の香のする山道を歩んでいると、突如周りに朝日が射して、梅の樹の生えるあたり一面の景色の中に自分がいるのに気が付いた…というような意味だろうか。

「のっと」は「ぬっと」と同じ意だとされているが、この句で「ぬっと」だと梅の香が霧散してしまいそうになる。
「のっと」と軽くすると梅の香も残って、周りの景色も生き生きと現れるようだ。
晩年の生気も陰る鬱屈する気分と、そうした中で急に訪れる生き生きした精気との対比を詠んだものだろうか。

「のっと」という語を初めて知った。
青梅で詠んだ句であればいいね。


>纏向王権…? 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月27日 20:39:02 No.957 【返信】

【纏向遺跡(弥生時代)】古代太陽祭祀『太陽の道』共通するこん跡【四天王寺(飛鳥時代)】
…四天王寺の中心伽藍は西に約3度傾いており地図で比べてみました。#春分と秋分 #太陽の道 https://www.zero-position.com/entry/2021/09/08/140000

纒向日代宮は、第12代景行天皇が営んだ宮です。https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/machidukuribu/kankouka/kankoujigyou/miyaatomeburi/5266.html
…景行天皇の時、皇子の小碓尊(オウスノミコト)、別名、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が活躍したとされています。
倭建命は、天皇の命を受けて大和に従わない九州の熊襲(クマソ)や出雲の国へ、一度帰朝してまた東の国々へと遠征を重ね、次々に服従させていったという古代の英雄です。

「景行天皇」の伝説とは?. ヤマトタケルや卑弥呼との関係も紹介. https://biz.trans-suite.jp/88384
景行天皇」という名には馴染みがない人でも、「ヤマトタケルノミコト」という名には聞き覚えがあるのではないでしょうか。

倭建命(ヤマトタケルノミコト)https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/machidukuribu/kankouka/kankoujigyou/miyaatomeburi/5266.html

四国の剣山が三輪山とレイライン上にて結び付く霊峰であることは、三輪山のレイラインを検証することにより明らかになります。
元伊勢の基点となる三輪山と、天孫降臨の地、高千穂の中心地である高千穂神社を地図上で結ぶと、その直線上に剣山の頂上がぴたりと位置しています。

纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市[1]の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡・複合遺跡。国の史跡に指定されている。
2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡である[2]。https://ja.wikipedia.org/wiki/纒向遺跡#ヤマト王権の王都
一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる[3]。
邪馬台国の中心地に比定する説があり、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、それより古い5つの纒向型前方後円墳が分布する。
纏…
「廛テン」<村里と屋敷> と「躔テン」「纏テン」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/e8de0ae30e359db3faa615a472909464
解字 篆文は、「广(やね)+里(さと)+八(わける)+土(土地)」の会意。一家族に分けられた村里の土地およびそこに建つ家。
周代に青年男子ひとりに二畝半(4.55アール)の土地兼宅地が与えられた。のち、やしきの意から、みせの意となった。[角川新字源]を参考にした。
意味 (1)やしき。宅地や屋敷。「廛宅テンタク」(人民の住宅)(2)みせ。「廛肆テンシ」(廛も肆も、みせの意)「酒廛シュテン」
イメージ
 「村里と屋敷」(廛・躔・纏・纒)
纒[異体字] テン・まく  糸部
解字 「糸+广+黒+土」からなる.
纏テンの異体字。纏の「里+ハ」⇒黒に変化した字。主に地名に用いられる。
意味 地名・遺跡名。「纒向まきむく」(奈良県桜井市の三輪山北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての複合遺跡。国の史跡に指定されている。
名称は旧磯城シキ郡纒向村に由来する。また、垂仁天皇の「纒向まきむく珠城たまき宮」、景行天皇の「纒向まきむく日代ひしろ宮」がこの地にあった。)
景行天皇…周代
周代

その行程は、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から、豊前国の長狭県に渡り行宮 (かりみや) を建て、その地を京 (みやこ) (福岡県京都郡・行橋市)と呼んでいる …
鉄を求めた景行天皇の九州遠征https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2015-10-19

