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王権は3っあった
天上のワオギツネ 投稿日:2024年03月28日 00:32 No.959
No.957
纏向王権

3世紀半ば過ぎから4世紀前半頃までの奈良盆地の王権を、纏向王権と呼称することにしている。
この王権の祭祀所は、纏向の大型建物群の最も大きい建物だったとする。
これらの建物群は、その最も大きな建物の中心点を通る東西線に対して南に5度弱の角度に揃えて計画的に建てられている。
この5度弱の角度は、二十四節気暦の啓蟄点を指していると考えられる。
建物は西に向かって建てられているので、啓蟄の初日の夕日に向かって夜通し祭祀が行われたと思われる。
啓蟄は農耕の作業の準備を始める節目とされているので、いよいよ春の農耕に向けての始発の祭祀が行われたのだろう。

二十四節気は長安を基準点として設定した農耕暦なので、長安で見た太陽の最南点を冬至点とし、そこから太陽の運行が再北点に達する日を夏至の終点とする。
この冬至の初日から夏至の終点までを180日と設定し、太陽の折り返しが再び冬至点に達するまでを180日と設定している。
合計で360日となる。
この片道180日を12節気に区分して、一節気を15日とする。

太陽が最も南になる冬至から東西線までは6節気で、今の分度器の角度では一節気は5度となり、6節気は合わせて30度となる。この6節気目が春分と名付けられていて、その春分の初日がちょうど東西線に当たることになる。
なので、計算上は、よ東西線(春分線)から南に5度の方位が啓蟄の初日になる。

しかし、日本にこの二十四節気暦をもってくると、冬至点が東西線(春分線)から南へ30度の方位にはならず、近畿地方では30度弱の方位に冬至点が来る。
二十四節気暦を用いたとみられる滋賀県の栗東市にある伊勢遺跡の円周上の建物群のうち、西側の最も南の建物が中心点から見て30度弱の方位に建てられているのは、この冬至点上に合わせて計画的に建てられた建物であることを示している。

纏向の大型建物群が東西線(春分線)に対して南に5度弱の方位に揃えて計画的に建てられているのは、この冬至点が30度弱になることに対応して、啓蟄点を5度弱の方位に設定したためであると考えることができる。(なお、今は現代の分度器の角度でもって二十四節気の方位を表わしているが、古代においてはこの角度にあたる間隙は日数で把握していたと考えるのがよい)

こうしたことから、纏向王権は、滋賀県の伊勢遺跡で用いられた二十四節気暦の運用技術をそのまま継承していて、祭祀所である大型建物の建築に用いていたとみなすことができるのである。
そして、纏向王権は王の陵墓の築造位置の決定にもこの二十四節気暦の方位を用いており、吉の方位とする冬至から夏至前までの特定の節気の方位上に王墓を築造しているようだ。
なお、纏向王権では、二十四節気暦を3年分連ねた3年で一巡する円環の3年連続二十四節気暦を用いたようだ。
この3年連続する円環上の二十四節気暦を鋳込んだのが舶載の画文帯神獣鏡であり、国内製の三角縁神獣鏡だと思われる。
この鏡を運用する技術者が王権にいたということになる。

この纏向王権のあとに続くのが佐紀に王墓を築造した佐紀王権であり、この佐紀王権を排除したのが河内王権である。
これが、記紀が記さない日本の古代の王権の真実だと思われる。


天上のワオギツネ 投稿日:2024年03月28日 14:48 No.961
訂正
8行目と9行目の「夏至の終点」は誤り。
正しくは「芒種の終点」です。




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