「景行天皇」は日本の第12代天皇とされ、古代の英雄として知られるヤマトタケルノミコトの父でもあります。
「景行天皇」には数々の伝説があり、熊襲や土蜘蛛族など大王に従わない土豪たちを征服した話が有名です。
なお、「景行天皇」は4世紀の天皇とされていますが、実在したかどうかは定かではありません。https://biz.trans-suite.jp/88384

景行天皇は、景教の布教を行った人って意味で与えられた称号なのではないだろうか? と思っているんです
景教とは韓国に主に普及していったユダヤ系の教えで、キリスト教とほぼ同じ教えと言っても過言ではないと思います ...
仮説・「景行」の名に隠された暗号https://ameblo.jp/3kaeru/entry-10699557673.html

中国浄土教の善導と景教について考えたいと思います。https://www.christiantoday.co.jp/articles/29724/20210714/shin-keikyo-55.htm


南関東の奥なのか、秩父山地の東の端なのか 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年03月26日 17:46:42 No.952 【返信】

No.951
青梅、多摩

ものごとによく精通している方のようだ。
自分の最も魂の通う土地について、よく語るあるいは黙秘するというのが真実、というのは慧眼だ。
私は黙秘する派だ。
なんか恥ずかしいからな。

青梅・多摩方面は、まったく足を踏み入れた経験がない。
臭いも分からない。
青梅や多摩がどんな臭いの土地なのか、まあ、機会があれば、行ってみるのも面白いだろう。

行田は、畿内からの入植者によって開かれた土地だ。
群馬、栃木などもよく似た経歴の土地だと思う。
一方、青梅・多摩地方から相模などにかけては、在地の勢力が割拠していたような印象がある。
5世紀から始まる河内王権の東国進出の前に、3世紀後半からの纏向王権とすでにつながりのある地方勢力が勢力を張って競い合っていたようだ。

だから、行田などでは整備された勢力関係が組まれたのに対し、青梅・多摩・相模などは在地の地方勢力が互角に張り合うその均衡の上に秩序が成立していたように見える。
その中で、青梅・多摩は西の山間の秩父の勢力とつながって後背地が広く、そのため他の在地勢力に対してかなり勢力を張ることができたのではないか。

そんな印象だ。
やまだ 投稿日: 2024年03月26日 23:20:41 No.954
むめがゝにのつと日の出る山路かな


青梅の匂い上品にいえば香り。芭蕉の此の句は晩年の俳諧理念「かるみ」の代表作。
地域にもこの句の石碑は二つある。であるが、どんな評者も青梅で詠んだとは言わない。
青梅で散策して歩いた折、山路は梅の花の香りでいっぱい。と突然のつと日の出をみた。
こんな風に場所を特定するとかなり安っぽい句になる。
しかしながら、小生はこれは翁の青梅での嘱目句だとみる。

〇青梅はさほど梅の香りは印象に残らない。武蔵野の東の外れ下総の真間あたりなら、梅の香、梨の花、菊の香はとっても魅惑にかおる。

… 武蔵野台地を衛星画像でみると、青梅の位置は山間から平野にぬける処になる。ボトルネックという。


やまだ 投稿日: 2024年03月27日 17:11:55 No.956
東経139度17分ライン

岩宿遺跡       N36度24分0.2  E139度17分15.0   ①
岩蔵住居跡遺跡    N35度49分24.80 E139度17分16.50  ②
青梅真浄寺      N35度48分18.64 E139度17分18.14 ③
あきる野瀬戸岡古墳群 N35度44分23.30 E139度17分15.54  ④
西秋留敷石住居跡遺跡 N35度43分11.42 E139度17分21.36  ⑤

… 先にヒスイの大珠が出土したのは、②岩蔵住居跡遺跡。
⑤西秋留敷石住居跡遺跡は、あきる野の秋川を望む段丘上にあり、敷石住居が五つまとまって発掘された。… すぐ前の畑は蜜柑がすずなりだった。

この遺跡とほぼ重なる位置に雨間地区旧石器遺跡があり、細石刃・石刃核のよいものが出土している。




パンドラの箱とは、「触れてはいけないもの」という意味?…誰の為に… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月27日 10:12:36 No.955 【返信】

ここでの「触れてはいけない」とは、実行したり話題にしたりすると、
良くないことが起きる、誰かを傷付けてしまうことがあるなどということです。https://news.mynavi.jp/article/20210108-1606590/
つまり「触れたら最後、災いを引き起こすもの」だというわけです。
パンドラの箱に最後に残ったものについての解釈
原書では箱に残ったものは「エルピス」で、古代ギリシャ語の希望、予兆、期待という意味です。パンドラの箱に残ったものについてはポジティブな解釈とネガティブな解釈があります。
ポジティブな解釈では、「人間の手元に希望が残った」「希望を持って生きられるようになった」というものです。ネガティブな解釈では、
「希望が残ったために人間は希望にすがることしかできなくなり、苦しみが増した」というものです。
…「触れてはいけない」には、相手が嫌がる話題、公共の場などでの社会常識から外れた話題などがあります。
国や地域、場所によっては政治体制、皇族、特定の宗教などの肯定、称賛、否定、批判などもこれにあたるでしょう。
誰か…

法律の自由主義・個人主義的側面 https://note.com/taku_intel/n/nf9ba59d4a510
…大昔は身分や所得水準によってできることが限られてきました。
平民と貴族同士で結婚できませんでしたしお金を払わないと選挙権もありませんでした。
士農工商、カースト制というものを聞いた方も多いのではないでしょうか。
そうした制限をまず取っ払わなければ最低限の権利を確保できず国家として成り立ちません。

…法律の資本主義的側面
資本主義の意味については、社会主義との比較という観点から見ると分かりやすくなると思います。
この対立する二つのイデオロギーはどのような対立軸を持つのかを簡潔に言えば、
個人で利益を得るか集団で利益を得るか、ということです。
法律が資本主義的であると申し上げたのは、自由主義の所で述べた通り、個人が利益を得ることを重視しているということです。

…基本的には何をやってもお咎めはないが(自由主義)、
一人一人が平等な立場である以上やってはいけないこともあるし、あるいは
平等な立場を前提とした正しいジャッジを裁判では下さなければならない(平等主義)。
また、自由を確保するため・世の中を上手く機能させるために法や国家はあえて国民に介入をせず、
裁量に委ねている(資本主義)。ということになります。

法律は道徳ではないということです。
法律はあくまで国全体の利益になるように機能すべきで、ただ感情まかせに機能してはいけないのです。

日蓮聖人遺文には偽書が二百以上あります。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14137657099
質問者からのコメント
学問で宗教を検討する時、文献批判を行います。聖書学も文献批判を行った。
聖書学者特に新約聖書学者はイエスの真の言葉を探求したが、ひとつも見当たらなかった。
法華経も釈尊の言葉を文献批判行うと大乗非仏論が出た。
しかし私は法華経も日蓮聖人も信じます。
学問は大切だが信心が一番かもね!
信心…

宗教とは誰のためのものなのか?https://bukkyouwakaru.com/dic/religion
…本来仏教は誰の為にあるのでしょう?
仏教はあなたの苦しみが出発点です。
お釈迦様は「人生は苦なり」とおっしゃいました。
この世には、四苦八苦の苦しみがあります。
この苦しみの原因を解き明かし、抜き去ることが仏教なのです。
どんなことも、教えの背景を理解することが大事です。
「どんな人のために説かれたのか?どんな状況の為に説かれたのか?」
一つの教えのみを、全てにあてはまるのではなく、
その苦しい状況において、苦しみの原因をみつけて、その状況に見合った教えから苦しみを抜き去るのです。
…お釈迦様は御自身の教えを、このように説かれております。
私の説いた教えも、必要なくなれば手放すべきなのです。
お釈迦様は、御自身が説いた教えに固執してはいけないと語っています。
ある時、ある場で、ある人に説いた教えなのであって、御自分にとって必要がなくなれば、手放すべきなのです、と仰っています。
このお話は「イカダのたとえ」と呼ばれています。

…執着心を捨てれば、万事うまくいくのです。
執着心…

執着心が強い人の特徴 https://creation-of-life.com/persistent
…一つの考えに執着する人は、自分は正しいと証明したい気持ちがあるのかもしれません。
…執着心がある人は、何事も完璧でないと気が済まないのかもしれません。

…好奇心を抑えられずに箱を開けてしまいます。 https://samuraitax.com/2018/07/22/パンドラの箱の意味/

古代ギリシャ神話に登場する「危険な」女性であるパンドラは、祝福であると同時に呪いでもありました。
人類に奉仕するために神によって創造されたパンドラは、すべての悪が入った箱を開け、それらを世界に解放してしまいました。
一見すると、この神話は素朴さと好奇心の危険性について警告しています。https://jacyou.com/tory/pandora-box-greek-mythology/
しかし、古代ギリシャ人の女性に対する見方、人生の苦闘、技術の進歩などについて、私たちが思っている以上に多くのことを明らかにしています。
…ヘシオドスはパンドラを神々が人類に与えた贈り物であると説明しています。
ヒロインの名前もそれを示唆しています。 パンドラは次のように翻訳できます
「すべてに才能がある」または「すべてを与える」。
しかし、この神からの贈り物は、次のような行為でした。神学。
オリンポス山の神々は、神の助けを借りて火という素晴らしい贈り物を手に入れた人間を罰したいと考えていました。
タイタン・プロメテウス。
後者は、危険に満ちた世界では人間はあまりにも脆弱であると感じていました。
地球上のバランスを作り出すために、プロメテウスは人間に火を起こす能力を提供し、
それによって人間は自分自身を守ることができるようになりました。
同時に、火は人間が創造者になることを可能にし、その能力は神々を激怒させました。

人間は自分自身を守ることができるようになり…神々を激怒させました…

新しい宗教を作ること自体は間違いではありませんが、そこで、嘘を洗脳する宗教を作るのはいけません…
一部の新興宗教やカルト宗教に洗脳される人がいる理由と、騙されない防衛策 https://note.com/spiritual_taiken/n/n05012813066a
…問題なのは、その教祖や宗教が奇跡を起こす力があって、
教団側が信者の幸福よりも、教団への貢献を無理に優先させたり、
反社会的であったり、信者の家庭を次々と破壊させたりするような場合です。
反社会的…

世界中で行われてきた「洗脳」の残忍な実験とおぞましい歴史 https://courrier.jp/news/archives/309384/
…一部の専門家は、戦争捕虜やカルト被害者、人質などに見られる
加害者への奇妙な連帯感や、明らかに虚偽で自滅的な自白などの異常な行動の説明に「強制的説得」という言葉を好んで使っている。
だがこうした専門家たちの研究にもかかわらず、多くの人はいまだに洗脳を過去の怪談のようなものとして捉えている。
「強制的説得」(本稿では「洗脳」と同じ意味で使用する)は、洗脳と比べると反論しづらい言葉だ。
人が何かを強制されることがあるのは明白だが、ある種の条件下で
人が何かを信じるように強制することができるのもまた事実だろう。
私たちはそれを、虚偽の自白やストックホルム症候群(人質が犯人に対して忠誠心を抱く現象)、
さまざまな宗教的・政治的思想を育むカルトなどで頻繁に目にしている。
近年では、ソーシャルメディアが強制的な説得力を持ち、荒唐無稽な考え
(たとえば「ワクチンが自閉症を引き起こす」「コロナなど心配する価値のないもの」など)を吹き込んでいるとの懸念もある。
果たしてソーシャルメディアは強制的説得の場となり得るのか? 
この問いに答えるには、そうした場を作り出す状況の種類についてより明確に定義する必要がある。
 各国政府が投資をした「実験」※この記事は会員限定です。

クーデタやポピュリズム 権威主義体制が権力を獲得する7つの方法 https://book.asahi.com/jinbun/article/14162826
これまでの研究では、権威主義体制の権力獲得には7つの方法が一般的であることが明らかにされている。
つまり、王族による世襲、クーデタ、反乱、民衆蜂起、権威主義化
(たとえば現職者による権力奪取)、支配集団の構成ルールの変更、もしくは大国による押しつけである。

…権威主義化は、権威主義体制の権力掌握において2番目に一般的な方法であり、
すべての権力獲得例の18%を占めている。権威主義化とは、リーダー集団が民主的な選挙を通じて権力を握ったものの、
その立場を利用して反対派を不利な状況に追いやり、支配権を強化するものである。

…権威主義体制による権力獲得の方法として、民衆蜂起、支配集団の構成ルールの変更、
そして王族による世襲がある(それぞれ5%、4%、2%)。
民衆蜂起による体制転換は突発的な出来事である。
・・・・
ポピュリストのメッセージの三つ目は、メディアおよび/または専門家は信用できないというものである。
ここでの目的は、彼らの主張の真実性に疑いの目を向ける情報源の信用を傷つけることである。
もしメディアも専門家も信用に値しないのであれば、彼らが
政府の方針に反するいかなる証拠を提示しても、信じる理由はなくなるだろう。
それゆえ、メディアや専門家の知見が信用ならないとするメッセージを喧伝する意図は、
政府の政策や業績を注意深く批判的に評価できる市民の能力を弱めることにある。
ポピュリストは自らを、直感的に善悪の違いを峻別し、自身の考えを知らしめるのに
専門家やメディアを必要としない「人びとの声の代弁者」として売り込むのである。
メディア…

メディアを牛耳る広告代理店の正体とは…
創価学会と電通だったらどっちがヤバいですか。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12243367887
…どちらも、ヤバイっちゃあヤバイですよ。
そんな電通の素顔。
よく似た環境だこと!
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/313.html
…※仕事の能力は問わずに地方などの財界の息子などを積極的に社員として採用している。
それらの社員の親の権力を組織的に利するためである。単に地方への影響力保持のため。
新たな戦力強化を度外視した人材登用は、既得権益の現状維持を目的とした組織体系の表れでもある。
電通と博報堂(民主党の選挙広告担当は博報堂)が競争することはない。これは同じ目的のために存在していると考えていい。実務はできない既得利権集団と考えていい。電通と博報堂の仕事とは下請けへ仕事をふることが主な仕事なのだ。
広告業界で電通や博報堂に逆らえば仕事から干されるために業界人は従わざるおえない。恐怖の独裁体制といえる。

「旧統一教会に解散命令なら、電通も会社法に基づいて…」https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/02/03/kiji/20230203s00041000236000c.html

フリーメーソン(統一教会)の投資方法は、必ず対立する組織や会社を作り、
両方に競争や戦争を行わせる手段を取る「ヘーゲルの法則」から成り立っています。
「日本人を無気力化させている」GHQと電通、そして朝鮮半島にルーツを持つ人々①http://www.atlasl.net/future_direction/GHQ-and-Dentsu-who-lethargic-the-Japanese-and-people-with-roots-in-the-Korean-Peninsula_01_439.html
…実は、マッカーサー司令官もフリーメーソンの幹部であることがわかっています。
当時、フリーメーソンの極東支部は日本ではなく、朝鮮半島にありましたが、現在は統一協会という宗教団体として活動しています。


青梅…一族は常陸鹿島の地で力を蓄えた後、河内から飛鳥の地に進出した… 荊の紀氏 投稿日: 2024年03月26日 20:40:32 No.953 【返信】

「omen」は英語の単語であり、主に「前兆」や「予兆」という意味を持つ。https://www.weblio.jp/content/OMEN

吉兆?
東京都青梅市天ヶ瀬町で先日、龍が化身したと言われる「龍雲」が発生した。https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/155505
それとも…
この雲が青梅で撮影された数日後に浅間山で噴火が起きており、ただのシンクロ現象とも思われますが、あまりにもタイミングが良すぎて不気味です。
この龍雲が浅間山噴火という凶兆を示しただけでなく、東京オリンピックに向けて日本経済が活性化する吉兆でもあってくれれば良いのですが」と話している。

騎馬民族征服王朝説https://www.bokushoki.com/home/jindai/kibaminzoku
四世紀前半ごろ、大陸北方騎馬民族が、南朝鮮を征服支配し、さらにここを飛石として日本列島に侵入し、先住の倭人の国を征服、大和朝廷およびそれをめぐる貴族らの連合体となったという説
(『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/2007年から抜粋)
神武東征の説話に見られるモチーフなどは、三〜四世紀ごろ、朝鮮半島を経由して渡来した、ユーラシアのステップ地域に起源を持つアルタイ系騎馬民族の文化によって、日本に持ちこまれたものであろうと主張されていた。
ユーラシアのステップ地域に起源を持つアルタイ系騎馬民族の文化によって、日本に持ちこまれたものであろうと主張されていた。
(『日本神話の源流』吉田敦彦/1975年)

群馬県の名は「 車評(くるまこおり)」に由来 する。 https://kumo.txt-nifty.com/blog/2017/11/post-8b78.html
…群馬県の名は「車評(くるまこおり)」に由来する。
古くは毛野国として、北関東に広く覇を唱えた騎馬民族の国だ。

…毛野国は、律令制以前における後の令制国である上野国と下野国を合わせた地域名を指す。https://www.7key.jp/data/geography/ryoseikoku/keno.html
上野国と下野国を合わせて、あるいはどちらかを毛州(もうしゅう)と呼ぶ。

武蔵国となる以前は、
「夭邪志」「胸刺(む(な)さし)」「知々夫(ちちぶ)」の各々の国造(くにのみやっこ)の支配下にあった。
このうち「夭邪志」「胸刺」国造は出雲臣系氏族で、それぞれ兄多毛比命(エタモヒ命)とその子である(イサチノアタイ)を祖とするため、両氏の縁はかなり深かったと思われる。
一方で、「知々夫」国造は大伴氏の始祖である高御産巣日命(タカミムスヒ命)の子である八意思兼命(ヤツゴコロオモイカネ命)の
十世の孫である知知夫彦命(チチブヒコ命)を始祖とするから、前二氏とははっきりと違う系統であることがわかる。
「夭邪志」「胸刺」両国の国造が古墳時代以来の有力豪族であったと考えられるなら、まずは北武蔵領域の埼玉古墳群を中心とした一帯を考えることができる。
そして「夭邪志」「胸刺」は始祖が親子関係にあるため「夭邪志」がより有力な豪族であったと考えられる。
そうすると「夭邪志」国造は埼玉古墳群とその周辺の大古墳を築いた豪族と関係すると考えられる。
そして縁戚にある「胸刺」国造の領域は、容易には推測できない。
桓武平氏の良文流が秩父に入るはるか以前、百年はど前から、武蔵国に乱立し た土豪たちは血縁的な党派を結成して、後に武蔵七党と呼ばれる集団となった。
そして秩父には丹党と呼ばれる丹治氏の一族があった。
その「丹治系図《によると、先祖は「宣化天皇の後裔、武蔵守多治比広足五代 の孫、武信《とあり、例によって偽系図とされている。
その根拠とされるもの が、紀国に丹生神社を祭る「丹生祝氏系図《系図に、丹生祝氏から別れた秩父 丹治氏の系図が載せられていることによる。
丹治氏…

【丹党】 丹党: 古代豪族の丹比氏の末裔で、丹治(たんじ)氏を称し、代々武蔵守を相継。https://folklore2017.com/a019.htm
武蔵守…

『武蔵青梅 武蔵国守護代大石氏より領有権継承した氏康三男北条氏照に仕えた武蔵七党の西党を祖とする平山氏が支配するhttps://4travel.jp/travelogue/10730660
武蔵青梅…

青梅の市街地を抜け、里山のせまる集落。 山裾の古刹、天寧寺があります。
元々この地には、平将門が創建した、真言宗高峯寺がありました。 あの、平安時代の武士の、将門です。
一時は関東を席巻した将門、新皇と名乗ります。
朝廷と敵対、平将門の乱が勃発します。https://ometsu.net/tenneiji-2021-03/
青梅の市街地を抜け、里山のせまる集落。
山裾の古刹、天寧寺があります。
元々この地には、平将門が創建した、真言宗高峯寺がありました。
あの、平安時代の武士の、将門です。
一時は関東を席巻した将門、新皇と名乗ります。
朝廷と敵対、平将門の乱が勃発します。
ちなみに、成田山・新勝寺は、将門の鎮圧を祈願のために、朝廷の勅命で創建されました。
成田山は真言宗のお寺、なぜか、高峯寺と同じ宗派なのが、面白いですね。
成田山は真言宗のお寺…

…「秦氏」系の天皇に反抗したということは、やはり「平将将門」は「平氏」ではなく「源氏」か、または「反平氏」ということになります。
世界はアーリア人(秦氏)とチュルク族(月派・出雲)の抗争の上に成り立っている。https://ameblo.jp/aai610/entry-12825275406.html
○朱雀天皇 – Wikipedia
「朱雀天皇」はその名に「朱=赤」とありますので、明らかに「秦氏」でしょう。
で、その「秦氏」系の天皇に反抗したということは、やはり「平将将門」は「平氏」ではなく「源氏」か、または「反平氏」ということになります。
いずれにせよ、純粋な「平氏」ではありません。
しかし、こうして「秦氏」と「出雲族」の戦いについてあれこれ調べているうちに、私はいつしか「秦氏」と「出雲族」がやたらと共通点が多い、という事実に気付くようになりました。
例えば、「秦氏」も「出雲族」もどちらも「新羅」出身ですし、「大国主」を崇めていますし、「妙見信仰」を信仰しています。
実際、「平氏」側である豊臣秀吉は「大黒天」を氏神として崇めていて、この「大黒天」は「大国主」のことです。
○秀吉も信仰した出世守り本尊、三面大黒天! – 圓徳院 – 【京都の観光なら】ガイドブックス
そのため、ここ最近になって私は「秦氏」はもともと「出雲族」だったのではないか、と考えるようになりました。これについては、先日アップした以下の記事でも書きましたね。
○RAPT×読者対談〈第105弾〉関ヶ原の戦いより千年前に起きた天下分け目の戦いの真相。またはカタカムナと安倍晋三の深いつながり。
また、ずっと以前にも「秦氏はもともと出雲族だったのではないか」と何気なく書いています。以下の記事は、昨年の8月の記事なので、ちょうど一年前になりますね。
○スサノオのヤマタノオロチ退治と、蘇我氏による聖徳太子暗殺と、東京オリンピックにまつわる今回の騒動は、全く同じ構図のようです。
で、あれこれと考えた結果、今ではやはり「秦氏」はもともと「出雲族」だったに違いないとの結論に達することになりました。
その理由はこうです。
島根県の「出雲大社」の本殿には、「八雲之図」なるものが描かれています。
しかし、「八雲」と言いながら、この「八雲之図」には七つの雲しか描かれていません。
どうして七つの雲しかないのだろう、と誰しも疑問に思うことでしょう。私もずっと謎でした。
そもそも、この「雲」は一体何を表しているのでしょうか。
恐らくこれらの「雲」は、「出雲族」の中に有力な氏族が「八氏族」いたということを表しているのだと思います。
しかし、そのうちの「一氏族」が何らかの理由で「出雲族」から抜け落ちてしまった、だから七つの雲しか描かれていないのではないでしょうか。
で、その抜け落ちてしまった「一氏族」こそ、「秦氏」だったのでしょう。
先日もお話しました通り、「出雲族」とは「チュルク族」のことであり、「チュルク族」はもともとロシアのバイカル湖付近にいた民族です。
で、この「チュルク族」の中にいた「秦氏」が何らかの理由で「チュルク族」から脱退し、カスピ海の辺りにいた「アーリア民族」に合流した。
○アーリア人 – Wikipedia
念のために言っておくと、「チュルク族」のいた「バイカル湖」と、「アーリア人」のいた「カスピ海」はそれぞれ以下の場所になります。
その後、「アーリア民族」の中から「ハッティ」なる部族が出てきたわけですが、この「ハッティ」はその名の通り、明らかに「秦氏」と関係があります。詳しくは以下のリンクをご参照ください。
○RAPT×読者対談〈第50弾〉ユダヤ陰謀論、ここに極まれり。https://rapt-neo.com/?p=34142

ナチス・ドイツが日本人を「名誉アーリア人」と称したのは、戦時中の同盟国として、その奉仕がドイツの経済と戦争努力にとって価値があると見なされたからである。
「日本:名誉白人の国の試練」https://note.com/fslabo/n/n74ca386298c2

遊牧、騎馬民族、スキタイのまとめ(起源について)https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/2022/04/14/091903
騎馬民族の起源
騎馬民族が最初に文字史料に現れたのはキンメリア人とその直後のスキタイ人だ。ただしキンメリア人は考古学的証拠をほとんど遺さなかったため、スキタイ人のほうがクローズアップされている。
スキタイ人の起源については、ユーラシア・ステップ(大草原)の東部が有力視されている。
古代中央ユーラシア・中央アジア史が専門の林俊雄氏によれば、遊牧民と中国文明と接触により騎馬戦術が発明された(前9世紀)。
これを発明した人々は中国文明に刺激を受けて王権と権力の階層化を採用した(文字情報は無いが遺跡から確認できる)。
騎馬戦術を発明した人々の文化をスキタイ文化またはスキタイ系文化と呼ぶ。すなわち騎馬民族を誕生させたのはスキタイ人ということになる。
ただし、このスキタイ人は、西アジアとギリシアに現れたスキタイ人とは完全に一致するものではない。
最初の騎馬民族としてのスキタイ人は全ての騎馬民族の発生源であり、西アジア・ギリシアに現れたスキタイ人はそこから派生した騎馬民族のひとつだ。
つまり上位カテゴリのスキタイ人とサブカテゴリのスキタイ人の2つを区別して考える必要が有ることに注意。
西アジアに現れた騎馬民族
上記の通り騎馬民族はユーラシア・ステップ東部で誕生した。そして西部に進出あるいは伝播した。
西アジアとギリシアに現れた騎馬民族(キンメリア人とスキタイ人)はその騎馬民族の一部だ。
これら騎馬民族についてはヘロドトス『歴史』(前5世紀)の詳細な記述が有名だが、それ以前に西アジアに現れている。
メソポタミア(現在のイラク)で出土した新アッシリア帝国が記した碑文にキンメリア人(前8世紀末)とスキタイ人(前7世紀初頭)と比定される記録がある。
彼らは国家と呼べるほどの勢力を持ち、西アジアの各国と同盟を組むなどして西アジアの戦争に参加した。
キンメリア人の本拠地は黒海北岸(現在のウクライナ)にあったが、スキタイに追われて消滅した(諸説あり)。前6世紀になるとスキタイ人がここを支配した(前4世紀まで続く)。
西アジアとギリシアに現れた騎馬民族(キンメリア人とスキタイ人)はその騎馬民族の一部だ。
スキタイ人…

スキタイ人が日本に渡来していたというのは間違いなのでしょうか?https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1496060079
…間違いってことはないです。
正確には、白人渡来説を間違いだ、と言えるだけの反証を揃えることが出来ません。
ただ、いたずらに支持することもできません。可能性はあります。おかしくはありません。

蘇我氏はどこからやってきた?飛鳥の権力者・蘇我氏のルーツを探るhttp://fushigi-chikara.jp/sonota/5352/
…蘇我氏の渡来のいきさつ
 イラン東部のサカスタン王国のサカ族にミトラ教の精神を受け継ぎ弥勒信仰を捧持する支族がいました。その支族が蘇我氏のルーツのようです。その信仰ゆえにササン朝ペルシャと同化できず、サカスタンを追われてアフガニスタン北東部から匈奴の支配地域に入ったようです。なお、サカ族とは遊牧民のスキタイに属し、騎馬民族の伝統をもっています。太陽と月と水が彼らのシンボリズムです。
その支族が蘇我氏のルーツのようです。その信仰ゆえにササン朝ペルシャと同化できず、サカスタンを追われてアフガニスタン北東部から匈奴の支配地域に入ったようです。なお、サカ族とは遊牧民のスキタイに属し、騎馬民族の伝統をもっています。太陽と月と水が彼らのシンボリズムです。
その信仰ゆえにササン朝ペルシャと同化できず、サカスタンを追われてアフガニスタン北東部から匈奴の支配地域に入ったようです。
なお、サカ族とは遊牧民のスキタイに属し、騎馬民族の伝統をもっています。太陽と月と水が彼らのシンボリズムです。
 移動の過程で高車族に接触します。
高車はバイカル湖周辺を故地とするトルコ系遊牧民で、ジュンガリア高原を支配していました。
高車の庇護のもと、バイカル湖南端を通り沿海州に至り、日本海を渡って越の国(中国名は扶桑国)に落ち着きます。
越の国は東北の地にあり西域の遊牧民系の人達がいたようです。
一族は故地に似た地形(山と湖)の常陸鹿島の地で力を蓄えた後、河内から飛鳥の地に進出したと考えられます。
常陸鹿島の地で力を蓄えた後、河内から飛鳥の地に進出…


<< | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | >>


Powered by Rara掲示板
管理者に連絡 | 新着投稿をメールで受け取る | スポンサー募集